織田信休

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
織田信休
時代 江戸時代中期
生誕 延宝6年8月17日1678年10月2日
死没 享保7年11月29日1723年1月5日))
改名 信恒(初名)→信休
別名 右近(通称)、信辰
墓所 兵庫県丹波市柏原町東奥の織田家廟所
官位 従五位下、壱岐守、山城守、近江
幕府 江戸幕府
大和宇陀松山藩主→
丹波柏原藩
氏族 織田氏
父母 父:織田信武
母:徳川光友の養女智姫(広幡忠幸の娘)
正室:なし
信朝信旧長卿(四男)、四女(柳原光綱室)

織田 信休(おだ のぶやす)は、江戸時代大名大和宇陀松山藩第5代藩主、のち丹波柏原藩初代藩主。高長系織田家4代。

生涯[編集]

延宝6年(1678年)8月17日、江戸において誕生する。元禄3年2月15日、将軍・徳川綱吉御目見する。元禄6年12月23日、従五位下壱岐守に叙任する。元禄8年(1695年2月5日、家督を相続する。ただし、前年父・信武がお家騒動宇陀崩れ」で自殺したため、8,000石を減らした上での転封を命じられた。同年4月10日、丹波氷上郡、何鹿郡、天田郡内で2万石を与えられることになった。こうして織田家は、大和宇陀松山藩2万8,000石から丹波柏原藩2万石に転封になった。元禄11年4月21日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。

信休は、柏原村の亀屋田助邸を仮御殿、井尻屋文七邸を仮公儀所として藩政を開始させた。正徳4年(1714年5月27日にようやく柏原陣屋が完成し、落成式を行った。なお、転封となった信休は、従来の国主並の家格を返上した。官位もそれまでの当主は従四位下侍従まで昇進したのに対して、以降の当主は従五位下止まりであった(織田信憑を除く)。

宝永元年(1704年)6月27日、大和川付替えの御手伝普請を命じられる。信休はたびたび現場の視察を行っている。正徳2年(1712年)2月2日、江戸の大名火消(方角火消)を命じられる。享保7年(1722年)11月29日、柏原において死去、享年45。徳源寺に葬られた。なお、明治維新後、同寺は廃寺となり、現在は14代・織田信民までが埋葬されている織田家廟所となっている[1]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず〈週刊朝日  2014年11月21日号〉dot. 11月16日