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グリーングラス

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グリーングラス
欧字表記 Green Glass
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1973年4月5日
死没 2000年6月19日
インターメゾ
ダーリングヒメ
母の父 ニンバス
生国 日本の旗 日本青森県七戸町
生産者 諏訪牧場
馬主 半沢吉四郎
調教師 中野吉太郎(中山)→中野隆良(中山→美浦
競走成績
生涯成績 26戦8勝
獲得賞金 3億2845万1400円
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グリーングラスは、日本競走馬である。テンポイントトウショウボーイとともに、3頭の馬の頭文字を取ってTTGと称され、三強の一角を担った。クラシック戦線最後の菊花賞で花開いた晩成の馬で、第三の男とも呼ばれた。競走成績26戦8勝。おもな勝ち鞍は菊花賞、天皇賞(春)有馬記念など。1979年には年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出される。妹に1979年のクイーンステークスの勝ち馬ハザマファーストがいる。

  • 馬齢については原則旧表記(数え)とする。

生涯

誕生・デビュー前

1973年4月5日青森県七戸町の諏訪牧場に生まれる。父インターメゾセントレジャーステークスの勝馬で、競走馬引退後間もなく輸入されグリーングラスがセカンドクロップに当たる新種牡馬、母ダーリングヒメダービーステークス2000ギニーの二冠を制したニンバス産駒で、七夕賞福島大賞典を勝った活躍馬だった。牧場主の間梯三によれば、当歳時は「ホレボレするような馬」で、「欲しいという人が何人もいて、どこに行かせたらよいか困った」というほど際立っていた。しかし2歳春になると背が伸びだし、10月の時点で体高(キ甲=首と背の境から足元まで)は163cmに達していた[1] [注 1]

1974年11月、馬主の半沢吉四郎の地元福島競馬場へ入厩。調教の動きから早くから評判となり、3歳の4月になると福島遠征中の増沢末夫が毎朝自主的に調教を買って出たりしている。半沢によればこのとき増沢は「ハイセイコー以上」とコメントしたという [2] [注 2]。その後中山競馬場の中野厩舎へ入厩したが[注 3]、風邪をこじらせてしまい3歳時は未出走に終わる。

競走馬時代

4歳(1976年)

1976年1月31日郷原洋行を鞍上にデビュー戦を迎え、2番人気に支持されたが4着に終わる。同レースを1番人気で楽勝したのは、後にライバルとなるトウショウボーイである。また、ミスターシービー(父はトウショウボーイ)を産むシービークインも出走していた。同年3月13日未勝利戦で3戦目にしてようやく初勝利を飾る。しかし続く300万下では4着、東京優駿(日本ダービー)出走へ僅かな望みをかけて出走したNHK杯では1勝馬ながら5番人気に支持されたが12着と大敗。トウショウボーイが既に皐月賞を勝ち、東京優駿(日本ダービー)2着となってクラシック戦線の主役だったのに対し、グリーングラスの春はほとんど無名であった。

秋を迎え、関西でトウショウボーイが京都新聞杯を勝利した10月24日、中山競馬場で鹿島灘特別をアタマ差で制し、ようやく3勝目を挙げる[注 4]。迎えた11月14日の第37回菊花賞は獲得賞金順で21頭立ての21番目、回避馬による繰り上がり出走と、まさに滑り込みであった[注 5]。皐月賞優勝馬トウショウボーイ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬クライムカイザー、実績馬テンポイントがそれぞれ1、2、3番人気の中、グリーングラスは12番人気に過ぎなかった。

同レースは、最後の直線でテンポイントがトウショウボーイを交わし最後の一冠を手にすると思われた瞬間、グリーングラスがコースの内側からするすると伸びてきて、2馬身半の差を付け勝利した[注 6] [注 7]。この菊花賞はTTGが初めて顔を揃えたレースでもあり、三強時代の幕開けと言えるレースとなった。また、鞍上の安田富男はクラシック初騎乗で初勝利と言う偉業を達成した[注 8]

尚、グリーングラスの単勝5250円は、2013年現在でも菊花賞の単勝最高払い戻し金額である。

5歳(1977年)

1977年1月23日、有馬記念に予備登録すらなかったグリーングラスはアメリカジョッキークラブカップに出走、3番人気であったが前年の天皇賞(秋)優勝馬アイフルらを相手にレコードタイムで完勝し、菊花賞がフロックでないことを証明した[注 9]

中間歯替わりと虫歯で順調さに欠いた天皇賞(春)は、菊花賞同様インコースを突くもテンポイントに雪辱を果たされ4着に敗れる(トウショウボーイは不出走)。続く第18回宝塚記念は、TTG二度目の顔合わせとなった。6頭立てながらアイフル、クライムカイザー、後の天皇賞(秋)優勝馬ホクトボーイと実力馬が揃い、TTGが上位人気を分け合った。結局逃げたトウショウボーイが勝利、2着テンポイント、グリーングラスは3着に終わる。その後嶋田功騎手に乗り替わり、7月3日日本経済賞をレコードタイムで勝利している。

秋を迎えると11月27日天皇賞(秋)に出走。脚部不安と熱発もあり、休養明けと順調さに欠いたものの、トウショウボーイに次ぐ2番人気となる。しかし向こう正面よりトウショウボーイと競り合いとなり、両者共倒れでホクトボーイの5着に敗れる[注 10]。そして12月18日の有馬記念はTTG三度目、そして最後の顔合わせとなる。このレースは、終始テンポイントとトウショウボーイのマッチレースで進み、結果は1着テンポイント、2着トウショウボーイだった。グリーングラスはこれに半馬身まで迫る3着であったが、4着の菊花賞馬プレストウコウは6馬身もの差をつけられており、TTに肉薄できたのは唯一この馬だけで、負けはしたが三強と呼ばれるに相応しい実力を見せた[注 11]。(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)

6歳(1978年)

アメリカジョッキークラブカップで2着、落馬負傷の嶋田功から岡部幸雄に乗り替わったオープン競走で3着したグリーングラスは、1978年4月29日天皇賞(春)に出走する。今回も不調が伝えられ天皇賞は同馬にとって鬼門となりつつあったが、直前の調教で急上昇、1番人気に支持される。そしてこのレースでも京都コースのインを抜け出したグリーングラスは、トウフクセダンカシュウチカラらを抑え、二つ目の八大競走勝ちを収める[注 12](鞍上の岡部騎手も天皇賞初制覇)。しかしこの年の勝鞍はこれのみで、続く宝塚記念はエリモジョージの2着、脚部不安と感冒により宝塚記念以来となった暮れの有馬記念では、カネミノブの6着に敗れた。

7歳(1979年)

この年のグリーングラスは更に脚部不安に苦しめられ、アメリカジョッキークラブカップ2着後、4ヶ月ぶりのぶっつけで宝塚記念に出走したが3着[注 13]。結局この2戦のみでシーズン後半を迎え、休養明けのオープン競走を2着して久々に調子を上げて挑んだ12月16日の有馬記念が、引退レースとなることが決定した。

この第24回有馬記念では、東京優駿(日本ダービー)と宝塚記念を制した2歳年下のサクラショウリに1番人気を譲るものの、グリーングラスは2番人気に支持された。このラストランで、鞍上には大崎昭一を迎えて挑み、早めのスパートを仕掛けてメジロファントムの猛追をハナ差で凌ぎ、三つ目のタイトルを獲得。かつてのライバル、トウショウボーイやテンポイントが果たせなかった有終の美を飾り、TTG最後の一頭がターフを去ることとなった。この年、グリーングラスはようやく現役最後の年にして、トウショウボーイ・テンポイントと同じく年度代表馬を受賞した。

競走馬引退後

引退後は種牡馬となった。晩成の長距離血統と思われたせいか産駒にさほど恵まれなかったが、数少ない産駒の中からリワードウイングが産まれ、同馬が1985年エリザベス女王杯を制したことでGI馬の父となる。他にも金杯(東)アメリカジョッキークラブカップ)を勝ち、引退後には東京競馬場で誘導馬を勤めたトウショウファルコや短距離戦線で活躍したトシグリーン、阪神3歳ステークス3着、弥生賞2着のツルマルミマタオーなどを輩出している。ライバルの大半が早期に引退したのに比べ、グリーングラスは7歳まで現役を続けていたために晩成馬という見方も可能であるが、決して単純な晩成ステイヤー種牡馬ではなかったようである。

1996年に種牡馬を引退。その後は佐賀県のエンドレスファームにて余生を送ったが、2000年6月12日、放牧中アブに刺され驚いて柵に激突し右前脚を骨折、懸命な治療が続けられたが、6月19日に予後不良の診断を下されて安楽死となった。28歳。墓は最後に余生を送ったエンドレスファームに建てられている。

2004年8月15日、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「グリーングラスメモリアル」が小倉競馬場で施行された(尚、グリーングラスは小倉競馬場で出走したことがない)。

競走成績

年月日 競馬場 競走名

人気 着順 距離 タイム 騎手 着差 勝ち馬 / (2着馬)
1976 1. 31 東京 4歳新馬 18 9 2人 4着 芝1400m(良) 1.26.3 郷原洋行 -1.6秒 トウショウボーイ
2. 22 東京 4歳新馬 19 14 2人 4着 芝1600m(稍) 1.39.9 郷原洋行 -1.2秒 ローヤルセイカン
3. 13 中山 未出未勝 13 1 1人 1着 ダ1700m(良) 1.47.8 郷原洋行 1/2馬身 (バイエル)
4. 4 中山 300万下 12 9 1人 4着 ダ1800m(不) 1.53.6 郷原洋行 -0.4秒 レッドフラッシュ
5. 9 東京 NHK杯 16 9 5人 12着 芝2000m(良) 2.03.9 郷原洋行 -1.5秒 コーヨーチカラ
6. 6 東京 あじさい賞 12 7 2人 1着 芝2000m(重) 2.06.0 安田富男 クビ (キシュウリュウ)
7. 10 中山 マーガレット賞 17 10 2人 2着 芝2000m(良) 2.03.1 岡部幸雄 -0.1秒 トウフクセダン
10. 3 東京 中距離H 17 4 2人 2着 芝2000m(良) 2.02.1 安田富男 -0.3秒 トミカゼ
10. 24 中山 鹿島灘特別 7 1 1人 1着 芝2000m(重) 2.06.6 安田富男 アタマ (シマノカツハル)
11. 14 京都 菊花賞 21 11 12人 1着 芝3000m(重) 3.09.9 安田富男 2 1/2馬身 テンポイント
1977 1. 23 東京 AJCC 13 12 3人 1着 芝2400m(良) R2.26.3 安田富男 2 1/2馬身 ヤマブキオー
2. 20 東京 目黒記念(春) 13 1 1人 2着 芝2500m(良) 2.34.6 安田富男 -0.4秒 カシュウチカラ
4. 29 京都 天皇賞(春) 14 2 2人 4着 芝3200m(稍) 3.22.0 安田富男 -0.3秒 テンポイント
6. 5 阪神 宝塚記念 6 6 3人 3着 芝2200m(良) 2.13.8 安田富男 -0.8秒 トウショウボーイ
7. 3 中山 日本経済賞 10 4 1人 1着 芝2500m(良) R2.33.8 嶋田功 5馬身 (トウカンタケシバ)
11. 27 東京 天皇賞(秋) 12 10 2人 5着 芝3200m(稍) 3.23.4 嶋田功 -0.9秒 ホクトボーイ
12. 18 中山 有馬記念 8 6 3人 3着 芝2500m(良) 2.35.6 嶋田功 -0.2秒 テンポイント
1978 1. 22 東京 AJCC 6 2 1人 2着 芝2400m(良) 2.28.9 嶋田功 -0.0秒 カシュウチカラ
4. 9 中山 オープン 12 12 2人 3着 芝1800m(良) 1.50.6 岡部幸雄 -0.1秒 プレストウコウ
4. 29 京都 天皇賞(春) 16 3 1人 1着 芝3200m(稍) 3.20.8 岡部幸雄 1馬身 (トウフクセダン)
6. 4 阪神 宝塚記念 7 3 1人 2着 芝2200m(重) 2.14.8 岡部幸雄 -0.6秒 エリモジョージ
12. 17 中山 有馬記念 15 1 3人 6着 芝2500m(良) 2.34.2 岡部幸雄 -0.8秒 カネミノブ
1979 1. 21 東京 AJCC 9 5 2人 2着 芝2400m(良) 2.29.3 岡部幸雄 -0.3秒 サクラショウリ
6. 3 阪神 宝塚記念 13 6 7人 3着 芝2200m(良) 2.12.7 岡部幸雄 -0.3秒 サクラショウリ
11. 10 東京 オープン 5 3 1人 2着 芝1800m(稍) 1.48.9 岡部幸雄 -0.9秒 メジロイーグル
12. 16 中山 有馬記念 16 3 2人 1着 芝2500m(良) 2.35.4 大崎昭一 ハナ メジロファントム
  • 1 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 2 太字の競走は八大競走

主な勝鞍

  • (GI級) - 菊花賞、天皇賞(春)、有馬記念
  • (GII級) - アメリカジョッキークラブカップ、日経賞

騎乗騎手

  • 郷原洋行 デビュー戦からNHK杯まで5戦連続
  • 安田富男 2勝目を挙げた初騎乗から、5歳時の宝塚記念まで8戦。
  • 嶋田功 5歳時の宝塚記念の次走日経賞から、6歳時のアメリカジョッキークラブカップまで4戦連続。
  • 岡部幸雄 6歳時のアメリカジョッキークラブカップの次走4月9日オープン戦から、7歳時11月10日のオープン戦までなど8戦。
  • 大崎昭一 引退レースとなった7歳時の有馬記念のみの騎乗。

嶋田功から岡部幸雄への乗り替わりは嶋田の負傷によるもの。有馬記念での岡部幸雄から大崎昭一への乗り替わりは、岡部がハツシバオーに騎乗したことによるものである。

種牡馬成績

母の父

総評

スピードのある「近代型ステイヤー」と評されたグリーングラスだが[3]、細身ながら一般的なステイヤーとはかけ離れた大柄な馬体[注 14]。それ故に古馬になってからは大形馬の宿命・脚部不安に悩まされ[注 15]、6歳以降の出走回数は4歳時の10戦を下回る9戦だけに止まった。またインを突くコーナーリングについては同馬がラチを頼って走る癖があるためでもあり[4]、器用なタイプとは断定するのは難しい[注 16]。グリーングラスが勝つときは直線で先頭に躍り出て他馬の追撃を振り切っている。また悍性が強くステイヤーとしては落ち着きに欠き、レース中騎手との折り合いを欠く場面もしばしば見られた[注 17] [注 18]

全26戦中掲示板を外したのが僅かに2回のみなので安定していると言えないこともないが、これまた大型馬にありがちな瞬発力不足で、いまひとつ勝ち切れなかった故の結果である。そのため優勝回数及び勝率は明らかにトウショウボーイ、テンポイントに見劣りする。また、獲得した3つのタイトルの内、ライバルを負かして手に入れたのは菊花賞のみである上、同レースでは人気薄でインコースから出し抜けを食らわすような戦法だったのも2頭より格下として見られる要因となっている。

それでもなおグリーングラスが三強の一角として最強世代の1頭として名が後世に称えられているのは、揃って出走したレースは必ずこの3頭が上位を独占したこと、TTが去った後も第一線で活躍し続けたこと、TTも果たしたように有馬記念を制して年度代表馬に選ばれたこと、それと同時にタイトル数でライバルに並んだこと[注 19]など、馬自身の実績としても優れている点が挙げられる。また、グリーングラスの6歳時以降の活躍は、自身のみならずTT2頭の評価をさらに高めることにもなった。

TTGの中では唯一顕彰馬に選出されていないが、グリーングラスはクラシック、天皇賞、グランプリ競走のいずれをも制し[注 20]、3頭の中で最も多く賞金を獲得し、最も長寿であった。種牡馬としても、国内産種牡馬不利の情勢下の中で1頭ながらGI馬を出している。

  • 補注
「1年の半分は温泉[注 21]暮らし」と揶揄されていたように、本馬の競走成績は体調面で評価し辛い面がある[注 22]。次のコメントは騎乗していた岡部幸雄のものである[5]
「この馬は、はっきりしている。使わないと[注 23]、絶対走らない。1回でも使うとコロッと変わる馬なんだ[注 24](...)別の馬になったような変わりようだった。」 「脚が痛くないときは、競馬の内容が違っていた(...)ほかの馬はおかまいなし。展開もなにもない。行きたいところから行けば、それで力で押し切っちゃう。」 「脚がなんともなかったら、どうなっていただろうね。5歳なんか、負けなかったんじゃないだろうか[注 25]。」

血統表

グリーングラス血統ハイペリオン系 / Hyperion3×5=15.63% Nearco5×3=15.63%) (血統表の出典)

*インターメゾ
Intermezzo
1966 黒鹿毛
父の父
Hornbeam
1953 栗毛
Hyperion Gainsborough
Selene
Thicket Nasrullah
Thorn Wood
父の母
Plaza
1958 鹿毛
Persian Gulf Bahram
Double Life
Wild Success Niccolo Dell'Arca
Lavinia

ダーリングヒメ
1964 栗毛
*ニンバス
Nimbus
1946 鹿毛
Nearco Pharos
Nogara
Kong Baytown
Clang
母の母
ダーリングクイン
1958 栃栗毛
*ゲイタイム
Gay Time
Rockfella
Daring Miss
ダーリング *セフト
第弐タイランツクヰーン F-No.14-f


脚注

注釈

  1. ^ 当時、中野吉太郎は「キュウリにワリバシを刺したみたいだ」とよく言っていたという(白井1980、20頁)。競走馬引退時には体高170cmに達しており、細身の馬体は曾祖母ダーリング(トキノミノルの全姉)の系統の特徴という(白井1980、28頁)。
  2. ^ 後に菊花賞をグリーングラスで制した安田富男も福島に遠征してきており、この頃から同馬への騎乗を希望していた(白井1980、23頁)。
  3. ^ 美浦トレーニングセンターの開設は1978年4月。
  4. ^ 第37回菊花賞の3週間前だった。
  5. ^ 中野隆良は、レースで立て続けに不利を被るなど馬自身に運がなかったが、鹿島灘特別を写真判定で勝ってから勝負運が激変した、と語っている(白井1980、20頁)。
  6. ^ なお、熱烈なテンポイントファンでこのレースを実況していた杉本清KTVアナウンサー)は、僅かに絶句した後、絞り出すような声でグリーングラスの勝利を告げている。
  7. ^ レース後、グリーングラスの勝利をフロック視する声に対し武田文吾は、「空を飛ぶような末足だった」とこれを否定している。
  8. ^ 後に中央競馬の全競馬場での重賞競走優勝を達成した安田にとって、これが唯一の京都競馬場での重賞勝ちでもあった。
  9. ^ 中野は、グリーングラスが勝ったレースでは一番強かったと評している(白井1980、21頁)。同レースにハーバーヤングに騎乗し4着となった岡部幸雄も、「向こう正面の坂のあたりから行ってもっちゃうんだから。(...)馬力が違うっていうかんじだった。」と語っている(、26頁)。しかしこれ以降、グリーングラスは両前の球節など慢性の脚部不安に苦しめられる(、21頁)。
  10. ^ 競り合ったトウショウボーイは7着、テンポイントは当時の天皇賞勝ち抜けルールで出走できなかった。
  11. ^ このレースの後、トウショウボーイは引退し、TTGが2度と揃うことはなかった。テンポイントは翌年の日本経済新春杯で故障し、闘病生活の末に死亡している。
  12. ^ グレード制の導入は1984年
  13. ^ このときのグリーングラスは非常に状態が悪く、騎乗していた岡部は(休み明けであれだけのレースが出来れば)「もう暮れの有馬記念は勝つだろうと思っていた」という(白井1980、26頁)。
  14. ^ 当時の馬としては重い、同期のトウショウボーイに勝るとも劣らない500キロ前後の馬体であった。
  15. ^ 補注に詳しいが、それほど体質も強くない。
  16. ^ 第22回有馬記念について後に安田は、内に入れていればグリーングラスが勝っていた旨述べており、騎乗していた嶋田功も最後の直線、内に切れ込んでしまい追い切れなかったと発言している。ただし当時、この時期の中山は内が極端に荒れており、内ラチ沿いを走らせる騎手は皆無だった。
  17. ^ 中野、安田が第75回天皇賞の敗因の一つに挙げている(白井1980、21頁24頁)。
  18. ^ 6歳時以降は気性も落ち着き、大崎昭一は素直で利口な馬と評している(白井1980、27頁)。
  19. ^ ただし、グレード制導入以前であるため、グリーングラスは当時、格の高い競走として認識されていた八大競走を三つ制していることになる。トウショウボーイが制した宝塚記念・テンポイントが制した阪神3歳ステークスは八大競走ではない。
  20. ^ テンポイントはクラシックを、トウショウボーイは天皇賞を勝っていない。
  21. ^ 福島県いわき市競走馬総合研究所常磐支所。温泉治療施設がある。通称「馬の温泉」。
  22. ^ 競走成績で見たように感冒や熱発も多い。体質面の弱さは産駒にも受け継がれたようで、能力のある馬は故障で大成を阻まれるケースが多かった。
  23. ^ 「レースに使わないと」の意。
  24. ^ しかし続けて使うと脚を痛がった。
  25. ^ 旧表記、現4歳。TTとしのぎを削った時期をこのように評していたのは注目される。

出典

  1. ^ 白井1980、28頁
  2. ^ 白井1980、18頁
  3. ^ 白井1980、35頁
  4. ^ 白井1980、24頁
  5. ^ 白井1980、25頁26頁

参考文献

  • 白井透(編)「特集グリーングラス」『競馬四季報』通巻36号、サラブレッド血統センター、1980年、1-39頁。 

外部リンク