1951年のナショナルリーグ・プレーオフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

1951年のナショナルリーグ・プレーオフについて記述する。

ボビー・トムソン(写真は1948年)

プレーオフは1951年10月1日から10月3日にかけて、ニューヨーク・ジャイアンツブルックリン・ドジャースの間で3回戦制で行われ、ニューヨーク・ジャイアンツが制してこの年のナショナルリーグ優勝を手にした。

概要[編集]

1勝1敗とした第3戦、リードされていたジャイアンツが9回裏にボビー・トムソンの3点本塁打で逆転サヨナラ勝ちを収めるという劇的な幕切れを迎えた。トムソンの優勝を決めた本塁打は、翌10月4日付のニューヨーク・デイリー・ニューズ誌で『その一打が世界を変えた("Shot heard 'round the world")』の見出しとともに報じられ、ジャイアンツの球史に残る一発となった。

アメリカは当時朝鮮戦争の只中にあり、この試合の模様はアメリカ軍のラジオ放送網(AFN)を通じて、派兵先や世界各国のアメリカ軍基地などに中継されており、「世界中が聞いた」という上記の形容がぴたりと当てはまった格好になった。

"Shot heard 'round the world"という言葉は、元々アメリカ独立戦争に発展するレキシントン・コンコードの戦いの最初の銃声を意味し、ラルフ・ウォルド・エマーソンの「コンコード賛歌」の一説に登場する有名な言葉である。『一発の銃声が世界を変えた』と日本語訳される。

試合結果[編集]

表中のR得点H安打E失策を示す。日付は現地時間。

第1戦 10月1日[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
ジャイアンツ 0 0 0 2 0 0 0 1 0 3 6 1
ドジャース 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 5 1
  1. : ジム・ハーン  : ラルフ・ブランカ  
  2. :  NYG – モンテ・アーヴィン、ボビー・トムソン  BRO – アンディ・パフコー
  3. 観客動員数: 30,707人

ドジャースがアンディ・パフコーの本塁打で先制したが、1点を追うジャイアンツが4回表にボビー・トムソンの2点本塁打で逆転、モンテ・アーヴィンのソロ本塁打で追加点を上げて勝利した。

第2戦 10月2日[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
ドジャース 2 0 0 0 1 3 2 0 2 10 13 2
ジャイアンツ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 6 4
  1. : クレム・ラビン  : シェルドン・ジョーンズ  
  2. :  BRO – ジャッキー・ロビンソンアンディ・パフコーギル・ホッジスルーブ・ウォーカー  NYG – なし
  3. 観客動員数: 38,609人

ドジャースがジャッキー・ロビンソンらの4本の本塁打でジャイアンツを圧倒し、クレム・ラビンがジャイアンツを6安打で完封して勝利した。

第3戦 10月3日[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
ドジャース 1 0 0 0 0 0 0 3 0 4 8 0
ジャイアンツ 0 0 0 0 0 0 1 0 4x 5 8 2
  1. : ラリー・ジャンセン  : ラルフ・ブランカ  
  2. :  BRO – なし  NYG – ボビー・トムソン
  3. 観客動員数: 34,320人

ドジャースがロビンソンのタイムリーで先制、その後ジャイアンツのサル・マグリーとドジャースのドン・ニューカムの投げ合いが続いた。7回にジャイアンツがモンテ・アーヴィンの二塁打から同点に追いついたが、ドジャースが8回にピー・ウィー・リースデューク・スナイダービリー・コックスらの連打で3点を挙げ、勝敗の行方は決したかと思われた。

しかし9回裏、ジャイアンツは先頭のアルヴィン・ダークがセカンドへの内野安打で出塁、ドン・ミューラーもライト前ヒットで続く。モンテ・アーヴィンはファーストへのファウルフライでワンアウトとなるが、ホワイティ・ロックマンが左中間へタイムリー二塁打を放ち1点を返す。ランナー1,3塁となったところでドジャースのチャック・ドレッセン監督はニューカムを諦め、救援にラルフ・ブランカを送る。打席には第1戦でブランカから本塁打を放ったトムソンを迎える。トムソンは初球ストライクの後の2球目をレフトスタンドへ運び、ジャイアンツがサヨナラ勝ちを収めた。

外部リンク[編集]