十如是

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

十如是(じゅうにょぜ)とは、『法華経』方便品に説かれる因果律をいう。十とは

  • 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等(そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)

をいう。如是とは是(かく)の如(ごと)し(そのようである、という意)のこと。また十如とも、諸法実相ともいわれる。

なお、この十如是は鳩摩羅什が訳出した法華経にのみ見られるもので、他の訳や梵文(サンスクリット語)原典には見当たらない。

この十如是は、後に天台宗の教学の究極とまでいわれる「一念三千」を形成する発端とされており、重要な教理である。

概説[編集]

十如是とは、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法をいう。

天台大師智顗は「是の相も如なり、乃至、是の報も如なり」と「是の如きの相、乃至、是の如きの報」と「相も是に如し、乃至、報も是に如す」として、十如是を三種に読み、これを「空・仮・中」の三諦(さんたい)の義に配釈したので、これを三転読文(さんてんどくもん)といわれる。

法華経本文(抜粋)[編集]

鳩摩羅什が訳した本文によると、

仏の成就じょうじゅせる所は、第一の希有けうなる難解なんげの法にして、ただ、仏と仏のみ、すなわく諸法の実相をきわめ尽くせばなり。う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり

とある。これを十如是という。

原典語訳[編集]

梵文原典から日本語に翻訳すると次の通り。

如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ

— 岩本裕による口語訳出

鳩摩羅什以外の漢訳は以下の通り。「何等法・云何法・何以法・何相法・何体法」(法華論より、これを五何法という)

意訳説[編集]

したがって、この十如是は、梵文原典には無く、また竺法護の「正法華経」、闍那崛多達磨笈多共訳の「添品妙法蓮華経」、そして世親の「法華論」にも見当たらない。唯一、鳩摩羅什が訳出した法華経(妙法蓮華経)にのみ見出されるものである。

これに近いものが『大智度論』巻32にある。

復(ま)た次に、一一の法に九種有り。一には体有り。二には各各法有り、眼・耳は、同じく四大の造なりと雖(いえど)も、而(しか)も眼のみ独り能く見、耳には見る功なきが如し。又火は熱を以て法と為し、而して潤おすこと能わざるが如し。三には諸法各の力有り、火は焼くことを以て力と為し、水は潤すことを以て力と為すが如し。四には諸法は各の自ら因有り。五には諸法は各の自ら縁有り。六には諸法は各の自ら果有り。七には諸法は各の自ら性有り。八には諸法は各の限礙有り。九には諸法は各の開通の方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法は凡て九事有り。

— 『大智度論』巻32

また、『大智度論』巻24には次のように記されている。

仏は是の衆生の種種の性相は、所謂趣向する所に随って、是くの如く偏に多くを知りたまう。如是貴。如是深心事。如是欲。如是業。如是行。如是煩悩。如是礼法。如是定。如是威儀。如是知。如是見。如是憶想分別。

— 『大智度論』巻24

したがって、鳩摩羅什が大智度論の「体・法(作)・力・因・縁・果(果・報)・性・限礙(相)・開通方便(本末究竟等)」などの九種法を変形展開し、十如是としたと推定されている[1]。つまり、十如是は梵文原文からの鳩摩羅什による独自の増広であると考えられる。

天台宗で言う一念三千は十如是から派生した教理であるから、十如是が鳩摩羅什の独自の増広によるものだとすると、法華経の教説それ自体に基づく教理ではないことになる。他方で、一念三千は天台宗の重要な教理であるとはされているが、実際には智顗がその全著作中でも『摩訶止観』(五ノ上)で「此三千在一念心 若無心而已」として一度しか言及していないものを湛然が智顗自身の用いていない「一念三千」という語・名目にまとめた上で、それを「終窮・究竟の極説」としただけであり、一念三千という教理に問題があるとしても、天台教学や日蓮教学はともあれ、智顗自身の教学を損なうものではないという反論もなされている。

しかし、智顗は鳩摩羅什訳の十如是の文について『法華玄義』(二ノ上)において「三転読文」を主張する。すなわち、十如是の箇所の文字の区切り方を3通りにずらして、たとえば「如是相 如是性……」を「如是相/如是性/……」「(如)/是相如/是性如/……」「(如是)/相如是/性如是/…」と3通りに読み、それぞれに「空・仮・中」と意味付けを行っている。だが、これは十如是という鳩摩羅什がたまたま梵文をそのように(増広しつつ)翻訳したその漢字の列を恣意的に操作して得たものに過ぎない。実際、より梵文に忠実な竺法護訳の該当箇所「何等法 云何法……」(五何法)について同様の操作を行っても意味をなさない。智顗による十如是解釈が法華経梵文の原意とはかけ離れたものとなっていることに変わりはない。

脚注[編集]

  1. ^ 本田義英『仏典の内相外相』383頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]