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{{Infobox 航空機
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| 名称= キ61 三式戦闘機 「飛燕」
| 名称= キ61三式戦闘機「飛燕」
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| キャプション= 1944年3月、[[台湾]]・[[台北松山空港|松山飛行場]]に駐屯する[[教育飛行隊|第37教育飛行隊]]所属の三式戦一型甲キ61-I甲
| キャプション= 1944年3月、[[台湾]]・[[台北松山空港|松山飛行場]]に駐屯する[[教育飛行隊|第37教育飛行隊]]所属の三式戦一型甲(キ61-I甲)
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| 運用者={{JPN1889}}([[大日本帝国陸軍|日本陸軍]])
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| 初飛行年月日= 1941年12月
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| 生産数= 2,875前後(諸説あり)
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| 生産開始年月日= 1942年
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| 退役年月日=1945年
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| 運用状況=退役
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'''三式戦闘機'''(さんしきせんとうき)は[[第二次世界大戦]]時に[[大日本帝国陸軍]]が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された[[戦闘機]]である。[[開発]]・[[製造]]は[[川崎重工業|川崎航空機]]により行われた。[[設計]]主務者は[[土井武夫]]、副主任は[[大和田信]]である{{sfn|土井|2002|p=27}}。ドイツの液冷航空エンジン[[DB601]]を国産化した[[ハ40]]を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機である。最高速度590km/hを発揮し、[[ニューギニア]]や[[フィリピン]]で連合軍と戦い、本土防空戦にも投入された。しかし基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機にしかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。そこで[[星型空冷エンジン]]を急遽搭載した日本陸軍最後の制式戦闘機、[[五式戦闘機]]が生産された。

'''三式戦闘機'''(さんしきせんとうき)は[[第二次世界大戦]]時の[[大日本帝国陸軍]]の[[戦闘機]]。[[キ番号]](試作名称)は'''キ61'''。愛称は'''[[飛燕]]'''(ひえん)。呼称・略称は'''三式戦'''、'''ロクイチ'''<ref>配備された部隊での呼び方は、他に「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」など。愛称の「飛燕」は1945年に入ってから、本土防空の活躍を報じた新聞記事により一般にも知られるようになった。</ref>など。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]における[[コードネーム]]は'''Tony'''(トニー)。[[開発]]・[[製造]]は[[川崎重工業|川崎航空機]]。[[設計]]主務者は[[土井武夫]]。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[File:G tokorozawa .jpg|thumb|220px|right|[[所沢航空発祥記念館]]で展示されているハ40(上下逆)]]
[[File:G tokorozawa .jpg|thumb|250px|right|[[所沢航空発祥記念館]]のハ40。ハ40は倒立エンジンあるが、画像ではエンジンの上下が逆に展示されている]]
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に実戦投入された[[日本軍]]戦闘機の中では唯一の[[液冷エンジン]]([[水冷エンジン]])として、当時[[日独伊三国同盟|同盟国]]であった[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ダイムラー・ベンツ]] [[DB 601]][[メッサーシュミット Bf 109|Bf 109E]]搭載の[[ライセンス生産]]品である'''[[ハ40]]'''搭載した。[[空冷エンジン]]が主力であった日本軍機の中は特に突出したスリムなデザインであり、その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、[[航空用エンジン|エンジン]]とのちに本機が装備する[[MG 151|MG 151/20]][[航空機関砲|機関砲]](マウザー砲)以外はBf 109と全く別設計であり、独自の機体設計はもちろん、左右一体型の[[主翼]]と胴体の接合法、[[ラジエーター]]配置、[[降着装置|主脚]]構造などが大きく異なり、むしろ内部構造的には共通点が少ない。
本機は、[[太平洋戦争]]に実戦投入された[[日本軍]]戦闘機の中では唯一の[[液冷エンジン]]装備である。当時[[日独伊三国同盟|同盟国]]であった[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ダイムラー・ベンツ]]社製[[DB 601]]エンジンは、[[メッサーシュミット Bf 109|Bf 109E]]搭載された1000馬力級航空エンジンであった。日本陸軍はこDB 601を[[ライセンス生産]]し、'''[[ハ40]]'''として三式戦闘機に搭載した。[[空冷エンジン]]が主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形水冷エンジン装備機有の空力学的滑らかで細身なデザインを持つ。その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、[[航空用エンジン|エンジン]]とのちに本機の一部が装備した[[MG 151|MG 151/20]][[航空機関砲|機関砲]]以外はBf 109と全く別設計である。機体設計は川崎設計陣が独自に行ったのであり、左右一体型の[[主翼]]と胴体の接合法、[[ラジエーター]]配置、[[降着装置|主脚]]構造などがBf 109と大きく異なる。内部構造的には共通点が少ない。


[[1941年]]昭和16年[[12月]]に初飛行した'''キ61'''試作機は最高速度591km/hを記録、総合評価で優秀と判定されただちに制式採用が決定た。しかし、先行して試作され不採用となった[[キ60 (航空機)|キ60]]でもそうであったように、複雑かつ高性能な液冷エンジンに対する日本の整備員の不慣れから整備難しいものであったれは同じくDB 601のライセンス生産品である[[アツタ (エンジン)|アツタ]]を採用していた海軍の[[彗星_(航空機)|彗星]]でもそうであったが、ハ40系のエンジンは量産開始後に陸軍から[[ニッケル]]を使用材から外す決定が下されたため<ref>[[渡辺洋二]] 『液冷戦闘機 飛燕<small> 日独合体の銀翼</small>』 [[文春文庫]]、2006P156~157。</ref>部品強度がさらに落ちてしまった([[ターボチャージャー|排気タービン]]用にニッケルを確保するための措置)<ref>そのためライセンス取得にあたって[[BMW]]や[[ユンカース]]製エンジンを推奨する声も陸軍内外にあったが、同じ液冷でもコンパクトで供給実績のあるDB 600シリーズが採用され。本国ドイツであっても運用当初は高性能のDB 600シリーズの供給には手間取り、ユモなど他エンジンも平行して生産されDB系は主力機であるBf 109などに優先的に振り向けられる状況であった</ref>。そのため本機の制式化にはなお紆余曲折が予想された。
[[1941年]](昭和16年)[[12月]]に初飛行した'''キ61'''試作機は最高速度591km/hを発揮し、総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定され。この数値は設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された{{sfn|土井|1999|pp=98-99}}。しかし、先行して試作され不採用となった[[キ60 (航空機)|キ60]]の経緯と同様、水冷エンジンに対する日本の生産能力と整備には問題があった。DB 601は日本の基礎工業力は生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったことまた日本の整備兵は複雑高性能な液冷エンジンに不慣れ整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強悪影響を及ぼした。海軍では、DB 601のライセンス生産品である[[アツタ (エンジン)|アツタ]]を採用し[[彗星_(航空機)|彗星]]艦上爆撃機を量産化していたが、同様にエンジンの不調による稼働率の低迷に悩まされた。さらに、陸軍で採用されたハ40系のエンジンは量産開始後に陸軍から[[ニッケル]]を使用材から外す決定が下されるなどしたため{{sfn|渡辺|2006|pp=156-157}}、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。


=== 愛称・呼称 ===
=== 愛称・呼称 ===
制式名称である'''三式戦闘機'''という呼称は[[神武天皇即位紀元|皇紀]]26'''03'''年[[1943年]]昭和18年))に制式採用されたことに由来する。連合軍のコードネームの'''Tony'''(トニー)、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[イタリア系アメリカ人|イタリア系移民]]の典型的な名前とされ、当初、本機を[[イタリア空軍]]の[[アレーニア・アエルマッキ|マッキ]] [[MC.202 (航空機)|MC.202]]のコピー機と誤認したことと、三=Three(スリー)の頭文字に因んで名づけられた
試作名称である[[キ番号]]は'''キ61'''であった。制式名称である'''三式戦闘機'''という呼称は[[神武天皇即位紀元|皇紀]]26'''03'''年([[1943年]](昭和18年))に制式採用されたことに由来する。制式制定1943年10月9日{{sfn|古峰|2007|p=143}}


愛称は'''[[飛燕]]'''(ひえん)、部隊での呼称・略称は'''三式戦'''、'''ロクイチ'''、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。愛称の「飛燕」は1944年後半{{sfn|渡辺|2006|p=290}}または1945年以降、三式戦装備の本土防空飛行部隊の活躍を報じる新聞記事により一般にも知られるようになった。碇(2006)の資料によれば、1945年1月の時点で川崎航空機の年表に愛称が見られるともされる{{sfn|碇|2006|p=127}}。愛称の'''飛燕'''は[[アスペクト比]]の大きい主翼と液冷エンジンゆえのスリムな容姿に因むともされる{{要出典|date=2012-12}}。
愛称の'''飛燕'''は[[アスペクト比]]の大きい主翼と液冷エンジンゆえのスリムな容姿に因む。1945年1月以降、三式戦装備の本土防空飛行部隊の活躍を報じる新聞記事で使われはじめた。

[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]における[[コードネーム]]は'''Tony'''(トニー)であった。これは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[イタリア系アメリカ人|イタリア系移民]]の典型的な名前とされ、当初、本機を[[イタリア空軍]]の[[アレーニア・アエルマッキ|マッキ]] [[MC.202 (航空機)|MC.202]]のコピー機と誤認したことと、{{要出典範囲|三 Three(スリー)の頭文字に因んで名づけられた。|date=2012-12}}

本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と呼ぶあだ名があった{{sfn|渡辺|2006|p=71}}。


=== 総生産機数 ===
=== 総生産機数 ===
総生産機数は各型合わせて3,159機であるが、うち275機の機体が[[五式戦闘機]]100)に転用されたため、実数は2,884機であった
総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機であるが、うち275機の機体が[[五式戦闘機]](100)に転用されたため、実数はこれよりやや少なく、2,875機前後となる。総生産数は諸説を列挙する。なお二型は通説では増加試作機30機および量産型374機が生産されているが、文献により413機+α機であるとする説もある{{sfn|古峰|2007|p.156}}
* 片渕 (2007)によれば、各型・試作型合わせて3,153機{{sfn|片渕|2007|pp.90-91}}。または+α{{sfn|古峰|2007|p.156}}。
* 秋本 (1999)によれば、3,148機だが、これより若干多めの可能性も示唆されている{{sfn|秋本|1999|pp.120-121}}。
* 土井 (2002)によれば、I型だけで2,750機。これにII型の8機と二型(II-改)の30+374機を加えると3,162機としている{{sfn|土井|2002|p=35}}。


=== 現存===
== 開発の経緯と体内部構造 ==
{{see also|DB 601 | ハ40 | キ60}}
本機の現存機としては[[知覧特攻平和会館]]にて屋内展示されている二型(キ61-II改)が存在する。この機体は当時は[[陸軍航空審査部]]所属であり、終戦直後に[[アメリカ軍]]に接収され、のちに[[日本航空協会]]に譲渡返還されたものである。同機は戦後に大規模な修復を受けているものの、現在良好な状態で保存されている三式戦闘機としては世界で唯一である。
[[File:Kawasaki Ki-61.jpg|thumb|250px|right|三式戦一型(キ61-I)]]
 また、オーストリア南部のワンガラッタ市の航空機復元会社に、川崎重工業の現役及びOB社員によるボランティア・グループが協力して飛行可能なように復元中のI型がある。<ref>『航空ファン』文林堂、2009年9月号 p97~99、2011年9月号 p102~104</ref>。
1936年、[[ドイツ]]で[[液冷]]1000馬力級航空エンジン、[[DB601]]が開発・生産された。これは[[スーパーチャージャー|過給器]]に[[流体継手|フルカン継手]]を採用し、[[キャブレター]]ではなく[[燃料噴射装置]]を採用した、先進的なエンジンであった{{sfn|渡辺|2006|pp=39-42}}。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は[[愛知時計電機]]、のちに[[愛知航空機]]と呼ばれる企業が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった{{sfn|渡辺|2006|pp=39-42}}。


川崎の鋳谷社長が土井に語った談として、ヒトラーはこの購入に関し「日本政府として購入すれば50万円で済むのに」なる旨の言を発し{{sfn|土井|1999|p=95}}{{sfn|土井|2002|p=21}}、また日本の陸海軍は敵同士かと笑ったともされる{{sfn|渡辺|2006|p=43}}。渡辺 (2006)などによれば当時の陸海軍の反目がエスカレートしており、別々の購入に至った{{sfn|渡辺|2006|p=43}}。また林 (1994)の文献によれば、海軍と陸軍は購入に関して別々に交渉を続けており、在ベルリン海軍事務所から在ベルリン日本大使館陸軍航空補佐官[[加藤敏雄]]中佐に、既に海軍側が制作権購入の交渉を始めたので手を引いてくれとの電話が有ったとの逸話が紹介されている{{sfn|林|1999|p=118}}。また碇 (2006)の文献では、ダイムラーベンツ社が、道徳上同じ国に二度もライセンス料を払わせる訳にはいかないと一旦辞退を申し出たことが記述されている{{sfn|碇|2006|p=68}}。
== 技術的特徴 ==
[[File:Kawasaki Ki-61.jpg|thumb|220px|left|三式戦一型(キ61-I)]]
設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における[[軍用機の設計思想|重戦]]・[[軍用機の設計思想|軽戦]]のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。<ref>陸軍からの開発指示があった時点では軽戦と分類されていたものの、川崎ではこの分類に囚われない戦闘機を目指し、そのため「中戦」と呼ばれた。碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂、1977年、p74。</ref>。旋回性能を良くするには旋回半径を小さくするより旋回率を高めたほうが効果的である<ref>旋回半径を小さくすると旋回時に速度が低下するため、速度を維持して旋回するために旋回率を高めたほうが、強い戦闘機になると判断した。</ref>という思想の下に、[[翼面荷重]]ではなく[[翼幅荷重]]を低くする設計に努め、高アスペクト比の主翼を採用した独特のスマートな容姿となった<ref>これはドイツの[[クルト・タンク]]の設計思想と共通し、また[[グラマン]]とは反対の考え方である。</ref><ref>主翼の横幅が広い事は、[[エルロン]]を重心より遠くに配置できる事を意味し、エルロンの効果を高める。結果として、エルロンを小面積にしてもよい、あるいは動作が小さくても良い事を意味し、その分抵抗が小さくて済む。</ref>。また、液冷エンジンを搭載したおかげで、機体表面の[[空力]]が向上し、胴体断面が縦長になったこともあって、3舵のバランスに優れた設計となった。


以上はライセンス購入に際し陸海軍の対立の定説として語られている顛末であるが、軍事史家である[[古峰文三]]は以下のような説を著述している。DB 600(601ではない)は、愛知がライセンスを購入したものの、愛知が陸軍にエンジンを供給することが許されていた。またDB 601については愛知・川崎とも1社のみで全軍に供給できるだけの生産力が期待できず、2社で生産に当たるのはやむを得なかった。2社で生産する以上ライセンス生産料も2社分支払うのが契約上当然であり、また他の発動機も陸海軍で共用している状況から、DB 601の経緯のみに注目して対立の根拠とすることはし難いとしている{{sfn|古峰|2007|p=120-121}}。
機体の分割を減らして、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長で、主翼は左右一体、その上に載った胴体もエンジン架から尾翼直前まで一体構造となっている。<ref>碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂、1977年、p101</ref>そのためにエンジン周りの整備性が犠牲となっている。


ライセンス生産にあたり、ドイツから日本に輸入されたのは離昇出力1,175馬力のDB 601Aaで、燃料噴射装置の特許を持つ[[ボッシュ]]社がライセンス生産を認めないなどのトラブルがあったものの、1940年12月、'''ハ40'''は完成を見た。量産型の完成は1941年7月、書類上では同9月である{{sfn|渡辺|2006|pp=44-48, 72-73}}。陸軍は川崎に、DB 601を用いた重戦闘機キ60と、ハ40を用いた軽戦闘機キ61の開発を指示した{{sfn|渡辺|2006|p=48}}。設計は[[土井武夫]]が担当した。キ60は[[Bf109]]Eと互角以上の性能を示したものの、他に合同試験された[[二式単座戦闘機]]の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。
アメリカ軍が戦後に接収した機体をテスト運用したところ、[[運動性]]に関しては低速旋回性能はいいが、高速で舵が重いという、他の日本機と同様の評価がなされている。川崎はより高速で旋回できたほうが強い戦闘機になると判断し、そのため旋回率を高めるべく設計したのだが、アメリカ機との比較では必ずしも目的は達成できていなかったことになる<ref>旋回の最中においては、旋回方向の外側の主翼のほうが内側の主翼よりも対気相対速度が大きくなるため、内側に機体がロールする事になる。そのためエルロンを動作させロールを抑える必要がある。翼幅が広い事は、内外の主翼の揚力差が大きくなる事を意味し、エルロンの動作を大きくする必要が生じ、逆に抵抗が増大する。</ref>。むしろ旋回半径が小さいという連合軍機に対する長所をそぐ事になり、アメリカ軍戦闘機との対戦では相性を悪くする結果となった。また機体重量に比べ、ハ40ではやや非力なため、水平加速や[[上昇力]]が低くこの面でも相性を悪くした<ref>一般的に液冷エンジン装備機は空冷エンジン機に比べて空気抵抗が小さく、重量が大きくなるため、水平速度と急降下速度で勝り、上昇速度と加速性に劣る。</ref>。


キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における[[軍用機の設計思想|重戦]]・[[軍用機の設計思想|軽戦]]のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、更に12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論で発生した語ともされる{{sfn|古峰|2007|p=119}}。しかし碇 (2006)の文献では、副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている{{sfn|碇|2006|p=81}}。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もある{{sfn|渡辺|2006|p=64}}など、川崎側が発祥であるともされる。
ハ40は、DB 601をコピーする際、戦略物資の使用制限のため、陸軍からの指示もあって[[クランクシャフト]]の材料からニッケルを外さざるを得ず、強度不足からよく折損事故を起こした。ドイツから工作機械の導入ができず、クランクシャフトは本来型鍛造で作るべきものを切削加工で作ったものも相当数あり、これも原因と考えられる。工作精度もオリジナルに比べれば許容公差で1~2桁ほど妥協しており、[[ベアリング]]の破損など部品の不良に起因する故障も多発した。


土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている{{sfn|土井|2002|p=30}}{{sfn|土井|1999|pp=98-99}}{{sfn|渡辺|2006|p=64}}。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機[[キ28]]が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27([[97式戦闘機]])に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある{{sfn|古峰|2007|p=116}}。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べている{{sfn|土井|1999|p=97}}。また、その反動からか、一度は[[95式戦闘機]]の改良版とも言える引き込み足式の、最大速度480km/hに過ぎない複葉機を計画したこともあった{{sfn|古峰|2007|p=116}}。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された{{sfn|渡辺|2006|p=64}}。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある{{sfn|古峰|2007|pp=118, 132}}。
エンジンと共に本機のもう一つの欠陥になったのがラジエーターで、胴体下に冷却液のラジエーターと[[オイルクーラー]]が同居しているため、離陸時の風量調整操作が難しく、よく[[オーバーヒート]]を起こした。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった<ref>三式戦に限ったことではないがエンジンの整備性の悪さに関しては、日本軍の整備取扱書の難解さも原因のひとつとして挙げられてくる。説明文は硬い文体で難しい漢字や文言を多用しており、写真や図版も専門用語の羅列で、整備員の多くには難しすぎたのだという。一方で連合軍の整備書はマニュアル化され、わかりやすい図版やイラストをも多用し、整備経験が浅くとも、ある程度は理解できるよう工夫されていた。</ref>。


主翼は全幅12m、面積20m<sup>2</sup>、アスペクト比7.2という高い比率の翼形を採用した{{sfn|和泉|1999|p=21}}{{sfn|渡辺|2006|p=65}}。和泉 (1994)の文献によれば、アメリカ軍の戦闘機P-51B型でアスペクト比は5.9、Bf109Eで6.0、零式艦上戦闘機は6.4であった。これらと比較して三式戦闘機の主翼はアスペクト比が高い。これは[[翼面荷重]]を低めるよりも[[翼幅荷重]]を低めた方が、高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できるという土井の設計思想によるものである{{sfn|渡辺|2006|p=64}}。長大な翼幅からくるロール性能の低下は、補助翼([[エルロン]])の設計でカバーした{{sfn|渡辺|2006|p=65}}。またこの主翼の主桁は左右一体構造で作られた頑丈なものであった。当時、主桁はI型断面のものが多く用いられていたが、三式戦闘機は[型のものを上下に組み合わせ、さながら箱形になるかたちのものであり{{sfn|和泉|1999|p=21}}、荷重試験では総重量2,950kgと仮定して主翼に15Gをかけても破壊されず、それ以降の試験を中止した{{sfn|土井|1999|p=101}}{{sfn|渡辺|2006|p=65-66}}。強度過大であることから性能向上のために主翼の軽量化が検討されたが、キ61は既に十分な性能を示していたために見送られた{{sfn|土井|1999|p=101}}。三式戦闘機は当初計画の2,950kgから、最大で二型の3,800kgにまで総重量が増加しているが、この面での主翼の設計変更は必要が無く、生産が滞ることはなかった{{sfn|土井|1999|p=101}}。
[[飛行第244戦隊]]で三式戦に搭乗した[[竹田五郎]][[大尉]]([[陸軍士官学校|陸士]]第55期、後年の[[統合幕僚会議議長]])は、当機の欠点を「離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事」と指摘した。一方でハ40については、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している<ref>航空情報1972年10月号「戦闘機W.W.II 2」青木日出雄編 酣燈社、p136</ref>。

また全幅の広い主翼を用いたことから{{sfn|和泉|1999|p=22}}、主脚のスパンは4.05mと降着に際して十分に安定したものであり、荒地での運用に耐えられるものであった{{sfn|渡辺|2006|p=71}}。そのため胴体下部は引き込まれた主脚のタイヤと降着装置で占拠されることなく、燃料タンクやラジエーターの艤装が容易となっている{{sfn|碇|2006|p=97}}。主翼は片側6本のボルトで胴体に取り付けられているが、これは[[Fw190]]や[[P-51]]と類似した取り付け方法である{{sfn|和泉|1999|p=22}}。またこの部分は平らに整形され{{sfn|碇|2006|p=97}}、将来機体に改造が行われて重心が変わっても、主翼位置の前後修正による重心位置調整が容易である{{sfn|土井|1999|p=101}}{{sfn|古峰|2007|p=135}}。

三式戦闘機の胴体および機首は、日本では一般的かつ大直径の[[空冷星型エンジン]]を搭載した各種戦闘機と比べ、液冷エンジン搭載の利点が出たものとなった。全幅は840mmである{{sfn|渡辺|2006|p=66}}。キ60より全高は100mm抑えられ、1360mmであった{{sfn|和泉|1999|p=25}}。こうした小型化は空気抵抗を減らして高速化に効果がある。機体の分割部分を減らし、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長である<ref>碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂、1977年、p101</ref>。

胴体は4本の縦貫通材を骨組みの主材とした。ただしこれらは尾翼直前の第12円框で分離されており、一体構造ではない{{sfn|和泉|1999|pp=27-28}}。この構造は生産性向上に役立ったとされる{{sfn|碇|2006|p=104}}。本機は量産性にも配慮がなされ、主翼取り付け法も生産性を高めた他、飛行機の外形を作ってから工員が中に入り内装を行う従来の手順を改め、各モジュールを内部まである程度作り上げてから最終的に組み立てるシステムが取られた{{sfn|碇|2006|pp=105-106}}。機体構造はセミ・モノコック構造となっており{{sfn|和泉|1999|p=25}}、また発動機架は前方で胴体と一体構造となっている。これは一体構造の主翼と相まり、降下限界速度が850km/hまで許容されるなど、機体強度は非常に頑丈なものであった{{sfn|渡辺|2006|p=68}}{{sfn|和泉|1999|p=25}}。土井によれば速度計は700km/hまでのものが採用された。ただし780km/hまで計測できたとの証言や、のちに1,000km/hまでの速度計に変えられたとの証言もある{{sfn|小山|1999|107}}。この構造は重量軽減にも非常に有効だったとする文献もある{{sfn|碇|2006|p=104}}。設計主務の土井によれば、三式戦闘機が空中分解を起こした事例は一度もなかった{{sfn|土井|1999|p=101}}。また真偽不明であるが、土井は同じ文献で、三式戦闘機が音速を突破したケースがあると耳にしたと著している。機体が頑強なことから、不時着も比較的行いやすかったと証言したパイロットもいる{{sfn|渡辺|2006|p=259}}。

液冷エンジンに不可欠な[[ラジエーター]]は幅約800mm、高さ約480mmである{{sfn|土井|1999|p=100}}。このラジエーターは胴体下部中央、すなわちパイロットのやや後方あたりに半埋め込み式として配置された。機体から外には250mmが露出している{{sfn|土井|1999|p=100}}{{sfn|渡辺|2006|p=70}}。土井は戦後、同じ箇所にラジエーターを配した[[P-51]]を見た時、その気流の処理の見事さに、さすがにアメリカの方が進んでいるとの感想を抱いた{{sfn|土井|1999|p=101}}。また同時に、このアメリカ軍最優秀機と三式戦闘機のラジエーター処理がほぼ同様であったことは感無量であったともしている{{sfn|土井|2002|p=32}}。使用された冷却液は化学物質を混合しない通常の淡水であり、冷却するに際して約3.8kg/cm<sup>2</sup>に液を加圧し、沸点を125度として使用した{{sfn|和泉|1999|p=43}}{{sfn|林|1999|p=117}}。

キャノピーは日本軍機として珍しい形状を採用した。キャノピー後部と胴体が一体化した、空力学的に有利なファストバック方式が採られている{{sfn|渡辺|2006|p=70}}。この型式は後方視界が制限され、空戦に際して見張り能力につき指摘される懸念があった。また前下方をのぞき見るための窓が設けられた。視界に関し、実戦部隊からとりたてて指摘はなかったとする文献と{{sfn|渡辺|2006|pp=71, 348}}、あったとする文献がある{{sfn|和泉|1999|p=28}}。土井によればこのキャノピー形状と前下方をのぞき見るための窓はBf109からの流用である{{sfn|渡辺|2006|p=71}}。なお大戦末期、おおよそ1944年12月以降{{sfn|片渕|2007|p=97}}に作られた機体、あるいは五式戦闘機に改造された機体については、日本で一般的な涙滴型風防に改められている{{sfn|和泉|1999|p=28}}。
[[File:Kawasaki Ki-61 Hien with drop tank.jpeg|thumb|right|250px|翼下に落下増槽を搭載した三式戦闘機。風防はファストバック形式]]
三式戦闘機の航続距離は8時間以上、3,200kmを飛行可能であった。長大な航続距離で著名な[[零式艦上戦闘機]]に匹敵する飛行能力を持つ{{sfn|渡辺|2006|p=72}}。燃料は、機体内に820リットルの燃料を収容し、更に両主翼に200リットルの増槽を懸吊して総計1,220リットルの燃料を確保した。ただしこれは量産型では胴体内755リットル、増槽を合わせて1155リットル搭載、後続距離は7時間40分または3070kmと、若干低下している{{sfn|渡辺|2006|p=96}}。和泉 (1994)では一型初期の燃料搭載量は増槽を含め935リットルとしている{{sfn|和泉|1999|p=23}}。

しかし1943年、当時ウエワクに在った実戦部隊・第14飛行団では、侵攻行動半径を550km(往復1100kmに一定の戦闘行動分を足したもの)と判断しており、実戦レベルでは航続力が低下していた傾向がある。詳しい原因は不明だが、エンジンの不調や整備不良が想定される{{sfn|渡辺|2006|p=160}}。また、第14飛行団では被弾炎上の危険性を避ける観点から、胴体内増設タンクを降ろしていたともされる{{sfn|渡辺|2006|p=190}}。

木型審査は1941年6月に{{sfn|古峰|2007|p=133}}、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った{{sfn|渡辺|2006|p=72}}。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが{{sfn|古峰|2007|p=134}}、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった{{sfn|土井|1999|pp=98-99}}{{sfn|渡辺|2006|pp=74-76}}。当時の陸軍戦闘機と比較すれば、[[一式戦闘機]]は515km/h、[[二式単座戦闘機]]は534km/hの最高速度であった{{sfn|渡辺|2006|p=93}}。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた{{refnest|group = *|副賞金は15,000円。これの措置は土井に一任され、多くは国債として岐阜工場や設計部に分配し、残りは宴会に使ったという{{sfn|土井|2002|p=32}}。}}。

なお、川崎側の資料など、一般には試作機には最初からハ40が搭載されていたと言われているが、審査を担当した[[荒蒔義次]]らは、3号機までは輸入したDB 601Aaを搭載していたと証言している。また、ハ40を搭載した4号機からは過給器の不調が多かった{{sfn|渡辺|2006|pp=76, 83}}。量産型第一号機は1942年8月に完成した{{sfn|渡辺|2006|p=94}}。

日本陸軍では20mm機関砲の開発が遅れたために、武装は12.7mm機関銃[[ホ103]]を採用した。しかしこの時期のホ103の信頼性には懸念が持たれており、採用は機首の2門にとどめ、主翼の2門は7.7mm[[八九式固定機関銃]]を装備している{{sfn|渡辺|2006|pp=77-79, 94-96}}。燃料タンクは被弾に対して若干の防弾能力が付与されている。308機目までは3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで防漏しており、388機目までは上面9mm、側面6mm厚のゴムで覆われた。{{sfn|渡辺|2006|p=96}}。量産機は1942年末までに34機、エンジンは65台が完成した{{sfn|渡辺|2006|pp=96-97}}。

=== 飛行性能 ===
試作時、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全ての比較領域においてBf109-Eを凌駕した{{sfn|土井|2002|p=32}}。特に最高速度は30km/h優速であった{{sfn|土井|2002|p=32}}。

1942年秋頃、[[福生]]で「戦闘機研究会」という名称の比較試験が行われた。内容は日本陸軍戦闘機および[[月光 (航空機)|月光]]、[[雷電 (航空機)|雷電]]などの日本海軍戦闘機と、[[P-40|P-40E]]、[[ホーカー ハリケーン|ハリケーン]]、Bf-109Eなど諸外国機を集めて性能比較を行うものであった。キ61は速度の優勢のほか旋回半径の小ささで外国機に比べて勝り、格闘戦では有利と考え得るものであった{{sfn|渡辺|2006|pp=101-103}}。海軍側は三式戦闘機に関し、座席よし、舵やや重きも釣り合いよし、安定性よし、前方視界悪し、上昇悪し、急降下時は舵が非常に重いが座り・出足ともによし、と評価している{{sfn|古峰|2007|p=139}}。

三式戦闘機の操縦性には特筆すべき癖や問題はなかった。補助翼・昇降舵の操作にはロッド式が採用され{{sfn|和泉|1999|pp=31-33}}、方向舵には操縦索(ワイヤー)式が採用されている{{sfn|和泉|1999|p=33}}。なお1942年12月21日の「戦闘機研究会」では、本機に試乗した海軍パイロットの一人は操舵系統の良好さに強い感心を示し、陸軍にその秘密を質問した。同席していた土井の答えは、液冷戦闘機独特の縦に細長い長方形状の胴体形状が影響しているのでは、というものであった{{sfn|碇|2006|p=120}}。

本機の降下制限速度は850km/hと、非常に頑丈な機体である。軽量化を強く追求した零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/hであり、零戦52型甲でも740km/hである{{sfn|渡辺|2006|p=97}}。

三式戦闘機は離昇出力1175馬力のハ40を搭載する戦闘機であり、1型甲の全備重量は3,170kgである。同質のエンジンを搭載するBf109Eを上昇力で凌駕すると説明する資料があるものの、大塚(2007)の文献中の表では、三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている{{sfn|大塚|2007b|p=191}}。出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった{{sfn|渡辺|2006|p=158}}。また上昇力の不足は、前述の「戦闘機研究会」で海軍側の指摘にも表れている。

米軍戦闘機との戦いも必ずしも有利なものではなかった。ウエワクの第14飛行団のパイロットの証言によれば、[[P-40]]とは互角またはそれ以上に戦えた{{sfn|渡辺|2006|pp=180-181}}。しかしP-38と対戦した場合、速度はP-38が有利で機動性は三式戦闘機が有利とであり、空戦性能で互角だが、火力面で不利があった{{sfn|渡辺|2006|p=180}}。さらにP-38相手には劣速であり、格闘戦に持ち込めば勝てるにせよ、アメリカ軍機の一撃離脱戦法は格闘戦そのものを発生させず持ち込みようがなかった{{sfn|渡辺|2006|p=180}}。したがって三式戦が勝つ手段は奇襲以外に打つ手が無い状況であり{{sfn|渡辺|2006|p=180}}、多少弾を当ててもアメリカ軍機は防弾性能が高く落とせない{{sfn|渡辺|2006|p=181}}、また搭載する無線機が使い物にならず隊内での連携に円滑を欠いて大きなハンディがある{{sfn|渡辺|2006|p=182}}と、相当な苦戦をみていた{{sfn|大塚|2007c|p=173}}。

[[陸軍士官学校|陸士]]第55期、後年の[[統合幕僚会議議長]]となった[[竹田五郎]][[大尉]]は[[飛行第244戦隊]]で三式戦に搭乗した。彼は本機の欠点を「離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事」と指摘した。一方でハ40については、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している<ref>『航空情報』1972年10月号「戦闘機W.W.II 2」青木日出雄編 酣燈社、p136</ref>。

=== アメリカ軍機から判定した三式戦闘機の空戦能力 ===
当初アメリカ軍は、本機がBf109である可能性を考慮したが、Bf109のラジエーターは主翼に設置されており形状が異なるために、[[イタリア]]のマッキ202のコピーと判断していた{{sfn|大塚|2007c|p=173}}。このため、三式戦闘機にはイタリア人男性に多い「Antony」(アンソニー)をもじった「Tony」というコードネームがつけられた{{sfn|大塚|2007c|p=173}}。その後の調査で日本のオリジナル機とわかり、1943年11月の「航空機識別帳」に記載された{{sfn|大塚|2007c|p=174}}。

アメリカ軍のパイロットには、三式戦闘機とは戦いやすかったと判断する傾向があった{{sfn|渡辺|2002a|p=83}}。火力と降下性能は従来の日本機より優秀だが、上昇性能・速度性能共に優れてはおらず、旋回性もP-40に対して互角であり、総じて[[P-40|P-40N]]と互角と判断していた{{sfn|大塚|2007c|p=174}}。またP-38から見れば、三式戦闘機は他の日本戦闘機に比べて多少優速だが、P-38の最高速度に及ぶものではなく、更に格闘戦も他の日本機より苦手であるために対戦しやすかった{{sfn|大塚|2007c|p=175}}。ただし三式戦闘機は、敵機が他の日本機、例とすれば零式艦上戦闘機や一式戦闘機に対して取った戦術同様、降下で離脱しようとした時、これに食い付くことができた{{sfn|大塚|2007c|p=175}}。また1944年のフィリピン戦で三式戦闘機を相手としたF6Fのパイロットも、他の日本機より戦いやすかったとしているようだ{{sfn|大塚|2007c|p=177}}。

前線のパイロットからの評価と対照的に、アメリカ軍が1943年に鹵獲機体を用いた評価・試験の結果「陸海軍合同識別帳」がまとめられ、この資料の中では三式戦闘機を''「重武装と良好な防弾性能を備えた素晴らしい機体」''{{sfn|大塚|2007c|p=175}}と高評価している。また日本本土での迎撃戦において最も活動したのはTonyであったと評している{{sfn|大塚|2007c|p=178}}。なお1945年のレポートでは、ハ140を搭載した三式戦闘機二型 - TonyIIについて、高度8,500mで最大速度680km/hなどと過大な表記がみられている{{sfn|大塚|2007c|pp=179-180}}。

アメリカ軍が戦後に接収した機体をテスト運用したところ、[[運動性]]に関しては低速旋回性能はいいが、高速で舵が重いという、他の日本機と同様の評価がなされている{{要出典|date=2012-12}}。

== ハ40の故障と整備 ==
三式戦闘機は日本ではまだ技術の成熟していない液冷エンジンを採用したため、その生産不備や故障、整備の困難性についての指摘が多くなされている。ただし前述の竹田五郎の様に、特に問題にならなかったと証言したものも存在する。しかし多少性能が劣っても確実に飛ぶ一式戦闘機や二式戦闘機を装備し、運用することを望む声もあった{{sfn|渡辺|2002a|p=83}}。

新機材の初期不良は多くの場合に存在する。また当時の滑油、機械油は低温での粘性が高く、滑油冷却器まわりでは必要なところにオイルが供給されないという問題が発生したが、これは冷却器の能力を抑えることで解決した{{sfn|渡辺|2006|p=97}}。初の実戦部隊である第14飛行団でも燃料噴射装置の圧力調整弁{{sfn|渡辺|2006|p=117}}、過給器の故障{{sfn|渡辺|2006|p=117}}、冷却器や滑油の漏れ{{sfn|渡辺|2006|p=117}}などトラブルが続出した。特に油圧系統と燃料噴射ポンプには故障が続出していた{{sfn|渡辺|2006|p=118}}。

和泉 (1994)ではフルカン継手の調整不良による出力低下、燃料噴射ポンプの故障、冷却器等からの油漏れが主な故障とされ{{sfn|和泉|1999|p=43}}、さらに燃料噴射装置の調整に対する整備兵の教育不足{{sfn|和泉|1999|p=23}}などが挙げられている。フルカン継手によるスーパーチャージャーの無段階変速がDB601の特徴であるが、これの調整が適切でないと、全くパワーが出ない。これを地上で調整するには、機体を杭で固定し、オーバーヒートに留意しつつ、ホースでラジエータに水をかけて冷却しながら整備作業を行った{{sfn|碇|2006|pp=129-130}}。

また本来DB 601では、クランク軸をはじめとした重要な部品はニッケル入りの[[クロムモリブデン鋼]]で作られていた。しかし、陸軍はハ40エンジン生産にあたり川崎にニッケル不使用を指示した。当時、冶金学の遅れていた日本では、ニッケルを加えないクロムモリムデン鋼は表面に微細なヒビが入り、品質は悪化、クランク軸折損事故を起こした{{sfn|渡辺|2006|pp=150,156-157}}。[[ハ140]]への生産転換を迎える頃に至ってもハ40の気筒部分の生産歩留まりは50%程度であり{{sfn|古峰|2007|p=147}}、クランク軸の生産もはかどらなかった{{sfn|古峰|2007|p=148}}。またクランク軸の[[ローラーベアリング]]もドイツ製のものと比べて相当に精度が低く{{sfn|碇|2006|pp=133-134}}、クランク軸の破損に繋がった。
[[File:Rudolf Hess Engine-Daimler Benz DB601 From Hess's Messerschmitt BF110 1941.jpg|thumb|right|250px|原型となったDB601エンジン。画像はBf110に搭載されていたもの]]
碇 (2006)によれば基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。鹵獲した外国機などはエンジンの油漏れを起こすことは滅多になく、しかし日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。その他材料、工作、点火プラグなどの部品はもとより、当時の日本は[[電線]]までもビニール被覆などではなく、糸や紙を巻いて絶縁したもので湿気に弱く、またよく漏電した{{sfn|碇|2006|pp=118, 132, 205-206}}。更に戦争後期には熟練工が減少し、動員学徒や女子挺身隊が採用されて生産作業に当たった。このような質的な労働力の低下と無理な増産も部品の劣質化につながった{{sfn|碇|2006|pp=132-133}}。

エンジンの不調に関し、ベアリングなどの工作精度が問題とされる。大戦当時の日本の一般的なベアリング精度は、表面の凹凸が0.012mmから0.015mmであり、これと比べてヨーロッパのSKF社製ベアリングは表面凹凸が0.002mm以内であった<ref>鈴木『エンジンのロマン』413頁</ref>。しかし当時の川崎航空機では使用する全ベアリングの精度を0.002mmから0.003mmに選別し、これを使用した<ref>鈴木『エンジンのロマン』424頁</ref>。ただし選別する労働力は勤労動員の学生など、経験の乏しい働き手が多いことから適切な選別が行われたかには疑問が残る<ref>鈴木『エンジンのロマン』428頁</ref>。

ハ40エンジン生産の主要なネックは、クランク軸ピン部外周が回転中に剥離する問題であった。外周が剥離するのはまず硬度不足のためであり、滲炭処理による硬化技術が不十分だったことによる。さらにローラー自身の形状選択が技術蓄積に乏しく、ローラーの回転が不良であった可能性がある<ref>鈴木『エンジンのロマン』426頁</ref>。他の原因にはクランク軸自体の真円加工の不良が挙げられ、軸加工には1000分の3mm程度の精密さが要求されるが、これを行える機材と加工技術が不足していた可能性がある。

またハ40の試作クランク軸とDB 601のクランク軸には技術に伴う質的差異が見られた。ハ40のクランク軸加工には当初、高周波焼入れが行われた。これは表面硬度不足により運転100時間で剥離を起こし断念された。こののち、ニッケル・クロム・モリブデンを使用した最高級材のイ221材でクランク軸を製作し、滲炭処理による表面硬化加工を施している。このハ40のクランク軸は切断され、顕微鏡で結晶構造が写真解析された。データではDB 601のクランク軸の結晶構造は均質なマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭部の組織が完全なマルテンサイトではなく、焼きが入りきらずにトルースタイトが析出している。また滲炭深さにも問題があり、クランクとベアリングが局所的に噛み合うため、硬化の深度は1.5mm以上が必要であるが、データでは1mm程度の深さから硬度が大きく落ちている。従って製鋼法に問題があったと推定された<ref>鈴木『エンジンのロマン』434-436頁</ref>。

整備に関し、手鏡を芸術的に扱わねば点検できない箇所などもあり{{sfn|渡辺|2006|p=318}}、1943年の暮れには航空審査部飛行実験部長[[今川一策]]大佐は、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を進言した{{sfn|渡辺|2006|p=339}}。

[[ラバウル]]まで三式戦闘機を空輸した飛行第78戦隊(後述)は1943年5月18日「キ61の実用状況」で18項目にわたり各種の故障を報告しているが、その内訳は4月13日から5月10日までに冷却器修理61回、G型冷却器修理98回、E型冷却器修理43回である。特にオイルクーラーの油漏れがひどく、40分から50分の空戦で空になる、などといった記述が見られ、作動油800リットルを使い尽くしたともされる{{sfn|古峰|2007|p=140}}。第78戦隊と68戦隊はその後[[ニューギニア]]に進出するが、発動機の不調は続いた。現地の第4航空軍が1943年10月に中央に提出した意見報告書では、三式戦闘機の稼働率の低さを嘆き、空冷エンジンを装備する[[二式単座戦闘機]]鍾馗の配備を求めるほどだった{{sfn|古峰|2007|p=144}}{{sfn|渡辺|2006|pp=182-183}}。飛行第56戦隊では訓練時に事故が続発したことから「殺人機」と呼ばれた{{sfn|大塚|2007b|p=169}}。

1944年10月からのフィリピン決戦では多くの航空機が空輸されたが、九州・沖縄・台湾と飛行した一式戦闘機の落伍率が4%であったのに対して、三式戦闘機は13%にのぼった{{sfn|渡辺|2006|p=270}}。空冷エンジンの不調の例としては[[誉 (エンジン) |誉 (エンジン) ]]を搭載した最新鋭機・[[四式戦闘機]]の脱落率が20%である{{sfn|渡辺|2006|p=270}}。この時期にはハ40の生産と整備の技術が進歩しており、正規の潤滑油でなく[[ヒマシ油]]で稼働させる様なこともできたらしい{{sfn|渡辺|2006|p=271}}。油漏れは多いが、確実な整備をすれば十分に扱えるとの証言もあり{{sfn|渡辺|2006|p=271}}、特に故障が多い印象はないとするパイロットもいる{{sfn|渡辺|2006|p=274}}。また、1944年7月頃のデータによれば、十分な整備環境があれば70%程度の稼働率が維持されていた。この時点での二式単座戦闘機および四式戦闘機の稼働率は6割から9割とされている{{sfn|渡辺|2006|p=281}}。

最前線や実戦部隊での整備・運用は過酷な作業であった。さらに撤退の際、時間をかけて液冷エンジンに習熟した整備兵を最前線に残置したことも、稼働率を下げた要因の一つである{{sfn|渡辺|2006|p=271}}。更に日本の整備マニュアルは欧米のものに比較して難解で、当時必ずしも学力が高いとは言えなかった、また自動車などにも馴染みのなかった一般的な新任整備兵にとって少々荷が重かったとの指摘もある{{sfn|碇|2006|p=131}}。

1944年には油漏れに対する生産工程レベルでの抜本的改造が講じられた。この処置で一時的に生産量が落ちており、エンジン無しの機体が工場に並ぶことが多くなった{{sfn|古峰|2007|pp=153-154}}。

1942年春から開発開発された{{sfn|渡辺|2006|p=218}}ハ40改良型のハ140は、[[吸気圧]]をあげてエンジン回転数を2,500[[rpm]]から2,750rpmに高め、離昇出力を1,175馬力から1,500馬力に高めるものだった{{sfn|渡辺|2006|p=219}}。[[スーパーチャージャー|過給器]]の大型化とその冷却のために[[水メタノール]]が導入された{{sfn|渡辺|2006|p=219}}。三式戦闘機の場合は95リットルの水メタノールを搭載予定であった{{sfn|渡辺|2006|p=219}}。80kg程度の重量増加のほか{{sfn|古峰|2007|p=146}}基本構造はハ40と大差はなかった。[[航空審査部実行試験部]]では、ハ40と比較してさして整備困難と見てはいなかった{{sfn|渡辺|2006|p=318}}。1944年7月、航空審査部による報告ではハ40より信頼性があるとされている{{sfn|古峰|2007|p=154}}。しかし、冷却水ポンプの不良{{sfn|渡辺|2006|p=219}}、排気弁焼損などで{{sfn|林|1999|p=119}}開発は行き詰まりを見せていた。ハ140は三式戦闘機二型に搭載される予定であったが、エンジンの完成台数は低調であった。このため二型の多くはのちに空冷エンジンを積んで五式戦闘機に改造されることとなった。

愛知で作られていた[[アツタ (エンジン)|アツタ]]もDB 601を基とするエンジンである。これはハ40と異なる独自の発展を遂げ、離昇出力1,400馬力を発揮するアツタ32型が開発されていた{{sfn|古峰|2007|p=148}}。両社が独自に原型を発展させたために互換性は全くないが、1943年11月に軍需省が設立されるとこの発動機にも統一の目が向けられた。なお品質的には川崎のハ40系より愛知のアツタ系の方が良好であったとされる{{sfn|古峰|2007|p=148}}。エンジン統一にあたり、プロペラ取り付け位置や排気管の位置、重心の位置など問題点が列挙され{{sfn|古峰|2007|p=148}}、標準型エンジンは基本をアツタ32型とし、プロペラ軸や過給器をハ140に合わせ、水メタノール噴射装置を加えたものとなった{{sfn|古峰|2007|p=149}}。

=== ラジエーター ===
飛行第78戦隊ではラジエーターの修理を多く報告しており、中でも油漏れが大きな問題とされた。まず水冷却器と[[オイルクーラー|油冷却器]]が一体構成であり、これを機外に降ろす作業が容易ではなかった{{sfn|碇|2006|p=123}}。またオイルタンクはパイロットの足下にあり、これは寒冷地やそれなりの高々度では良い暖房になったが、南方の低高度ではコクピット内が相当に暑くなったようである{{sfn|碇|2006|p=124}}。またこの水油同居形式のラジエーターは、空気取り入れシャッターで各冷却機構の能力を調整するものであったが、調整が難しく、油温の上昇、水漏れなどの不具合が続出した{{sfn|碇|2006|p=130}}。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった{{要出典|date=2012-12}}。なお、水冷方式である本機は地上待機状態であまりエンジンを回すと、すぐに水温が上がり、圧力逃がし弁が開き、蒸気が排出される。これは「お湯を沸かした」などと言われた{{sfn|碇|2006|p=130}}。


== 実戦 ==
== 実戦 ==
=== ラバウル進出 ===
太平洋戦争開戦当時に陸軍が装備していた戦闘機は[[九七式戦闘機]](キ27)が大半であり、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]](キ43)で編成できた飛行部隊はわずか2個[[陸軍飛行戦隊|飛行戦隊]]、[[二式単座戦闘機|二式単座戦闘機「鍾馗」]](キ44)は1個[[独立飛行中隊]]であった。[[南方作戦]]においては少数の一式戦が各戦線に投入されその高性能と操縦者の錬度の高さで想定以上に健闘、各地の[[航空戦術#航空撃滅|航空撃滅戦]]において[[制空権]]の奪取に成功し、[[1942年]](昭和17年)中半以降は従来の九七戦に替わり一式戦が陸軍主力戦闘機となった。しかしながら連合軍の大反抗によりさらなる後継戦闘機の登場が急務となっていた当時、大きな期待を担った本機は同1942年に量産を開始し、[[飛行第68戦隊]]と[[飛行第78戦隊]]の2個飛行戦隊を編成し当時の激戦地である[[ニューギニアの戦い|ニューギニア戦線]]に送られることとなった。しかし同戦隊では錬成時間が短く操縦者らは完全に本機に慣れることができず、先陣として空路[[ニューギニア]]へ飛び立った編隊は、些細な行き違いにより先導機である[[一〇〇式司令部偵察機|一〇〇式司令部偵察機「新司偵」]](キ46)との合流失敗という致命的な事故に、エンジン故障や航法ミスなどが重なったため前線到着前に3割以上の機体を喪失してしまった。
三式戦闘機の実戦配備は、当初から大きなつまずきを見せた。本来海軍の担当戦域であった[[ニューギニア]]・[[ソロモン]]方面の戦況が悪化し、[[1942年]]11月には陸軍航空隊の内、戦闘機2個戦隊(おおよそ39機+予備機若干 × 2)、重爆撃機1個戦隊、軽爆撃機2個戦隊、司偵独立1個中隊の投入が決定された{{sfn|渡辺|2006|p=105}}。12月中旬、ラバウルに[[一式戦闘機]]を装備した[[第12飛行団]]の2個戦闘機戦隊が進出したが、[[B-17]]や敵戦闘機との戦闘で戦力が消耗した。翌1943年3月には新鋭のキ61を装備した[[第14飛行団]]、第68戦隊と第78戦隊の投入が決定された{{sfn|渡辺|2006|pp=106-110}}。


第68戦隊は過酷な戦闘を続け、三式戦乗りの[[エース・パイロット]]を多く輩出した部隊である。1943年8月、[[陸軍航空審査部|陸軍航空審査部飛行実験部]]出身のベテラン[[テスト・パイロット]]である[[木村清]][[少佐]]は戦隊の[[陸軍飛行戦隊#戦隊長|戦隊長]]に着任した。彼は同地で[[戦死]]し[[中佐]]に特進している。[[竹内正吾]]大尉は、一式戦搭乗の[[南郷茂男]]少佐を抑えてニューギニア戦線[[エース・パイロット|トップ・エース]]となった。彼は同地で戦死、少佐へ特進した。[[ノモンハン事件]]の英雄であり叩き上げである[[垂井光義]][[中尉]]は、戦隊壊滅後に同地の地上戦で戦死、大尉に特進している。[[梶並進]][[軍曹]]は戦隊壊滅前に異動し生き残った。
次いで船舶輸送した機材もニューギニアに到着し、定数の上では陣容を整えたものの、エンジンや冷却系統にはトラブルが付きまとい稼働率は低かった。初陣は[[1943年]](昭和18年)7月、同地において第68、78戦隊による邀撃戦と艦船護衛であったが、機材の消耗が進み8月には両戦隊合わせて稼動数6機にまで減少した。戦隊はその後も戦力の回復を図りつつ戦闘を続けた。


第14飛行団の移動開始は遅く、1942年12月に[[ハルピン]]から[[内地]]へ移動した。これは97式戦闘機からキ61へ機種更新を行い、時間的猶予が乏しかったためである。キ61はこの段階でいまだ三式戦闘機として制式化されておらず、隊員たちは機材をキの61と呼んだ{{sfn|渡辺|2006|p=114}}{{sfn|渡辺|2006|p=111}}。新機材は、初期不良を洗い出して直していない段階であり{{sfn|渡辺|2006|p=118}}、川崎側でも不具合を改良していた。整備兵も液冷エンジンの整備をものにしておらず、とても戦闘訓練が行える状態ではなかった{{sfn|渡辺|2006|pp=118-120}}。
中でも第68戦隊は、同年8月に[[陸軍飛行戦隊#戦隊長|戦隊長]]に着任した[[陸軍航空審査部|陸軍航空審査部飛行実験部]]出身のベテランの[[テスト・パイロット]]である[[木村清]][[少佐]](同地で[[戦死]]、[[中佐]]に特進)のもと、一式戦搭乗の[[南郷茂男]]少佐を抑えてニューギニア戦線[[エース・パイロット|トップ・エース]]となった[[竹内正吾]]大尉(同地で戦死、少佐へ特進)、[[ノモンハン事件]]の英雄であり叩き上げである[[垂井光義]][[中尉]](戦隊壊滅後に同地の地上戦で戦死、大尉に特進)、[[梶並進]][[軍曹]](生存、戦隊壊滅前に異動)といった三式戦乗りの[[エース・パイロット]]を輩出している。


各員の非常な努力によって戦力化は急がれたが、68戦隊が進出を行う3月末までに不安を払拭するには至らなかった。68戦隊長[[下山登]](みのる)中佐は陸軍航空本部の[[河辺虎四郎]]少将に対し、3ヵ月ほどの進出延期を願い出たものの、これは認められなかった{{sfn|渡辺|2006|pp=122-124}}。
現地の三式戦と操縦者は、当時既に帝国陸軍では広く用いられていた[[ロッテ戦法]]・[[ロッテ戦法#シュヴァルム戦法|シュヴァルム戦法]]による編隊空戦を第一に、[[一撃離脱戦法]]や[[格闘戦]]を行い、また時にはマウザー砲を駆使し[[アメリカ陸軍航空軍]]の[[P-40 (航空機)|P-40]]・[[P-38 (航空機)|P-38]]・[[P-47 (航空機)|P-47]]・[[B-24 (航空機)|B-24]]・[[B-25 (航空機)|B-25]]を相手に勇戦敢闘するものの、[[1944年]](昭和19年)3月頃には戦力回復は絶望的な状況となり、同年7月には数が大幅に上回るアメリカ軍の徹底的な攻撃により両戦隊とも壊滅、解隊した。


このような経緯を経て、68戦隊には進出予定の3月末までに予備機含め45機ほどのキ61が集められ、[[空母]][[大鷹]]に積載のうえ4月10日には[[トラック諸島]]に到着した。ここから空路で[[ラバウル]]へ向かう事となった。トラックではいくつかの事故が起き、進出の延長がなされた他、不時着により初の戦没者を出した{{sfn|渡辺|2006|p=128-130}}。4月27日、27機がラバウルへ向けて発進した。戦隊本部と第1中隊の12機が先行し、約一時間後に第2中隊と第3中隊の15機が後続するかたちである{{sfn|渡辺|2006|p=131}}。ただし増槽が不足しており、大方の機はこれを1個しか装着しておらず、編隊を組むための空中待機の時間を含めれば、トラックからラバウル間の1,300kmの距離と比較して余裕があるとは言い難い燃料状況であった{{sfn|渡辺|2006|pp=131-132}}。その上、先導するはずだった海軍の[[百式司令部偵察機]]が発進できなかった。渡辺 (2006)の文献ではエンジンの故障によるとしている。このため陸軍飛行隊単独で不慣れな洋上計器飛行を行い、その行程は1,300kmという長大なものであった。更に搭載されていた無線機は不調で、相互の連絡も取れない状況であった{{sfn|渡辺|2006|pp=132-133}}。第一陣の最大の不幸は戦隊長下山機のコンパスが狂っていたことにある。ほぼ真南である175度の進路を取るところを、145度の進路を取っていた<ref group = *>渡辺 (2006)による。碇 (2006) によれば180度に対して150度。</ref>。しかし無線機が全く使えず、戦隊長に誤りを報せることができなかった{{sfn|碇|2006|pp=138-139}}。誤った方向へ飛行を続ける内に、2機がエンジンの不調で自爆した<ref group = *>大海原で不時着水を行ったところで、救助の見込みはほとんど無い。このため海面に突入し、自殺を行う。これは日本軍では「自爆」と言われていた。</ref>。戦隊長は出発後3時間半を経て進路の間違いに気付き、修正を試みたが、既に時機を逸していた。最終的に彼らはラバウル北東の[[ヌグリア諸島]]まで辿り着き、不時着を試みた。ヌグリア諸島には他に1名、他にも多くの機ができるだけラバウルまで接近してから不時着を行った。結局先発隊12機のうち、無事にラバウルに辿り着いたのは僅か1機である。なお、後発隊の15機は恐らく故障により途中で1機を失ったものの、14機が無事にラバウルに到着した。進出作戦の結果は、到着した機体が27機中15機、失った搭乗員3名、喪失機材は10機という惨憺たる結果に終わった。2機はトラックに引き返した可能性がある{{sfn|渡辺|2006|pp=133-140}}{{sfn|古峰|2007|p=142}}。この後、トラック島から6機が追加空輸された。なお第14戦隊司令部はまだ到着していないため、暫定的に第12戦隊の指揮下となった{{sfn|渡辺|2006|p=140}}。
[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピン防衛戦]]の[[ルソン島の戦い]]では、[[飛行第17戦隊|第17]]、[[飛行第18戦隊|18]]、[[飛行第19戦隊|19戦隊]]が対艦攻撃に参加したが、操縦者・整備員とも未熟でかつ数に決定的に劣るために結果は芳しいものではなかった<ref>[[碇義朗]] 『戦闘機 飛燕』 [[廣済堂]]、1977年、p147、p195~196</ref>。


初陣は1943年5月15日、18機で[[97式重爆撃機]]の護衛を行った{{sfn|渡辺|2006|p=141}}。戦隊の使用可能機数は5月末時点で18機{{sfn|渡辺|2006|p=141}}、その後もトラックからの空輸により補充が行われた{{sfn|渡辺|2006|p=147}}。
その後も改良を重ねつつ各地に展開した本機であったが、外地の最前線では補給が困難なこともあり、相変わらず液冷エンジンの不調に悩まされ稼働率は低いままであった。


68戦隊に続き、前線に投入された78戦隊は、1943年4月10日より[[明野飛行学校]]で本格的な機種変更を開始したが{{sfn|渡辺|2006|p=150}}、やはり初期の故障に悩まされ錬成は遅れた。ラバウルへの進出については6月16日から実施された。第68戦隊の航空事故の失敗を繰り返さないため、長距離洋上飛行ではなく、[[宮崎県]]から[[沖縄]]、[[台湾]]、[[マニラ]]、[[ダバオ]]、[[メナド]]、西部ニューギニア、東部ニューギニア、ラバウルの行程で、島伝いの進出が計画された{{sfn|渡辺|2006|pp=152-1533}}。進出した機数は45機、全行程は約9,000kmである{{sfn|渡辺|2006|p=141}}。整備班を載せた輸送機が同行したが故障機が続出した。6月29日にラバウルに到着したのはわずか7機に過ぎなかった{{sfn|渡辺|2006|p=153}}。その後、落伍機の復帰で7月5日までには合計33機がラバウルに進出したが、12機は途中の飛行場に残置せざるを得なかった{{sfn|渡辺|2006|p=153}}。
[[File:The Kawasaki Ki-61 Hien of the 244th squadron.jpg|thumb|300px|right|1945年1月、[[飛行第244戦隊]][[司令部|本部]][[小隊]]([[小林照彦]]戦隊長機)の三式戦一型丙(キ61-I丙)3295号]]
[[日本本土空襲|日本本土防空戦]]では、本機による飛行第18、55、56、244戦隊が敵機の迎撃にあたった。本機は[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]](キ84)などには及ばないものの、当時の日本軍戦闘機の中では優れた速度性能を持ち<ref>試作時に高度10,000mで523km/hの速度を記録。</ref>、また液冷エンジンを採用しているため高高度での性能低下が小さかった<ref>空冷エンジンの場合は大気が希薄な高空では冷却効果が小さくなるため。</ref>。本機は、武装の全部、もしくは一部と[[防弾]]装備の[[装甲]]板(防楯鋼板)を取り外して軽量化する事で、高度8,000m以上の高空を飛行する[[ボーイング]][[B-29_(航空機)|B-29]]に対して、[[二式複座戦闘機|二式複座戦闘機「屠龍」]]や二式単戦と共に迎撃戦が可能な数少ない機体<ref>陸軍主力の一式戦や、海軍主力の[[零式艦上戦闘機|零戦]]ではB-29迎撃戦は困難であった。</ref>として、一定の戦果を収めた。


こうして第14飛行団はラバウルへの進出を完了した。渡辺 (2006)によれば、1943年6月、キ61は「三式戦闘機」の制式呼称を与えられている{{sfn|渡辺|2006|p=153}}。7月8日には実戦を開始した。
特に、東京の[[調布飛行場]]を本拠とした[[帝都]]防空戦闘隊の[[飛行第244戦隊]]が、ときには[[震天制空隊|体当たり戦術]]を併用してB-29を相当数撃墜したことで、本機に対する評価が戦後かなり高くなった傾向がある。艦船に対する一般的な[[特攻]]と違って、空対空特攻の場合、操縦者には[[落下傘]]降下で脱出して生還する事が求められた。しかしながら運動性の悪化する高空にあって、艦船と比べれば小型かつ相対速度が大きなB-29に体当たりする事はかなり困難であった。空対空特別攻撃の効果の程は疑問視されるが、前述の244戦隊では戦隊長・小林照彦少佐自ら体当りによる撃墜、かつ生還に成功している。また、体当たりではなく、機関砲による通常攻撃でB-29を撃墜した例も多い<ref>20mm砲を機首に搭載しているので、重爆迎撃にはもってこいだったと評する元操縦者もいる。</ref>。


=== ニューギニア進出 ===
対戦闘機戦においても有利な条件であれば、時に少数機で倍以上の[[F6F (航空機)|F6F]]と渡り合って撃退、または[[台湾沖航空戦]]時に多数のF6Fに対し[[田形竹尾]][[准尉]]を編隊長とする2機で徹底した一撃離脱を繰り返し、1機不時着のみで勝ち越したという事例もある<ref>田形竹尾 『飛燕対グラマン <small>戦闘機操縦10年の記録</small>』 光人社、2005年</ref>。
[[File:The Kawasaki Ki-61 Hien of the 244th squadron.jpg|thumb|250px|right|1945年1月、[[飛行第244戦隊]][[司令部|本部]][[小隊]]([[小林照彦]]戦隊長機)の三式戦一型丙(キ61-I丙)3295号]]
現地の作戦領域の分担としては、海軍が[[ソロモン諸島]]方面を、陸軍が[[東部ニューギニア]]方面を担当した{{sfn|渡辺|2006|p=159}}。


当初は爆撃機の護衛などを行ったが、やはり稼働率は低く、搭乗員は故障知らずの海軍の[[零式艦上戦闘機]]をうらやんだとされる{{sfn|渡辺|2006|p=159}}。第14飛行団は内地へ引き返す第12飛行団と入れ替わり、7月15日には東部ニューギニアの[[ウエワク]]へ転進した。ここで本格的な作戦が開始される{{sfn|渡辺|2006|p=159}}。7月17日時点で、68戦隊が13機、78戦隊が22機、合計35機の可動機が在った{{sfn|渡辺|2006|p=161}}。8月10日には新編された[[第4航空軍]]の第7飛行師団隷下となった{{sfn|渡辺|2006|p=168}}。
その後、稼働率の低下・エンジンの製作遅延に対し、急場しのぎと言える手法であったが、空冷エンジン[[金星 (エンジン)#金星62型 (ハ112-II)|ハ112-II]]に換装した[[五式戦闘機]](キ100)が優秀な性能を発揮している。液冷から空冷にエンジンを換装してもバランスを崩さず(むしろバラストが不要になり向上している)高性能を発揮した事は本機の設計の優秀さを示すものである。そのため、当初から液冷エンジンにこだわらず[[ハ102]]・[[ハ112]]系列の空冷エンジンを搭載していれば、さらなる活躍もできたとする意見も存在する<ref>[[秋本実]] 『日本の戦闘機・陸軍編』 出版協同社、1961年、p58</ref>。ただしあくまで本機は液冷エンジン搭載を前提にした設計であり、空冷エンジンは一〇〇式司偵の機体生産遅延によりたまたま発生した余剰である。その余剰エンジンに換装しての性能向上は、設計者ですら想定外の結果であった<ref>[[酣燈社]]の[[青木日出雄]]編集長の言によれば「たまたまふたつくっつけたら良いものが出来た」。</ref><ref>設計陣は胴体より径の太いエンジンを取り付けるためにかなり苦労しており、土井は補機類の位置を変更する事無く本機の胴体にハ112-IIを搭載できたのは天佑であったとしている。[[光人社]] 『軍用機メカ・シリーズ2 飛燕&五式戦/[[九九式双発軽爆撃機|九九双軽]]』 </ref>。<!--最初から空冷エンジンを搭載していればという意見は、全くの後知恵である。(空冷エンジン搭載については、以前から航空評論家や五式戦搭乗員の意見として出てましてね。出典を示してそれを説明してます。それを否定した「全くの後知恵である。」とするには出典が必要でしょうね。一応出典提示まで非表示とします。-->


なお1943年半ばには日本陸軍航空隊も前線で[[ロッテ戦術]]を採用しているが、無線電話の性能が悪いためにアメリカ軍機のような連携はとれなかった{{sfn|渡辺|2002b|p=168}}。古峰 (2007) によればこの頃、1943年10月9日、キ61は制式制定され「三式戦闘機」となる{{sfn|古峰|2007|p=143}}。事実上の制定である仮制式制定時期は不詳であるが、渡辺 (2006)では制式呼称の通達を1943年6月としているのは前述の通りである。
== 派生型 ==
; 一型甲(キ61-I 甲)
: 最初の量産型で、12.7mm機関砲([[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103 一式十二・七粍固定機関砲]])が不足していたため、機首に12.7mm機関砲2門と翼内に7.7mm[[機関銃]]([[八九式固定機関銃]]) 2挺を装備。 生産途中で防漏タンクの仕様を変更している。


第14飛行団は主に[[P-38]]を敵として対戦したが、1943年8月17日には連合軍の[[B-25]] 32機、[[P-38]] 85機の戦爆連合による奇襲的な空襲を受けた。この結果、第4航空軍の保有する130機の戦力は40機へ低下した。14飛行団も68戦隊が可動機6機、68戦隊は可動機0機と、壊滅的な損害を受けた{{sfn|渡辺|2006|pp=172-173}}。
; 一型乙(キ61-I 乙)
: 一型甲の翼内銃を12.7mm機関砲に換装、計4門に強化した型。当初計画ではこの砲装備が正規状態。防弾鋼板の追加、胴体内タンク廃止、翼内タンクの防弾等が生産開始後に行われているため燃料タンク総容量が変化している。また、胴体内タンク廃止に関しては一型乙初期型や一型甲にも適用されたと言われている。


その後もマニラで新機材を受領し、空輸を行って戦力の補充に努めた。敵は[[P-40]]、[[P-38]]および新鋭[[P-47]]、[[B-24]]爆撃機、[[B-25]]爆撃機であり、戦隊は激しい戦闘に従事した。新鋭のP-47はP-38ほど一撃離脱に徹しなかったため、むしろ戦いやすかったともされる{{sfn|渡辺|2006|p=188}}が、性能自体は高く、一撃離脱に徹されると脅威であったとの証言もある{{sfn|渡辺|2006|p=198}}}}。
; 一型丙(キ61-I 丙)
[[File:Mauser MG 151.JPG|thumb|right|250px|三脚上に載せられた口径20mmのMG151機関砲。オーストリアの博物館収蔵品。後方はBf109]]
: 翼内銃砲をドイツから輸入した'''マウザー砲'''(マウザーは一時期日本ではモーゼルと呼ばれていたメーカー)([[MG151|MG151/20]])に換装し、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門の重武装にした型。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。 重量増加により運動性は低下したものの、火力・発射速度・弾道性能・命中率の向上により 操縦者の評判はすこぶる良好で、B-24など大型爆撃機に対しても有効だった。
1943年12月にはドイツから輸入した20mmマウザー砲を翼内に装備した三式戦闘機が到着し{{sfn|渡辺|2006|p=197}}、火力面では格段の向上が見られた。しかしこの時期には戦隊の人員・機材とも消耗しており、三式戦闘機の代替として旧式の一式戦闘機を受領、また多くの期間両戦隊を合わせて可動機が20機を越えることが滅多に無い状況であった{{sfn|大塚|2007c|p=173}}。さらに[[アメーバ赤痢]]や[[マラリア]]が蔓延しており、例え機体が補充されたとしても兵員の質の面で戦力の発揮には大きな問題があった{{sfn|碇|2006|p=151}}{{sfn|小山|1996|p=94}}。
: マウザー砲装備の新品補充機として送られた物と、現地換装した物が存在する。


1944年2月にはウエワクの維持が不可能となり[[ホランジア]]へ後退、3月には敵空襲により第14飛行団の可動機は合計5機にまで減少した{{sfn|渡辺|2006|p=199}}。4月22日にはホランジアに米軍が上陸を開始し、7月25日には第14飛行団は解散した{{sfn|渡辺|2006|p=202}}。三式戦闘機のニューギニアでの過酷な戦いは約1年間で幕を閉じた。
; 一型丁(キ61-I 丁)
: 輸入マウザー砲を消費した後も20mm機関砲の搭載が望まれたため、ホ103の拡大版である国産20mm機関砲([[二式二十粍固定機関砲|ホ5 二式二十粍固定機関砲]])を装備し、20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門とした型。ホ5は機首に搭載することとなり、それに伴い機首の延長、[[榴弾]]の[[信管]]過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部に[[バラスト]]を搭載している。翼内から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率向上と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による重量増加により飛行性能全般が低下している。また胴体内タンクが復活、第1肋材から第2肋材間で胴体が200mm延長されている。自重が250から300kg程度増加し最大速度が約30km/h程度低下、特に運動性と上昇力が低下した。 三式戦各型中最多生産型。
: 本型は機体に大改修を加えているため当初「三式戦闘機一型改(キ61-I 改)」と称されたが、のちに「三式戦闘機一型丁(キ61-I 丁)」となった。
: そもそも一型丁は二型(キ61 - II / II 改)の開発遅延を補うための暫定措置として開発されたものであり、本来であれば中つなぎ以上のものではなかったとされる。


=== フィリピン戦線 ===
; キ61 - II
ニューギニアを制圧した米軍の次の目標は[[フィリピン]]であった。一説にはこの頃になると、三式戦闘機は対戦闘機戦闘に不向きと見なされる様になり、敵爆撃機の迎撃任務に回され、制空戦闘については新型の四式戦闘機の方に期待がかけられはじめた{{sfn|大塚|2007c|p=176}}。
: 武装は一型丁と同様とし、エンジンはハ40の改良型である[[ハ40|ハ140]](離昇出力1,400[[馬力]])に換装、主翼および垂直尾翼を増積した型。
: エンジンの不調と生産遅延により8機の試製で開発中止。


1944年2月には'''第22飛行団'''として愛知県小牧で第17戦隊、明野で第19戦隊が編成された{{sfn|渡辺|2006|p=220-221}}。第17戦隊長は開発時より三式戦闘機に携わってきた[[荒蒔義次]]少佐である。飛行団は5月内にマニラに進出し、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]直轄の第2飛行師団に編入された。ただし7月5日には、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]隷下に移動している{{sfn|渡辺|2006|p=232}}。機材の受領と錬成が順調に進まないものの、6月下旬までには35機を揃えてマニラへの進出を完了した{{sfn|近現代史編纂会|2001|p=129}}{{sfn|渡辺|2006|p=233}}。8月末の時点で可動機は第17戦隊が14機、第19戦隊が18機であった{{sfn|渡辺|2006|p=239}}。なお、第4航空軍第7錬成飛行隊の10機程度も戦力として使用が可能で{{sfn|渡辺|2006|p=240}}、三式戦闘機の他には第4航空軍全体で318機、海軍は[[第一航空艦隊]]241機の航空機を用意している{{sfn|渡辺|2006|p=239}}。
; 二型(キ61 - II 改)

: キ61-IIは失敗したが三式戦の性能向上は必要であるため、キ61-IIの胴体に一型丁の主翼をつけ、エンジンをハ140に換装、風防・天蓋がやや大型化した型。
1944年9月21日、第17戦隊(機数不明)と第19戦隊(20機)、大塚の文献によれば合計約40機がアメリカ[[第38任務部隊]]の新鋭艦上戦闘機である[[F6F]]と交戦した。圧倒的多数の敵機との空戦により約25機から少なくとも22機が失われ、第17戦隊はパイロット12名を失う大損害を受けた。第19戦隊も6名、第7錬成飛行隊も2名を失った{{sfn|渡辺|2006|pp=240-244}}{{sfn|大塚|2007c|p=176}}。米軍側の損害は対空砲火によるもの以外皆無もしくは僅少であった{{sfn|大塚|2007c|p=176}}。翌22日も7機で迎撃を行ったが、更に2名の戦死者を出し機体3機を失うも、戦果を得なかった{{sfn|渡辺|2006|pp=240-244}}。
: エンジン不調で大幅な性能向上は果たせなかったが、高度10,000mで編隊飛行が可能なことと爆撃機の攻撃に適するという評価を受け制式採用される。

: しかし31機が完成した後、エンジンの生産を追い越して374機分の機体が完成した。
なお10月10日には台湾に対し第38任務部隊による空襲が行われ、ここに駐屯していた飛行第8師団隷下独立飛行第23中隊の、一式戦闘機2機を含む16機{{sfn|渡辺|2006|pp=245-246}}または17機(パイロット15名){{sfn|田形|1991|p=17}}が爆装で出撃し、[[薄暮攻撃]]で敵艦隊への反撃を企図した。
: これに対しハ140の生産は遅延し、僅か99基のエンジンしか組み立て工場では受領できなかった。

: このうち三分の一が空襲により破壊され、残りの機体はエンジン架と重心等の改造を施し、空冷エンジンのハ112に換装し'''五式戦闘機'''(キ100)となった。
また三式戦闘機の可動機10機による全力攻撃が行われようとしたが、離陸直後を20機のF6Fに襲われ、5機撃墜、3機不時着大破、1機炎上と、壊滅的な損害を受けた{{sfn|渡辺|2006|pp=245-246}}。ただし田形の文献ではこの戦いは制空戦闘であり、敵機は240機が投入されていた。戦闘高度は3,500mとされ、戦闘状況は離陸直後ではない。やはり中隊は全滅するも、敵機10数機を撃墜・撃破したとする{{sfn|田形|1991|pp=18-19}}。台湾にはこのほか一式戦闘機8機、三式戦闘機7機の集成防空第一隊があり、10月12日に行われた飛行第8師団(主力54機、その他27機)による総反撃にも加わっている{{sfn|渡辺|2006|pp=246}}。その内、操縦歴8年のベテランパイロット[[田形竹雄]]准尉は初陣の僚機と2機で敵機36機を迎撃し、有利な体勢から攻撃を開始した。僚機は真戸原忠志軍曹が搭乗しており、22歳の彼は初陣であっても操縦歴4年、飛行時間1,500時間を数えるパイロットだった。また彼は田形の僚機を1年半務めており、田形によれば相当な実力をもっていた{{sfn|田形|1991|p=39}}。何度かの一撃離脱のあと乱戦に移行し、20数分の戦闘を経て力尽き僚機共に撃墜されるも、両者共不時着に成功し生還した。戦果は撃墜6、撃破5を報告した{{sfn|渡辺|2006|pp=247}}{{sfn|田形|1991|pp=37-41}}{{sfn|大塚|2007c|p=177}}。なお、田形はその手記で、三式戦闘機がF6Fに比べ'''40km/h優速であった'''(p.59)ことを敢闘できた要因のひとつとしている。これは三式戦闘機がF6Fに勝利を収めた希有な例である{{sfn|大塚|2007c|p=177}}。
: ただし、全面的に五式戦闘機に移行したのではなく、並行してごく少数の二型改 / 二型後期型と称する水滴形[[キャノピー|天蓋]]としたタイプが存在する。

: このタイプは三型(キ61-III )という旧説も存在しているが、実際の三型(キ61-III )は計画のみのハ240装備型のはず。
フィリピン方面では10月10日までに、第17戦隊の可動機は22機に、第19戦隊は25機にまで回復していた{{sfn|渡辺|2006|pp=248}}。飛行団は戦闘を続け、10月18日に[[捷一号作戦]]が発令、20日には敵はレイテ島に上陸した。敵艦船への攻撃に参加した結果、10月22日までに飛行団の可動機は完全に尽きた{{sfn|渡辺|2006|pp=253}}。24日には苦心して2機から3機の可動機を揃えたが{{sfn|渡辺|2006|pp=253}}、この段階で既に戦闘の大勢は決していた。11月1日には、第19戦隊の生き残りである10名程度のパイロットに本土帰還が命じられた{{sfn|渡辺|2006|pp=253}}。しかし荒蒔戦隊長らを含む第17戦隊は戦闘を続行した。11月頃には第2飛行師団全体で40機程度の戦闘機しか保有しない{{sfn|渡辺|2006|pp=255}}という過酷な戦況の中で戦闘を続け、内地帰還命令が出たのは12月8日である。荒蒔戦隊長がフィリピンを離れたのは翌1945年1月9日のことであった。
: 生産数の少ない三式戦二型の中でこの水滴形タイプはさらに少なく、[[飛行第56戦隊]]に実戦配備されたものの、現存する写真は少ない。

また日本本土侵攻への大きな一歩であるフィリピン作戦には、本土防空任務に当たっていたいくつかの飛行戦隊も投入されている。そのうち、第18飛行戦隊と第55飛行戦隊も三式戦闘機装備部隊であった。

第18戦隊の1型丙は、現地での弾薬補給が困難な20mmマウザー砲の代わりに12.7mm機関砲を装備し、11月11日に35機が出立した。この戦隊は那覇・台湾経由で進出し、18日までに31機がアンヘレス西飛行場に到着した{{sfn|渡辺|2006|pp=258}}。当初は[[四式重爆撃機]]で編成された特攻隊の護衛任務に従事した。ところが11月25日にはF6Fとの空戦に敗れ、可動機は5機にまで減少し、1945年1月には本土に帰還を余儀なくされた{{sfn|近現代史編纂会|2001|p=130}}{{sfn|渡辺|2006|pp=264}}{{sfn|大塚|2007b|p=167}}。

第55戦隊は11月10日に本土を出発した。18日までに約30機または38機<ref group = *>大塚 (2007)、近現代史編纂会 (2001)共に38機が出立とするが、渡辺 (2006) は、到着は約30機とする。</ref>{{sfn|渡辺|2006|pp=259}}{{sfn|大塚|2007b|p=167}}{{sfn|近現代史編纂会|2001|p=148}}がアンヘレス西飛行場に到着した。しかし11月25日には敵P-38の奇襲を受けて7機の損失を出すなど苦戦が続く{{sfn|渡辺|2006|pp=260}}。明けて昭和20年1月9日、アメリカ軍はルソン島に上陸を開始した。1月15日には戦隊に帰還命令が出され、5名の搭乗員は内地へ帰還できたほか{{sfn|大塚|2007b|p=168}}いくらかの人員は台湾への後退に成功したが、地上勤務者の大半は地上部隊に編入され、アメリカ軍との交戦の末に戦死するものが大半を占めた{{sfn|渡辺|2006|ppp=265-266}}。

また19戦隊は本土での戦力回復後台湾へ移動、1945年1月5日頃、1個中隊がフィリピンに再進出した。なお一部は台湾に残置された{{sfn|渡辺|2006|pp=268-269}}。彼らは艦船攻撃や特攻機の援護などを行い、12日までにその戦いの幕を下ろした{{sfn|渡辺|2006|pp=268-269}}{{sfn|近現代史編纂会|2001|p=130}}。

==== 北九州防空戦 ====
1944年6月15日、[[成都]]飛行場を離陸した62機の[[B-29]]は、[[九州]][[福岡県]]の[[八幡製鉄所]]を爆撃した{{sfn|渡辺|2006|p=226}}。この時、第59戦隊は練度不足であり出撃が行えなかった{{sfn|渡辺|2006|p=226}}。その後、7月7日の夜間空襲に5機が迎撃に上がるが会敵できずに終わる{{sfn|渡辺|2006|p=226}}。8月20日、アメリカ第58爆撃航空団の75機に対する迎撃戦で三式戦闘機はB-29と初めて交戦した。59戦隊の出撃可動機は21機であった{{sfn|渡辺|2006|p=227}}。迎撃戦は16時半頃より[[小倉]]・[[八幡]]周辺で行われ、[[二式複戦]](屠龍)を装備する第4戦隊と海軍機も迎撃戦に参加した。米軍は事故機を含め14機を失った{{sfn|渡辺|2006|p=227}}。この戦闘で第59戦隊は撃墜確実1、撃墜不確実3、撃破5を報告した。日本軍全体では撃墜確実24、撃墜不確実13、撃破47と報告している。第59戦隊の損害は機材4機、パイロット喪失1名であった{{sfn|渡辺|2006|p=227}}。

この空襲後、第56戦隊も戦力の一部である17機を[[済州島]]に移し空襲に備えるが、アメリカ軍は目標を[[鞍山]]の[[昭和製鋼所]]に移した。この攻撃は南京の第5錬成飛行団が迎撃を試みた。しばらく北九州での迎撃戦の機会は無かったが{{sfn|渡辺|2006|p=228}}、1944年10月25日に[[長崎県]]大村の[[海軍航空廠]]が爆撃目標となり、その帰路を迎撃した56戦隊は撃墜1、撃破6機以上の戦果を報告している{{sfn|渡辺|2006|p=230}}。成都からのB-29に対する北九州での迎撃戦は、1945年1月6日まで続けられた{{sfn|渡辺|2006|p=231}}。

=== 本土防空戦 ===
{{see also | 震天制空隊}}
[[File:Kawasaki Ki-61 Hien with aircrew.jpeg|thumb|right|250px|飛行第244戦隊、小林照彦戦隊長の三式戦一型丁24号機および隊員。操縦席側面には14機の撃墜マークが記入されている。昭和20年4月撮影<ref>陸軍三式戦闘機「飛燕」73頁</ref>]]
従来、日本本土には[[97式戦闘機]]など旧式機が配備されていたが、性能の不足した機材では敵新型爆撃機の迎撃が不可能だった。[[東京]][[調布]]飛行場に新鋭・三式戦闘機が配備されたのは第14飛行団78戦隊がラバウルへ進出しようとする1943年6月以降であった。これが第三の三式戦闘機部隊、後に帝都の第10飛行師団配下となる、[[調布飛行場]]の飛行第244戦隊である{{sfn|渡辺|2006|p=205}}。やはり配備初期であったため、多くの故障に悩まされたが{{sfn|渡辺|2006|p=208}}、11月には機種改変を終え{{sfn|渡辺|2006|p=212}}、一時期には40機全てにマウザー20mm機関砲を装備した{{sfn|渡辺|2006|p=212}}。1944年2月には[[調布]]で第18戦隊も三式戦闘機での編成を完了した{{sfn|渡辺|2006|p=222}}。また台湾には独立飛行第23中隊が置かれた(前述){{sfn|渡辺|2006|p=220}}。3月には第18飛行団配下に第56戦隊が発足し{{sfn|渡辺|2006|p=224}}、この時点で本土・台湾にはフィリピンに送られる予定の第17戦隊・第19戦隊(前述)を含め、5個飛行団と1個独立飛行中隊が揃えられ{{sfn|渡辺|2006|p=224}}、更に4月末からは第59戦隊が三式戦闘機に機種改変を行った{{sfn|渡辺|2006|p=225}}。

1944年7月7日に[[サイパン]]が陥落、その後日本本土は本格的な空襲に晒された。この時期のB-29による空襲は高々度で行われていたが、[[ターボチャージャー]](排気タービン)を装備し高度10,000mを飛ぶB-29に攻撃を実施するのは非常に困難だった。排気タービンを装備しない日本機のエンジンは高空で出力の低下が著しく、高度10,000mの空域では浮いているだけで限界であり、迎撃方法としてはあらかじめ侵攻方向上に待ち構えて一撃を加えるのが精一杯であった{{sfn|渡辺|2006|pp=279-280}}。B-29に対し、一撃をかければ数千mの高度を失い、高度を回復して追いつくことはできなかった{{sfn|碇|2006|p=200}}。11月に行われた偵察型B-29の迎撃には全て失敗した{{sfn|渡辺|2006|p=282-283}}。1944年11月7日、陸軍は航空機による体当たり部隊を編成、これは[[震天制空隊]]と呼ばれた。三式戦闘機の場合は「はがくれ隊」こと[[飛行第244戦隊]]で4機が編成されている。この機体からは防弾鋼板、機銃、防漏タンクなどが取り外された。武装が積まれた際には機銃弾まで削減し、少しでも軽量化して上昇力を上げ、体当たりを行うコンセプトである。一部の武装はそのままにし射撃しながら突入する戦術も採られた{{sfn|渡辺|2006|p=284, 289-290}}。なお、軽量化を行った状態の三式戦闘機をしても、10,000mまで上昇するのに45分から55分かかり、機首を上げた姿勢で何とか浮いていられるといった状態でしかなかったという{{sfn|渡辺|2006|pp=299-300}}。

はがくれ隊は11月24日の迎撃戦が初陣であった。その後規模を8機に拡大し{{sfn|渡辺|2006|p=288}}、12月3日、隊長の四宮徹中尉が体当たりに成功、損傷した機体を見事に操って基地に着陸を果たした{{sfn|渡辺|2006|p=292}}。板垣政雄伍長も体当たりに成功、落下傘降下で生還したが、敵機の撃墜には至らなかった{{sfn|渡辺|2006|p=293}}。中野松美伍長はB-29の胴体下に潜り込み、プロペラで敵機の水平尾翼をもぎ取り、一説には更に上部に馬乗りになり{{sfn|菊池|2007|p=184}}、自身は不時着・生還する離れ技を見せた{{sfn|渡辺|2006|p=294}}。他の迎撃機も活躍し、この日は6機の損失に対してB-29、6機撃墜、6機被弾(86機出撃)の戦果を上げた{{sfn|渡辺|2006|pp=291, 296}}。こうした撃墜報告は新聞で宣伝され、244戦隊の体当たり部隊は第5震天隊と改称された{{sfn|渡辺|2002a|pp.91-92}}。

1944年1月27日にも大規模な体当たり迎撃が行われ、62機のB-29{{sfn|渡辺|2002a|p=94}}に体当たりが行われた。244戦隊の小林戦隊長は震天隊ではないが体当たりし落下傘で生還{{sfn|渡辺|2002a|p=94}}、他2機が体当たり、1名戦死、1名重傷{{sfn|渡辺|2002a|pp=95-96}}。第5震天隊は1機が突入・戦死したほか、板垣政雄軍曹(先の軍功で進級)は今回の迎撃戦でもまたしても体当たり後落下傘降下で生還。中野松美軍曹(同じく進級)も同様にB-29への肉薄に成功し、胴体と水平尾翼をプロペラで破壊し自らは不時着・帰還した{{sfn|渡辺|2006|p=313-314}}。この日のB-29の損害は9機であった{{sfn|大塚|2007c|p=178}}。

この後、B-29は命中精度の低い高々度爆撃を停止し、比較的低高度での夜間爆撃を多用したため、体当たり攻撃の機会は激減した。三式戦闘機部隊の体当たりは244戦隊で20回、全体で30回に及ぶ{{sfn|渡辺|2006|p=317}}。

1944年12月13日には[[名古屋]]が初空襲される。三式戦闘機装備部隊としてはこの地区には第56戦隊が配置されていたが、フィリピン方面で戦力を消耗し内地に帰還していた第19戦隊や、第55戦隊の残置部隊などもこれの迎撃に当たった{{sfn|渡辺|2006|p=297-298, 308}}。

フィリピンでの敗北後、三式戦闘機の主戦場は本土防空戦のほか、沖縄戦に移った。だが1944年から型式変更を予定した三式戦闘機二型は、新型1,500馬力級液冷エンジンの[[ハ140]]の不調のため生産が全く進まず、わずか99機で生産を停止、空冷エンジンである[[ハ112]]-IIに換装した五式戦闘機へと主力が移っていった。

1945年3月からの[[沖縄戦]]では、本土に在ったほぼ全ての三式戦闘機、ないし五式戦闘機部隊が投入された。九州には[[第六航空軍]]の4個飛行戦隊、台湾には[[第8飛行師団]]の3個戦隊と、1個独立飛行中隊が存在した{{sfn|渡辺|2006|pp=363-364}}。また航続距離の関係上、一部は[[奄美群島]][[喜界島]]に進出し特攻機の護衛を行った{{sfn|渡辺|2006|p=376}}。

これらは当初、[[天一号作戦]]の特攻機の護衛として用いられるとされたが、結局は4月1日には第17戦隊の7機が特攻に投入されたのを皮切りに{{sfn|渡辺|2006|p=369}}、沖縄戦全体では計97機が特攻を行った。これは陸軍の全特攻機の約一割の数字である{{sfn|渡辺|2006|p=386}}。

== 各型式 ==
=== 原型機 キ61 ===
1941年12月製造、初飛行{{sfn|渡辺|2006|p=73}}。試作3機、増加試作9機{{sfn|片渕|2007|pp=90-91}}。以降は特記無き限り川崎航空機岐阜工場での製造。

=== 一型甲 (キ61-I 甲) ===
1942年8月から1943年9月生産{{sfn|片渕|2007|pp=92-93}}。最初の量産型で、12.7mm機関砲([[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103 一式十二・七粍固定機関砲]])が不足しており、さらに信頼性の問題があったため{{sfn|渡辺|2006|pp=94-96}}、機首に12.7mm機関砲2門と翼内に7.7mm[[機関銃]]([[八九式固定機関銃]])2挺を装備した。生産途中で防漏タンクの仕様を変更している{{sfn|渡辺|2006|p=96}}。機体番号113より、388機生産{{sfn|秋本|1999|p=120}}{{sfn|片渕|2007|pp=90-91}}。

=== 一型乙 (キ61-I 乙) ===
1943年9月から1944年4月生産{{sfn|片渕|2007|pp=92-93}}。一型甲の翼内銃を12.7mm機関砲に換装、計4門に強化した型。当初計画ではこの砲の装備が正規状態である。操縦席後方に厚さ8mmの防弾鋼板を追加した{{sfn|渡辺|2006|p=190}}。一部燃料タンクには被弾時の危険性が指摘され、現場レベルでは撤去される例があった。空となった当該タンクには更に欠陥があり、飛行中に弁の不良で他タンクから燃料が流れ込み、機体の重量バランスを大きく狂わせた。また離陸直後の墜落事故についても、このタンクによる重量バランスの狂いが指摘された{{sfn|渡辺|2006|pp=209-211}}。よって乙型の14機目からはこれを廃止している{{sfn|渡辺|2006|p=211}}。また、150機目からは翼内タンクに12mm厚ゴムによる防弾{{sfn|渡辺|2006|pp=190, 211}}が行われている。このため胴体の燃料搭載量は500リットルに減少した{{sfn|渡辺|2006|p=211}}。また引き込み式だった尾輪は生産性向上の為、途中から固定式に改められた{{sfn|渡辺|2006|p=190}}。
生産数は約600機{{sfn|渡辺|2006|p=192}}、或いは592機または603機{{sfn|秋本|1999|p=120}}、または592機{{sfn|片渕|2007|p=96}}。片渕 (2007)によれば機体番号は501から1092であるが、翼内銃を12.7mmにしたのは513または514以降である{{sfn|片渕|2007|pp=90-91}}。ちなみに昭和18年度、陸軍による生産内示機数は6,760機であったという{{sfn|碇|2006|p=154}}。

=== 一型丙 (キ61-I 丙) ===
1943年9月から1944年7月生産。翼内銃砲をドイツから輸入した'''マウザー砲'''(モーゼルとも呼ばれる)([[MG151|MG151/20]])に換装し、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門の重武装にした型。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。陸軍では航空用20mm機関砲の開発が遅れていたため、ドイツから20mm機関砲を輸入した{{sfn|渡辺|2006|pp=192-193}}。数量は800門、弾丸40万発である{{sfn|渡辺|2006|p=194}}。川崎内では「キ61マ式」とも呼ばれた{{sfn|片渕|2007|pp=90-91}}。ただし重量増で飛行性能は低下している{{sfn|古峰|2007|p=144}}。

定説では既存の一型甲、一型乙からの改造機を含めて388機が一型丙となった{{sfn|渡辺|2006|p=194}}。だが川崎において1943年に234機、1944年に153機、合計387機が生産され、現地改修機は存在しないとする資料もみられている{{sfn|古峰|2007|p=143}}。しかし前線の搭乗員の手記でも、現地改修が実際に行われたふしがあるとする証言もみられているほか{{sfn|小山|1992|pp=143, 150}}、碇 (2006)の文献では235機が新規生産で、400からそれを引いた百数十機が現地改造であろうとしている{{sfn|碇|2006|pp=161-162}}。その他にも改修機とは別に400機が川崎で生産されたとの資料もみられる{{sfn|秋本|1999|p=121}}。

なお一型乙の機体番号は514から1092が振られているが、一型丙には3001から3400が振られている{{sfn|片渕|2007|pp=92-93}}。

=== 一型丁 (キ61-I 丁) ===
1944年1月から1945年1月生産。輸入マウザー砲を全て装備した後も20mm機関砲の搭載が望まれたため、ホ103の拡大版である国産20mm機関砲([[二式二十粍固定機関砲|ホ5 二式二十粍固定機関砲]])を搭載した。弾丸の威力はマウザー砲に及ぶものではなかったが、全長が短いため機首に搭載でき、命中力はあがった{{sfn|渡辺|2006|pp=213-217}}。和泉 (1994) p.39では発射速度と初速は遜色なかったものの、故障は多かったとしている。武装は[[ホ5]] 20mm機関砲2門(弾数各120発{{sfn|渡辺|2006|p=216}})・12.7mm機関砲2門とした型。

渡辺 (2006)の文献において、ホ5の搭載に関し、重量物を重心に近づけて機動性を確保し、また命中精度を確保する観点から、サイズの大きなマウザー砲では望めなかった機首に搭載することになったともされるが{{sfn|渡辺|2006|p=213}}。しかし他の文献では、本来マウザー砲と同様に翼内装備としたかったものが翼内に収まりきらず、やむを得ずホ5用の同調装置を開発して機種に搭載したとされている{{sfn|碇|2006|p=164}}{{sfn|和泉|1999|p=40}}。この同調装置とは、プロペラ圏内に装備された機関銃を発砲するに際し、自機のプロペラに弾頭が命中しないよう、プロペラが安全な位置にある時にだけ発射機構を機械的に連結する装置である。航空機黎明時代にはプロペラを強化し、多少弾丸が当たってもこれを弾き飛ばすなどしていたが{{sfn|松代|2007|pp=64-65}}、機銃が強力になるとこの方法は廃れた。20mm機関砲弾では弾頭内部の炸薬によりプロペラが吹き飛ぶ威力があった{{sfn|碇|2006|p=164}}。20mm弾薬は海軍も危険としてプロペラ圏内への機関砲装備を容認しなかった{{sfn|和泉|1999|p=40}}{{sfn|碇|2006|p=165}}。1942年6月5日には土井により、翼厚の関係上主翼への搭載は不可能で、この部分の翼厚を100mm程度に再設計する必要があるとの報告がなされている。再設計と生産設備の転換自体は1週間で完了できる比較的容易なものであった{{sfn|古峰|2007|pp=138-139}}。

武装変更に伴い機首の20cmの延長{{sfn|渡辺|2006|p=213}}{{refnest | group = * | 土井 (1994) によれば、18cm{{sfn|土井|1999|p=100}}。}}、[[榴弾]]の[[信管]]過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部に[[バラスト]]を搭載し{{sfn|渡辺|2006|p=216}}、主翼を4cm前方に移動している{{sfn|渡辺|2006|p=213}}。また、胴体内タンクを95リットルで復活させた{{sfn|渡辺|2006|p=214}}。

翼内から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率向上と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による約250kgの重量増加により飛行性能全般が低下している{{sfn|渡辺|2006|p=217}}。高度6000mでの最高速度は590km/hから580km/hへ、上昇力は5000mまで5分31秒から7分程度へと低下している{{sfn|渡辺|2006|p=217}}。(古峰 (2007) によれば、重量増加は330kg、最大速度は560km/hまで低下{{sfn|古峰|2007|p=143}})。なお、351機目から増槽架を100kg爆弾搭載可能なものにしたとする文献もある{{sfn|片渕|2007|pp=92-93}}。

本型は機体に大改修を加えているため当初「三式戦闘機一型改(キ61-I改)」と称されたが{{refnest | group = * | 片渕(2007)によれば、川崎内では特にこう呼ばれていたらしい。川崎内では「キ61マ式」とも{{sfn|片渕|2007|pp=90-91}}。}}、のちに「三式戦闘機一型丁(キ61-I 丁)」となった{{sfn|渡辺|2006|p=214}}。計画では機体番号4001から4900までの900機の生産であったが、後継の二型が間に合わず、機体番号5354機までが生産された{{sfn|片渕|2007|pp=92-93}}。生産機数は1,358機{{sfn|秋本|1999|p=121}}{{sfn|渡辺|2006|p=217}}、または1,354機{{sfn|片渕|2007|pp=92-93, 96}}と最多である。

なお、「首無し」の機体は後述するハ140搭載の二型のものが有名だが、ハ40の徹底的な改良という要因により供給が不足し、I型についても1944年秋から首無しの機体が増えており、11月には最大の190機を数えていた{{sfn|古峰|2007|p=154}}。

=== キ61-II ===
1942年4月頃より計画され、エンジンはハ40の改良型である[[ハ40|ハ140]](離昇出力1,400[[馬力]])に換装{{sfn|渡辺|2006|p=218}}、主翼をホ5を内蔵できるように再設計、翼面積22m<sup>2</sup>のものとした{{sfn|渡辺|2006|p=218}}{{sfn|古峰|2007|p=146}}。更に垂直安定板を若干増積{{sfn|渡辺|2006|p=218}}、胴体を42cm延長した{{sfn|渡辺|2006|p=218}}。武装は[[ホ5]] 20mm機関砲を4門、またはホ5 2門に12.7mm[[ホ103]] 2門を装備{{sfn|渡辺|2006|p=218}}、最大速度640km/hを目指し{{sfn|渡辺|2006|p=218}}、上昇限度は13,500mとなるはずであった{{sfn|古峰|2007|p=147}}。さらに30mm機関砲[[ホ155]]の搭載も検討されている{{sfn|古峰|2007|p=148}}。

1943年8月に試作器が完成・初飛行したが、エンジン、特に水ポンプの故障の頻発で実用化は遅延した。1943年9月から1944年1月までに試作機を8機生産したものの、空戦性能もあまり芳しくなく、8号機も完成こそ1944年1月とされているが、6月に至ってもやっと発動機空中試験を始める状況で、最終的に計画は中止された{{sfn|古峰|2007|p=153}}{{sfn|片渕|2007|p.94}}{{sfn|渡辺|2006|p=219}}。なおエンジン出力の強化に伴いラジエーターも管長を250mmから300mmとし、冷却力を20%強化している{{sfn|土井|1999|p=100}}。

=== 二型(キ61-II改) ===
1944年2月頃より計画が開始された。キ61-IIの主翼を一型丁のものに戻したもので、このため翼内武装も一型丁と同等のものに戻っている{{sfn|土井|1999|p=102}}{{sfn|渡辺|2006|p=306}}。なお、大型主翼を採用した理由とそれを元に戻した理由は資料が無く、よくわかっていない。従来の主翼にはサイズの問題で20mm機関砲[[ホ5]]が搭載できなかったが、これの搭載のために新たな主翼を用意した可能性のほか、飛行性能の向上のためとする説もある{{sfn|古峰|2007|p=151}}。碇 (2006)は、大型主翼の飛行性能が悪く、速度向上の意味から元のものに戻したとする{{sfn|碇|2006|pp=170-171}}。}}。ほか、主翼を元に戻した理由は古峰文三が以下の様な考察を行っている。当時の二型はエンジンの問題により全力を発揮した飛行試験が充分に行える状態ではないと推測され、比較により性能上の問題が露呈したとは推察しにくい{{sfn|土井|1999|p=101}}。よって、単にホ5の供給不足により、新型主翼に生産を切り替えてこれを搭載する必要がなかったから元の主翼に戻したのではないか、とする説である。

全備重量は355kg増加した。しかし速度は高度6,000mで610km/h、高度8,000mでも591km/hと向上しており、上昇性能も一型丁より改善を見た{{sfn|渡辺|2006|p=306}}。また武装は一型丁と同等だが、機首の20mm機関砲ホ5の弾数が、各120発から200発へと増加した{{sfn|渡辺|2006|p=306}}。また燃料タンクの防弾能力を強化したため、翼内タンクが合計265リットルから210リットルへ低下した{{sfn|渡辺|2006|p=306}}。ハ140を搭載したこの機体は従来のものとは異なり、完全武装状態でも10,000mまで楽に上昇できた{{sfn|渡辺|2006|p=319}}。なお二型機体は、航空審査部飛行実験部に所属する機体のほか、川崎航空機のテストパイロットで編成された川崎防空戦闘隊(隊長は掛長([[係長]])によっても一線部隊に先行して運用された。後者は一型機体と合わせ、B-29、B-25合計3機を撃破し、航空本部長から感謝状を贈られている{{sfn|渡辺|2006|p=322}}。

増加試作機が30機{{sfn|渡辺|2006|p=307}}または36機{{sfn|片渕|2007|p=96}}生産された後、1944年9月より「キ61-II改」として量産が開始された。ハ140が順調に量産され、所期の性能を発揮すれば機体が高性能をあらわすことも可能であったが、機体こそ374機が完成したものの、ハ140に大きな問題が生じていた。生産は遅延し品質も悪かった。生産台数は44年7月に20台納入の予定が8台、8月には40台納入予定が5台、9月には1台のみが完成したに過ぎない{{sfn|渡辺|2006|p=342}}。こうした生産状況からは本機を実用機として戦力化することが極めて困難であった。したがってキ61-II改の生産は100機程度で打ちきられた{{sfn|渡辺|2006|p=342}}。エンジンを搭載し完成機となったものは99機であった。またB-29による爆撃で機体が破壊され、最終的に軍に納入されたのは約60機程度という状況であった{{sfn|土井|1999|p=102}}{{sfn|土井|2002|p=37}}。この後、川崎はキ61-II改の生産を縮小し、[[四式重爆撃機]]を生産するよう指示された{{sfn|古峰|2007|p=152}}。結論としてエンジンの不調および生産遅延が三式戦闘機の大量生産を阻害した。

半完成品となった三式戦闘機の残余である275機は「首無し」の状態で放置された{{sfn|渡辺|2006|pp=306-307}}。これらは後に空冷エンジンを搭載し、後述の五式戦闘機に改造された。定説では二型の機体の生産機数は374機、完成機が99機、5式戦闘機への改造機が275機である。だがこの数字には試作機の39機が入っておらず{{sfn|古峰|2007|p=156}}、また374機という数量には新工場である都城工場で製造された分が計上されていない。古峰によれば川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』「機体之部」では「374+」とされており{{sfn|古峰|2007|p=156}}、実数はやや多く機体生産がなされたのではないかとする説もみられる。

三式戦闘機二型は、エンジンが完調であれば性能自体は良好だった。土井によれば高度10,000mにおいても容易に編隊飛行が行えたと評価される{{sfn|碇|2006|p=203}}{{sfn|土井|1999|p=103}}{{sfn|土井|2002|p=37}}。また本土でB-29の迎撃に当たった第55戦隊の隊員らも、古川戦隊長が故障は見受けられるが同条件ならP-51にも引けを取らないのではないかと評価したほか{{sfn|大塚|2007c|p=178}}、旋回性能だけは一型に劣るが全体的に二型が上である、高度11,000mでも確実に飛行ができる、更にはエンジンの故障も少ないと証言している{{sfn|渡辺|2006|p=382}}。五式戦闘機の登場後も二型が完全に捨てられたわけではなく、五式戦闘機で当座を凌ぎながら信頼性の向上を目指し、1945年6月に40機、7月に40機、8月に10機という補給計画が残されている{{sfn|古峰|2007|p=156}}{{sfn|碇|2006|pp=233-234}}。

さらなる発展型として、キ61-II武強という、ハ140特エンジンに37mm機関砲を[[モーターカノン]]として搭載する計画が存在した。ただしこの名称は古峰 (2007) による便宜的な名称で、正式なものではない。この機体の翼内武装は廃止され、他の武装は機首に20mmホ5が2門のみ装備された。のちにこれは[[キ88]]と呼ばれるものとなり、1943年6月には組み立ての開始が行える状態になったようだが{{sfn|碇|2006|p=183}}、1943年9月、計画は中止された{{sfn|古峰|2007|p=147}}。また正式名称不明であるものの、性能向上型である三型には離昇出力1800馬力の[[ハ240]]の装備が計画されていた{{sfn|古峰|2007|p=146}}{{sfn|大塚|2007a|p=197}}。

=== 五式戦闘機 (キ100) ===
{{Main | 五式戦闘機}}
[[画像:Ki-100 in the RAF Museum 01.jpg|thumb|250px|全幅840mmの胴体に外径1280mmの機首部を取り付けた五式戦闘機。段差の処理に注目]]
五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを星形空冷エンジンに換装した戦闘機である。1945年(昭和20年)に制式採用された。
前述のとおりハ140の生産は遅延し、エンジン未装着の三式戦闘機が多数放置された。早急な戦力化のため、陸軍ではハ140に換えて'''ハ112-II'''を搭載することを計画した。これは日本海軍が感情爆撃機[[彗星]]のアツタエンジンに換えて金星62型エンジンを搭載した経緯と類似している。金星62型エンジン、陸軍名称ハ112-IIは星型空冷であるため、直径こそ121.8cmと{{sfn|渡辺|2006|p=343}}大きいが、離昇出力1,500馬力を発揮するものであった。これは広く部隊に配備されている三式戦闘機一型丁のハ40が発揮する1175馬力より強力で、ハ140の1500馬力に匹敵した。またハ112-IIには水メタノール噴射装置も装備されていた{{sfn|渡辺|2006|p=340}}。航空本部や土井技師は三式戦闘機の空冷換装を前向きに検討開始した。軍需省の意向や川崎航空機のエンジン部門の実戦化への努力等、空冷化に対して考慮すべき点があったものの、戦局と生産の観点から、1944年4月、審査部は川崎に対し内々に三式戦闘機の空冷化を依頼{{sfn|渡辺|2006|pp=341-342}}した。また上記二型の戦力化の失敗により、10月1日には正式に空冷化三式戦闘機・キ100の試作が命じられた{{sfn|渡辺|2006|p=342}}。

三式戦闘機の840mmの胴体に直径1218mm、カウリングなども含めれば外径1280mm{{sfn|土井|1999|p=103}}のハ112-IIをいかに収めるかは、ドイツより輸入されていた[[Fw190|Fw190 A-5]]の機首まわりの処理を参考とした{{sfn|渡辺|2006|pp=343-345}}。エンジンと機体の接続部に生じる段差は[[渦流]]を生じ大きな空気抵抗となるが、この部分にエンジンの推力式単排気管を設置し渦流を吹き飛ばし{{sfn|和泉|1999|p=45}}、最小限の整形のみで空気抵抗を低減する処理を施した。

1944年の12月末には換装のための設計を終え、試作一号機は翌1945年2月1日(または11日)に初飛行を行った{{sfn|渡辺|2006|p=344}}。空冷化により前面投影量が増え、空気抵抗の増加により最高速度が580km/hとなった。これはキ61-II改より30km/hほど低下していた。しかし、空冷化による水冷装置の撤去など軽量化に伴い、上昇力は四式戦闘機を上回るものとなった{{sfn|渡辺|2006|pp=345-346}}。空戦性能は三式戦闘機を上回ると判定され{{sfn|渡辺|2006|pp=350-353}}、三式戦闘機一型丁と比較すれば最高速度においても凌駕した。窮余の策の空冷エンジンへの換装は大成功であった<ref group = *>[[酣燈社]]の[[青木日出雄]]編集長の言によれば「たまたまふたつくっつけたら良いものが出来た」。</ref>。

第59戦隊のパイロットたちも、三式戦闘機を装備運用した時期に比較し、五式戦闘機は敵新鋭戦闘機とも相当に善戦できると評価した{{sfn|渡辺|2006|p=401}}。また何より、稼働率が大きく向上した{{sfn|渡辺|2006|p=345}}。取り敢えずの戦力化・稼働率の向上に加え予想外の高性能を発揮したキ100は、2月には五式戦闘機として制式採用された{{sfn|渡辺|2006|p=346}}。量産機第一号は2月に完成し、3月には36機、4月には89機、5月には131機が生産された{{sfn|渡辺|2006|pp=349, 402}}。生産の停止した三式戦闘機二型に代わって陸軍の主力戦闘機となり、陸軍航空隊はこれを大歓迎する。だが米軍の空襲のため6月は88機、7月は23機にまで生産が落ち込んだ{{sfn|渡辺|2006|p=404}}。8月に生産された10機をもって生産完了し、試作機3機を含め総生産数は390機{{sfn|渡辺|2006|p=404}}または393機{{sfn|秋本|1999|p=121}}程度であった。ほか、生産機数は文献により諸説が存在する。

ただしハ112-IIはハ140より良く稼動したとされるが、やはり新型エンジンであり、信頼性が抜群であったと言うわけではなかった{{sfn|古峰|2007|p=158}}。1945年7月に五式戦闘機を装備した第59戦隊の稼働率が48パーセント、三式戦を装備した第55戦隊の稼働率が62パーセントとのデータもある{{sfn|大塚|2007c|p=180}}。


== 諸元 ==
== 諸元 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 正式名称
! 正式名称
! 三式戦闘機一型乙 !! 三式戦闘機二型
! 三式戦闘機一型乙 !!三式戦闘機一型丁!! 三式戦闘機二型
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|-
! 試作名称
! 試作名称
| キ61-I乙 || キ61-II改
| キ61-I乙 || キ61-I丁 ||キ61-II改
|-
|-
! 全幅
! 全幅
|colspan="2"|12.00m
|colspan="3"|12.00m
|-
|-
! 全長
! 全長
| 8.74m || 9.1565m
| 8.74m|| 8.94m ||9.1565m
|-
|-
! 全高
! 全高
| 3.70m || 3.75m
| colspan="2"|3.70m || 3.75m
|-
|-
! 翼面積
! 翼面積
|colspan="2"| 20m&sup2;
|colspan="3"| 20m&sup2;
|-
|-
! [[翼面荷重]]
! [[翼面荷重]]
| 156.5 kg/m&sup2; || 191.25 kg/m&sup2;
| 156.5 kg/m&sup2; || 173.5 kg/m&sup2; ||191.25 kg/m&sup2;
|-
|-
! [[空虚重量|自重]]
! [[空虚重量|自重]]
| 2,570kg || 2,855kg
| 2,380kg || 2,630kg || 2,855kg
|-
|-
! 正規全備重量
! 正規全備重量
| 3,130kg || 3,825kg
| 3,130kg || 3,470kg || 3,825kg
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|-
! 発動機
! 発動機
| [[ハ40 (エンジン)|ハ40]]離昇1,175馬力 || [[ハ40 (エンジン)|ハ140]]離昇1,500馬力
| colspan="2"|[[ハ40 (エンジン)|ハ40]](離昇1,175馬力) || [[ハ40 (エンジン)|ハ140]](離昇1,500馬力)
|-
|-
! 最高速度
! 最高速度
| 580km/h(高度5,000m) || 610km/h(高度6,000m)
| 590km/h(高度4,860m) || 560km/h(高度5,000m)|| 610km/h(高度6,000m)
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|-
! 上昇力
! 上昇力
| 5,000mまで5分31秒 || 5,000mまで5分00秒
| 5,000mまで5分31秒 || 5,000mまで7分00秒 || 5,000mまで6分00秒
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|-
! 航続距離
! 航続距離
| 1,100km+戦闘20分 または3.65時間(歴史群像)<br>/ 2850km(増槽付) または7.65時間(歴史群像)|| 1,800km(過荷) || 1,600km(過荷)
| 1,800km(正規) || 1,600km(正規)
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! 武装
! 武装
| 胴体12.7mm機関砲2門([[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103]]、携行弾数各250発)、<br/>翼内12.7mm機関砲2門(ホ103、携行弾数各250発
| [[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103]] 12.7mm機関砲 合計4門、<br/>(胴体2門 + 翼内2門、携行弾数各250発)
| 胴体20mm機関砲2門[[二式二十粍固定機関砲|ホ5]]、携行弾数各250、<br/> 翼内12.7mm機関砲2門ホ103、携行弾数各250発
| 胴体20mm機関砲2門([[二式二十粍固定機関砲|ホ5]]、弾数各120)、<br/> 翼内12.7mm機関砲2門([[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103]]、弾数各250発)
| 胴体20mm機関砲2門([[二式二十粍固定機関砲|ホ5]]、弾数各250発)、<br/> 翼内12.7mm機関砲2門([[一式十二・七粍固定機関砲|ホ103]]、弾数各250発)
|-
|-
! 爆装
! 爆装
| 100kg~250kg爆弾2発 || 250kg爆弾2発</td></tr>
| colspan="2"|100kg - 250kg爆弾2発 || 250kg爆弾2発</td></tr>
|-
! 生産数
| 約600機/512機{{sfn|片渕|2007|p.91}} || 1,358機/1,354機{{sfn|片渕|2007|p.91}} || 99機
|}
|}
出典:『日本の戦闘機・陸軍編』<ref>秋本実・著 『日本の戦闘機・陸軍編』 1961年、出版協同社、p116</ref>、<small>航空機の原点</small> 精密図面を読む10 <small>日本陸軍戦闘機編</small><ref>松葉稔 作図・解説『<small>航空機の原点</small> 精密図面を読む10 <small>日本陸軍戦闘機編</small>』2006年、酣燈社、101、p107</ref>、学習研究社 (2007) 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 61『三式戦「飛燕」・五式戦』p.160の折り込み。


出典:日本の戦闘機・陸軍編<ref>秋本実・著 「日本の戦闘機・陸軍編」 1961年、出版協同社、p116</ref>、<small>航空機の原点</small> 精密図面を読む10 <small>日本陸軍戦闘機編</small><ref>松葉稔 作図・解説『<small>航空機の原点</small> 精密図面を読む10 <small>日本陸軍戦闘機編</small>』2006年、酣燈社、101、p107</ref>


== 逸話 ==
== 逸話 ==
* [[ドーリットル空襲]]時、福生飛行場で飛行試験を終え陸軍飛行実験部実験隊(陸軍航空審査部飛行実験部の前身キ61担当主任[[荒蒔義次]]少佐と[[梅川亮三郎]][[准尉]]により、[[水戸陸軍飛行学校]]においてホ103射撃試験中であったキ61試作2号機・3号機B-25を急遽迎撃しており、手持ち代用弾(演習弾)を搭載した梅川機1機機長:E・W・ホームストロム[[少尉]]機)撃破の戦果を残してい<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.63</ref>。
* 1942年4月18日の[[ドーリットル空襲]]時、陸軍航空審査部飛行実験部の前身である陸軍飛行実験部実験隊には、キ61担当主任である[[荒蒔義次]]少佐と[[梅川亮三郎]][[准尉]]がいた。またキ61は福生飛行場で飛行試験を終え、[[水戸陸軍飛行学校]]においてホ103射撃試験中であった。彼らはこのキ61試作2号機・3号機に急遽搭乗し、B-25を迎撃した。これらの機体に搭載されいた演習用徹甲であり、炸裂弾ではないめ命中しても貫通するのみで大型機の撃墜は難しいが{{sfn|渡辺|2006|p=91}}}}、梅川機はB-25の1機に命中弾を浴びせてこれに煙を噴かせた{{sfn|渡辺|2006|p=91}}。このB-25は4番機であり、機長E・W・ホームストロム[[少尉]]が務めてい<ref>渡辺洋二『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』 文春文庫、2002年、p.63</ref>。荒蒔は機体に搭載された実包をマ弾と呼ばれる炸裂弾に換装し離陸、B-25の後を追ったが会敵はできなかった{{sfn|渡辺|2006|p=91}}
** 実弾を搭載し梅川機の後に離陸した荒蒔機がB-25索敵中、その見慣ぬ容姿ゆえに海軍機から敵機と誤認され攻撃を受ける一件があったが、主翼の[[国籍マーク]]を見せることで同士討ちは回避した。逆に、大戦末期にB-29の護衛に[[P-51 (航空機)|P-51]]が初めて飛来した際、これを容姿が似ている本機と誤認して不用意に接近し、撃墜された日本戦闘機が少なからずあったとも言われる<ref>なおP-51欧州戦線において、Bf109と誤認され友軍機・[[対空砲]]に誤射された例がある。</ref>
** 実弾を搭載し梅川機の後に離陸した荒蒔機がB-25索敵中、一線配備さておらず味方周知されていない試験機であるため、海軍機から敵機と誤認され攻撃を受ける一件があったが、主翼の[[国籍マーク]]を見せることで同士討ちは回避した{{sfn|渡辺|2006|p=91}}{{sfn|碇|2006|p=117}}。逆に、大戦末期にB-29の護衛に[[P-51 (航空機)|P-51]]が初めて飛来した際、これを容姿が似ている本機と誤認して不用意に接近し、撃墜された日本戦闘機が少なからずあったとも言われる{{要出典|date=2012-12}}。連合軍側ではP-51欧州戦線において、Bf109と誤認され友軍機・[[対空砲]]に誤射された例がある{{要出典|date=2012-12}}
* 1945年2月17日、二型で試験飛行を行っていた航空審査部の荒蒔義次少佐が、F6Fと遭遇し空中戦を行った。急降下を行った際、[[遷音速]]時に発生する様な現象を体感したと証言している。基地に帰還した後に確認すると、1,000km/hまで測定できる速度計の針が振り切れ破損していた。しかし、機体には異常は無く、速度計以外に故障した部分はなかった<ref>成美堂出版刊 『太平洋戦争・陸海軍航空機』 P.30</ref>。
* P-38の操縦者からは、一式戦よりは幾分速いがP-38ほどではなく、むしろ一式戦ほどの運動性を持たないために組みし易いと評価される一方、降下速度が速く、上空からの攻撃を受けたり、下方離脱で取り逃がすことがあったとの証言もある<ref>『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』、米国陸海軍航空兵との対談記事、文林堂刊。<!--どの巻号か明記してください。雑誌名を提示するだけでは第3者の特定は不可能です。--></ref>。
* 1945年2月17日、二型で試験飛行を行っていた航空審査部の荒蒔義次少佐が、F6Fと遭遇し空中戦を行った。急降下を行った際、[[遷音速]]時に発生する様な現象を体感したと証言している。基地に帰還した後に確認すると、速度計の針が振り切れ破損していた事が確認された。この速度計は1,000km/hまで計測できたが、それが破損していた事から推測すると一時的に1000km/hを超えていたということになる。しかし、機体には異常は無く、速度計以外に故障した部分はなかった。三式戦の機体の堅牢性、優れた急降下性能がうかがい知れるエピソードである<ref>成美堂出版刊 『太平洋戦争・陸海軍航空機』 P.30</ref>。


== 郵便切手 ==
== 郵便切手 ==
{{出典の明記|date=2012-12}}
[[ファイル:Japanese 5sen stamp of Hien.JPG|thumb|185px|right|「旭日と飛燕」5銭切手]]
[[ファイル:Japanese 5sen stamp of Hien.JPG|thumb|185px|right|「旭日と飛燕」5銭切手]]
終戦間際の1945年7月1日(8月1日とする書籍もあり)、[[逓信省|逓信院]]戦時統合により発足した[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]から5月19日に分離し再発足)が発行した5[[通貨の補助単位|銭]]の[[普通切手]]に三式戦闘機「飛燕」が登場している。
終戦間際の1945年7月1日、文献によっては8月1日、[[逓信省|逓信院]]が発行した5[[通貨の補助単位|銭]]の[[普通切手]]に三式戦闘機「飛燕」が登場している。逓信院とは、戦時統合により発足した[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]から5月19日に分離し再発足した組織である。


同切手は「[[プロパガンダ|戦意発揚]]」を目的に公募が行われた入選作品のひとつで採用された図案で、[[太陽]]をバックに飛行する本機が描かれているため「旭日と飛燕」と俗称されている。ただし印刷は物資の欠乏により比較的簡素な[[オフセット印刷|平版印刷]]で、目打も糊も省かれた状態で発行された。また用紙も白紙や灰白紙と異なるもので印刷されたほか、緑色だけでなく青色で印刷されたものがある
同切手は「[[プロパガンダ|戦意発揚]]」を目的に公募が行われた入選作品のひとつで採用された図案で、[[太陽]]をバックに飛行する本機が描かれているため「旭日と飛燕」と俗称されている。ただし印刷は物資の欠乏により比較的簡素な[[オフセット印刷|平版印刷]]で、目打も糊も省かれた状態で発行された。また用紙も白紙や灰白紙と異なるもので印刷されたほか、緑色だけでなく青色で印刷されたものがある


なお、日本の戦闘機が切手に登場したのはこれが世界最初の事例である。また、この切手は[[連合国軍総司令部|GHQ]]から「軍国主義的」であるとして[[1947年]]昭和22年)8月31日付で使用禁止となった、いわゆる「追放切手」となった。もっとも発行当初は[[郵便|第三種便]]一般料金用であったが、戦後は[[インフレーション]]のため、使用禁止された時点では実際に郵便で使用できないほど額面が無価値になっていた。
なお、日本の戦闘機が切手に登場したのはこれが世界最初の事例である。また、この切手は[[連合国軍総司令部|GHQ]]から「軍国主義的」であるとして[[1947年]](昭和22年)8月31日付で使用禁止となった、いわゆる「追放切手」となった。もっとも発行当初は[[郵便|第三種便]]一般料金用であったが、戦後は[[インフレーション]]のため、使用禁止された時点では実際に郵便で使用できないほど額面が無価値になっていた。


== 作品 ==
=== 現存機 ===
本機の現存機には、[[知覧特攻平和会館]]で屋内展示されている二型(キ61-II改)が存在する。戦争中、この機体は[[陸軍航空審査部]]所属であり、終戦直後に[[アメリカ軍]]に接収され、のちに[[日本航空協会]]に譲渡返還されたものである{{sfn|寺田|1999|p=126}}。同機は戦後に大規模な修復を受けているものの{{sfn|寺田|1999|p=126}}、現在良好な状態で保存されている三式戦闘機としては世界で唯一である。日本にはこのほか高知県沖の海中から引き上げられた機体が[[嵐山美術館]]にて、胴体前部と主翼桁のみと言う不完全な状態のものが展示されていたこともある{{sfn|寺田|1999|p=127}}。
「[[IL-2 Sturmovik]] 1946」(コンバットフライトシミュレータゲーム) 一型甲・乙・丙をプレイヤーが操縦することができる。飛行特性の再現も忠実に行われている。

また、オーストリア南部のワンガラッタ市の航空機復元会社に、川崎重工業の現役及びOB社員によるボランティア・グループが協力して飛行可能なように復元中のI型がある<ref>『航空ファン』文林堂、2009年9月号 pp.97-99、2011年9月号 pp.102-104</ref>。


== 注釈 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書|author=秋本実| year = 1999 | contribution = 各型変遷・戦歴・塗装・マーキング | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5|ref={{SfnRef|秋本|1999}}}} - 文中での脚注のほか、各方面に進出した戦隊についても参考とした。
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* {{Citation |和書|author=碇義朗| year = 2006 | title = 戦闘機「飛燕」技術開発の戦い 日本唯一の液例傑作機 | 光人社 | isbn = 4-7698-2137-9|ref={{SfnRef|碇|2006}}}} - 1977年 廣済堂出版より刊行された『戦闘機 飛燕』の加筆修正・文庫版。1976年に「[[東京タイムズ]]」連載。
* {{Citation |和書|author=和泉久| year = 1999 | contribution = INTRODUCTION | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5|ref={{SfnRef|和泉|1999}}}}
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* {{Citation |和書|author=小山進| year = 1996 | title = あ丶飛燕戦闘隊 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0790-2|ref={{SfnRef|小山|1996}}}} - ニューギニア・飛行第68戦隊パイロットの手記。片翼に増槽、片翼に250kg爆弾を搭載して艦船攻撃に出撃したこともあったらしい。
* {{Citation |和書|author=田形竹尾| year = 1991 | contribution = 「飛燕」よ 決戦の大空へはばたけ | series = 証言|昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション | volume = 14 | title = 「飛燕」よ 決戦の大空へはばたけ | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0553-5|ref={{SfnRef|田形|1991}}}}
* {{Citation |和書|author=寺田近雄| year = 1999 | contribution = 現代に息づく名機たちの薄幸の生涯 | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5|ref={{SfnRef|寺田|1999}}}}
* {{Citation |和書|author=土井武夫| year = 1999 | contribution = 三式戦/五式戦の設計と開発 | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5|ref={{SfnRef|土井|1999}}}}
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* {{Citation |和書|author=林貞助| year = 1999 | contribution = 「空冷 vs 液冷」エンジン性能くらべ | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5|ref={{SfnRef|林|1999}}}}
* {{Citation |和書|author=「丸」編集部| year = 1999 | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 2 | title = 飛燕・五式戦 / 九九双軽 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0911-5|ref={{SfnRef|「丸」編集部|1999}}}}
* {{Citation |和書|author=古峰文三| year = 2007 | contribution = 川崎航空機の戦闘機開発系譜と「三式戦」・「キ100」の誕生 第1 - 10章| series = 歴史群像 太平洋戦史シリーズ | volume = 61 | title = 三式戦「飛燕」・五式戦 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-604930-5|ref={{SfnRef|古峰|2007}}}}
* {{Citation |和書|author=松代守弘| year = 2007 | contribution = 検証1 第一次大戦期 ドイツ戦闘機の発達 | series = 歴史群像 第二次大戦欧州戦史シリーズ | volume = 26 | title = ドイツ空軍全史 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-604789-9|ref={{SfnRef|松代|2007}}}}
* {{Citation |和書|author=渡辺洋二| year = 2006 | title = 液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼 | isbn = 4-16-724914-6|ref={{SfnRef|渡辺|2006}}}} - [[朝日ソノラマ]] 1998 『液冷戦闘機「飛燕」』 の加筆・改正・文庫版。なお、それより更に以前に、[[サンケイ出版]] 1983年『「飛燕」苦闘の三式戦闘機』としても出版されている。
* {{Citation |和書|author=渡辺洋二| year = 2002a | contribution = 切り裂くツバメ | title = 遙かなる俊翼 | isbn = 4-16-724911-1|ref={{SfnRef|渡辺|2002a}}}} - この部分の初出は月刊「丸」 1985年4月号。
* {{Citation |和書|author=渡辺洋二| year = 2002b | contribution = 日本戦闘機、身内のライバルを比較する | title = 遙かなる俊翼 | isbn = 4-16-724911-1|ref={{SfnRef|渡辺|2002b}}}} - この部分の初出は月刊「丸」 1989年11月号。
* 鈴木孝『エンジンのロマン』三樹書房、2002年。ISBN 4-89522-287-X
* 『世界の傑作機 陸軍三式戦闘機「飛燕」』文林堂、1989年。ISBN 4-89319-014-8


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kawasaki Ki-61}}
* [[メッサーシュミット_Bf109|Bf 109]]
* [[メッサーシュミット_Bf109|Bf 109]]
* [[MC.202 (航空機)|MC.202]]
* [[MC.202 (航空機)|MC.202]]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.city.minamikyushu.lg.jp/cgi-bin/hpViewContent.cgi?pID=20070920201056&pLang=ja 展示されている戦闘機「飛燕」 知覧特攻平和会館]
* [http://www.city.minamikyushu.lg.jp/cgi-bin/hpViewContent.cgi?pID=20070920201056&pLang=ja 展示されている戦闘機「飛燕」 知覧特攻平和会館]
* [http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/440HIEN.html 川崎 三式戦闘機「飛燕」]<!--抹消されたIP様へ。本サイトは、富士重工提供協力のミュージアム頁であります。個人の宣伝頁に該当しません。-->
* [http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln3/440HIEN.html 川崎 三式戦闘機「飛燕」]

{{大日本帝国陸軍}}
{{大日本帝国陸軍}}



2012年12月27日 (木) 01:04時点における版

キ61三式戦闘機「飛燕」

1944年3月、台湾・松山飛行場に駐屯する第37教育飛行隊所属の三式戦一型甲(キ61-I甲)

1944年3月、台湾松山飛行場に駐屯する第37教育飛行隊所属の三式戦一型甲(キ61-I甲)

三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発製造川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である[1]。ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した、当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機である。最高速度590km/hを発揮し、ニューギニアフィリピンで連合軍と戦い、本土防空戦にも投入された。しかし基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機にしかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。そこで星型空冷エンジンを急遽搭載した日本陸軍最後の制式戦闘機、五式戦闘機が生産された。

概要

ファイル:G tokorozawa .jpg
所沢航空発祥記念館のハ40。ハ40は倒立エンジンであるが、画像ではエンジンの上下が逆に展示されている

本機は、太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン装備機である。当時、同盟国であったドイツダイムラー・ベンツ社製DB 601エンジンは、Bf 109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンであった。日本陸軍はこのDB 601をライセンス生産し、ハ40として三式戦闘機に搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形は水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持つ。その搭載エンジンから「和製メッサー」とも呼ばれたが、エンジンとのちに本機の一部が装備したMG 151/20機関砲以外はBf 109と全く別の設計である。機体設計は川崎設計陣が独自に行ったものであり、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエーター配置、主脚構造などがBf 109と大きく異なる。内部構造的には共通点が少ない。

1941年(昭和16年)12月に初飛行したキ61試作機は最高速度591km/hを発揮し、総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。この数値は設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された[2]。しかし、先行して試作され不採用となったキ60の経緯と同様、水冷エンジンに対する日本の生産能力と整備には問題があった。DB 601は日本の基礎工業力では生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったこと、また日本の整備兵は複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼした。海軍では、DB 601のライセンス生産品であるアツタを採用し彗星艦上爆撃機を量産化していたが、同様にエンジンの不調による稼働率の低迷に悩まされた。さらに、陸軍で採用されたハ40系のエンジンは、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため[3]、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。

愛称・呼称

試作名称であるキ番号キ61であった。制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年(昭和18年))に制式採用されたことに由来する。制式制定は1943年10月9日[4]

愛称は飛燕(ひえん)、部隊での呼称・略称は三式戦ロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。愛称の「飛燕」は1944年後半[5]または1945年以降、三式戦装備の本土防空飛行部隊の活躍を報じる新聞記事により一般にも知られるようになった。碇(2006)の資料によれば、1945年1月の時点で川崎航空機の年表に愛称が見られるともされる[6]。愛称の飛燕アスペクト比の大きい主翼と液冷エンジンゆえのスリムな容姿に因むともされる[要出典]

連合軍におけるコードネームTony(トニー)であった。これはアメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、本機をイタリア空軍マッキ MC.202のコピー機と誤認したことと、三 Three(スリー)の頭文字に因んで名づけられた。[要出典]

本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と呼ぶあだ名があった[7]

総生産機数

総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機であるが、うち275機の機体が五式戦闘機(キ100)に転用されたため、実数はこれよりやや少なく、2,875機前後となる。総生産数は諸説を列挙する。なお二型は通説では増加試作機30機および量産型374機が生産されているが、文献により413機+α機であるとする説もある[8]

  • 片渕 (2007)によれば、各型・試作型合わせて3,153機[9]。または+α[8]
  • 秋本 (1999)によれば、3,148機だが、これより若干多めの可能性も示唆されている[10]
  • 土井 (2002)によれば、I型だけで2,750機。これにII型の8機と二型(II-改)の30+374機を加えると3,162機としている[11]

開発の経緯と機体内部構造

三式戦一型(キ61-I)

1936年、ドイツ液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器フルカン継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用した、先進的なエンジンであった[12]。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機、のちに愛知航空機と呼ばれる企業が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった[12]

川崎の鋳谷社長が土井に語った談として、ヒトラーはこの購入に関し「日本政府として購入すれば50万円で済むのに」なる旨の言を発し[13][14]、また日本の陸海軍は敵同士かと笑ったともされる[15]。渡辺 (2006)などによれば当時の陸海軍の反目がエスカレートしており、別々の購入に至った[15]。また林 (1994)の文献によれば、海軍と陸軍は購入に関して別々に交渉を続けており、在ベルリン海軍事務所から在ベルリン日本大使館陸軍航空補佐官加藤敏雄中佐に、既に海軍側が制作権購入の交渉を始めたので手を引いてくれとの電話が有ったとの逸話が紹介されている[16]。また碇 (2006)の文献では、ダイムラーベンツ社が、道徳上同じ国に二度もライセンス料を払わせる訳にはいかないと一旦辞退を申し出たことが記述されている[17]

以上はライセンス購入に際し陸海軍の対立の定説として語られている顛末であるが、軍事史家である古峰文三は以下のような説を著述している。DB 600(601ではない)は、愛知がライセンスを購入したものの、愛知が陸軍にエンジンを供給することが許されていた。またDB 601については愛知・川崎とも1社のみで全軍に供給できるだけの生産力が期待できず、2社で生産に当たるのはやむを得なかった。2社で生産する以上ライセンス生産料も2社分支払うのが契約上当然であり、また他の発動機も陸海軍で共用している状況から、DB 601の経緯のみに注目して対立の根拠とすることはし難いとしている[18]

ライセンス生産にあたり、ドイツから日本に輸入されたのは離昇出力1,175馬力のDB 601Aaで、燃料噴射装置の特許を持つボッシュ社がライセンス生産を認めないなどのトラブルがあったものの、1940年12月、ハ40は完成を見た。量産型の完成は1941年7月、書類上では同9月である[19]。陸軍は川崎に、DB 601を用いた重戦闘機キ60と、ハ40を用いた軽戦闘機キ61の開発を指示した[20]。設計は土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。

キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、更に12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論で発生した語ともされる[21]。しかし碇 (2006)の文献では、副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている[22]。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もある[23]など、川崎側が発祥であるともされる。

土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている[24][2][23]。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(97式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある[25]。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べている[26]。また、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える引き込み足式の、最大速度480km/hに過ぎない複葉機を計画したこともあった[25]。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された[23]。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある[27]

主翼は全幅12m、面積20m2、アスペクト比7.2という高い比率の翼形を採用した[28][29]。和泉 (1994)の文献によれば、アメリカ軍の戦闘機P-51B型でアスペクト比は5.9、Bf109Eで6.0、零式艦上戦闘機は6.4であった。これらと比較して三式戦闘機の主翼はアスペクト比が高い。これは翼面荷重を低めるよりも翼幅荷重を低めた方が、高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できるという土井の設計思想によるものである[23]。長大な翼幅からくるロール性能の低下は、補助翼(エルロン)の設計でカバーした[29]。またこの主翼の主桁は左右一体構造で作られた頑丈なものであった。当時、主桁はI型断面のものが多く用いられていたが、三式戦闘機は[型のものを上下に組み合わせ、さながら箱形になるかたちのものであり[28]、荷重試験では総重量2,950kgと仮定して主翼に15Gをかけても破壊されず、それ以降の試験を中止した[30][31]。強度過大であることから性能向上のために主翼の軽量化が検討されたが、キ61は既に十分な性能を示していたために見送られた[30]。三式戦闘機は当初計画の2,950kgから、最大で二型の3,800kgにまで総重量が増加しているが、この面での主翼の設計変更は必要が無く、生産が滞ることはなかった[30]

また全幅の広い主翼を用いたことから[32]、主脚のスパンは4.05mと降着に際して十分に安定したものであり、荒地での運用に耐えられるものであった[7]。そのため胴体下部は引き込まれた主脚のタイヤと降着装置で占拠されることなく、燃料タンクやラジエーターの艤装が容易となっている[33]。主翼は片側6本のボルトで胴体に取り付けられているが、これはFw190P-51と類似した取り付け方法である[32]。またこの部分は平らに整形され[33]、将来機体に改造が行われて重心が変わっても、主翼位置の前後修正による重心位置調整が容易である[30][34]

三式戦闘機の胴体および機首は、日本では一般的かつ大直径の空冷星型エンジンを搭載した各種戦闘機と比べ、液冷エンジン搭載の利点が出たものとなった。全幅は840mmである[35]。キ60より全高は100mm抑えられ、1360mmであった[36]。こうした小型化は空気抵抗を減らして高速化に効果がある。機体の分割部分を減らし、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長である[37]

胴体は4本の縦貫通材を骨組みの主材とした。ただしこれらは尾翼直前の第12円框で分離されており、一体構造ではない[38]。この構造は生産性向上に役立ったとされる[39]。本機は量産性にも配慮がなされ、主翼取り付け法も生産性を高めた他、飛行機の外形を作ってから工員が中に入り内装を行う従来の手順を改め、各モジュールを内部まである程度作り上げてから最終的に組み立てるシステムが取られた[40]。機体構造はセミ・モノコック構造となっており[36]、また発動機架は前方で胴体と一体構造となっている。これは一体構造の主翼と相まり、降下限界速度が850km/hまで許容されるなど、機体強度は非常に頑丈なものであった[41][36]。土井によれば速度計は700km/hまでのものが採用された。ただし780km/hまで計測できたとの証言や、のちに1,000km/hまでの速度計に変えられたとの証言もある[42]。この構造は重量軽減にも非常に有効だったとする文献もある[39]。設計主務の土井によれば、三式戦闘機が空中分解を起こした事例は一度もなかった[30]。また真偽不明であるが、土井は同じ文献で、三式戦闘機が音速を突破したケースがあると耳にしたと著している。機体が頑強なことから、不時着も比較的行いやすかったと証言したパイロットもいる[43]

液冷エンジンに不可欠なラジエーターは幅約800mm、高さ約480mmである[44]。このラジエーターは胴体下部中央、すなわちパイロットのやや後方あたりに半埋め込み式として配置された。機体から外には250mmが露出している[44][45]。土井は戦後、同じ箇所にラジエーターを配したP-51を見た時、その気流の処理の見事さに、さすがにアメリカの方が進んでいるとの感想を抱いた[30]。また同時に、このアメリカ軍最優秀機と三式戦闘機のラジエーター処理がほぼ同様であったことは感無量であったともしている[46]。使用された冷却液は化学物質を混合しない通常の淡水であり、冷却するに際して約3.8kg/cm2に液を加圧し、沸点を125度として使用した[47][48]

キャノピーは日本軍機として珍しい形状を採用した。キャノピー後部と胴体が一体化した、空力学的に有利なファストバック方式が採られている[45]。この型式は後方視界が制限され、空戦に際して見張り能力につき指摘される懸念があった。また前下方をのぞき見るための窓が設けられた。視界に関し、実戦部隊からとりたてて指摘はなかったとする文献と[49]、あったとする文献がある[50]。土井によればこのキャノピー形状と前下方をのぞき見るための窓はBf109からの流用である[7]。なお大戦末期、おおよそ1944年12月以降[51]に作られた機体、あるいは五式戦闘機に改造された機体については、日本で一般的な涙滴型風防に改められている[50]

翼下に落下増槽を搭載した三式戦闘機。風防はファストバック形式

三式戦闘機の航続距離は8時間以上、3,200kmを飛行可能であった。長大な航続距離で著名な零式艦上戦闘機に匹敵する飛行能力を持つ[52]。燃料は、機体内に820リットルの燃料を収容し、更に両主翼に200リットルの増槽を懸吊して総計1,220リットルの燃料を確保した。ただしこれは量産型では胴体内755リットル、増槽を合わせて1155リットル搭載、後続距離は7時間40分または3070kmと、若干低下している[53]。和泉 (1994)では一型初期の燃料搭載量は増槽を含め935リットルとしている[54]

しかし1943年、当時ウエワクに在った実戦部隊・第14飛行団では、侵攻行動半径を550km(往復1100kmに一定の戦闘行動分を足したもの)と判断しており、実戦レベルでは航続力が低下していた傾向がある。詳しい原因は不明だが、エンジンの不調や整備不良が想定される[55]。また、第14飛行団では被弾炎上の危険性を避ける観点から、胴体内増設タンクを降ろしていたともされる[56]

木型審査は1941年6月に[57]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った[52]。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが[58]、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった[2][59]。当時の陸軍戦闘機と比較すれば、一式戦闘機は515km/h、二式単座戦闘機は534km/hの最高速度であった[60]。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた[* 1]

なお、川崎側の資料など、一般には試作機には最初からハ40が搭載されていたと言われているが、審査を担当した荒蒔義次らは、3号機までは輸入したDB 601Aaを搭載していたと証言している。また、ハ40を搭載した4号機からは過給器の不調が多かった[61]。量産型第一号機は1942年8月に完成した[62]

日本陸軍では20mm機関砲の開発が遅れたために、武装は12.7mm機関銃ホ103を採用した。しかしこの時期のホ103の信頼性には懸念が持たれており、採用は機首の2門にとどめ、主翼の2門は7.7mm八九式固定機関銃を装備している[63]。燃料タンクは被弾に対して若干の防弾能力が付与されている。308機目までは3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで防漏しており、388機目までは上面9mm、側面6mm厚のゴムで覆われた。[53]。量産機は1942年末までに34機、エンジンは65台が完成した[64]

飛行性能

試作時、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全ての比較領域においてBf109-Eを凌駕した[46]。特に最高速度は30km/h優速であった[46]

1942年秋頃、福生で「戦闘機研究会」という名称の比較試験が行われた。内容は日本陸軍戦闘機および月光雷電などの日本海軍戦闘機と、P-40Eハリケーン、Bf-109Eなど諸外国機を集めて性能比較を行うものであった。キ61は速度の優勢のほか旋回半径の小ささで外国機に比べて勝り、格闘戦では有利と考え得るものであった[65]。海軍側は三式戦闘機に関し、座席よし、舵やや重きも釣り合いよし、安定性よし、前方視界悪し、上昇悪し、急降下時は舵が非常に重いが座り・出足ともによし、と評価している[66]

三式戦闘機の操縦性には特筆すべき癖や問題はなかった。補助翼・昇降舵の操作にはロッド式が採用され[67]、方向舵には操縦索(ワイヤー)式が採用されている[68]。なお1942年12月21日の「戦闘機研究会」では、本機に試乗した海軍パイロットの一人は操舵系統の良好さに強い感心を示し、陸軍にその秘密を質問した。同席していた土井の答えは、液冷戦闘機独特の縦に細長い長方形状の胴体形状が影響しているのでは、というものであった[69]

本機の降下制限速度は850km/hと、非常に頑丈な機体である。軽量化を強く追求した零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/hであり、零戦52型甲でも740km/hである[70]

三式戦闘機は離昇出力1175馬力のハ40を搭載する戦闘機であり、1型甲の全備重量は3,170kgである。同質のエンジンを搭載するBf109Eを上昇力で凌駕すると説明する資料があるものの、大塚(2007)の文献中の表では、三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている[71]。出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった[72]。また上昇力の不足は、前述の「戦闘機研究会」で海軍側の指摘にも表れている。

米軍戦闘機との戦いも必ずしも有利なものではなかった。ウエワクの第14飛行団のパイロットの証言によれば、P-40とは互角またはそれ以上に戦えた[73]。しかしP-38と対戦した場合、速度はP-38が有利で機動性は三式戦闘機が有利とであり、空戦性能で互角だが、火力面で不利があった[74]。さらにP-38相手には劣速であり、格闘戦に持ち込めば勝てるにせよ、アメリカ軍機の一撃離脱戦法は格闘戦そのものを発生させず持ち込みようがなかった[74]。したがって三式戦が勝つ手段は奇襲以外に打つ手が無い状況であり[74]、多少弾を当ててもアメリカ軍機は防弾性能が高く落とせない[75]、また搭載する無線機が使い物にならず隊内での連携に円滑を欠いて大きなハンディがある[76]と、相当な苦戦をみていた[77]

陸士第55期、後年の統合幕僚会議議長となった竹田五郎大尉飛行第244戦隊で三式戦に搭乗した。彼は本機の欠点を「離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事」と指摘した。一方でハ40については、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している[78]

アメリカ軍機から判定した三式戦闘機の空戦能力

当初アメリカ軍は、本機がBf109である可能性を考慮したが、Bf109のラジエーターは主翼に設置されており形状が異なるために、イタリアのマッキ202のコピーと判断していた[77]。このため、三式戦闘機にはイタリア人男性に多い「Antony」(アンソニー)をもじった「Tony」というコードネームがつけられた[77]。その後の調査で日本のオリジナル機とわかり、1943年11月の「航空機識別帳」に記載された[79]

アメリカ軍のパイロットには、三式戦闘機とは戦いやすかったと判断する傾向があった[80]。火力と降下性能は従来の日本機より優秀だが、上昇性能・速度性能共に優れてはおらず、旋回性もP-40に対して互角であり、総じてP-40Nと互角と判断していた[79]。またP-38から見れば、三式戦闘機は他の日本戦闘機に比べて多少優速だが、P-38の最高速度に及ぶものではなく、更に格闘戦も他の日本機より苦手であるために対戦しやすかった[81]。ただし三式戦闘機は、敵機が他の日本機、例とすれば零式艦上戦闘機や一式戦闘機に対して取った戦術同様、降下で離脱しようとした時、これに食い付くことができた[81]。また1944年のフィリピン戦で三式戦闘機を相手としたF6Fのパイロットも、他の日本機より戦いやすかったとしているようだ[82]

前線のパイロットからの評価と対照的に、アメリカ軍が1943年に鹵獲機体を用いた評価・試験の結果「陸海軍合同識別帳」がまとめられ、この資料の中では三式戦闘機を「重武装と良好な防弾性能を備えた素晴らしい機体」[81]と高評価している。また日本本土での迎撃戦において最も活動したのはTonyであったと評している[83]。なお1945年のレポートでは、ハ140を搭載した三式戦闘機二型 - TonyIIについて、高度8,500mで最大速度680km/hなどと過大な表記がみられている[84]

アメリカ軍が戦後に接収した機体をテスト運用したところ、運動性に関しては低速旋回性能はいいが、高速で舵が重いという、他の日本機と同様の評価がなされている[要出典]

ハ40の故障と整備

三式戦闘機は日本ではまだ技術の成熟していない液冷エンジンを採用したため、その生産不備や故障、整備の困難性についての指摘が多くなされている。ただし前述の竹田五郎の様に、特に問題にならなかったと証言したものも存在する。しかし多少性能が劣っても確実に飛ぶ一式戦闘機や二式戦闘機を装備し、運用することを望む声もあった[80]

新機材の初期不良は多くの場合に存在する。また当時の滑油、機械油は低温での粘性が高く、滑油冷却器まわりでは必要なところにオイルが供給されないという問題が発生したが、これは冷却器の能力を抑えることで解決した[70]。初の実戦部隊である第14飛行団でも燃料噴射装置の圧力調整弁[85]、過給器の故障[85]、冷却器や滑油の漏れ[85]などトラブルが続出した。特に油圧系統と燃料噴射ポンプには故障が続出していた[86]

和泉 (1994)ではフルカン継手の調整不良による出力低下、燃料噴射ポンプの故障、冷却器等からの油漏れが主な故障とされ[47]、さらに燃料噴射装置の調整に対する整備兵の教育不足[54]などが挙げられている。フルカン継手によるスーパーチャージャーの無段階変速がDB601の特徴であるが、これの調整が適切でないと、全くパワーが出ない。これを地上で調整するには、機体を杭で固定し、オーバーヒートに留意しつつ、ホースでラジエータに水をかけて冷却しながら整備作業を行った[87]

また本来DB 601では、クランク軸をはじめとした重要な部品はニッケル入りのクロムモリブデン鋼で作られていた。しかし、陸軍はハ40エンジン生産にあたり川崎にニッケル不使用を指示した。当時、冶金学の遅れていた日本では、ニッケルを加えないクロムモリムデン鋼は表面に微細なヒビが入り、品質は悪化、クランク軸折損事故を起こした[88]ハ140への生産転換を迎える頃に至ってもハ40の気筒部分の生産歩留まりは50%程度であり[89]、クランク軸の生産もはかどらなかった[90]。またクランク軸のローラーベアリングもドイツ製のものと比べて相当に精度が低く[91]、クランク軸の破損に繋がった。

原型となったDB601エンジン。画像はBf110に搭載されていたもの

碇 (2006)によれば基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。鹵獲した外国機などはエンジンの油漏れを起こすことは滅多になく、しかし日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。その他材料、工作、点火プラグなどの部品はもとより、当時の日本は電線までもビニール被覆などではなく、糸や紙を巻いて絶縁したもので湿気に弱く、またよく漏電した[92]。更に戦争後期には熟練工が減少し、動員学徒や女子挺身隊が採用されて生産作業に当たった。このような質的な労働力の低下と無理な増産も部品の劣質化につながった[93]

エンジンの不調に関し、ベアリングなどの工作精度が問題とされる。大戦当時の日本の一般的なベアリング精度は、表面の凹凸が0.012mmから0.015mmであり、これと比べてヨーロッパのSKF社製ベアリングは表面凹凸が0.002mm以内であった[94]。しかし当時の川崎航空機では使用する全ベアリングの精度を0.002mmから0.003mmに選別し、これを使用した[95]。ただし選別する労働力は勤労動員の学生など、経験の乏しい働き手が多いことから適切な選別が行われたかには疑問が残る[96]

ハ40エンジン生産の主要なネックは、クランク軸ピン部外周が回転中に剥離する問題であった。外周が剥離するのはまず硬度不足のためであり、滲炭処理による硬化技術が不十分だったことによる。さらにローラー自身の形状選択が技術蓄積に乏しく、ローラーの回転が不良であった可能性がある[97]。他の原因にはクランク軸自体の真円加工の不良が挙げられ、軸加工には1000分の3mm程度の精密さが要求されるが、これを行える機材と加工技術が不足していた可能性がある。

またハ40の試作クランク軸とDB 601のクランク軸には技術に伴う質的差異が見られた。ハ40のクランク軸加工には当初、高周波焼入れが行われた。これは表面硬度不足により運転100時間で剥離を起こし断念された。こののち、ニッケル・クロム・モリブデンを使用した最高級材のイ221材でクランク軸を製作し、滲炭処理による表面硬化加工を施している。このハ40のクランク軸は切断され、顕微鏡で結晶構造が写真解析された。データではDB 601のクランク軸の結晶構造は均質なマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭部の組織が完全なマルテンサイトではなく、焼きが入りきらずにトルースタイトが析出している。また滲炭深さにも問題があり、クランクとベアリングが局所的に噛み合うため、硬化の深度は1.5mm以上が必要であるが、データでは1mm程度の深さから硬度が大きく落ちている。従って製鋼法に問題があったと推定された[98]

整備に関し、手鏡を芸術的に扱わねば点検できない箇所などもあり[99]、1943年の暮れには航空審査部飛行実験部長今川一策大佐は、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を進言した[100]

ラバウルまで三式戦闘機を空輸した飛行第78戦隊(後述)は1943年5月18日「キ61の実用状況」で18項目にわたり各種の故障を報告しているが、その内訳は4月13日から5月10日までに冷却器修理61回、G型冷却器修理98回、E型冷却器修理43回である。特にオイルクーラーの油漏れがひどく、40分から50分の空戦で空になる、などといった記述が見られ、作動油800リットルを使い尽くしたともされる[101]。第78戦隊と68戦隊はその後ニューギニアに進出するが、発動機の不調は続いた。現地の第4航空軍が1943年10月に中央に提出した意見報告書では、三式戦闘機の稼働率の低さを嘆き、空冷エンジンを装備する二式単座戦闘機鍾馗の配備を求めるほどだった[102][103]。飛行第56戦隊では訓練時に事故が続発したことから「殺人機」と呼ばれた[104]

1944年10月からのフィリピン決戦では多くの航空機が空輸されたが、九州・沖縄・台湾と飛行した一式戦闘機の落伍率が4%であったのに対して、三式戦闘機は13%にのぼった[105]。空冷エンジンの不調の例としては誉 (エンジン) を搭載した最新鋭機・四式戦闘機の脱落率が20%である[105]。この時期にはハ40の生産と整備の技術が進歩しており、正規の潤滑油でなくヒマシ油で稼働させる様なこともできたらしい[106]。油漏れは多いが、確実な整備をすれば十分に扱えるとの証言もあり[106]、特に故障が多い印象はないとするパイロットもいる[107]。また、1944年7月頃のデータによれば、十分な整備環境があれば70%程度の稼働率が維持されていた。この時点での二式単座戦闘機および四式戦闘機の稼働率は6割から9割とされている[108]

最前線や実戦部隊での整備・運用は過酷な作業であった。さらに撤退の際、時間をかけて液冷エンジンに習熟した整備兵を最前線に残置したことも、稼働率を下げた要因の一つである[106]。更に日本の整備マニュアルは欧米のものに比較して難解で、当時必ずしも学力が高いとは言えなかった、また自動車などにも馴染みのなかった一般的な新任整備兵にとって少々荷が重かったとの指摘もある[109]

1944年には油漏れに対する生産工程レベルでの抜本的改造が講じられた。この処置で一時的に生産量が落ちており、エンジン無しの機体が工場に並ぶことが多くなった[110]

1942年春から開発開発された[111]ハ40改良型のハ140は、吸気圧をあげてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmに高め、離昇出力を1,175馬力から1,500馬力に高めるものだった[112]過給器の大型化とその冷却のために水メタノールが導入された[112]。三式戦闘機の場合は95リットルの水メタノールを搭載予定であった[112]。80kg程度の重量増加のほか[113]基本構造はハ40と大差はなかった。航空審査部実行試験部では、ハ40と比較してさして整備困難と見てはいなかった[99]。1944年7月、航空審査部による報告ではハ40より信頼性があるとされている[114]。しかし、冷却水ポンプの不良[112]、排気弁焼損などで[115]開発は行き詰まりを見せていた。ハ140は三式戦闘機二型に搭載される予定であったが、エンジンの完成台数は低調であった。このため二型の多くはのちに空冷エンジンを積んで五式戦闘機に改造されることとなった。

愛知で作られていたアツタもDB 601を基とするエンジンである。これはハ40と異なる独自の発展を遂げ、離昇出力1,400馬力を発揮するアツタ32型が開発されていた[90]。両社が独自に原型を発展させたために互換性は全くないが、1943年11月に軍需省が設立されるとこの発動機にも統一の目が向けられた。なお品質的には川崎のハ40系より愛知のアツタ系の方が良好であったとされる[90]。エンジン統一にあたり、プロペラ取り付け位置や排気管の位置、重心の位置など問題点が列挙され[90]、標準型エンジンは基本をアツタ32型とし、プロペラ軸や過給器をハ140に合わせ、水メタノール噴射装置を加えたものとなった[116]

ラジエーター

飛行第78戦隊ではラジエーターの修理を多く報告しており、中でも油漏れが大きな問題とされた。まず水冷却器と油冷却器が一体構成であり、これを機外に降ろす作業が容易ではなかった[117]。またオイルタンクはパイロットの足下にあり、これは寒冷地やそれなりの高々度では良い暖房になったが、南方の低高度ではコクピット内が相当に暑くなったようである[118]。またこの水油同居形式のラジエーターは、空気取り入れシャッターで各冷却機構の能力を調整するものであったが、調整が難しく、油温の上昇、水漏れなどの不具合が続出した[119]。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった[要出典]。なお、水冷方式である本機は地上待機状態であまりエンジンを回すと、すぐに水温が上がり、圧力逃がし弁が開き、蒸気が排出される。これは「お湯を沸かした」などと言われた[119]

実戦

ラバウル進出

三式戦闘機の実戦配備は、当初から大きなつまずきを見せた。本来海軍の担当戦域であったニューギニアソロモン方面の戦況が悪化し、1942年11月には陸軍航空隊の内、戦闘機2個戦隊(おおよそ39機+予備機若干 × 2)、重爆撃機1個戦隊、軽爆撃機2個戦隊、司偵独立1個中隊の投入が決定された[120]。12月中旬、ラバウルに一式戦闘機を装備した第12飛行団の2個戦闘機戦隊が進出したが、B-17や敵戦闘機との戦闘で戦力が消耗した。翌1943年3月には新鋭のキ61を装備した第14飛行団、第68戦隊と第78戦隊の投入が決定された[121]

第68戦隊は過酷な戦闘を続け、三式戦乗りのエース・パイロットを多く輩出した部隊である。1943年8月、陸軍航空審査部飛行実験部出身のベテランテスト・パイロットである木村清少佐は戦隊の戦隊長に着任した。彼は同地で戦死中佐に特進している。竹内正吾大尉は、一式戦搭乗の南郷茂男少佐を抑えてニューギニア戦線トップ・エースとなった。彼は同地で戦死、少佐へ特進した。ノモンハン事件の英雄であり叩き上げである垂井光義中尉は、戦隊壊滅後に同地の地上戦で戦死、大尉に特進している。梶並進軍曹は戦隊壊滅前に異動し生き残った。

第14飛行団の移動開始は遅く、1942年12月にハルピンから内地へ移動した。これは97式戦闘機からキ61へ機種更新を行い、時間的猶予が乏しかったためである。キ61はこの段階でいまだ三式戦闘機として制式化されておらず、隊員たちは機材をキの61と呼んだ[122][123]。新機材は、初期不良を洗い出して直していない段階であり[86]、川崎側でも不具合を改良していた。整備兵も液冷エンジンの整備をものにしておらず、とても戦闘訓練が行える状態ではなかった[124]

各員の非常な努力によって戦力化は急がれたが、68戦隊が進出を行う3月末までに不安を払拭するには至らなかった。68戦隊長下山登(みのる)中佐は陸軍航空本部の河辺虎四郎少将に対し、3ヵ月ほどの進出延期を願い出たものの、これは認められなかった[125]

このような経緯を経て、68戦隊には進出予定の3月末までに予備機含め45機ほどのキ61が集められ、空母大鷹に積載のうえ4月10日にはトラック諸島に到着した。ここから空路でラバウルへ向かう事となった。トラックではいくつかの事故が起き、進出の延長がなされた他、不時着により初の戦没者を出した[126]。4月27日、27機がラバウルへ向けて発進した。戦隊本部と第1中隊の12機が先行し、約一時間後に第2中隊と第3中隊の15機が後続するかたちである[127]。ただし増槽が不足しており、大方の機はこれを1個しか装着しておらず、編隊を組むための空中待機の時間を含めれば、トラックからラバウル間の1,300kmの距離と比較して余裕があるとは言い難い燃料状況であった[128]。その上、先導するはずだった海軍の百式司令部偵察機が発進できなかった。渡辺 (2006)の文献ではエンジンの故障によるとしている。このため陸軍飛行隊単独で不慣れな洋上計器飛行を行い、その行程は1,300kmという長大なものであった。更に搭載されていた無線機は不調で、相互の連絡も取れない状況であった[129]。第一陣の最大の不幸は戦隊長下山機のコンパスが狂っていたことにある。ほぼ真南である175度の進路を取るところを、145度の進路を取っていた[* 2]。しかし無線機が全く使えず、戦隊長に誤りを報せることができなかった[130]。誤った方向へ飛行を続ける内に、2機がエンジンの不調で自爆した[* 3]。戦隊長は出発後3時間半を経て進路の間違いに気付き、修正を試みたが、既に時機を逸していた。最終的に彼らはラバウル北東のヌグリア諸島まで辿り着き、不時着を試みた。ヌグリア諸島には他に1名、他にも多くの機ができるだけラバウルまで接近してから不時着を行った。結局先発隊12機のうち、無事にラバウルに辿り着いたのは僅か1機である。なお、後発隊の15機は恐らく故障により途中で1機を失ったものの、14機が無事にラバウルに到着した。進出作戦の結果は、到着した機体が27機中15機、失った搭乗員3名、喪失機材は10機という惨憺たる結果に終わった。2機はトラックに引き返した可能性がある[131][132]。この後、トラック島から6機が追加空輸された。なお第14戦隊司令部はまだ到着していないため、暫定的に第12戦隊の指揮下となった[133]

初陣は1943年5月15日、18機で97式重爆撃機の護衛を行った[134]。戦隊の使用可能機数は5月末時点で18機[134]、その後もトラックからの空輸により補充が行われた[135]

68戦隊に続き、前線に投入された78戦隊は、1943年4月10日より明野飛行学校で本格的な機種変更を開始したが[136]、やはり初期の故障に悩まされ錬成は遅れた。ラバウルへの進出については6月16日から実施された。第68戦隊の航空事故の失敗を繰り返さないため、長距離洋上飛行ではなく、宮崎県から沖縄台湾マニラダバオメナド、西部ニューギニア、東部ニューギニア、ラバウルの行程で、島伝いの進出が計画された[137]。進出した機数は45機、全行程は約9,000kmである[134]。整備班を載せた輸送機が同行したが故障機が続出した。6月29日にラバウルに到着したのはわずか7機に過ぎなかった[138]。その後、落伍機の復帰で7月5日までには合計33機がラバウルに進出したが、12機は途中の飛行場に残置せざるを得なかった[138]

こうして第14飛行団はラバウルへの進出を完了した。渡辺 (2006)によれば、1943年6月、キ61は「三式戦闘機」の制式呼称を与えられている[138]。7月8日には実戦を開始した。

ニューギニア進出

1945年1月、飛行第244戦隊本部小隊(小林照彦戦隊長機)の三式戦一型丙(キ61-I丙)3295号

現地の作戦領域の分担としては、海軍がソロモン諸島方面を、陸軍が東部ニューギニア方面を担当した[139]

当初は爆撃機の護衛などを行ったが、やはり稼働率は低く、搭乗員は故障知らずの海軍の零式艦上戦闘機をうらやんだとされる[139]。第14飛行団は内地へ引き返す第12飛行団と入れ替わり、7月15日には東部ニューギニアのウエワクへ転進した。ここで本格的な作戦が開始される[139]。7月17日時点で、68戦隊が13機、78戦隊が22機、合計35機の可動機が在った[140]。8月10日には新編された第4航空軍の第7飛行師団隷下となった[141]

なお1943年半ばには日本陸軍航空隊も前線でロッテ戦術を採用しているが、無線電話の性能が悪いためにアメリカ軍機のような連携はとれなかった[142]。古峰 (2007) によればこの頃、1943年10月9日、キ61は制式制定され「三式戦闘機」となる[4]。事実上の制定である仮制式制定時期は不詳であるが、渡辺 (2006)では制式呼称の通達を1943年6月としているのは前述の通りである。

第14飛行団は主にP-38を敵として対戦したが、1943年8月17日には連合軍のB-25 32機、P-38 85機の戦爆連合による奇襲的な空襲を受けた。この結果、第4航空軍の保有する130機の戦力は40機へ低下した。14飛行団も68戦隊が可動機6機、68戦隊は可動機0機と、壊滅的な損害を受けた[143]

その後もマニラで新機材を受領し、空輸を行って戦力の補充に努めた。敵はP-40P-38および新鋭P-47B-24爆撃機、B-25爆撃機であり、戦隊は激しい戦闘に従事した。新鋭のP-47はP-38ほど一撃離脱に徹しなかったため、むしろ戦いやすかったともされる[144]が、性能自体は高く、一撃離脱に徹されると脅威であったとの証言もある[145]}}。

三脚上に載せられた口径20mmのMG151機関砲。オーストリアの博物館収蔵品。後方はBf109

1943年12月にはドイツから輸入した20mmマウザー砲を翼内に装備した三式戦闘機が到着し[146]、火力面では格段の向上が見られた。しかしこの時期には戦隊の人員・機材とも消耗しており、三式戦闘機の代替として旧式の一式戦闘機を受領、また多くの期間両戦隊を合わせて可動機が20機を越えることが滅多に無い状況であった[77]。さらにアメーバ赤痢マラリアが蔓延しており、例え機体が補充されたとしても兵員の質の面で戦力の発揮には大きな問題があった[147][148]

1944年2月にはウエワクの維持が不可能となりホランジアへ後退、3月には敵空襲により第14飛行団の可動機は合計5機にまで減少した[149]。4月22日にはホランジアに米軍が上陸を開始し、7月25日には第14飛行団は解散した[150]。三式戦闘機のニューギニアでの過酷な戦いは約1年間で幕を閉じた。

フィリピン戦線

ニューギニアを制圧した米軍の次の目標はフィリピンであった。一説にはこの頃になると、三式戦闘機は対戦闘機戦闘に不向きと見なされる様になり、敵爆撃機の迎撃任務に回され、制空戦闘については新型の四式戦闘機の方に期待がかけられはじめた[151]

1944年2月には第22飛行団として愛知県小牧で第17戦隊、明野で第19戦隊が編成された[152]。第17戦隊長は開発時より三式戦闘機に携わってきた荒蒔義次少佐である。飛行団は5月内にマニラに進出し、南方軍直轄の第2飛行師団に編入された。ただし7月5日には、第4航空軍隷下に移動している[153]。機材の受領と錬成が順調に進まないものの、6月下旬までには35機を揃えてマニラへの進出を完了した[154][155]。8月末の時点で可動機は第17戦隊が14機、第19戦隊が18機であった[156]。なお、第4航空軍第7錬成飛行隊の10機程度も戦力として使用が可能で[157]、三式戦闘機の他には第4航空軍全体で318機、海軍は第一航空艦隊241機の航空機を用意している[156]

1944年9月21日、第17戦隊(機数不明)と第19戦隊(20機)、大塚の文献によれば合計約40機がアメリカ第38任務部隊の新鋭艦上戦闘機であるF6Fと交戦した。圧倒的多数の敵機との空戦により約25機から少なくとも22機が失われ、第17戦隊はパイロット12名を失う大損害を受けた。第19戦隊も6名、第7錬成飛行隊も2名を失った[158][151]。米軍側の損害は対空砲火によるもの以外皆無もしくは僅少であった[151]。翌22日も7機で迎撃を行ったが、更に2名の戦死者を出し機体3機を失うも、戦果を得なかった[158]

なお10月10日には台湾に対し第38任務部隊による空襲が行われ、ここに駐屯していた飛行第8師団隷下独立飛行第23中隊の、一式戦闘機2機を含む16機[159]または17機(パイロット15名)[160]が爆装で出撃し、薄暮攻撃で敵艦隊への反撃を企図した。

また三式戦闘機の可動機10機による全力攻撃が行われようとしたが、離陸直後を20機のF6Fに襲われ、5機撃墜、3機不時着大破、1機炎上と、壊滅的な損害を受けた[159]。ただし田形の文献ではこの戦いは制空戦闘であり、敵機は240機が投入されていた。戦闘高度は3,500mとされ、戦闘状況は離陸直後ではない。やはり中隊は全滅するも、敵機10数機を撃墜・撃破したとする[161]。台湾にはこのほか一式戦闘機8機、三式戦闘機7機の集成防空第一隊があり、10月12日に行われた飛行第8師団(主力54機、その他27機)による総反撃にも加わっている[162]。その内、操縦歴8年のベテランパイロット田形竹雄准尉は初陣の僚機と2機で敵機36機を迎撃し、有利な体勢から攻撃を開始した。僚機は真戸原忠志軍曹が搭乗しており、22歳の彼は初陣であっても操縦歴4年、飛行時間1,500時間を数えるパイロットだった。また彼は田形の僚機を1年半務めており、田形によれば相当な実力をもっていた[163]。何度かの一撃離脱のあと乱戦に移行し、20数分の戦闘を経て力尽き僚機共に撃墜されるも、両者共不時着に成功し生還した。戦果は撃墜6、撃破5を報告した[164][165][82]。なお、田形はその手記で、三式戦闘機がF6Fに比べ40km/h優速であった(p.59)ことを敢闘できた要因のひとつとしている。これは三式戦闘機がF6Fに勝利を収めた希有な例である[82]

フィリピン方面では10月10日までに、第17戦隊の可動機は22機に、第19戦隊は25機にまで回復していた[166]。飛行団は戦闘を続け、10月18日に捷一号作戦が発令、20日には敵はレイテ島に上陸した。敵艦船への攻撃に参加した結果、10月22日までに飛行団の可動機は完全に尽きた[167]。24日には苦心して2機から3機の可動機を揃えたが[167]、この段階で既に戦闘の大勢は決していた。11月1日には、第19戦隊の生き残りである10名程度のパイロットに本土帰還が命じられた[167]。しかし荒蒔戦隊長らを含む第17戦隊は戦闘を続行した。11月頃には第2飛行師団全体で40機程度の戦闘機しか保有しない[168]という過酷な戦況の中で戦闘を続け、内地帰還命令が出たのは12月8日である。荒蒔戦隊長がフィリピンを離れたのは翌1945年1月9日のことであった。

また日本本土侵攻への大きな一歩であるフィリピン作戦には、本土防空任務に当たっていたいくつかの飛行戦隊も投入されている。そのうち、第18飛行戦隊と第55飛行戦隊も三式戦闘機装備部隊であった。

第18戦隊の1型丙は、現地での弾薬補給が困難な20mmマウザー砲の代わりに12.7mm機関砲を装備し、11月11日に35機が出立した。この戦隊は那覇・台湾経由で進出し、18日までに31機がアンヘレス西飛行場に到着した[169]。当初は四式重爆撃機で編成された特攻隊の護衛任務に従事した。ところが11月25日にはF6Fとの空戦に敗れ、可動機は5機にまで減少し、1945年1月には本土に帰還を余儀なくされた[170][171][172]

第55戦隊は11月10日に本土を出発した。18日までに約30機または38機[* 4][43][172][173]がアンヘレス西飛行場に到着した。しかし11月25日には敵P-38の奇襲を受けて7機の損失を出すなど苦戦が続く[174]。明けて昭和20年1月9日、アメリカ軍はルソン島に上陸を開始した。1月15日には戦隊に帰還命令が出され、5名の搭乗員は内地へ帰還できたほか[175]いくらかの人員は台湾への後退に成功したが、地上勤務者の大半は地上部隊に編入され、アメリカ軍との交戦の末に戦死するものが大半を占めた[176]

また19戦隊は本土での戦力回復後台湾へ移動、1945年1月5日頃、1個中隊がフィリピンに再進出した。なお一部は台湾に残置された[177]。彼らは艦船攻撃や特攻機の援護などを行い、12日までにその戦いの幕を下ろした[177][170]

北九州防空戦

1944年6月15日、成都飛行場を離陸した62機のB-29は、九州福岡県八幡製鉄所を爆撃した[178]。この時、第59戦隊は練度不足であり出撃が行えなかった[178]。その後、7月7日の夜間空襲に5機が迎撃に上がるが会敵できずに終わる[178]。8月20日、アメリカ第58爆撃航空団の75機に対する迎撃戦で三式戦闘機はB-29と初めて交戦した。59戦隊の出撃可動機は21機であった[179]。迎撃戦は16時半頃より小倉八幡周辺で行われ、二式複戦(屠龍)を装備する第4戦隊と海軍機も迎撃戦に参加した。米軍は事故機を含め14機を失った[179]。この戦闘で第59戦隊は撃墜確実1、撃墜不確実3、撃破5を報告した。日本軍全体では撃墜確実24、撃墜不確実13、撃破47と報告している。第59戦隊の損害は機材4機、パイロット喪失1名であった[179]

この空襲後、第56戦隊も戦力の一部である17機を済州島に移し空襲に備えるが、アメリカ軍は目標を鞍山昭和製鋼所に移した。この攻撃は南京の第5錬成飛行団が迎撃を試みた。しばらく北九州での迎撃戦の機会は無かったが[180]、1944年10月25日に長崎県大村の海軍航空廠が爆撃目標となり、その帰路を迎撃した56戦隊は撃墜1、撃破6機以上の戦果を報告している[181]。成都からのB-29に対する北九州での迎撃戦は、1945年1月6日まで続けられた[182]

本土防空戦

飛行第244戦隊、小林照彦戦隊長の三式戦一型丁24号機および隊員。操縦席側面には14機の撃墜マークが記入されている。昭和20年4月撮影[183]

従来、日本本土には97式戦闘機など旧式機が配備されていたが、性能の不足した機材では敵新型爆撃機の迎撃が不可能だった。東京調布飛行場に新鋭・三式戦闘機が配備されたのは第14飛行団78戦隊がラバウルへ進出しようとする1943年6月以降であった。これが第三の三式戦闘機部隊、後に帝都の第10飛行師団配下となる、調布飛行場の飛行第244戦隊である[184]。やはり配備初期であったため、多くの故障に悩まされたが[185]、11月には機種改変を終え[186]、一時期には40機全てにマウザー20mm機関砲を装備した[186]。1944年2月には調布で第18戦隊も三式戦闘機での編成を完了した[187]。また台湾には独立飛行第23中隊が置かれた(前述)[188]。3月には第18飛行団配下に第56戦隊が発足し[189]、この時点で本土・台湾にはフィリピンに送られる予定の第17戦隊・第19戦隊(前述)を含め、5個飛行団と1個独立飛行中隊が揃えられ[189]、更に4月末からは第59戦隊が三式戦闘機に機種改変を行った[190]

1944年7月7日にサイパンが陥落、その後日本本土は本格的な空襲に晒された。この時期のB-29による空襲は高々度で行われていたが、ターボチャージャー(排気タービン)を装備し高度10,000mを飛ぶB-29に攻撃を実施するのは非常に困難だった。排気タービンを装備しない日本機のエンジンは高空で出力の低下が著しく、高度10,000mの空域では浮いているだけで限界であり、迎撃方法としてはあらかじめ侵攻方向上に待ち構えて一撃を加えるのが精一杯であった[191]。B-29に対し、一撃をかければ数千mの高度を失い、高度を回復して追いつくことはできなかった[192]。11月に行われた偵察型B-29の迎撃には全て失敗した[193]。1944年11月7日、陸軍は航空機による体当たり部隊を編成、これは震天制空隊と呼ばれた。三式戦闘機の場合は「はがくれ隊」こと飛行第244戦隊で4機が編成されている。この機体からは防弾鋼板、機銃、防漏タンクなどが取り外された。武装が積まれた際には機銃弾まで削減し、少しでも軽量化して上昇力を上げ、体当たりを行うコンセプトである。一部の武装はそのままにし射撃しながら突入する戦術も採られた[194]。なお、軽量化を行った状態の三式戦闘機をしても、10,000mまで上昇するのに45分から55分かかり、機首を上げた姿勢で何とか浮いていられるといった状態でしかなかったという[195]

はがくれ隊は11月24日の迎撃戦が初陣であった。その後規模を8機に拡大し[196]、12月3日、隊長の四宮徹中尉が体当たりに成功、損傷した機体を見事に操って基地に着陸を果たした[197]。板垣政雄伍長も体当たりに成功、落下傘降下で生還したが、敵機の撃墜には至らなかった[198]。中野松美伍長はB-29の胴体下に潜り込み、プロペラで敵機の水平尾翼をもぎ取り、一説には更に上部に馬乗りになり[199]、自身は不時着・生還する離れ技を見せた[200]。他の迎撃機も活躍し、この日は6機の損失に対してB-29、6機撃墜、6機被弾(86機出撃)の戦果を上げた[201]。こうした撃墜報告は新聞で宣伝され、244戦隊の体当たり部隊は第5震天隊と改称された[202]

1944年1月27日にも大規模な体当たり迎撃が行われ、62機のB-29[203]に体当たりが行われた。244戦隊の小林戦隊長は震天隊ではないが体当たりし落下傘で生還[203]、他2機が体当たり、1名戦死、1名重傷[204]。第5震天隊は1機が突入・戦死したほか、板垣政雄軍曹(先の軍功で進級)は今回の迎撃戦でもまたしても体当たり後落下傘降下で生還。中野松美軍曹(同じく進級)も同様にB-29への肉薄に成功し、胴体と水平尾翼をプロペラで破壊し自らは不時着・帰還した[205]。この日のB-29の損害は9機であった[83]

この後、B-29は命中精度の低い高々度爆撃を停止し、比較的低高度での夜間爆撃を多用したため、体当たり攻撃の機会は激減した。三式戦闘機部隊の体当たりは244戦隊で20回、全体で30回に及ぶ[206]

1944年12月13日には名古屋が初空襲される。三式戦闘機装備部隊としてはこの地区には第56戦隊が配置されていたが、フィリピン方面で戦力を消耗し内地に帰還していた第19戦隊や、第55戦隊の残置部隊などもこれの迎撃に当たった[207]

フィリピンでの敗北後、三式戦闘機の主戦場は本土防空戦のほか、沖縄戦に移った。だが1944年から型式変更を予定した三式戦闘機二型は、新型1,500馬力級液冷エンジンのハ140の不調のため生産が全く進まず、わずか99機で生産を停止、空冷エンジンであるハ112-IIに換装した五式戦闘機へと主力が移っていった。

1945年3月からの沖縄戦では、本土に在ったほぼ全ての三式戦闘機、ないし五式戦闘機部隊が投入された。九州には第六航空軍の4個飛行戦隊、台湾には第8飛行師団の3個戦隊と、1個独立飛行中隊が存在した[208]。また航続距離の関係上、一部は奄美群島喜界島に進出し特攻機の護衛を行った[209]

これらは当初、天一号作戦の特攻機の護衛として用いられるとされたが、結局は4月1日には第17戦隊の7機が特攻に投入されたのを皮切りに[210]、沖縄戦全体では計97機が特攻を行った。これは陸軍の全特攻機の約一割の数字である[211]

各型式

原型機 キ61

1941年12月製造、初飛行[212]。試作3機、増加試作9機[213]。以降は特記無き限り川崎航空機岐阜工場での製造。

一型甲 (キ61-I 甲)

1942年8月から1943年9月生産[214]。最初の量産型で、12.7mm機関砲(ホ103 一式十二・七粍固定機関砲)が不足しており、さらに信頼性の問題があったため[215]、機首に12.7mm機関砲2門と翼内に7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)2挺を装備した。生産途中で防漏タンクの仕様を変更している[53]。機体番号113より、388機生産[216][213]

一型乙 (キ61-I 乙)

1943年9月から1944年4月生産[214]。一型甲の翼内銃を12.7mm機関砲に換装、計4門に強化した型。当初計画ではこの砲の装備が正規状態である。操縦席後方に厚さ8mmの防弾鋼板を追加した[56]。一部燃料タンクには被弾時の危険性が指摘され、現場レベルでは撤去される例があった。空となった当該タンクには更に欠陥があり、飛行中に弁の不良で他タンクから燃料が流れ込み、機体の重量バランスを大きく狂わせた。また離陸直後の墜落事故についても、このタンクによる重量バランスの狂いが指摘された[217]。よって乙型の14機目からはこれを廃止している[218]。また、150機目からは翼内タンクに12mm厚ゴムによる防弾[219]が行われている。このため胴体の燃料搭載量は500リットルに減少した[218]。また引き込み式だった尾輪は生産性向上の為、途中から固定式に改められた[56]。 生産数は約600機[220]、或いは592機または603機[216]、または592機[221]。片渕 (2007)によれば機体番号は501から1092であるが、翼内銃を12.7mmにしたのは513または514以降である[213]。ちなみに昭和18年度、陸軍による生産内示機数は6,760機であったという[222]

一型丙 (キ61-I 丙)

1943年9月から1944年7月生産。翼内銃砲をドイツから輸入したマウザー砲(モーゼルとも呼ばれる)(MG151/20)に換装し、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門の重武装にした型。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。陸軍では航空用20mm機関砲の開発が遅れていたため、ドイツから20mm機関砲を輸入した[223]。数量は800門、弾丸40万発である[224]。川崎内では「キ61マ式」とも呼ばれた[213]。ただし重量増で飛行性能は低下している[102]

定説では既存の一型甲、一型乙からの改造機を含めて388機が一型丙となった[224]。だが川崎において1943年に234機、1944年に153機、合計387機が生産され、現地改修機は存在しないとする資料もみられている[4]。しかし前線の搭乗員の手記でも、現地改修が実際に行われたふしがあるとする証言もみられているほか[225]、碇 (2006)の文献では235機が新規生産で、400からそれを引いた百数十機が現地改造であろうとしている[226]。その他にも改修機とは別に400機が川崎で生産されたとの資料もみられる[227]

なお一型乙の機体番号は514から1092が振られているが、一型丙には3001から3400が振られている[214]

一型丁 (キ61-I 丁)

1944年1月から1945年1月生産。輸入マウザー砲を全て装備した後も20mm機関砲の搭載が望まれたため、ホ103の拡大版である国産20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)を搭載した。弾丸の威力はマウザー砲に及ぶものではなかったが、全長が短いため機首に搭載でき、命中力はあがった[228]。和泉 (1994) p.39では発射速度と初速は遜色なかったものの、故障は多かったとしている。武装はホ5 20mm機関砲2門(弾数各120発[229])・12.7mm機関砲2門とした型。

渡辺 (2006)の文献において、ホ5の搭載に関し、重量物を重心に近づけて機動性を確保し、また命中精度を確保する観点から、サイズの大きなマウザー砲では望めなかった機首に搭載することになったともされるが[230]。しかし他の文献では、本来マウザー砲と同様に翼内装備としたかったものが翼内に収まりきらず、やむを得ずホ5用の同調装置を開発して機種に搭載したとされている[231][232]。この同調装置とは、プロペラ圏内に装備された機関銃を発砲するに際し、自機のプロペラに弾頭が命中しないよう、プロペラが安全な位置にある時にだけ発射機構を機械的に連結する装置である。航空機黎明時代にはプロペラを強化し、多少弾丸が当たってもこれを弾き飛ばすなどしていたが[233]、機銃が強力になるとこの方法は廃れた。20mm機関砲弾では弾頭内部の炸薬によりプロペラが吹き飛ぶ威力があった[231]。20mm弾薬は海軍も危険としてプロペラ圏内への機関砲装備を容認しなかった[232][234]。1942年6月5日には土井により、翼厚の関係上主翼への搭載は不可能で、この部分の翼厚を100mm程度に再設計する必要があるとの報告がなされている。再設計と生産設備の転換自体は1週間で完了できる比較的容易なものであった[235]

武装変更に伴い機首の20cmの延長[230][* 5]榴弾信管過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部にバラストを搭載し[229]、主翼を4cm前方に移動している[230]。また、胴体内タンクを95リットルで復活させた[236]

翼内から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率向上と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による約250kgの重量増加により飛行性能全般が低下している[237]。高度6000mでの最高速度は590km/hから580km/hへ、上昇力は5000mまで5分31秒から7分程度へと低下している[237]。(古峰 (2007) によれば、重量増加は330kg、最大速度は560km/hまで低下[4])。なお、351機目から増槽架を100kg爆弾搭載可能なものにしたとする文献もある[214]

本型は機体に大改修を加えているため当初「三式戦闘機一型改(キ61-I改)」と称されたが[* 6]、のちに「三式戦闘機一型丁(キ61-I 丁)」となった[236]。計画では機体番号4001から4900までの900機の生産であったが、後継の二型が間に合わず、機体番号5354機までが生産された[214]。生産機数は1,358機[227][237]、または1,354機[238]と最多である。

なお、「首無し」の機体は後述するハ140搭載の二型のものが有名だが、ハ40の徹底的な改良という要因により供給が不足し、I型についても1944年秋から首無しの機体が増えており、11月には最大の190機を数えていた[114]

キ61-II

1942年4月頃より計画され、エンジンはハ40の改良型であるハ140(離昇出力1,400馬力)に換装[111]、主翼をホ5を内蔵できるように再設計、翼面積22m2のものとした[111][113]。更に垂直安定板を若干増積[111]、胴体を42cm延長した[111]。武装はホ5 20mm機関砲を4門、またはホ5 2門に12.7mmホ103 2門を装備[111]、最大速度640km/hを目指し[111]、上昇限度は13,500mとなるはずであった[89]。さらに30mm機関砲ホ155の搭載も検討されている[90]

1943年8月に試作器が完成・初飛行したが、エンジン、特に水ポンプの故障の頻発で実用化は遅延した。1943年9月から1944年1月までに試作機を8機生産したものの、空戦性能もあまり芳しくなく、8号機も完成こそ1944年1月とされているが、6月に至ってもやっと発動機空中試験を始める状況で、最終的に計画は中止された[239][240][112]。なおエンジン出力の強化に伴いラジエーターも管長を250mmから300mmとし、冷却力を20%強化している[44]

二型(キ61-II改)

1944年2月頃より計画が開始された。キ61-IIの主翼を一型丁のものに戻したもので、このため翼内武装も一型丁と同等のものに戻っている[241][242]。なお、大型主翼を採用した理由とそれを元に戻した理由は資料が無く、よくわかっていない。従来の主翼にはサイズの問題で20mm機関砲ホ5が搭載できなかったが、これの搭載のために新たな主翼を用意した可能性のほか、飛行性能の向上のためとする説もある[243]。碇 (2006)は、大型主翼の飛行性能が悪く、速度向上の意味から元のものに戻したとする[244]。}}。ほか、主翼を元に戻した理由は古峰文三が以下の様な考察を行っている。当時の二型はエンジンの問題により全力を発揮した飛行試験が充分に行える状態ではないと推測され、比較により性能上の問題が露呈したとは推察しにくい[30]。よって、単にホ5の供給不足により、新型主翼に生産を切り替えてこれを搭載する必要がなかったから元の主翼に戻したのではないか、とする説である。

全備重量は355kg増加した。しかし速度は高度6,000mで610km/h、高度8,000mでも591km/hと向上しており、上昇性能も一型丁より改善を見た[242]。また武装は一型丁と同等だが、機首の20mm機関砲ホ5の弾数が、各120発から200発へと増加した[242]。また燃料タンクの防弾能力を強化したため、翼内タンクが合計265リットルから210リットルへ低下した[242]。ハ140を搭載したこの機体は従来のものとは異なり、完全武装状態でも10,000mまで楽に上昇できた[245]。なお二型機体は、航空審査部飛行実験部に所属する機体のほか、川崎航空機のテストパイロットで編成された川崎防空戦闘隊(隊長は掛長(係長)によっても一線部隊に先行して運用された。後者は一型機体と合わせ、B-29、B-25合計3機を撃破し、航空本部長から感謝状を贈られている[246]

増加試作機が30機[247]または36機[221]生産された後、1944年9月より「キ61-II改」として量産が開始された。ハ140が順調に量産され、所期の性能を発揮すれば機体が高性能をあらわすことも可能であったが、機体こそ374機が完成したものの、ハ140に大きな問題が生じていた。生産は遅延し品質も悪かった。生産台数は44年7月に20台納入の予定が8台、8月には40台納入予定が5台、9月には1台のみが完成したに過ぎない[248]。こうした生産状況からは本機を実用機として戦力化することが極めて困難であった。したがってキ61-II改の生産は100機程度で打ちきられた[248]。エンジンを搭載し完成機となったものは99機であった。またB-29による爆撃で機体が破壊され、最終的に軍に納入されたのは約60機程度という状況であった[241][249]。この後、川崎はキ61-II改の生産を縮小し、四式重爆撃機を生産するよう指示された[250]。結論としてエンジンの不調および生産遅延が三式戦闘機の大量生産を阻害した。

半完成品となった三式戦闘機の残余である275機は「首無し」の状態で放置された[251]。これらは後に空冷エンジンを搭載し、後述の五式戦闘機に改造された。定説では二型の機体の生産機数は374機、完成機が99機、5式戦闘機への改造機が275機である。だがこの数字には試作機の39機が入っておらず[252]、また374機という数量には新工場である都城工場で製造された分が計上されていない。古峰によれば川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』「機体之部」では「374+」とされており[252]、実数はやや多く機体生産がなされたのではないかとする説もみられる。

三式戦闘機二型は、エンジンが完調であれば性能自体は良好だった。土井によれば高度10,000mにおいても容易に編隊飛行が行えたと評価される[253][254][249]。また本土でB-29の迎撃に当たった第55戦隊の隊員らも、古川戦隊長が故障は見受けられるが同条件ならP-51にも引けを取らないのではないかと評価したほか[83]、旋回性能だけは一型に劣るが全体的に二型が上である、高度11,000mでも確実に飛行ができる、更にはエンジンの故障も少ないと証言している[255]。五式戦闘機の登場後も二型が完全に捨てられたわけではなく、五式戦闘機で当座を凌ぎながら信頼性の向上を目指し、1945年6月に40機、7月に40機、8月に10機という補給計画が残されている[252][256]

さらなる発展型として、キ61-II武強という、ハ140特エンジンに37mm機関砲をモーターカノンとして搭載する計画が存在した。ただしこの名称は古峰 (2007) による便宜的な名称で、正式なものではない。この機体の翼内武装は廃止され、他の武装は機首に20mmホ5が2門のみ装備された。のちにこれはキ88と呼ばれるものとなり、1943年6月には組み立ての開始が行える状態になったようだが[257]、1943年9月、計画は中止された[89]。また正式名称不明であるものの、性能向上型である三型には離昇出力1800馬力のハ240の装備が計画されていた[113][258]

五式戦闘機 (キ100)

全幅840mmの胴体に外径1280mmの機首部を取り付けた五式戦闘機。段差の処理に注目

五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを星形空冷エンジンに換装した戦闘機である。1945年(昭和20年)に制式採用された。 前述のとおりハ140の生産は遅延し、エンジン未装着の三式戦闘機が多数放置された。早急な戦力化のため、陸軍ではハ140に換えてハ112-IIを搭載することを計画した。これは日本海軍が感情爆撃機彗星のアツタエンジンに換えて金星62型エンジンを搭載した経緯と類似している。金星62型エンジン、陸軍名称ハ112-IIは星型空冷であるため、直径こそ121.8cmと[259]大きいが、離昇出力1,500馬力を発揮するものであった。これは広く部隊に配備されている三式戦闘機一型丁のハ40が発揮する1175馬力より強力で、ハ140の1500馬力に匹敵した。またハ112-IIには水メタノール噴射装置も装備されていた[260]。航空本部や土井技師は三式戦闘機の空冷換装を前向きに検討開始した。軍需省の意向や川崎航空機のエンジン部門の実戦化への努力等、空冷化に対して考慮すべき点があったものの、戦局と生産の観点から、1944年4月、審査部は川崎に対し内々に三式戦闘機の空冷化を依頼[261]した。また上記二型の戦力化の失敗により、10月1日には正式に空冷化三式戦闘機・キ100の試作が命じられた[248]

三式戦闘機の840mmの胴体に直径1218mm、カウリングなども含めれば外径1280mm[254]のハ112-IIをいかに収めるかは、ドイツより輸入されていたFw190 A-5の機首まわりの処理を参考とした[262]。エンジンと機体の接続部に生じる段差は渦流を生じ大きな空気抵抗となるが、この部分にエンジンの推力式単排気管を設置し渦流を吹き飛ばし[263]、最小限の整形のみで空気抵抗を低減する処理を施した。

1944年の12月末には換装のための設計を終え、試作一号機は翌1945年2月1日(または11日)に初飛行を行った[264]。空冷化により前面投影量が増え、空気抵抗の増加により最高速度が580km/hとなった。これはキ61-II改より30km/hほど低下していた。しかし、空冷化による水冷装置の撤去など軽量化に伴い、上昇力は四式戦闘機を上回るものとなった[265]。空戦性能は三式戦闘機を上回ると判定され[266]、三式戦闘機一型丁と比較すれば最高速度においても凌駕した。窮余の策の空冷エンジンへの換装は大成功であった[* 7]

第59戦隊のパイロットたちも、三式戦闘機を装備運用した時期に比較し、五式戦闘機は敵新鋭戦闘機とも相当に善戦できると評価した[267]。また何より、稼働率が大きく向上した[268]。取り敢えずの戦力化・稼働率の向上に加え予想外の高性能を発揮したキ100は、2月には五式戦闘機として制式採用された[269]。量産機第一号は2月に完成し、3月には36機、4月には89機、5月には131機が生産された[270]。生産の停止した三式戦闘機二型に代わって陸軍の主力戦闘機となり、陸軍航空隊はこれを大歓迎する。だが米軍の空襲のため6月は88機、7月は23機にまで生産が落ち込んだ[271]。8月に生産された10機をもって生産完了し、試作機3機を含め総生産数は390機[271]または393機[227]程度であった。ほか、生産機数は文献により諸説が存在する。

ただしハ112-IIはハ140より良く稼動したとされるが、やはり新型エンジンであり、信頼性が抜群であったと言うわけではなかった[272]。1945年7月に五式戦闘機を装備した第59戦隊の稼働率が48パーセント、三式戦を装備した第55戦隊の稼働率が62パーセントとのデータもある[273]

諸元

正式名称 三式戦闘機一型乙 三式戦闘機一型丁 三式戦闘機二型
試作名称 キ61-I乙 キ61-I丁 キ61-II改
全幅 12.00m
全長 8.74m 8.94m 9.1565m
全高 3.70m 3.75m
翼面積 20m²
翼面荷重 156.5 kg/m² 173.5 kg/m² 191.25 kg/m²
自重 2,380kg 2,630kg 2,855kg
正規全備重量 3,130kg 3,470kg 3,825kg
発動機 ハ40(離昇1,175馬力) ハ140(離昇1,500馬力)
最高速度 590km/h(高度4,860m) 560km/h(高度5,000m) 610km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで5分31秒 5,000mまで7分00秒 5,000mまで6分00秒
航続距離 1,100km+戦闘20分 または3.65時間(歴史群像)
/ 2850km(増槽付) または7.65時間(歴史群像)
1,800km(過荷) 1,600km(過荷)
武装 ホ103 12.7mm機関砲 合計4門、
(胴体2門 + 翼内2門、携行弾数各250発)
胴体20mm機関砲2門(ホ5、弾数各120発)、
翼内12.7mm機関砲2門(ホ103、弾数各250発)
胴体20mm機関砲2門(ホ5、弾数各250発)、
翼内12.7mm機関砲2門(ホ103、弾数各250発)
爆装 100kg - 250kg爆弾2発 250kg爆弾2発
生産数 約600機/512機[274] 1,358機/1,354機[274] 99機

出典:『日本の戦闘機・陸軍編』[275]航空機の原点 精密図面を読む10 日本陸軍戦闘機編[276]、学習研究社 (2007) 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 61『三式戦「飛燕」・五式戦』p.160の折り込み。


逸話

  • 1942年4月18日のドーリットル空襲時、陸軍航空審査部飛行実験部の前身である陸軍飛行実験部実験隊には、キ61担当主任である荒蒔義次少佐と梅川亮三郎准尉がいた。またキ61は福生飛行場で飛行試験を終え、水戸陸軍飛行学校においてホ103射撃試験中であった。彼らはこのキ61試作2号機・3号機に急遽搭乗し、B-25を迎撃した。これらの機体に搭載されていたのは演習用徹甲弾であり、炸裂弾ではないため命中しても貫通するのみで大型機の撃墜は難しいが[277]}}、梅川機はB-25の1機に命中弾を浴びせてこれに煙を噴かせた[277]。このB-25は4番機であり、機長はE・W・ホームストロム少尉が務めていた[278]。荒蒔は機体に搭載された実包をマ弾と呼ばれる炸裂弾に換装し離陸、B-25の後を追ったが会敵はできなかった[277]
    • 実弾を搭載し梅川機の後に離陸した荒蒔機がB-25索敵中、一線配備されておらず味方に周知されていない試験機であるため、海軍機から敵機と誤認されて攻撃を受ける一件があったが、主翼の国籍マークを見せることで同士討ちは回避した[277][279]。逆に、大戦末期にB-29の護衛にP-51が初めて飛来した際、これを容姿が似ている本機と誤認して不用意に接近し、撃墜された日本戦闘機が少なからずあったとも言われる[要出典]。連合軍側ではP-51が欧州戦線において、Bf109と誤認され友軍機・対空砲に誤射された例がある[要出典]
  • 1945年2月17日、二型で試験飛行を行っていた航空審査部の荒蒔義次少佐が、F6Fと遭遇し空中戦を行った。急降下を行った際、遷音速時に発生する様な現象を体感したと証言している。基地に帰還した後に確認すると、1,000km/hまで測定できる速度計の針が振り切れ破損していた。しかし、機体には異常は無く、速度計以外に故障した部分はなかった[280]

郵便切手

「旭日と飛燕」5銭切手

終戦間際の1945年7月1日、文献によっては8月1日、逓信院が発行した5普通切手に三式戦闘機「飛燕」が登場している。逓信院とは、戦時統合により発足した運輸通信省から5月19日に分離し再発足した組織である。

同切手は「戦意発揚」を目的に公募が行われた入選作品のひとつで採用された図案で、太陽をバックに飛行する本機が描かれているため「旭日と飛燕」と俗称されている。ただし印刷は物資の欠乏により比較的簡素な平版印刷で、目打も糊も省かれた状態で発行された。また用紙も白紙や灰白紙と異なるもので印刷されたほか、緑色だけでなく青色で印刷されたものがある。

なお、日本の戦闘機が切手に登場したのはこれが世界最初の事例である。また、この切手はGHQから「軍国主義的」であるとして1947年(昭和22年)8月31日付で使用禁止となった、いわゆる「追放切手」となった。もっとも発行当初は第三種便一般料金用であったが、戦後はインフレーションのため、使用禁止された時点では実際に郵便で使用できないほど額面が無価値になっていた。

現存機

本機の現存機には、知覧特攻平和会館で屋内展示されている二型(キ61-II改)が存在する。戦争中、この機体は陸軍航空審査部所属であり、終戦直後にアメリカ軍に接収され、のちに日本航空協会に譲渡返還されたものである[281]。同機は戦後に大規模な修復を受けているものの[281]、現在良好な状態で保存されている三式戦闘機としては世界で唯一である。日本にはこのほか高知県沖の海中から引き上げられた機体が嵐山美術館にて、胴体前部と主翼桁のみと言う不完全な状態のものが展示されていたこともある[282]

また、オーストリア南部のワンガラッタ市の航空機復元会社に、川崎重工業の現役及びOB社員によるボランティア・グループが協力して飛行可能なように復元中のI型がある[283]


注釈

  1. ^ 副賞金は15,000円。これの措置は土井に一任され、多くは国債として岐阜工場や設計部に分配し、残りは宴会に使ったという[46]
  2. ^ 渡辺 (2006)による。碇 (2006) によれば180度に対して150度。
  3. ^ 大海原で不時着水を行ったところで、救助の見込みはほとんど無い。このため海面に突入し、自殺を行う。これは日本軍では「自爆」と言われていた。
  4. ^ 大塚 (2007)、近現代史編纂会 (2001)共に38機が出立とするが、渡辺 (2006) は、到着は約30機とする。
  5. ^ 土井 (1994) によれば、18cm[44]
  6. ^ 片渕(2007)によれば、川崎内では特にこう呼ばれていたらしい。川崎内では「キ61マ式」とも[213]
  7. ^ 酣燈社青木日出雄編集長の言によれば「たまたまふたつくっつけたら良いものが出来た」。

出典

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  43. ^ a b 渡辺 2006, p. 259. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "FOOTNOTE渡辺2006259"が異なる内容で複数回定義されています
  44. ^ a b c d 土井 1999, p. 100.
  45. ^ a b 渡辺 2006, p. 70.
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  • 小山進「わが愛機「飛燕」とともに飾ったニューギニア空戦譜」『飛燕・五式戦 / 九九双軽』 2巻、光人社〈図解・軍用機シリーズ〉、1999年。ISBN 4-7698-0911-5 
  • 小山進『あ丶飛燕戦闘隊』光人社、1996年。ISBN 4-7698-0790-2  - ニューギニア・飛行第68戦隊パイロットの手記。片翼に増槽、片翼に250kg爆弾を搭載して艦船攻撃に出撃したこともあったらしい。
  • 田形竹尾「「飛燕」よ 決戦の大空へはばたけ」『「飛燕」よ 決戦の大空へはばたけ』 14巻、光人社〈証言|昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション〉、1991年。ISBN 4-7698-0553-5 
  • 寺田近雄「現代に息づく名機たちの薄幸の生涯」『飛燕・五式戦 / 九九双軽』 2巻、光人社〈図解・軍用機シリーズ〉、1999年。ISBN 4-7698-0911-5 
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  • 土井武夫「私の設計した液冷戦闘機飛燕」『軍用機開発物語 設計者が語る秘められたプロセス』光人社〈光人者NF文庫〉、2002年。ISBN 4-7698-2334-7  - 初出は雑誌「丸」 1961年8月号に掲載された手記であるが本文中での書誌情報はより入手が容易なこの文庫のものを使用している。
  • 林貞助「「空冷 vs 液冷」エンジン性能くらべ」『飛燕・五式戦 / 九九双軽』 2巻、光人社〈図解・軍用機シリーズ〉、1999年。ISBN 4-7698-0911-5 
  • 「丸」編集部『飛燕・五式戦 / 九九双軽』 2巻、光人社〈図解・軍用機シリーズ〉、1999年。ISBN 4-7698-0911-5 
  • 古峰文三「川崎航空機の戦闘機開発系譜と「三式戦」・「キ100」の誕生 第1 - 10章」『三式戦「飛燕」・五式戦』 61巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2007年。ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 松代守弘「検証1 第一次大戦期 ドイツ戦闘機の発達」『ドイツ空軍全史』 26巻、学習研究社〈歴史群像 第二次大戦欧州戦史シリーズ〉、2007年。ISBN 978-4-05-604789-9 
  • 渡辺洋二『液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼』2006年。ISBN 4-16-724914-6  - 朝日ソノラマ 1998 『液冷戦闘機「飛燕」』 の加筆・改正・文庫版。なお、それより更に以前に、サンケイ出版 1983年『「飛燕」苦闘の三式戦闘機』としても出版されている。
  • 渡辺洋二「切り裂くツバメ」『遙かなる俊翼』2002a。ISBN 4-16-724911-1  - この部分の初出は月刊「丸」 1985年4月号。
  • 渡辺洋二「日本戦闘機、身内のライバルを比較する」『遙かなる俊翼』2002b。ISBN 4-16-724911-1  - この部分の初出は月刊「丸」 1989年11月号。
  • 鈴木孝『エンジンのロマン』三樹書房、2002年。ISBN 4-89522-287-X
  • 『世界の傑作機 陸軍三式戦闘機「飛燕」』文林堂、1989年。ISBN 4-89319-014-8

関連項目

外部リンク