関ヶ原 (小説)

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関ヶ原』(せきがはら)は、司馬遼太郎歴史小説徳川家康石田三成の対立を軸に、天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いを描いた作品である。

週刊サンケイ』誌上で、1964年(昭和39年)7月から1966年(昭和41年)8月にかけて連載された。

概要[編集]

国盗り物語』・『新史太閤記』から続く司馬の「戦国三部作」の最終作であり、『覇王の家』・『城塞』と並ぶ「家康三部作」の一つでもある。

物語は徳川家康とその謀臣・本多正信、石田三成とその腹心・島左近の4人の人間模様と謀略戦を中心に描かれ、さらに前田上杉毛利島津長曾我部黒田といった各地の有力大名の内情も述べてゆくことで、マクロな視点で関ヶ原の戦いへと至る経緯を描いている。

1981年にはTBSテレビでスペシャルドラマが放映された。2017年夏には劇場映画が公開された。(後述

あらすじ[編集]

六十余州を束ね天下人として君臨してきた太閤・豊臣秀吉が死の床についた。後継者たる世子の秀頼はいまだ幼く、諸大名は秀吉の死を機に再び世は乱れると見た。来るべき大政変の中心と諸侯が目したのは、五大老筆頭の徳川家康であった。温厚な徳人として知られた家康であったが、秀吉が病臥したことを境に天下簒奪の野心を露わにし、水面下で策動を始める。これに対し秀吉の信任篤い五奉行の石田三成は、その野望から豊臣家を守るために立ち上がった。乱世において稀有な理想主義者であり、狷介なまでに潔癖な性格から「へいくゎい者」(横柄者)と仇名される三成は、豊臣家の権勢が揺らぐや露骨な媚態を見せて家康に擦り寄る諸侯の醜悪さを激しく痛罵する。豊家の護持のみならず、世道人心のためにも義を立て不義を滅するという信念から、三成は家康と戦うことを決意する。

やがて秀吉が薨ずると、家康はいよいよ野心の牙を剥いた。秀吉の在世時より、豊臣家中には戦場で奔走して豊臣家の創建を助けた武断派と秀吉の天下が定まるにつれて政権運営のために重用された文治派の確執があった。豊臣家の弱体化を狙う家康はこれに目をつけて舞台裏から巧みにその対立を煽り、殊に文治派の中心人物である三成と自らが手懐けた武断派の大名を争わせ、両派の抗争は小戦が起こらんばかりに発展する。三成は命を狙われることになるものの、家康の腹の底を看破し自身の利用価値を知悉する三成は、敢えて家康に庇護を頼み窮地を脱した。辛うじて難を逃れた三成であったが、五奉行の職を辞さざるを得なくなり、中央政界から身を引くこととなる。領国の近江国佐和山で逼塞することとなった三成だったが、しかしこの男には心中密かな腹案があった。秀吉死後の動乱を見越して築城した堅城・佐和山城に籠もり、三成は臥薪嘗胆の一念で家康打倒の機会を待った。

三成が退隠してほどなく家康は大坂城に入り、豊臣家の家政を一手に収めた。西の丸に居座った家康は北陸を領する前田氏を家康暗殺の謀議に加わったと糾弾し、世情はすわ戦かと騒擾する。事実無根の言いがかりであったが前田氏はひたすら平身低頭して恭順を誓い、ついで家康は会津の上杉氏に謀反を企てていると因縁をつけた。そして家康が会津征伐に乗り出すと、三成はここぞとばかりに兵を挙げる。家康の狙いを辺境勢力に討伐軍を出して野戦体制のまま幕府を開くことにあると見た三成は、かねてより上杉氏と示し合わせて家康が軍を出した後に自らも近江で挙兵し、上杉氏と共に挟撃するという一大構想を立てていたのだった。自らの雄大な構想に絶対の自信を持って決起した三成であったが、しかし家康はそうした三成の行動をありありと予測していた。家康の真の狙いは会津征伐に応じて兵を挙げるであろう三成に逆臣の烙印を押し、三成とその旗の下に参集した反徳川大名をまとめて討ち滅すことにあった。下野国小山の評定において従軍諸将の協力をとりつけた家康は、反抗勢力を討滅して一息に天下を取るべく三成との対決に臨む。

会津征伐の兵を巧みに天下簒奪の私兵に変えた家康は、奥羽の大名に上杉の押さえを頼むや軍勢を転進させて西上を始めた。他方、三成も毛利・島津・長曾我部といった西国の雄を味方に引きこむことに成功し、近畿の敵方属城を潰しながら東進を始める。奥州から九州まで、日本全土が東西両陣営に分れる古今未曾有の大戦が始まった。家康と三成の双方が主戦場と目したのは東西の交通の要衝である美濃国であり、三成率いる西軍主力はいち早く西上した東軍の先鋒部隊と美濃を舞台に小競り合いを始める。やがて家康率いる東軍本隊も美濃に到着するが、家康は三成に目もくれずに大坂を目指して行軍を始める。慌てた三成は行く手を塞ごうと西軍主力を大移動させるが、それこそ家康の思う壺であった。戦が長引いて造反者が出ることを危惧した家康は、西軍の主力を会戦におびき出し、一度の戦闘ですべての決着をつけるつもりであった。東軍の進軍を阻もうと西軍が立ちはだかったのは、美濃西端に位置する関ヶ原。畿内への入り口であるこの広闊の野において、両軍の主力はついに激突することとなる。

東軍七万五千、西軍十万もの大軍が一堂に会し、決戦の火蓋が切られた。西軍は数で勝り、迅速な布陣が功を奏して地の利も得たものの、しかし諸将の足並みが揃わず戦況は芳しく進まなかった。三成が驚愕したのは戦が進んだ後も多くの部隊が自陣を動かぬことであった。家康は事前に西軍諸将に周到な調略工作を重ねて多くの将の内応を取りつけており、戦局が佳境に入った後も西軍は自陣からただの一歩も踏み出さぬ部隊が多く出た。全軍の柱石として三成が最も恃んでいた毛利氏も動かず、西軍は総勢の実に三分の二が戦況を傍観したまま微動だにしないといった異常極まりない軍容となった。それでも残る部隊は死に物狂いで奮戦し、寡勢ながらも善戦して次第に東軍を押していった。戦の趨勢は大きく変わり、西軍の思わぬ健闘に内応諸将にも動揺が広まった。三成は勝利を確信するが、ところが家康に恫喝された西軍の小早川隊が突如として東軍に寝返り、友軍に襲いかかった。この造反を引き金として寝返りを約束していた他の諸将も次々と東軍に加わり、西軍はたちまちのうちに潰乱させられた。西軍は総崩れとなり勝敗はここに決するが、三成は再起を図って戦場から離脱する。

単身美濃を脱出した三成は、命からがら近江の旧領まで辿り着き、領民の庇護を受けた。心身ともに疲弊しきった身体を休めながら、三成は自らの行動を回想する。家康の邪な野望から豊臣家を護るため、義によって天下の耳目を聳動させる大戦さを起こした。だがその志は利を餌に巧みに諸侯の欲心をつかんだ家康によって無残に打ち砕かれ、あろうことか豊家の社稷を奪おうとしたなどという汚名まで着せられた。利害という現実の前には義という理想は空論であった。しかしかつての三成の善政を謝し、死罪も恐れず三成を匿おうとする領民もいる。やがて捜索隊に所在が露見すると、三成は自ら出頭する覚悟を固める。自分がここで遁走すれば自分を匿った領民が罰せられる。領民の命懸けの義を裏切るような真似をすれば三成は不義の輩と評され、かの戦いも不義の戦と解釈されるであろう。領民の義に応えることで己の義挙を示すことを決断した三成は、自らの所在を捜索隊に知らせ、捕縛されることとなる。

三成はほどなく大坂に移送されて市中を引き回され、その後に京の六条河原で斬首された。辞世はない。が、この男は引き回しの最中にも我が身の威儀を保とうとし、凛とした風姿を崩さず貫いた。そして刑場で首を落とされた後も転がった首の目は豁然と見開かれ、刑吏が慌てて引き起こすまで東山の天を無言のまま睨み続けた。

主な登場人物[編集]

東軍[編集]

徳川家康
関八州を領する大大名で、五大老の筆頭。温厚で律儀な徳人として知られていたが、秀吉の死により内に蔵していた野心の牙を剥く。豊臣家中を揺るがす武断派と文治派の対立に目をつけ、加藤清正や福島正則など武断派の大名を懐柔し、文治派の中心人物である三成との対立を煽って豊臣家を鮮やかに二分させ、反抗勢力を一息に葬るべく関ヶ原の戦いを起こした。千軍万馬戦場を駆け、権謀術数渦巻く乱世をくぐり抜けてきた政治力は当代随一のものであり、その比類なき力を振るって豊臣家からの天下簒奪を目論む。
関ヶ原では開戦前から西軍諸将に入念な調略工作を行い、周到に周到な準備を重ねて東軍の勝ちが確定的になる段階にまで政情を誘導し、ほとんど事務処理を行う感覚で戦場に足を踏み入れ勝利を手にした。「老獪」という言葉を全身で体現したような百戦錬磨の名将。
本多正信
徳川家の譜代大名。元は鷹匠であったが家康にその謀才を高く評価されて抜擢され、無二の謀臣として寵用された。家康という稀代の才物を役者に天下取りの筋書きを考えることに無上の喜びを感じ、巧緻な謀略の数々を家康と共に練り上げ、三成を追い詰めてゆく。三成の腹心で自身と同様の立場にある島左近に対抗意識を持ち、暗殺を試みたこともある。
関ヶ原では世子である秀忠の補佐役として同道し、家康とは別行動をとって西上した。凡庸な秀忠の器量を危惧した家康の配慮であったが、しかし途上において信濃国の小大名・真田昌幸の挑発に秀忠がのせられて足止めを食い、いきり立った秀忠を諌めるものの静止することができず、結局関ヶ原の本戦に駆けつけることができなかった。
加藤清正
豊臣家の譜代大名。少年の頃から秀吉に仕え、数多の戦場を走り回って主人の天下取りを助けた。身骨を削って天下を平定した誇りがあるだけに秀吉の天下が軌道に乗って以降重用された吏僚達の専横に不満を抱き、殊に才知を鼻にかけて武骨な将兵を見下す三成が気に食わず、ことあるごとに衝突した。朝鮮ノ役で活躍して大明にまで知られる軍略の才があり、領主としても優れた行政能力を持つが、生来の気性の激しさから政局を遠望する能力に欠け、三成に対する憎悪を家康に利用されその膝下に引き込まれる。
関ヶ原では家康の命で領国である肥後国に残り、黒田如水らと連携して九州の西軍大名を抑えた。
藤堂高虎
伊予国に領地を持つ大名。元は秀吉の弟の秀長に仕える身であったが、優れた武略を秀吉に買われて大名に取り立てられた。しかし半生の間に六度も主君を変えた男で、秀吉によって引き立てられた身でありながら早々に豊臣家の行く末を見限り家康に接近した。露骨な媚態を見せて太鼓持ちのようにへり下り、さながら家康の走狗となって諜報活動と調略工作に従事した。
これらの功績により関ヶ原の後には伊勢国に大領を与えられ、その家系は外様大名ながらも徳川政権下で別格の扱いを受けて存続することとなる。
福島正則
豊臣家の譜代大名。加藤清正と同様に少年時代から戦場を奔走して秀吉の立身を支え、その剽悍さで天下に広く武名を轟かせた。戦場を疾駆すれば無類の猛将ではあるもののしかし思慮は浅く、単純勁烈な猪武者の典型といえる性格。激情家であるだけに豊臣家への想いは忠烈であるが、三成が幼い秀頼を騙して天下の実権を握ろうとしていると家康に吹きこまれたことにより、東軍に力を貸すこととなる。
家康は豊臣家の譜代筆頭であるこの荒大名を手懐けることで諸侯の心を掌握しようと考え、様々に心を砕いてその歓心を得ることに努めた。小山評定では諸将が挙措に迷う中で率先して家康の支持を表明し、評定の行方を決定づけた。前哨戦では先鋒隊として家康の本隊に先んじて西上して活躍し、本戦でも猛将の名に恥じぬ奮闘をした。第一等の軍功を上げて東軍の勝利に貢献するものの、秀頼の行く末を願ったその行いは、図らずも家康の天下を固めて豊家の没落を招くこととなる。
山内一豊
遠江国掛川の大名。元は織田家の平侍で、とりたてて才覚があったわけではないが地道に戦働きをして立身を重ね、秀吉の政権下で小身ながらも大名となる。秀吉はその実直で篤実な働きぶりを評価し、東海道筋に信頼の置ける大名を配置する戦略の一環として一豊に掛川城を与え、関東の家康への対抗勢力として抜擢した。しかし秀吉の死後、豊臣家の前途を見限って家康に随従して家運を開くことを考えるようになる。
小山評定では、懇意の大名・堀尾忠氏がうっかり漏らした妙策を勝手に拝借し、家康に忠誠を誓う証として領地と城を明け渡すことを申し出、一豊のこの言葉に海道筋の大名が我も我もと相乗りすることとなる。一豊の発言に狂喜した家康は、関ヶ原本戦で軍功が全く無かったにもかかわらず、戦後一豊に土佐一国を与えて一躍国持大名に取り立てた。

西軍[編集]

石田三成
秀吉の寵臣で五奉行の一人。近江国坂田郡の地侍の家の出で、寺の小僧をしていた少年期に秀吉に利発さを気に入られて小姓に取り立てられ、長じて家臣となった。数理に長けた極めて優秀な能吏で、卓抜した吏才を発揮して秀吉に重用された。豊臣家に対する忠誠心は非常に強く、秀吉の死後に野心を露わにした家康を弾劾し、反家康勢力を取りまとめて総勢十万にも及ぶ大軍勢を組織し、未曾有の大戦を挑んだ。
道理と信義を何よりも尊び、背腹離叛が日常の乱世において珍奇なほどの理想主義者。天下簒奪を狙う家康を「老奸」と呼んで目の仇とし、保身しか考えず家康に媚びる諸大名を憎悪する。しかし、明敏な頭脳を持ちながらその発想は常に観念論・倫理を基準とした批評の範疇に留まり、客観的な現実認識ができない。自らの理想を独善的に押し通すことが煙たがられることを理解できず、常々「へいくゎい者」(横柄者)と陰口を叩かれている。また、訴訟などのもめ事も生来の検察官的性格から法理論を絶対視し、人の心の機微をまるで斟酌せずごく事務的に検断して、たびたび反発を受けた。さらに、己の才を高く自負するために人を見下す癖もあり、怜悧で利かん気の小僧といった風貌も相まってことあるごとに無用の反感を買い、腹心の島左近には人から嫌われる要素がこれほど揃っている男も珍しいと苦笑混じりに評された。
関ヶ原では西軍十万の実質的な指揮者として東軍との対決に臨んだ。しかし小身の大名であるために直接指揮できる兵がわずかしかなく、また人望もないために諸将との連携も上手くいかず、軍の統御に難渋した。また防諜・調略といった感覚に欠け、家康の執拗なまでの攪乱工作を防ぐことができず、無数の内応者を出して西軍は内部から瓦解することとなる。敗北後は再起を図って戦場から落ち延びるも捕縛され、六条河原で斬首された。
島左近
三成の腹心。かつては大和国筒井氏に侍大将として仕え、政略と合戦の天才として名を轟かせた。その才を高く買った三成は、筒井家を辞して近江に隠棲した左近を幾度も訪ねて口説き、ついには自らの知行の半分近くを割いて家老に召し抱えた。その政軍ともに傑出した能力からすでに天下の名士として高名であり、居城の佐和山城と同じく小身の三成には分不相応として、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」などと詠われた。
かつて信玄在世中の武田家に客分として身を置き、家康が信玄に手痛い敗北を被った三方ヶ原の戦いにも参戦し、一騎駆けで潰走した家康を追い回したこともあって、家康とは多少の因縁がある。陰湿な策謀を得意とする家康の性格を好まぬ一方で三成の少年じみた稚気を危ぶみながらも愛し、精神論に傾きがちな三成を戦術家としての現実的観点から補佐した。時に諭し時に叱責し師のように自身を支えてくれる左近を三成も恃みとし、さながら気の合う叔父のように接した。
関ヶ原では鬼神の如き勇猛さで戦場を狭しと駆け回り、東軍将兵を大いに慄かせた。しかし小早川隊の裏切りによって敗戦が決定的になるともはやこれまでと覚悟を固め、僅かな家臣とともに家康の本陣に決死の突撃を試み、戦死する。
小早川秀秋
豊臣家の連枝で、筑前筑後に大領を持つ大名。北政所の甥で実子に恵まれぬ秀吉の養子となり、一時は後継者とも目された。しかしその器量は凡人以下の愚人であり、無思慮で柔弱な馬鹿殿として天下で知らぬ者はない。常々愚鈍な振る舞いばかりして秀吉の不興を買っていたが、総大将として出向いた朝鮮ノ役で失態を繰り返して後はいよいよ厄介者扱いされるようになった。家康は秀吉に疎んじられた秀秋に近づいて慰撫し、様々な厚情を見せて巧みにその心を捉えた。
関ヶ原には事前に家康に寝返りを約束して西軍の一将として出陣する。しかし秀頼の成人まで天下を任せるという三成の提示してきた巨利に心がぐらつき、戦が過境に入った後も挙措を決めかね日和見していたが、しびれを切らした家康に鉄砲を撃ちかけられて恫喝されるや途端に震えあがり、慌てて東軍に加勢した。この小早川隊の行動がきっかけとなって他の内応諸将も次々と寝返り、西軍は総崩れとなって戦の帰趨は確定した。
直江兼続
上杉氏の家老。傑出した軍略の才を持ち、当主である景勝を補佐する。先君・上杉謙信に少年の頃から仕え、主君というよりも弟子として師事し、その軍法のみならず義侠を尊ぶ性格をも受け継いだ。三成とは上杉家が秀吉に恭順した際に知り会い、共に義を重んじる性格であることから意気投合し、莫逆の契りを交わした。
跡継ぎの秀頼が幼君であることにつけ込んで天下を奪おうとする家康の振る舞いに義憤を感じ、会津征伐に乗り出した家康を三成とともに挟撃するという一大構想を立て、関ヶ原の戦いの発端を作った。家康を怒らせるために叩きつけた弾劾状(直江状)は、徹頭徹尾その非をなじる痛烈な悪罵に貫かれたもので、「このような無礼な手紙は見たことも聞いたこともない」と家康を呆れさせた。
大谷吉継
越前国敦賀を領する大名。元は秀吉の小姓で、秀吉に利発さを愛されて目をかけられ、長じて後に大名に抜擢された。三成とは小姓時代からの親友同士で、癩病を病んだ後も気にせず接してくれる三成に強い友情を感じ、刎頸の交わりともいえる友誼を結んだ。三成の挙兵については当初は無謀と止めたものの、決意が揺るがぬと知るに及んでこれを受け入れ、三成と生死を共にするべく戦陣に立つ。
関ヶ原では癩病が進行し、皮膚が崩れて甲冑も着けらぬ状態で両目も完全に失明していたが、板輿に乗って戦場を回り指揮をとった。かねて秀吉に「百万の軍を任せてみたい」と見込まれた通りその采配は見事なもので、西軍の多くの兵が戦況を傍観して動かぬ中で勇猛果敢に戦い、東軍を翻弄した。ところが戦が佳境に入ったところで小早川秀秋の裏切りに遭い、東軍との戦いで隊形が伸びきっているところを衝かれ、大打撃を受ける。さらには呼応して寝返った叛将達の部隊にも包囲され、しばし絶望的な抵抗を続けたものの、やがて力尽きて自刃した。
安国寺恵瓊
伊予国に領地を持つ大名。元は毛利氏の外交僧であったが織田信長の在世中から秀吉の天下の到来を予見し、毛利氏の外交を秀吉の利に合うよう誘導し、天下取りの一助を担った。豊臣政権が成立して後は、その手腕を高く評価した秀吉によって外交参謀となり、僧のまま大名に取りてられた。秀吉の死後は家康の台頭を見越していたが、自身が築いたと自負する豊臣政権に愛着を持つことから三成の挙兵計画に構想段階から加わり、外交顧問として影響力を持つ毛利氏の西軍参加を取り決め、当主の輝元を西軍総大将の地位に就けた。
関ヶ原には僧の身ながら自領の軍隊を率いて参加し、家康の本陣のすぐ後背の南宮山に布陣する。ところが山頂に布陣した毛利軍部隊を率いる吉川広家の内応の疑惑が持ち上がり、山頂の毛利隊に睨みをきかされるような格好で動きを封じられ、結局一戦もできないまま敗戦を迎えた。西軍崩壊とともに戦場を離脱して逃亡するもののほどなく捕縛され、三成と同様に六条河原で斬首される。
島津義弘
薩摩国の大名。天下第一の名を恣にする薩摩兵を統率する名将であり、朝鮮ノ役ではその武勇は海を超え、明軍・朝鮮軍までをも恐懼させた。現在では頭を丸め「惟新入道」と号しているが、将としての威望は揺らいでいない。
関ヶ原では当初は東軍に与しようとするものの徳川方との意思疎通が上手くいかず、甥の豊久と共になりゆきで西軍に味方することとなる。かつて九州征伐で秀吉に恭順した後に理財の指導を受けたことから元来三成とは懇意であったが、前哨戦での自身を重く扱わぬ三成の態度に立腹し、本戦では西軍のために働こうとせずかといって東軍にも味方せず、戦場で凝然と中立を保ち続けた。が、西軍が惨落して三方ことごとく敵の人馬で満ちた後に俄に軍事行動を開始し、家康の本陣をかすめて退却するという驚天動地の退却戦を試み、士卒の大部分を失いながらも本国に帰り着いた。この島津勢の決死の退却戦は家康の心胆を寒からしめ、その後の巧みな謝罪外交も相まって、敗戦大名でありながら戦後処理において領地を一石も削ることも許さなかった。
吉川広家
毛利氏の重臣。政略・戦略ともに優れた識見の持ち主で、毛利家の軍事を統括する。早くから家康の勝利を予測して東軍加担を主張するも、外交を統括する安国寺恵瓊に退けられる。仮に西軍が勝とうとも豊臣家にすでに政権担当能力はなく、ふたたび乱世に戻るであろう世界を凡庸な器量の輝元はとても乗り越えられないと考え、家康に追従することが毛利家存続の道と判断し、独断で密使を送って東軍に内応を約束する。
関ヶ原には輝元の養嗣子である秀元の補佐役として毛利隊を率いて参戦するものの、家康の本陣後背の南宮山に陣を張りながら一切軍を動かさず、戦況を傍観することに終始した。内応を知らずに軍を動かそうとする秀元を押し留め、三成の再三の督促にも「弁当を使う」などといった屁理屈を弄して動こうとせず、結局弁当を広げるうちに戦は終わった。毛利隊のこの行動は、戦後「宰相殿の空弁当」(宰相=秀元)などと揶揄された。
宇喜多秀家
備前国を中心に大領を持つ大名。秀吉の猶子であり、豊臣家に対する忠誠心は西軍諸将の誰よりも強い。が、少年期より秀吉に猫可愛がりに育てられたため苦労知らずの公達といった面があり、小田原ノ陣や朝鮮ノ役で武功を立るなどそこそこの軍才はあるものの、甚だ政治感覚に欠けており自家の騒動を上手く捌く器量すらない。
関ヶ原には西軍最大の部隊を率いて出陣し、多くの部隊が日和見して動かない中、大谷吉継と同様に死に物狂いで奮戦した。やがて小早川秀秋の寝返りによって西軍が総崩れになると秀秋の振る舞いに憤激して刺し違えて死ぬとまで息巻いたが、家老の明石全登に諭されて戦場から落ち延びることとなる。
真田昌幸
信濃国の小大名。小豪族が群立し周囲を強国に囲まれた厳しい信濃の政情の中で、巧緻な謀略の数々を駆使して生き延び続けてきた老将。殊に戦をさせれば神がかり的なまでの名人であり、戦術家としての名声は天下の津々浦々にまで及んでいる。高い器量を持ちながら小大名の身分に甘んじるしかなかった自身の境遇に強い不満を抱いており、信濃・甲斐の二ヶ国を恩賞として約束されたことから、西軍に味方する。
関ヶ原では息子の幸村とともに居城の上田城に籠城し、中山道を進軍してきた徳川秀忠の部隊を挑発して釘付けにさせて足止めした。わずか二千の兵で三万八千もの大軍を十日間も翻弄し続け、ついに秀忠の関ヶ原本戦への参加を阻むことに成功する。

その他の人物[編集]

豊臣秀吉
戦国乱世に終止符を打ち、天下統一を成し遂げた大英傑。尾張の匹夫から身を起こし比類なき知略をもって天下人にまで上り詰めるが、しかし晩年には己の権力に慢心して無謀な外征を試みたり贅を尽くした建築道楽に耽るなど、諸大名や民を大いに疲弊させて怨嗟を買った。
東海の大大名であった家康を小牧・長久手の戦いの後に恭順させて臣下に加えたものの、その抜きん出た力量を恐れ、潜在的脅威として常に警戒し続けた。老衰により床に伏せるようになって後は、家康が自身の死後に息子の秀頼を害して天下を奪うことを案じ、せめて秀頼の成人まで生き長らえたいと願うものの叶わず、幼い愛息の行く末を気にかけながら息を引き取る。
北政所
秀吉の正室。その資性の聡明さで少壮の頃から秀吉を支え、賢婦人として豊臣家の創建を大いに助けた。気さくで闊達な性格から多くの家臣に慕われたものの、加藤清正・福島正則といった武勇の徒を好み自身の郷里である尾張出身者を贔屓にする癖があり、また豊臣の天下が軌道に乗るにつれて吏僚達が幅を利かせる様を心良く思わず、その下には政権中枢から疎外された武辺者の家臣が集まるようになり自然と閥が形成された。一方で秀吉の側室の淀殿の下には三成に代表される吏僚達が閥を形成するようになり、二つの閨閥の対立は武断派と文治派の諍いに発展し、豊臣家の屋台骨を揺るがすこととなる。
家康は秀吉の死の直後から北政所に近づき、寡婦を慰めるという面体で様々な厚情を示してその信頼を得ることに努め、彼女を慕う武断派の大名達を手懐けることに成功した。
前田利家
家康に次ぐ五大老の重鎮で、北陸を領する大大名。秀吉とは織田家の将校であった頃からの親友同士であり、秀吉は篤実で情義に篤いこの友人を大身させ、潜在的な脅威として恐れる家康の牽制役として常に遇し、秀頼の後見を頼んで息を引き取った。三成も最も恃みにしていた人物であったが、しかし老衰が甚だしく秀吉の死の翌年に後を追うようにして世を去る。
忌の際に豊臣家に殉ずることを遺言するが、夫人の芳春院はもはや天下の実権が家康に渡ることを止めることはできないと判断し、家康に恭順を誓うよう世子の利長を説き伏せ、自身は自ら人質となって家康のもとに赴き、前田家の存続を図った。
初芽
三成の愛妾。元来は藤堂高虎の家臣の娘で淀殿の侍女を勤めていたが、三成と淀殿との仲を割くよう謀った高虎の策により三成の下へ遣わされた。しかし側近く仕えるうちに次第に三成を知り、誰もが保身しか考えぬ利害の世においてあくまで誠心をもって立とうとするその人間性に惹かれ、深く愛するようになる。三成が五奉行を辞した後は共に近江に来ることを薦められるが、正妻の下知を受けることが物憂く、三成の計らいで京に住んだ。関ヶ原の前哨戦が始まると三成の身を案ずるあまりに京を立ち、西軍の前線拠点である美濃大垣城を駆けこむように訪ったりもした。
関ヶ原の終結後は尼となり、祇園下河原に一庵を結び三成の霊を弔って過ごした。
黒田如水
豊前国中津の大名。かつては秀吉の軍師として活躍し、その天才的な軍才によって秀吉の天下取りの事業の一翼を担った。しかし、豊臣政権の創業を助けるという大功がありながら秀吉に「大領を与えれば天下を取ってしまう男」と警戒され、九州に少領を与えられて隠居同然の日々を過ごしていた。
が、関ヶ原の戦端が切られたことを機に自ら天下取りに挑戦することを決意し、表向きは東軍に属しながらも持ち前の超人的な軍才を存分に振るい、瞬く間に九州の西軍大名の領地の大半を平定した(石垣原の戦い)。ところがしばらく続くと見ていた戦乱が本戦の一日で決してしまい、一世一代の挑戦は儚く崩れた。皮肉にも息子の長政がそうした父の意中に気づかずに家康の手足となって調略工作に奔走し、西軍の内部を攪乱させて家康に天下をもたらすこととなった。
物語の最後では三成を慰霊する初芽の庵を訪ね、諸侯の大半が家康に媚を売る中で毅然と豊臣家を守ろうとした三成の挙を讃え、世がみな道義を忘れようとする時代に人が人として生きる規範を支えたとその霊を弔った。

映像作品[編集]

テレビドラマ
詳細は該当項目を参照。
映画
詳細は該当項目を参照。

書誌情報[編集]

関連作品[編集]

本作の続編に当たる大坂の陣を題材にした司馬の長編小説。詳細は該当項目を参照。

出典[編集]