竹田五郎

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竹田 五郎
Goro Takeda 19800101.JPEG
竹田五郎。1980年。
生誕 1921年10月
日本の旗 日本 福岡県
所属組織 War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍
No image available.svg 警察予備隊
No image available.svg 保安隊
Flag of the Japan Air Self-Defense Force.svg 航空自衛隊
軍歴 1941 - 1945(日本陸軍)
1951 - 1952(予備隊)
1952 - 1954(保安隊)
1954 - 1981(空自)
最終階級 帝國陸軍の階級―襟章―大尉.svg 陸軍大尉(日本陸軍)
JASDF General insignia (a).svg 統合幕僚会議議長たる空将(空自)
除隊後 軍事評論家
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竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年大正10年)10月 - )は、日本陸軍軍人航空自衛官、軍事評論家最終階級は陸軍では陸軍大尉航空自衛隊では統合幕僚会議議長たる空将。第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長[1]

略歴[編集]

陸軍航空士官学校(第55期)出身の生粋のパイロット(操縦者)であり、1942年(昭和17年)から作戦に参加[2]。当初は飛行第90戦隊に所属し九九式双軽爆撃機で中国戦線に従軍[1]太平洋戦争後期には飛行分科軽爆から戦闘に転科し、戦闘機操縦者として飛行第244戦隊に配属され、三式戦闘機「飛燕」五式戦闘機(キ100)に搭乗し敗戦まで本土防空戦に従事した。夜間戦闘中に被弾し、松戸飛行場に不時着した際、片翼は穴だらけで「これでよく無事に生還できたものだ」と同僚に言われたという[2]。最終的に第244戦隊では第2飛行隊長(とっぷう隊。旧第2中隊の後身)を務めている。

陸軍大尉で終戦を迎え、戦後、一時期は民間に就労するが、飛行機に乗れそうだと1951年(昭和26年)12月、警察予備隊入隊[2]。自衛隊では操縦第1期生、保安隊時代にはL-16旭川に空輸した。戦後、北海道の空を日の丸のついた飛行機で初めて飛んだことが自慢だという[1]。その後、第6航空団司令南西航空混成団司令等の要職を歴任し、1976年昭和51年)9月6日に発生したベレンコ中尉亡命事件の際は北部航空方面隊司令官として対応した[1]航空総隊司令官を経て1978年(昭和53年)3月、第14代航空幕僚長に就任。さらに翌1979年(昭和54年)8月には第12代統合幕僚会議議長に就任した。

1981年(昭和56年)、統幕議長在任中において、雑誌記事(月刊誌宝石3月号)にて「徴兵制違憲とする政府統一見解」及び「防衛費GNP比1%枠」の二点に異を唱え専守防衛政策を批判した。これに対し社会党衆議院予算委員会において竹田の懲戒免職を要求、同委員会は紛糾した[3]大村襄治防衛庁長官が竹田を戒告処分とし、これを受けて責任を取る形で同年2月16日付で退官[4] (ちなみに2代前の栗栖弘臣も、有名な「超法規行動」発言が原因でやはり解任されている)。民間では軍事評論家となる。

保守系日刊紙『世界日報』のコラム「ビューポイント」の常連寄稿者の一人である。

年譜[編集]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d インタビュー 元陸軍大尉 竹田五郎、菊池征男、歴史群像 2006年6月号、学習研究社
  2. ^ a b c 朝雲新聞(昭和53年4月13日)「この人と10分間」
  3. ^ 第094回国会 予算委員会 第2号 昭和五十六年二月二日(月曜日)
  4. ^ 衆議院予算委員会で、竹田五郎を懲戒免職にするように要求していた社会党の大出俊に対し、当時防衛庁人事教育局長であった佐々淳行は以下のように応酬した。(佐々淳行『私を通りすぎた政治家たち』(文藝春秋、2014年)より、原文のまま)
    私は「大出先生、学徒動員の陸軍少尉でいらっしゃいますよね。たしか高射砲隊にいらしたとうかがっていますが」と切り出した。

    「そうだ。オレは帝都防衛の高射砲隊にいた」 大出氏は、何を言い出すんだと怪訝な顔をしている。 「一生懸命B29を落とそうとして戦っておられたと承知しておりますけれど」 「そうだよ。首都防衛でB29を撃ち落そうとしていたんだ」 「先生が懲戒免職にせよとおっしゃっている竹田五郎さんは、実は陸軍航空隊の大尉でございまして、四式戦の疾風に乗っておりました」 疾風は大戦後半に投入された陸軍の最新鋭戦闘機で、最優秀とも評価される高性能機である。 「竹田さんは疾風の搭乗員として、東京でB29の邀撃戦をやって一機撃墜してるんでるよ。でも自分も被弾して、三鷹あたりの桑畑に不時着して助かってるんです」 「ああ、そうか」 「大出先生、一機でも落としました?」 「いや、当たらないもんなんだよな、あれは。一機も落としていない」

    その後、社会党は、竹田を退職金や年金が受け取れない懲戒免職ではなく、防衛庁長官からの厳重戒告を受けた依願免職という形で決着させることを約束した。

  5. ^ 『官報』本紙第8025号(1953年10月03日)
  6. ^ 『官報』本紙第8353号(1954年11月04日)
  7. ^ 『官報』号外第160号(平成3年11月5日)

関連項目[編集]