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* 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない<ref name="sasaki"/>。
* 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない<ref name="sasaki"/>。
* 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P71</ref>。
* 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P71</ref>。
などが考えられている<ref>福田一郎、[https://doi.org/10.2740/jisdh.6.2_2 コメ食民族の食生活誌] 日本食生活学会誌 1995年 6巻 2号 p.2-6, {{doi|10.2740/jisdh.6.2_2}}</ref>。
などが考えられている<ref>福田一郎、[https://doi.org/10.2740/jisdh.6.2_2 コメ食民族の食生活誌]」『日本食生活学会誌 1995年 6巻 2号 p.2-6, {{doi|10.2740/jisdh.6.2_2}}</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
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稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の[[中国]][[長江]]流域の[[湖南省]]周辺地域と考えられている<ref name="nig1110">A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice.
稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の[[中国]][[長江]]流域の[[湖南省]]周辺地域と考えられている<ref name="nig1110">A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice.
Xuehui Huang, Nori Kurata, Xinghua Wei, Zi-Xuan Wang, Ahong Wang, Qiang Zhao, Yan Zhao, Kunyan Liu, Hengyun Lu, Wenjun Li, Yunli Guo, Yiqi Lu, Congcong Zhou, Danlin Fan, Qijun Weng, Chuanrang Zhu, Tao Huang, Lei Zhang, Yongchun Wang, Lei Feng, Hiroyasu Furuumi, Takahiko Kubo, Toshie Miyabayashi, Xiaoping Yuan, Qun Xu, Guojun Dong, Qilin Zhan, Canyang Li, Asao Fujiyama, Atsushi Toyoda, Tingting Lu, Qi Feng, Qian Qian, Jiayang Li, Bin Han
Xuehui Huang, Nori Kurata, Xinghua Wei, Zi-Xuan Wang, Ahong Wang, Qiang Zhao, Yan Zhao, Kunyan Liu, Hengyun Lu, Wenjun Li, Yunli Guo, Yiqi Lu, Congcong Zhou, Danlin Fan, Qijun Weng, Chuanrang Zhu, Tao Huang, Lei Zhang, Yongchun Wang, Lei Feng, Hiroyasu Furuumi, Takahiko Kubo, Toshie Miyabayashi, Xiaoping Yuan, Qun Xu, Guojun Dong, Qilin Zhan, Canyang Li, Asao Fujiyama, Atsushi Toyoda, Tingting Lu, Qi Feng, Qian Qian, Jiayang Li, Bin Han
Nature, 490, 497-501 (2012)</ref>。(かつては[[雲南省]]の[[遺跡]]から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺から[[インド]][[アッサム州]]周辺にかけての地域が発祥地とされていた<ref name="nig1110"/><ref>池橋宏、[https://doi.org/10.11248/jsta1957.47.322 イネはどこから来たか-水田稲作の起源-] 熱帯農業 2003年 47巻 5号 p.322-338, {{doi|10.11248/jsta1957.47.322}}</ref><ref>インドマニプール州の在来イネ品種における遺伝的多様性と亜種分化 Breeding science 46(2), 159-166, 1996-06, {{NAID|110001815365}}</ref>。)
Nature, 490, 497-501 (2012)</ref>。(かつては[[雲南省]]の[[遺跡]]から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺から[[インド]][[アッサム州]]周辺にかけての地域が発祥地とされていた<ref name="nig1110"/><ref>池橋宏、[https://doi.org/10.11248/jsta1957.47.322 イネはどこから来たか-水田稲作の起源-]」『熱帯農業 2003年 47巻 5号 p.322-338, {{doi|10.11248/jsta1957.47.322}}</ref><ref>インドマニプール州の在来イネ品種における遺伝的多様性と亜種分化 Breeding science 46(2), 159-166, 1996-06, {{NAID|110001815365}}</ref>。)


長江流域にある[[草鞋山遺跡]]の[[プラント・オパール]]分析によれば、約6000年前にその地では[[ジャポニカ米]]が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという<ref>王才林、宇田津徹朗、湯陵華、鄒江石 ほか、[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋山遺跡(6000年前 - 現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷] 育種学雑誌 1998年 48巻 4号 p.387-394, {{doi|10.1270/jsbbs1951.48.387}}, {{naid|110001807929}}</ref>。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、[[インディカ米]]の系統が生じたと考えられている<ref name="nig1110"/>。
長江流域にある[[草鞋山遺跡]]の[[プラント・オパール]]分析によれば、約6000年前にその地では[[ジャポニカ米]]が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという<ref>王才林、宇田津徹朗、湯陵華、鄒江石 ほか、[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋山遺跡(6000年前 - 現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷]」『育種学雑誌 1998年 48巻 4号 p.387-394, {{doi|10.1270/jsbbs1951.48.387}}, {{naid|110001807929}}</ref>。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、[[インディカ米]]の系統が生じたと考えられている<ref name="nig1110"/>。


=== 中国での伝播 ===
=== 中国での伝播 ===
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=== 日本への伝来 ===
=== 日本への伝来 ===
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前の[[プラント・オパール]]が見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。水田稲作に関しては約2600年前とされていたが近年の炭素14年代測定法により約3000年前(前10世紀後半頃)から開始されたと改められた([[菜畑遺跡]]、[[雀居遺跡]]等)。水田稲作の伝来経路としては『江南説(直接ルート)』『南方経由説』があり<ref>[https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0004/06.html お米が日本に入ってきたルートを教えてください。:農林水産省]農林水産省</ref><ref name="jbrewsocjapan1988.87.732">佐藤洋一郎、[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.87.732 日本のイネの伝播経路] 日本醸造協会誌 Vol.87 (1992) No.10 P.732-738, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1988.87.732}}</ref><ref name="池橋62">池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書</ref>、現在も議論が続いている。(後述)
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前の[[プラント・オパール]]が見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。水田稲作に関しては約2600年前とされていたが近年の炭素14年代測定法により約3000年前(前10世紀後半頃)から開始されたと改められた([[菜畑遺跡]]、[[雀居遺跡]]等)。水田稲作の伝来経路としては『江南説(直接ルート)』『南方経由説』があり<ref>[https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0004/06.html お米が日本に入ってきたルートを教えてください。:農林水産省]農林水産省</ref><ref name="jbrewsocjapan1988.87.732">佐藤洋一郎、[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.87.732 日本のイネの伝播経路]」『日本醸造協会誌 87巻 10号 1992 p.732-738, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1988.87.732}}</ref><ref name="池橋62">池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書</ref>、現在も議論が続いている。(後述)


なお、稲のプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている<ref>http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/2462/1/KJ00000697267.pdf</ref>。
なお、稲のプラント・オパールは20-60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっていると報告されている<ref>甲元眞之, 木下尚子, 蔵冨士寛, 新里亮人, 「[https://hdl.handle.net/2298/2462 九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討(平成14年度研究プロジェクト報告)]」『熊本大学社会文化研究』 1巻 p.72-74 2003年, {{issn|1348-530X}}</ref>。


=== 朝鮮半島への伝来 ===
=== 朝鮮半島への伝来 ===
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっており九州からの伝来と議論されている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している<ref>甲元眞之、「東アジアの先史農耕」青驪 No.5 2008-2-29 p.30-33, {{hdl|2298/22921}}</ref>。
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっており九州からの伝来と議論されている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している<ref>甲元眞之、「[https://hdl.handle.net/2298/22921 東アジアの先史農耕]青驪 No.5 2008-2-29 p.30-33, {{hdl|2298/22921}}</ref>。


=== 東南アジア、南アジアへの伝来 ===
=== 東南アジア、南アジアへの伝来 ===
[[東南アジア]]、[[南アジア]]へは紀元前2500年以降に広まった<ref>Fabio Silva , Chris J. Stevens, Alison Weisskopf, Cristina Castillo, Ling Qin, Andrew Bevan, Dorian Q. Fuller (2015) Modelling the Geographical Origin of Rice Cultivation in Asia Using the Rice Archaeological Database ; PLOS ONE, published: September 1, 2015, {{doi|10.1371/journal.pone.0137024}}</ref>。その担い手は[[オーストロネシア語族]]を話す[[ハプログループO-M95 (Y染色体)]]に属する人々と考えられる<ref>崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅 多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』(昭和堂 2008年)</ref>。
[[東南アジア]]、[[南アジア]]へは紀元前2500年以降に広まった<ref>Fabio Silva , Chris J. Stevens, Alison Weisskopf, Cristina Castillo, Ling Qin, Andrew Bevan, Dorian Q. Fuller (2015) Modelling the Geographical Origin of Rice Cultivation in Asia Using the Rice Archaeological Database ; PLOS ONE, published: September 1, 2015, {{doi|10.1371/journal.pone.0137024}}.</ref>。その担い手は[[オーストロネシア語族]]を話す[[ハプログループO-M95 (Y染色体)]]に属する人々と考えられる<ref>崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅 多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』(昭和堂 2008年)</ref>。


=== 西アジアへの伝来 ===
=== 西アジアへの伝来 ===
[[トルコ]]へは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、[[インド]]から[[ペルシャ]]を経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である<ref>大野盛雄、[https://doi.org/10.5356/jorient.35.97 現代から見た「米の道」-トルコの事例-] オリエント 1992年 35巻 1号 p.97-109, {{doi|10.5356/jorient.35.97}}</ref>。
[[トルコ]]へは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、[[インド]]から[[ペルシャ]]を経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である<ref>大野盛雄、[https://doi.org/10.5356/jorient.35.97 現代から見た「米の道」-トルコの事例-]」『オリエント 1992年 35巻 1号 p.97-109, {{doi|10.5356/jorient.35.97}}</ref>。


=== アフリカへの伝来 ===
=== アフリカへの伝来 ===
栽培史の解明は不十分とされているが、現在の[[アフリカ]]で栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ ''Oryza glaberrima'' )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ ''Oryza sativa'' )である<ref name="nettai.6.18">田中耕司[https://doi.org/10.11248/nettai.6.18 アフリカのイネ,その生物史とアジアとの交流の歴史] 熱帯農業研究 Vol.6 (2013) No.1 p.18-21</ref>。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカ[[マリ共和国]]の[[ニジェール川]]内陸[[三角州]]で栽培化され、周辺国の[[セネガル]]、[[ガンビア]]、[[ギニアビサウ]]の沿岸部、[[シエラレオネ]]へと拡散したとされている<ref>Olga F. Linares, [http://www.pnas.org/content/99/25/16360.full African rice (Oryza glaberrima): History and future potential] National Academy of Sciences. December 10, 2002 vol. 99 no. 25, 16360–16365, {{doi|10.1073/pnas.252604599}}</ref>。
栽培史の解明は不十分とされているが、現在の[[アフリカ]]で栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ ''Oryza glaberrima'' )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ ''Oryza sativa'' )である<ref name="nettai.6.18">田中耕司, 「[https://doi.org/10.11248/nettai.6.18 アフリカのイネ,その生物史とアジアとの交流の歴史]」『熱帯農業研究』 2013年 6 1 p.18-21, 日本熱帯農業学会, {{doi|10.11248/nettai.6.18}}</ref>。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカ[[マリ共和国]]の[[ニジェール川]]内陸[[三角州]]で栽培化され、周辺国の[[セネガル]]、[[ガンビア]]、[[ギニアビサウ]]の沿岸部、[[シエラレオネ]]へと拡散したとされている<ref>Olga F. Linares, "[https://doi.org/10.1073/pnas.252604599 African rice (''Oryza glaberrima''): History and future potential.]" National Academy of Sciences. December 10, 2002 vol.99 no.25, 16360–16365, {{doi|10.1073/pnas.252604599}}</ref>。


アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 ''O. barthii'' と多年生種 ''O. longistaminata'' などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。[[植民地]]支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった<ref name="nettai.6.18" />。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種[[ネリカ]]米が開発された<ref name="Jones">Jones MP ''et al.'' (2004). "[http://www.springerlink.com/content/x5r32103p28j7300/?p=2ffa5773c8894852986f85d5502280b6&pi=0 Interspecific Oryza Sativa L. x O. Glaberrima Steud. progenies in upland rice]". ''Euphytica'', '''94''': 237-246.</ref><ref name="NERICA_1">WARDA (2008) - [http://www.warda.org/publications/nerica-comp/Nerica%20Compedium.pdf NERICA:the New Rice for Africa – a Compendium. (PDF)] P.12-13</ref>。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は<ref name=jshwr.21.0.145.0>藤巻晴行、林詩音、佐藤政良、[https://doi.org/10.11520/jshwr.21.0.145.0 ネリカ米の耐乾性および耐塩性の評価] 水文・水資源学会研究発表会要旨集 第21回(2008年度)水文・水資源学会総会・研究発表会 セッションID:G-1, {{doi|10.11520/jshwr.21.0.145.0}}</ref>、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性劣っていると報告している<ref name=jshwr.21.0.145.0 />。
アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 ''O. barthii'' と多年生種 ''O. longistaminata'' などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。[[植民地]]支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった<ref name="nettai.6.18" />。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種[[ネリカ]]米が開発された<ref name="Jones">Jones MP ''et al.'' (2004). "[https://doi.org/10.1023/A:1002969932224 Interspecific Oryza Sativa L. x O. Glaberrima Steud. progenies in upland rice]". ''Euphytica'', '''94''': 237-246, {{doi|10.1023/A:1002969932224}}.</ref><ref name="NERICA_1">WARDA (2008) - [http://www.warda.org/publications/nerica-comp/Nerica%20Compedium.pdf NERICA:the New Rice for Africa – a Compendium. (PDF)] P.12-13</ref>。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は<ref name=jshwr.21.0.145.0>藤巻晴行、林詩音、佐藤政良、[https://doi.org/10.11520/jshwr.21.0.145.0 ネリカ米の耐乾性および耐塩性の評価]」『水文・水資源学会研究発表会要旨集 第21回(2008年度)水文・水資源学会総会・研究発表会 セッションID:G-1, {{doi|10.11520/jshwr.21.0.145.0}}</ref>、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性劣っていると報告している<ref name=jshwr.21.0.145.0 />。


[[ファイル:Campagne Riso Carpiano.jpg|サムネイル|イタリア、ミラノ近郊の水田]]
[[ファイル:Campagne Riso Carpiano.jpg|サムネイル|イタリア、ミラノ近郊の水田]]
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=== 縄文稲作の可能性 ===
=== 縄文稲作の可能性 ===
日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の[[枡形囲貝塚]]の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、[[1925年]]の[[山内清男]]の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが<ref>山内清男、[https://doi.org/10.1537/ase1911.40.181 石器時代にも稻あり] 『人類學雜誌』 1925年 40巻 5号 p.181-184, {{doi|10.1537/ase1911.40.181}}</ref>、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)14-15頁。</ref>。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。[[1988年]]には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の[[風張遺跡]]で、約2800年前と推定される米粒がみつかった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』15-18頁。</ref>。
日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の[[枡形囲貝塚]]の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、[[1925年]]の[[山内清男]]の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが<ref>山内清男、[https://doi.org/10.1537/ase1911.40.181 石器時代にも稻あり]『人類學雜誌』 1925年 40巻 5号 p.181-184, 日本人類学会, {{doi|10.1537/ase1911.40.181}}</ref>、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)14-15頁。</ref>。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。[[1988年]]には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の[[風張遺跡]]で、約2800年前と推定される米粒がみつかった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』15-18頁。</ref><ref>吉崎昌一, 「[https://doi.org/10.4116/jaqua.36.343 縄文時代の栽培植物]」『第四紀研究』 1997年 36巻 5号 p.343-346, {{doi|10.4116/jaqua.36.343}}。</ref>。


縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、[[縄文時代]]後期(約3500年前)に属する岡山県[[南溝手遺跡]]や同県[[津島岡大遺跡]]の[[土器]]胎土内から出た[[プラント・オパール]]である。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の[[土層 (考古学)|土層]]から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』126-129頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』26-27頁。</ref>。
縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、[[縄文時代]]後期(約3500年前)に属する岡山県[[南溝手遺跡]]や同県[[津島岡大遺跡]]の[[土器]]胎土内から出た[[プラント・オパール]]である。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の[[土層 (考古学)|土層]]から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』126-129頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』26-27頁。</ref>が、土器の年代に対し疑問が出され<ref name=那須2014>那須浩郎, 「[https://doi.org/10.15024/00000284 雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態)]」『国立歴史民俗博物館研究報告』 187巻 p.95-110 2014年, 国立歴史民俗博物館, {{issn|0286-7400}}, {{doi|10.15024/00000284}}。</ref>、多方面からの分析が必要と指摘されている<ref name=那須2014 />。


しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』17-18頁。</ref>、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる<ref name="SEI0002_037-040">甲元眞之稲作の伝来 青驪 2巻, 2005-7-15 p.37-40 {{hdl|2298/22905}}</ref>。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている<ref>中村俊夫、宇田津徹朗、田崎博之、外山秀一 ほか、[https://doi.org/10.18999/sumrua.24.123 プラント・オパール中の炭素抽出とその{{sub|14}}C 年代測定の試み] 名古屋大学加速器質量分析計業績報告書. v.24, 2013, p.123-132, {{hdl|2237/20152}}, {{naid|120005438138}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.123}}</ref><ref>宇田津徹朗(2013)、[https://doi.org/10.18999/sumrua.24.113 東アジアにおける水田稲作技術の成立と発達に関する研究 : その現状と課題(日本と中国のフィールド調査から)[[名古屋大学]]加速器質量分析計業績報告書]. v.24, 2013, p.113-122, {{hdl|2237/20151}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.113}}</ref>。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である<ref>那須浩郎、{{PDFlink|[https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/187004.pdf 「雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態」](『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集、2014年7月)、98頁。}}</ref>。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』18頁。</ref>。
しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』17-18頁。</ref>、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる<ref name="SEI0002_037-040">甲元眞之, 「[https://hdl.handle.net/2298/22905 稲作の伝来]」『青驪 2巻, 2005-7-15 p.37-40, {{hdl|2298/22905}}</ref>。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている<ref>中村俊夫、宇田津徹朗、田崎博之、外山秀一 ほか、[https://doi.org/10.18999/sumrua.24.123 プラント・オパール中の炭素抽出とその{{sub|14}}C 年代測定の試み]」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 v.24, 2013, p.123-132, {{hdl|2237/20152}}, {{naid|120005438138}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.123}}</ref><ref>宇田津徹朗(2013)、[https://doi.org/10.18999/sumrua.24.113 東アジアにおける水田稲作技術の成立と発達に関する研究 : その現状と課題(日本と中国のフィールド調査から)]」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 v.24, 2013, p.113-122, {{hdl|2237/20151}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.113}}</ref>。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である<ref name=那須2014 />。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』18頁。</ref>。


プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である<ref>外山秀一、[https://doi.org/10.4116/jaqua.33.317 プラントオパールからみた稲作農耕の開始と土地条件の変化] 『第四紀研究』 1994年 33巻 5号 p.317-32, {{doi|10.4116/jaqua.33.317}}</ref>。特に[[焼畑農業]]が注目されている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波書店、1998年)132-134頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)27-28頁、39-40頁。</ref>。縄文時代晩期の宮崎県[[桑田遺跡]]の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた<ref>宇田津徹朗、藤原宏志、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11087848?tocOpened=1 吉野ケ里遺跡および桑田遺跡出土試料におけるイネ(O.satiua)のプラント・オパール形状特性] 日本作物学会九州支部会報 (58), 70-72, 1991,{{naid|110001785880}}</ref>。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』132-133頁。</ref>。
プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である<ref>外山秀一、[https://doi.org/10.4116/jaqua.33.317 プラントオパールからみた稲作農耕の開始と土地条件の変化]『第四紀研究』 1994年 33巻 5号 p.317-32, {{doi|10.4116/jaqua.33.317}}</ref>。特に[[焼畑農業]]が注目されている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波書店、1998年)132-134頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)27-28頁、39-40頁。</ref>。縄文時代晩期の宮崎県[[桑田遺跡]]の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた<ref>宇田津徹朗、藤原宏志、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11087848?tocOpened=1 吉野ケ里遺跡および桑田遺跡出土試料におけるイネ(''O.satiua'')のプラント・オパール形状特性]」『日本作物学会九州支部会報 (58), 70-72, 1991,{{naid|110001785880}}</ref>。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』132-133頁。</ref>。


水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは[[宮崎県]][[上ノ原遺跡]]出土の資料からも類推されていた。栽培[[穀物]]は、[[イネ]]、[[オオムギ]]、[[アズキ]]、[[アワ]]であり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。
水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは[[宮崎県]][[上ノ原遺跡]]出土の資料からも類推されていた。栽培[[穀物]]は、[[イネ]]、[[オオムギ]]、[[アズキ]]、[[アワ]]であり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。
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=== 日本への伝来ルート ===
=== 日本への伝来ルート ===
==== 江南説(対馬暖流ルート) ====
==== 江南説(対馬暖流ルート) ====
農学者の[[安藤広太郎]]によって提唱された中国の[[長江]]下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説<ref>蔡鳳書、[http://id.nii.ac.jp/1368/00000682/ 「山東省の古代文化と日本弥生文化の源流 : 考古学資料を中心として」] 日本研究 25, 263-277, 2002-04, {{doi|10.15055/00000682}}</ref><ref>今西一、[https://hdl.handle.net/10252/5129 稲作文化と日本人-日本史雑記貼1-] 小樽商科大学 大学進学研究 6(2), 58-61, 1984-07, {{hdl|10252/5129}}, {{naid|120005255466}}</ref><ref>「稲の日本史」著:佐藤洋一郎 角川選書 2002/6 ISBN 978-4047033375, p99</ref>。
農学者の[[安藤広太郎]]によって提唱された中国の[[長江]]下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説<ref>蔡鳳書、[http://id.nii.ac.jp/1368/00000682/ 「山東省の古代文化と日本弥生文化の源流 : 考古学資料を中心として」] 日本研究 25, 263-277, 2002-04, {{doi|10.15055/00000682}}</ref><ref>今西一、[https://hdl.handle.net/10252/5129 稲作文化と日本人-日本史雑記貼1-] 小樽商科大学 大学進学研究 62 p.58-61, 1984-07, {{hdl|10252/5129}}, {{naid|120005255466}}</ref><ref>「稲の日本史」著:佐藤洋一郎 角川選書 2002/6 ISBN 978-4047033375, p99</ref>。


[[農林水産省]]は中国から直接伝来したという説が一番有力であるとしている<ref>[https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0004/06.html お米が日本に入ってきたルートを教えてください。:農林水産省]農林水産省</ref>。
[[農林水産省]]は中国から直接伝来したという説が一番有力であるとしている<ref>[https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0004/06.html お米が日本に入ってきたルートを教えてください。:農林水産省]農林水産省</ref>。


考古学の観点からは、[[八幡一郎]]が「稲作と弥生文化」(1982年)で「[[呉楚七国の乱]]の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており<ref>賀川光夫、[http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=dk03104 西日本の土偶出現期と土偶の祭式] [[別府大学]]紀要 (Memoirs of Beppu University). No.31 (1990. 1) ,p.1- 10</ref>、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。
考古学の観点からは、[[八幡一郎]]が「稲作と弥生文化」(1982年)で「[[呉楚七国の乱]]の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており<ref>賀川光夫、[http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=dk03104 西日本の土偶出現期と土偶の祭式] 別府大学紀要 No.31 (1990.1), p.1-10, 別府大学会, {{issn|02864983}}。</ref>、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。


本説は下記に述べる[[生化学]]分野からのアプローチからも支持されている。
本説は下記に述べる[[生化学]]分野からのアプローチからも支持されている。


2002年に農学者の[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲('''温帯ジャポニカ''')の[[マイクロサテライト|SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー]]領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類の[[DNA]]多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し<ref>「稲の日本史」著:佐藤洋一郎 角川選書 2002/6 ISBN 978-4047033375, P104〜p106</ref>、日本育種学会の[[追試]]で再現が確認された<ref>平野 智之、飛奈 宏幸、佐藤 洋一郎、『日中韓の水稲品種のマイクロサテライト多型』 育種学研究 Breeding research 2(2), 233, 2000-09-25, {{NAID|10006112180}}</ref><ref>大越昌子、胡景杰、石川隆二、藤村達人、「[https://doi.org/10.1270/jsbbr.6.125 マイクロサテライトマーカーを用いた日本の在来イネの分類]」育種学研究 Vol.6 (2004) No.3 P.125-133, {{DOI|10.1270/jsbbr.6.125}}, p126</ref>。
2002年に農学者の[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲('''温帯ジャポニカ''')の[[マイクロサテライト|SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー]]領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類の[[DNA]]多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し<ref>「稲の日本史」著:佐藤洋一郎 角川選書 2002/6 ISBN 978-4047033375, P104〜p106</ref>、日本育種学会の[[追試]]で再現が確認された<ref>平野 智之、飛奈 宏幸、佐藤 洋一郎、『日中韓の水稲品種のマイクロサテライト多型』 育種学研究 Breeding research 2(2), 233, 2000-09-25, {{NAID|10006112180}}</ref><ref>大越昌子、胡景杰、石川隆二、藤村達人、「[https://doi.org/10.1270/jsbbr.6.125 マイクロサテライトマーカーを用いた日本の在来イネの分類]」育種学研究 Vol.6 (2004) No.3 p.125-133, {{DOI|10.1270/jsbbr.6.125}}, p.126</ref>。


さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文として[[ネイチャー ジェネティクス]]に発表している<ref name="nias.h20.Shomura">井澤毅、正村純彦、小西左江子、江花薫子、矢野昌裕、{{PDFlink|[http://www.nias.affrc.go.jp/seika/nias/h20/h20pdf.pdf コメの粒幅を大きくしたDNA変異の同定とイネ栽培化における役割の解明 (平成20年度の主な研究成果)] 農業生物試験研究所}}</ref><ref>Ayahiko Shomura, Takeshi Izawa, Kaworu Ebana, Takeshi Ebitani, Hiromi Kanegae, Saeko Konishi & Masahiro Yano, [http://www.nature.com/ng/journal/v40/n8/full/ng.169.html Deletion in a gene associated with grain size increased yields during rice domestication.] Nature Genetics 40, 1023 - 1028 (2008)Published online: 6 July 2008 ,{{DOI|10.1038/ng.169}}</ref>。
さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文として[[ネイチャー ジェネティクス]]に発表している<ref name="nias.h20.Shomura">井澤毅、正村純彦、小西左江子、江花薫子、矢野昌裕、{{PDFlink|[http://www.nias.affrc.go.jp/seika/nias/h20/h20pdf.pdf コメの粒幅を大きくしたDNA変異の同定とイネ栽培化における役割の解明 (平成20年度の主な研究成果)] 農業生物試験研究所}}</ref><ref>Ayahiko Shomura, Takeshi Izawa, Kaworu Ebana, Takeshi Ebitani, Hiromi Kanegae, Saeko Konishi & Masahiro Yano, [http://www.nature.com/ng/journal/v40/n8/full/ng.169.html Deletion in a gene associated with grain size increased yields during rice domestication.] Nature Genetics 40, 1023 - 1028 (2008)Published online: 6 July 2008 ,{{DOI|10.1038/ng.169}}</ref>。


==== 南方経由説(黒潮ルート) ====
==== 南方経由説(黒潮ルート) ====
[[柳田國男]]の最後の著書「海上の道<ref>『海上の道』 著:柳田國男 岩波文庫 1978/10 ISBN 978-4003313862</ref>」で提唱した中国の[[長江]]下流域からの[[南西諸島]]を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。[[石田英一郎]]、[[可児弘明]]、[[安田喜憲]]、[[梅原猛]]などの民俗学者に支持され<ref>佐々木高明、[https://doi.org/10.15021/00003911 戦後の日本民族文化起源論―その回顧と展望―] 国立民族学博物館研究報告 34(2): p.211–228 (2009), {{doi|10.15021/00003911}}</ref><ref>『森の思想が人類を救う』 著:梅原猛 小学館 (1995/03), ISBN 978-4094600704, p178</ref>。[[佐々木高明]]が提唱した[[照葉樹林文化論]]も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。<ref>「南からの日本文化」(上・下)佐々木 高明</ref>
[[柳田國男]]の最後の著書「海上の道<ref>『海上の道』 著:柳田國男 岩波文庫 1978/10 ISBN 978-4003313862</ref>」で提唱した中国の[[長江]]下流域からの[[南西諸島]]を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。[[石田英一郎]]、[[可児弘明]]、[[安田喜憲]]、[[梅原猛]]などの民俗学者に支持され<ref>佐々木高明、[https://doi.org/10.15021/00003911 戦後の日本民族文化起源論―その回顧と展望―]」『国立民族学博物館研究報告 34(2): p.211–228 (2009), {{doi|10.15021/00003911}}</ref><ref>『森の思想が人類を救う』 著:梅原猛 小学館 (1995/03), ISBN 978-4094600704, p178</ref>。[[佐々木高明]]が提唱した[[照葉樹林文化論]]も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。<ref>「南からの日本文化」(上・下)佐々木 高明</ref>


[[北里大学]]の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称される[[ALDH2]](2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161221/dde/018/040/023000c 「歴史の鍵穴 酒に弱い人の遺伝子 中国南部から伝来か=専門編集委員・佐々木泰造」] 毎日新聞 2016年12月21日</ref>
[[北里大学]]の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称される[[ALDH2]](2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161221/dde/018/040/023000c 「歴史の鍵穴 酒に弱い人の遺伝子 中国南部から伝来か=専門編集委員・佐々木泰造」] 毎日新聞 2016年12月21日</ref>
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*[[佐原真]]は[[弥生]]稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、[[佐藤洋一郎]]{{要曖昧さ回避|date=2020年2月}}らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている<ref>佐原真『古代を考える稲・金属・戦争』p5-p6</ref>。
*[[佐原真]]は[[弥生]]稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、[[佐藤洋一郎]]{{要曖昧さ回避|date=2020年2月}}らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている<ref>佐原真『古代を考える稲・金属・戦争』p5-p6</ref>。
*[[趙法鐘]]は、[[弥生]]早期の稲作は[[松菊里]]文化に由来し「水稲農耕、[[灌漑]]農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」朝鮮半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は朝鮮半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている<ref>趙法鐘ྂ『古代韓日関係の成立 -弥生文化の主体研究についての検討』p55、[http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/1-03j.pdf]</ref>。
*[[趙法鐘]]は、[[弥生]]早期の稲作は[[松菊里]]文化に由来し「水稲農耕、[[灌漑]]農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」朝鮮半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は朝鮮半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている<ref>趙法鐘ྂ『古代韓日関係の成立 -弥生文化の主体研究についての検討』p55、[http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/1-03j.pdf]{{リンク切れ|date=2020年5月}}</ref>。
*[[池橋宏]]は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており<ref name="池橋62" />、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている<ref name="池橋62" />。
*[[池橋宏]]は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており<ref name="池橋62" />、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている<ref name="池橋62" />。
* しかしこれについて[[広瀬和雄]]は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて』p169</ref>
* しかしこれについて[[広瀬和雄]]は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて』 2007, ISBN 978-4311300677, p.169</ref>
*[[藤尾慎一郎]]は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている<ref>藤尾慎一郎『<新>弥生時代 500年早かった水田稲作』p34</ref>。
*[[藤尾慎一郎]]は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている<ref>藤尾慎一郎『<新>弥生時代 500年早かった水田稲作』p34</ref>。
*[[宝賀寿男]]は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と述べ、稲作開始時期の繰り上げと炭素年代測定や年輪年代測定の数値と検証方法に疑問を呈している。即ち殷は[[鳥]]・敬天信仰などの習俗から、もともと[[東夷]]系の種族([[天孫族]]と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる[[百越]]系([[海神族]]の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる<ref>宝賀寿男「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/yayoisaikou1.htm 歴博発表の弥生時代開始時期について]」『古樹紀之房間』、2011年。</ref>。
*[[宝賀寿男]]は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と述べ、稲作開始時期の繰り上げと炭素年代測定や年輪年代測定の数値と検証方法に疑問を呈している。即ち殷は[[鳥]]・敬天信仰などの習俗から、もともと[[東夷]]系の種族([[天孫族]]と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる[[百越]]系([[海神族]]の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる<ref>宝賀寿男「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/yayoisaikou1.htm 歴博発表の弥生時代開始時期について]」『古樹紀之房間』、2011年。</ref>。
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*[[分子人類学]]者の[[崎谷満]]も、[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に[[水稲]]をもたらしたとしていた<ref>『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。中世の稲作古代の稲作
*[[分子人類学]]者の[[崎谷満]]も、[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に[[水稲]]をもたらしたとしていた<ref>『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。中世の稲作古代の稲作


[[File:Nakanishi Site (Gose) in 2019-2.jpg|thumb|250px|right|{{center|[[弥生時代]]前期の[[小区画水田]]の例}}{{small|中西遺跡([[奈良県]][[御所市]])2019年発掘調査時。}}]]
[[File:Nakanishi Site (Gose) in 2019-2.jpg|thumb|250px|right|{{center|[[弥生時代]]前期の[[小区画水田]]の例}}{{small|中西遺跡(奈良県[[御所市]])2019年発掘調査時。}}]]
青森県の[[砂沢遺跡]]から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている<ref name="jbrewsocjapan1988.87.732" /><ref>公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構 [http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html]</ref>。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、[[茨田堤]]などの[[灌漑]]用の[[ため池]]が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの[[畦畔]]に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の[[小区画水田]]と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった<ref>若狭 2013 pp.68~71</ref>。[[大和朝廷]]は日本を「[[葦原中国|豊葦原の瑞穂の国]](神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。
青森県の[[砂沢遺跡]]から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている<ref name="jbrewsocjapan1988.87.732" /><ref>公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構 [http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html]</ref>。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、[[茨田堤]]などの[[灌漑]]用の[[ため池]]が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの[[畦畔]]に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の[[小区画水田]]と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった<ref>若狭 2013 pp.68~71</ref>。[[大和朝廷]]は日本を「[[葦原中国|豊葦原の瑞穂の国]](神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。


[[律令制|律令体制]]導入以降の朝廷は、水田を[[条里制]]によって区画化し、国民に一定面積の水田を[[口分田]]として割りあて、収穫を納税させる[[班田収授制]]を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の[[地租改正]]にいたるまで日本の租税の基軸となった。[[稲作儀礼]]も朝廷による「[[新嘗祭]]」「[[大嘗祭]]」などが平安時代には整えられ、民間でも[[田楽]]などが行われるようになった。[[大分県]]の[[田染荘]]は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。
[[律令制|律令体制]]導入以降の朝廷は、水田を[[条里制]]によって区画化し、国民に一定面積の水田を[[口分田]]として割りあて、収穫を納税させる[[班田収授制]]を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の[[地租改正]]にいたるまで日本の租税の基軸となった。[[稲作儀礼]]も朝廷による「[[新嘗祭]]」「[[大嘗祭]]」などが平安時代には整えられ、民間でも[[田楽]]などが行われるようになった。大分県の[[田染荘]]は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。


鎌倉時代になると西日本を中心に[[牛馬耕]]が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、東日本を中心に水田に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦二毛作が行われるようになった。室町時代には、日照りに強く降水量の少ない土地でも良く育つ[[占城稲]]が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、大名たちは新田開発のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。[[武田信玄]]によって築かれた山梨県釜無川の[[信玄堤]]は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため[[検地]]も行われた。天下を掌握した豊臣秀吉が全国に対して行った[[太閤検地]]によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す[[石高制]]が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視されていた。
鎌倉時代になると西日本を中心に[[牛馬耕]]が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、東日本を中心に水田に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦二毛作が行われるようになった。室町時代には、日照りに強く降水量の少ない土地でも良く育つ[[占城稲]]が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、大名たちは新田開発のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。[[武田信玄]]によって築かれた山梨県釜無川の[[信玄堤]]は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため[[検地]]も行われた。天下を掌握した豊臣秀吉が全国に対して行った[[太閤検地]]によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す[[石高制]]が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視されていた。
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品種改良は当初[[耐寒性]]の向上や収量増を重点に行われた。近代的育種手法で育成されたイネのさきがけである[[陸羽132号]]は耐寒性が強く多収量品種であったことから、[[昭和農業恐慌|昭和初期の大冷害]]の救世主となり、その子品種である[[水稲農林1号]]は第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に大きく貢献した。特筆すべきは陸羽132号、農林1号は食味に優れた品種でもあったことで、その系統を引く[[コシヒカリ]]など冷涼地向きの良食味品種が普及することにより、日本の稲作地帯の中心も新潟県、東北地方北部、そして北海道へと徐々に北方に移っていき、日本の稲作地図を塗り替えることになった。
品種改良は当初[[耐寒性]]の向上や収量増を重点に行われた。近代的育種手法で育成されたイネのさきがけである[[陸羽132号]]は耐寒性が強く多収量品種であったことから、[[昭和農業恐慌|昭和初期の大冷害]]の救世主となり、その子品種である[[水稲農林1号]]は第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に大きく貢献した。特筆すべきは陸羽132号、農林1号は食味に優れた品種でもあったことで、その系統を引く[[コシヒカリ]]など冷涼地向きの良食味品種が普及することにより、日本の稲作地帯の中心も新潟県、東北地方北部、そして北海道へと徐々に北方に移っていき、日本の稲作地図を塗り替えることになった。


「米余り」となった1970年以降、稲の品種改良においては、従来重点をおかれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点をおかれるようになった。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクト[[スーパーライス計画]]が行われ、[[ミルキークイーン]]などの低アミロース米が開発された<ref>スーパーライス計画の背景と展望 [http://www.naro.affrc.go.jp/org/tarc/to-noken/DB/DATA/e03/e03-005.pdf]</ref>。
「米余り」となった1970年以降、稲の品種改良においては、従来重点をおかれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点をおかれるようになった。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクト[[スーパーライス計画]]が行われ、[[ミルキークイーン]]などの低アミロース米が開発された<ref>春原嘉弘, 「{{PDFlink|[http://www.naro.affrc.go.jp/org/tarc/to-noken/DB/DATA/e03/e03-005.pdf スーパーライス計画の背景と展望]}}」『東北農業研究』 別号 3 p.5-13 1990年(平成2年)12月</ref>。


近年は[[西日本]]を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている<ref>[https://www.ondanka-net.jp/index.php?category=measure&view=detail&article_id=71 農業温暖化ネット/水稲の登熟不良(白未熟粒、充実不足の発生)]</ref>。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。
近年は[[西日本]]を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている<ref>[https://www.ondanka-net.jp/index.php?category=measure&view=detail&article_id=71 農業温暖化ネット/水稲の登熟不良(白未熟粒、充実不足の発生)]</ref>。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。
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[[ファイル:Ine karita.jpg|250px|thumb|(秋)刈田と稲の天日干し(稲架掛け)]]
[[ファイル:Ine karita.jpg|250px|thumb|(秋)刈田と稲の天日干し(稲架掛け)]]
=== 古くからの伝統的な方法 ===
=== 古くからの伝統的な方法 ===
# [[]]の土を砕いて[[緑肥]]などを鋤き込む([[田起こし]])。
# 田の土を砕いて[[緑肥]]などを鋤き込む([[田起こし]])。
# [[圃場]]に水を入れさらに細かく砕き田植えに備える([[代掻き]])。
# [[圃場]]に水を入れさらに細かく砕き田植えに備える([[代掻き]])。
# 苗代(なわしろ/なえしろ)に稲の種・[[種籾]](たねもみ)をまき、[[種子|発芽]]させる([[籾撒き]])。
# 苗代(なわしろ/なえしろ)に稲の種・[[種籾]](たねもみ)をまき、[[種子|発芽]]させる([[籾撒き]])。
# 苗代にてある程度育った稲を本田(圃場)に移植する(田植え)。※明治期以降は田植縄や田植枠(田植定規)などによって整然と植え付けがなされるようになった。
# 苗代にてある程度育った稲を本田(圃場)に移植する(田植え)。※明治期以降は田植縄や田植枠(田植定規)などによって整然と植え付けがなされるようになった。
# 定期的な[[雑草]]取り、[[肥料]]散布等を行う。
# 定期的な[[雑草]]取り、肥料散布等を行う。
# 稲が実ったら刈り取る([[稲刈り]])。
# 稲が実ったら刈り取る([[稲刈り]])。
# [[稲木]]で[[天日干し]]にし[[乾燥]]させる。※稲架(馳)を使用したハセ掛け、棒杭を使用したホニオ掛けなど
# [[稲木]]で[[天日干し]]にし乾燥させる。※稲架(馳)を使用したハセ掛け、棒杭を使用したホニオ掛けなど
# [[脱穀]]を行う([[籾]]=もみにする)。
# [[脱穀]]を行う([[籾]]=もみにする)。
# [[籾摺り]](もみすり)を行う([[玄米]]にする)。
# [[籾摺り]](もみすり)を行う([[玄米]]にする)。
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# 圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
# 圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
# 育った苗を、[[田植機]](手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。
# 育った苗を、[[田植機]](手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。
# 定期的な[[雑草]]取り、[[農薬]]散布、[[肥料]]散布等を行う(専用の[[農業機械]]を使う)。
# 定期的な[[雑草]]取り、[[農薬]]散布、肥料散布等を行う(専用の[[農業機械]]を使う)。
# 稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行う[[コンバインハーベスター|コンバイン]]で刈り取る。
# 稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行う[[コンバインハーベスター|コンバイン]]で刈り取る。
# 通風型の[[穀物乾燥機|乾燥機]]で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。
# 通風型の[[穀物乾燥機|乾燥機]]で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。
# [[籾すり機]]で籾すりを行う([[玄米]])。
# [[籾すり機]]で籾すりを行う(玄米)。
# [[精米機]]にかける([[白米]])。
# 精米機にかける(白米)。
* 上記方法が標準方法というわけではない。その中でも栽培に関しては、さまざまな方法がみられる。特に、1,2で述べられている育苗の方法は、地域や播種時期、品種、農家の育苗思想・主義などからきわめて多様である。
* 上記方法が標準方法というわけではない。その中でも栽培に関しては、さまざまな方法がみられる。特に、1,2で述べられている育苗の方法は、地域や播種時期、品種、農家の育苗思想・主義などからきわめて多様である。
* 稲作には従来より[[除草剤]]を使用してきた。近年{{いつ|date=2012年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の[[無農薬]]栽培法では除草剤を使用しないことがあるので、[[ノビエ]]など[[イネ科]]の雑草を手作業で除草しなくてはならなくなることがある。
* 稲作には従来より[[除草剤]]を使用してきた。近年{{いつ|date=2012年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の[[無農薬]]栽培法では除草剤を使用しないことがあるので、[[ノビエ]]など[[イネ科]]の雑草を手作業で除草しなくてはならなくなることがある。
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|5/7
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|[[除草剤]]振り1回目。田植え後1週間以内に実施。
|除草剤振り1回目。田植え後1週間以内に実施。
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{{Main|不耕起栽培}}
{{Main|不耕起栽培}}
省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である<ref>中山秀貴、
省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である<ref>中山秀貴、
佐藤紀男、[http://ci.nii.ac.jp/naid/80015345064/ 水稲無代かき栽培による生育収量と土壌理化学性の改善] 東北農業研究 (54), 51-52, 2001-12, {{NAID|80015345064}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.applenet.jp/~gosyo-aec/Kanden_M.pdf 西北地域 水稲乾田直播栽培マニュアル 平成21年3月] 青森県 西北地域県民局 地域農林水産部普及指導室}}</ref>。
佐藤紀男、[https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010672761 水稲無代かき栽培による生育収量と土壌理化学性の改善]」『東北農業研究 54 p.51-52, 2001-12, {{NAID|80015345064}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.applenet.jp/~gosyo-aec/Kanden_M.pdf 西北地域 水稲乾田直播栽培マニュアル 平成21年3月] 青森県 西北地域県民局 地域農林水産部普及指導室}}</ref>。


==== 冬季代かきによる方法例 ====
==== 冬季代かきによる方法例 ====
<ref>濱田千裕、中嶋泰則 ほか、[https://doi.org/10.1626/jcs.76.508 水稲における不耕起V溝直播栽培の開発 -「冬季代かき」による栽培の安定化] 日本作物学会紀事 2007年 76巻 4号 p.508-518, {{doi|10.1626/jcs.76.508}}</ref>生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。
<ref>濱田千裕、中嶋泰則 ほか、[https://doi.org/10.1626/jcs.76.508 水稲における不耕起V溝直播栽培の開発 -「冬季代かき」による栽培の安定化]」『日本作物学会紀事 2007年 76巻 4号 p.508-518, 日本作物学会, {{doi|10.1626/jcs.76.508}}</ref>生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。
# 12月 - 翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。
# 12月 - 翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。
# 圃場が固くなってから、溝に直接[[肥料]]と種籾を播く。
# 圃場が固くなってから、溝に直接[[肥料]]と種籾を播く。
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稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の[[食文化]]、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。
稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の[[食文化]]、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。


農耕技術では稲作のための[[農具]]や収穫具、[[動物]]を用いた[[畜力]]利用や、水田の形態、田植えや[[施肥]]などの栽培技術、虫追いや鳥追い、[[カカシ]]など鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとの[[藁]]は様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では[[粥]]や[[強飯]]、[[餅]]や[[ちまき]]など多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの[[貯蔵]]法や、[[醸造]]して[[酒]]にするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、[[日本]]の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、[[田遊び]]・[[田植]]・[[田植踊]]・[[御田祭]]・[[御田植]]・[[御田舞]]等、[[豊作]]を祈るための多くの[[予祝儀式]]・[[収穫祭]]・[[民俗芸能]]が[[伝承]]されている。
農耕技術では稲作のための[[農具]]や収穫具、[[動物]]を用いた[[畜力]]利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、[[カカシ]]など鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとの[[藁]]は様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では[[粥]]や[[強飯]]、[[餅]]や[[ちまき]]など多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの[[貯蔵]]法や、[[醸造]]して[[酒]]にするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、[[日本]]の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、[[田遊び]]・田植・[[田植踊]]・[[御田祭]]・[[御田植]]・[[御田舞]]等、[[豊作]]を祈るための多くの[[予祝儀式]]・[[収穫祭]]・[[民俗芸能]]が[[伝承]]されている。


[[宮中祭祀]]においても[[天皇]]が[[皇居]]の[[御田]]で収穫された[[稲穂]]を[[天照大神]](アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する[[新嘗祭]]がおこなわれている。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。
[[宮中祭祀]]においても[[天皇]]が[[皇居]]の[[御田]]で収穫された[[稲穂]]を[[天照大神]](アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する[[新嘗祭]]がおこなわれている。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。
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<!--=== 弥生草創期、縄文晩期における、考古学・民俗学・遺伝学における事実 ===
<!--=== 弥生草創期、縄文晩期における、考古学・民俗学・遺伝学における事実 ===
{{出典の明記|date=2019年9月|section=1}}
{{出典の明記|date=2019年9月|section=1}}
===== 考古学 =====
===== 考古学 =====
====== 農耕具加工 抉入片刃石斧 ======
====== 農耕具加工 抉入片刃石斧 ======
縄文時代、稲の遺物であるプラントオパールはBC4500年ころから数多く見つかっている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』、佐藤洋一郎『稲の日本史』</ref>。しかし、稲作の道具は、焼き畑をする南方の人が使うこん棒の様な穴掘り器具だけで、それ以外の水田稲作の農具は、縄文時代には存在していない<ref>プラントオパールや道具は、佐藤洋一郎「稲の日本史」など、縄文の本にはほとんどすべて書いてある</ref>。そして、弥生時代、稲作の完成された農耕具が多数発見された。この農具は、大陸と半島で共通し、どちらから来たとも言えない。
縄文時代、稲の遺物であるプラントオパールはBC4500年ころから数多く見つかっている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』、佐藤洋一郎『稲の日本史』</ref>。しかし、稲作の道具は、焼き畑をする南方の人が使うこん棒の様な穴掘り器具だけで、それ以外の水田稲作の農具は、縄文時代には存在していない<ref>プラントオパールや道具は、佐藤洋一郎「稲の日本史」など、縄文の本にはほとんどすべて書いてある</ref>。そして、弥生時代、稲作の完成された農耕具が多数発見された。この農具は、大陸と半島で共通し、どちらから来たとも言えない。


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*抉入片刃石斧は半島独自で、他の日本の弥生時代の多くの農具は、大陸と半島で共通している。この抉り入りが、農具が半島から来た決定的な証拠とされる。
*抉入片刃石斧は半島独自で、他の日本の弥生時代の多くの農具は、大陸と半島で共通している。この抉り入りが、農具が半島から来た決定的な証拠とされる。
*ただし、石器のほぼ半数は、打製で縄文時代からの石器を使っている。半島や大陸からの石器は磨製石器である。抉り入りは、磨製石器の一つである。
*ただし、石器のほぼ半数は、打製で縄文時代からの石器を使っている。半島や大陸からの石器は磨製石器である。抉り入りは、磨製石器の一つである。
====== 支石墓と甕棺 ======
====== 支石墓と甕棺 ======
また、九州の北西部には、半島に固有の支石墓が見つかっている。しかし、一つの問題は、九州の北西部において、初期の支石墓では、水田稲作の跡が全くないことである<ref>もみ殻が出るのは、他の縄文時代と同じで、水田が無い。</ref>。要するに、水田の無い支石墓でしかない<ref>九州や半島南部での遠洋漁業者の交流で、支石墓が造られたという意見もある。</ref>。そして、支石墓と菜畑の関係は次である。
また、九州の北西部には、半島に固有の支石墓が見つかっている。しかし、一つの問題は、九州の北西部において、初期の支石墓では、水田稲作の跡が全くないことである<ref>もみ殻が出るのは、他の縄文時代と同じで、水田が無い。</ref>。要するに、水田の無い支石墓でしかない<ref>九州や半島南部での遠洋漁業者の交流で、支石墓が造られたという意見もある。</ref>。そして、支石墓と菜畑の関係は次である。
*菜畑は支石墓の地域である。しかし、菜畑遺跡の墓という証拠はない。むしろ菜畑遺跡で発見された墓は土壙墓・甕棺墓で伝統的な日本の墓である。<ref>甕棺の一般は、藤尾 慎一郎「九州の甕棺-弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」</ref>
*菜畑は支石墓の地域である。しかし、菜畑遺跡の墓という証拠はない。むしろ菜畑遺跡で発見された墓は土壙墓・甕棺墓で伝統的な日本の墓である。<ref>甕棺の一般は、藤尾 慎一郎「九州の甕棺-弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」</ref>
*初期の支石墓は水田が伴わず、逆に、最初の水田を持つ菜畑遺跡など初期の遺跡には、支石墓がない。
*初期の支石墓は水田が伴わず、逆に、最初の水田を持つ菜畑遺跡など初期の遺跡には、支石墓がない。


甕棺に関してさらに次がある。北九州西部の支石墓には、甕棺が収められ、甕棺の内部に死者が埋葬されている<ref>藤尾 慎一郎 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」、橋口 達也「甕棺と弥生時代年代論」2005など、多くの考古学関連の書籍にみられる</ref>。この甕棺が問題なのである。
甕棺に関してさらに次がある。北九州西部の支石墓には、甕棺が収められ、甕棺の内部に死者が埋葬されている<ref>藤尾 慎一郎 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」、橋口 達也「甕棺と弥生時代年代論」2005など、多くの考古学関連の書籍にみられる</ref>。この甕棺が問題なのである。
甕棺は九州北部の埋葬の様式で、この時代には半島には甕棺の埋葬がない<ref>従って、支石墓の主が半島からの移住者かどうか解らないのだ。</ref>。そして、注意すべきは、墓の様式は、民俗文化に固有である。
甕棺は九州北部の埋葬の様式で、この時代には半島には甕棺の埋葬がない<ref>従って、支石墓の主が半島からの移住者かどうか解らないのだ。</ref>。そして、注意すべきは、墓の様式は、民俗文化に固有である。


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墓が集団固有の習俗であることは、例えば次である。半島南部の狗奴韓国のあたりでは、墓の形式が激変し、北方の高句麗系の墓に変わった。これをもって、支配層が入れ替わったとされる。その根拠は、墓は文化集団、すなわち、人に固有なことが理由として説明されている。従って、
墓が集団固有の習俗であることは、例えば次である。半島南部の狗奴韓国のあたりでは、墓の形式が激変し、北方の高句麗系の墓に変わった。これをもって、支配層が入れ替わったとされる。その根拠は、墓は文化集団、すなわち、人に固有なことが理由として説明されている。従って、
*この半島と日本の墓の形式が混じっている状態からは、移住者が半島由来か、日本の古代人が墓の様式を借りたか、判別できない<ref>文化借用以外に、男だけが来て日本の女と結婚し、文化が混合した。</ref><ref>支石墓と、甕棺などの混合形式の墓のありかたは、多くの書籍にあるが、例えば、次がある。藤尾 慎一郎 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」、橋口 達也「甕棺と弥生時代年代論」2005など。九州北西部の支石墓に触れた書籍で、甕棺などにふれないものは、純粋の考古学の書籍では、無いだろう。</ref>。
*この半島と日本の墓の形式が混じっている状態からは、移住者が半島由来か、日本の古代人が墓の様式を借りたか、判別できない<ref>文化借用以外に、男だけが来て日本の女と結婚し、文化が混合した。</ref><ref>支石墓と、甕棺などの混合形式の墓のありかたは、多くの書籍にあるが、例えば、次がある。藤尾 慎一郎 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」、橋口 達也「甕棺と弥生時代年代論」2005など。九州北西部の支石墓に触れた書籍で、甕棺などにふれないものは、純粋の考古学の書籍では、無いだろう。</ref>。


===== 考古学、水田 =====
===== 考古学、水田 =====
さらに、重大な問題がある。水田稲作が見いだされた菜畑などの九州北部の環濠集落の年代は、炭素同位元素法によれば、半島南部の水田遺構の年代より100年、古いことである<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、 2011、など炭素14を使う考古学関連の本には必ず記載あり</ref>。
さらに、重大な問題がある。水田稲作が見いだされた菜畑などの九州北部の環濠集落の年代は、炭素同位元素法によれば、半島南部の水田遺構の年代より100年、古いことである<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、2011、など炭素14を使う考古学関連の本には必ず記載あり</ref>。
日本の方が100年古い。この事実は重い。従って、遺跡からは半島から日本に水田が伝わったとは現状では言えない。そして、これら水田が発見されて、もう何十年にもなり、爆発的に遺跡の発掘がなされた<ref>韓国考古学会編「概説 韓国考古学」2013</ref>。しかし、多くの発掘にもかかわらず、半島南部でも日本の北九州でも、これより古い水田遺構を持つ遺跡はいまだに発見されていない。このことを中心に半島での農業を見てみよう。
日本の方が100年古い。この事実は重い。従って、遺跡からは半島から日本に水田が伝わったとは現状では言えない。そして、これら水田が発見されて、もう何十年にもなり、爆発的に遺跡の発掘がなされた<ref>韓国考古学会編「概説 韓国考古学」2013</ref>。しかし、多くの発掘にもかかわらず、半島南部でも日本の北九州でも、これより古い水田遺構を持つ遺跡はいまだに発見されていない。このことを中心に半島での農業を見てみよう。
*半島南部においてここ数十年にわたる大量の発掘でも、より古い水田の跡はひとつも発見されていない。菜畑に100年遅い状態を覆す遺跡はない、発見されていない。
*半島南部においてここ数十年にわたる大量の発掘でも、より古い水田の跡はひとつも発見されていない。菜畑に100年遅い状態を覆す遺跡はない、発見されていない。
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したがって、半島北部の稲の遺物は、陸稲の系統であり、水田ではない<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕」青驪 No.5、早乙女 雅博「朝鮮半島の考古学」2000、韓国考古学会「概説 韓国考古学」2013</ref>。根本的に異なる農業体系である。水を入れ、冠水する技術を見ても違いが分かる<ref>農学での常識であるし、素人でもわかる。例えば、「世界農業史」</ref>。これが肝要である。こうして見ると、半島中部での畑作での稲作(陸稲)が、日本の水田稲作に影響したとは考えにくい。ほぼ不可能だろう。
したがって、半島北部の稲の遺物は、陸稲の系統であり、水田ではない<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕」青驪 No.5、早乙女 雅博「朝鮮半島の考古学」2000、韓国考古学会「概説 韓国考古学」2013</ref>。根本的に異なる農業体系である。水を入れ、冠水する技術を見ても違いが分かる<ref>農学での常識であるし、素人でもわかる。例えば、「世界農業史」</ref>。これが肝要である。こうして見ると、半島中部での畑作での稲作(陸稲)が、日本の水田稲作に影響したとは考えにくい。ほぼ不可能だろう。


では半島南部での遺跡はどうなのだろう。南部での遺跡はさらに大きな問題がある。問題は、日本に水田を伝えたという半島南部の水田跡の年代が、北九州の遺跡の年代より100年若く、新しい事である<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、 2011</ref>。半島から九州に水田農業が伝わったことを示す遺跡はひとつもない<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、 2011</ref>。
では半島南部での遺跡はどうなのだろう。南部での遺跡はさらに大きな問題がある。問題は、日本に水田を伝えたという半島南部の水田跡の年代が、北九州の遺跡の年代より100年若く、新しい事である<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、2011</ref>。半島から九州に水田農業が伝わったことを示す遺跡はひとつもない<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、2011</ref>。
*要するに、日本の水田遺構が、半島より100年古い。半島の水田遺跡が日本より100年新しい。これが考古学での現状である。
*要するに、日本の水田遺構が、半島より100年古い。半島の水田遺跡が日本より100年新しい。これが考古学での現状である。


322行目: 322行目:
繰り返す。こうしてみれば、半島から水田稲作が九州に伝わったと言う決定的な、遺跡上の証拠はない。<ref>さらに、半島南部の水田は畑ではないかと言う意見まである。</ref>
繰り返す。こうしてみれば、半島から水田稲作が九州に伝わったと言う決定的な、遺跡上の証拠はない。<ref>さらに、半島南部の水田は畑ではないかと言う意見まである。</ref>


===== 考古学、まとめ =====
===== 考古学、まとめ =====
したがって、考古学者の主張は、遺跡、遺物と言う根拠を持たない。確かに、農具の一部は、確実に半島由来だが、肝心の水田の由来が、半島にあるとする確たる根拠は、学問上では見当たらない。このように、半島からの稲(水田)の伝来と言う考古学者の主張には、考古学上の決定的な証拠が欠けている。現状では、日本の方が水田の年代が100年も古いという逆転が何十年も続いていて、水田の伝来の経路は不明なままである。この事は、次の民俗学での証拠にも関連する。
したがって、考古学者の主張は、遺跡、遺物と言う根拠を持たない。確かに、農具の一部は、確実に半島由来だが、肝心の水田の由来が、半島にあるとする確たる根拠は、学問上では見当たらない。このように、半島からの稲(水田)の伝来と言う考古学者の主張には、考古学上の決定的な証拠が欠けている。現状では、日本の方が水田の年代が100年も古いという逆転が何十年も続いていて、水田の伝来の経路は不明なままである。この事は、次の民俗学での証拠にも関連する。


===== 民俗学 =====
===== 民俗学 =====
民俗学者は、日本の風俗は、チベットから長江を経て、山東半島、日本列島へ続く照葉樹林文化帯の文化であると主張する<ref>照葉樹林文化論の提唱者、中尾佐助著作集〈第6巻〉照葉樹林文化論</ref>。一方、半島に伝わった伝統文化は、大陸北方の文化である<ref>中尾佐助著作集〈第6巻〉照葉樹林文化論</ref>。文化の系統が半島と日本では、根本的に異なる。この日本と半島の文化の違いを理由に、民俗学者は、水田が半島経由ではなく、大陸から直接に、日本に伝来したと主張する<ref>古くは民俗学の創始者にして巨人、柳田國男「海上の道」、沖縄経由説だが</ref>。半島経由なら、文化は今の日本の文化、照葉樹林文化とは異なった、半島のような北方畑作文化になっていただろう、こういう考えである。
民俗学者は、日本の風俗は、チベットから長江を経て、山東半島、日本列島へ続く照葉樹林文化帯の文化であると主張する<ref>照葉樹林文化論の提唱者、中尾佐助著作集〈第6巻〉照葉樹林文化論</ref>。一方、半島に伝わった伝統文化は、大陸北方の文化である<ref>中尾佐助著作集〈第6巻〉照葉樹林文化論</ref>。文化の系統が半島と日本では、根本的に異なる。この日本と半島の文化の違いを理由に、民俗学者は、水田が半島経由ではなく、大陸から直接に、日本に伝来したと主張する<ref>古くは民俗学の創始者にして巨人、柳田國男「海上の道」、沖縄経由説だが</ref>。半島経由なら、文化は今の日本の文化、照葉樹林文化とは異なった、半島のような北方畑作文化になっていただろう、こういう考えである。
*歌垣、鵜飼、弓、正月の風習など
*歌垣、鵜飼、弓、正月の風習など
333行目: 333行目:
さらに、文化を離れて、稲そのものを見てみよう。
さらに、文化を離れて、稲そのものを見てみよう。


===== 稲の遺伝学 =====
===== 稲の遺伝学 =====
佐藤洋一郎は、イネの遺伝子の分析から、少なくとも稲の一部は大陸から直接列島に来たことを示した<ref>「稲の日本史」</ref>。日本の稲の遺伝子には、半島の稲にない遺伝子が含まれていたのである。しかも、その量は稲のほぼ半分に達している。
佐藤洋一郎は、イネの遺伝子の分析から、少なくとも稲の一部は大陸から直接列島に来たことを示した<ref>「稲の日本史」</ref>。日本の稲の遺伝子には、半島の稲にない遺伝子が含まれていたのである。しかも、その量は稲のほぼ半分に達している。
*ただし、水田の伝来の地域と、水稲の伝来の地域が異なるという可能性はある。
*ただし、水田の伝来の地域と、水稲の伝来の地域が異なるという可能性はある。


佐藤洋一郎は、残るもう一つの遺伝子は、半島からとする。理由として、佐藤は、大陸の稲には、この遺伝子が少ないことを挙げている。もっともに聞こえる。<ref>「稲の日本史」</ref>
佐藤洋一郎は、残るもう一つの遺伝子は、半島からとする。理由として、佐藤は、大陸の稲には、この遺伝子が少ないことを挙げている。もっともに聞こえる。<ref>「稲の日本史」</ref>
*しかし、この遺伝子は、大陸の稲の25%近くを占めている<ref>「稲の日本史」RM1-bは6割強</ref>。この点から見ると、稲の半分は半島由来とする佐藤の主張には、遺伝学的な根拠はない<ref>「稲の日本史」によると半島ではRM1-aは6割強,大陸ではRM1-aは25%弱</ref>。従って、佐藤が半島由来とする遺伝子は、半島由来とも、大陸由来ともどちらでも可能であると言うことになる。
*しかし、この遺伝子は、大陸の稲の25%近くを占めている<ref>「稲の日本史」RM1-bは6割強</ref>。この点から見ると、稲の半分は半島由来とする佐藤の主張には、遺伝学的な根拠はない<ref>「稲の日本史」によると半島ではRM1-aは6割強,大陸ではRM1-aは25%弱</ref>。従って、佐藤が半島由来とする遺伝子は、半島由来とも、大陸由来ともどちらでも可能であると言うことになる。


また、米粒の形は、半島ではなく、大陸の稲に類似しているとする学者の報告がある。しかし、米粒の形の判別はその道の専門家でないと難しい。そして、稲に関連する学会の大勢がこの説を認めているか不明である。
また、米粒の形は、半島ではなく、大陸の稲に類似しているとする学者の報告がある。しかし、米粒の形の判別はその道の専門家でないと難しい。そして、稲に関連する学会の大勢がこの説を認めているか不明である。
344行目: 344行目:
こうしてみると、水田の稲が半島由来であるとする遺伝学上の決定的な証拠はないと言えまいか。もちろん、水田が直接大陸から入ってきたとする証拠もない。
こうしてみると、水田の稲が半島由来であるとする遺伝学上の決定的な証拠はないと言えまいか。もちろん、水田が直接大陸から入ってきたとする証拠もない。


===== 日本への伝来ルートを示す、考古学・民俗学・遺伝学の事実 =====
===== 日本への伝来ルートを示す、考古学・民俗学・遺伝学の事実 =====


稲、水田の稲作が日本に来た経路が、北回りの朝鮮半島を通ったとする証拠はない。同時に、長江、山東半島から直接来たとする証拠もない。ただし、日本の文化の系統は半島の文化の系統とは異なることは言える。現状は以上である。要約しておこう。
稲、水田の稲作が日本に来た経路が、北回りの朝鮮半島を通ったとする証拠はない。同時に、長江、山東半島から直接来たとする証拠もない。ただし、日本の文化の系統は半島の文化の系統とは異なることは言える。現状は以上である。要約しておこう。
358行目: 358行目:
以上、水田農耕が日本にどこから渡来したか、現状では決定的な証拠がないことを、考古学的な文献を中心に論じ、文化や稲の資料で捕捉した。
以上、水田農耕が日本にどこから渡来したか、現状では決定的な証拠がないことを、考古学的な文献を中心に論じ、文化や稲の資料で捕捉した。


===== 補足 日本人の遺伝子 =====
===== 補足 日本人の遺伝子 =====
東日本の縄文人の遺伝子情報では、12%から53%が縄文人からである<ref>分析で異なる。参考文献は後で</ref>。また、別のデータでは、弥生人では、縄文人の割合は60%で、現代人では40%に減っている。この分析を行った研究者は、弥生以後も半島から人が移住してきたことを示すという。
東日本の縄文人の遺伝子情報では、12%から53%が縄文人からである<ref>分析で異なる。参考文献は後で</ref>。また、別のデータでは、弥生人では、縄文人の割合は60%で、現代人では40%に減っている。この分析を行った研究者は、弥生以後も半島から人が移住してきたことを示すという。


縄文末期、西日本では人口は希少で、少数の移住者で大きな割合を占めることになる。常識的に考えれば、半島からの移住者であるとできる。これから見れば、水田は半島からと推定して無理はない。
縄文末期、西日本では人口は希少で、少数の移住者で大きな割合を占めることになる。常識的に考えれば、半島からの移住者であるとできる。これから見れば、水田は半島からと推定して無理はない。
369行目: 369行目:
*水田伝来の証拠になど決してならないが、山東半島には、列島に移住したという伝説を持つ地域がある。山東半島の人々の特殊な変異遺伝子が、列島にあるという調査もある。
*水田伝来の証拠になど決してならないが、山東半島には、列島に移住したという伝説を持つ地域がある。山東半島の人々の特殊な変異遺伝子が、列島にあるという調査もある。
いろいろな説を立てることはできる。しかし、決定的な証拠はどこにもない。!-->
いろいろな説を立てることはできる。しかし、決定的な証拠はどこにもない。!-->



== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{Reflist|2}}
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
381行目: 380行目:
* {{Cite journal|和書|author=尹紹亭 |title=亜洲稲作起源研究的回顧 : アジア稲作起源研究についての回顧 |date=2004-03-25 |journal=龍谷大学国際社会文化研究所紀要 |volume=6 |naid=110004520088 |pages=86-92 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=尹紹亭 |title=亜洲稲作起源研究的回顧 : アジア稲作起源研究についての回顧 |date=2004-03-25 |journal=龍谷大学国際社会文化研究所紀要 |volume=6 |naid=110004520088 |pages=86-92 |ref=harv}}
* 上垣外憲一『倭人と韓人』(講談社学術文庫)、講談社、2003年、ISBN 4-06-159623-3
* 上垣外憲一『倭人と韓人』(講談社学術文庫)、講談社、2003年、ISBN 4-06-159623-3
* 王才林・宇田津徹朗・湯陵華・鄒江石・鄭雲飛・佐々木章・柳沢一男・藤原宏志、「[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋全山遺跡(6000年前〜現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷]」育種学雑誌 1998年 48巻 4号 p.387-394, {{doi|10.1270/jsbbs1951.48.387}}
* 王才林・宇田津徹朗・湯陵華・鄒江石・鄭雲飛・佐々木章・柳沢一男・藤原宏志、「[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋全山遺跡(6000年前〜現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷]」育種学雑誌 1998年 48巻 4号 p.387-394, {{doi|10.1270/jsbbs1951.48.387}}
* 岡田英弘『倭国』(中公新書)、中央公論新社、1977年、ISBN 4-12-100482-5
* 岡田英弘『倭国』(中公新書)、中央公論新社、1977年、ISBN 4-12-100482-5
* {{Cite journal|和書|author=奥西元一 |title=戦前まで房総半島北部でおこなわれた湿田農法に関する立地生態的分析(栽培) |date=2008-07-05 |journal=日本作物學會紀事 |volume=77 |number=3 |naid=110006792300 |pages=288-298 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=奥西元一 |title=戦前まで房総半島北部でおこなわれた湿田農法に関する立地生態的分析(栽培) |url-https://doi.org/10.1626/jcs.77.288 |date=2008-07-05 |journal=日本作物學會紀事 |volume=77 |number=3 |naid=110006792300 |pages=288-298 |publisher=日本作物学会 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=片山平 |author2=寺尾寛行 |author3=井之上準 |author4=陳進利 |title=イネにおける生態型と日本品種との系統発生学的研究 |date=1982-12-01 |publisher=日本育種学会 |journal=育種學雜誌 |volume=32 |number=4 |naid=110001815612 |pages=333-340 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=片山平 |author2=寺尾寛行 |author3=井之上準 |author4=陳進利 |title=イネにおける生態型と日本品種との系統発生学的研究 |url=https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.32.333 |date=1982-12-01 |publisher=日本育種学会 |journal=育種學雜誌 |volume=32 |number=4 |naid=110001815612 |pages=333-340 |ref=harv}}
* 倉本器征水稲直播栽培による稲作の規模拡大とその成立条件 農業経営研究 Vol.11 (1973) No.1 p.76-80 {{doi|10.11300/fmsj1963.11.1_76}}
* 倉本器征, 「[https://doi.org/10.11300/fmsj1963.11.1_76 水稲直播栽培による稲作の規模拡大とその成立条件]」『農業経営研究 1973年 11巻 1 p.76-80, {{doi|10.11300/fmsj1963.11.1_76}}
* {{Cite |和書|author=甲元 真之| |title=日本の初期農耕文化と社会 |date=2004 |publisher=同成社 |isbn=4886212980 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=甲元真之| |title=日本の初期農耕文化と社会 |date=2004 |publisher=同成社 |isbn=4886212980 |ref=harv}}
* 斎藤成也『DNAから見た日本人』(ちくま新書)、筑摩書房、2005年、ISBN 4-480-06225-4
* 斎藤成也『DNAから見た日本人』(ちくま新書)、筑摩書房、2005年、ISBN 4-480-06225-4
* {{Cite journal|和書|author=佐藤徳雄 |author2=渋谷暁一 |author3=三枝正彦 |author4=阿部篤郎 |title=肥効調節型被覆尿素を用いた水稲の全量基肥不耕起直播栽培 |date=1993-09-05 |journal=日本作物學會紀事 |volume=62 |number=3 |naid=110001733541 |pages=408-413 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=佐藤徳雄 |author2=渋谷暁一 |author3=三枝正彦 |author4=阿部篤郎 |title=肥効調節型被覆尿素を用いた水稲の全量基肥不耕起直播栽培 |url=https://doi.org/10.1626/jcs.62.408 |date=1993-09-05 |journal=日本作物學會紀事 |volume=62 |number=3 |naid=110001733541 |pages=408-413 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]| |title=稲の日本史 |date=2002 |publisher=角川書店 |isbn=4047033375 |series=角川選書, 337 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]| |title=稲の日本史 |date=2002 |publisher=角川書店 |isbn=4047033375 |series=角川選書, 337 |ref=harv}}
* 佐藤洋一郎『DNA考古学のすすめ』(丸善ライブラリー)、丸善出版、2002年、ISBN 4-621-05355-8
* 佐藤洋一郎『DNA考古学のすすめ』(丸善ライブラリー)、丸善出版、2002年、ISBN 4-621-05355-8
395行目: 394行目:
* 武光誠『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』、PHP研究所、2006年、ISBN 4-569-66579-9
* 武光誠『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』、PHP研究所、2006年、ISBN 4-569-66579-9
* 寺田隆信『物語 中国の歴史』(中公新書)、中央公論新社、1997年、ISBN 4-12-101353-0
* 寺田隆信『物語 中国の歴史』(中公新書)、中央公論新社、1997年、ISBN 4-12-101353-0
* 外山秀一「プラント・オパールからみた稲作農耕の開始と土地条件の変化」『第四紀研究』Vol.33 (1994) No.5 P317-329 {{doi|10.4116/jaqua.33.317}}
* 外山秀一, [https://doi.org/10.4116/jaqua.33.317 プラント・オパールからみた稲作農耕の開始と土地条件の変化]」『第四紀研究』 1994年 33巻 5 p.317-329, {{doi|10.4116/jaqua.33.317}}
* 鳥越憲三郎『古代中国と倭族』(中公新書)、中央公論新社、2000年、ISBN 4-12-101517-7
* 鳥越憲三郎『古代中国と倭族』(中公新書)、中央公論新社、2000年、ISBN 4-12-101517-7
* 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)、中央公論新社、1992年、ISBN 4-12-101085-X
* 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)、中央公論新社、1992年、ISBN 4-12-101085-X
* 長浜浩明「[http://tendensha.co.jp/syakai/syakai343.html 日本人ルーツの謎を解く]」、展転社、ISBN 978-4-88656-343-9
* 長浜浩明「[http://tendensha.co.jp/syakai/syakai343.html 日本人ルーツの謎を解く]」、展転社、ISBN 978-4-88656-343-9
* 那須浩郎「雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態」『国立歴史民俗博物館研究報告』187集、2014年7月
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* 花森功仁子・石川智士・齋藤寛・田中克典・佐藤洋一郎・岡田喜裕「[http://www2.scc.u-tokai.ac.jp/www3/kiyou/japanese/2011vol9_3.html DNAの欠失領域を用いた栽培イネOryza sativa L.の熱帯ジャポニカ型と温帯ジャポニカ型の識別マーカの作出と登呂期遺跡から出土した炭化種子への応用]」『海ー自然と文化』東海大学紀要海洋学部)、2011 Vol.9 No.3、2012年3月
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* {{Cite journal|和書|author=濱田千裕 |author2=釋一郎 |author3=中嶋泰則 |title=不耕起栽培技術体系の開発と普及 |date=2000-10-04 |journal=日本作物學會紀事 |volume=69 |number=2 |naid=110001742305 |pages=370-373 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author=春成秀爾, 今村峯雄 編 | |title=弥生時代の実年代 |date=2004 |publisher= 学生社 |isbn=431130059X |ref=harv}}
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* 藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波新書)、岩波書店、1998年、ISBN 4-00-430554-3
* 藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波新書)、岩波書店、1998年、ISBN 4-00-430554-3
* 朴天秀『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(講談社選書メチエ)、講談社、2007年、ISBN 978-4-06-258398-5
* 朴天秀『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(講談社選書メチエ)、講談社、2007年、ISBN 978-4-06-258398-5
*[[山内清男]]「石器時代にも稲あり」『人類学雑誌』第40巻5号、1925年。{{doi|10.1537/ase1911.40.181}}
*[[山内清男]]「石器時代にも稲あり」『人類学雑誌』 第40巻5号 p.181-184、1925年。{{doi|10.1537/ase1911.40.181}}
* C・スコット・リトルトンおよびリンダ・A・マルカー 著、辺見葉子および吉田瑞穂 訳『アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ』、青土社、1998年、ISBN 4-7917-5666-5
* C・スコット・リトルトンおよびリンダ・A・マルカー 著、辺見葉子および吉田瑞穂 訳『アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ』、青土社、1998年、ISBN 4-7917-5666-5
* 『「米」で総合学習みんなで調べて育てて食べよう』シリーズ(全4巻) 金の星社 2002年
* 『「米」で総合学習みんなで調べて育てて食べよう』シリーズ(全4巻) 金の星社 2002年
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* 中島健一, 「[https://doi.org/10.4157/grj.24.137 燒畑農法と稻作起源についての一考察]」『地理学評論 1951年 24巻 5 p.137-143, 日本地理学会, {{doi|10.4157/grj.24.137}}
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* 川島鉄三郎[https://doi.org/10.11300/fmsj1963.6.2_28 稲作農業機械化の経営的考察] 農業経営研究 Vol.6 (1968) No.2 p.28-50
* 立岩寿一, 「[https://doi.org/10.11472/nokei.79.190 1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程]」『農業経済研究 2008年 79巻 4 p.190-198, 日本農業経済学会, {{doi|10.11472/nokei.79.190}}
* 高見晋一[https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.54.11_1033 自然環境からみたオーストラリアの稲作] 農業土木学会誌 Vol.54 (1986) No.11 P.1033-1038,a1
* 立岩寿一[https://doi.org/10.11472/nokei.79.190 1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程] 農業経済研究 Vol.79 (2007) No.4 p.190-198


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2020年5月1日 (金) 08:28時点における版

タイの田植え。東南アジアの稲作では1ヘクタールに満たない水田でも、田植え、除草、収穫に農業労働者が雇用されることが多い
ミャンマーの稲の収穫。

稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。主にを得るため、北緯50から南緯35度の範囲にある世界各地域で稲作が行われている。現在では、米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカブラジルコロンビアアフリカエジプトセネガルマダガスカルでも稲作が行われている。

稲の栽培には水田が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。

収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、(わら)がとれる。これらは再利用でき有用な資源でもある。

伝播の理由

稲作が広く行われた理由として、

  • 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である[1]
  • イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)[1]
  • 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない[1]
  • 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)[2]

などが考えられている[3]

歴史

起源

インドの田植え。
イラン北部、マーザンダラーン州の田植え。
ブラジル南東部サンパウロ州パライーバ渓谷の水田。
インドネシアジャワ島の牛耕田。
ネパールの田植え。

稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている[4]。(かつては雲南省遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた[4][5][6]。)

長江流域にある草鞋山遺跡プラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという[7]。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている[4]

中国での伝播

中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。

日本への伝来

日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっている。水田稲作に関しては約2600年前とされていたが近年の炭素14年代測定法により約3000年前(前10世紀後半頃)から開始されたと改められた(菜畑遺跡雀居遺跡等)。水田稲作の伝来経路としては『江南説(直接ルート)』『南方経由説』があり[8][9][10]、現在も議論が続いている。(後述)

なお、稲のプラント・オパールは20-60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっていると報告されている[11]

朝鮮半島への伝来

遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっており九州からの伝来と議論されている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している[12]

東南アジア、南アジアへの伝来

東南アジア南アジアへは紀元前2500年以降に広まった[13]。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる[14]

西アジアへの伝来

トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である[15]

アフリカへの伝来

栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である[16]。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国ニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガルガンビアギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている[17]

アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった[16]。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された[18][19]。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は[20]、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性に劣っていると報告している[20]

イタリア、ミラノ近郊の水田

ヨーロッパへの伝来

ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる[21][22]

アメリカ大陸への伝来

16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった[23]

日本国内での歴史

縄文稲作の可能性

日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年山内清男の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが[24]、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった[25]。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった[26][27]

縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡土器胎土内から出たプラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる[28]が、土器の年代に対し疑問が出され[29]、多方面からの分析が必要と指摘されている[29]

しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性や[30]、土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性もあるとされる[31]。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている[32][33]。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である[29]。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない[34]

プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である[35]。特に焼畑農業が注目されている[36]。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からはジャポニカ種のプラント・オパールが得られた[37]。現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている[38]

水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネオオムギアズキアワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。

日本への伝来ルート

江南説(対馬暖流ルート)

農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説[39][40][41]

農林水産省は中国から直接伝来したという説が一番有力であるとしている[42]

考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており[43]、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。

本説は下記に述べる生化学分野からのアプローチからも支持されている。

2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し[44]、日本育種学会の追試で再現が確認された[45][46]

さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している[47][48]

南方経由説(黒潮ルート)

柳田國男の最後の著書「海上の道[49]」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎可児弘明安田喜憲梅原猛などの民俗学者に支持され[50][51]佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。[52]

北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。[53]

考古学の観点からは、沖縄で古代の稲作を示す遺構が出土していないため関心が低いが、生化学の観点からは、渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している[54][55]

朝鮮半島経由説(過去に議論されていた説)

  • 佐原真弥生稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、佐藤洋一郎[要曖昧さ回避]らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている[56]
  • 趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」朝鮮半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は朝鮮半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている[57]
  • 池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており[10]、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている[10]
  • しかしこれについて広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている[58]
  • 藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている[59]
  • 宝賀寿男は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と述べ、稲作開始時期の繰り上げと炭素年代測定や年輪年代測定の数値と検証方法に疑問を呈している。即ち殷は・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系(海神族の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる[60]
  • 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている[61]
  • 佐藤洋一郎によると、風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた[62]。風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う[63]
  • 分子人類学者の崎谷満も、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしていた[64]。中世の稲作古代の稲作
中西遺跡(奈良県御所市)2019年発掘調査時。

青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている[9][65]。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった[66]大和朝廷は日本を「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。

律令体制導入以降の朝廷は、水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも田楽などが行われるようになった。大分県の田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。

鎌倉時代になると西日本を中心に牛馬耕が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、東日本を中心に水田に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦二毛作が行われるようになった。室町時代には、日照りに強く降水量の少ない土地でも良く育つ占城稲が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、大名たちは新田開発のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。武田信玄によって築かれた山梨県釜無川の信玄堤は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため検地も行われた。天下を掌握した豊臣秀吉が全国に対して行った太閤検地によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す石高制が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視されていた。

近世の稲作

浮世絵に描かれた田植え風景

江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは利根川や信濃川など手付かずだった大河流域の湿地帯や氾濫原で新田の開墾を推進し、傾斜地にも棚田を設けて米の増産を図った。幕府も見沼代用水深良用水などの農業用用水路も盛んに設けたり、諸国山川掟を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した[67]。農業知識の普及も進み、宮崎安貞による日本最古の体系的農書である農業全書大蔵永常農具便利論などが出版されている。地方農村では二宮尊徳大原幽学渡部斧松などの農政学者が活躍した。農具も発達し、備中鍬や穀物の選別を行う千石通し、脱穀の千歯扱などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、慶安の御触書でも雪隠を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、やませの影響が強い東北地方の太平洋側を中心に飢饉も多発しており、江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。

近代の稲作

農耕馬を使った大正時代の代掻き
大正時代の田植えの様子

明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物ではなく魚肥や油粕など金肥と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。交通手段の発達を背景に、各地の篤農家(老農)の交流も盛んになり、江戸時代以来の在来農業技術の集大成がなされた(明治農法)。ドイツから派遣されたオスカル・ケルネルらによって西洋の科学技術も導入され農業試験場などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み亀の尾などの品種が作られた。

江戸時代から北海道道南渡島半島南部では稲作が行われていたが、明治に入ると道央石狩平野でも栽培されるようになった。中山久蔵などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の泥炭地が広がっていた石狩平野や上川盆地は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころへ変化していく。

こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが[68]、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで人口が膨れ上がったことにより、日本内地の米不足は深刻であり、朝鮮台湾からの米の移入で不足分を賄う有様となった。

戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。1960年代以降、食生活の多様化により一人当たりの米の消費量の減少が進み、1970年を境に米の生産量が消費量を大きく越え、米余りの時代に突入。政府によって減反政策などの生産調整が行われるようになった。

日本における栽培技術と品種改良

品種改良は当初耐寒性の向上や収量増を重点に行われた。近代的育種手法で育成されたイネのさきがけである陸羽132号は耐寒性が強く多収量品種であったことから、昭和初期の大冷害の救世主となり、その子品種である水稲農林1号は第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に大きく貢献した。特筆すべきは陸羽132号、農林1号は食味に優れた品種でもあったことで、その系統を引くコシヒカリなど冷涼地向きの良食味品種が普及することにより、日本の稲作地帯の中心も新潟県、東北地方北部、そして北海道へと徐々に北方に移っていき、日本の稲作地図を塗り替えることになった。

「米余り」となった1970年以降、稲の品種改良においては、従来重点をおかれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点をおかれるようになった。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクトスーパーライス計画が行われ、ミルキークイーンなどの低アミロース米が開発された[69]

近年は西日本を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている[70]。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。

方式

二期作と二毛作

気候的に可能な場合は三毛作も行われている。

水田稲作と陸稲

水稲

稲の水田による栽培を水田稲作と呼び、水田で栽培するイネを水稲(すいとう)という。

に水を張り(水田)、底に苗を植えて育てる。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的であるが、東南アジアなどでは、水田の中に種籾を蒔く地域もある。深い水深で、人の背丈より長く育つ栽培品種もある。畑よりも、水田の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどが、水田を使っている。水田による稲作は、他の穀物の畑作に比べ、連作障害になりにくい。

陸稲

畑で栽培される稲を陸稲(りくとう、おかぼ)という。

水稲ではほとんど起こらないが、同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する[71]

栽培法

初めに田畑にじかに種もみを蒔く直播(じかまき)栽培と、仕立てた苗を水田に植え替える苗代(なわしろ/なえしろ)栽培がある。

手順

(春)乗用田植機による田植え
(初夏)田植え後の水田
(秋)稲穂
(秋)自脱型コンバインによる稲刈り
(秋)刈田と稲の天日干し(稲杭掛け)
(秋)刈田と稲の天日干し(稲架掛け)

古くからの伝統的な方法

  1. 田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。
  2. 圃場に水を入れさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
  3. 苗代(なわしろ/なえしろ)に稲の種・種籾(たねもみ)をまき、発芽させる(籾撒き)。
  4. 苗代にてある程度育った稲を本田(圃場)に移植する(田植え)。※明治期以降は田植縄や田植枠(田植定規)などによって整然と植え付けがなされるようになった。
  5. 定期的な雑草取り、肥料散布等を行う。
  6. 稲が実ったら刈り取る(稲刈り)。
  7. 稲木天日干しにし乾燥させる。※稲架(馳)を使用したハセ掛け、棒杭を使用したホニオ掛けなど
  8. 脱穀を行う(=もみにする)。
  9. 籾摺り(もみすり)を行う(玄米にする)。
  10. 精白(搗精)を行う(白米にする)。

最近の一般的な方法

  1. まず、育苗箱に稲の種・種籾(たねもみ)まき、育苗器で発芽させる。
  2. 次に、ビニールハウスに移して、ある程度まで大きく育てる。
  3. トラクターにて、田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。
  4. 圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
  5. 育った苗を、田植機(手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。
  6. 定期的な雑草取り、農薬散布、肥料散布等を行う(専用の農業機械を使う)。
  7. 稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行うコンバインで刈り取る。
  8. 通風型の乾燥機で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。
  9. 籾すり機で籾すりを行う(玄米)。
  10. 精米機にかける(白米)。
  • 上記方法が標準方法というわけではない。その中でも栽培に関しては、さまざまな方法がみられる。特に、1,2で述べられている育苗の方法は、地域や播種時期、品種、農家の育苗思想・主義などからきわめて多様である。
  • 稲作には従来より除草剤を使用してきた。近年[いつ?]無農薬栽培法では除草剤を使用しないことがあるので、ノビエなどイネ科の雑草を手作業で除草しなくてはならなくなることがある。

生育段階

  • 育苗期
  1. 播種期
  2. 出芽期
  3. 緑化期:発芽器を使用しない、または発芽器から出した後にハウスなどで育苗・養生しない場合、緑化期はない
  4. 硬化期
  • 本田期
  1. 移植期
  2. 活着期
  3. 分蘖
  4. 最高分蘖(げつ)期
  5. 頴花分化期
  6. 幼穂形成期
    この時期は低温に弱く、やませの常襲地帯では深水管理が推奨されている。
  7. 減数分裂期
    花粉の基礎が形成される時期で、この時期にやませに遭うと障害型冷害が発生しやすい。
  8. 穂孕み期
  9. 出穂始期:圃場出穂割合10 - 20%
  10. 出穂期(出穂盛期):圃場出穂割合40 - 50%
  11. 穂揃い期:圃場出穂割合80 - 90%
  12. 開花期※稲は出穂しながら抽出した先端から順次開花をする
  13. 乳熟期
    この時期、猛烈な残暑に襲われると玄米の品質が低下する。
  14. 黄熟期
  15. 傾穂期
  16. 登熟期(糊熟期)
  17. 成熟期

日程の例(鳥取県地方の早期栽培)

4/2 - 5 発芽器で苗を発芽・育成(育成に3日間必要)
育てた苗は畑の小さいハウスに移動し、田植えまでそのまま育てる。
4/16 耕起(田起こし)。土を耕うん機で耕すこと。田には水は入れない。
4/17 - 29 荒かき。田に水を入れて土を耕うん機で耕す。
4/30 代掻き。土をさらに細かくする。田植えの3 - 4日前に実施。
5/3,4,5 田植え。田植え機使用による機械移植。
5/7 除草剤振り1回目。田植え後1週間以内に実施。
5/13 追肥。田植え後10日以内に実施。稲の元気が出るため。
5/28 除草剤振り2回目。田植え後25日以内に実施。
草刈。
6月 防除(=カメムシイモチなど病害虫の駆除)1回目。出穂前に実施。
防除2回目。出穂後の穂ぞろい期に実施。
7/23 - 8/6 穂肥(ほごえ)のための肥料まき1回目。
8/13 ↑ 2回目
9/2,3 稲刈り。

不耕起栽培

省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である[72][73]

冬季代かきによる方法例

[74]生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。

  1. 12月 - 翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。
  2. 圃場が固くなってから、溝に直接肥料と種籾を播く。
  3. 2 - 3葉期を過ぎたら水を張る。
  4. 必要に応じ、中干しを行う。

米ヌカを播く方法例

[75][76]

  1. 1月に米ヌカをまいて、水を溜める(湛水)。
  2. 3 - 4月に一旦水を抜き、耕す(但し、状態によっては不要)。
  3. 再度湛水し、田植え。
  4. 必要に応じ、中干しを行う。
  5. 稲刈り後、湛水(冬期湛水)。

稲作文化

稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の食文化、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。

農耕技術では稲作のための農具や収穫具、動物を用いた畜力利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、カカシなど鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとのは様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では強飯ちまきなど多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの貯蔵法や、醸造してにするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、日本の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、田遊び・田植・田植踊御田祭御田植御田舞等、豊作を祈るための多くの予祝儀式収穫祭民俗芸能伝承されている。

宮中祭祀においても天皇皇居御田で収穫された稲穂天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する新嘗祭がおこなわれている。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。


脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク