織田信陽

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織田 信陽(おだ のぶあき(のぶあきら)、寛政7年6月29日1795年8月13日) - 安政4年8月25日1857年10月12日))は、大和柳本藩の第11代藩主。尚長流織田家11代。

第10代藩主・織田秀綿の七男。母は間部詮央の娘。正室は池田定常の八女鎮子(のち離婚)。子は長女(小笠原信学正室)、織田信宝(三男)、織田信成(九男)、織田信及(十男、信成養子)、己酉子(七女、織田長猷正室)、娘(谷衛昉継室)ら11男9女。初名は秀員秀美秀陽。通称は芳次郎。官位は従五位下大和守、越前守、安芸守。

生涯[編集]

父秀綿の嫡男だった次兄秀便の死去により、寛政11年(1799)10月6日、嫡子となる。文化3年(1806年)12月18日、父の死去により、家督を相続する。文化9年(1812年)11月1日、将軍徳川家斉御目見した。同年12月16日、従五位下大和守に叙任された。文政5年(1822年)、駿府加番を命じられる。文政7年(1824年)12月、池田定常の娘、鎮子と結婚する。文政13年(1830年)11月、柳本陣屋が全焼する。文武の奨励や門閥にとらわれない人材登用、人員整理や知行削減などの藩政改革を行なった。この藩政における功績や、織田信長以来の名族ということを評価されて、[要出典]嘉永5年(1852年)12月27日に無城から城主格に昇進した。安政4年(1857年)8月25日、63歳で死去した。墓所は奈良県天理市柳本の専行院。