松屋 (百貨店)
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
本社所在地 |
日本 〒104-8130 東京都中央区銀座3丁目6番1号 |
設立 | 1919年3月1日 |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 1010001034945 |
事業内容 | 百貨店 |
代表者 | 代表取締役社長 秋田正紀 |
資本金 | 71億32百万円 |
売上高 |
単体686億円、連結814億円 (2010年2月期) |
純資産 |
単体62億円、連結78億円 (2010年2月) |
総資産 |
単体460億円、連結496億円 (2010年2月) |
従業員数 |
単体758人、連結1,217人 (2010年2月) |
決算期 | 2月末 |
主要株主 |
松屋取引先持株会 5.57% 株式会社オンワールドホールディングス 5.24% 株式会社みずほ銀行 4.66% 東武鉄道株式会社 4.52% (2011年6月現在) |
主要子会社 | 株式会社アターブル松屋ホールディングス |
外部リンク | http://www.matsuya.com/ |
株式会社 松屋(まつや、英: MATSUYA CO.,LTD.)は、東京都中央区銀座、台東区浅草に店舗を置く百貨店。
銀座地区の百貨店において、銀座本店は人気・売上ともに銀座三越と首位の座を争う間柄である。
概要
1869年に横浜で創業された呉服店、「鶴屋」の流れを汲む百貨店。創業以降、拡大路線をひた走るが、1970年代のオイルショックを境に経営難に陥り、銀座店と浅草店2店舗の体制になる。経営再建には東武百貨店と伊勢丹が関わった。仕入れ関係は、松屋と伊勢丹主導で結成した全日本デパートメントストアーズ開発機構(ADO)に加盟し現在に至る。 牛丼チェーン店松屋フーズとは一切関係ない。
高級ブランド、ラグジュアリーファッションやアクセサリー、豪華な内・外装で女性からの支持率が高く、銀座を代表する百貨店である。
伊勢丹との提携
伊勢丹(現・三越伊勢丹)とは1971年の「業務提携に関する覚書」、「商品券の相互利用に関する契約書」の締結や、1973年のADOの設立などで幅広い提携強化を図ってきた。2002年11月には更なる提携強化を目指して伊勢丹の株式を買い増し、副社長も同社から迎えた[1]。しかし、2007年に三越と伊勢丹の経営統合が発表されると、両社間にすきま風が吹き始める。伊勢丹が統合する三越の銀座店は、松屋の競合相手であるのがその理由である。2007年秋のADO会議において、ADOの総合幹事店である松屋は欠席した。 現在、三越伊勢丹ホールディングスが所有・運営する企業で、松屋の筆頭株主は存在しない。
沿革
- 1869年12月5日(明治2年11月3日)- 初代古屋徳兵衛により横浜石川町にて「鶴屋呉服店」を創業したのが始まり。
- 1899年(明治32年) - 東京神田今川橋の松屋呉服店(1776年(安永5年)創業)を買収し、東京へ進出。当時は「松屋呉服店」「鶴屋呉服店」の屋号を並行して使用していた。1978年(昭和53年)まで使用されていた紋章は「松」と「鶴」を形取っていた。
- 1903年(明治36年) - 合名会社松屋呉服店となる。
- 1908年(明治41年) - 呉服以外に雑貨、洋品の販売を始め、化粧品、帽子の一部を海外より直接輸入して販売するようになり発展した。
- その後、銀座、新宿、浅草、横浜関内の吉田橋際や伊勢佐木町に店舗を構えるなど、事業を拡張。
- 1970年代 前半のオイルショック以後、経営が傾き、現行の銀座と浅草の2店舗体制となる。再建の過程で東武百貨店や伊勢丹との関係を強化。
店舗
銀座本店
- 1925年(大正14年)5月1日に開店。翌年に本店となり、今に続く。地下1階、地上8階の豪華な建造物であったが、太平洋戦争終結後は、連合軍のPXとして接収されていた。昭和20年代後半に接収が解除された後は、改装により豪華絢爛であった内外装は廃された。
- 開店当初は贅を尽くした内装で耳目を集め、圧巻は正面玄関入ってすぐの中央ホールであった。天井のステンドグラスはローザリーの華やかなもので、ホールの内側の柱はモザイク模様を取り付け、1階のホールの四方はサラセン風の漆喰模様で飾られていた。7階のホール周りはサラセン風の柱廊となっていた。現在エスカレータ脇の鉄板が張られている吹き抜けは、当時、地上7階まで吹き抜けであった中央ホールの名残でありファッションショーも開催されていた。1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開催に合わせて大改装を行い、現在の形となる。2006年(平成18年)には更なる改装を加え、LED照明を使用した現在の外装は4代目となる。度重なる改装により、建築当時の面影は皆無に等しいがビルの裏手へ回ると幾つかの窓が見受けられる。竣工当時のエレベーターはオーチス製。当初は客用正面に6台、ホール周りに2台、他に社員用、荷物用、料理用などがあった。
- 店舗面積32,182m²
階 | 松屋銀座 フロアガイド |
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RF | ゴルフテラス |
8F | 大催場、レストラン |
7F | リビング、美術、呉服 |
6F | 婦人服、子供、スポーツ、メガネサロン |
5F | 紳士服 |
4F | 婦人服、宝飾・時計 |
3F | 婦人服、婦人用品、婦人靴 |
2F | 婦人服、インターナショナルブティック、ハンドバッグ |
1F | 婦人服飾雑貨、化粧品 |
B1F | 食品、GINZAフードステージ |
B2F | 生鮮食品、GINZAフードステージ |
浅草店
- 当時の浅草店は久野節設計で、昭和初期を代表するアール・デコ調の建造物である。1974年の改装以後、外壁は白い外装材で覆われているが、北面の壁は覆われておらず、建築当時そのままの姿である。2012年の東京スカイツリーの開業に合わせて、現在の外装材を撤去し外壁を修復、アール・デコ調の外観を復活させることとなった[2]。また、駅のホームや階段などにも建築当時の面影を見つけることができる。屋上にある松屋の広告塔は、建築当時の塔屋の名残りである。また浅草店出店の経緯から東武鉄道は、松屋に出資している。
- 長引く消費低迷のため、2010年5月末をもって浅草店の営業を大幅に絞り込んだ。地上7階から地下1階(2階は東武浅草駅)のうち4階以上の営業を取りやめ、同時に店舗名を「松屋浅草店」に改めた[3]。また、5月31日に日本最古の屋上遊園地である「プレイランド」が閉鎖された[4]。1931年の開店と同時に7階と屋上に「スポーツランド」がオープンした。遠藤嘉一の創案の自動機械を並べ今日のゲームセンターの嚆矢でもあった[5]。
- 店舗面積19,106m²⇒7,404m²。
階 | 松屋浅草 フロアガイド |
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RF | 閉鎖中(2010年5月31日に閉鎖) |
7F | 閉鎖中(2010年5月31日に閉鎖) |
6F | 閉鎖中(2010年3月31日に閉鎖) |
5F | 閉鎖中(2010年2月28日に閉鎖) |
4F | 閉鎖中(2010年2月28日に閉鎖) |
3F | レディースファッション、書籍、ユニクロ、リフォームコーナー |
2F | 東武線浅草駅 |
1F | 婦人服、化粧品、和洋菓子、サービスカウンター |
B1F | 浅草旬鮮市場 |
台湾
松屋本体による運営ではなく、商標の貸与と業務提携のみの関係である。
- 耐斯(ナイス)松屋(嘉義市)
過去に存在した松屋の店舗
- 船橋店
POSシステム
関連項目
関連人物
- 山中鏆(経営再建に手腕を発揮した元副社長・社長・会長)
脚注
- ^ 松屋:株式会社伊勢丹の株式の一部取得について
- ^ 浅草駅ビルをリニューアルします (PDF, 東武鉄道 2011年3月2日)
- ^ 株式会社松屋浅草支店の営業面積縮小のお知らせ (PDF) 、2009年12月21日、松屋公式サイトニュースリリース。
- ^ さよなら松屋浅草屋上遊園地、別れ惜しむ、2010年6月1日、日刊スポーツ。
- ^ 橋爪紳也『日本の遊園地』講談社現代新書、2000年9月