チェスター (重巡洋艦)
艦歴 | |
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発注 | |
起工 | |
進水 | 1929年7月3日 |
就役 | 1930年6月24日 |
退役 | 1946年6月10日 |
除籍 | |
その後 | 1959年に売却 |
性能諸元 | |
排水量 | 9,300トン |
全長 | 600 ft 3 in (182.9 m) |
全幅 | 66 ft 1 in (20.1 m) |
吃水 | 16 ft 6 in |
機関 | ホワイト・フォスター式重油専焼水管缶8基+パーソンズ式ギヤード・タービン4基4軸推進 |
最大速 | 32 ノット |
航続距離 | |
乗員 | 士官、兵員621名 |
兵装 | 8インチ砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門 21インチ魚雷発射管6門 |
搭載機 | 2機 |
モットー |
チェスター (USS Chester, CL/CA-27) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ノーザンプトン級の2番艦。艦名はペンシルベニア州の都市チェスターに由来する。
艦歴
チェスターはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工した。1929年7月3日にJ・T・ブレインによって進水し、1930年6月24日に艦長アーサー・P・フェアフィールド大佐の指揮下就役、偵察艦隊に合流する。
大戦前
チェスターは1930年8月13日にロードアイランド州ニューポートを出航しヨーロッパへ巡航する。バルセロナ、ナポリ、コンスタンチノープル、ファーレロン湾、ジブラルタルを訪問し、10月14日に修理のためペンシルベニア州チェスターに帰還した。チェスターは偵察艦隊の旗艦として軽巡洋艦部隊に加わり、1931年3月6日にパナマ運河地帯で例年の艦隊演習を視察した海軍長官を戦艦テキサス (USS Texas, BB-35) から乗艦させた。3月22日にフロリダ州マイアミで長官を下ろし、その後フランス海軍の2隻の巡洋艦を護衛してナラガンセット湾での演習に向かう。
ニューヨーク海軍工廠でオーバーホールを受けたチェスターは二基のカタパルトが艦中央部に装備された。艦載機と弾薬を搭載したチェスターはハンプトン・ローズを1932年7月31日に出航し西海岸へ向かう。カリフォルニア州サンペドロに8月14位に到着し、通常任務に従事、1934年4月9日に特別任務部隊の旗艦としてサンペドロを出航した。5月31日にニューヨークに到着し大統領の閲艦を受け、11月9日にサンペドロに帰還した。1935年9月25日、チェスターは11月15日に行われるフィリピン大統領就任式に出席する陸軍長官一行を乗艦させる。12月14日にサンフランシスコに帰還、第4巡洋艦隊と共に通常任務に復帰する。
1936年10月28日にサンフランシスコを出航したチェスターは11月13日にサウスカロライナ州チャールストンに到着、5日後にアルゼンチンのブエノスアイレス、ウルグアイのモンテビデオを親善訪問するルーズベルト大統領を乗艦させたインディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) に護衛艦として随行する。12月24日にサンペドロに帰還し、その後は西海岸で活動し、艦隊演習やハワイ、アラスカへの訓練巡航を行う。1940年9月23日から1941年1月21日までは東海岸で訓練とオーバーホールを行った。また、チェスターは1940年にRCA社製のCXAM レーダー(初期型)を装備した最初の艦艇の1隻となった。2月3日からチェスターは真珠湾を母港とし、ハワイ海域で訓練を行ったほか5月14日から6月18日までの期間は西海岸への航海をおこなった。10月10日から11月14日までの間、チェスターはマニラへの増援部隊を乗せた輸送船2隻を護衛した。
第二次世界大戦
1941年
チェスターは空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 、重巡洋艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)に合流して帰投中に、日本軍による真珠湾攻撃がおこなわれた。第8任務部隊は、落伍した日本艦隊を一部でも捕まえられるかも知れないという望みのもとに偵察機を発進させたが、これは無駄骨に終わった。第8任務部隊は8日夕刻、すべてが煙と油に包まれ戦艦が痛々しく放置された真珠湾に帰投した[1]。翌9日、第8任務部隊はオアフ島北東の捜索に出撃した。12月12日、チェスターの搭載機が潜水艦を爆撃し、駆逐艦バルチ (USS Balch, DD-363) をその現場に誘導。バルチは接触がなくなるまで爆雷攻撃を続けた。
1942年
1942年1月18日から24日まで、チェスターは第8任務部隊および空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊(フランク・J・フレッチャー中将)と合同でサモアへの増援部隊の輸送を支援した。その帰途、両任務部隊は日本軍の根拠地の一つであるマーシャル諸島に一太刀浴びせようと計画した(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。この攻撃が成功すると、日本の南方作戦のスピードが幾分か弱まり、アメリカの士気がいくらか上がると予想された[2]。第8任務部隊は強力な敵が待ち構えていると考えられたクェゼリン環礁、マロエラップ環礁に向かい、第17任務部隊はブタリタリ、ジャルート環礁、ミリ環礁への攻撃に向かった[3]。第8任務部隊は目標手前で3つに分かれ、チェスターは駆逐艦2隻とともに第8.3任務群(トーマス・M・ショック大佐)を構成[3]。2月1日、第8.3任務群はマロエラップ環礁タロア島攻撃がおこなわれた。これに対し日本側は陸攻8機が爆撃を行なったが、これは命中しなかった[4]。次いで爆装の九六式戦闘機13機が攻撃を行いチェスターに命中弾を与えた[4]。チェスターは1発の命中弾を受け8名の戦死者と38名の負傷者を出した。2月3日、チェスターは修理のため真珠湾に帰投した。
チェスターはサンフランシスコまでの護衛任務に従事した後、再び第17任務部隊に加わった。第17任務部隊は5月4日にガダルカナル島・ツラギ攻撃を、5月7日にルイジアード諸島ミシマ島攻撃をおこない、5月8日には珊瑚海海戦を戦った。5月10日、チェスターに駆逐艦ハムマン (USS Hammann, DD-412) から空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) の生存者478人が移され、5月15日にトンガ島へ運ばれた。
西海岸でのオーバーホール後、チェスターは9月21日にヌメアに着き第62任務部隊に加わった。第62任務部隊は10月2日から4日にフナフティ島上陸を行った。それから、チェスターは南に向かい、戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) などで構成された第64任務部隊(ウィリス・A・リー少将)[5]に合流してソロモン諸島での作戦支援を行うこととなった。10月20日夕刻、第64任務部隊はワシントン(旗艦)および軽巡アトランタ (USS Atlanta, CL-51) を中心とする一群と、本艦および重巡サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) 、軽巡ヘレナ (USS Helena, CL-50) を中心とする一群に分かれた[5]。その約2時間後[5]、チェスターはサンクリストバル島南東沖で日本海軍の潜水艦伊176に捕捉される[注釈 1]。 伊176は「戦艦2隻と重巡2隻および直衛駆逐艦」に対し[注釈 2]、夜間において魚雷6本を発射した[9]。魚雷1本がチェスターの右舷機関室に命中する。11名が戦死、12名が負傷した。田辺はチェスターをテキサス型戦艦と判断していた[8][10]。第64任務部隊には駆逐艦フレッチャー (USS Fletcher, DD-445) などがいたが、伊176は爆雷攻撃を受けたものの[8]、逃げ切った[11]。 翌10月21日、チェスターは第64任務部隊から外され、駆逐艦4隻の護衛の下エスピリトゥサント島に向かい[5]、10月23日に到着。10月29日、更なる修理のためオーストラリアのシドニーへ向かった。12月25日、完全なオーバーホールのためアメリカ本土に向かった。しかし、西海岸の海軍造船所が手一杯だったため、チェスターはノーフォークのノーフォーク海軍造船所へ向かった[10]。
1943年
1943年9月13日、修理を終えたチェスターはサンフランシスコに戻り、10月20日までサンフランシスコと真珠湾の間で護衛任務に従事した。11月8日、チェスターはギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加して真珠湾を出航した。チェスターは11月21日に潜水艦によって行われたアベママ島上陸を支援し、タラワの戦いを経てギルバート諸島の戦いに終止符が打たれると、チェスターはマーシャル戦線に転じてマロエラップ環礁、タロア島、ウォッジェ環礁を砲撃。以後、1944年4月25日までチェスターはマジュロ沖で対潜、対空哨戒にあたった。
1944年
チェスターは5月6日から22日までサンフランシスコで短期間のオーバーホールを行い、5月27日にアラスカのアダック島で第94任務部隊に加わった。部隊は6月13日と26日に千島列島の松輪島と幌筵島を砲撃した。それから真珠湾に向かい8月13日に到着した。
8月29日、チェスターはペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) 、ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) および軽空母モンテレー (USS Monterey, CVL-26) とともに第12.5任務群(アレン・E・スミス少将)を構成して出撃し、9月3日にウェーク島へ砲撃を行った[12]。9月6日、エニウェトク環礁に到着し、9月24日まで待機の後。10月6日にサイパン島へ進出。10月9日には南鳥島を砲撃し、サイパン島に戻った。一連の攻撃は、ハルゼー率いる第3艦隊が、アメリカ側の次の目標が小笠原諸島方面等であるかのように装って、日本側の注意を真の目的と違う方向に向けるために行われた[13]。この間、ハルゼーの高速機動部隊は沖縄島と台湾を空襲した後、フィリピンに進撃した。チェスターも第38任務部隊に入り、第38.1任務群(ジョン・S・マケイン中将)に加わってルソン島やサマール島攻撃にあたった。第38.1任務群はレイテ沖海戦前後は休養と整備のためウルシー環礁に帰投しつつあったが、栗田健男中将率いる日本艦隊の出現に伴って、急遽戦場に呼び返された[14]。
レイテ沖海戦終了後、チェスターは高速機動部隊の護衛から離れ、11月8日からはウルシー環礁やサイパン島から出撃して硫黄島や小笠原諸島に対して砲撃を繰り返した。11月20日早朝には事件もあった。この日もいつものようにサイパン島経由の硫黄島砲撃のため、チェスター、ペンサコーラ、ソルトレイクシティおよび駆逐艦4隻はウルシー環礁の出入り口の一つであるムガイ水道を東に航行中だった[15]。0523、水道東口を哨戒中の米掃海艇ヴィジランス (USS Vigilance, AM-324) が潜望鏡と航跡を発見し、通報。これを受け、艦隊は水道を出るとともに之字運動を開始。その後、チェスターが550m先に、その右舷を航行していた米駆逐艦ケース (USS Case, DD-370) が艦隊に接近しようと南下する潜望鏡を発見。チェスターはこれを押し潰そうとスピードを上げた。「潜航艇が魚雷発射のために占位運動中」と判断したケースは、潜望鏡がチェスターを向いたままなのを見て体当たりを決意。チェスターは衝突を避けるためスピードを落として進路を変えた[15]。0538、ペンサコーラの右舷2000mの距離で潜望鏡を発見。ペンサコーラはこれを回避した。潜航艇はペンサコーラの前方を潜航通過して隊列の南側に浮上し、左に大きく旋回してチェスターの右正横に移動。ケースはここにきて面舵一杯、右舷後進一杯、左舷機前進一杯で急速転舵し、0538に浮上航走中の潜航艇の左側から中央部を艦首でへし折り、続いて旋回しながら爆雷を投下し、これを撃沈した[15]。この潜航艇は伊36から発進した回天である可能性が高い。
1945年
1945年に入っても、チェスターは2月21日まで硫黄島と小笠原攻撃を行った。2月19日の硫黄島上陸を支援した後、アメリカ本土に向かい、西海岸でオーバーホールを行った。この時のオーバーホールでは、神風対策で40ミリ機関砲の増設とレーダーの更新が行われ、これと同時に増設した機関砲とレーダー機器類と同等の重量物が除去されることとなった[16]。前後のマストはポートランド級重巡洋艦のそれと同等の形状になり、不必要なカタパルトは撤去された[17]。
オーバーホールを終えたチェスターは、6月21日にウルシー環礁に戻り、6月27日から沖縄周辺の哨戒や掃海活動の支援をおこなった。7月後半、チェスターは長江デルタ沖の部隊を支援する部隊に編入された。8月、チェスターはアリューシャン諸島への航海をおこなった。チェスターは8月31日に出航し、9月と10月に行われた大湊、青森、函館、小樽への上陸に参加した。
戦後
チェスターは硫黄島にて復員兵士を乗せ、11月2日にサンフランシスコへ向けて出発し、11月18日に到着した。11月24日から12月17日まではグアムから軍人を運んだ。その後、チェスターは1946年1月14日フィラデルフィアへ向けて出航し、1月30日に到着した。チェスターは1946年6月10日に退役し、1959年8月11日に売却された。
チェスターは第二次世界大戦の戦功で11個の従軍星章を受章した。
出典
注釈
脚注
- ^ ポッター, 40、41ページ
- ^ ポッター, 77ページ
- ^ a b ポッター, 82ページ
- ^ a b 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、399ページ
- ^ a b c d ミュージカント, 121ページ
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 138–139名声たかき艦長のもとで
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 139–141困難な輸送任務への挑戦
- ^ a b c 「昭和17.10.1~昭和18.1.31 太平洋戦争経過概要その4(防衛省防衛研究所)17年10月15日~17年10月31日 p.8 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120634100
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 142–143深海できく必殺の命中音
- ^ a b 木俣, 328ページ
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 143–144頭上にせまる死神の魔手
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ ポッター, 452ページ
- ^ 阿部, 150ページ
- ^ a b c 小灘、片岡, 81、82ページ
- ^ 『第2次大戦のアメリカ巡洋艦』23、27ページ
- ^ 『第2次大戦のアメリカ巡洋艦』23、27、37ページ
参考文献
- 阿部安雄「比島攻略戦における米機動部隊の作戦 -昭和19年10月24日まで-」『写真・太平洋戦争(4)』光人社、1989年、ISBN 4-7698-0416-4
- 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
- 小灘利春、片岡紀明『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』海人社、2006年、ISBN 4-7698-1320-1
- 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
- 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』朝雲新聞社
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- 大木主計(編集人) 編『丸エキストラ版 陽春4月号 実録・太平洋海戦史 日本海軍がたどった勝利と敗北の記録!』 丸エキストラ版 No.9494、潮書房、1984年4月。
- (138-144頁)元伊176潜水雷長海軍大尉荒木浅吉「サクマ精神で育ったドン亀野郎奮戦記 ガ島隠密作戦であげた伊176潜の凱歌 」
- イヴァン・ミュージカント/中村定(訳)『戦艦ワシントン』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0418-0
関連項目
外部リンク
- navsource.org
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。