クルアーン

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クルアーンقرآن qur’ān)あるいはコーランとは、イスラーム教イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二のアッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。「読まれるもの」を意味する。(アラビア語では定冠詞が伴い「アル=クルアーン」と呼ばれる。)

欧米では古くから Coran あるいは Koran と呼ばれており、日本でも長らくそのカタカナ化した形である「コーラン」という名前で呼ばれてきた。

クルアーンの成立と正典化

クルアーンの成立経緯は、クルアーン自身とハディース(預言者ムハンマドの言行録)、およびムスリム(イスラム教徒)の伝承によれば、以下の通りである。

アラビアヒジャーズ地方の町マッカ(メッカ)の商人であったムハンマドは、40歳ほどであった西暦610年頃に、迷うところがあってしばしばマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた。ある日の瞑想中に突然、大天使ジブリールガブリエル)が彼のところにあらわれ、神から託された第一の啓示を与えた。

はじめムハンマドはこれをジン(魔人)に化かされたものかと思い怖れたが、やがてこれを真に神から与えられた啓示と信じて、自ら啓示を受け取って人々に伝える使徒としての役割を務めることを決意した。そうして啓示はムハンマドが死ぬまで何回にも分けて下された。

ムハンマド自身は文盲であったため、彼を通じて伝えられた啓示はムハンマドと信徒たちの暗記によって記憶され、口伝えで伝承された。[1]しかし後にムハンマドに直に接し啓示を記憶した者(教友)が老いて死に絶えはじめ、記憶を留めるためにクルアーンの文字化がはかられ始めた。このように書物の形にまとめられたクルアーンをムスハフという。

しかし、イスラーム共同体全体としての統一した文字化は行われなかったので、次第に伝承者や地域によって内容に異同が生じたり、伝承者による恣意的な内容の変更や伝承過程での混乱が生じはじめて問題となった。第3代正統カリフウスマーンはこれに危機感を抱いてクルアーンの正典化を命じ、650年頃、ザイド・イブン=サービトらによってクルアーンの編集・文書化が行われて1冊のムスハフにまとめた。ウスマーンは公定ムスハフを標準クルアーン(ウスマーン版と呼ばれる)とし、それ以外のムスハフを焼却させた。このためウスマーン版を除くムスハフは現在までのところ発見されておらず、クルアーンに偽典外典のたぐいは存在しないとされる。

特徴

イスラーム教における位置付け

クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人アラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。

クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。クルアーンを記した文字、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。

内容

アラビア語圏では、単に宗教的な解説書ではなく、文学としても第一級品であるといわれる。事実、書かれている(あるいは説かれている)文章の意味をあまり理解できない者でも、そのアラビア語の美しさに引かれて改宗した者も多くいたという。ムスリムの間では、クルアーン自体が普通の人間にはつくることのできないような優れた文学であることが、クルアーンが神の奇蹟であることの証明であると考えられている。

また、口語と文語の開きが大きくなった現在では、文章語の模範テキストであるとされ、出版物などはクルアーンの言葉(フスハー)で書かれることが多い。

クルアーンの各章は一度に下された啓示のまとまりであり、下された時期を基準として、ヒジュラ(イスラーム共同体のマッカからマディーナ(メディナ)への移転)を境とするマッカ啓示とマディーナ啓示に大別される。

マッカ啓示は、ムハンマドが啓示を受け始めた直後に属するものを含む。これらは非常に短いものも多く、内容は唯一神への信仰や終末に対する警告など宗教的情熱を伝える点が特徴的である。その少し後、イスラーム共同体が形成され始めてからは、信者に信仰を促すような啓示が多い。マッカ啓示で信仰的な信条に関する啓示が語り終えられたことから、続くマディーナ啓示では、イスラーム共同体の法規定や、信徒同士の社会生活に関して言及する啓示が多い。

クルアーンで描かれるアッラーフ(ヤハヴェエホバと同一)は平均的日本人が想像しているようなキリスト教に満ちたものではなく、非常に荒々しい神でしばしば怒りをあらわにする。これは旧約聖書の神の性格と非常によく似る。

構成

ウスマーン版のクルアーンは、全てで114の章(スーラ)からなり、スーラは節(アーヤ)に分かれている。各章はムハンマドに下されたひとつひとつの啓示であるが、長短は非常に大きなばらつきがあり、もっとも短い第108章「豊潤」には3節しかなく、もっとも長い第2章「牝牛」は286節ある。また、章の分け方とは別に、読誦するときに一度に読む目安となる分量ごとに全体を30等に分割したジュズウという巻に分かれており、1日に1巻ずつ読誦すると1ヶ月で全てを読誦できるようになっている。

章の構成は、第1章「開扉」を例外として、概して長い章から短い章へ向かう方針で編纂されており、時系列はばらばら。しかし、後代のウラマー(イスラームの学者の総称)らの研究によりおおよその推測がなされるようになった。そこでコーランの章を時期別に大きく三つに区分することができる。第1期はムハンマドが初めてアラーの啓示を受けてからの初期段階、第2期は大衆への伝道を進め、メッカにおける迫害が厳しくなった時期、第3段階はヒジュラ(ムハンマドがメッカの迫害を逃れてメディナへ遷都したこと)以降の啓示である。

それぞれの特色を述べると、第1期は啓示が押し並べて短い。この時期はムハンマド自身がイスラームの境地を見出そうとしているときであり、信奉者もごく少数の身内が主であった。初めてアラーの言葉を聞いた当初のものとされるコーランの記述を見ると、ムハンマドのアラーの言葉へ対する畏怖の念が強く出ているのが興味深い。啓示も神の創造と世界の終末を厳かに語り、アラーの権威付けを行っている。そして詩的で力強い。

第2期の特徴としては、約80章もの啓示が下り、分量が多いことと、内容が説話的であるということである。ただし、旧約聖書や新約聖書に比べると、コーランはストーリー性を重視していない嫌いがあり、かなり端折ったりしている。このころになると一般大衆の信奉者が増え、危機感を持ったクライシュ族の迫害が始まる。ここで改めてイスラームの正当性を主張し、ムスリムの結束を呼びかけているのである。

第3期の特徴としては、一章あたりの啓示が長いこと。内容としては法制的で、イスラーム社会の規律についてしきりに述べている。クライシュ族の迫害を逃れ、メディナに逃れると、クライシュ族や現地のユダヤ教徒との対抗の必要上ウンマ (イスラム)(イスラームの共同体)がここで形成される。そこで信徒の生活に深く介入し、きわめて政治的な啓示が述べられているのである。

聖書とクルアーンの関係

ムスリムの信仰箇条である六信のひとつには啓典(キターブ)があるが、啓典はクルアーンのみではない。啓典とは、神が預言者を通じて人類の各共同体に下した啓示を記した教典のことで、クルアーンも、クルアーン以前に神がムハンマド以前の預言者たちに下した啓典があったことを明言している。聖書の各テキストはこれらが後の世に伝わった物であるとされ、旧約聖書のムーサー(モーセ)に下された『タウラート』(『モーセ五書』)、 ダーウード(ダビデ)に下された『ザブール』(『詩篇』)や新約聖書のイーサー(イエス)に下された『インジール』(『福音書』)はイスラム教ではクルアーンに並ぶ四大啓典に位置付けられている。

ここで、一般のイスラム教徒にはあまり知られていないが、クルアーンそのものの記述では、旧約聖書は「完全無欠」と評されている。また新約聖書は「真理を照らす光」であると書かれていたりする。そしてイスラム教徒に対して「クルアーンだけで十分と思ってはならない。聖書も読め」と薦める箇所もある[2]

このようにクルアーンを見る限りにおいて、聖書が誤っているとの記述は一つもない。かわりに、「クルアーンは聖書の正しさを証明するためにある」とまで宣言している箇所が数多くある[3]。そればかりではなく、「ユダヤ教徒もキリスト教徒も天国へ行く」との記述さえある[4]。現在のイスラム教徒に色濃く見られる「イスラムを他の宗教よりも優位に位置づける」とする思想は、第一聖典のクルアーンには見られない[5]

しかし現状では、伝統的な解釈においてはクルアーンを除く3つの啓典は神の言葉を歪曲して完全に伝えていないとされ、神の言葉そのものであるクルアーンに比べると不完全なものであるとされている。現在、イスラム圏のいくつかの国では聖書は禁書とされている。聖書を「クルアーンと並ぶ聖典」としていた立場から、「禁書」にまでするようになったこの変化は、イスラムのかなり初期の頃にさかのぼることができる。イスラムが支配権を確立した後に編纂された第二聖典ハディースにおいては、「聖書が正しい」と語るクルアーンの言葉はいっさい引用されなくなっている[6]。かわりに「聖書よりもクルアーンが優れている」、「ユダヤ人から聖書の話を聞いてはならない」との記述が出てくるようになる[7]

ただし現在ではムスリムの間にも一部に宗教多元主義論者がおり、彼らはただ単にムスリムはクルアーンを啓示として尊び、キリスト教やユダヤ教をはじめとする他の宗教はそれぞれの啓示を尊ぶのであって、優劣はないとしている。これはむしろクルアーンの原典に書かれた考え方に近いとも言えよう[要出典]

聖書とクルアーンの記述の食い違い

ユダヤ教徒とムスリムとの関係が悪化した原因として、ユダヤ人がイスラムに改宗せず、それどころかムハンマドを嘲笑したことが歴史で語られる。これは、ムハンマドが預言者を名乗りながら、旧約聖書の内容に通じていなかったためである。もっというならば、ムハンマドの語る旧約の内容があまりに聖書と食い違っていたからである。

以下はその実例である。

3つの時代と場所が混ざり合う
「これ長老たち、このわし(=エジプト王ファラオ)のほかにはお前たちの神はないはず。さ、ハーマーン(=ハマン)、泥に火をつけてくれい。わしに高殿(=バベルの塔)を造ってくれい。ムーサー(=モーセ)の神のところまで昇って見せるわ。どう考えてもあれは嘘つきにきまっておる」―コーラン28:38
ここでは「バベルの塔」「モーセ」「ハマン」が同じ場面でコーランの中では登場する。しかし旧約聖書では、それぞれの時代と場所は大きく異なる。「バベルの塔」は紀元前2100年頃のメソポタミアのことで、旧約聖書の「創世記」に出てくる。「モーセ」(英語表記ではモーゼスと言う)は紀元前1240年頃にエジプトで生まれた。彼がイスラエルの民を約束の地カナン(現在のパレスチナ)に連れて行くことが旧約聖書の「出エジプト記」に書かれている。そして「ハマン」はペルシアの王に仕えていた、紀元前485 - 465年頃の人物である。旧約聖書の「エステル記」は、ハマンによるユダヤ人滅亡計画から民族を救った人物、すなわちペルシア王妃であったエステルと、彼女の養父であったモルデカイの話である。
ユダヤ人にとって、「モーセ」と「ハマン」の時代を混ぜこぜにすることはありえない。モーセの出エジプトを記念した宗教行事が、ユダヤ最大の祭りである「過越しの祭り」である。またハマンの圧政から救われたことを記念する祭りが「プリム」である。いずれも現在も続く重要な祭りである。
その時代にない名称が登場する
「汝(=モーセ)の去った後、我ら(=アッラー)が汝の民を試練にかけた。例のサマリア人がみなを邪道に迷いこませた」―コーラン20:87(85)
コーランでは、モーセの死の直後(紀元前2100年頃)すでに「サマリア人」の名称が登場している。コーランによれば、モーセの民を不信仰に陥らせ、偶像崇拝の罪を犯させた犯人が「サマリア人」である。だがこれは、年代的に矛盾している。なぜなら、紀元前721年に北イスラエルアッシリアに滅ぼされたあと、アッシリアからの移民と現地のユダヤ人との間に生まれた人々が「サマリア人」と呼ばれるようになったからである。
人物が入れ替わる
「タールート(=サウル)が軍勢をひきつれて出で立つ時、彼は言った。『いいか、アッラーはお前たちを川でもっておためしになるぞ。その水を飲む者はわしの兵ではない。その水を味わおうとしない者はわしの兵だ。ただし掌で一掬いだけ汲む者は別だが』と」―コーラン2:250(249)
ギデオンの戦士」の話が、コーランでは「サウル王の兵士」として語られている。「ギデオン」とは、古代イスラエル王国ができる前の士師と呼ばれる英雄である。ホテルや旅館、病院に聖書を置く活動をしている「ギデオン協会」の名前は、これに由来する。また「サウル王」とは紀元前10世紀の人物であり、古代イスラエル王国の初代の王である。
人物の死期が異なる
「いよいよ我ら(=アッラー自称)が彼(=ソロモン)に死の断を下した時も、さすがの彼ら(=精霊たち。ちょうどその時有名なソロモンの神殿の建設中で精霊たちはみな苦役に服していた)も全然その死に気がつかなかった。ただ一匹の土蛆がいて、それが彼の杖(=ソロモンの死体はその杖に寄りかかってあたかも生あるものの如くであった)を喰っていただけのこと。彼がばたりと倒れた時(=一年かかって蛆が杖を喰いつくし、ソロモンの死体は倒れた、がその時、神殿は完成していた)、精霊どもやっと気がついて、ああ、目に見えぬ世界の事情がわかっていたら、なにも屈辱的な苦役をいつまでも続けるのではなかったに、という次第」―コーラン34:13(14)、ハディースにも引用あり。
死の時期によって全く異なる歴史が展開する人物として、ユダヤの歴史の中ではソロモン王がその代表である。若い頃のソロモンは、熱心なヤーヴェ信仰の信者であり、旧約聖書においても「箴言」「伝道者の書」「雅歌」などがソロモンの手によるとされている。しかし晩年の彼はヤーヴェ崇拝のみならず、他の宗教をも認める宗教的寛容政策を採った。旧約聖書に述べられたユダヤ教側の主張によれば、神(ヤーヴェ)はその罰として、古代イスラエル王国を南北に分断したとする。旧約聖書には次のようにある。「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである[8]。対して、コーランの記述を正当とした場合、神殿建設のさなか、つまりソロモンが非常にヤーヴェへの信仰に熱心だった時期に彼が死んだならば、イスラエルの南北分裂はなぜおきたのかに関して、ユダヤ教・キリスト教において展開された神学的説明とは相容れない。

イスラムは自らの中に抱える大きな矛盾と戦う必要があった。

  1. ムハンマド自身は、「旧約聖書は完全無欠」とコーランで語っている
  2. さらに「聖書も読め」と勧めている
  3. コーランは「聖書が正しいことを確証するためにある」とまで断言している
  4. しかしコーランは旧約聖書の記述と大きな食い違いをみせている

※上記の詳細については「聖書とクルアーンの関係」を参照。

イスラーム側では、この矛盾を解決する手段として、「ユダヤ教徒やキリスト教徒による聖書の改竄・歪曲」という主張を編み出した。すなわち、当時(から現代に至るまで)現実にユダヤ教徒・キリスト教徒の間で使われている聖書は、歪曲・改竄が繰り返されたことで啓示された本来の内容から離れており、それゆえにクルアーンとの食い違いが生じるとする。「本来の」聖書の内容は新約・旧約ともにクルアーンとは原理上矛盾しない。故に最後の預言者であるムハンマドに下されたクルアーンが「確証」するべき「聖書」とは、現存するユダヤ教徒・キリスト教徒の聖書ではなく、「本来の」聖書であるとする。

イスラムの支配下地域では、聖書が禁書とされ、それは現在までも続いている。聖書はイスラムで聖典のひとつとされながら、イスラム教徒のほとんどが実際には聖書を読まない原因がここにある。大多数のイスラム教徒は現在、第二聖典ハディースの主張である「コーランは聖書よりも優れている」との考えを採用している。このハディースは、イスラムの世界支配が確立したのちに成立している。しかし、コーランでは全く逆のことがといわれていることは、ほとんど知られていない。

クルアーンの翻訳

ナスフ体によるクルアーンの章句。10世紀に訳されたタバリーの『大タフスィール』ペルシア語版(写本は18世紀のもの)。アラビア語各単語とそれに対応する朱字のナスタアリーク体によるペルシア語の訳文。タフスィールの一種。
中国語によるクルアーンの訳文。

クルアーンは、アラブ人のムハンマドを通じてアラブ人の共同体に対して与えられた啓典であったので、布教の対象も当初はアラビア語を理解できるアラビア半島の住民に限られており、翻訳をめぐる問題も発生しなかった。

しかしクルアーンは単なるアラブ人に対する啓典ではなく全人類に与えられた最高で最後の啓典と位置付けられていて、それを根幹とするイスラーム教の共同体も、アラブ人に留まらず全人類が内包されるべきものと位置付けられていたので、やがてアラビア語を解さない人々に対しても布教が行われるようになる。のちにイスラム教が東南アジアなどに布教されるようになる段階に至るとクルアーンの翻訳に対して積極的な意見を持つ者もあらわれた。しかしウラマーたちの間では「クルアーンがムハンマドに対してアラビア語で伝えられた」ことが重視され、翻訳されたものは神の言葉そのものであるクルアーンを正しく伝えられないとする解釈がなされるようになった。そのため、アラビア語で書かれたもののみが「クルアーン」であるとみなされるようになり、現在に至っている。

従って、クルアーンの翻訳は原則として禁じられる。実際には、布教やアラビア語を母語としないムスリムの理解の助けとするために、クルアーンを翻訳したものは編纂され出版されているが、これはあくまで注釈と位置付けられる。

そのため、現在のイスラム教においては、アラビア語で記載されているクルアーンを用いており、アラビア語で祈りを捧げている。もちろん、イスラム教徒のアラブ人はアラビア語が母語であるため、アラビア語で会話を行うことが可能であるが、東南アジア中央アジア南アジアなどに居住しているアラブ人ではないイスラム教徒の場合は、アラビア語で記載されたクルアーンを理解することは可能であるが、アラビア語で会話することが出来ない場合がある。彼ら、非アラブ人のイスラム教徒とアラブ人のイスラム教徒たちは、現実には英語などで会話を行っている。

かつてトルコ共和国では政府の脱イスラム化の改革の一環として、クルアーンのトルコ語化がはかられるようとしたが、注釈用として以上の用途にはついに広まらなかった。

日本語訳は古くは井筒俊彦大川周明によるものがあるが、現在では藤本勝次らによる翻訳、ムスリムである三田了一による翻訳などがある。

クルアーン解釈学(タフスィール学)

それでは、アラビア語で書かれたクルアーンの章句が他の言語に翻訳されたことが全く無かったかというと、勿論そうではない。

預言者ムハンマドの死後、イスラームの拡大・拡散に伴い、それまで自明とされて来たアラビア語で書かれたクルアーンの意味や啓示された章句の背景についても、新たな世代やアラビア半島以外の非アラブの異邦人たち、さらに新たにムスリムになった人々にも説明し、各々の意味の解釈を提示する必要が生じ始めた。これらクルアーンに関する研究は、最初期にはハディースの集成によって啓示の経緯や意味内容をまとめることにはじまり、やがてアラビア語の文法学的解釈、神学的解釈などが付け加わり、クルアーンの解釈について学問的に体系化されていった。これらクルアーンの解釈に関する学問をタフスィール学 علم التفسير ‘ilm al-tafsīr と称している。イスラームの社会において「クルアーンの章句をアラビア語以外の言語で説明する」伝統は実際に存在したが、これらはこのタフスィール学の範疇として認識されてきた。

預言者ムハンマドの教友には、アラブ人以外の人々も何人か確認されている。その代表的な人物にイスファハーン近郊出身と伝えられるペルシア人ムスリムの祖、サルマーン・ファールスィー Salmān al-Fārsī がいる。伝承によれば、ムハンマドの側近として活躍していたサルマーンは、ある時イエメン在住のペルシア人ムスリムたちからクルアーン第1章(開扉章)の翻訳を求められた折に、「慈悲深く慈愛遍くアッラーフの御名によりて(bi-smi Allāhi al-Raḥmāni al-Raḥīmi )……」というバスマラの部分を、ペルシア語で「(bi(によって)−nām(名)-i yazdān(神)-i bakhshāyanda(憐れみ深い)……」という風に逐語的に翻訳したといわれており、アラビア語を解さない者のために当初からこのような処置が行われていたようである。

しかしながら、ムスリム側の認識に立った場合、上記のようにクルアーンはそもそも朗誦されることを前提としており(クルアーンの読み方については「クルアーン朗誦学」も発達した)、意味と朗誦の旋律を含めて統語論的体系の異なる他の言語に全てを完全に翻訳することは不可能である。そのため、クルアーンについて外国語訳を行う場合、飽くまでも意味を近似的に説明するだけしかできないことから、「翻訳」( ترجمة tarjama)の名称は避け、「各々の言語によるタフスィール」あるいは「タフスィール的翻訳( ترجمة تفسيرية tarjama tafsīrīya)」と呼びうるものになる。一般的に「クルアーンの英訳」「クルアーンの日本語訳」と呼ばれる物は後者の「タフスィール的翻訳」に分類される。

クルアーン解釈書・注釈書は単にタフスィール تفسير Tafsīr と呼ばれ、クルアーンの個々の章句や節について、諸々のハディースや学説に基づいた注釈、解釈などの解説が附される。アッバース朝時代に入って、アラビア語によってさまざまなハディース集成書やタフスィールが編纂されたが、アラビア語で書かれたタフスィール書がペルシア語などで翻訳されたりもした。「タフスィールそのものの翻訳」については、例えば10世紀後半、サーマーン朝第8代君主マンスール・ブン・ヌーフ(マンスール1世)の要請によって中央アジアのウラマーたちが行った、タバリーの大タフスィール、『解説集成』( جامع البيان Jāmi‘ al-Bayān)のペルシア語訳が存在する。また、ペルシア語によるタフスィールとしては、12世紀半ばにジャマールッディーン・アブールフトゥーフ・アル=フサイン・アッ=ラーズィーによって著された『愛の歓喜と心の魂』( Rawḥ al-Jinān va Rūḥ al-Janān )がある。これは現在の刊本でも全13巻に渡る大著であり、ペルシア語タフスィールとしては最も優れたものであると評されている。

『愛の歓喜』の場合、まず、章句中の各々のアラビア語文の節の下にペルシア語による訳文が添えられ、その後に各々の単語や文章などについてペルシア語による解説が詳しく述べられる。サーマーン朝のマンスール1世が編纂させたような「大学者が著したアラビア語によるタフスィール」の翻訳以外にも、ラーズィーの『愛の歓喜』のような「各々の言語によるタフスィール」の例もさまざまにあり、ペルシア語以外にもオスマン語チャガタイ語マレー語など、その土地その土地の言語によるタフスィール書も史上多数著された。近代以前において、土地毎の信仰のあり方や宗派毎のクルアーン章句の解釈はさまざまであったものの、タフスィール学の発達もありアラビア語を母語としない非アラブ系のムスリムでも、クルアーンの内容を把握することは可能であったのである。

クルアーンとイスラム法

イスラム法学では、クルアーンは神の言葉そのものであるという性質上、イスラム法(シャリーア)のもっとも重要な法源であり、イスラーム法体系における憲法にあたる。

しかしクルアーンは宗教の信仰に関して語る部分も多く、ムハンマドの死後、最後の啓示が下されてから何十年も経つと、拡大したイスラーム共同体の現状に対して十分に対処できない面が大きくなった。そこで、生前のムハンマドに直に接していた教友たちから口伝えによって伝承されてきたムハンマドの言行をハディースとしてまとめ、クルアーンに欠けた部分を補ったり、クルアーンを解釈する助けとすることが始められた。ムスリムにとって、ムハンマドは神の意志をもっとも完全に体現し、語り実行していた存在であるとみなされるので、ハディースに伝えられるムハンマドの言葉や行動は、人間であるムハンマドに由来する神の被造物のひとつであるけれども、神そのものに由来する内実の意味を含んでいたとされる。そこで、ハディースを用いることで法源としてクルアーンを補うことができる。

スンナ派における法源学では、第一のクルアーン、第二のハディースに第三のイジュマー(合意)、第四のキヤース(類推)を加えて四大法源とする。イスラム法学では、上位の法源では解決できない問題に限って下位の法源をあたることが許されるため、クルアーンに反する法規定が存在することは原則としてありえない。これは、法源にイマームの見解を重視するシーア派でも同じである。

しかし近代には、西洋キリスト教社会から押し寄せた近代化の波が、クルアーンに基づくイスラム法と近代社会の間の齟齬を一気に拡大させることになった。これに対してムスリムたちは、サウジアラビアのように厳格なイスラーム法学派(ワッハーブ派)を適用してイスラーム法に基づく社会の再構築をはかることもあったが、多くのイスラーム法学者は四大法源に基づきつつもイスラム法を柔軟に解釈して現代社会に適合させていき、また多くの国の政府はイスラム法に加えて政府や議会が制定する西洋的な近代法をイスラーム法に付加させて対応した。イスラム法のいっさいを廃止しヨーロッパから持ち込んだ近代法一本に改めたトルコはその極端な例である。こうした西洋文明の衝撃に対して行われてきたイスラーム法の変容に対する異議申し立てがイスラーム主義(いわゆるイスラーム原理主義)であり、彼らの多くは政治的にはクルアーンを憲法とし、伝統的なイスラーム法を法律とするイスラーム国家の建設を主張している。

クルアーンの研究

クルアーンはムスリムにとって信仰の根幹にあたるため、その読誦法や、章句の意味解釈はウラマー(学者)の修めるイスラム諸学のひとつとしてクルアーン学を発展させることになった。また、ヨーロッパキリスト教徒の学者たちも、十字軍の遠征などによってイスラム世界との接触が深まると、敵であるムスリムの信仰を知るためにクルアーンの研究を始めるようになった。十字軍がはじまって50年後の1143年にはチェスターのロバートによってラテン語の注解がなされている。

クルアーンの研究においては、クルアーンにみられる、神の自称が「我ら」であったり「彼」であったりという統一感のなさや、宿命論と行為の自己責任の問題などでみられるしばしば矛盾する記述は大きな問題となり、議論の対象となった。ムスリムの学者たちはハディースを用いたりして、この問題を解決して解釈しようとしてきた。前近代においてムスリムがクルアーンの矛盾に対するときの根本的態度には、彼らの信仰の基礎であるクルアーンの啓示全てが神の言葉であるという確信にあった。

これに対して、非イスラーム教徒のキリスト教徒の学者たちは、特に古い時代において、聖書のみが神の言葉であるという宗教的信条からクルアーンが神に由来するとはみなさず、ムハンマドの著作物であるとみなした。しかし近代に入り、ヨーロッパ聖書の文献批判的研究が始まると、聖書がこれまでキリスト教徒が考えていたように神の言葉そのものではなく、複数の編者がまとめた教典が編集されてできたものであるという認識が共有されるようになった。そのためクルアーンに対しても公平な態度で研究に臨むようになった。

非イスラーム教徒やリベラル・ムスリムの学者たちは、クルアーンの各章を年代的に分けて内容を分析した。例えば最初期の啓示は、意味的には内容が非イスラーム教徒には支離滅裂とも感じられるものが多く、啓示を受け始めた直後のムハンマドの混乱した精神状態を反映しているという解釈がなされた。また、マッカ啓示とマディーナ啓示を比較すると前者は終末論的な色彩が強く、後者は法規定に関する言及が多いのは、イスラーム教の信徒たちがヒジュラを境に、マッカにおける先鋭的な新興宗教団体から、マディーナを支配する一種の国家に変化したためとみなされた。また、キリスト教ユダヤ教の扱いに関して、初期の啓示ではこれらに友好的な態度を見せているのに、マディーナにおける後期の啓示では強い敵対心を示しているのは、一神教の先輩であるユダヤ教がムハンマドのイスラーム教団と直接に接触する中で、イスラムを異端視したり、イスラーム共同体と政治的に衝突したことが原因であるとした。そして、マディーナ啓示において旧約聖書に由来する預言者の物語が増えるのは、彼がマディーナに住むユダヤ教徒から旧約聖書の内容を学んだためだ、と考えられた。クルアーンの伝承がしばしば旧約聖書や新約聖書と食い違うのは、ムハンマドの得た情報が不完全だったとか、あるいは無学な彼が勘違いをおかしたためだと断定された[9]

このように非イスラーム教徒やリベラル・ムスリムが行ってきた議論はクルアーンを合理的に解釈して説明したが、しかしこれはクルアーンを神に直接に由来する奇蹟だとする教条的・保守的イスラムの信仰との対立を生んでいる。また、売り上げ的には世界のベストセラーのひとつであるが作者が誰かという問題がある。歴史的にみればムハンマドであるが、イスラーム教徒の間では現在でもアッラーフであるという意見が主流である。

クルアーンの編纂(書物としての成立)についての研究が対立を生む場合がある。1993年カイロ大学アラビア語科助教授ナスル・アブゼイド(en:Nasr Abu Zayd)が発表した「口頭で伝承されたクルアーンのうち、何を含めるか、どの口語で書くべきなのかが正統カリフ時代に激しい論議を生んだ」という研究が「無神論的」であると批判された。その内容が問題視され、原理主義的な教授陣の反対によりナセルは教授就任を拒否された。ムスリム同胞団員の弁護士は彼をカーフィル(背教者)とし、よってムスリム女性と婚姻を続けることはできず、夫人と離婚しなければならないと訴え出た。1994年、裁判所は訴えた弁護士が婚姻関係については第三者であるという理由で一度は退けたものの、第二審で逆転。イスラム教徒なら誰にでも宗教を擁護し、訴え出る権利があるとした。ナセルは背教者であり離婚すべきとの判決が下された。その後、過激派の指導者がナセルへの制裁を認める発言をするなど危険な状況となり、彼はイブテハル・ユーニス夫人とともにオランダに亡命することになった[10]

悪魔の章句

コーラン第53章19節から22節にかけて、『あなたがたは、アッラートとウッザーを(何であると)考えるか。 それから第3番目のマナートを。あなたがたには男子があり、かれには女子があるというのか。それでは、本当に不当な分け方であろう。』という文言があり、かつてはこの中にそれらの神々への崇拝を認める文言が入っていた。後にムハンマドはこれを悪魔の罠として撤回したとされる。

クルアーンをめぐる諸問題

イスラーム教徒にとって神のロゴスであるクルアーンは、アッラーフ自身の一部とも言うべき位置を占めており、したがってそれへの批判はアッラーフ(およびそれを奉ずるイスラームという宗教自体)への冒涜に等しいとする解釈が主流である(なぜなら、クルアーンの謎の言葉には、神の正体などが書かれているとされるからである。謎の言葉とは、意味が不明の言葉で、神のみが意味を知っている言葉である。)そのため、イスラームは他の宗教よりも絶対的に優越している完全な教えという信念ともあいまって、クルアーンに対してそのような見解を持たない非ムスリムがクルアーンの批判を行うことや、クルアーンをムスリムほど丁重に扱わないことに対し、非ムスリムからすれば理不尽とも思えるほどの憎悪を抱くイスラーム教徒も存在している。そのような言動の存在自体を許せないという勢力もあり、現にイスラーム世界のいくつかの国家ではイスラーム法に基づき、クルアーンへの批判やその損壊などを犯罪とし、非ムスリム・ムスリム問わず犯人を死刑を持って取り締まる場合もある。2008年6月にはパキスタンでクルアーンを焼き、ムハンマドを批判したとしてムスリム男性が死刑判決を受けている。

クルアーンの目次(章別)

  • 一:開扉
  • 二:牝牛
  • 三:イムラーン一家
  • 四:女
  • 五:食卓
  • 六:家畜
  • 七:胸壁
  • 八:戦利品
  • 九:改悛
  • 十:ユーヌス(平安その上にあれ)
  • 十一:フード
  • 十二:ユースフ(ヨセフ)
  • 十三:雷鳴
  • 十四:イブラーヒーム(アブラハム)
  • 十五:アル・ヒジュル
  • 十六:蜜蜂
  • 十七:夜の旅
  • 十八:洞窟
  • 十九:マルヤム(聖母マリア)
  • 二十:ター・ハー
  • 二十一:預言者
  • 二十二:巡礼
  • 二十三:信仰者
  • 二十四:光
  • 二十五:天啓
  • 二十六:詩人たち
  • 二十七:蟻
  • 二十八:物語
  • 二十九:蜘蛛
  • 三十:ギリシャ人
  • 三十一:ルクマーン
  • 三十二:跪拝
  • 三十三:部族同盟
  • 三十四:サバア
  • 三十五:天使
  • 三十六:ヤー・スィーン
  • 三十七:整列者
  • 三十八:サード
  • 三十九:群なす人々
  • 四十:信者
  • 四十一:わかりやすく
  • 四十二:相談
  • 四十三:光眩い部屋飾り
  • 四十四:煙
  • 四十五:腰抜け共
  • 四十六:砂丘
  • 四十七:ムハンマド(マホメット)
  • 四十八:勝利
  • 四十九:私室
  • 五十:カーフ
  • 五十一:吹き散らす風
  • 五十二:山
  • 五十三:星
  • 五十四:月
  • 五十五:お情深い御神
  • 五十六:恐ろしい出来事
  • 五十七:鉄
  • 五十八:言いがかりをつける女
  • 五十九:追放
  • 六十:調べられる女
  • 六十一:戦列
  • 六十二:集会
  • 六十三:似非信者共
  • 六十四:騙し合い
  • 六十五:離縁
  • 六十六:禁断
  • 六十七:主権
  • 六十八:筆
  • 六十九:絶対
  • 七十:階段
  • 七十一:ヌーフ
  • 七十二:妖霊
  • 七十三:衣かぶる男
  • 七十四:外衣に身を包んだ男
  • 七十五:復活
  • 七十六:人間
  • 七十七:放たれるもの
  • 七十八:知らせ
  • 七十九:引っこ抜く者
  • 八十:眉をひそめて
  • 八十一:巻きつける
  • 八十二:裂け割れる
  • 八十三:量りを誤魔化す人々
  • 八十四:真っ二つ
  • 八十五:星座
  • 八十六:明星
  • 八十七:いと高き神
  • 八十八:蔽塞
  • 八十九:暁
  • 九十:邑(まち)
  • 九十一:太陽
  • 九十二:夜
  • 九十三:朝
  • 九十四:張り拡げる
  • 九十五:無花果(いちじく)
  • 九十六:凝血
  • 九十七:定め
  • 九十八:神兆
  • 九十九:地震
  • 百:駿馬
  • 百一:戸を叩く者
  • 百二:張り合い
  • 百三:日差し傾く頃
  • 百四:中傷者
  • 百五:象
  • 百六:クライシュ族
  • 百七:慈善
  • 百八:カウサル
  • 百九:無信仰者
  • 百十:助け
  • 百十一:腐ってしまえ
  • 百十二:信仰唯一筋
  • 百十三:黎明
  • 百十四:人間

脚注

  1. ^ ただし、ムハンマド自身、名家の出身であり富裕な商家の婦人ハディージャを娶り商業に従事していたことから考えると、伝承の通りムハンマドが本当に文盲であったかについては疑問視する説もある。また、ムハンマドの生前から彼に直に接した信徒たちによってに啓示されたクルアーンの一部は木の板や棕櫚の葉、石などに文字としてその都度(バラバラではあるが)記録されていたことはハディースなどでも伝えられている。
  2. ^ クルアーン3:181(184),5:50(46),6:157(156),11:20(17),29:45(46)などを参照。
  3. ^ クルアーン2:91(97),3:3,5:52(48),6:155(154),10:38(37),26:196〜197,35:28(31),46:11(12),46:29(30)などを参照
  4. ^ クルアーン2:59(62),3:19(20)を参照。
  5. ^ クルアーン3:66(73)を参照。
  6. ^ ハディースでは、クルアーンの聖句と、各地に伝わるムハンマドの言行とが、項目ごとに収録されている。
  7. ^ クルアーンでは逆に「聖書について聞きたいことがあればユダヤ、キリスト教徒に聞け」と命じている。クルアーン10:94,16:45〜46(43〜44)
  8. ^ 神はソロモンに次のように言った。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう』」(旧約聖書Ⅰ列王記11:9〜13)
  9. ^ 例えばクルアーン「物語」38節では、「エジプト王ファラオが、ペルシアの宰相ハマンに対して、メソポタミアのバベルの塔の建築を命じる」場面がある。時代も場所も混乱した記述の代表例であり、このような箇所はクルアーンの中に数多く登場する。
  10. ^ 藤原和彦『イスラム過激原理主義 なぜテロに走るのか』中央公論新社〈中公新書〉、2001年、149-151頁

関連項目

外部リンク

音楽・音声外部リンク
Islam House - アル・クルアーン 全114章 朗誦一覧(MP3)

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