織田信行

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織田 信行 / 織田 信勝
時代 戦国時代
生誕 天文5年(1536年)?
死没 弘治3年11月2日1557年11月22日
改名 信勝→達成→信成
別名 信行、達成、信成、通称:勘重郎、勘十郎
受領名弾正忠武蔵守
氏族 織田氏
父母 父:織田信秀、母:土田御前
兄弟 信広信長信行信包信治信時信与秀孝秀成信照長益長利お犬の方佐治信方室→細川昭元室)、お市の方浅井長政継室→柴田勝家室)
室:高島局(和田備前守の娘)
津田信澄信糺信兼

織田 信行(おだ のぶゆき)は、戦国時代武将。名は一般に信行と流布しているが(『織田系図』)、自己発給文書では信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)しか確認できていない。なお、信行の名以外では信勝と呼ばれる方が多い。通称は勘重郎(勘十郎)。尾張末森城主。

父は織田信秀、母は土田御前織田信長の同母弟にあたる。妻には春日刑部の娘と和田備前守の娘がいる。子には津田信澄織田信兼などがいる。

生涯[編集]

天文5年(1536年)、織田信秀の子として尾張国に生まれたとされるが、生年についても不明な点が多い。

天文20年(1551年)、父・信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」(『信長公記』)と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった。

天文24年(1555年)5月頃、信行[1]は代々の当主が名乗ってきた弾正忠の官途を信長を差し置いて名乗るようになり、家中で信長の唯一の対抗者となっていった。

同年6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された。それを聞いた信行は激怒し、信次の居城・守山城の城下を焼き払った。これに対し信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」として信行を牽制したが、織田家の家臣たちは親族のつながりを尊重した信行に、より当主としての期待を寄せる結果となった。

弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、信行は林秀貞林通具柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。しかし8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した(稲生の戦い)。敗れた信行は末森城に籠城、信行は母・土田御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。

弘治3年(1557年)、武蔵守信行[2]岩倉城織田信安に通じるなどして再度謀反を企て、篠木三郷を横領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に通報した。『信長公記』によると、信行は若衆の津々木蔵人を重用し、勝家は増長した蔵人に侮られ無念に思っていたという。その後、信行は信長が病気との報を受け、柴田勝家に事の真偽を仰ぐが「信長殿を騙して譲り状を書かせてしまえば信友殿もいない今、織田家はあなたのものです」と諭された。そして、11月2日に清洲城へ信長の見舞いに行ったが、清洲城北櫓天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆[3]、あるいは池田恒興[4]によって暗殺された。ただし信長を謀殺しようとして返り討ちにあい、信長の目の前で自刃したともいう。

子の坊丸(後の津田信澄)は土田御前の助命嘆願もあり事なきを得たが、のち本能寺の変に際して信長の三男・信孝に討たれている。

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 『加藤文書』によると、天文23年10月から11月にかけて信勝から改名している。
  2. ^ 斎藤高政(義龍)が弘治3年4月19日に出した書状の宛名の官途は武蔵守となっており、また、『加藤文書』によると、弘治3年霜月以前に、達成から信成へ改名している。
  3. ^ 『信長公記』巻首によると、信長が河尻青貝に命じた旨の記述があり、一般に河尻秀隆と詳細不詳の青貝なる人物の2名と考えられている。
  4. ^ 『甫庵信長記』によると、山口飛騨守長谷川橋介・川尻青貝(この場合は1人の人物)の3人がまず斬り付け、土田御前のいる方へ逃げようとしたところを、池田恒興が取り押さえて殺害したとされる。

参考文献[編集]

書籍
史料