高田馬場の決闘
高田馬場の決闘(たかだのばばのけっとう)は、元禄7年2月11日(グレゴリオ暦1694年3月6日)に江戸郊外の高田馬場で起きた伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる決闘。中山安兵衛こと堀部武庸がこの決闘に助太刀して名を挙げた。
講談・逸話・芝居が多いので諸説が入り乱れているが、ここでは作家で義士研究家の佐々木杜太郎が調査し発見された『細川侯爵家文庫』に所蔵されている「二月二十一日高田馬場喧嘩之事」(中山安兵衛が死亡した菅野六郎左衛門にかわって西条松平家の組頭丹羽弥二郎に提出した始末報告書)を最も史実に近い文書としてその内容を記述する。
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[編集] 経緯
元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて二人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、二人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに二人は高田馬場で決闘をすることと決める。
しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた2人しか集められなかった。一方村上家は三兄弟であり、しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の関係を結んでいた剣客中山安兵衛(堀部武庸)のもとへ行き、「草履取りと若党しかおらず、決闘で役に立つ連中とも思えない。万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。これに対して安兵衛は「事情は承知した。しかし後の仇討は受けがたい。今こそお供させていただきたい。貴公よりは手足も達者ですから、敵が何人いても駆け回りひとりで討ち倒し、貴公には手を煩わせません」と応え、菅野はこれを聞いて同道を許可したので一緒に決闘場高田馬場へいくこととなった。
元禄7年2月11日、四つ半頃(午前11時過ぎ頃)、菅野・安兵衛・若党・草履取りは高田馬場へ入った。安兵衛が馬場を見回すと、南之方馬場末から村上庄左衛門がやってきた。しかし一人だけとは思えぬと若党に見回りさせると木の蔭に村上の弟中津川祐見(文書の中に「此れは針医者にて御座候」とある)と村上三郎右衛門(「此れは浪人。庄左衛門にかかり罷在候」とある。すなわち村上庄左衛門の家にいる居候の弟のようである)がいた。挟み打つ手だてとみて菅野は安兵衛らに護衛されながら村上に歩み寄った。村上も近づいてきて十間まで迫ったところで二人は言葉を交わした。菅野が「これは珍しいところにて見参致し候」と皮肉を言うと、村上も「まことに珍しいと存じ候」と応じた。
そこへ村上の弟村上三郎右衛門が兄庄左衛門の後ろから回って斬りかかろうとしたので安兵衛が三郎右衛門の眉間を切り上げた。三郎右衛門はひるんで左の手を刀から離したが、なおも右の手で刀を振り下ろし安兵衛はこれを鍔で受けた。三郎右衛門は一度離れ、再度斬りかかったが、また鍔で受けとめられ、三郎右衛門の刀が引かれたところを踏み込んで三郎右衛門を正面から真っ二つにした。
十間ばかり向こうでは菅野と村上が切りあっていた。しかし村上の剣で菅野が眉間を切られたので、安兵衛がはっとして駆け付けようとしたが、菅野も村上の左右の手を討ち落とした。村上は「ならぬ、ならぬ」と悲鳴をあげて引き下がったが、ならぬと言いながらもなおも眉間に打ち込もうとしてきた(手が落ちていては刀を握れないようにも思えるが原文はこうなっている。骨で止まり完全には落ちなかったか)ので安兵衛が西の方の上手で村上を斬り伏せた。さらに今一人(中津川祐見)が切りかかってきたのでこれも打ち倒した。
この決闘で中山安兵衛が斬った数は諸説あるが、この文書が安兵衛の書いた本物であるとすれば、少なくとも安兵衛が自認しているのは3人(村上庄左衛門、村上三郎右衛門、中津川祐見)ということになる。
なお、決闘の舞台となった高田馬場は、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく新宿区西早稲田にある。
[編集] 逸話
こののち江戸市中の瓦版では「18人斬り」と数を増して紹介され、さらに講談や芝居とするため劇化がなされた結果、この決闘にはさまざまな逸話が誕生することになる。
その代表的なものが「菅野が安兵衛の家に別れを告げに行ったとき、安兵衛は前夜他所で飲んで酔いつぶれていた為留守だった。菅野はやむなく文を書き残して高田馬場へ行く。昼近く、酔いから醒め家に戻った安兵衛は、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて高田馬場へと駆け出す」という安兵衛が後から走って駆け付けて来たという逸話と「堀部ほりがこの決闘を見ていて安兵衛にしごきを貸す」という将来の結婚相手と運命的な出会いが決闘の時にあったという逸話である。
[編集] 後日談
助太刀をした安兵衛の評判を聞きつけた赤穂藩士の堀部金丸が、安兵衛を娘婿に迎えることになる。赤穂藩主浅野長矩の刃傷事件はこの7年後の(1701年)元禄14年。翌年、安兵衛も参加した赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件(元禄赤穂事件)が起きる。
[編集] 作品
高田馬場の決闘は、講談・芝居・落語・映画等の作品を生んだ。『忠臣蔵』のエピソードとしても描かれる。
- 小説
- 池波正太郎『堀部安兵衛』、『おとこの秘図』
- テレビドラマ
- 『喧嘩安兵衛 決闘高田ノ馬場』‐主演高橋英樹、NTV、1989年
- 『忠臣蔵 決闘高田馬場』‐主演世良公則、フジテレビ系、1996年
- 放映中の『忠臣蔵』の追加エピソードとして総集編と合わせて単発放送。後、ビデオ化の際に本編に組み込まれた。
- 『堀部安兵衛』‐主演小澤征悦、NHK、2007年
- 映画
- 『血煙高田馬場』‐監督伊藤大輔、主演大河内伝次郎、1928年
- 『血煙高田の馬場』‐監督マキノ正博・稲垣浩、主演阪東妻三郎、1938年
- 戦後縮尺版『決闘高田の馬場』
- 『決戦高田の馬場』‐監督渡辺邦男、主演市川右太衛門、1952年
- 歌舞伎
- 落語
- 『高田馬場』
- 浅草で蝦蟇の油を売っていた姉弟が老武士を「親の仇」と叫び、敵討ちを挑もうとする。老武士は寺の境内で血は流せぬから明日高田馬場で勝負しようという。翌日、高田馬場は敵討ちを見物しようとする人、それ相手に商売をする人でごった返すが、定刻になっても当人があらわれない。茶屋で酒を飲んでいる老武士を見つけた男がどうなっているのかとたずねると「私たち親子は仇討ち屋で茶店に頼まれて敵討ちの振りを為てひとを集め売上げの2割を貰っている」というオチ。武士の決闘・仇討ちを皮肉った噺。