「織田信右」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2018年11月26日 (月) 04:39 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2018年11月26日 (月) 04:39 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
'''織田 信右'''(おだ のぶすけ、[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]]) - [[宝暦]]12年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])([[1762年]][[10月5日]])は、[[上野国|上野]][[小幡藩]]の第5代藩主。第4代藩主[[織田信就]]の四男。初名は'''長賢'''。[[仮名 (通称)|通称]]は左膳。官位は[[従四位]]下[[若狭国|若狭]]守、兵部大輔。
| 氏名 = 織田信右
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])
| 死没 = [[宝暦]]12年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])([[1762年]][[10月5日]])
| 改名 = 長賢(初名)→信右
| 別名 = 通称:左膳
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[若狭国#江戸時代|若狭守]]、[[兵部省|兵部大輔]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川吉宗]]→[[徳川家重|家重]]
| 藩 = [[上野国|上野]][[小幡藩]]主
| 氏族 = [[織田氏#信雄(信長次男)の末裔|織田氏(信雄系信良流)]]
| 父母 = 父:[[織田信就]]
| 兄弟 = [[織田信房 (小幡藩嫡子)|信房]]、[[織田信常|信常]]、[[織田信乗|信乗]]、'''信右'''、[[織田長顕|長顕]]、[[織田信富|信富]]、[[津田長季]]、[[津田正春]]正室ら8男3女
| 妻 = 正室:'''[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]長女'''
| 子 = [[織田信賁|信賁]]、[[織田信尹 (織田信右息)|信尹]]、[[九鬼隆貞]]継室、<br>[[織田信乗]]養女<br>養子:'''''[[織田信富|信富]]'''''
| 特記事項 =
}}

'''織田 信右'''(おだ のぶすけ)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[上野国]][[小幡藩]]5代藩主。通称は左膳。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[若狭国#江戸時代|若狭守]]、[[兵部省|兵部大輔]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
4代藩主・[[織田信就]]の四男。初名は'''長賢'''。
信就の四男であったが、長兄の[[織田信房 (小幡藩嫡子)|信房]]、次いで三兄の[[織田信乗|信乗]]が病気を理由に廃嫡され、次兄の[[織田信常|信常]]も多病で相続を辞したため、享保15年([[1730年]])10月16日に嫡子になった。同年11月15日、将軍[[徳川吉宗]]に[[御目見]]し、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。


信就の四男であったが、長兄の[[織田信房 (小幡藩嫡子)|信房]]、次いで三兄の[[織田信乗|信乗]]が病気を理由に廃嫡され、次兄の[[織田信常|信常]]も多病で相続を辞したため、[[享保]]15年([[1730年]])10月16日に嫡子になった。同年11月15日、8代将軍[[徳川吉宗]]に[[御目見]]し、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。
享保16年([[1731年]])7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年([[1733年]])6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、[[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年([[1757年]])には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年([[1759年]])11月11日、家督を養子とした弟の[[織田信富|信富]]に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日に50歳で死去した


享保16年([[1731年]])7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年([[1733年]])6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。[[延享]]2年([[1745]])3月15日、[[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年([[1757年]])には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年([[1759年]])11月11日、家督を養子とした弟の[[織田信富|信富]]に譲って隠居し、宝暦12年([[1762]])8月18日死去。享年50
正室は[[水戸徳川家|水戸家]][[御連枝]][[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]の長女(のち離婚)。子は[[織田信賁]](長男)、織田信尹(次男)、娘([[九鬼隆貞]]継室)の2男1女。


== 系譜 ==
{{織田氏歴代当主|信雄系信良流織田氏|1731年 - 1759年|5代}}
子女は2男1女。「御代々様・御連枝様方御事跡」によると[[織田信乗]]の養女となった娘もいる。

*父:[[織田信就]]
*母:不詳
*正室:[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]長女 - のち離縁
*生母不明の子女
**長男:[[織田信賁]]
**次男:[[織田信尹 (織田信右息)|織田信尹]]
**女子:[[九鬼隆貞]]継室
**女子:[[織田信乗]]養女 - 呉姫、[[織田信邦]]正室
*養子
**男子:[[織田信富]] - 織田信就の七男

{{織田氏歴代当主|信雄系信良流織田氏|1731年 - 1759年|5代}}
{{小幡藩主|織田氏|5代|1731年 - 1759年}}
{{小幡藩主|織田氏|5代|1731年 - 1759年}}


{{DEFAULTSORT:おた のふすけ}}
{{DEFAULTSORT:おた のふすけ}}
[[Category:小幡藩主]]
[[Category:小幡織田家|のふすけ]]
[[Category:小幡織田家|のふすけ]]
[[Category:小幡藩主]]
[[Category:1713年生]]
[[Category:1713年生]]
[[Category:1762年没]]
[[Category:1762年没]]

2019年3月9日 (土) 03:04時点における版

 
織田信右
時代 江戸時代中期
生誕 正徳3年(1713年
死没 宝暦12年8月18日)(1762年10月5日
改名 長賢(初名)→信右
別名 通称:左膳
官位 従四位下若狭守兵部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
上野小幡藩
氏族 織田氏(信雄系信良流)
父母 父:織田信就
兄弟 信房信常信乗信右長顕信富津田長季津田正春正室ら8男3女
正室:松平頼明長女
信賁信尹九鬼隆貞継室、
織田信乗養女
養子:信富
テンプレートを表示

織田 信右(おだ のぶすけ)は、江戸時代中期の大名上野国小幡藩5代藩主。通称は左膳。官位従四位下若狭守兵部大輔

生涯

4代藩主・織田信就の四男。初名は長賢

信就の四男であったが、長兄の信房、次いで三兄の信乗が病気を理由に廃嫡され、次兄の信常も多病で相続を辞したため、享保15年(1730年)10月16日に嫡子になった。同年11月15日、8代将軍・徳川吉宗御目見し、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。

享保16年(1731年)7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年(1733年)6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、紅葉山八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年(1757年)には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年(1759年)11月11日、家督を養子とした弟の信富に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日、死去。享年50。

系譜

子女は2男1女。「御代々様・御連枝様方御事跡」によると織田信乗の養女となった娘もいる。