中村善策
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中村 善策 (なかむら ぜんさく) | |
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本名 | 中村 善作(なかむら ぜんさく)[1] |
誕生日 | 1901年12月29日[2] |
出生地 | 北海道小樽市[2] |
死没年 | 1983年4月27日(81歳没) |
死没地 | 東京都千代田区[2] |
国籍 | 日本 |
芸術分野 | 洋画[1] |
教育 |
小樽洋画研究所[2] 川端画学校[2] |
出身校 | 神戸YMCA外国語学校英語科[2] |
受賞 |
日本芸術院賞 1968年 「張碓のカムイコタン」 [2]勲四等旭日小綬章 1978年 [2] |
会員選出組織 |
日展参事(1980年)[2] 一水会運営委員[2] |
活動期間 | 昭和 - 平成時代[3] |
影響を受けた 芸術家 | 安井曽太郎[2] |
中村 善策(なかむら ぜんさく、1901年12月29日 - 1983年4月27日[3])は、日本の画家。
北海道小樽市生まれ。風景画の分野で優れた作品を多く残したことで知られる。本名は中村 善作(なかむら ぜんさく)[1]。
作風[編集]
中村の風景画は写実を基にし、明るく開放感にあふれている。「善策張り」といわれるその画風は、荒々しい原始的な自然ではなく、人々の暮らしのなかで見られる人間味にあふれた風景が特徴となっている。
なお、中村の戦前二科展時代の作品は1945年4月の空襲により全て消失している[2]。
生涯[編集]
北海道小樽市に生まれる[2]。1916年:小樽洋画研究所に入所[2]。1924年:上京し、川端画学校に通学[2]、中央美術展に入選。太地社結成に参加する。
1925年:二科展入選。以後、1936年まで毎年出品。北海道美術協会展(道展)創立会員。1931年:東京へ転居。 1936年:第23回二科展出品作「白い燈台」「獨航船」が二科展特待受賞[2]。1937年:一水会展昭和洋画奨励賞受賞。一水会会員。1941年:第4回新文展「豊穣」が無鑑査[2]。
1945年:長野県明科町(現・安曇野市)に4年間の疎開。1946年:一水会委員。日展出品。以後、毎年出品。1948年:旧・文部省が作品を買い上げる。1950年:東京都新宿区上落合に転居。1961年:東京国立近代美術館が作品を買い上げる。
1967年:第10回日展「石狩湾の丘の邑」で文部大臣賞受賞[2]。1969年:第11回日展出品作「張碓のカムイコタン」で日本芸術院賞受賞[2][4]。日本芸術院が作品を買い上げる。1978年:勲四等旭日小綬章受章。
1980年:日展参事[2]。1983年:脳血栓により東京都千代田区の病院で死去[2]。享年81[2]。
主な作品[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ、2012年。
関連項目[編集]
- 小樽市立小樽美術館(「中村善策記念ホール」がある)