都久夫須麻神社

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都久夫須麻神社
竜神拝所
竜神拝所
所在地 滋賀県長浜市早崎町1665
位置 北緯35度25分14.59秒
東経136度08分38.76秒
座標: 北緯35度25分14.59秒 東経136度08分38.76秒
主祭神 市杵島比売命
宇賀福神
浅井比売命
社格 式内社(小)
県社
創建 第21代雄略天皇3年
本殿の様式 入母屋造
別名 竹生島神社
例祭 6月15日
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竹生島遠景
中央に宝厳寺伽藍。右端に都久夫須麻神社。
鳥居

都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は、滋賀県長浜市竹生島にある神社式内社で、旧社格県社。社名は「竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)」とも。

祭神[編集]

祭神は次の3柱[注 1]である。

  • 市杵島比売命 - 弁才天。
  • 宇賀福神 (うがふくじん。龍神[注 2]でもある)
  • 浅井比売命 (あざいひめのみこと) - 産土神。

歴史[編集]

創建[編集]

社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という[1]

近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。

概史[編集]

天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる[1]

神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。また、天平3年(731年)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれるほか[2]、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記天平神護元年(765年)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという[2]

日本三代実録元慶3年(879年)2月29日条には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。

平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった[2]。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。

慶長7年(1602年)、豊臣秀頼片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい[2]、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。

明治に入り、明治新政府は神仏分離令を出した。これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、『延喜式神名帳』に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治7年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。

境内[編集]

本殿(国宝)
本殿正面庇、長押上の彫刻(向かって左端)
  • 本殿(国宝)
    伏見城または豊国廟から移築したという伝承のある、装飾性の豊かな桃山建築であるが、建物中心部の身舎(もや)と周辺部の庇とは本来別個の建物であり、建立年代の異なる2つの建物を合体して1棟としたものである。本殿は永禄元年(1558年)に火災で焼失し、永禄10年(1567年)に再建されているが、これが現存する庇と向拝の部分にあたる。身舎部分は慶長7年(1602年)、豊臣秀頼片桐且元を奉行として改造したもので、他から移築されたものである。本殿は、全体としては、桁行5間、梁間4間で、屋根は入母屋造、檜皮葺とする。側面と背面は「霧除け」と称する板壁で外面を囲う。身舎部分は方3間(桁行3間、梁間3間)であるが、外側の庇部分とは柱筋が合っていない。正面側では身舎柱と庇柱間を4本の海老虹梁で繋ぐが、これらの虹梁が斜めに取りついており納まりが悪い。その他、身舎柱が角柱であるのに対し、庇の柱が円柱であること、身舎の柱や扉が黒漆塗であるのに対し、庇が素木仕上げであること、庇の屋根が身舎の柱に取り付いていないことなどからも、身舎と庇が同時の建築でないことがうかがえる。身舎部は柱、長押などの軸部材を黒漆塗とし、飾金具を使用し、平蒔絵で草花を描く。身舎の正面中央間は黒漆塗の桟唐戸を立て、菊文様の装飾彫刻で飾る。両脇間は向かって左が菊、右が芙蓉に瑞鳥の彫刻を嵌める。背面中央間の桟唐戸は後補である。両側面の中央間は外面を舞良戸、内側は戸襖とする。背面と側面も両脇間には装飾彫刻がある。身舎内部は畳敷、天井は折上格天井とする。天井の格間や戸襖には金地着色で菊、松、梅、桐などの植物を描く。庇は正面側を5間とも吹き放しとするが、内法長押より上方には各間とも装飾彫刻を入れる。庇の両側面は内法上は4間とも装飾彫刻を入れ、内法下は前寄り3間に牡丹唐草の彫刻を入れる。これらの庇部分の彫刻は途中で断ち切られている箇所があり、本来この建物に属していた彫刻ではなく、他の建物からの転用とみられる。[3][4] [5]
  • 龍神拝所
    琵琶湖を望む断崖上にある。ここから土器を湖に投げると願いが竜神により成就されるとする「かわらけ投げ」という風習が残る。
  • 境内社数社
    天忍穂耳神社、厳島江島神社、大己貴神社等。

祭事[編集]

  • 歳旦祭 (1月1日)
  • 節分祭 (2月3日)
  • 祈年祭 (3月20日)
  • 弥生祭 (4月)
  • 竹生島講社大祭 (5月第2日曜)
  • 竹生島祭 (6月10日-15日)
    • 三社弁財天祭 (6月10日)
    • 龍神祭、放生会 (6月14日)
    • 例大祭 (6月15日)
  • 童子迎えの神事 (8月6日・7日)
    • 前夜祭 (8月6日)
    • 本祭 (8月7日)
  • 白巳例大祭 (8月10日)
  • 名月祭 (9月)
  • 秋の祭 (10月)
  • 新嘗祭 (11月23日)
  • 大祓 (12月)

文化財[編集]

国宝[編集]

  • 本殿(附 棟札1枚)(建造物)
    安土桃山時代。解説は「境内」の節を参照。明治32年4月5日、当時の古社寺保存法に基づき、特別保護建造物に指定、昭和28年3月31日、文化財保護法に基づく国宝に指定。同日付けで「附」指定の棟札を追加指定。

長浜市指定文化財[編集]

  • 石灯籠(工芸品) - 南北朝時代。昭和48年7月18日指定

現地情報[編集]

所在地

交通アクセス

脚注[編集]

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注釈

  1. ^ 「神社由緒書」による。滋賀県神社庁のサイトでも3神説であるが同由緒書に依ったものである。
  2. ^ 公式サイト(ご祭神)では宇賀福神と龍神を別々に数え4柱とする説をとっている。

出典

  1. ^ a b 神社由緒書。
  2. ^ a b c d 『滋賀県の地名』都久夫須麻神社項。
  3. ^ 『日本建築史基礎資料集成 3 社殿III』、pp.43 - 44
  4. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』79、pp.8 - 274 - 275
  5. ^ 木村展子「都久夫須麻神社本殿の脇羽目彫刻について--都久夫須麻神社研究序説」、pp.28 - 29, 32 - 33

参考文献[編集]

  • 『日本建築史基礎資料集成 3 社殿III』、中央公論美術出版、1981
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』79、朝日新聞社、1998
  • 木村展子「都久夫須麻神社本殿の脇羽目彫刻について--都久夫須麻神社研究序説」『美術史論集』3、 神戸大学美術史研究会、2003(参照:[1]
  • 神社由緒書
  • 『日本歴史地名体系 滋賀県の地名』(平凡社)東浅井郡湖北町 都久夫須麻神社項

関連項目[編集]

外部リンク[編集]