田沼意知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田沼意知
時代 江戸時代中期
生誕 寛延2年(1749年
死没 天明4年4月2日1784年5月20日
官位 従五位下大和守播磨守山城守
幕府 江戸幕府 奏者番若年寄
主君 徳川家治
遠江相良藩
氏族 田沼氏
父母 田沼意次黒沢定紀
兄弟 意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、千賀、宝池院
松平康福
意明意壱意信
稲葉正武正室
テンプレートを表示

田沼 意知(たぬま おきとも)は、江戸時代中期の遠江国相良藩の世嗣。若年寄官位従五位下大和守播磨守山城守

生涯[編集]

老中を務めた遠江国相良藩主・田沼意次の嫡男として誕生した。母は黒沢定紀の娘。

明和4年(1767年)、19歳にして従五位下・大和守に叙任する。松平輝高の没後の天明元年(1781年)12月15日には奏者番、天明3年(1783年)に意次の世子の身分のまま若年寄となり[1]、意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に老中大久保忠朝の子・忠増が世子のまま若年寄になって以来の異例な出世である。また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら奥詰めもした。その翌年に江戸城内において佐野政言に斬りつけられ、治療が遅れたために8日後に死亡した。享年36。父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。

江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。

意知の死後に失脚して隠居した意次の跡は、意知の長男・意明(当時の名乗りは幼名の龍助)が継いだ。しかし、後見した意次が間もなく没し、意明も夭折した。その跡を継いだ次男・意壱、四男・意信のいずれも早世し、意知の血筋は絶えた。田沼家の家督はその後、意知の従子にあたる意定、次いで意知の弟・意正が継いだ。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)

田沼意知が登場する作品[編集]

映画
テレビドラマ
漫画
小説
  • 稲葉稔 『邪鬼』 - 朝松健えとう乱星編著『伝奇城』収録
  • 芦辺拓鶴屋南北の殺人』(2020年6月、原書房)- 佐野善右衛門の刃傷沙汰を『仮名手本忠臣蔵』の塩谷判官のそれに重ね合わせて描いている。
  • 横溝正史神変稲妻車』 - 田沼時代を舞台とした冒険活劇風時代小説。意知の悪行が物語の大筋に深く関わっており、終盤に主人公たちとは無関係な意知の暗殺によって作中の陰謀が意味を失い、デウス・エクス・マキナ的に戦乱が突如終息する。
  • 筑前助広『颯の太刀』(2024年2月、KADOKAWA)-田沼時代を舞台とした青春剣劇。意知は主人公の後ろ盾として登場する。

関連項目[編集]