赤穂事件

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赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭の江戸時代元禄期に起きた事件で、江戸城松之大廊下で、高家旗本吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に代わり、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良を討ったものである。

この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。

なお、浅野吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある[1]

名称に関して

本事件を元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)と呼ぶ本もあるが[2]、専門家の書いた本では全て「赤穂事件」で統一されている[3]ので、本稿では「赤穂事件」と表記する。

また赤穂事件を扱った創作物では、前述のように本事件を忠臣蔵と呼ぶ事が多いが、講談では本事件を赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。

吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである[4]。(ただし先行作にも使用例あり[5])。

このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[6]

概要

事件の概要

この事件は元禄14年(1701年3月14日浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、浅野内匠頭によれば「この間の遺恨」が原因との事だが、浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、史実としては不明である。

事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は激怒。

幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、浅野が藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じた。

それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため[7]この事件は「喧嘩」として扱われず[7]、吉良には咎めがなかったのである。

しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[8]

一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり[9]、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[9]、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった[9] 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。

吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議山科会議)。

しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[10]。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた[11](神文返し)。

その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。

そして元禄15年(1702年12月14日、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。

四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている。

寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。

「義士」論争

赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[12]。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[13]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[13]、これが問題になったのである。

この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり[14]、論争は幕末まで続いた[15]

「忠臣蔵」の誕生

主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った赤穂浪士四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった武士道を彼らが体現したからである。

赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が歌舞伎人形浄瑠璃講談戯作などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。

その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は忠臣蔵ものと呼ばれる事になる。

赤穂事件の経過

松之大廊下の刃傷まで

事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。

江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた[16]。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。

吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた[16]

一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである[16]

朝廷からの使者達は3月11日[16]に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。

事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった[16]

松之大廊下の刃傷

江戸城本丸跡(東京)

3月14日4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)[17]、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う[18])で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるというが、どのような「遺恨」があったのかは記録に残されておらず、不明である。

切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)である。

吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上[17]を傷つけた。小さ刀は吉良の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた[19]。 そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[17]

すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、柳之間[7]の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:

「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」
(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)[20]

一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間[17]に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた[17]。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有[21]により数針縫いあわせられている。

浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[22]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門[23]から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[23]。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。

田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[24]


なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な史料批判が必要である[25]

浅野内匠頭切腹

浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)

刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった[26]

浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[27]。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという[28]。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう[28]

万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた[28]

当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた[23]ので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で[29]切腹をした。

切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門であり[27]、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた[27]。 遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ[30]、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された[30]

浅野内匠頭の正室の阿久里は、浅野の切腹を受けて3月14日夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め[30]、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った[30]

吉良への見舞い

一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」[31]

当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである[7]

しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため[7]、この事件は喧嘩としては扱われず[7]、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである[32]。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない[31]


このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である播州赤穂浅野家には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった[33]

実際、こうした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり[34]、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった[34]。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと[34]、浅野の行動に理解を示している。 また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである[35]

こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)[36]

赤穂への使者

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早水藤左衛門萱野三平 から刃傷事件の報告を受ける大石内蔵助赤穂市大石神社)。

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である赤穂藩へと飛んだ。

早駕籠は二度にわたり赤穂に届られ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え[37]、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告[37]

江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している[37]

吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった[38]

なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは 早水藤左衛門萱野三平の二人で [37] 、第二の早駕籠に乗っていたのは原惣右衛門大石瀬左衛門の二人であった[37]

時刻に関しては第一の早駕籠は3月14日未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け[37]に出発した。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)[37]に赤穂に到着、後者も同日中[37]には赤穂に到着した。

藩札の処理

お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。 藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。

両替所可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、3月20日4月27日)藩札を銀に六分率で交換するよう指示[39]。 赤穂経済の混乱の回避に努めた。

このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている[40]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けている[40]

赤穂での議論

泉岳寺にある大石内蔵助の像(浪曲の中興の祖桃中軒雲右衛門が建立[41]

第一の使者から浅野内匠頭の刃傷事件の知らせを受けた筆頭家老の大石内蔵助は、藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた[42]

そして大石を上座に据え、連日[38]、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)[42]。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[38]。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かった[43]が、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである[43]

また、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも籠城を辞めた理由の一つである[8]。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが[44]、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[8]

連日の議論を経て、大石は結論を出した。赤穂城の前で皆で切腹しようというのである[43]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[43]。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので[8]、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[8]

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り[43]が提出した。

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった[43]事による。大野九郎兵衛はとにもかくにも主君の弟である浅野大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府明け渡すのが先決だと考えていたのである[45]

しかし切腹の神文を提出する段になって原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した[43]。なお原惣右衛門はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している[45]

なお、江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した[43]

赤穂城開城

赤穂城

大石内蔵助は4月12日[46]に赤穂城の明け渡しを決意し、4月18日[46]に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。

赤穂城受け取りは物々しいもので、幕府は受城目付の荒木政羽榊原政殊、代官石原正氏、受城使の脇坂安照木下㒶定を派遣し、脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された[47]

明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願[46]し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た[46]。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は4月5日から、赤穂に残った財産を家臣に分配している[46]

4月12日から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた[48]。幕府から許可がおりたためである。位牌や石塔もこの時建立された[48]

江戸急進派の動き

一方、同じ赤穂家でも、江戸に詰めている家臣には堀部安兵衛をはじめとした強硬派(いわゆる江戸急進派)がおり[9]、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。

堀部は同じく江戸詰めの高田郡兵衛奥田孫太夫とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[9]、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった[9]

そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと4月5日に江戸をたち[9]4月14日[9]に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した4月22日に赤穂を出発した[9]

同志間の対立

あとで討ち入りが決定するまで、大石たち上方の主流派(上方慚進派[49])と堀部たち江戸急進派は、対立することになる。

対立の原因は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり[50]、その際武士の対面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった[51]

一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった[49]。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ[50]。 主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ[50]

こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。

両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった[52]。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう[52]

一方の江戸急進派の面々は堀部をはじめ、高田郡兵衛や奥田孫太夫など浅野内匠頭の代から浅野家に仕えた者が多かった[53]。このため浅野家よりも浅野内匠頭個人に対して仕えているという意識が強く、内匠頭の宿敵である吉良を討つ事、それにより武士としての面子を立てることに拘っていたのであろう[52]

なお、上方慚進派が擁立しようとしている浅野大学自身がどのように思っていたのかは分からない。事件直後には藩士らが騒動を起こさないよう命じただけだったし、その後閉門されてしまったので、赤穂浪士らに連絡が取れなくなってしまったからである[54]

山科隠棲

赤穂城が明け渡しになると、旧藩士たちは赤穂城を出て行かねばならなかった。

大石内蔵助は6月に家族と合流し、山城国山科に隠棲する[55]。親戚の進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである[55]

ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している[56]

それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている[57]

幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった[57]

江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった[57]

この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた[57]

吉良の屋敷替えと江戸会議

本所松坂町の吉良邸跡

一方の吉良は3月23日[58]にお役御免となり、8月19日[58]日には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。

大名屋敷の多い[59]呉服橋と比べ、人気のない郊外[58] にある本所はずっと仇討ちに適した場所であった[59]

討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた[58]

幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響したのかもしれない[59]

堀部達急進派はこの屋敷換えを討ち入りのチャンスととらえ[58]、大石に討ち入りをせまった。

そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に赤穂浪士の原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に赤穂浪士の進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった[60]

そこで大石は11月2日に自ら江戸に下り、急進派を説得すべく会議をひらいた(江戸会議[58]。 しかし上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ[60]

堀部達は討ち入りの日の期限を決断するよう大石に迫り[58]、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した[58]

吉良の隠居

こうした中、衝撃的な知らせが赤穂浪士達の耳に入った。自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、12月13日に許可されたのだという[61]

これを聞いて堀部たち急進派は焦り始めた[61]。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである[61]。また吉良の隠居が認められたという事は、幕府から吉良へのこれ以上の処罰は望めないと堀部等は判断し、浅野内匠頭の一周忌までに討ち入りすべきだと主張した[62]

一方、大石内蔵助は浅野大学によるお家再興に影響が出る事を懸念し[61]、討ち入りを先延ばしすべきだと主張した[61]。吉良上野介が無理なら息子の吉良左兵衛を討てばよいし [62]、閉門はたいてい三年で解けるものだから、浅野大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだというのである[63]

山科会議

こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年2月15日から数日間[64]執り行われた。いわゆる山科会議である。

会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で[64]、しばらく様子を見るという結論になった[64]。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている[64]

なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く[65]、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。

大石の動き

山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している[66]。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである[66]

しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して実家に返している[66]。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)[67]。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)[67]

この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良をはじめとする討とうというのである[68]。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった[68]

大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである[69]。しかし主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学の指示によって吉良を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。

後述するように、結局浅野大学による御家再興は頓挫したため大石のこのような仇討ち構想は実現する事はなく、吉良邸討ち入りは浅野大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している[70]。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである[70]

江戸急進派の動き

一方の堀部達急進派は、山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。

赤穂浪士の原惣右衛門が堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案したのである[71]。 大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである[71]

堀部らはこれに賛同し、上方を訪れて同志達と計画を練り、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた[71]

浅野大学閉門と円山(まるやま)会議

しかしまさにそのとき、事態が急転した。

7月18日[10]に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定したのである。これはお家再興が事実上あり得ない事を示している。

大石達と堀部達の対立点であったお家再興の道が閉ざされたので、彼らは7月28日[10]に京都の円山で会議を開き(円山会議)、大石は10月に江戸に上り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[10]

あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である[72]。このとき会議に参加したのは19人[72]。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである[72]

なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである[73]

堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議[74]

山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが[11]、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する[11]

この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している[75]。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった[75]

神文返し

同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の貝賀弥左衛門大高源吾を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった[11]。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした[11]。これにより同志は50人程度[11]に減った。

大石東下り

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日[76]に京を出て、11月5日[76]に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した[77]。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[77]

また10月26日[76]には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。

同志たちの困窮

このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし[78]磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという[78]

大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった[78]

深川会議

12月2日 頼母子講を装って[79] 深川八幡前の大茶屋 [79] に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた[80] 。いわゆる深川会議である。

討ち入り日の決定

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた[81]。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである [81]

茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である大石三平であった [81]。大石三平は茶人山田宗偏の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており[81]、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて[81]、この情報を聞いたのである。

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗偏の弟子で[81]、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという[81]。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[82]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない[83]

直前の脱盟

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門[84](100石[84]片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[85])、田中貞四郎[84](小姓あがり[84]、150石[84]酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次[84](100石[86])、中村清右衛門[84](小姓[84]100石[86])、鈴田重八郎[84]瀬尾孫左衛門[84](大石内蔵助家来[84])、矢野伊助[84](足軽5石2人扶持[84])が姿を消した。

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた[87]毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[86])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。

討ち入り

吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

元禄15年12月14日、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にで着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た[88]。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ[88]、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した[88]

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱をくくりつけた竹竿を玄関の前に立てた[89]

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた[90]。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした[90]。 吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[90]

隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた[91]

四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた[91]。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した[91]。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した[92]。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し[92]、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[92]。無事吉良を打ち取ったのである。

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[92]

ここまでわずか二時間程度[93]。 吉良側の死者は15人負傷者は23人であった[94]

一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し[95]、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎[96] と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている[95]

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった[97]

吉良の最期に関して

山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている[98]

その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており[98]、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという[98]

一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている[99]

泉岳寺への引き上げ

浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺

吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。 途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた[100]。 また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来から謎とされている(寺坂吉右衛門問題)。

泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香した[100]

赤穂浪士お預け

赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。

幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利松平隠岐守定直毛利甲斐守綱元水野監物忠之の4大名家に御預けとした[101][102]。赤穂浪士達は罪人というより英雄として4家で扱われたという[102]

浪士切腹の決定

赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日西暦1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである[103]

ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。 あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである[103]

通常、このような罪には斬首が言い渡されるが[103]、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の対面を重んじた切腹という処断になっている。

切腹

泉岳寺の赤穂浪士の墓
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦)西暦1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[104]。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[105]

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[104]

間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[106][104]細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している[107][108]

赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された[104]。 赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている[109]。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる[109])。

吉良家への処罰

赤穂浪士の切腹と同日[110]、吉良家を継いだ吉良左兵衛義周を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた[111]

幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている[111]。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである[111]

左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり[111]、ここに吉良家は断絶する事になった[112]

赤穂浪士の遺児の処罰と赦免

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[113]。(女子は構いなし[113])。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったと伝えられる[113]

間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は浅野内匠頭の正室・瑤泉院をはじめとした旧赤穂藩の関係者の働きかけにより、宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[114]

浅野家の再興

綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学も赦免され、500石の旗本に列した[115][116]

大石内蔵助の三男である大三郎も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1500石で召抱えられた[117][116]

「義士」論争

主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた[118]

儒学者たちの間でも、赤穂事件の是非をめぐって論争が巻き起こり、その論争は幕末まで続いた[119]。論争がこのように長く続いたのは、この問題が武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものだからである[120]

論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[12]。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである[12]

今日の目から見れば赤穂事件が「仇討ち」になるのは一見自明なように見えるが、この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[13]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[13]、事件当時は自明なことではなかった。今日「仇討ち」といえば親族の為にするものの他に主君の為にするものが想起されるのは、ひとえに赤穂事件が有名になったからに他ならない。

論争史

赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも林鳳岡が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した[121]。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した[121]。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な所には答えていない[121]

また同じく元禄16年には朱子学者室鳩巣が赤穂事件に関する最初の「史書」[122]である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した[122]。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし[122]、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした[122]。これにより「四十七士説」は生まれた[123]。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれてものである[124]

一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした[121]。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している[121]

荻生徂徠も『四十七士の事を論ず』(宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく、内匠頭の行為も先祖の事を忘れた不義の行為とした[121]。したがって赤穂浪士の行動は、同情の憐みを禁じえないものの、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとしている[121]。その後も浅見絅斎や三宅尚斎らにより義士論叢は続けられた[121]

享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判[121]した事で、義士論争は新たな局面を迎える[12]。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある[121]。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である[121]。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり[121]、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという[121]

以後、春台の論をめぐり、幕末まで論争は続く[121]

「忠臣蔵」の魅力

赤穂浪士の討ち入りが民衆から喝采を持って迎えられ、江戸時代から現代まで、「忠臣蔵」を描いた物語がありとあらゆるメディアで幾度となく作られてきた。その理由は何であろうか。

文学者のドナルド・キーンは忠臣蔵が元禄時代の人々の関心を集めた理由として当時の世相を指摘している。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において「武士道は過去のものであり、二度と戻らぬフィクションだと信じられていた。ところがその過去の夢がまったく突然に戻ってきた。それは赤穂四十七士の復讐」であったのである[125]

現代の「忠臣蔵」論の多彩な展開のいわば原点となっている[126]映画評論家の佐藤忠男の意見によれば、吉良邸討ち入りは「忠義」を名目にしているものの、本質的には武士の意地を示す行動であり、民衆もその意地に感動したのだという[127]

また忠臣蔵映画が大量に作られた理由として、忠臣蔵映画がいわば俳優の顔見せ的な役割を担っていた事が指摘されている[128]

一方歴史学者の山本博文は「忠臣蔵」に人気がある理由として仇討ち物語である事や幕府の抵抗としての側面がある事にふれた上で、「(忠臣蔵に)私達が感動しているのは、(中略)何か目標の為に、命を捨てて行動する「自己犠牲の精神」があるという単純な理由からなのではなかろうか」と指摘している[129]

尾藤正英は忠臣蔵に人気がある理由は「組織の名誉を守るためには、自己の命を捨てても悔いない心、すなわち士的な利害の関心を超えた、公共精神とでもいうべきものが、忠義として表彰されていた」事があると指摘している[130]

演芸作家で講談浪曲の著書がある稲田和浩によれば、人々が忠臣蔵を好む理由として以下の5つがあるという:判官贔屓、団体戦、散りゆく者の美学、献身、勧善懲悪[131]

映画評論家の谷川建司は忠臣蔵が愛されてきた理由としてカタルシスを挙げている。たとえば浅野内匠頭の切腹の際、無言である事を条件に切腹への立ちあいを許された片岡源五右衛門のエピソードのように、「口には出さなくとも分かってほしい」という強い願望と、「口には出さずともおまえの気持はよくわかってる」というエピソードを追体験する事で、強いカタルシスを感じられるようにデザインされている事が忠臣蔵の魅力なのだとしている[132]

谷川はまた、高度経済成長期に忠臣蔵が人気があった理由として、四十七士の達成感をスクリーンを通じて共有する事で、第二次大戦の敗戦でずたずたになった日本人のプライドの「再生」を確認する事があったのではないかと述べている[133]

関連人物

主な四十七士

四十七士の傾向

討ち入り参加者の半数強にあたる24人が、内匠頭刃傷の際、江戸にいた浪士たちである[134]。藩士の多くは国元にいた事を考えれば、この比率は際立って高い。 国元在住だが江戸まで内匠頭についてきて刃傷事件に遭遇したものも12人いる[134]

家臣団の頂点に位置する家老4人と番頭5人のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助のみで[134]、物頭は吉田忠左衛門と原惣右衛門のみであり[134]、残りは用人、馬廻、小姓、およびその家族が大半であった[134]

また親族での討ち入り参加が多く、単独で討ち入りに参加したものは21人、残り26人は親子あるいは何らかの親族関係のものとともに討ち入りに参加している[134]

討ち入り参加者の多くは内匠頭個人から特別な恩寵を受けたものはおらず[135] 、むしろ内匠頭との関係が悪かったものもいた。

例外は片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門で、彼らは浅野内匠頭の側近であり、一昔前であれば内匠頭の死とともに殉死するような関係にある[136]

一方内匠頭と関係が悪かった例としては千馬三郎兵衛がおり、千馬は主君に度々諫言して不興を買い、閉門にさせられ、刃傷事件のあった元禄14年の3月には永の暇乞いをしようとしていたほどであったにも関わらず、討ち入りに参加している[135]

不破数右衛門も内匠頭から勘気を蒙り、刃傷事件の際には浪人中だったにもかかわらず、内蔵助に頼んで討ち入りに参加している[135]

大石主税

大石主税(おおいしちから)は大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少で、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた[137]

討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた[137] 。享年16[137]

吉田忠左衛門

吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)は大石内蔵助に次いで事実上の副頭領[138]。足軽頭で裏門隊の副将を務めた。享年64[138]

寺坂吉右衛門

寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である[139]

おそらくもともとは百姓で[140]、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した[140]

討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった[139]

姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である(後述)。

堀部安兵衛

堀部安兵衛(ほりべやすべえ、やひょうえ)は江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。

25才の時[141]に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34[141]

堀部弥兵衛

堀部弥兵衛(ほりべやへえ)は四十七士最高齢で享年77[142]

高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした[142]

不破数右衛門

不破数右衛門(ふわかずえもん)は元禄10年頃[143]浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していたが、浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加[143]

吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す[144]。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという[144]。享年34[143]

矢頭右衛門七

矢頭右衛門七(やとうえもしち)は大石主税に次ぐ若年である[145]

刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する[145]。享年18[145]

討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという[146]

武林唯七

武林唯七は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人の孫で、中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った[147]

唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった[147]。享年32。

主な脱落者

脱落者の傾向

赤穂藩士に士分の子や隠居を含めた三百数十人のうち[148]、1/3以上が神文を提出[148]。そこから80名ほどが脱名し[148]、討ち入りに参加したのは46名(寺坂は士分ではなく足軽身分)であった。 神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり[148]、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した[148]

最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし[148]、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう[148]

離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった[149]

たとえば四十七士の一人である小野寺十内は義兄(妻の兄)が脱盟したため義兄を義絶したが、その結果として小野寺の妻「おたん」は兄を頼る事ができなくなってしまっている[149]。 おたんは討ち入り後、京都で自害している[149]

大野九郎兵衛

誠忠大星一代話九。下は大星(史実の大石内蔵助)、上は小野九太夫(史実の大野九郎兵衛)。左上の説明よれば、「臆病の首魁」である小野は城引き取りの際、藩の用金を多く受け取り銀札引き換えで町人から余金を受け取ったが、「不忠の天罰」で乞食になり果てた

大野九郎兵衛(おおのくろべえ)は赤穂藩の次席家老で、平時には藩札のシステムを作るなどの貢献があった[150]

しかし赤穂藩取り潰しが決まると、切腹に反対するなど弱腰の姿勢を見せ[43]、原惣右衛門が賛同できないものはこの場を去るようにと言うと、大野は10人ほどの者とともに立ち去った[43]

4月12日に赤穂城の明け渡しが決定すると、その日の晩に息子の郡右衛門とともに逃亡した[46][151]。逃亡に際し郡右衛門の幼い娘を置き去りしていったという[151]

逃亡の原因は、『江赤見聞記』の巻二によると、大野が藩庫金の分配に関して岡島八十右衛門と揉め、命の危険を感じた事が原因だというが、よくわからない[151]

こうした経緯もあってか、忠臣蔵のドラマでは「不義士」の親玉として描かれることが多く、元禄16年に書かれた『易水連袂録』ではすでに「日本無双大臆病ノ腰抜」と描かれている[151]

宮澤誠一は「義士」伝説が創出される際、大野がいわば悪役としてスケープゴートにされた形だと評している[151]

岡林杢之助

岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)は最初から盟約に加わらなかったが、四十七士が討ち入りを果たした事が伝わると、兄の孫左衛門や弟の左門から不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した[152]

寺井玄渓

赤穂藩の医師である寺井玄渓(てらいげんけい)は円山会議以前から浪士たちの活動を支えており[153]、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが[153]、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている[153]

高田郡兵衛

高田郡兵衛(たかだぐんべえ)は討ち入りに参加した堀部奥田と同じ堀内道場の同門であった[154]ためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。

父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父に話さざるを得なくなったからである[155]。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟[155] 。最初の脱盟者となった[156]。元禄14年12月頃のことである[157]

高田は討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された[155] 。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた[155]

萱野三平

萱野三平(かやのさんぺい)の父は三平に他家への仕官の口を見つけてきた[155]。赤穂浪士の密命に参加したかった三平は仕官を固辞したものの父が仕官の内諾をもらってしまう[155]。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった[155]

小山源五左衛門、進藤源四郎、大石孫四郎、奥野将監

小山源五左衛門(こやまげんござえもん)、進藤源四郎(しんどうげんしろう)の二人は大石内蔵助の親戚で[158]、大石と常に行動を共にしてきた中核的なメンバーだった[75]にも関わらず、浅野大学の処分が決まり、浅野家再興の望みがなくなると脱盟してしまった[158]

なお小山は山科会議の際すでに消極的な姿勢を見せていたが、同時にその裏では堀部等急進派に同調するような書状も送っていた。それゆえ堀部等急進派は小山の事を信じ、大石をはずして小山を急進派の首領に担ぎあげようと画策していたのだが、山科会議での態度を見て堀部等急進派は激怒した[159]

同じく大石の親戚にあたる大石孫四郎(おおいしまごしろう)もその後の円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した[158]

実録物の『赤穂義士伝一夕話』では討ち入りと老母の世話とどちらをするか弟の大石瀬左衛門と籤を惹いたとあるが、史実ではそのようなことはなく、大石孫四郎は脱盟により四十七士の一人である弟の大石瀬左衛門から義絶されている[158]

また小山源五左衛門の娘ユウは、四十七士の一人である潮田又之丞のもとに嫁いでいたのだが、源五左衛門の脱盟により実家に返され、源五左衛門ともども又之丞から義絶された[160]

奥野将監(おくのしょうげん)も大石の親戚で[75]、城明け渡しの際最初に血判状に署名し、大石とともに幕府の対応にあたるなど、大石を支えてきたが、円山会議の後、もう一度お家再興の嘆願をすべきだと主張して脱盟した[75]

橋本平左衛門

浅野内匠頭の刃傷事件のとき18才だった橋本平左衛門(はしもとへいざえもん)は赤穂浪士の密命に加わっていたが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった[161][162]

2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされる[161]が、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある[162]

小山田庄左衛門、田中貞四郎

小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)は四十七士の一人である片岡源五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した[163]。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった[164]。酒が原因で金に困っていたという[164]

庄左衛門の父である一閑は、このことを知ると、刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した[163][165]

田中貞四郎(たなかさだしろう)も酒の虜になり、その二日後に逃亡した[164]。田中は病毒のため、顔まで変わっていたという[164]

渡辺半右衛門、中村清右衛門

渡辺半右衛門は四十七士の一人武林唯七の兄にあたる人物である。渡辺は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している[166]

中村清右衛門は年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた[167]

瀬尾孫左衛門、矢野伊助

内蔵助の家来である[168]瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)は、山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた[169]。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが[170]矢野伊助(やのいすけ)とともに脱名[170]

二人の脱盟は元禄15年12月6日の事とされるが[84]、『寺坂私記』によれば元禄15年12月12日に内蔵助留守中に矢野伊助とともに平間村から姿を消したとあり[170][171]、 これが事実なら通常「最後の脱名者」とされる毛利小平太よりも後に脱名したことになる[170]

毛利小平太

毛利小平太(もうりこへいた)はさる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入し、世間で言うほど警備は強固でないという報告をもたらしたこともあるほどの男であった[172]。にもかかわらず討ち入り三日前の元禄15年12月11日に脱盟[172]。最後の脱盟者となった。

同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという[84]

吉良方

吉良上野介の親族

吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。

上杉綱憲

吉良の妻富子は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで上杉綱憲となっている[173]。 上杉綱憲は将軍徳川綱吉の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる[173]。 忠臣蔵を題材にしたドラマなどでは、父のために援軍を送ろうとする綱憲に対して家老・色部安長または千坂高房がこれを諌める場面が描かれる。しかし、色部安長は実父の忌日で上杉家に出仕しておらず、千坂高房に至っては2年前にすでに他界していた。この日に綱憲を止めたのは家臣ではなく、幕府老中からの出兵差止め命令を綱憲に伝えるべく上杉邸に赴いた、遠縁筋の高家畠山義寧であった。

また吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている[174]

赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した[175]。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している[175]

にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった[176]。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ[176]

小林平八郎

小林平八郎(こばやしへいはちろう)は『大河内文書』によれば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたとしている[177]

一方、赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』には「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」となっている[177]

山吉新八郎

山吉(小牧)[178]盛侍(やまよし もりひと)、通称山吉新八郎(しんぱちろう)は吉良上野介の家臣[178] 、近習[178]。(吉良義周の中小姓[178])。

赤穂浪士討ち入りの時負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従い、義周が亡くなるまで面倒をはじめとする見た[178]

清水一学

五代目尾上菊五郎扮する清水一学(豊原国周画)

清水一学(しみずいちがく)は、忠臣蔵のドラマなどでは剣の達人として伝わる人物。

実際には吉良家の中小姓[179](用人[180][179])である。 『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある[179]。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ[179]

なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持[179]とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」[179]とあり、近習なのか用人なのか不明。

江戸時代の歌舞伎では実際の人物の名称を使うことが禁じられていたため、作中では「清水一角」 [181] 、「清水大学」[182]などと 表現される。

その他

梶川与惣兵衛

梶川与惣兵衛は松之大廊下の事件に立ち会った人物で、梶川が吉良と立ち話をしているところに浅野が斬りかかってきたので、すぐさま梶川は浅野を取り押さえた。 この行動が幕府に評価されて500石加増になり、旗本になった[183]

しかし浅野の不幸をもとに旗本になった形なので、世間の評判は悪化した[183]。 その為か梶川は後になって浅野の無念を慮るべきだったと後悔した旨を記しているが、そのような議論は「朋友への義」に過ぎず、「上」に対してはこのような議論は無用だと弁明している[183]

刃傷の理由

遺恨に関して

浅野内匠頭は刃傷に及んだ理由を説明していない為、刃傷の原因は今日に至るまで不明である。

原因は何らかの「遺恨」にあるとされ、『梶川与惣兵衛筆記』の写本によっては内匠頭は刃傷の際「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったと書いてあるし、『多門伝八郎覚書』には、多門が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で次のように述べたという[184]

「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」[184]

また浅野内匠頭は事情聴取に対し「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている[185]

一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている[186]。 しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのようにいうであろう[186]

四十七士の一人堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:

伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候[186]
伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃりました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております[186]

内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたのはおそらく刃傷事件当日だろうから堀部弥兵衛がどこまで事情を知っていたか疑問ではあるが、少なくとも家臣達にはそのように言われたと信じていたのだろう[186]

なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている[186]。 実際、この時代悪口は明文化されてないものの「殺害同様の御制禁」だった[186]

刃傷は突発的なものか

梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい[187]、刃傷は突発的犯行だった事が推測される[187]。実際、刃傷の無計画さはよく指摘され、吉良を仕留めるのであれば、切りかかるのではなく刺し殺すべきで[187]、江戸城における過去の刃傷事件では、小刀で刺す事により、相手を仕留めている[187]

また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)

此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候[186]
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)

「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる[186]。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる[186]

賄賂

当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。 ただし、たかだが五千石の高家である吉良から浅野などの大名が指南を受ける場合何らかの贈り物をするのが当然だった[188]


賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:

上野介欲ふかき人故、前々御務めなされ候御衆、前廉より御進物等度々これ有る由に付き、喜六、政右衛門、御用人どもまで申し達し、御用人共も度々その段申し上げ候処、内匠頭様仰せにも、御馳走御用相済み候上にてはいか程もこれを進らせらるべく候、前廉に度々御音物これ有る儀は如何しく思し召され候由、仰せられ候。尤も、格式の御付届けの音物は前廉に遣わされ候由也[188]
(上野介は欲が深い人なので、以前に御勤めなさった方も、前もって御進物等を度々していたので、喜六や政右衛門、御用人たちまで伝え、御用人たちも度々その段を申し上げたけれども、内匠頭様は「御馳走御用が済んだ後にはどれほどでも進(まい)らせたいと思う。しかし、前もって度々御進物を贈るのは、如何かと思う」と仰せられました。もっとも、決まった御付届けの進物は前もって遣わされていたということです)

文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である[188]

また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある

吉良殿日頃かくれなきおうへい人ノ由。又手ノ悪キ人二て、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞二御越候時も、雪舟ノ三ふく対御かけ候へハ則こひ取被成候よし。ケ様之事方々二て候故、此方様へ御越之時も御出入衆内々二て、目入能御道具被出候事御無用と御申被成候由二候[188][189]
(吉良殿は平成有名な横柄人人だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です。

ただしこの記事は事件直後のものなので、内匠頭への同情が入っているかもしれない[188]

尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:

吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る[188]
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)

朝日は当時名古屋にいたから、これが全国的に広まった噂なのであろう[188]

浅野内匠頭のストレス

『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている[190]。 御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった[190]。 また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた[190]事もストレスの表れかもしれない。

こうしたストレスが爆発して、刃傷に及んだのかもしれない[190]

前回の勅使御馳走役の差

浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない[190]

また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた[190]。 浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、 風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。

浅野内匠頭の性格

吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ[191]、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している[191]

『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼる状態にある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきたままだ」とある[192]

そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている[192]

元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている[192]

多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない[193]。 幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった[193]

否定された理由

吉良のいじめ

畳替えのいじめがあったとされる増上寺の山門

史実に俗説を取り交えて書かれた[194]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し、「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[194]。 同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[194]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[194]

後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[194]。 同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[194]。 そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[194]。 梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[194]

しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである[194]

また忠臣蔵のドラマ等では、吉良による以下のような苛めが描かれるが、佐々木杜太郎はこれに対して反証をしている。

  • 増上寺や寛永寺の畳替えが必要なのに、吉良が「畳替えは必要ない」と嘘をついた、というもの。しかし当時の御馳走役の任務に増上寺や寛永寺の警護は入っていたが修繕は入っていないし[195]、刃傷は増上寺の参詣の翌日の事であるので[195]信憑性に乏しい。
  • 殿中での服装は本来、烏帽子大紋なのに、長上下を身に着けるべきだと吉良が内匠頭に嘘をついた、というもの。しかし内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、服装に関してはすでに知っているはずであり、信憑性に乏しい[195]
  • 伝奏屋敷に墨絵の屏風が置いてあったが、吉良から難癖をつけられたので、あわてて金屏風に取り換えた、というもの。史実としても刃傷後に伝奏屋敷に引き取りに行った道具の目録に金屏風がある[195]。しかし天保8年の文献に「伝奏屋敷は前々から金屏風であった」と書いてあり、初めから金屏風があったものと思われる[195]。しかも内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、この辺も熟知していたはずである。
  • 老中の連名の奏書を吉良が内匠頭に見せなかったというもの。信夫恕軒の『義士の真相』などに載っている説である[195]が、事件の場に立ち会った梶川与惣兵衛による『梶川与惣兵衛筆記』には奏書の事は書いておらず[195]、信憑性に乏しい。

持病説

浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[196]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[197]。 一方痞とは癪の事とも解され[198]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいると考えられ」[198]る。

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[198]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[198]。 宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[194]

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている[199]ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実記』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[200]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[199]。 しかも『徳川実記』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[200]

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[200]

塩の生産をめぐる対立

赤穂の塩田(赤穂市立海洋科学館

浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方におけるの製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[201]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩でとらえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[201]

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[201]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[202]、他にも海音寺潮五郎南條範夫もこの説に沿った本を出している[201]

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実であるが[201]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[201]。事実、赤穂の技術は瀬戸内海各地に急速に広まっていったし[201]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[201]、吉良との間に塩業で確執が生まれるはずがない[201]

また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており[203]、販路の点でも直接の競合関係にない[203]

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説

『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[195]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5才であり、この説には信憑性がない[195]

衆道に関する怨恨

浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[204]文献にこの説がでている[195]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[205]

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[195]

茶器に関する怨恨

浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[195]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[195]

一休の書画の鑑定に関する怨恨

浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[195]

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[195]

内匠頭の謡曲

明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[195]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[195]。 これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[195]

寺坂吉右衛門問題

四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。

そもそも討ち入りに参加しているか

今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り後の引き上げの際だと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には

  • (1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」[206]

と、「十四日暁」まではいたが吉良邸にはいかなかったと書いてある。(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)。なお当時の感覚では夜明けが来るまでを「十四日」とみなしていたので、「十四日暁」というのは今日の言葉でいえば十五日の夜明けの事である[206]

また原惣右衛門が堀内伝右衛門に対して「寺坂は討ち入り前までいたが討ち入り時に逐電した」という趣旨の事をいっており[206]、やはり寺坂は討ち入りに参加していない事になる。

しかし八木哲浩は以上の発言は「誤解か作為のあるもの」[206](すなわち間違いか嘘を含んだもの)で実際には寺坂は討ち入りに参加しているのではないかと述べている[206]。その証拠として八木哲浩は、『堀内伝右衛門筆記』において吉田忠左衛門が討ち入りについて述べている箇所の記述と寺坂が『寺坂信行筆記』で討ち入りについて述べている箇所の記述がほぼ同一である事を挙げている[206]。『堀内伝右衛門筆記』と『寺坂信行筆記』は互いに相手を参照できない状況で書かれており、両者の内容が偶然一致する事はありえない[206]。したがって、寺坂が討ち入りに参加して吉田忠左衛門とともに行動していたと解釈するのが正しいと思われる[206]

そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている[207]

また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており[206]、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし[206]、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである[206]

逃亡か否か

泉岳寺における寺坂吉右衛門の供養塔(明治元年建立)。戒名が「逐道退身信士」と逃亡説に基づいたものになっている

『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が

  • (2)「此者(=寺坂)は不届者にて候。重ねては名をも仰せ下さるまじく」[208]

と発言したとある。これを字義通りにとれば、寺坂は逃亡したのだという事になろう。

実際、『堀内覚書』を書いた堀内伝右衛門は、一方では寺坂は吉良邸まできて「欠落」したらしいと聞き、他方では寺坂は仇討の成就を伝える使いを申し付けられたのだと聞き判断に迷っていたが、(2)の忠左衛門の言葉で「実の欠落」なのだと推測した[209]

しかし逃亡説を支持しない立場からは、寺坂の密命を隠すためにあえてこのような嘘をついているとも考えられる[208]

実際下記のように、寺坂は単純に逃亡したのではなかろうと推測される文献が残っている。

  • (3)元禄16年2月3日に忠左衛門が娘婿伊藤藤十郎に当てた書状には「寺坂の事は是非を申しがたい。一旦公儀へ提出した書状に名が出ているので仲間として是非を申せない」、「仙石様屋敷でも(中略)一人が欠落ちしたと申し上げてある」、「寺坂についてはうかつな事は言わないようにしてもらいたい」と書かれている[210]
  • (4)同年2月26日には忠左衛門の親戚拓植六郎右衛門の書状に「吉右衛門はさりとては〳〵頼もしき心中、忠左衛門の頼もあるから自身に引とって世話したい」とある[208]
  • (5)忠左衛門の親戚である平地市右衛門の宝永7年の書状に「寺坂吉右衛門の身の上気の毒である」とある[208]

佐々木杜太郎は以上の書状を根拠にして逃亡説を退けている[208]

寺坂当人も『寺坂信行筆記』において

  • 私儀も上野介殿御屋敷へ一同押し込み相働き、引き払いのとき子細候て引き別れ申し候[211]

と、事情があって離れた旨を書いている

佐々木杜太郎はさらに逃亡説を退けてる理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に関しては用意周到な内蔵助が公儀への報告と矛盾する事を書くとは思えない[208]
  • 忠左衛門の(2)の発言における「重ねては名をも仰せ下さるまじく」という言い方は「この件についてはこれ以上触れるな」と言外に言っているようにも取れる[208]
  • 寺坂は12年も吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家と忠左衛門の妻子の面倒を見ており、逃亡した人間ができる事とはおもえない[208]

野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に書かれた討ち入り参加者のリストには寺坂の名が載っているにも関わらず、寺坂に関しては前述のように「是非に及ばず候」と書いてある。これは「今後寺坂については触れるな」というメッセージだとも取れる[212]
  • (2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している[212]

一方八木哲浩は寺坂が自分の考えで姿を消したのだろうとして[207]逃亡説を支持している。八木哲浩は後述する理由により密命説を退けた上で、(3)の書状には忠左衛門が伊藤に寺坂の事を頼むとも書いてあるので、忠左衛門が寺坂をかばおうとする姿勢が見て取れるとしている[207]

密命を帯びていたか否か

密命説に肯定的な意見

野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている[212]

松島栄一は討ち入りの件を広島浅野本家などに報告させるため、内蔵助達が寺坂を逃がしたのではないかとしている[213]。寺坂は身分が低い足軽である為追求されることもなく、報告役として適任だった[213]

実際、事件当時から寺坂は広島浅野本家に報告に行ったのだろうという推測があり、例えば吉田忠左衛門が仙石邸で「組足軽一人が吉良討ち取り後に見えなくなった」といったところ仙石家中のものは広島の浅野大学のもとに事件の報告に行ったのだろうと推測したし[214]、堀内伝右衛門も同様の事を言っている[214]

また『寺坂信行私記』には寺坂の孫が

  • (6) 祖父吉右衛門儀は、その場より芸州江注進のため罷(まか)り越す。右芸州へ罷り越し候訳(わけ)は、内匠頭殿舎弟大学との居られ候に付き、内蔵助より差図(さしず)に付き罷り越し候[211]

と内蔵助の指図により、浅野大学に報告しに行くためにその場を離れたと記している。ただし、これは後になって書かれたものなのでそのまま信じることはできない[211]

初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた[209]

密命説に否定的な意見

一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」[209]としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。

第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである[209]。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている[209]

第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である[209]。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない[209]。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べている[209]。つまり危険を冒して寺坂を派遣するまでもなく、無人や三平に言伝を頼むなど、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである[209]

佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている[208]

八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。 前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない[214]。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている[214]。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである[214]

山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している[215]

また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い[214]。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう[214]

なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる[214]

さらに言えば、前述のように寺坂は泉岳寺引き上げの早い段階で姿を消していると考えられ、大石が播磨にいくよう説得する暇がなかったと思われる[216]

また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないかと八木哲治は述べている[216]

その他の説

佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる[208]

  • 公儀に対する遠慮:高家に武士が乱入して首を取っただけでも公儀から秩序の破壊とみなされかねないのに、身分の低い足軽である寺坂吉右衛門が討ち入りに加わっていたら問題視されるので、寺坂を除外したというもの[208]
  • 亡君の名誉の為:身分の低い足軽である寺坂が討ち入りに加わっては亡君の名誉にならないので、寺坂を除外した[208]
  • 寺坂の本意から:寺坂は吉田忠左衛門に使える足軽なので、直接の主人は浅野内匠頭ではなく忠左衛門である。よって他の者と違い、討ち入り後は忠左衛門の意思を重んじて退去し、忠左衛門の家族に活躍を物語ったとするもの[208]

佐々木杜太郎は「公儀に対する遠慮」や「亡君の名誉の為」という理由であるなら、なぜ最初から寺坂吉右衛門を同志に入れたのかという疑問がわくという理由により、最後の「寺坂の本意から」の説をとっている[208]

また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている[217]

その他特記事項

「此間の遺恨、覚えたるか」

『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない[218]

刃傷の場所

浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ場所は通説では江戸城の松之大廊下であるが、本当の刃傷の場所は中庭を隔てて反対側の柳之間の前の廊下ではないかという説がある[219]

その根拠は、松之大廊下は将軍や御三家、勅使などの特別に地位の高い人が通る場所で高家の吉良が通れる場所ではない事と、赤穂浪士切腹直後に書かれた『易水連袂録』に「浅野と吉良が柳之間で言い争いをした後に吉良が廊下を逃げていき御医師之間の前で浅野が刃傷に及んだ」という趣旨の事が書かれている事である[219]

しかし宮澤誠一は、刃傷の場所は通説通り松之大廊下であろうとし、その根拠として事件の場に居合わせた梶川与惣兵衛による『梶川氏日記』に刃傷の場所が松之大廊下だと書いてある事と、田村家の記録に松之大廊下で事件があったと推定される場所に勅使と高家の控える定位置が記載されている(ので高家の吉良はこの日松之大廊下にいた可能性が高い)事を挙げている[219]

にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう[219]。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている[219]。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう[219]

太平記との関係

元禄時代に『太平記』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた[220]。 このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記なぞらえて表現している[220]

たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている[221]し、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している[221]し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある[220]

また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出たと『易水連袂録』に載っているし[222]室鳩巣も大石を楠木正成にたとえてる[222]

浪士お預けに関する俗説

赤穂浪士の討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し[223]、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる[223][224]。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという[224]。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている[224]

また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、山本博文と宮澤誠一によればこの文章は偽書であるという[225][226]。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし[225]、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える[226]など不自然な点が多いからである。

一方、八木哲浩は上述した不自然な点をみとめつつも、「評定所一座存寄書」は偽書ではないだろうとし、その根拠として『徳川実記』に文書の記述と符合する部分がある事をあげている[227]。『徳川実記』は江戸後期に成立したものなので、『徳川実記』の記述も偽書を写している可能性もあるが、八木は幕府内に残された何らかの確かな史料を元にしたとする方が自然ではないかとしている[227]

浪士決定に至るまでの議論

切腹が決定するまで幕府内でどのような議論がなされたのかに関し、2つの異なる話が伝えられる。

1つは『徳川実記』に載っている話で、この史料によれば幕閣での議論が収束せず、日光門主公弁法親王に意見を求めたという。 このとき公弁法親王は以下の趣旨の返答をし、これにより切腹が決まったという―「彼らが主の讐を遂げた事は立派だが、その志を果たし今は心残りはないだろう。彼らは公の刑に身を寄せると申し出ているのだから今さら彼らを許しても他家につかえる事もできない。彼らの武の道を立て死を賜った方がよかろう」[103]

しかし『徳川実記』は事件から百年以上経ってから成立した史料であり、しかも『徳川実記』は以上の事実を伝聞として伝えるのみでその真偽を保留している[228][103]。 おそらく将軍綱吉と懇意であった公弁法親王に仮託して述べた虚説であろう[228]

もう一つの話『柳沢家秘蔵実記』に載っている話で、この史料によれば、老中等が赤穂浪士の討ち入りは「夜盗の輩」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定したのだという[228]。しかしこの決定に不満を持った側用人柳沢吉保が家臣の儒者・荻生徂徠に相談したところ、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている忠孝の道にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べた[228]。この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったという[228]

徂徠が幕府に提出した答申書と言われる『徂徠儀律書』でもやはり切腹を献言しており、この史料の趣旨は「赤穂浪士の報讐は義にかなっているが、それは自己の一党に限る話だから所詮は私の論である。したがって天下の規矩である法を維持する立場に立って武士の礼にかなう切腹を申しつければ、上杉家の願いにもこたえ、赤穂浪士の忠義も認めた事になる」[228]

しかしこうした話にも疑問が残り、『徂徠儀律書』の内容は同じく徂徠が著した『四十七士の事を論ず』の主張と決定的に矛盾しており、前者では赤穂浪士の討ち入りを「義にかなった」仇討ちであるとみなしているのに、後者では討ち入りを不義とみなしており仇討ちであるとも認めていない[228]

以上の事から宮澤誠一は『徂徠儀律書』と称される史料は徂徠が書いたものではなく、『柳沢家秘蔵実記』も柳沢吉保が自己弁護の為に事実を転倒させているのではないかと述べている[228]。 八木哲浩も宮澤誠一と同様の理由で『徂徠儀律書』は後人の作だろうと述べている[227]

上杉綱勝の毒殺

吉良上野介が上杉家を乗っ取るために上杉綱勝を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。

三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、その為に綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」[229]。 この毒殺説は三田村鳶魚が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが[229]、鳶魚は後にこの説を撤回している[230]


『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛っため綱勝が死去したと曲解したものである[231][信頼性要検証]

また、綱勝が死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子にいって上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子元候補のひとつに過ぎなかったからである[232][233][信頼性要検証]

浪士の娘だと騙る女たち

赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。

妙海尼堀部安兵衛の娘だと騙り、清円尼は大石内蔵助の娘だと騙り[234]長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った[234]

吉良の服装

映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央(従四位上左近衛権少将)の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、映画『元禄忠臣蔵』などに見られる狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)の装束、映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の公式行事での装束は昇殿もできる直垂である。このうち前者は、「侍従・四品・諸大夫」と列挙した場合の「四品」は、あくまで「侍従成していない従四位の者」に限られるのを「四位の者全員」と解した時代考証の誤りによるところが大きい[235]。後者は、大紋(大紋直垂)と直垂の外見上の差は家紋の有無だけであり、見栄えからあえて大紋を使ったフィクションとも考えられる。

後世の顕彰

逸話や伝承

赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

松之大廊下の刃傷に関する逸話

柳沢吉保の関与

絹本著色柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)

忠臣蔵のドラマでは、当時将軍の側用人として権勢をふるった柳沢吉保が、いわば事件の黒幕として振る舞っていたように描くものがあり、例えば大佛次郎の『赤穂浪士』では柳沢は吉良に「聞き分けのない浅野はいじめてしまえ」という趣旨のことを言っている。

史実でも『多門伝八郎筆記』には柳沢の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった旨が書いてあり、事件への柳沢の関与をにおわせるが[238]、後述するようにこの文献の記述には創作が多い。

脇坂淡路守が吉良に一矢報いる

殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。

この話1912年の浪曲の筆記本にすでに見える[239]

なお、史実において脇坂安照は赤穂城受け取りの時の正使であった[240]

切腹を迫られる吉良

柳沢吉保が吉良上野介に切腹を申しつけたという風聞が『浅吉一乱記』に記されている[241]

一方初期の実録本『赤穂鍾秀記』には吉良上野介が妻の富子から切腹するように言われたとか、上杉家の家老からもし吉良が切腹すれば追い腹を斬ると言われたとあるし[241]、『江赤見聞記』の七巻も上杉綱憲の近習から吉良が存命だと上杉家に災いがあるかもしれないから切腹するよう勧められたという風聞を記している[241]

浅野内匠頭の切腹に関する逸話

『多門伝八郎筆記』における逸話

浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時の事を記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマ等で描かれる事も多い。 以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、創作が多分に含まれている[238]事が判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。

  • 多門が浅野を慰める)多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた[238]。そこで多門が武士の情けで「相手は高齢だから養生はおぼつかないだろう」と慰めた所、浅野は喜んだ表情を見せた[238]
  • 多門が幕府の裁定に抗議柳沢吉保の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった[238]。これに憤慨した多門が裁定は「片落ち」である旨を抗議したところ、多門は柳沢の怒りを買い、目付部屋に軟禁された[238]
  • 多門が庭先での切腹に抗議)浅野の切腹場所を庭先の白洲にて行うよう庄田下総守が指示したものの、これに不満を持った多門は「庭先での切腹など一城の主にはあるまじき事」だという趣旨の抗議をし、立腹した庄田と掴み合いになりかけた[238]
  • 多門が片岡源五右衛門の今生の別れを許可)浅野の切腹の直前、赤穂藩士の片岡源五右衛門が今生の別れをするために会いに来た。多門は「明日は退役と覚悟いたし」[238]て片岡を浅野に会わせた[238]。しかしこの逸話の信憑性は疑わしく、切腹を行った田村家の記録にはそのような事は記載されていないうえ[238]、『杢助手控』にはその期間は誰も立ち入りさせないよう厳命があったと記載されている[238]。さらに赤穂側の資料にもこの件は記載されていない[238]
    • 切腹の翌日にあたる3月15日に片岡源五右衛門が多門を訪ねて上記の件の礼を言い[238]、同年11月23日にも城内の「中の口」で多門に会って「もはや二君に交えず、この春から町人になる」という趣旨の事を言った[238]。しかし一塊の浪人にすぎない片岡が中の口に入るつてはない[238]
  • 浅野内匠頭の辞世の句)浅野は切腹に際して辞世の句を詠み、その内容は「風さそふ花よりもなほ我はまた花の名残りをいかにとか(や)せん」というものであった[238]。この逸話も田村邸の記録や赤穂藩の記録になく[238]、信憑性は疑わしい[238]
  • 浅野本家の抗議)3月15日に広島藩浅野本家の松平安芸守は切腹の場所が不当であると松平陸奥守と田村右京太夫に厳重に抗議した[238]。この逸話は『冷光君御伝記』にすら記録がなく[238]、信憑性は疑わしい[238]

なおドラマ等では、上述した片岡源五右衛門のエピソードに関して、浅野内匠頭と口をきかない事を条件として片岡を浅野に会わせるものも多い。

母の葬式と出くわした萱野

講談に次のような話がある[242]

赤穂藩士の萱野三平は、同じく赤穂藩士である早水藤左衛門とともに、浅野内匠頭の刃傷の急報を告げるべく、早駕籠で赤穂城へと向かっていた。

しかしその途中萱野の実家の近くを通りかかったとき、葬式の列に出くわす。聞けばなんと萱野の母が亡くなってしまっていたのだ。

だが今はお家の一大事を赤穂へと伝えに行く途中。葬式への出席を断念し、赤穂へと急ぐのだった。


すでに『赤穂義士伝一夕話』にこの話が出ている。

赤穂開城の逸話

藩札交換の逸話

伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような話がのっている[243][信頼性要検証]

赤穂の政治は次席家老の大野九郎兵衛が上席で全て取り仕切っていたので、民は税の取り立てに耐えれなかった。

そのうち内匠頭の刃傷が起こり赤穂城が開城すると、民は大いに喜んで餅をついて賑わった。

そこへ大石が出てきて事を取り仕切り、赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので、皆は大いに驚き、「この城中にこのような計らいをする人がいるのか」と顔を改めた。

大石の忠僕

伴蒿蹊『近世畸人伝』「大石氏僕」の挿し絵[244]

伴蒿蹊の『近世畸人伝』の巻之二に次のような話が載っている[245]

赤穂開城の後、大石が赤穂を離れ京に登ろうとするとき、老僕の八介が訪ねてきた。

八介は大石に付き従って京に行きたいが、この年ではそれもかなわない、何か形見の品がいたたげないだろうか、と言った。

大石はあらかたの荷物を既に京に送っていたので形見にするものもなく、仕方なしに金子を八介に渡すことにした。

だが大石のこの行動に対し八介は、金子のどこが形見なんだと腹を立てる。

そこで大石は紙をひろげて墨で絵を描いて、これを形見とした。その絵は若き日の大石が八介と吉原に遊びに行ったときの二人の様子を描いたものだった。

「これに勝る形見はない」と八介は喜び、泣いて暇乞いをして去っていった。


なお、『近世畸人伝』には「寺井玄渓 」[246]、「小野寺秀和妻」[247]という話も載っており、前者は藩医の寺井玄渓が盟約に加わるのを大石に断られる話、後者は小野寺十内とその妻の心温まる書状の話でいずれも史実に基づく。

大石の遊興

『仮名手本忠臣蔵』七段目で大星由良助(史実の大石内蔵助)が遊んでいる祇園の一力茶屋のモデルになったとされる万亭。「万」の字を上と下に分割して「一力」にしたという。現在では『仮名手本忠臣蔵』に合わせて「一力亭」という名前である[248]

人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとして元禄赤穂事件を描いたドラマでは山科で暮らしていた頃の大石が花街で派手に遊ぶ様子が描かれる事が多い。

この遊興により、大石に仇なすものはもちろん、大石が吉良を仇討ちすると信じていたものも愛想を尽かし始める。例えば講談では大石が吉良の仇討ちをしてくれるものとかたく信じる薩摩武士の宇都宮重兵衛が、大石のあまりの姿に呆れ果てている[249]

多くのドラマでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊び呆けたのだとされ、たとえば仮名手本忠臣蔵でも、遊興により斧九太夫(史実の大野九郎兵衛)の目を欺いている。

一方、仇討ちの重圧から逃れるために遊んでいたとするドラマもあり、例えば芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』では大石は単に仇討ちを忘れて楽しんでいただけなのに、周囲がそれを誤解して敵を欺く計略なのだと賞賛する場面が描かれている。

大石の妾

大石の遊興に絡んで、大石が妾を作るエピソードが入る事もある。

例えば『仮名手本忠臣蔵』では、大星(史実の大石)は一文字屋の「お軽」を身請けしようとする(ただしこれは、仇討ちに関する密書を盗み見たお軽を亡き者にするための口実)。

講談でも大石の遊興をおさめるために、小山源五左衛門と進藤源四郎が二文字屋次郎左衛門の娘「お軽」を妾として差し出す[249]

近年の作品では池宮彰一郎の『四十七人の刺客』および『最後の忠臣蔵』において、大石は一文字屋の可留に手をつけ、可留との間に娘の可音をつくっている。

母と妻子との別れ

大石は放蕩の末、遊女を妻にするといいだし、本妻と離縁して実家に帰す。大石の子供と実母もこれに付き従った。

しかし討ち入り後、寺坂吉右衛門が現れて、妻子等に大石の真意を伝えるのだった(講談「忠臣二度目の清書」、「山科妻子の別れ」など)。

史実では大石の母はこの時すでに死亡しているし、妻との離縁状にもこのような経緯は載っていない[250]

史実

大石の遊蕩は山科会議の頃か妻子を実家に帰した頃からはじまったとされるが、それを直接証拠づける史料はなにもない[251]

遊興に関する史料で最も信頼できるのは『江赤見聞記』だが、ここには「遊山見物等の事に付き(中略)金銀等もおしまず遣い捨て候」[252]とあるのみで、この「遊山見物」が誇張されて派手な遊興というイメージができあがったのかもしれない[251]

また祇園や伏見に出かけたという記録もあるものの[252]、息子の主税も一緒であった[252]

伝説によると大石は伏見の笹屋で夕霧と親しくなり、「浮さま」と呼ばれたとされ、その証拠として大石がつくったとされる「里げしき」という唄が残っているが、これは伝説的なものにすぎない[251]。(なお、大石は「里げしき」の最後は「うきつとめ」で終わるが[253]、内蔵助が「うきさま」と呼ばれたとされるのはこの「うきつとめ」からきたものであろう[253])。

遊興にふけった動機に関してドラマ等では大石は敵の目を欺く為にあえて遊興にふけったとするものがあるが、『江赤見聞記』は大石の遊興に関してはっきりと「宜しからざる行跡」と書いており[254] 、敵の目を欺くために遊んだとする説には汲みしていない[254]

『江赤見聞記』には、吉良側の間者が大石の姿を見てもはや仇討ちの「意趣」なしと判断して引き上げたという風説が書き記されているのみである[251]。また大石の親類の小山と進藤がいくら諫めても聞かないので、不快に思い離反したとも記している[251]

しかし『赤穂鍾秀記』ではすでに大石の遊蕩が吉良方の警戒を解き、仇討ちを成功に導いたとあるし[255]、初期の実録本である『浅吉一乱記』では千坂兵部の間者の目をごまかす為に大石が替え玉に悪所通いさせた旨が記されている[255]など、大石の遊興を策謀とする説は早くからあった。人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』でも大星(史実の大石)が敵をだます為にあえて遊興にふけっている。

なお『仮名手本忠臣蔵』における大星(史実の大石)遊興の場面は、同じく赤穂事件に題材を得た歌舞伎の『大矢数四十七本』における初代澤村宗十郎の演技を真似たものである[256]

以上のように大石の遊興に関しては伝説的な部分が多いが、史実でも大石は妻を実家に帰してから身の回りの世話を頼んだ京都の二条京極坊二文字屋の娘可留(かる)という妾に手を出し、孕ませている[257]。可留は元禄15年当時は18歳だと伝えられるが[257]、生まれてきた子供は性別すら分かっていない[257]。大石は赤穂藩の藩医の寺井玄渓に可留の子供を養子に出すよう頼んでいる[258]

また大石は、赤穂時代にもやはり妾を孕ませていた[252]

村上喜剣

泉岳寺の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた供養塔。俗名が書いてないので誰のものか不明だが寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている[259]

薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。


泉岳寺には明和4年(1767年)に作られた「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓(寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている[259])があり、村上喜剣はこの戒名などから作られた人物だと思われる[260]

村上喜剣の話は江戸後期の儒者[261]林鶴梁の『烈士喜剣伝』によって喧伝されたため[260][259]、事実のごとく伝わった[259]。これが原因で、前述の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであると広く信じられた[259]

1899年には幸田露伴が村上喜剣を主人公にした小説『奇男児』を書いている[262]。 この小説では喜剣は文弱な方向に流れる元禄の世を憂い進んで浪人する。そして復讐もせずに腐れ死んでいる赤穂浪士に憤慨し、彼らに「神国の風俗、義に勇む人心」の回復を期待する[262]

垣見五郎兵衛

大石内蔵助は(第二次)東下りの際に「垣見五郎兵衛」(もしくは立花左近)という変名を名乗り、江戸へと向かっていた。しかしその途中で、本物の垣見五郎兵衛と鉢合わせしてしまう。

絶体絶命のピンチを向かえた大石であったが、垣見五郎兵衛は目の前にいるのが吉良を討とうと人目を忍んでいる大石内蔵助である事を察し、大石に助力するため、垣見五郎兵衛としての通行手形を渡すのであった。

史実

大石内蔵助は江戸に入った際、実際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗っており、息子の主税には「垣見左内」という変名を名乗らせている[263]

しかし上述したエピソードは史実ではない。戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、この逸話はマキノ省三監督が1912年の映画『実物応用活動写真忠臣蔵』を撮るときに歌舞伎の勧進帳を基にして役者の嵐橘楽のために作り上げたものであり[264]、この時は「立花左近」の名称であった[264] 。史実に合わせて「垣見五郎兵衛」の名前を用いたのは松竹の1932年版の『忠臣蔵』がはじめである[264]

一方宮澤誠一は大正13年発行の『講談落語今昔譚』(関根黙庵著、雄山閣)を引き、この話は講釈師の伊東燕尾(えんび)の持ちネタで、後に芝居にも脚色されたのだとしている[265]。燕尾は明治33年(1900年)に亡くなっている[266]ので、燕尾の講釈の方がマキノ省三の映画よりも早いことになる。

燕尾の講釈では、近衛家雑掌・垣見左内の変名を名乗る内蔵助が川崎の宿で本物の垣見左内に出くわす。内蔵助は仕方なしに本名を書いた詫書を左内に渡すが、そこに内蔵助の名を見た左内は事情を察し、詫書を内蔵助に帰してこの件を不問にする。

侮辱される浪士達

忠臣蔵に関する逸話の中には、仇討ちの件を秘密にするため、赤穂浪士達が周囲の侮辱にじっと耐え続けねばならなくなる話が数多い。(そして討ち入りの後には、侮辱した者たちは自身の行動を後悔する)。

こうした逸話をいくつか紹介する。

大高源吾の詫び証文

四十七士の一人大高源吾が江戸下向しようとしている道中、国蔵[267]というヤクザ者の馬子がからんできた。

大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、じっと我慢する。

調子に乗った国蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてきたので、大高はおとなしくその証文を書いた。

後日、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った国蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。


このエピソードは大高源吾ではなく神崎与五郎のものとして語られる事もある[268]。その場合因縁をつけてくるのは「丑五郎」という男である[268]

大高の詫び証文と称するものを明治35年1月沼津牛臥の旅館(明治まで三島の本陣をやっていた世古家)で大森金五郎が発見し[269][信頼性要検証]、現在は箱根旧街道休憩所に展示されている[267]。そこの説明によれば元々は三島宿で大高源吾に起こった出来事として伝わっていたものが時代を経ていつのまにか箱根山中の甘酒茶屋で神崎与五郎に起こった出来事に変わったという[267]

大高源吾の義兄

大高源吾にはもう一つ似たような逸話がある。

大高源吾は四十七士の一人中村勘助とともに江戸に下向していた。

途中で源吾の義兄弟の水沼久太夫のもとに挨拶にいき、他家に仕官が決まった旨の嘘をつく。

これを聞いた水沼は大高たちにコノシロをご馳走する。コノシロは「腹切り魚」とも呼ばれ、仕官の門出を祝うにはふさわしくない魚だ。

大高に仇討ちを期待する水沼は、仇討ちに相応しい腹切り魚を出して、大高を試したのだ。

しかし例えば義兄弟と言えども仇討ちの事は言えず、大高がとほけると、水沼は怒りだし、義兄弟の契りを解消すると言い出す。

後に水沼は討ち入りの件を知り、先の行動を後悔するのだった[268]

勝田新左衛門の逸話

四十七士の一人勝田新左衛門は、赤穂城が開城された後、八百屋に身をやつしていた。

その様子を見た新左衛門の舅は、武士が八百屋をするなどけしからんと、新左衛門の妻とともに嘆いた。

しかしその後、新左衛門が同志とともに討ち入りした事を知り、新左衛門の事を見直すのであった[268]

『正史実伝いろは文庫』の六十四回ではこれを若村寒助(史実の中村勘助)の話として伝える[270]

武林唯七と大石内蔵助の吾妻下り

四十七士の一人である武林唯七が江戸へ下向する途中、金太という男に絡まれる。

腹が立った唯七が金太を蹴り倒すと、そのまま金太が動かなくなる。どうやら殺してしまったらしい。

そこへ駆けつけた役人は、唯七を騙して金を巻き上げようと企み、金太の妻と称する仲間の女をつれてきて、金太殺しの罪を許して欲しければこの女に百両払えという。

後からやってきた大石内蔵助は唯七から事情を聞き、役人に向かって「百両の金は払うから金太の死体を胴切りにしてもよいか。死んでいるのだから胴切りにしても問題ないだろう」といって刀を抜いた。

それを聞くと、死んでいたはずの金太が起きて急いで逃げてしまう。実は金太も役人とグルで、死んだ振りをしていたのだ。

こうして無事難を逃れた二人は江戸へと向かっていった。


以上の話は桃中軒雲右衛門の浪曲『雪の曙義士銘々伝』に「吾妻下り」の題で登場するものである[271]

親族の自害

四十七士の一人である間十次郎の妻は、討ち入り後、赤穂浪士たちの墓の前で十次郎の後を追って自害したという伝説がある[272]

しかし史実ではそもそも間十次郎に妻はいない[272]

為永春水の『正史実伝いろは文庫』には討ち入りの際、四十七士の一人である武林唯七の妻が吉良を討つため捨て身で吉良を押さえたとあるが、史実では唯七にも妻はいない[272]

四十七士の一人である原惣右衛門が同志に入る際、惣右衛門の心残りにならないよう母が自害する話が伝わっている[273]

同じような話が四十七士の近松勘六、杉野十平次、武林唯七[274]、および間十次郎と新六の兄弟にもある[273]

史実では惣右衛門の母は討ち入り4か月前の8月に病死しているのに室鳩巣が『赤穂義人録』の中で誤伝したのがそもそもの始まりらしい[273]

間十次郎の母は史実では二十八年前に亡くなっている[273]

鳩の平右衛門

『鳩の平右衛門』という歌舞伎の演目がある。四十七士の一人寺岡平右衛門(史実の寺坂吉右衛門)は、同志たちとともに江戸へ下るため実家をでる。しかし鳩の親子が仲睦まじくしているのを見て情にほだされ、実家に帰る。

だが寺岡の父はこれに激怒し、寺岡の未練を断ち切るために切腹する。


この話は河竹黙阿弥作の歌舞伎『稽古筆七いろは』に出てくるが、これは寛政3年に大阪角の芝居で上演された奈河七五三助作の『いろは仮名四十七訓』の八つ目「鳩の平右衛門」を粉本とする[275][276]。黙阿弥はこの際切腹するのを老母から父に変更している[276]

『正史実伝いろは文庫』の第八十二回には類話が載っており、原郷右衛門(史実の原惣右衛門)がやはり鳩の親子を見て家に戻ると、母が郷右衛門を諫めるために自害する[277]

恋の絵図面取り

絵図面を見る岡野金右衛門(尾形月耕画)

四十七士の一人である岡野金右衛門は吉良邸の絵図面を手に入れるため、吉良上野介の屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘である「お艶」と恋人になる。

しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

史実

この話は何の根拠もなく史実ではない[278]

史実では堀部安兵衛、大石瀬左衛門が1つ、潮田又之丞が1つ絵図面を手に入れているが、いずれも古いのが難点であった[278][279]

浪士達はさらに毛利小平太を吉良邸に送り込み、中を調査させている[280]

風説では吉良邸は討ち入りに備えて改造していたというが小平太が調べた限りでは普通の作りだった[280]

創作物において

この話は『赤穂精義参考内侍所』にすでに載っており[281]、ここでは艶は吉良の用人鳥居利右衛門の娘で、その伯父が吉良邸の普請をしたので岡野は計略の為に艶と親しくなり伯父に金子を渡して吉良邸の絵図面を得る。討ち入りの後、艶は岡野の素性を知って病気になり、岡野が切腹するとそのまま死んでしまった。

『赤穂義士伝一夕話』[282]や『正史実伝いろは文庫』[283]にもこの話は登場する。

『忠臣連理廼鉢植』

天明8年(1788年)3月大坂北堀江市ノ側芝居で公開された[284]『義臣伝読切講釈』(通称『忠臣連理廼鉢植』、『植木屋』)では千崎弥五郎(史実の神崎与五郎)が絵図面を取る話を伝えている。

本作では千崎弥五郎が植木屋に扮して高師直(史実の吉良)の屋敷に潜入して、女中のお高という娘と親しくなる。お高は千崎の正体を見抜き絵図面を取る手助けをしようとするも、女中の身分では絵図面を取ることはできない。そこでお高は変装して高師直の妾になり絵図面を手に入れる。そして絵図面を千崎に渡した後自害するのだった。


なおその前年の天明7年に義士を描いた人形浄瑠璃『廓景色雪の茶会』の第5に、おさみ(小紫)が操を犠牲に敵の屋敷から絵図面を得る場面があり、『義臣伝読切講釈』の原拠になっている[285]

天野屋利兵衛

仮名手本忠臣蔵十段目。三代目歌川豊国画。天川屋義平(八代目片岡仁左衛門)、矢間十太郎(五代目市川雷蔵)

町人・天野屋利兵衛は赤穂浪士に肩入れし、浪士達が討ち入りに使うための武器を調達して長持ちに保管していた。

この事が奉行の耳に入ると、奉行は利兵衛を拷問し、武器の入った長持ちの鍵を渡すように言った。

しかし利兵衛は拷問に耐え抜き、利兵衛の態度に感心した奉行は、武器の準備の件を不問にするのだった。

史実

天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋兵衛」の事だとする説もある[286]。 しかしこの人物は赤穂藩とは無関係であるため、上記の話は史実としては疑問が残る[287]。松島栄一は、天野屋利兵衛が芝居で扱われたのはあるいは芝居と特別な関係にあるスポンサーだったのではないかと想像している[288]

また京都一条大宮鏡石町の呉服屋で、赤穂浪士を援護した綿屋善右衛門をモデルにしているとも言われる[286]

創作物において

討ち入りのあった年である元禄15年12月に出た『赤穗鐘秀記』には町名主の「天野屋次郎右衛門」について書かれている。 次郎右衛門は赤穂浪士のために槍二十本を鍛治に鍛えさせた事が、町奉行の耳に入り詰問されたが、白状せず牢に入れられる。そして赤穂浪士の討ち入りの話を聞くと、初めて事実を自白したと言う[289]

その後『忠誠後鑑録或説』や『參考大石記』でもこの話は書かれ、前者では名前が既に「天野屋理兵衛」になっている[289]

『仮名手本忠臣蔵』の十段目

寛延元年(1748年)8月には人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の十段目としてこの物語は描かれている。当時は実在の人物を芝居にするのに規制があったため、作中では「天河屋義平」という名前で登場する。

本作では捕り手達が天河屋の息子を人質に取り、息子の喉元に刀を置いて天河屋を脅迫する。

しかし天河屋は 「天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さゆ」といい、これを突っぱねる。

この話のオチは、実は捕り手は大星由良助(史実の大石内蔵助)率いる四十七士がなりすましたもので、天河屋を試すためにこの様なことをしたのだという。大星は天河屋の忠義に礼をし、討ち入りの際の合い言葉を天河屋にちなんで「天」、「河」にするのだった。

大高忠雄と宝井其角

大高源五と宝井其角。尾形月耕

大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人の宝井其角とも親交があった。

討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。


宝井其角と大高源五が両国橋で会う話は安政3年に森田座で初演された瀬川如皐の『新舞台いろは書始』で登場しており、これが後年『松浦の太鼓』になり、さらにそれが中村鴈治郎の『土屋主税』になった[290]

赤埴源蔵、徳利の別れ

梅幸百種。 赤垣源蔵(五代目尾上菊五郎)。塩山与左衛門(五代目坂東彦三郎)

赤埴源蔵は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。

やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。

その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。

史実

この話はもともと天保年間の講釈師初代一立斎文車が語ったものだという[291]

史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである[292]。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている[292]。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている[292]

俵星玄蕃

杉野十平次の蕎麦屋。格子の向こうには俵を突き上げる玄蕃とおぼしき人物が描かれている。尾形月耕

四十七士の一人杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。

かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。

史実

講談において俵星玄蕃の道場があったと伝えられる両国における玄蕃道場跡の看板

文化2年(1805年)の『江戸名釈看板』の中の「雪の曙 誉の槍」に俵星玄蕃の名前が出ており[293]、当時からこの話は有名になっていたものと思われる。 「俵星」の名は槍で米俵も突き上げるという話と「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」を組み合わせたものであろう[293]

またこの話は講釈師大玄斎蕃格により語られており[294][信頼性要検証]、大玄斎蕃格が創作したものとも言われる[要出典]

南部坂雪の別れ

『誠忠大星一代話廿六』、三代目歌川豊国画。嘉永元年(1848年)の泉岳寺の開帳にあわせてつくられた35枚組の1つ[295]で今日でいう「南部坂雪の別れ」を描く。本国に帰る暇乞いに来たという大星(史実の大石)は葉泉院(史実の瑤泉院)と去りし日の話をする。 葉泉院は翌日寺岡(史実の寺坂吉右衛門)の報告で討ち入りを知る。

討ち入り直前、大石内蔵助は赤坂・南部坂に住む浅野内匠頭正室・瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良の間者と思しき女中が聞き耳を立てていたので、大石は仇討ちの意思はないと瑤泉院に嘘をつく。討ち入りを期待する瑤泉院はこの言葉に激昂するが、大石は本心をひた隠しにして去っていくしかなかった。

史実

南部坂の別れは創作である[80]。大石は瑤泉院に『金銀受払帳』その他帳面類を添えた書状を、瑤泉院の用人落合与左衛門に届けている[80]が、これは手紙を送っただけで大石が直接南部坂の瑤泉院のもとへ向かったわけではない[80]。(なお書状の日付は元禄15年11月29日付であるが、『江赤見聞記』(巻六)によれば、この書状を実際に出したのは討ち入り当日の晩であるという[296]。大石は討ち入りの計画が露見するのを恐れ、直前まで書状を手元に置いておいたのである[296]。)

また12月9日付の書状には討ち入りする決意と吉良邸討ち入りの時に持参する口上書の写しが入っている[80]

創作物における歴史

元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』にはすでに大石と瑤泉院の別れの場面が描かれている[297]

『赤穂鍾秀記』によれば、瑤泉院のもとに内蔵助がやってきて「近々遠国へ行くために御暇乞いの挨拶に来た」と言い、昔の事を話して帰っていった。去り際に内蔵助は瑤泉院お付きの侍に歌書が入っていると称する一封を渡していった。12月15日、まだ討ち入りについて知らないうちに封書をあけると、中には瑤泉院から預かった金子七千両の使い道を書いた書類が入っていた[298]

天保7年 - 明治5年(1836年 - 1872年)に書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』の第七回にもすでにこの話が載っている[299]

また明治4年(1871年)10月16日守田座初演の左団次一座による河竹黙阿弥作『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』でもこの場面は描かれている[300]

『南部坂雪の別れ』はその後桃中軒雲右衛門の口演により浪花節の人気演目をになり[301]、明治45年(1912年)には口演の筆記本も出ている[302]

さらに同じく明治45年(1912年)には立川文庫の本にもこの話は収録され[303]、 1910 - 1917年の尾上松之助による忠臣蔵の映画にもこの場面は登場する。

また昭和13年(1938年)11月には、今日でも上演される真山青果元禄忠臣蔵の一編として『南部坂雪の別れ』が歌舞伎座で上演されている。

戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、映画やドラマにおける「南部坂雪の別れ」の瑤泉院の描写は時代により変化しているという[304]。今日のドラマでは、瑤泉院は大石が本心を偽っている事に気づかずに大石を罵るいわば「浅はかな女」[304]という「ネガティブな」[304]描かれ方をされるが、これは映画忠臣蔵黄金期末期[304]にあたる1962年に公開された『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』以降[304]、忠臣蔵の主力がテレビドラマに移ってからの描かれ方で、それ以前の映画では、口には出さずとも大石の真意に気付く映画もあり[304][305]、本心に気付かなかったお詫びに討ち入り後の内蔵助に会いに雪の中を駆けつけるもの[304][306]もある。

脚色

ドラマ等ではこの場面に以下のような脚色がつくことが多い

  • 今日のドラマでは大石は瑤泉院に「他家に仕官が決まった(から最後の別れにきた)」と嘘をつくものが多い。しかし古くは町人になる(『正史実伝いろは文庫』、『四十七石忠箭計』)、大阪で小間物屋を始める(桃中軒雲右衛門の浪花節)という嘘であった。
  • 瑤泉院に仕える「戸田の局」が登場する事もあり、大石は瑤泉院にはもちろん彼女にも真意を秘密にする。
    • 『正史実伝いろは文庫』では女中は「松島」という名前だが、『四十七石忠箭計』や桃中軒雲右衛門の浪花節ではすでに「戸田の局」という名前になっている。また彼女が小野寺十内の妹だという設定も後者に出ている[302][303]
  • 大石は最後に亡き殿に御焼香したいと願い出るが、激昂した瑤泉院はそれすら許さない。
    • すでに『元禄忠臣蔵』にこのエピソードが見える[307]
  • 大石は激昂した瑤泉院から文鎮(『正史実伝いろは文庫』)や亡き殿の位牌(『四十七石忠箭計』)で叩かれる。
  • 大石は去り際に何らかの書類をおいて帰る。後でそれを見た瑤泉院はこの書類を見て大石の真意を知る。その後間者も無事捕まり、瑤泉院は先の行動を後悔するのだった。
    • 今日のドラマでは書類の中身は同志の連判状とするものが多い。
  • 今日のドラマでは間者の名前は「お梅」、「紅梅」など。『四十七石忠箭計』ではすでに「お梅」の名になっている。
  • 『四十七石忠箭計』には清水大学(史実の清水一学)が登場する。間者のお梅は清水に大星(史実の大石)には仇討ちする気がない旨を報告し、清水は大星に直接あってその腑抜けぶりを確認する。

討ち入りの際の逸話

討ち入り蕎麦

元禄15年12月14日の深夜に四十七士が両国の蕎麦屋の二階に全員集結し、蕎麦を肴に最後の宴を開いてから討ち入りにでかけたという話[308]

創作物において
饂飩屋久兵衛の店。『正史実伝いろは文庫』二十一回の挿し絵[309]

『泉岳寺書上』には討ち入りの日に楠屋十兵衛というものに手打ち蕎麦五十人前を作らせ、義士達が皆で泉岳寺を詣でた後に楠屋に集結したと書かれている[310]。しかしこの文献は浅野内匠頭の亡霊が登場する[310]など怪しげな内容のものであり、偽書とされる[311][312]

また『泉岳寺書上』には「手打ち蕎麦」を食べたとあるが、「手打ち蕎麦」という言葉は宝暦以後のもので、元禄の頃は「蕎麦切り」といっていたはずである[311]。したがってドラマ等で見られる浪士達が吉良を「手打ち」にする蕎麦を食べてげんを担いだとする話は史実ではない。

元禄16年3月に書かれた[313]『易水連袂録』の「ウドン屋久兵衛口上書の事」には「ウドン屋久兵衛」の店に皆で集まりうどん、そば切り、酒肴を食べたとある[313]。 また創作物ではあるが、『正史実伝いろは文庫』の第二十一回には、赤穂浪士二十四、五人が饂飩屋久兵衛の店に集まり蕎麦きりを食べたとある[314]

史実

史実においても討ち入り前日の12月13日の夕方には同志たちで酒肴を用意して今生の暇乞いの盃を交わした[315]。 討ち入り当日の14日は吉田忠左衛門原惣右衛門吉田澤右衛門ら6、7人が両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切りなどを注文してゆっくり休息したと『寺坂信行筆記』にある[315][316]

当日の天気

忠臣蔵もののドラマでは雪が降りしきる中討ち入りに行くものが多いが、史実では数日前に降った雪が積もっていたものの[317]、討ち入り当日は晴れていた[317]。また空には月が輝いていた[317]

月は満月に近いが、討ち入りの時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった[318]

山鹿流陣太鼓

山鹿流陣太鼓。赤穂市大石神社

討ち入りの際、大石内蔵助が「一打ち三流れ」(ひとうちみながれ[319])の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす、というもの。

四十七士側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない[320]

現実問題として、太鼓を叩いてしまっては奇襲が意味をなさなくなってしまうので、浪士たちは太鼓を叩いていないであろう[320]

しかし吉良義周の口上書には赤穂浪士が「火事装束」で「太鼓」などを叩いて切り込んできたとあるし[320]、上杉家の資料や『桑名藩所伝覚書』、『浅野浪人敵打聞書』などにも太鼓について触れられている。

当時太鼓といえば火事を連想するものであったので[320]、火事装束のような姿で侵入した浪士たちに気が動転する吉良側が扉を打ち壊す際の音を火事太鼓と聞き間違えたのではないかと宮澤誠一は推測している[320]

なお、討ち入りの際太鼓を打ち鳴らしたという俗説は、浪士切腹後二か月で世に出た『易水連快録』にすでに載っており[320]、他にも『浅野仇討記』[320]や『泉岳寺書上』[310]にもこの話は載っている。

山鹿流兵法

赤穂浪士たちが吉良家との戦いにおいても山鹿流の兵法を用いたとする。

史実としては山鹿素行山鹿流は朱子学を基礎に哲学を主とし政治学や陰陽思想を加えたもので[321]、実際の兵法は二次的なものにすぎないという意見もある。しかし素行から直々に受けた赤穂藩からの山鹿流伝系は、赤穂藩断絶後も続いた。その伝系は、山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった幕府兵学の大家・窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。[322][323]

赤穂山鹿流伝系  山鹿素行大石良重菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方→窪田清音若山勿堂勝海舟[324]

山鹿流を軸に甲州流軍学越後流長沼流を兼修した窪田清音の兵学門人は三千人、この窪田兵学門人の英才である若山勿堂の赤穂山鹿流門下から、勝海舟板垣退助土方久元佐々木高行谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出されている。[325][326]

装束

討ち入り装束に身を包む箭田五郎左ェ門(史実の矢田五郎右衛門)。歌川国芳

討ち入りの際、四十七士は全員、服装を黒地に白の山形模様のついた火事場装束のような羽織に統一した、というもの。

史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており[327]、あとは思い思いの服装でよかった[327]。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである[327]。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた[327]。 全体として火消装束に近いスタイルであったが、人生最期の晴れ舞台であったこともあり、火事装束よりはもっと派手だった[327]

火事羽織からの連想からか元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』ではすでに「黒い小袖」が「黒い羽織」に代わってしまっている[327]。黒地に白の入山形は宝永7年(1710年)6月の『鬼鹿無佐志鐙』に原型があり[327]、『仮名手本忠臣蔵』で広く知られるようになった[327]。浪士の名前を書いた左右の白襟は片島武矩の『義士伝』に端を発し、幕末の浮世絵師の一勇斎国芳画『誠忠義士伝』で形作られ、明治にかけて一般化した[327]

上杉家の忠臣

討ち入りを聞いた上杉綱憲が実父・吉良上野介を助けるため出陣しようとするも、幕府に睨まれるのを避けるために家老にとめられたというもの[328]。この家老は千坂兵部もしくは色部又四郎だとされる。

赤穂事件があった当初からこのような風説は存在し、元禄16年3月に書かれた『赤城士話』には、上杉綱憲が討ち入り後の赤穂浪士を討つべく泉岳寺に派兵しようとしたが家老達に止められたという風説を記しており、同書によればこれを聞いた国家老の長尾権四郎が激怒したという[329]

史実

史実において綱憲は討ち入り当日病気であったが[328]、藩士を派遣しようとした[328]。しかし高家の畠山下総守がやってきて、「江府の騒動」になるのは畏れ多いので討手を出さないようにという老中の言葉を伝えた[328]ため、幕命にそむく事ができず藩士を送らなかったのだという(『上杉家年譜』)[328]

また佐々木杜太郎は、討ち入りの人数が多数であるように見せかけた赤穂浪士の戦術が功を奏して、その場に侍が30~40人しかいなかった上杉家は兵を出せなかったのではないかと述べている[330]

いずれにせよ史実としては上杉家が派兵しなかった理由は家老の諌止ではないにもかかわらず、なぜ諌止説が語り継がれてきたかというと、そもそもなぜ上杉家が派兵しなかったのだろうという疑問に答える必要があったためであろう[329]

なお、史実においても赤穂浪士達は引き上げの際、上杉の追手が来たと思い戦闘の準備をしている(『義士実録』)[331]

また史実において事件当時千坂兵部は既に死んでおり[332][333]、家老は色部又四郎であった[328]。また色部は父が11月に亡くなった事により討ち入りがあった夜は出仕してしなかったともいう[332][信頼性要検証]

浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討つ

浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討ったとする逸話はすでに『仮名手本忠臣蔵』に登場している。

討ち入り後の逸話

大石の和歌

大石内蔵助が泉岳寺において「あら楽し思ひは霽るる身は捨つる浮き世の月に翳る雲なし」という和歌を詠んだというもの。

泉岳寺における赤穂浪士の言動を記した『白明話録』には、木村岡右衛門の和歌、大高源吾の俳句、武林唯七の漢詩が書きとめられているにもかかわらず、大石の上記の和歌は載っていない為、この和歌は後世の偽作なのだと思われる[334]

琴の爪

赤穂浪士達が切腹する当日、四十七士の一人礒貝十郎左衛門が討ち入り直前に付き合い始めた許嫁の「おみの」が人目を忍んでやってくる。 「礒貝は仇討ちの作戦に利用するために、自分と付き合っただけなのではないか」そんな疑念を抱いていたおみのは、最後に真実を知りたかったのだ。

礒貝は本心ではおみのに恋心を抱いていたのだが、おみのを前にして「そんな女は知らぬ」と嘘をついて取り合わない。

だがその場に居合わせた大石内蔵助は、礒貝がおみのの琴の爪を肌身はなさず持っていた事を告げる。

おみのは礒貝の本心を悟って喜び、礒貝の後を追って自害する決意を固める。

そして礒貝と大石は切腹の場へと赴くのだった。


この話は真山青果の新歌舞伎『元禄忠臣蔵』の一編『大石最後の一日』に登場する逸話[335]で昭和9年(1934年)2月に歌舞伎座で初演された。

本作はその後二度にわたり映画化されている(1942年の『元禄忠臣蔵後編』と1957年の『「元祿忠臣蔵・大石最後の一日」より 琴の爪』[1])。

史実

礒貝が切腹の時に琴の爪を持っていたとする逸話自身は史実であり、『堀内覚書』に「死を賜ふの後紫縮緬の袱紗に包みたる鼻紙袋中に琴の爪一つありたり」とある[336]。 史実によれば磯貝は能と鼓が堪能であったが、浅野内匠頭が嫌いであったからこれをやめたという[336]。しかし弾琴は続け、それゆえ切腹時に琴の爪を持っていたのである[336]

創作物においても嘉永7年(1854年[337]に書かれた山崎美成の『赤穂義士伝一夕話』の四巻に磯貝が切腹時に琴の爪を持っていた琴がでてくる[338]。 しかしここでは「おみの」は登場せず、礒貝が風流である事を示す逸話として討ち入りに琴の爪を持っていた事が語られるのみである。

なお『元禄忠臣蔵』では大石内蔵助は皆の切腹を見届けた後、最後に切腹しているが、史実では最初に切腹している[339]

徂徠豆腐

荻生徂徠

徂徠豆腐落語講談の共通演目である。

儒学者の荻生徂徠は若いときには貧しく、食費に困り豆腐屋でおからをめぐんでもらって生活していた。

赤穂事件が起こると、幕府では浪士達の処分を巡り議論が紛糾していた。そこへすでに名をあげていた徂徠が登場し、「すでに死を覚悟している浪士達を助けるのは彼らの忠義に反する。彼らに切腹させるべきだ」と理を解き、浪士達の切腹が決まる。

一方、徂徠が若き日にお世話になった豆腐屋は火事で家を焼かれ困り果てていたが、徂徠は昔のお礼にと豆腐屋に金子を渡す。

豆腐屋は嬉しさのあまりこういった「先生が私のために自腹を切ってくれた」

『祇園可音物語』

大石内蔵助の下僕であった半右衛門は呉服屋の茶屋宗古という男と懇意になる。 半右衛門は宗古から、自分の嫡男の嫁を見つけるよう依頼され、半右衛門は一人の娘を紹介する。

祝言の前日には、三百人もの腰の者がついて来たので、娘は裕福な身の上であることが想像されるが、半右衛門は娘の素性をいっさい明かさない。

祝言をすませると、夜中に半右衛門が突然切腹する。不振に思った周囲の者が娘に問いただすと、娘は自分が大石内蔵助の姫なのだと明かした。

半右衛門は内蔵助の姫を預かっていたため、討ち入りにも参加せずにこれまでむなしく生きてきたが、無事祝言もすませたので、主人の後を追って殉死したのだ。

史実

この話は大田南畝が『半日閑話』の中で 宝永六年(1709年)四月上旬の聞書きという体裁で『祇園可音物語』(ぎおんかねものがたり)の名のもとに書き留めたものである[340]

しかしこれは史実ではなく、大石には二人の娘がいたもののの長女クウは14才で夭折しているし[340] 、次女ルリは進藤源四郎のもとへ養子に行った後浅野長十郎へ嫁いでいる[340]

また大石が赤穂時代に妾と作った子供も元禄15年に夭折しているし[252]、山科で妾と作った子供は『半日閑話』が書かれた時点でまだ7才である。

脱盟者は実は第二陣であった

大野九郎兵衛

芝居などで悪名高い大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が吉良を討ち漏らした場合に備え、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県板谷峠に潜伏していたという逸話がある[341][342]明和6年(1769年)にたてられた板谷峠近くの馬場の平に残る大野九郎兵衛の供養碑にその旨を記載されている[342]

また群馬県安中市には、その周辺にある吉良家の飛び領地に上野介が逃れてくると予想して、大野が手習い師匠をしながら潜伏していたという伝説がある[343]山梨県甲府市東光寺町の能成寺には、大野九郎兵衛が甲府藩主である柳沢吉保を頼って甲斐に移り住んだという伝説がある[343]

その他

奥野将監にも別働隊を率いていたとか、浅野内匠頭の姫を密かに育てたという逸話がある[344]

『江赤見聞記』には「討ち入りは失敗するだろうから自分が第二陣になる」という趣旨の事を述べて奥野将監が脱盟したとあるが[345]、「これは信じられない」[345] 。同書には進藤源四郎も第二陣になると述べた旨が書かれている[341]

創作物ではあるが、人形浄瑠璃の『忠臣後日噺』では進藤源四郎が第二陣であったとされているし[341]為永春水の『正史実伝いろは文庫』には、奥野将監小山源五右衛門進藤源四郎佐々小左衛門毛利小平太が第二陣であった旨が記載されている[346]

大野九郎兵衛の娘

伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような逸話が収められている[347]

大野九郎兵衛は赤穂を出奔するとき、娘を置いて逃げた。 置いていかれた娘は、父・九郎兵衛が出奔したのは、敵を欺くための計略だろうと信じていた。 しかし赤穂浪士たちの討ち入りについて記した瓦版を読んでも父の名はなく、打ちひしがれて寝込んでしまった。

この娘の夫・梶浦は事態を知り、こう言った「九郎兵衛の娘と連れ添っているのは武士の道にもとるので、お前とは縁を切る。行くところもないだろうから裏の隠居所で暮らせ」。 娘に罪があるわけではないので、夫の梶浦は妾を持つこともなく、やもめとして一生を終えた。


『赤穂義士伝一夕話』にも同じ話が載っている[348]

義士銘々伝

大石内蔵助は養子

講談では大石内蔵助はもともと備前岡山の城主池田宮内大輔の家老池田玄蕃の次男で久馬という名前であったが、養子になって大石内蔵助良雄という名前になったのだという[349]。しかしこれはもちろん史実ではない。

なお、史実において大石は妻のりくに当てた手紙に「池田久右衛門」という偽名で署名している[350]

人形浄瑠璃においても寛政10年に上演された『忠臣一力祇園曙』で足軽寺岡平吉が養子に入って大星由良之助(史実の大石内蔵助)が養子になるというエピソードがある[351]。 それより早く寛政4年に上演された歌舞伎の『忠臣双葉蔵』でもやはり養子のエピソードがあったらしい[351]

お薬献上

13歳の池田久馬(後の大石内蔵助)は病気になった藩主池田宮内大輔に薬を飲ませる役をおおせつかわった。 しかし宮内大輔は薬嫌いであった為一筋縄ではいかない。

そこで久馬はあえて宮内大輔を怒らせ、「手打ちにする」と追ってくる宮内大輔から逃げ回る。 そのうち宮内大輔が疲れてお湯を持ってくるようにいうと、久馬は薬を溶かしたお湯を渡す。 疲れていた宮内大輔はこれを飲み干すのだった。

この事が評判になり、久馬は大石家の養子に迎えられ、大石内蔵助良雄と名を改めたのだった[352]

山鹿送り

山鹿素行

山鹿素行は独自の軍学山鹿流を興し、様々な大名に兵学を教えていたが、著書の一つ「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、播州赤穂にお預かりになった。

22歳の内蔵助は山鹿素行を赤穂まで護送する任務にあたったが、山鹿素行の門下の者がこれに反発して襲撃してくる。 しかし内蔵助は門下の者達に、「ここで素行を奪い返すは幕府に弓を引くも同然」と道理を説いて説得し、無事山鹿素行を赤穂まで連れてくるのだった。

この後内蔵助は山鹿素行から軍学を学ぶ事になる[353]

向島の花見

28歳の内蔵助は下僕の勝助とともに向島に花見に行った。 そこで勝助が三人の侍に泥をはねてしまった事から口論となり、侍達は勝助を斬ると刀を抜く。 しかし内蔵助が刀を持った三人を素手で倒してしまい、事なきを得る。

たまたまこれを見ていた石塚源五兵衛は内蔵助を気に入り、これが縁となって内蔵助は源五兵衛の娘のりくと結婚する事になった[354]

松山城受け取り

備中松山の水谷家では藩主が死に世継ぎもなかった為、水谷家は藩主の舎弟の主水に召し上げられ、松山城は没収される事になった。 その際松山城の受け取り役を34歳の大石内蔵助が申しつけられた。

松山城の藩士達は城を枕に籠城討死の覚悟であったが、大石は松山城にたった一人で乗り込んでいき、城代の鶴見内蔵助と会う。 そして大石は「藩主への忠義から籠城しているのかもしれないが、城を枕に戦えば藩主の舎弟の主水公に迷惑がかかるのでかえって不忠ではないか」と理を説いた。

これに感服した鶴見は松山城を無血開城する。この功で大石は幕府から加増され、大石の名は全国にとどろいた[355]

粗忽の権化

武林唯七は気の短い粗忽者であった。

講談では唯七は主君・浅野内匠頭の乳兄弟ということになっており、その縁であるとき唯七は内匠頭から月代を剃るように頼まれた。

しかし唯七は頭を湿らせる事なく剃刀で剃ってしまい、内匠頭は痛い思いをした。

さらに剃っているうちに剃刀の柄が外れてきてしまったので、柄の部分を内匠頭の頭にトントンと叩きつけて治した。

かなり無礼な行為であったが、内匠頭は唯七の粗忽ぶりを知っていたので笑って許した[356]


またあるとき唯七は芸州浅野本家に使いに行く事になった。 ところが途中で堀部安兵衛に剣術の稽古に誘われ、稽古に熱中しているうちに使いの事を忘れてしまう。

やっと使いの事を思い出してまず馬に乗ろうとするも間違って前後反対に乗ってしまい「馬に首がない!」と驚く始末。

その後使いにいくが間違って浅野本家ではなく黒田家に入ってしまった事に気づく。 仕方がないから「腹が減ったから黒田家に一食一飯をご無心にきた」と言ってごまかし、食事だけもらって黒田家を出る。

そしてとうとう浅野本家に到着するが、ここで初めて使者の口上を聞き忘れた事に気づくのだった[357]

帰り道に杜若を内匠頭に持っていくよう頼まれるが、鉄砲州のお屋敷近くが火事になっているのを見て慌てて、馬を走らせようと杜若で馬を叩いてしまう。おかげで帰り着いた時には杜若には茎しかなかった。


前半の剃刀の話は『赤穂精義参考内侍所』に大高源吾の父・大高源右衛門の話として載っている。最後の杜若の話も同書にある。

使いの話は落語の「粗忽の使者」の類話である。

安兵衛の生い立ち

堀部安兵衛の父・中山安太郎は色男で、親が決めた許嫁の「おみつ」がいるのに、芸妓の「小菊」と仲良くなり子供の安之助を作ってしまう。この安之助が後の堀部安兵衛である。

安之助が出来た事に安太郎の父の中山安左衛門は激怒し、安太郎を勘当して家から追い出す。 その後小菊は若くして亡くなり、安太郎も病気になってしまう。

あるとき、宿場にいた老武士が薬を持っている事にきづいた安之助は父・安太郎のために薬を盗んでしまうが、 安之助は老武士につかまってしまう。この老武士は実は祖父の安左衛門であった。ここに祖父と孫は運命的な再開を果たす事になる。

一方、安太郎の許嫁であった「おみつ」は、安太郎が勘当されていなくなってからというもの、安左衛門の世話をしながらずっと安太郎の事を待っていた。 この事を安左衛門の下僕から聞いた安太郎は申し訳なさに人知れず自害する。

安之助はおみつに引き取られ、以後中山家の一員として暮らしていく事になる。それ以後剣術に励み、めきめきと腕を上達させる。

安之助は16歳の時元服し、名を安兵衛武庸に改める[358]

最初の仇討ち

中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は義理の母おみつと祖父の安左衛門に育てられていたが、安兵衛が元服するとすぐに安左衛門が亡くなり、安兵衛が家督を継ぐ事になる。

この頃、安兵衛の義母のおみつは黒田郷八という男から言い寄られていたが、ある日酒に酔った郷八がおみつから冷たくされると、もみ合いの末におみつを殺してしまう。

そこへ帰ってきた安兵衛が郷八を一刀両断にする。これが安兵衛最初の仇討ちであった[359]

高田馬場の決闘

映画『血煙高田の馬場』における中山安兵衛(阪東妻三郎演)。両肩に白いたすきが見える

義母が亡くなったので、中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は伯父の菅野六郎左衛門を頼って江戸に出てきた。

するとある日安兵衛が喧嘩の仲裁をした事から安兵衛はすぐに江戸の有名人となり、「喧嘩安兵衛」という仇名がついた。 また安兵衛はいつも飲んでいる事から「呑兵衛安兵衛」、赤鞘の大小を指している事から「赤鞘安兵衛」、葬式について呑みに行く事から「葬式安兵衛」などとも呼ばれた。

ある日の事、安兵衛の伯父の菅野六郎左衛門が、試合で村上庄左衛門、三郎右衛門の兄弟を打ち負かした所、村上兄弟から恨みを買い、決闘を申し込まれる。 村上兄弟は助っ人22人を連れて決闘の場に現れ、対する菅野六郎左衛門はたった一人で決闘の場に現れた。

この事を知った安兵衛は伯父の六郎左衛門に助太刀すべく決闘の場所である高田馬場へと走っていったが、 着いた時にはすでに伯父は事切れていた。

そこで安兵衛はその場にいた敵全員を斬り倒す。 この高田馬場の決闘で安兵衛は江戸で名を挙げる事になった。

また決闘に助太刀する前にたすきが切れてしまった為、そばにいた女からしごきを借りてたすきにした。 この女は堀部弥兵衛の娘で、これが縁となり安兵衛はこの娘と結婚。堀部家に養子になり、堀部安兵衛と名乗る事となった[360]


なお、高田馬場の決闘それ自身は史実であるが、ここではあくまで講談で語られている話を載せたので、ここに書いた事が史実とは限らない。

神崎与五郎の生い立ち

神崎与三衛門の息子・与太郎は愚か者で、与三衛門は実子の与太郎がいるのに養子を探すほどだった。

ある日、与太郎が釣りをしていると、自分は全然釣れないのに、近くで釣りをしていた太郎作という少年はずいぶん釣れていたのに腹を立て、二度とここで魚釣りをしないよう太郎作に言う。

太郎作は魚釣りで盲目の祖母を養ったので、与太郎に食い下がると、与太郎は抜刀して太郎作に斬りかかる。 しかし与太郎は足を滑らせて自らの刀で自分を刺してしまい、そのまま死んでしまう。

太郎作は名主のもとに自首する。しかし与太郎が自業自得で死んだ事を知った与太郎の父・与三衛門は、太郎作を養子として養う事にする。こうして太郎作は神崎与五郎を名乗って神埼家を継ぐ事になった[361]


『赤穂精義参考内侍所』にこの話が載っている。ただし神崎与五郎当人の話ではなく、与五郎の息子の話ということになっている。 『赤穂義士伝一夕話』にも神崎与五郎の息子の話として載っている。

前原伊助の生い立ち

原田次郎吉(後の前原伊助)は7年剣術をならっていたが、あるとき下坂十太夫という男が次郎吉の習っていた剣術の流派を馬鹿にした為口論になる。怒った次郎吉は十太夫に試合を申し込み、叩きのめしてしまう。試合に負けた事で下坂十太夫は殿様の不興を買い、下坂家は断絶。これによりいづらくなった次郎吉は地元の姫路から江戸に出る。

ここで次郎吉は疱瘡にかかってしまい、一命は取り留めたものの、左目はつぶれ、髪の毛は薄くなり、顔にはあばたが残ってしまった。

仕方がないから大名の中間奉公をしようと、名を伊助と改めて赤穂藩浅野家に仕える。

ある日伊助は、月岡十郎左衛門という侍のお伴を命じられるが、月岡は馬に乗るのが下手で、いつまでたっても前に進まない。 そこで伊助は茶屋で少し休憩を取っているが、その間に月岡の馬は泥をはねてしまい、泥が近くにいた別の侍にかかってしまう。 これが原因で口論になり、月岡はその侍に切り殺されてしまう。

そこへ駆けつけた伊助は侍を倒して月岡の仇を討つ。これが評判になり伊助は士分に取り立てられ、名字も母方の前原を名乗るようになった[362]

乞食の姉弟

あるとき前原伊助は、乞食の姉弟・小雪と庄太郎が苛められているところに出くわす。 伊助は姉弟を助け、姉弟の面倒をみてやる事にする。

しかし姉弟の話を聞いて、伊助は驚いた。聞けば姉弟はその昔伊助が倒した下坂十太夫の子供で、父・十太夫の仇である「原田次郎吉」(伊助の前名)を探しているのだという。

伊助は自分がその原田次郎吉当人だという事は隠して姉弟を育てる。

赤穂が断絶すると、伊助は吉良邸へと討ち入りに行く事になる。 そのとき伊助は姉弟に手紙を残し、自分が原田次郎吉だという事を明かした。

そして伊助が切腹する日、伊助は姉弟を呼びだし、親の仇である自分の首をはねるように言う。 恩人の伊助の首は切れないという姉弟だったが、伊助はそれをしかりつけ、切腹後、首を切らせるのだった[363]


『正史実伝いろは文庫』の六十回には類話が載っており、ここでは牛尾田主水(史実の潮田又之丞の父)の話という事になっている[364]

放蕩指南

横川勘平は浅野内匠頭刃傷の後、伯母の家にお世話になっていた。 勘平は討ち入りに参加したかったのだが、伯母が勘平を養子にしたいと言い出す。

勘平が大石内蔵助に相談したところ、内蔵助はわざと放蕩して伯母から愛想を尽かされれば養子に行かなくてよいのではないかという。

そこで勘平は呑めない酒を無理やり呑んだり遊郭に行ったふりをしたりするが、伯父が「若い男が酒を飲んだり遊郭に行ったりするのは付き合いもあるからいいことだ」と理解を示すので、一向に愛想を尽かされない。

そうこうするうちに討ち入りの日がやってくる。そこで勘平が外出しようとすると、伯母が怪しんで外出させてくれない。

そこで勘平は下女に酒を買いに行かせ、その下女に言う事があるのだといって無理やり家から出て、先に外に出た下女を突き飛ばして吉良邸へと急ぐ。

すでに同志は集まっており一番後から来た勘平だったが、そのまま梯子に上り吉良邸に一番乗りして名を残すのだった[365]


『赤穂義士伝一夕話』でも横川勘平は伯母の家に住んでいるが、12日の段階で家から出ている。

間十次郎の妻子

間十次郎は妻子とともに江戸に住んでいたが、浅野内匠頭の刃傷が起こると赤穂に行き、その際妻のていと子供の十太郎を植木屋の六三郎に預けた。 六三郎は昔、浅野内匠頭の秘蔵の盆栽を手折ってしまって手討ちになりそうになったとき間十次郎がとりなしてくれた事があるので、妻子の世話を快く引き受けた。

しかし六三郎の妻おとらは、「十次郎の妻子」と称する母子は実は六三郎の妾とその子供なのではないかと疑っており、六三郎が仕事で長期に家を空けなければならなくなると、おとらは十次郎の妻子に米や味噌を送るのをやめた為、十次郎の妻子は困窮する。

討ち入りの当日、間十次郎は物乞いをしている息子十次郎をみかけ、はじめてその困窮ぶりを知る。 十次郎は仇討ちの事を隠しながらも、妻子をなぐさめる為、来年には仕官するからそれまで辛抱してほしいと言って去る。

討ち入りを期待する十次郎の妻子は、十次郎を鼓舞する為自害する。 胸騒ぎがして帰っていた十次郎は妻子の自害を知り、討ち入りの事を話すべきだったと後悔する。

そして十次郎は吉良邸に向かい、吉良の首を取るという功名をあげたのだった[366]

村松喜兵衛、堪忍の木刀

村松喜兵衛は吉良邸に潜伏しようと、按摩になりすまして吉良邸周辺をうろついていたが、吉良邸からは按摩を頼む声がかからない。

ある時、近所の煙草屋・与助から按摩を頼まれる。しかし喜兵衛の按摩があまりに下手なので、与助から「(按摩の)流派は何か」と聞かれるが、喜兵衛は「一刀流です」と剣術の流派を答えてしまう。

喜兵衛の按摩が全然効かないと与助から不平が出るので、喜兵衛は腹を立てて柔術の必殺技「肋三枚正風の殺」を与助に極めてしまう。

これには与助も参ってしまうが、これも何かの縁だと喜兵衛と雑談を始め、喜兵衛に身の上を聞くと、喜兵衛は「仔細あって浪人しており、按摩になったからかくも卑しき煙草屋の肩を揉み…」とか「世が世なら下手くそなどと無礼を言われれば手討ちにするのに…」などと言い出す始末。

しかし与助は面白がってそれからも喜兵衛を按摩に呼ぶのだった。

討ち入り当日、喜兵衛は与助のもとに暇乞いにいき、「人切れば私も死なねばなりません。そこでご無事と木脇差さす」という狂歌を刻んだ木刀を渡す。聞けばこの狂歌の意味は「木刀なら人を斬る事もない。人を斬りそうな時も堪忍が大事だ」というものだそうだ。

討ち入り後、与助の煙草屋には喜兵衛の木刀を見にくる客が大勢現れ、大いに繁盛したのだった[367]

一夜に討つ君父の仇

菅谷半之丞の父・半右衛門は、若くて美しい後妻「お岩」をもらったが、お岩はたちのよくない性格で、半之丞の悪口を半右衛門に讒訴する。これを信じた半右衛門は半之丞を勘当し家から追い出す。

半之丞は手習い師匠をして生計を立て、無事結婚して一子をもうけたが、ある日の事、半之丞は父・半右衛門が死んだという話を聞く。聞けば半右衛門はお岩とその情夫・大須賀次郎右衛門に毒殺されたのだという。

その後、浅野内匠頭の刃傷が起こり、半之丞も同志の一人に加わる。

ある日半之丞は吉良邸からお岩が出てくるのを見かける。 なんとお岩の情夫・大須賀次郎右衛門が上杉家に仕官がかない、付人として吉良邸にきていたのだ。

討ち入りの夜、半之丞は父の仇である大須賀次郎右衛門を突き殺し、お岩も討ち取るのだった[368]

老人の屈死

大石内蔵助が遊郭で放蕩するのを見かねた老人・岡野金右衛門は、内蔵助を切り殺そうと、息子の九十郎とともに内蔵助の住む山科へと乗り込む。

大石内蔵助が放蕩する様子を裏庭に隠れて窺う金右衛門親子だったが、内蔵助に全く隙がなく斬り込めない。

そんな内蔵助のもとに、内蔵助の息子・主税が現れ、仇討ちもせずに遊んでいる内蔵助に見かねたから切腹すると言い出す。

さすがに内蔵助は主税を止め、本心では仇討ちしようと思っているが、敵の間者の目を欺く為あえて放蕩しているのだと伝える。

これを裏庭で聞いていた金右衛門、あまりの驚きにその場で死亡(屈死)してしまう。

そして金右衛門の息子の九十郎が金右衛門の名を継ぎ、父の遺志を継いで討ち入りに参加する事になった[369]

不破数右衛門の芝居見物

『東驛いろは日記』における不破数右衛門(四代目中村芝翫)

不破数右衛門は井上真改という名刀を買ったので、使ってみたくてたまらない。 そこで夜な夜な辻斬りをしたり、墓を暴いて死体を胴切りしたりしていた。 これが見つかって暇を出され浪人する事になる。

そのうち浅野内匠頭の刃傷事件が起こる。 数右衛門は吉良を討ちに行かねばと思うが、聞けば赤穂城は無血開城してしまったというし、内匠頭の後室・瑤泉院は境町の中村座で芝居見物に明け暮れているという噂だ。 まずは瑤泉院に諫言せねばと思い、数右衛門は中村座に瑤泉院を探しに行く。

そのとき中村座でやっていたのは、『東山栄華舞台』という演目。これは小栗判官が横山大善を斬る所を描いた芝居だったが、内容はどう見ても先日起こったばかりの浅野内匠頭の刃傷事件を扱っていた。実在の事件を扱うと公儀がうるさいので、浅野内匠頭を小栗判官に見立てて刃傷事件を描いているのだ。

舞台では役者の中村伝九郎扮する荒獅子男之助が、小栗の一門の者は無気力な不忠ものばかりだと面々を罵っている。

これを聞いた数右衛門はカッとなって舞台に上がり、中村伝九郎を殴りつける。 舞台はめちゃくちゃになったが、これがかえって評判になり、連日大入りとなる。

この件を聞いた大石内蔵助は、数右衛門の忠義は本物だと思い、浪人中の数右衛門を許して同志の一人に加えたのだった[370]

女武芸者

赤穂の片原村の郷士、日下部嘉兵衛の娘「おたま」は薙刀の使い手で「自分より強い人としか結婚しない」と言っており、父・嘉兵衛が結婚には千両の持参金を付けると言っていたので、多くの男性が彼女に挑戦しては破れていた。

これを聞いた大石瀬左衛門は、傲慢無礼な話だと憤り、彼女に挑戦し、勝ってしまう。 瀬左衛門にはおたまと結婚する気はなかったが、おたまの方が瀬左衛門にいれあげてしまい、結婚を申し込む。

しかし瀬左衛門は彼女と結婚すると、千両の持参金目当てで結婚したように取られてしまって面目ない、身一つで来るなら結婚すると言い出す。

これを聞いたおたまの父・嘉兵衛は名刀・正宗一振りだけを持たせておたまを嫁に出す。 瀬左衛門も武士の魂の刀であればとこれを受け取り、二人は結婚する事になった[371]


『正史実伝いろは文庫』の第四十七回~四十九回に類話が載っているが、そこでは瀬左衛門はお綾という女性に挑戦するが勝てず、六年もの修行をつんでやっと彼女に勝って結婚している[372]

寺坂吉右衛門の生い立ち

吉田忠左衛門はあるとき捨て子を見つける。 寺の前の坂で拾ったので、寺坂という姓を付け、行く末吉き事を願い、吉右衛門という名前をつけて里子に出し、長じると忠左衛門の所に武家奉公させた。

しかし寺坂は忠左衛門の下女「おたね」と密通して子をなすという武家のお法度を犯してしまう。武家奉公の身では夫婦にしてやる事も許されず、忠左衛門は仕方なしに寺坂を解雇する。 おたねも何も持たされず襦袢一枚で忠左衛門の家を追い出されたが、襦袢を調べてみると中に五十両が縫い付けてあった。 忠左衛門が二人を心配して縫い付けてくれたのだ。 二人は八百屋をして生計を立てる事にする。

それから十三年後、寺坂は忠左衛門と再会。聞けば忠左衛門は播州浅野家に仕官が決まったが、鎧を買う為の五十両がなくて困っているという。

ある日忠左衛門のもとに寺坂がやってきて、豆煎りの入った袋を置いて帰る。 忠左衛門が豆を食べようと袋を開けると、中には五十両が入っていた。 寺坂夫婦は昔の恩返しにと、娘の「お軽」を女衒に売る事で五十両を得て、それをそっと忠左衛門に渡したのだ。

しかし急に五十両が手に入った事が災いして忠左衛門は泥棒と勘違いされてつかまってしまう。 しかも忠左衛門は五十両は自分が盗んだものだと自白してしまう。 忠左衛門はこの五十両は寺坂が盗みをはたらいて得たものだと勘違いし、寺坂をかばう為に自白したのだ。

そこで寺坂は早速奉行所にかけつけ、五十両は娘を売って得た金である事を詳言。 そこで奉行所が女衒を調べると、女衒が寺坂に払うべきお金の一部を着服していた事、盗難の犯人は女衒の仲間である事などが分かった。

これで無事忠左衛門は釈放され、寺坂の娘のお軽も孝行が神妙だという事で親元の寺坂の所へ返され、奉行所の口添えで寺坂も浅野家に奉公できる事になった[373]


関根黙庵の『講談落語今昔譚』[374]によれば、この話は松崎堯臣の『窓のすさみ』に登場する「向坂次郎右衛門」の話[375]を寺坂吉右衛門の話に焼きなおしたものだという。

義士外伝

忠僕直助

大野九郎兵衛は古物商の橘屋儀右衛門と計り、藤原定家の色紙の贋作を浅野内匠頭に売りつけようとした。 しかし家臣の岡島八十右衛門に鑑定の才能があったので、八十右衛門は色紙が贋作だと見抜き、事なきを得る。 八十右衛門はこれが原因で大野九郎兵衛から恨みを買ってしまう。

大野九郎兵衛は八十右衛門に仕返しをしようと、八十右衛門に刀を見せるように言う。 貧乏で名刀など変えない八十右衛門は冴えない鈍刀を刺していたので、大野九郎兵衛に馬鹿にされる。

八十右衛門の下僕の直助はこの話を聞いて発憤。 直助は刀鍛冶の所に行って修行を積み、「津田助直」という名前で有名になるほどになった。

直助こと津田助直は自身が打った名刀を八十右衛門に渡す。 そして大野九郎兵衛に拝謁し、九郎兵衛の刀が真剣勝負の役に立たないものだと皆の前でけなしてその証拠に刀を簡単に折ってしまう。 大野九郎兵衛は名高い津田助直に代わりの刀を懇願するが、もちろん助直は断る。

腹を立てた大野九郎兵衛は助直に斬りかかろうとするが、周りに止められる。 しかもどさくさにまぎれて皆からポカポカ殴られてしまう。 皆、普段から大野九郎兵衛に不満がたまっていたのだ。

その後津田助直は名巧として名を残し、八十右衛門は助直の打った名刀を持って討ち入りに参加した[376]

和久半太夫

和久半太夫(わくはんだいふ[377]、はんだゆう)は上杉家に仕えたとされる剣客(だが、本当は実在しない[378])。

和久半次郎(後の和久半太夫)は12歳のときから作州津山の森大内記(もりだいないき)に仕えていた。 あるとき、大内記が小姓達をあつめて肝試しをしようと、打ち首にした悪人五人のさらし首に印をつけてくるものは誰かいないかと言った。

半次郎はこれに志願。褒美の脇差を先に貰って、さらし首の元へとおもむき、さらし首に印として1つ1つ煎餅をくわえさせていく。しかしさらし首の数は5つと聞いていたのになぜか6つあり、しかも最後の1つの首はパリパリと煎餅を食べて「もうひとつ煎餅をよこせ」と言い出した。半次郎は妖怪の類だと思い、首を斬りつける。

実は6つ目のさらし首は半次郎の事を妬んだ長澤繁松という男が、半次郎を脅かそうとさらし首のふりをしているだけだった。 半次郎に斬りつけられた繁松は、三日後に死んでしまったが、この件は繁松の不心得だという事で半次郎にはお咎めがなく、むしろ度胸を示した半次郎の名があがった。


その一年後、半次郎の父・半十郎が何者かに斬り殺されてしまう。 半次郎は頼る者も無かったので母とともに江戸に出てきて、剣術指南の看板を出して生計を立てたが、何分半次郎がまだ子供だったため、習いにくるものは少なかった。

江戸に出てからというもの、半次郎の母「おみさ」に徳右衛門という浪人が懸想していたのだが、ある時おみさが徳右衛門になぜ浪人したのかと聞いてみたところ、徳右衛門は「昔、半十郎(つまり半次郎の父)という男を斬り殺した為に国に入れなくなり浪人したのだ」と答えた。国から遠く離れた江戸でまさか半十郎の親族に会うとは思わず、つい話してしまったのだ。聞けば徳右衛門は半次郎に斬られた長澤繁松の父に頼まれ、半十郎を斬り殺したのだという。

おみさからこの話を聞いた半次郎は、徳右衛門を一刀両断して仇討ちを遂げる。 これにより半次郎の名は高まり、半次郎の道場は入門者であふれかえった。

半次郎はこの頃名前を半太夫に名を改める。

その後半次郎あらため半太夫は、四谷寺町付近に現れた妖怪を一刀両断する。妖怪の正体は小牛ほどもある大きな狐だった。

こうして名を高めた半太夫は上杉家に召抱えられ、吉良家の付き人になった。

そして赤穂浪士討ち入りの夜、半太夫は奮戦した後、武林唯七に討ちとられた[379]

梶川与惣兵衛

梶川与惣兵衛は浅野内匠頭の刃傷に立ち会い、吉良に斬りかかる浅野内匠頭を抱きとめ、それが為に内匠頭は吉良を仕留めそこなった。 これは神妙という事で公儀は与惣兵衛に加増した。

一方、やはり刃傷に立ち会った坊主の関久和(せききゅうわ)は内匠頭の小刀を奪い取ったとしてやはり公儀から加増を仰せつけられたが、久和はこれを断った。後で考えてみれば内匠頭の無念を慮って吉良を討たせるべきだったと久和は後悔していたのだ。

こうした久和を見た周囲は久和の事をほめたたえたが、一方の与惣兵衛の名は地に落ちた。浅野内匠頭の不幸が原因で加増されたのに、これを断らなかったからである。

皆は与惣兵衛が家にくると、仇討ちで有名な曽我物語の富士の巻狩りの場面を描いた掛け軸をかけ、与惣兵衛を説教した。富士の巻狩りの掛け軸攻めに懲りた与惣兵衛は、早々に隠居してしまった。

隠居後与惣兵衛は、隣家の下僕に化けた四十七士の一人大石瀬左衛門に討たれて最期を遂げる[380]

その他

中村仲蔵

初代中村仲蔵の斧定九郎。勝川春章画。

『中村仲蔵』は落語と講談の共通演目。

初代中村仲蔵は人気の歌舞伎役者であったが、ある時座元と揉め、それが原因で主要な役は仲蔵に回ってこなくなり、『仮名手本忠臣蔵』の五段目の端役「斧定九郎」が割り当てられる。

しかし仲蔵は浪人ものの斧定九郎を演じるため、本物の浪人を観察して写実的な演出で定九郎を演じる。

これが大評判となってそれ以降斧定九郎は人気の役どころになり、仲蔵も人気役者として名を残した。

淀五郎

淀五郎』は落語と講談の共通演目。

若手の役者・澤村淀五郎が『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官の役に抜擢された。抜擢したのは大星由良助の役を勤める座頭の市川團蔵だ。

しかし團蔵は四段目「判官切腹の場」における淀五郎の演技が気に入らず、淀五郎が切腹の演技をしても舞台に出てこない。そんなことが何日も続いたため評判が悪くなる。

そこで淀五郎は先輩の役者・初代中村仲蔵に徹夜で芝居の稽古をつけてもらう。

その甲斐あって淀五郎の演技ばかり見違えるようにうまくなり、淀五郎が切腹の後、初めて團蔵の由良助が舞台に登場した。

そして團蔵は言った「うむ、待ちかねた」

赤穂事件を題材とした歌舞伎と人形浄瑠璃

初期の芝居

浅野内匠頭の刃傷が起こると、元禄15年(1702年)3月[381]にはこの事件が江戸の山村座で『東山栄華舞台』として取り上げられたという[381][382]。そして赤穂浪士が切腹すると、元禄16年2月16日から江戸の中村座で『曙曽我夜討』を上演して当時活躍中の中村七三郎らが曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せたものの、3日で上演禁止とされたという[382]。しかし『東山栄華舞台』の上演に関しては『歌舞伎年表』にも『歌舞妓年代記』にも載っていないため疑問が残るし、『曙曽我夜討』の上演に関しては宝井其角の書簡に載っているものの、この書簡には史料的に疑問が残るとされている[382]

また元禄15年10月の大坂竹本座『傾城八花形』の第一段に浅野内匠頭の刃傷を仕込んだともいわれ[381]、翌16年1月に江戸の山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』にも大詰に集団の討ち入りを仕組んでいた[381]。同じく元禄16年1月には京都の早雲万太夫座で上演された近松門左衛門作の『傾城三の車』に討ち入りの場面が仕込まれているのも、赤穂浪士の討ち入りの影響とされている[382]。しかしこれらの上演は、幕府から差し止められたという[381]。実際、元禄16年2月には堺町と木挽町(いずれも当時の芝居町)で「近き異時」(最近の事件)を扱ってはならないという幕府の禁令が出ている[382]。このためしばらくは赤穂事件を扱った芝居は上演記録は残っていない[382]

『仮名手本忠臣蔵』まで

赤穂事件を題材にした演目は数多いが、以下代表的なものを紹介するに留める。

『碁盤太平記』

討入りから4年後の宝永3年(1706年)の6月に、赤穂事件に題材をとった近松門左衛門作の一段だけの人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている[382]。これは(前述の禁令により赤穂事件を直接扱う事はできないので)太平記の世界に擬して赤穂事件を取り扱ったもので、同じく太平記に擬して赤穂事件を扱う『仮名手本忠臣蔵』に影響を与えている。とくに、大石内蔵助に相当する人物が『仮名手本忠臣蔵』と同じく大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)という名前で初めて登場している[382]事は特筆に値する。

『鬼鹿毛無佐志』

浅野内匠頭の17回忌にあたる正徳3年の12月には大阪の豊竹座で紀海音作の人形浄瑠璃『鬼鹿毛無佐志(むさし)鐙』が上演されている。これは宝永7年に大阪の篠塚庄松座で上演された吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』に負う所が大きい[382]もので、内蔵助は『鬼鹿毛武蔵鐙』と同じく大岸宮内という名である。この作品では赤穂事件を『太平記』に仮託しつつ、そこから離れて足利義政の時代の事件の小栗判官と照手姫の物語も取り上げられている[382]

本作は構成上の不備がある等傑作とは言い難い面がある[383]が、『仮名手本忠臣蔵』の七段目に影響を与える等、義士劇の系譜の上では重要な位置を占める[383]

この作品は近松門左衛門のライバルであった紀海音であり、内容的にも近松門左衛門の『碁盤太平記』を意識したものになっている[384]。 この『鬼鹿毛無佐志鐙』(とその前作『鬼鹿毛武蔵鐙』)は近松門左衛門の『碁盤太平記』と並び、『仮名手本忠臣蔵』につらなる源流の一つで[384]、この作品で出てきた大岸宮内、小栗判官といった名前は後の作品にも頻出する。

『忠臣金短冊』

浅野内匠頭の33回忌にあたる享保17年の10月には豊竹座で並木宗輔らの作による人形浄瑠璃『忠臣金短冊(こがねのたんざく)』が上演されているが[382]、これは『碁盤太平記』の系譜と『鬼鹿毛無佐志鐙』の系譜を妥協・融和させて描かれている[384]

作者の一人である並木宗輔は後に「並木千柳」と名をかえ、後に『仮名手本忠臣蔵』の作者の一人になっている[385]。それゆえ『仮名手本忠臣蔵』の7段目や9段目に受け継がれた趣向も多い[385]

『大矢数四十七本』

そして翌延享4年(1747年)には京都の中村粂太郎座で、沢村宗十郎の自作自演による『大矢数四十七本』(延享3年のものと同じ外題)が上演された[382]

この『大矢数四十七本』は『仮名手本忠臣蔵』の粉本になったことで知られ[382]、大石内蔵助に相当する大岸宮内の役を沢村宗十郎が演じ、祇園町で生酔する演技をしたところ大当たりを取った[382]。後の『仮名手本忠臣蔵』において大星由良之助(大石内蔵助に相当)が遊興する場面は宗十郎のこの演技を真似たものである[386]

『仮名手本忠臣蔵』

そして赤穂浪士の討ち入りから47年目にあたる寛延元年(1748年)の8月14日に、大坂道頓堀の竹本座で、二代目竹田出雲三好松洛並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演され[387]、連続4か月も上演するほどの大当たりとなった[387]。同年12月には大坂の嵐座で歌舞伎でも上演されている[387]。歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた[387]

伊原青々園の『歌舞伎年表』によれば、慶応3年までに江戸だけで89回も上演され、それに大坂、京都、その他での上演を加えると179回にもなる[387]。 人形浄瑠璃のほうでも、黒木勘蔵の『近世邦楽年表・義太夫節之部』には70回も上演されたときされている[387]

忠臣蔵事件

『仮名手本忠臣蔵』の上演に絡んで、竹本座で内紛があった。上演開始から二か月ほどたった十月に、人形遣いの吉田文三郎から、九段目の段取りが詰まりすぎているところを少し変えてほしい旨の要望が座頭の竹本此太夫に対して出されたのだが、此太夫がこれを断った事ところ、両者とも引き下がらず、どちらかが竹本座を辞めねばならぬところまで事態は発展した[387]。座元の竹田出雲は文三郎を失わないよう、此太夫を引かせることにし、此太夫以下四人が竹本座を辞して豊竹座に行った[387]。代わりに政太夫他3人が豊竹座から竹本座に招かれた[387]。この事件のため、『仮名手本忠臣蔵』の公演を続ける事ができなくなり、十一月で公演を終えている[387]。(この年は閏十月があったため、興業期間は4か月[387])。

なお、文三郎の工夫で今日まで残っているものとして、由良之助の衣装に文三郎の家の家紋である「二つ巴」をつけた事があるといわれている[387]

『仮名手本忠臣蔵』以後

『仮名手本忠臣蔵』以外にも赤穂事件を題材にした演目は作られ続け、『歌舞伎年表』に載っているものだけでも85個もある[387]

その中でも特に有名なのは人形浄瑠璃の『太平記忠臣講釈』(明和3年竹本座初演、近松半次ら6人の合作)で、本作は『仮名手本忠臣蔵』に次ぐ名作と名高く[388]、それまでの義士劇の集大成的な面があるが、その分独創性は少ない[388]。本作は『歌舞伎年表』に載っているだけでも前者は56回、後者は13回も上演されており[387]、特に8段目は近代まで上演されていた[388]

歌舞伎の『義臣伝読切講釈』も『歌舞伎年表』に載っているだけでも13回上演されており[387]、本作には今日も上演される『忠臣連理廼鉢植』の段がある。

寛政期の大坂で上演された奈河七五三助作の『いろは仮名四十七訓』は『泰平いろは行列』と『大矢数四十七本』を合わせて作り直したものと言われ[389]、6幕目が能狂言の『鎌腹』の換骨奪胎である「弥作の鎌腹」であり、今日も上演される[389]。また8幕目は今日でいう「鳩の平右衛門」で、寺岡平右衛門が仇討に行く最中、逢坂山で鳩の親子の愛情を見て、引き返して母親に討ち入りの話を明かし、母親が寺岡を激励するため自害する。8幕目はのちに書き換えられて『稽古筆七いろは』になり、今日では前述のように『鳩の平右衛門』という演題で上演される[389]。3幕目も明治時代まで上演されたいた[390]

文政8年に初演された四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は、『仮名手本忠臣蔵』と同時上演され、『仮名手本』の裏で起こっている事件として描かれている。 同じく鶴屋南北は他にも、四十七士の不破数右衛門が猟奇殺人鬼として登場する一種のパロディ作品『盟三五大切』や、『仮名手本』の悪役の斧定九郎を主人公とし、定九郎とその父の九郎兵衛が実は忠臣であったとする奇作『菊宴月白浪』を書いている[391][392]

天保年間に上演された『裏表忠臣蔵』には、蜂の巣の乱れで大事を知って寺岡平右衛門が江戸へと急ぐ「蜂の平右衛門」が含まれている[393]。 またこの演目が天保4年3月に河原崎座で上演された際には、三升屋二三治が市川海老蔵(後の7代目団十郎)と3代目の尾上菊五郎のために清元の「道行旅路之花聟」が書き下ろされており[394][393]、これが現在では歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』に取り込まれている。

安政期に書かれた『新舞台いろは書初』には現在でいう「松浦の太鼓」が含まれている[393]。 また黙阿弥の『仮名手本硯高島』には「徳利の別れ」が含まれており、『忠臣後日建前』はいわゆる「女定九郎」の物語であり[393]、鶴屋南北の草双紙を題材に黙阿弥が仕上げたものである[395]

明治以後

明治元年閏4月には大阪堀江の芝居で奈川七五三助作の忠臣蔵もの『武士鏡忠義の礎』が初演され[396]、明治2年3月には大阪筑後の芝居で同じく奈川七五三助の『仮名手本四十七文字』が初演されている[396]

同じ年の5月には河竹黙阿弥の『名大星国字書筆』が市村座初演された。これは脱盟者・小山田庄左衛門の遊蕩が実はお家の家宝の金の鶏を詮議するためのものであったという筋で[397]、このとき大星由良助を演じたのは後の「劇聖」九代目市川団十郎であった[397]

続けて明治4年には黙阿弥の『四十七石忠箭計』という、討ち入りの一日を十二時に分けて演じる趣向の演目が初演されており、「南部坂の別れ」など実録所や講談で有名な場面がふんだんに取り入れられた[397]

明治6年には「義平拷問」、「山科閑居」、「島原遊興」に今日も演じられる「清水一角」を取り合わせた『忠臣いろは実記』が初演されている[398]。江戸時代までは幕府の禁令により、歌舞伎狂言で実在の人物を扱うときは名前は仮名にする必要があったが、本作では忠臣蔵ものとしては初めて、実在の人物の名前を本名のまま用いている[399]

明治7年には、桜田門外の変を忠臣蔵に仮託して描いた『讐怨(かたきうち)解雪赤穂記』が沢村座で初演されている[397]

明治期の歌舞伎の潮流のひとつは、これまでの歌舞伎の荒唐無稽な所を排して史実をそのまま描く活歴物が台頭してくる事だが、忠臣蔵ものの歌舞伎にも活歴の影響が出ている。

前述した明治4年の『四十七石忠箭計』ではすでに九代目市川団十郎が大星由良助を実録風に演じていたが、他の場面では従来の歌舞伎の味を残したものになっておりやや不調和であった[400]。 明治23年には『実録忠臣蔵』という、その名の通り実録風の忠臣蔵ものが作られたが、不評であった。ただしこの中の「土屋主税」の場面は後まで残り雁次郎の当たり役となった[401]。 明治35年にも活歴物の福地桜痴作『芳哉(かんばやし)義士誉』が初演されているが不評だった[401]。講演には興行主が二の足を踏んでいたのに、活歴好みの団十郎があえて上演したという[401]

大正10年には二代目市川左團次一座の『忠義』が上演され好評を取った。この作品は、イギリスの詩人ジョン・メイスフィールドが膠着した西部戦線における連合軍の指揮を鼓舞する為に忠臣蔵を翻案した『The Faithful』を日本に逆輸入して小山内薫が翻訳したものである[402]。『The Faithful』も再三上演され、『忠義』も築地劇場で再演される等好評であった[402]

昭和3年(1928年)8月には旧ソ連において二代目市川左團次等が史上初の歌舞伎の海外公演が行っており、その時の演目が『仮名手本忠臣蔵』であった。

昭和9年には今日でも上演される真山青果の連作『元禄忠臣蔵』の最初の作品である「大石最後の一日」が歌舞伎座で二代目市川左團次により上演されている。

戦後

第二次世界大戦後、『忠臣蔵』は上演禁止の憂き目にあう。戦後日本を占領統治下においたGHQは軍国主義につながるものを禁止していったが、歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体だったとされ、そのように看做された一部の演目が上演を禁じられた。そのなかでも特に『忠臣蔵』は危険な演目であるとして目をつけられ、これも上演が禁止されていたのである。

昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れていた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演された。この上演には「歌舞伎を救った男」フォービアン・バワーズの助力があったとされるが、近年の研究ではこれを否定するものもでている(詳細はフォービアン・バワーズの項目を参照)。

戦後の歌舞伎においても『忠臣蔵』は人気演目の一つで、1945年から2015年7月現在までに主要な劇場で歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は213回も上演されており[403]、真山青果の『元禄忠臣蔵』も66回上演されている[404]

1960年6月には、『仮名手本忠臣蔵』が初めて海外に渡り、ニューヨークの大劇場シティー・センターで上演され、大好評を博した[405]。このとき外務省が切腹の場面を懸念したが、前述のフォービアン・バワーズが問題ないと太鼓判を押したという[405]

戦後の歌舞伎では新作の上演は少なくなっているものの、舟橋聖一作『瑤泉院』(1959年)[406]、『続・瑶泉院』(1962年)[407]三代目市川猿之助による2003年の『四谷怪談忠臣蔵』(1980年の『双絵草紙忠臣蔵』を改作)[408][409]など、わずかながら忠臣蔵ものの新作も作られ続けている。

講談における赤穂事件

講談(講釈)の世界においても、事件当初から「赤穂義士伝」が好んで読まれた[410]。赤穂義士伝は赤穂事件全体の流れを述べる「赤穂義士本伝」、個々の義士の逸話を述べる「赤穂義士銘々伝」、義士以外の関連人物を対象とした「赤穂義士外伝」に分かれるが、この区分ができたのは近世中期である[410]

大正13年発行の『講談落語今昔譚』によれば、19世紀前半に田辺南窓(後に柴田南窓を名乗る)という博覧強記な講釈師が義士伝を得意とし、大正13年当時の義士銘々伝はおおむね南窓のものを稿本にしているという[411]

その後講談は幕末に大いに流行し[410]、明治初期に黄金期を迎える[412]。忠臣蔵がらみでは三代目一龍斎貞山は大石内蔵助を日本一の忠臣として尊敬し、赤穂城明け渡しでは聴衆を泣かせたという[412]

明治初期の講談の黄金期は講談の内容を書き記した「講談筆記本」が登場した事の影響が大きい[413]。忠臣蔵がらみでは桃川如燕の『二十三品義士の遺物』や、『文芸倶楽部』に発表された『講談忠臣蔵』(1899年)や『義士講談 雪の梅』(1900年)などがある[413]

1913年には文部省・宮内省の呼びかけで発足した組織「通俗教育普及会」の要請により、『通俗教育叢書 赤穂誠忠録』が書かれその中で講釈師の桃川如燕・若燕に義士伝を語らせている[414]

しかし講談はその後浪曲や大衆小説の登場により衰微していく[414]

それ以外の創作物

江戸時代

正徳元年(1711年)には『忠義武道播磨石』(『武道忠義太平記』とも)という実録風の読本が出ており、赤穂事件を鎌倉期の出来事に仮託して描いている[415]。 そして享保2年にはこれを模倣した『近士忠義太平記大全』がでている[415]。 これらは『鬼鹿毛無佐志鐙』から『仮名手本忠臣蔵』までの人形浄瑠璃や歌舞伎に影響を与えているであろう[415]

さらに時代が下ると、安政8年の『案内手本通人蔵』のような『仮名手本忠臣蔵』を前提とした洒落を効かせた本も登場する[415]。 また寛政11年には忠臣蔵を水滸伝に当てはめた山東京伝の『忠臣水滸伝』が描かれた[415]

天保の頃から開港時期にかけて「義士研究」がさかんになり、特に開国直前の嘉永4、5年には、赤穂事件関連の史料を数十年がかりで集めた『赤穂義人纂書』が登場している[416]。 19世紀中葉は「義士伝集成時代」ともいうべき義士ブームの時代で[416]、天保7年には四十七士の銘々伝が書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』[417]が登場し、安政期には山崎美成が銘々伝的な逸話を集めた『赤穂義士一夕話(いっせきわ)』や『赤穂義士随筆』を書いている[415]。この時期には全国各地の義士の遺跡に記念碑が続々とたてられ[416]、忠臣蔵の芝居も続々と作られた[416]。弘化・嘉永の頃には一勇斎国芳の武者絵『誠忠義士伝』が出て江戸中で大評判になった[416]

天保の頃には泉岳寺に詣でる客も多く、泉岳寺の近くには『仮名手本忠臣蔵』にちなんだ名前がそこかしこにあり、たとえば一力茶屋、大星力弥、天河屋義平にちなんだ「一力」ののれん、「力弥豆」、「天川白酒」などがあったという[418]

嘉永元年には泉岳寺で開帳があり、義士ブームの頂点に達した[416]。これにあわせ一陽斎豊国の芝居絵『誠忠大星一代噺』が描かれている[416]。 泉岳寺の開帳の際には奉納者を募り義士の木像が作られた。奉納者には一般の町人や武士のほか、講釈師や芝居関係者、やくざの親分や首切り浅右衛門などがいたという[416]

しかしこの木造を無料で拝観させようとしたところ、幕府から差し止められた[416]。 忠義ものであっても罪人である赤穂浪士たちの木像を公開して騒ぎ立てるのはよくないというのが理由であった[416]。 幕府は最後まで赤穂浪士を罪人として扱い続けたのである[416]

幕末に安政の大獄が起こると、水戸藩の浪士達は赤穂事件を研究し、桜田門外の変に生かしたという[419]

明治以降

宮澤誠一によると、明治以降の忠臣蔵物の特徴として、欧化主義の時代には「義士」としての四十七士像は批判され、国粋主義・日本回帰の時代には「義士」は賛美される傾向にあるという[420]

明治元年11月5日には、明治天皇が泉岳寺の大石らの墓に対して、勅使を遣わし、勅旨を述べ、金幣を届けさせた[421]。 松島栄一によれば、この件は四十七士が義士であるという論功行賞になってしまったという[421]。 この件は四十七士の義士像を天皇の公認のものとし、それはそのまま明治政府公認の立場ととらえられ、義士を賛美・称揚する人に利用されることになる[421]。 そして同時に、君主・浅野内匠頭に対する義士の忠誠が、天皇や国家に対する忠誠にすり替えられる原因ともなった[421]

一方、文明開化の影響による封建思想への批判もあり、たとえば福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「義士」を批判している[420]。福沢によれば内匠頭にしろ四十七士にしろ、刃傷や仇討ちに及ぶのではなく時の政府である江戸幕府に訴えを起こすべきだったとしている[422]

歴史学の立場からは明治22年に重野安繹の『赤穂義士実話』が登場し、ここにはじめて、赤穂事件は近代歴史学の俎上にのった[421]。重野は文献実証主義の立場から『江赤見聞記』に基づいて芝居等の「忠臣蔵」における虚説を排したが、人々が慣れ親しんできた忠臣蔵のイメージを損ねたので重野は世間の憤激を買った[423]

その後信夫恕軒により、赤穂事件を講談のように面白く物語る『赤穂義士実談』が出ている[421]

日露戦争後の忠臣蔵ブーム

日露戦争後、国家主義思潮の高揚にともない、明治維新後最初の忠臣蔵ブームが起こる[424]。その起爆剤になったのが、桃中軒雲右衛門の浪花節と近代の忠臣蔵物の原点[424]となる福本日南の『元禄快挙録』であり[424]、それらの背後には国家主義的な政治結社玄洋社の後援があった。

浪曲師桃中軒雲右衛門玄洋社の後援で「義士伝」を完成させ、武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとっている。 雲右衛門の義士伝はレコードという新しいメディアを利用する事で爆発的な人気を呼んだ[425]。 また浪曲師二代目吉田奈良丸も『大和桜義士の面影』で大高源吾と宝井其角の出会いを歌って大ヒットを呼び、「奈良丸づくし」と称して演歌にまでなった[425]。この事が大高源吾の笹売り伝説の普及に一役買った[426]

明治42年には、玄洋社系の新聞九州日報の主筆兼社長である国粋主義者[427]福本日南著『元禄快挙録』のような、「義士」の犠牲精神を強調し、国民統合を目指した言説が登場し[420]、洛陽の紙価を高めるような評判をとった[421]。 この本によって戦前の近代日本における忠臣蔵の見解が示されたといっても過言ではない[421]。これは時を同じくして国民道徳としての武士道が高揚されたことと無関係ではない[421]。日露戦争で旅順攻囲戦を指揮した乃木希典山鹿素行に心酔していた[421]

活動写真もこの頃「忠臣蔵」を普及させたメディアの一つで、最初の忠臣蔵映画は、1907年に歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の五段目を撮影したものである[428]。 またこの頃の忠臣蔵映画の代表作の一つに、1912年の横田商会による牧野省三監督作品『実物応用活動写真忠臣蔵』全47場があり、主人公の尾上松之助が大石内蔵助、清水一学、浅野内匠頭の三役を演じている[428]。この映画はその2年前に作成された松之助最初の全通し42場の『忠臣蔵』をもとにしたて村上喜剣の話などを付け加えたもので[428]、「実物応用」というのは活動写真の合間に俳優が実演する映画の事である[428]。この頃の忠臣蔵映画では、浪花節が口演されたりレコードで流されたりする事があった[428]

この後も忠臣蔵映画は作られ続け、御園京平の調査によれば、明治期から昭和戦中までに作られた忠臣蔵映画は、分かっているだけでも114本に及ぶ[429]

大正デモクラシー

大正デモクラシーの頃には忠臣蔵もその影響を受け、忠義よりも人間的の自然な感情や抵抗の精神を重視した研究も生まれてくる[430]。 1913年に刊行した司馬僧正の『拙者は大石内蔵助ぢや』とその続編『赤裸々の大石良雄』は、忠臣蔵に自然的な手法を持ち込み、英雄大石内蔵助といえど内面は凡人と変わらぬ事を説こうとしたが、それは伝統的な儒教道徳の禁欲倫理の裏返しに過ぎないなどの限界があり、近代的自我に目覚めつつある当時の知識人の期待に応えるものではなかった[431]

1917年には吉良低討ち入り後に細川屋敷に預けられた大石内蔵助の内面に初めて近代文学の光を当てた芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』が登場している。

大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム

映画『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(1928年)の広告。尾上松之助と袂を分かったマキノ省三監督が新派の俳優伊井蓉峰を主演・大石内蔵助にして撮ったもの

大正デモクラシーの衰退期には明治維新後第二の忠臣蔵ブームが起こり、大正5年(1916年)に福本日南が中心となって設立した中央義士会がの活発な活動や、忠臣蔵の講談や浪花節がラジオで活発に放送された[432]

しかしこのころには同時に、忠君愛国的な「義士」像に対する批判や、人間的政治的視点を盛り込んだ小説も登場している[432]。 1926年、野上弥生子は『大石良雄』において、そのときどきの感情に突き動かされ、最終的に復讐を義務・責任と感じる内蔵助像を描く事で内蔵助の偶像化を否定した[433]。これは近代的精神が抑圧され挫折させられた大正末期の知識人の屈折した内面を表現したものであろう[433]。 また1927年から新聞連載された大佛次郎の『赤穂浪士』は昭和の金融恐慌にはじまる社会不安を背景として書かれ、腐敗した封建的な官僚主義政治に対抗する大石内蔵助像を描いてベストセラーになった[434]

満州事変以後

五・一五事件の首謀者達は自分たちの行動を桜田門外の変に見立てていたが、泉岳寺に集結するなど「忠臣蔵」をも意識した行動をとっていた[435]。また彼らに対する論告求刑文においても、山本検察官が赤穂事件に対する荻生徂徠の論説を引き、もし首謀者達を無罪にすれば後の禍根になる旨を述べた[435]

二・二六事件では首謀者達が忠臣蔵を想起したと思われる言動は少ないが、岡田啓介首相の生存が報道されると、吉良上野介のように炭小屋に隠れていたのではないかというデマが流れた[436]

日中戦争前後の忠臣蔵ブーム

昭和10年代前半の日中戦争前後の頃の日本回帰に伴い、第三の忠臣蔵ブームが起こる[437]。 この頃の忠臣蔵の特色は、天皇制の問題が色濃く反映している事である[437]。たとえば真山青果の『元禄忠臣蔵』は正確な時代考証のもと描かれたにも関わらず、大石が皇室に対して絶対的な尊崇をしており、「元禄時代の人間がこのような発想をするわけがない。時局に迎合して故意に話を皇室に結び付けたのだ」と本作発表当時から批判された[438]

吉川英治の『新編忠臣蔵』においても、多門伝八郎が元禄の華美な生活は「永遠の皇国」に「亡国の禍根」を残すのではないかと嘆くなど、天皇制を意識して書かれている[439]

日中戦争がはじまって1年たつと、中国大陸で戦っている将兵のために中央義士会は『元禄義挙の教訓』を出版し、国家総力戦になった現在、義士精神は全ての国民が見習うべき道徳的規範だと主張している[440]。そして義士の犠牲的精神を強調し、赤穂事件が忠孝一致の日本精神を体現するものだと称賛されている[440]

太平洋戦争

日本が太平洋戦争に参戦すると、中央義士会は義士精神を米英打倒の精神の模範として称賛する[441]

だが軍部当局の方は赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強く、国定歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小される[441]

太平洋戦争末期になると、軍部もこのような小義と大義の区別にこだわってられず、国民講談振興会の強い要請を受け、「定本国民講談」の刊行を許可している。そこでは義士達の仇討ちを米英に対する「国民的仇討ち」に転化して天皇国家への絶対的忠誠に結び付けている[442]

戦後

第二次世界大戦における日本の敗戦により、忠臣蔵の位置づけも戦中とは大きく変化する。 下村定陸軍大臣は「陸軍軍人軍属に告ぐ」という放送で、大石内蔵助の赤穂城明け渡しの立派さを例に挙げて天皇の命令に従っておとなしく武器を捨てるように言い、石原莞爾陸軍中将も毎日新聞でやはり大石を例にして同様の事を述べている[443]

戦後米軍が日本を占領すると、GHQの下部組織CIEが日本の映画会社各社に推奨すべき映画と作成を禁止すべき映画の指針を通達し、禁止事項の中には「仇討ちに関するもの」と「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましいこと、また名誉なこととしたもの」という項目があり、これにより忠臣蔵映画の上演は不可能になった[444]

フォービアン・バワーズによれば、1943年11月には雑誌『LIFE』に忠臣蔵から日本人の「血に飢えた」メンタリティを分析する論考が載っており、GHQの上層部はこれを読んで前述した禁止事項を入れたのかもしれないとしている[445]。もしそうだとすれば、GHQは忠臣蔵を狙い撃ちして禁止した事になる。

実際占領期間中には、中山安兵衛(堀部安兵衛)を人の命を奪う事のむなしさに悩む男として描いた[446]『「高田馬場」より 中山安兵衛』(1951年3月公開)を唯一の例外として、本伝はもちろん外伝ものすら忠臣蔵映画の上演は許可されていない[445]。(なお『忠臣蔵余聞 四十八人目の男』の再演も、正確な上映期間が分からないものの、占領下の1951年4月に行われた可能性がある[447]。)

ただし1949年の映画『青い山脈』は忠臣蔵の換骨奪胎して作り上げたものだとこの映画のプロデューサーの藤本真澄が証言しており[448]、その意味ではこれを占領期間中に作られた数少ない忠臣蔵映画とみなす事もできる。

1952年に日本が主権を回復すると、毛利小平太ら脱落者を描いた『元禄水滸伝』を皮切りに、1952年だけで7本もの忠臣蔵映画が作られている[449]

この頃の忠臣蔵映画は、まだGHQに対する遠慮があったのか、どれもアンチ仇討ち、アンチ忠臣蔵というスタンスで描かれていたが[449]、1954年の『赤穗義士』(大映)と同年の『忠臣藏(花の巻・雪の巻)』(松竹)から戦後忠臣蔵映画の黄金期に突入し[449]、その後1962年まで、毎年数本もの忠臣蔵映画が作られ続けている[449]。当時の忠臣蔵映画は、自社の巨匠監督を使って豪華な俳優をオールスターで使った大作が多く、いわば俳優の顔見せ的な役割を担っていた[450]

一方小説は1950年の榊原潤の『生きていた吉良上野介』を皮切りに、村上元三の『新本忠臣蔵』(1951年)、大佛次郎の『四十八人目の男』など友情や恋、自立などを描いた忠臣蔵ものが発表され[450]、その後も舟橋聖一の『新・忠臣蔵』(1956年~)、山田風太郎の『妖説忠臣蔵』(1957年)、五味康祐の外伝物『薄桜記』(1959年)、尾崎士郎の『吉良の男』(1961年)など続々と忠臣蔵ものが書かれている[450]

東京オリンピックの年である1964年になるとNHK大河ドラマ『赤穂浪士』が最高視聴率53.0%に達する[451]など国民的にヒットし、忠臣蔵の主力が映画からテレビへと移る[452]。その後年末になると毎年のようにテレビで忠臣蔵ものの新作の放映もしくは再放送が行われている。

1980年代になると再び忠臣蔵の関心が高まり、1982年にはNHK大河ドラマ『峠の群像』が作られ、また森村誠一が浪士達の人間的な側面を強調した『忠臣蔵』を描き、ブームの一翼を担った[453]井上ひさし小林信彦もそれぞれ脱落者を描いた『不忠臣蔵』、赤穂事件の不条理な面を浮き彫りにした『裏表忠臣蔵』を書いている[453]

同時期に丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』で忠臣蔵を御霊信仰と結び付けた論考に端を発するいわゆる「忠臣蔵論争」が起り、諏訪春雄が『忠臣蔵の世界』、『聖と俗のドラマツルギー』で丸山の説に反論するなどした[454][453]

1992年には池宮彰一郎による『四十七人の刺客』が登場する。本作では吉良暗殺の「刺客」としての赤穂浪士を描き、たとえば吉良による浅野の苛めは赤穂浪士側のブラックプロパガンダとするなど情報戦としての側面も描かれた。1994年には同じく池宮彰一郎の『最後の忠臣蔵』が書かれ、討ち入り後の世界を舞台に寺坂吉右衛門や脱盟者などのその後を描いた。

そして2013年にはハリウッドで忠臣蔵を換骨奪胎したファンタジー映画47RONINが描かれている。

博物館・資料館

類似の事件

類似の刃傷事件

赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。被害者加害者共に死亡の例。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者被害者共に死亡の例。


後年の例としては享保10年7月28日 (旧暦)1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件がある。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。


類似の討ち入り事件

浄瑠璃坂の仇討

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討宇都宮藩を脱藩した奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った事件である。 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。幕府は本来ならば死罪であるところを死一等を減じて伊豆大島への流罪という寛大な処分を行った。 恩赦後、一党は他家へ召抱えられた。 この事件を知っていた赤穂浪士は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[455]

深堀事件

深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。

脚注

  1. ^ 宮澤(1999) p146
  2. ^ 『〈元禄赤穂事件と江戸時代〉スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)、『考証 元禄赤穂事件―「忠臣蔵」の虚実』(PHPビジネスライブラリー 稲垣 史生)
  3. ^ 三田村(1930)松島(1964)今尾(1987)宮澤(1999)野口(1994)田口(1999)田原(2006)山本(2012a)渡辺(2013)、『元禄時代と赤穂事件』(大石学、角川選書)、『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』(諏訪春雄 大和書房)
  4. ^ 宮澤(2001) p28、p147-151
  5. ^ 例えば1888年の『江戸本所讐討 : 赤穂浪士吉良義英』 森仙吉編、東京屋 近代デジタルイブラリー
  6. ^ 宮澤(2001)山本(2013)
  7. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」
  8. ^ a b c d e 山本(2012a) 第二章二節「大石の真意」
  9. ^ a b c d e f g h i 山本(2012a) 第二章三節
  10. ^ a b c d 山本(2012a) 第四章二節
  11. ^ a b c d e f 山本(2012a) 第四章三節
  12. ^ a b c d 田口(1999) p181-182
  13. ^ a b c d 宮澤(1999) p146
  14. ^ 宮澤(1999) p215
  15. ^ 宮澤(1999) p225
  16. ^ a b c d e 山本(2012a) 第一章一節「運命の三月十四日」
  17. ^ a b c d e 山本(2012a) 第一章一節
  18. ^ 野口(1994) p56
  19. ^ 山本(2012b) 序章「基礎資料と事件の経過」
  20. ^ 『梶原氏筆記』。山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」より重引。現代語訳も同書から引用。
  21. ^ 山本(2012a) 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」
  22. ^ 現在の東京都港区新橋4丁目
  23. ^ a b c 山本(2012a) 第一章二節「幕府の裁定」
  24. ^ 『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』宮澤(1999) p44より重引。
  25. ^ 宮澤(1999) p36-38
  26. ^ 宮澤(1999) p40-41
  27. ^ a b c 山本(2012a) 第一章二節
  28. ^ a b c 宮澤(1999) p43-45
  29. ^ 山本(2012a) 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。
  30. ^ a b c d 山本(2012a) 第一章三節
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参考文献

歴史に関する文献

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  • 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵第一巻~第七巻』兵庫県赤穂市、1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)。 
  • 野口武彦『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』ちくま新書、1994年(平成6年)。ISBN 978-4480056146 
  • 田口章子『おんな忠臣蔵』ちくま新書、1998年(平成10年)。ISBN 978-4480057808 
  • 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137 
  • 谷口眞子『赤穂浪士の実像 歴史文化ライブラリー 214』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642056144 
  • 田原嗣郎『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642063036 
  • 山本博文『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4098251346 
  • 山本博文『「忠臣蔵」の決算書』新潮新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4106104954 
  • 山本博文『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』吉川弘文館、2013年(平成25年)。ISBN 978-4642064613 
  • 山本博文『知識ゼロからの忠臣蔵入門』幻冬舎、2014年(平成26年)。ISBN 978-4344902886 

創作物

  • 『文芸叢書 忠臣藏文庫』博文館、1912年(明治45年)。  近代デジタルライブラリー Google Books
    • 『正史実伝いろは文庫』、『忠臣水滸伝』、『仮名手本忠臣蔵』、『四十七石忠箭計』を収録。
  • 『日本戯曲全集 第十五卷』春陽堂、1928-1933年(昭和3年)。  近代デジタルライブラリー
    • 『太平記忠臣講釋』、『菊宴月白浪』、『忠孝兩國織』、『いろは假名四十七訓』、『義臣傳讀切講釋』、『繪本忠臣藏』、『假名手本忠臣藏』を収録。
  • 『日本戯曲全集 第四十卷』春陽堂、1928-1933年(昭和3年)。  近代デジタルライブラリー
    • 『忠臣蔵後日建前』、『武士鏡忠義の礎』、『真写いろは日記』、『新台いろは書始』、『仮名書吾嬬面視』、『いろは仮名随筆』、『仮名手本拙書添』、『忠臣蔵増補柱礎』、『いろは歌誉桜花』
  • 片島深淵子『赤城義臣伝』。  近代デジタルライブラリー
  • 『赤穂精義参考内侍所』。  近代デジタルライブラリー
  • 山崎美成『赤穂義士伝一夕話』。  近代デジタルライブラリー
  • 『赤穗復讎全集: 全』博文館  Google Books
    • 『赤穂義士伝一夕話』、『忠臣武道播磨石』、『忠臣藏當振舞』、『俳諧忠臣藏』、『長門本忠臣藏』、『忠臣藏岡目評判』、『繪本忠臣藏』、『いろは文庫』を収録
  • 『忠臣藏淨瑠璃集』博文館、1896年(明治29年)。  Google Books
    • 『碁盤太平記』、『忠臣金短冊』、『假名手本忠臣藏』、『難波丸金鶏』、『いろは歌義臣鍪』、『太平記忠臣講釋』、『躾方武士鑑』、『いろは藏三組盃』、『忠臣伊呂波實記』『廓景色雪の茶會』、『忠義墳盟約大石』、『忠臣一力祇園曙』、『忠臣後日噺』を収録
  • 真山青果元禄忠臣蔵(上、下)』岩波書店、1982年(昭和57年)。ISBN 978-4003110119, 978-4003110126{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 『講談全集 3』大日本雄弁会講談社、1929年(昭和4年)。 
  • 『定本講談名作全集 第7巻』講談社、1971年(昭和46年)。 
  • 『講談名作文庫5赤穂義士銘々伝』講談社、書籍版1976年(昭和51年)kindle版2014年(平成26年)。 

創作物に関する文献

史料

その他

関連書籍

関連項目

外部リンク