織田信賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

織田 信賢(おだ のぶかた、生没年不詳)は戦国時代武将尾張国上四郡を支配した守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)織田信安嫡男。母は織田信定の娘(秋悦院)か? 通称は兵衛、左兵衛。官位伊勢守。尾張岩倉城主。

父・信安が信賢の弟・信家を寵愛し跡継ぎに定めようとしたため、居城岩倉城から父と弟を追放し新城主となった。末森城主・織田信行美濃斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」出身の織田信長に対抗するが、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信長に敗れ、翌、永禄2年(1559年)、居城岩倉城も包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。その後の行方は不明だが、このときに自刃したもしくは旧臣の山内一豊土佐に招かれ、200石を給したという説があり、山内家墓所の日輪山真如寺に信賢の墓がある。