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森有礼

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森有礼
森 有礼
生年月日 1847年8月23日
出生地 日本の旗 薩摩国鹿児島春日小路町(現・鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1889-02-12) 1889年2月12日(41歳没)
死没地 日本の旗 東京府麹町区(現・東京都千代田区
出身校 藩校造士館、藩洋学校開成所
称号 正二位
子爵
配偶者 常(静岡県士族広瀬秀雄長女)
寛子(岩倉具視五女、有馬頼萬先妻)

日本の旗 初代 文部大臣
内閣 第1次伊藤内閣
黒田内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1889年2月12日
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森 有礼(もり ありのり、正字体:森有禮、1847年8月23日弘化4年7月13日) - 1889年明治22年)2月12日)は、日本武士薩摩藩士)・外交官政治家である。一橋大学創設者、初代の文部大臣明六社会長東京学士会院初代会員、明治の六大教育家子爵通称は助五郎、金之丞。

来歴・人物

1847年(弘化4年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。横山安武がいる。1865年慶応元年)、五代友厚らとともにイギリスに留学し、その後アメリカにも留学する。このとき、キリスト教に深い関心を示した。明治維新後に帰国すると福澤諭吉西周西村茂樹中村正直加藤弘之津田真道箕作麟祥らと共に明六社を結成する。

1875年(明治8年)、東京銀座尾張町に私塾商法講習所一橋大学の前身)を開設する。駐英公使をつとめていたときに、イギリスをおとずれた伊藤博文の知遇をえた。またハーバート・スペンサーから大きな影響をうけたといわれる。福澤諭吉が証人となり、広瀬常との結婚に際して婚姻契約書に署名し結婚(日本における最初の契約結婚といわれる。ただし、山本七平は「欧米で結婚が契約だというのは二人がそれぞれ神と契約するのであって二人が相互に契約するのではない。欧米人が森の『契約結婚』を聞いたらひっくりかえっただろう」と述べている)。

1885年(明治18年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、以後日本における教育政策に携わる。「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

1886年(明治19年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、様々な学校制度の整備に奔走した。黒田内閣でも留任。しかし1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ、翌日死去。43歳だった。

当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾ステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な洋化主義者であった森は人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。

英語国語化を提唱したことでも有名で、1872年(明治5年)にはイェール大学言語学教授ウィリアム・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っている。だが、ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語のローマ字化を除いては日本語の廃止に反対している。

仏文学者哲学者森有正は有礼のにあたる。

森の急進的な考えには当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもしたが、近代国家としての教育制度の確立に尽力したその功績は大きい。

扱われた作品

関連事項

参考文献

  • 『森有禮全集 (全3巻)』 大久保利謙編、宣文堂書店、1972年
    • 新修 森有禮全集 (全5巻・別巻3)』上沼八郎・犬塚孝明共編、文泉堂書店、1997年~2005年
  • 海門山人著『森有礼民友社、1897年6月
    • 大久保利謙編『森有禮全集 第3巻』宣文堂書店、1972年2月
    • 上沼八郎、犬塚孝明共編『新修森有禮全集 別巻1』文泉堂書店、1999年4月
  • 木村匡著『森先生伝』金港堂書籍、1899年9月
    • 木村匡著『明治教育古典叢書 第1期12 森先生伝』国書刊行会、1980年11月
    • 木村匡著『伝記叢書 9 森先生伝』大空社、1987年9月
  • 高橋淡水著『森有礼と星亨』良書普及会、1918年6月
  • 大久保利謙著『森有礼』文教書院、1944年4月
  • 海後宗臣ほか「森有礼の思想と教育政策」(『東京大学教育学部紀要』第8巻、1965年9月)
  • 原田実著『森有礼』牧書店、1966年2月
  • 坂元盛秋著『森有礼の思想』時事通信社、1969年5月
  • Hall, Ivan Parker. Mori Arinori. Harvard University Press, 1973.
  • 犬塚孝明著『若き森有礼 東と西の狭間で』KTS鹿児島テレビ、1983年10月、ISBN 4795229015
  • 林竹二著『林竹二著作集 6 明治的人間』筑摩書房、1984年7月、ISBN 4480389067
  • 林竹二著『林竹二著作集 2 森有礼 : 悲劇への序章』筑摩書房、1986年3月、ISBN 4480389024
  • 犬塚孝明著『森有礼』吉川弘文館、1986年7月、ISBN 4642050787
  • 木村力雄著『異文化遍歴者森有礼』福村出版、1986年12月
  • 井上勝也著『国家と教育 森有礼と新島襄の比較研究』晃洋書房、2000年3月、ISBN 477101146X
  • 秋枝蕭子著『森有礼とホーレス・マンの比較研究試論 日米近代女子教育成立史研究の過程から』梓書院、2004年11月、ISBN 4870352397
  • 犬塚孝明、石黒敬章著『明治の若き群像 : 森有礼旧蔵アルバム』平凡社、2006年5月、ISBN 4582833306
  • 長谷川精一著『森有礼における国民的主体の創出』思文閣出版、2007年11月、ISBN 4784213678
  • Kobayashi, Toshihiro. Mori Arinori : New light on his Weltanschauung in late Edo and early Meiji Japan and on his language reform discourse. Tokyo : Seijo University, 2009.

外部リンク


公職
先代
大木喬任
文部卿
日本の旗 文部大臣
初代:1885年12月22日 - 1889年2月12日
次代
大山巌
臨時兼任