小林照彦

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小林 照彦
Teruhiko Kobayashi.jpg
生誕 1920年(大正9年)11月17日
東京府
死没 1957年(昭和32年)6月4日(満36歳)
静岡県
所属組織

大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍

Flag of the Japan Air Self-Defense Force.svg 航空自衛隊
軍歴 1940-1945(帝国陸軍)
1954-1957(航空自衛隊)
最終階級 陸軍少佐(帝国陸軍)
2等空佐(航空自衛隊)
墓所 多磨霊園[1]
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小林 照彦(こばやし てるひこ、1920年(大正9年)11月17日[2] - 1957年(昭和32年)6月4日[2])は、日本陸軍軍人航空自衛官陸士53期。最終階級帝国陸軍では陸軍少佐空自では2等空佐

経歴[編集]

1945年2月、飛行第244戦隊本部小隊・小林戦隊長機たる三式戦「飛燕」一型丙(キ61-I丙)。
垂直尾翼に描かれたものが部隊マーク(個性豊かなマーク・塗装・迷彩を施すことが認められていた陸軍航空部隊の中でも、特に第244戦隊は派手なことで知られる)
1945年5月、飛行第244戦隊本部小隊・小林戦隊長機たる三式戦「飛燕」一型丁(キ61-I丁)[注釈 1]と写る小林(最右)および、同戦隊の空中勤務者と地上勤務者達。操縦席側面の14個B-29のシルエット撃墜マーク

1920年(大正9年)11月17日、東京府に生まれる。国士舘中学校を経て[2]1940年(昭和15年) 陸軍士官学校53期を卒業したのち砲兵科から航空兵科へ転科し、空中勤務者(分科は「軽爆撃機」)となる[3]

飛行第45戦隊飛行第66戦隊を経て、1943年(昭和18年)11月に飛行分科を「戦闘機」に転じ、明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける[4]。戦闘機学生教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行場林陸軍飛行場で教官任務に就く[5]1944年(昭和19年)11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、階級は陸軍大尉)の飛行戦隊長として東京都下調布飛行第244戦隊に着任[3]。当初は三式戦闘機「飛燕」1945年(昭和20年)5月以降は五式戦闘機に搭乗して[6]、終戦まで日本本土の防空任務にあたった。

帝国陸軍航空部隊の飛行戦隊は、地上部隊の連隊に相当するが、その長である戦隊長は、階級や年齢に関わらずに、自ら第一線機に搭乗して陣頭指揮を執った。なお、飛行戦隊の上級部隊であり、他兵科の旅団に相当する飛行団の長である飛行団長も、自ら第一線機に搭乗して麾下の飛行戦隊を空中指揮した例が珍しくない。1944年(昭和19年)8月20日、北九州に来襲したB-29 編隊を迎撃し、B-29 1機を撃墜した第16飛行団長の新藤常右衛門中佐(当時41歳)の例があり、渡辺洋二は「〔新藤中佐は〕おそらくB-29撃墜者の最長老であろう」と評している[7]

飛行第244戦隊長となった小林も、戦隊長標識を施した三式戦「飛燕」[注釈 2]や五式戦を駆って本土防空戦の陣頭に立ったが、1945年(昭和20年)4月12日に乗機を撃墜されて山梨県大月市付近に落下傘降下した際には、救助してくれた村人に、小林が「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょ」と全く信じてくれなかったという[8]

1945年(昭和20年)1月27日、B-29 1機を体当たりで撃墜し、落下傘降下して再び生還[9]。小林は軽傷(擦過傷、打撲傷)を負ったのみであった[9]

4月12日にB-29の編隊に単機突入し、護衛のグラマンF6Fの射撃で被弾し、操縦不能となるも、落下傘降下してみたび生還[10]。この際、右脚に機関砲弾破片の盲管創を受ける(小林の日記の記載による)[10]

5月15日に、第1総軍司令官杉山元元帥陸軍大将から、飛行第244戦隊に部隊感状が授与された[11]。それに先立ち、小林は第1総軍に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた[11]。小林は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答した[11]。小林はこの時に陸軍少佐に進級し、表彰状、ならびに陸軍武功徽章(乙)[2]が授与された[11]

帝国陸軍での最終階級は陸軍少佐。敵機撃墜数は12機(うち、1機は体当たり撃墜したB-29[9][12]

敗戦後、1945年11月1日に復員して東京の自宅に戻る[13]。いくつかの職を転々とするも、1946年(昭和21年)8月に、陸軍で懇意だったある元陸軍技術中佐が経営陣に加わっている佐賀板紙株式会社[14]に入社して生活の安定を得る[13]。勤務と並行して、1946年(昭和21年)4月に明治大学法学部(二部)に入学し、1950年(昭和25年)に卒業[13]

サラリーマンとしての勤務を続けながら、「日本空軍設立」の運動に取り組む[15]

小林は佐賀板紙株式会社で実績を挙げ、将来を嘱望されていたが[16]1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊が創設されると同社を退職して9月4日付でこれに入隊、帝国陸軍時代の経歴から3等空佐(陸軍少佐相当)となった。航空自衛隊幹部学校へ入校し、ふたたび戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地築城基地を経て1955年(昭和30年)11月から約半年間、アメリカ合衆国に留学しF-86戦闘機の操縦教育を受ける。帰国後、浜松基地で第1飛行団[注釈 3]第1飛行隊長として教官勤務につくが1957年(昭和32年)6月4日、搭乗のT-33練習機が離陸直後に墜落。同乗者の天野裕3等空佐を先に脱出させた(脱出時の高度が低すぎたため天野3佐も殉職し2等空佐に特進)後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦しての殉職だった。生涯飛行時間は約2,000時間であった[3]。殉職により2等空佐に特進[注釈 4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 本機は第244戦隊にて編成された特攻隊・第159振武隊の隊長(高島俊三少尉、元「そよかぜ隊」こと第1飛行隊員)に譲渡される。
  2. ^ 小林が搭乗した三式戦「飛燕」の機番や塗装については『飛燕戦闘機隊』に詳しい。
  3. ^ 揺籃期の航空自衛隊では、浜松基地の第1飛行団は訓練部隊で、千歳基地の第2飛行団が実戦部隊であった。『ひこうぐも』 光人社NF文庫、454頁。
  4. ^ 1970年(昭和45年)に上梓された小林千恵子『ひこうぐも』に中曽根康弘 防衛庁長官(当時)が序文を寄せており、「小林2佐」と記している。『ひこうぐも』 光人社NF文庫。

出典[編集]

  1. ^ 「はじめに…私の原点」-『お世話になった方々 03.1.8』の写真説明に「多磨霊園 小林戦隊長 墓前にて」とある。”. 「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」. 2018年5月27日閲覧。
  2. ^ a b c d 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典 第2版』 2005年、64頁、第1部 主要陸海軍人の履歴 陸軍 小林照彦。
  3. ^ a b c 『飛燕戦闘機隊』 95頁。
  4. ^ 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、131-132頁、142頁、149頁。
  5. ^ 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、156-171頁。
  6. ^ 『飛燕戦闘機隊』 99頁、103頁。
  7. ^ 渡辺洋二『本土防空戦』朝日ソノラマ・文庫版航空戦史シリーズ、1982年(昭和57年)、174頁。
  8. ^ 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、225-226頁。
  9. ^ a b c 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、192-196頁
  10. ^ a b 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、219-227頁。
  11. ^ a b c d 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、236頁。
  12. ^ 秦 1998, pp. 318-329, 第十二章 第二次大戦のエースたち-日本
  13. ^ a b c 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、260-286頁
  14. ^ 佐賀板紙株式会社 公式サイト
  15. ^ 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、294-295頁
  16. ^ 『ひこうぐも』 光人社NF文庫、341頁

参考文献[編集]

  • 『飛燕戦闘機隊』 大日本絵画、2004年(平成16年)
  • 『B29対陸軍戦闘隊 本土上空戦』 今日の話題社1973年(昭和48年)
  • 小林千恵子『ひこうぐも-撃墜王・小林照彦陸軍少佐の航跡』 養神書院、1970年(昭和45年)。(復刊)光人社NF文庫、2005年(平成17年)。小林夫人の回想記。
  • 秦郁彦 『第二次世界大戦 鋼鉄(はがね)の激突』 中央公論社(中公文庫)、1998年 

外部リンク[編集]