「河東郡」の版間の差分

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** 7月 - 河西郡外五郡役所(河西河東上川中川十勝当縁広尾郡役所)の管轄となる。
** 7月 - 河西郡外五郡役所(河西河東上川中川十勝当縁広尾郡役所)の管轄となる。
** [[11月5日]] - 郡役所が廃止され、'''[[河西支庁]]'''の管轄となる。
** [[11月5日]] - 郡役所が廃止され、'''[[河西支庁]]'''の管轄となる。
* [[大正]]4年([[1915年]])[[4月1日]]
* 明治39年([[1906年]])[[4月1日]]
** [[北海道一・二級町村制|北海道二級町村制]]の施行により、音更村、然別村、東士狩村および[[中川郡 (十勝国)|中川郡]]凋寒村の一部の区域をもって'''[[音更町|音更村]]'''(二級村)が発足。(1村)
** [[北海道一・二級町村制|北海道二級町村制]]の施行により、音更村、然別村、東士狩村および[[中川郡 (十勝国)|中川郡]]凋寒村の一部の区域をもって'''[[音更町|音更村]]'''(二級村)が発足。(1村)
** 美蔓村・西士狩村が[[河西郡]][[芽室町|芽室村]]の一部となる。
** 美蔓村・西士狩村が[[河西郡]][[芽室町|芽室村]]の一部となる。
* 大正10年([[1921年]])4月1日(3村)
* [[大正]]10年([[1921年]])4月1日(3村)
** 音更村の一部(大字音更村・東士狩村・凋寒村の各一部)が分立して'''[[士幌町|川上村]]'''(二級村)が発足。
** 音更村の一部(大字音更村・東士狩村・凋寒村の各一部)が分立して'''[[士幌町|川上村]]'''(二級村)が発足。
** 音更村の一部(大字然別村および音更村・東士狩村の各一部)が分立して'''[[鹿追町|鹿追村]]'''(二級村)が発足。
** 音更村の一部(大字然別村および音更村・東士狩村の各一部)が分立して'''[[鹿追町|鹿追村]]'''(二級村)が発足。

2021年1月27日 (水) 08:37時点における版


北海道河東郡の位置(1.音更町 2.士幌町 3.上士幌町 4.鹿追町 薄黄:後に他郡に編入された区域)

河東郡(かとうぐん)は、北海道十勝国十勝総合振興局

人口58,269人、面積1,822.32km²、人口密度32人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)

以下の4町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記4町から音更町の一部(長流枝・長流枝幹線ほか概ね士幌川流域)、士幌町の一部(下居辺および概ね士幌川流域)、上士幌町の一部(概ね居辺東)[1]を除き、河西郡芽室町の一部(概ね十勝川以北)、上川郡清水町の一部(美蔓および御影の一部)を加えた区域にあたる。

歴史

郡発足までの沿革

江戸時代の河東郡域は、松前藩によって開かれたトカチ場所に含まれた。江戸時代後期、河東郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年河東郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこない、同6年の6藩分領以降は仙台藩領となった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して河東郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

北海道一・二級町村制施行時の河東郡の町村(14.音更村 青:合併を経ていない町村 水色:分立して現存する町村 24.川上村 25.上士幌村 26.鹿追村)

脚注

  1. ^ いずれも相次ぐ町名変更のため、公開資料を用いての境界線の比定は難しい。

参考文献

関連項目