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沖島 (敷設艦)

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沖島
1942年の公表写真(1937年頃撮影)[1]
1942年の公表写真(1937年頃撮影)[1]
基本情報
建造所 播磨造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 敷設艦[3]
建造費 予算 6,275,000円[4]
母港 横須賀[5][6]
艦歴
計画 1931年度(①計画
起工 1934年9月27日[7]
進水 1935年11月15日[2]
竣工 1936年9月30日[8]
最期 1942年5月12日沈没
除籍 1942年5月25日[6]
要目(計画)
基準排水量 計画 4,470英トン[9]
公表値 4,400英トン[10][8]
竣工時 4,000英トン[11]
公試排水量 計画 5,000トン[9]
竣工時 4691.037トン[12][13][注釈 1]または4,661トン[11]
満載排水量 竣工時 5,063.307トン[9][13]
全長 124.50m[9]
水線長 計画 119.29m[9]
竣工時 118.190m[9]
垂線間長 計画 113.00m[9]
公表値 117.80m[10][8]
竣工時 113.594m[9]
最大幅 16.200m[9]
水線幅 計画 15.744m[9][注釈 2]
公表値 15.62m[10][8]
竣工時 15.644m[9]
深さ 9.70m[9]
吃水 計画公試平均 5.49m[9]
公表値 5.07m[10][8]
竣工時公試平均 5.209m[9]または5.154m[11]
竣工時満載平均 5.464m[9]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付[14]) 4基[15][10]
主機 艦本式タービン(高低圧[14]) 2基[15]
推進 2軸 x 計画 320rpm[15](公試 321.65rpm)
推進器直径2.700m、ピッチ2.450m[16]
出力 計画 9,000shp[9]
竣工時 9,025shp[9]
速力 計画 20.0ノット
竣工時20.48ノット[9]
燃料 計画 重油850トン+補給用200トン[9]
竣工時 重油561トン+補給用360トン[11]
航続距離 計画 5,000カイリ / 14ノット[9]
竣工時 9,500カイリ / 14ノット(重油850トンに対し)[11]
乗員 計画乗員 445名[17]
竣工時定員 388名[18]
兵装 50口径三年式14cm連装砲 2基4門[19]
8cm単装高角砲 2門[19]
13mm連装機銃2基4挺[11][注釈 3]
九四式投射機2基、三型装填台2基[20]
水圧投下台2基、手動一型投下台4基[20]
爆雷 22個(内火艇用8個)[20]
六号二型機雷 500個[20]
搭載艇 竣工時 12m内火艇1隻、11m内火艇1隻、9m内火艇1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[21]
搭載機 九四式水上偵察機 1機[22]
(呉式二号三型[23])カタパルト1基[22]
ソナー 水中聴音機 1基[24]
その他 二号改一防雷具2組[20]
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沖島(おきのしま)は、日本海軍敷設艦機雷敷設艦[25][26]。本艦に改良を加えた準同型艦に「津軽」がある[27][28]

概要

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軍艦沖島」は、日本海軍の4,000トン級敷設艦[25][29]ロンドン条約によって装甲巡洋艦2隻(阿蘇常磐)の代艦として敷設艦の建造が認められ、2隻予算請求されたが1隻のみ成立、「阿蘇」の代艦として建造された[27][30]。日本海軍が初めて建造した純粋な大型敷設艦であり、500個の6号機雷を搭載できた[30]。条約により最大発揮速力は20ノット程度だが、司令部施設を備えカタパルト1基を装備(水上偵察機1機搭載)するなど、巡洋艦としての性格を持つ多用途艦である[27]

播磨造船所で建造され1936年(昭和11年)9月末に竣工[30]。同年12月1日から新編成の第十二戦隊に所属[31][32]。翌年より、第十二戦隊(沖島、神威、第28駆逐隊)は中部太平洋諸島の調査におもむく[33]。つづいて日中戦争支那事変)に投入され、陸軍部隊や物資の輸送で活躍した[27][23]

1940年(昭和15年)11月15日、新編の第十九戦隊(司令官志摩清英少将)に編入され、同戦隊旗艦となる[34]第四艦隊に所属し、中部太平洋諸島で行動した。1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、本艦は引き続き南洋部隊(指揮官井上成美海軍中将、第四艦隊司令長官)麾下の第十九戦隊に所属して、中部太平洋諸島や南東方面各地攻略作戦に参加[29]。しかしソロモン諸島で行動中の1942年(昭和17年)5月11日、米潜水艦の魚雷攻撃により大破[35][36]。翌5月12日ブカ島近辺で沈没した[37][38]

艦名

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沖島」の艦名は、日露戦争日本海海戦)で日本軍に鹵獲されたアドミラル・ウシャコフ級海防戦艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン(General Admiral Apraksin)」の日本海軍編入後の艦名「沖島」で使用されていた[39]。海防艦「沖島」(初代)の艦名は、玄界灘に浮かぶ沖ノ島による[40][41]

初代「沖島」は1922年(大正11年)4月1日に除籍[42]。本艦(敷設艦「沖島」)は、日本海軍の軍艦としては2代目となる[43][30]

艦型

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敷設艦「沖島(II)」は日本海軍最初の純粋な大型敷設艦だが、ロンドン海軍軍縮条約の制限下で建造されたため備砲や速力に制限があった[30]。当初の軍令部要求は基準排水量5,000英トン、速力20ノット、15.5cm砲4門、機銃4門以上、機雷500個以上、航続距離14ノットで5,000浬という規模だった[44]。予算の都合上、艦型をなるべく小さくする必要があって基準排水量4,800英トンに抑え、主砲も14cm砲の在庫品を利用することになった[44]。基本計画番号H4[9]。この時点(友鶴事件前)での主要目は右表の通り。

基本情報
艦歴
要目(友鶴事件前の当初計画[11]
基準排水量 4,800英トン
公試排水量 5,400トン
全長 138.40m
水線長 135.000m
最大幅 16.500m
水線幅 16.200m
深さ 10.100m
吃水 4.400m
ボイラー 混焼缶4基
主機 タービン2基
出力 9,000shp
速力 20ノット
燃料 石炭750トン、重油350トン
航続距離 5,000カイリ / 14ノット
兵装 14cm単装砲4門
8cm単装高角砲2門
12mm単装機銃2挺
6号機雷500個
爆雷36個
搭載機 水偵1機、射出機1基
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起工直前に起きた友鶴事件により急遽設計をやり直し、船体を小型化するなど基準排水量4,470英トンでまとめられた[23]。この時にボイラーを重油専焼とし、主砲を単装4門から連装2基への変更もされている[23]。また電気溶接を広範囲に使用しているため第四艦隊事件後には構造の再検討が行われた[45]。燃料搭載量の問題もあり(後述)[45]、竣工時の基準排水量は4,000英トンになっていた[23]

船体はフラッシュ・デッキ型で、艦前部に大型の艦橋と三脚マストを備え、艦橋と煙突の間のシェルターデッキ上に四十口径三年式八糎高角砲(単装、片舷2門)と艦橋両舷の同甲板上に13mm連装機銃を設置[23]。煙突後方にはカタパルト(呉式二号三型)とデリックを装備した大型の三脚マストがある[23]。基準排水量4,500トン艦としては巨大なマストである[30][46]。これはカタパルト上に九四式水上偵察機を搭載するクレーンの支基を兼ねているためである[30]。水上機搭載数は1機のみ[23]

計画時は最上型軽巡洋艦と同様の15.5cm砲主砲の搭載を検討したが、予算の関係から日本海軍軽巡洋艦で標準的に採用されていた50口径三年式14cm砲となった[23]。この14cm砲は軽巡洋艦「夕張」や迅鯨型潜水母艦2隻(迅鯨長鯨)搭載と同型で、これを連装砲型とし、艦前部と艦後部に一基ずつ装備する[30]。砲尾側は露出しており、密閉式ではない[23][47]。敵駆逐艦と交戦し撃退することを念頭においていた[30]

本艦は500個の六号二型機雷を搭載可能[23]で、艦橋と煙突の間の前後両舷4箇所に設けられた機雷搭載口から積み込んだ[23]。艦内の中甲板に機雷格納所があり、艦前後の下甲板、船艙甲板にも機雷庫がある[30][23]。この機雷格納所、機雷庫は輸送任務のための倉庫や海軍陸戦隊の待機所にも転用された[23]。機雷の敷設は中甲板を艦尾へ伸びる2条の軌道で行う(航行時に艦尾の開口は扉で閉鎖される)[30]。また上甲板にも軌道2条が設置されている[30][23]。この他、爆雷22個と爆雷投射機1基を装備した[23]

重油搭載量は計画時に自艦用850トンと補給用200トンだったが、公試の結果は重油850トンに対する航続力が9,500カイリ/14ノットにも達し(計画は5,000カイリ/14ノット)、実際の搭載量は自艦用561トンと補給用360トンに改められた[23][11]

艦歴

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建造

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日本海軍(軍令部)は大正期の八八艦隊以降、大型敷設艦(速力25ノット、機雷500個搭載)を希望していたが、予算不足のため小型艦(厳島)しか建造できなかった[30]。昭和初期、日本海軍は敷設艦として、浅間型装甲巡洋艦2番艦「常磐」(機雷敷設艦に改造済)[48][49]、「勝力」(大正6年1月15日竣工、1,540トン)[50]、急設網艦「白鷹」(昭和4年4月9日竣工。1,345トン)[51][52]、「厳島」(昭和4年12月26日竣工、1,970トン)[53]、「八重山」(昭和7年8月31日竣工、排水量1,135トン)[54]を保有していた[27]

1930年(昭和5年)締結のロンドン軍縮条約において、日本海軍は旧式巡洋艦改造敷設艦2隻(阿蘇常磐)の代艦建造を認められた[55]。これにより、日本海軍は第一次補充計画(①計画)において敷設艦1隻を建造することになった[56]1934年(昭和9年)3月10日、日本海軍は神戸川崎造船所で建造予定の二等巡洋艦を『熊野[57]、播磨造船所で建造予定の敷設艦を『沖島[58]と命名した。 同日附で2隻(熊野沖島)は艦艇類別等級表に記載される[3]。基準排水量4,800トン艦として5月10日の起工を予定していたが、友鶴事件(3月12日発生)を経て設計を一部見直す[59][60]。同年9月27日、本艦は播磨造船所兵庫県)にて起工[8][61]

1935年(昭和10年)9月下旬、第四艦隊事件が発生したため、建造に用いられていた電気溶接部分の改善を行っている[30][23]。11月15日、進水[8][62]。沖島進水式には軍令部総長伏見宮博恭王博恭王妃経子夫妻を筆頭に、多数の来賓が参列した[63]。同日附で日本海軍は特務艦「青島」特務艦長佐藤波蔵大佐[64]を沖島艤装員長に任命する[65]。11月19日、播磨造船所に設置された沖島艤装員事務所は事務を開始する[66]

1936年(昭和11年)9月10日、艤装員事務所を沖島艦内に移転[67]。9月30日、竣工した[32][8]。佐藤大佐(沖島艤装員長)は沖島艦長(初代)となる[68]。主な幹部は、副長板倉得止中佐、水雷長梶永慶次郎少佐、砲術長深見盛雄少佐、航海長西郡雄次大尉、通信長栗栖俊雄大尉、機関長松末元完機関少佐[68]。横須賀鎮守府籍[34]

竣工後

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1936年(昭和11年)12月1日、日本海軍は第三航空戦隊を改編して第十二戦隊を新編する[69]。第十二戦隊の所属艦は、軍艦2隻(敷設艦〈沖島[31][69]、水上機母艦〈神威〉)[32][70]、第28駆逐隊の神風型駆逐艦2隻(夕凪、朝凪)[71]。戸苅少将(第三航空戦隊司令官)は呉鎮守府参謀長へ転任[72]。第十二戦隊司令官として宮田義一少将(海兵36期)と首席参謀小野田捨次郎中佐が着任[72][33]。宮田少将は本艦に将旗を掲げた[31]。小野田中佐の前職は軍令部一課部員であり、それまでルソン島や中国大陸方面における日本軍作戦計画の立案に携わり、現地調査の経験もあった[32]。当時の軍令部は、将来における対米作戦において基地航空部隊・潜水戦隊・水雷戦隊の活用を検討していた[32]。第十二戦隊の主任務は、南洋諸島の水陸飛行場適地・艦隊泊地の適地を調査することであった[32]

1937年(昭和12年)1月20日、沖島艦長は佐藤波蔵大佐から安住義一大佐(大湊防備隊司令、兵39期)に交代する[73]。1月28日、第十二戦隊(沖島、神威、朝凪、夕凪)は横須賀を出撃[33][74]。第十二戦隊はサイパン島[75]トラック諸島クェゼリン環礁西部ニューギニアに至るまで[32]、七か月におよぶ長期航海を実施した[76][74]。7月10日、伊勢湾に到着した[34][74]。南洋諸島の調査終了時、既に支那事変が勃発していた[32]。第十二戦隊は7月28日附で第三艦隊に編入される[32]。8月20日、多度津を出発して中国大陸方面に進出した[34]

8月27日、日本海軍は水上機母艦「神威」[70][77]と第28駆逐隊(朝凪、夕凪)[78]により、再び第三航空戦隊(司令官寺田幸吉大佐)を編制する[79][80]。本艦は中国大陸沿岸部で行動しており、揚子江沿岸ではイギリス海軍に写真を撮影されている[81]。12月1日、旧第十二戦隊は解隊された(第十二戦隊司令官宮田義一少将は海軍砲術学校長へ転任)[82]。また安住義一大佐(沖島艦長)は大阪地方海軍人事部長へ転任[82]富沢不二彦大佐(海軍省教育局局員)が沖島艦長に補職された[82]。同日附で「沖島」は第四艦隊麾下の第十二戦隊(旗艦「足柄」)に編入され、内地と旅順港等を往復しながら、引き続き北支方面で行動する[83][34]

1938年(昭和13年)2月4日、第四艦隊司令長官豊田副武中将は第四艦隊旗艦を重巡洋艦「足柄」から「沖島」に変更する[84]。4月11日まで、「沖島」は第四艦隊旗艦を務めた[85][86]。11月3日、漢口攻略(武漢作戦)にともない、支那方面艦隊司令長官及川古志郎中将は「沖島」に座乗し遡江部隊(W作戦部隊)の閲艇式に臨んだ[87]。12月15日、富沢不二彦大佐(沖島艦長)は横須賀防備隊司令へ転任[88]。第12駆逐隊司令平塚四郎大佐(駆逐艦深雪沈没時の艦長)が沖島艦長となる[88]。12月18日、本艦は横須賀に到着[34]。12月19日、「沖島」は駆逐艦「」より横須賀防備隊旗艦を引き継いだ[89]

1939年(昭和14年)6月、日本海軍は航空基地建設を前提としたマーシャル諸島(中部太平洋諸島)の調査を実施する[90]。横須賀防備隊司令官堀内茂礼少将(兵39期)指揮下、建築技師や測量隊は横須賀防備隊(敷設艦〈沖島〉、第6駆逐隊〈〉)と輸送船2隻(衣笠丸、南拓丸)各艦に分乗し、6月22日に横須賀を出発[91]。8月24日、横須賀に到着した[91]

9月1日、第十三戦隊の解隊にともない第十三戦隊残務処理事務所を「沖島」に設置[92]。その後も、たびたび横須賀防備戦隊旗艦を務めた[93][94]。11月15日、平塚四郎大佐(沖島艦長)は軽巡洋艦「球磨」艦長へ転任(後日、終戦時の空母天城艦長)[95][96]海軍大学校教官中村勝平大佐が、平塚の後任として沖島艦長に任命される[95]

1940年(昭和15年)前半もおおむね横須賀に停泊しており、横須賀防備戦隊旗艦となる事もあった[97][98]。3月22日、中村勝平大佐(沖島艦長)は軍令部出仕となり、敷設艦厳島艦長高橋一松大佐(駆逐艦初代艦長等を歴任)が厳島艦長と沖島艦長を兼務する[99]。4月15日、小畑長左衛門大佐が沖島艦長に任命され、高橋一松大佐(厳島艦長)は兼務を解かれた[100]。10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[101]。10月15日、艦長小畑大佐は重巡熊野艦長へ転任[102]小豆沢成大佐(特務艦鶴見艦長。昭和15年6月20日[103]から8月1日[104])が沖島艦長となる[102]。11月15日附で日本海軍は第十九戦隊を編成する(司令官志摩清英少将。旗艦「沖島」)[105]。本艦は第十九戦隊に編入[34]。志摩司令官は第十九戦隊旗艦を「沖島」に指定した[106]

太平洋戦争

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1941年(昭和16年)1月12日、横須賀を出撃して南洋方面に出動[34]。この後、横須賀とトラック泊地を往復しながら南洋方面で行動した[34]。「沖島」は8月29日に横須賀を出港し、9月6日にトラック泊地[34]。9月10日、「沖島」機雷長も山下達喜少佐から志垣郁雄大尉(第9号掃海艇長)に交代[107]。9月12日、敷設艦「八重山」艦長能美実大佐が「沖島」艦長に補職[108]。小豆沢大佐は9月25日より第1砲艦隊司令となった[109]

太平洋戦争緒戦では「沖島」は南洋部隊のハウランド方面攻撃支援隊旗艦として[110]ギルバート諸島攻略に従事した。

ハウランド方面攻撃支援隊の「沖島」、「天洋丸」、「朝凪」、「夕凪」は11月29日にトラックを出発し、12月3日にヤルートに到着[111]。12月5日に「沖島」は第五十一警備隊の陸戦隊1個中隊を乗せ、12月8日に攻撃支援隊はヤルートから出撃した[112]。「沖島」は「天洋丸」、「長田丸」と共にマキンへ向かい、12月10日にマキン島に陸戦隊を上陸させ占領した[113]。12月11日には「沖島」はビカチ島、小マキン島に陸戦隊を上陸させた[113]。一方、「朝凪」と「夕凪」はタラワを占領した[114]。攻略完了後「天洋丸」、「朝凪」と「夕凪」はウェーク島攻略部隊に編入されてヤルートへ向かい、一方敷設艦「津軽」と駆逐艦「」がハウランド方面攻撃支援隊に編入され12月22日にマキンに到着した[115]。「沖島」はマキンで航空隊の基地設営への協力、搭載機による哨戒、礁内の水深調査などを行なった[115]。「沖島」は12月24日にマキンを出港し、同日アパイアン島掃蕩を行なった後12月26日にヤルートに到着[115]。同日、ハウランド方面攻撃支援隊の編制が解かれた[116]。12月28日に「津軽」もヤルートに到着し、「沖島」と「津軽」は12月28日にトラックへ向けて出港[115]。1942年1月1日にトラックに到着した[117]

続いて「沖島」はR方面攻略部隊本隊の旗艦として[118]ラバウル攻略に参加した。R攻略部隊本隊は第十九戦隊の「沖島」、「津軽」、「天洋丸」、「最上川丸」や第六水雷戦隊(「夕張」、第二十九駆逐隊、第三十駆逐隊)、「金剛丸」などからなっていた[119]。ラバウル攻略に従事する陸軍の南海支隊グアム島攻略を行なった後同島に留まっており[120]、陸軍との訓練を行うためR攻略部隊指揮官は「沖島」と「金剛丸」を率いてトラックからグアムへ向かった[121]。トラックからは1月8日に出発し、1月10日にグアムに到着[121]。1月14日、R攻略部隊本隊は南海支隊の船団を護衛してグアムから出撃した[122]。R攻略部隊本隊の一部(「夕張」、第二十九駆逐隊など)はトラックから出撃してメレヨン島の東で合流した[122]。1月22日にラバウル港外に到着し、ラバウルを攻略[123]。2月1日0時でR攻略部隊の編制は解かれて「沖島」は主隊に編入され、トラックに引き揚げた[124]

2月以降、アメリカ軍の機動部隊によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲等に対して、本艦は南洋部隊麾下各艦(旗艦〈鹿島〉、第六戦隊〈青葉、加古、衣笠、古鷹〉、空母〈祥鳳〉)等と共に警戒・迎撃任務に従事した。2月20日、ラバウル方面に米空母レキシントンUSS Lexington, CV-2)を基幹とする機動部隊(指揮官ウィルソン・ブラウン中将)が出現した(ニューギニア沖海戦[125]。これを迎撃するため、井上長官は指揮下艦船(鹿島、沖島)および第六戦隊、第十八戦隊(天龍、龍田)を率いてトラック泊地を出撃した[126][127]。22日、パラオへ回航中だった祥鳳隊(祥鳳帆風)も合同する[128][129]。だが米機動部隊(レキシントン)が退避したため、各隊は戦果なく23日にトラック泊地に戻った[130][131]

3月初め、トラックからラバウルへ向かっていた補給船「第二海城丸」が行方不明[注釈 4]となり、「沖島」と駆逐艦1隻が3月6日、7日に捜索を行った[132]

4月25日、南洋部隊の作戦方針に従い、志摩(第十九戦隊司令官)はナウルギルバート諸島攻略命令を発令した[133]。同作戦に先立ち、第十九戦隊はツラギ攻略(フロリダ諸島)を実施する[134]。ツラギ攻略部隊(指揮官志摩少将、旗艦沖島)は4月30日にラバウルを出撃[34][135]。5月3日、南洋部隊各部隊の支援を受けてツラギの占領に成功[135][136]。5月4日[137]、ツラギはフランク・J・フレッチャー司令官率いるアメリカ空母ヨークタウン搭載機の攻撃を受けた[138][139]。最初の空襲で睦月型駆逐艦9番艦「菊月」(第23駆逐隊)が損傷して擱座(その後、沈没)[140]、本艦は駆逐艦「夕月[141]とともに出港してサボ島北方へ避退した[142]。続く空襲で「沖島」も爆撃機による攻撃を受けたが被害は軽微であった[143][144]。米軍側(ヨークタウン)はのべ60機以上の艦載機を投入し大量の弾薬を消費(魚雷22本、1,000ポンド爆弾76発、50口径機銃1万2,570発、30口径機銃7,095発)、対空砲火で3機を喪失、巡洋艦3隻を含む日本艦隊14隻撃沈もしくは大破という推測とは裏腹に、チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官を失望させることになった[145]。5月5日、「沖島」はツラギに戻ると菊月乗員や重要書類を収容し、それからラバウルへと向かった[146][147]。5月7日午前9時頃[148]ラバウルに帰投し、応急修理を受けた[133]

沈没

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珊瑚海海戦後の5月10日17時[133]、志摩司令官が指揮する「RY」攻略部隊(沖島、金龍丸、高瑞丸、第23駆逐隊〈卯月夕月〉)は順次ラバウルを出撃、ナウルおよびオーシャン攻略(RY作戦英語版)に向かった[149][150]。本来は「菊月」が参加する予定だったが、前述のようにツラギ島で沈没したため、代艦として23駆僚艦の駆逐艦「卯月」が攻略部隊に編入された[151]。日本艦隊は、出撃直後から米軍哨戒機に発見されていたという[152]

5月11日早朝、志摩司令官は沖島以下5隻に第一警戒航行序列(沖島、金龍丸、高瑞丸の単縦陣、左右に卯月と夕月を配置)を発令[153]。0345、船団の先頭に立つため取舵に転舵した直後の0347、ブカ島パプアニューギニア)クインカロラ沖合で沖島左舷中部に敵潜水艦が発射した魚雷2本が命中した[153][154]。アメリカ潜水艦S-42は魚雷4本を発射し、3本命中を確認、護衛艦(卯月、夕月)の反撃を受けて離脱していった[153]。これはパナマからブリスベンに進出した第42任務部隊の最初の戦果であったという[153]。「沖島」は左舷への魚雷2本の命中により機関部を破壊され、重油に引火して大火災となった[153][155]。電力・蒸気力の喪失により消防・排水ポンプは作動せず、小型人力ポンプ2台による消火と排水作業となった[156]。志摩司令官は5時45分に「沖島」から「夕月」へ移動して旗艦を変更[157][158]。沖島乗組員は接舷した「金龍丸」に移乗[159]。「高瑞丸」は単艦でクインカロラへ向かい、「金龍丸」は「沖島」を曳航[159]、2隻(夕月、卯月)護衛下でクインカロラ港(ブカ島)へ向かう[37][153]。RY攻略部隊指揮官(志摩司令官)の報告を受けた南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(鹿島座乗)は、麾下の巡洋艦や駆逐隊に沖島救援命令を出した[160][161]ショートランド諸島周辺で行動中の第十八戦隊(天龍龍田)と第30駆逐隊(睦月望月)等およびMO機動部隊として行動中の重巡洋艦「加古」(第六戦隊所属)は[162]、それぞれ沖島救援に向かった(加古到着は12日)[163][164]

第十八戦隊司令官丸茂邦則少将以下[165]、沖島救援部隊合流後[166]、「夕月」は夜間入泊準備のため先行[167]。18時30分(17時25分とも)[168]、「金龍丸」がクインカロラ港口で座礁した[153][169]。なお、当時「金龍丸」艦橋にいた谷浦(海軍大尉)によれば、「金龍丸」は座礁を避けたが曳航されていた「沖島」は止まれずに座礁したと回想している[159]。「金龍丸」は離礁に成功したが[170]、沖島曳航作業は中止され、各艦は夜明けを待った[153]。5月12日0500、駆逐艦「睦月」により「沖島」の曳航が再開されたが[171][172][173]、鎮火したと思われた火災が再びひどくなり[174]、6時47-48分にクインカロラ近海で沈没した[153][169]。推定水深500メートル以上[172][175]。戦死43名(十九戦隊司令部1名を含む)、重軽傷69名(司令部・臨時乗組み含む)と記録されている[155]

また「沖島」救援のため派遣されていた工作船「松栄丸」(松岡汽船、5,644トン)も、ラバウルへ帰投中の午後2時30分[176]セント・ジョージ岬ニューアイルランド島)南44度西9浬地点においてアメリカ潜水艦S-44の雷撃で撃沈された[38][177]

沖島沈没と前後して、南洋部隊(井上第四艦隊長官)は軽巡龍田と敷設艦津軽をRY攻略部隊に編入[178][179]。沖島沈没後の5月12日午前11時、第十九戦隊旗艦は「夕月」から「津軽」に変更[158](沖島の御真影勅諭も津軽に奉安)[180]。沖島生存者は「金龍丸」に便乗した[180]。その後、RY攻略作戦中止により各艦・各部隊はトラック泊地に帰投[181]。沖島生存者は「津軽」に便乗して内地に帰投した[37]

同年5月25日、2隻(敷設艦〈沖島〉、駆逐艦〈菊月〉)は軍艦籍および駆逐艦籍[6]、艦艇類別等級表[182]より除籍。能美大佐(沖島艦長)も横須賀鎮守府附となった[183]。6月5日、横須賀海軍通信隊に沖島残務整理事務所(能美部隊)を設置する[184]。7月5日、沖島残務処理事務所を撤去[185]

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』204-205頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

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艦長

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  • 佐藤波蔵 大佐:1936年9月30日[68] - 1937年1月18日[73]
  • 安住義一 大佐:1937年1月18日[73] - 1937年12月1日[82]
  • 富沢不二彦 大佐:1937年12月1日[82] - 1938年12月15日[88]
  • 平塚四郎 大佐:1938年12月15日[88] - 1939年11月15日[95]
  • 中村勝平 大佐:1939年11月15日[95] - 1940年3月22日[99]
  • (兼)高橋一松 大佐:1940年3月22日[99] - 1940年4月15日[100]
  • 小畑長左衛門 大佐:1940年4月15日[100] - 1940年10月15日[102]
  • 小豆沢成 大佐:1940年10月15日[102] - 1941年9月12日[108]
  • 能美実 大佐:1941年9月12日[108] - 1942年5月25日[183]

脚注

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注釈

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  1. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.2では、公試状態の現状として4,965.00トンとしている。
  2. ^ #昭和造船史1pp.764-795、艦艇要目表では最大幅を15.744mとしている。
  3. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.4では計画、現状とも九三式13mm単装機銃2挺となっている。
  4. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIによれば3月4日に潜水艦「グランパス」の攻撃で沈没

出典

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  1. ^ 写真日本の軍艦第14巻p.10下写真の解説
  2. ^ a b #S11公文備考F艦船1/官房第3516号 10.8.21 軍艦沖島防雷具用金物製造の件画像9、官房第4345号の4『昭和十年十一月十五日 海軍大臣 侍従長宛 軍艦進水ノ件申進 株式会社播磨造船所ニ於テ建造ノ軍艦沖島十一月十五日午后一時十五分滞リナク進水相済候條可然?執奏相成度(終)』
  3. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ68『昭和九年三月十日(内令八二)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 巡洋艦二等ノ欄最上型ノ項中「鈴谷」ノ下ニ「、熊野」ヲ加ヘ、敷設艦ノ項中「八重山」ノ下ニ「、沖島」ヲ加フ』
  4. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.408
  5. ^ #S11.12.1内令提要原稿/艦船画像10、艦艇、特務艦本籍別一覧表(昭和11年12月1日調)
  6. ^ a b c #内令昭和17年5月(3)p.40『内令第九百三十三號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 沖島 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 菊月 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|昭和十七年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  7. ^ #S11公文備考F艦船1/第1003号 11.2.15 敷設艦沖島起工概括表変更認許の件画像1-2
  8. ^ a b c d e f g h #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.18『沖島|敷設艦|117.80|15.52|5.07|4,400|20.0|播磨造船所|9-9-27|10-11-15|11-9-30|14c/m…4|(發射管)-|(探照燈)3|「タルビン」2|艦本式4|(推進器)2|9.000』
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u #一般計画要領書(敷設艦)p.2、『註.上記計画ノモノハ(以下記載ノモノモ仝様)昭和九年八月計画当初ノモノヲ示ス』『註.上記現状ハ(以下特記ノ外仝様)昭和十三年一月二十九日完成当初ノ要目簿ニ依ル』
  10. ^ a b c d e #軍艦進水の件p.5 『軍艦進水ノ件 御下問奉答資料(侍從武官用)軍艦沖島要目』-『艦名:沖島|艦種:敷設艦|長(米):一一七.八〇〇|幅(米)一五.六二〇|吃水 (米)五.〇七〇|排水量(噸):四,四〇〇/(基準)(瓲):四,四七〇|速力(節)二〇|乗員數(假定員):四四五|短艇數:六|製造所:株式會社播磨造船所|起工年月日:九年九月二七日|進水年月日(豫定):一〇年一一月一五日|竣工年月日(豫定):一一年七月三一日|主要兵器|大砲:一四糎 四/八糎高角砲 二|機銃:一三粍 二|機雷:五〇〇|探照燈:三|機械|種類:タルビン|數:二|種類:艦本式|數:四|推進器數:二|馬力:九,〇〇〇』
  11. ^ a b c d e f g h #海軍造船技術概要(1987)上巻pp.806-807、沖島要目。
  12. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.25、沖島の重量比較表
  13. ^ a b #一般計画要領書(敷設艦)p.32、沖島の復元性能
  14. ^ a b #昭和造船史1pp.764-795、艦艇要目表
  15. ^ a b c #一般計画要領書(敷設艦)p.16
  16. ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1712
  17. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.18の計画。士官20人、特務士官6人、准士官7人、下士官兵412人。
  18. ^ #海軍制度沿革10-2(1972)pp.742-743『昭和十一年九月三十日(内令三六二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 敷設艦定員表其ノ六ヲ別表ノ如ク定ム』(第五十六表ノ四 敷設艦定員表 其ノ六は省略)、士官19人、特務士官6人、准士官9人、下士官79人、兵275人。
  19. ^ a b #一般計画要領書(敷設艦)p.4
  20. ^ a b c d e #一般計画要領書(敷設艦)p.6
  21. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.20
  22. ^ a b #一般計画要領書(敷設艦)p.14
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 写真日本の軍艦第14巻34-35頁『◇沖島◇』
  24. ^ #一般計画要領書(敷設艦)p.12
  25. ^ a b 日本軍艦集2600年版コマ63『― 敷設艦 ―沖島(おきのしま) 基準排水量4,400噸、長さ117.8米、幅15.62米、平均吃水5.07米、速力20節、備砲14糎砲4門、起工昭和9年9月27日、進水昭和10年11月15日、竣工昭和11年9月30日、建造所播磨造船所―最新の大型敷設艦、排水量といひ、兵装といひ、速力といひ、斷然他艦を抜く優秀艦である。』
  26. ^ #艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.3『軍艦|敷設艦|勝力、常磐、嚴島、白鷹、八重山、沖島、津輕』
  27. ^ a b c d e #日本補助艦艇物語43-45頁『わが敷設艦の概要』
  28. ^ 写真日本の軍艦第14巻10頁(昭和15年沖島写真)
  29. ^ a b #補助艦艇奮戦記172頁『沖島(おきのしま)』
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n #日本補助艦艇物語49-50頁『(5) 沖島おきのしま(二代)』
  31. ^ a b c 昭和11年12月8日 海軍公報第2928号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070358800 『○旗艦指定 第十二戰隊司令官ハ本月一日旗艦ヲ沖島ニ指定セリ』
  32. ^ a b c d e f g h i 戦史叢書91巻346-347頁『第十二戦隊による対米作戦兵要調査』
  33. ^ a b c 戦史叢書38巻57頁『第十二戦隊の基地調査/背景』
  34. ^ a b c d e f g h i j k 写真日本の軍艦第14巻50頁(『敷設艦』行動年表◇沖島◇)
  35. ^ #戦藻録(1968)116頁『五月十一日 月曜日 半晴 夜雨』
  36. ^ 護衛対潜(昭和17年5月)p.8〔昭和17年5月〕『11|0345頃|沖島「ブカ」島西方ニ於テ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク 19S(司令官)ハ将旗ヲ沖島ヨリ夕月ニ移揚セリ|南東|浸水火災12日沈没 戰死41 重輕傷74 沖島救援隊ノ編制 指揮官18S(司令官)兵力 天竜 加古 1D/30dg 雄島』
  37. ^ a b c #S1702十九戦隊日誌(4)p.51『(四)沖島ハRY作戰中十一日〇三四七「クインカロラ」ノ二七〇度三十二浬ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ行動不能ニ陥リ金竜丸ヲ以テ「クインカロラ」ニ曳航セシモ遂ニ十二日〇六四八.四〇全没、五月二十五日艦籍ヨリ除カル 乗員ハ金竜丸ニ便乗十九日PT着爾後津軽ン便乗内地ニ皈投セリ』
  38. ^ a b #戦藻録(1968)117頁『五月十二日 火曜日 雨』
  39. ^ #達明治38年6月p.2『達第七十三號 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛|戰艦アリヨール イハ|戰艦インペラートルニコライ第一世 |海防艦ゲネラルアドミラル、アプラキシン オキノシマ|海防艦アドミラル、セニヤーウヰン シマ
  40. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ68『沖島(おきのしま)【初代】 艦種二等海防艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考島峡名に採る、沖島は筑前國宗像郡に属す、鐘岬の西北西凡そ40浬に在り、小呂島の北凡そ27浬、長門國豊浦郡神田埼の西凡そ42浬に當り、對馬と馬關海峡の間にあり。 艦歴明治29年露國聖被得堡造船所にて進水したる舊露國軍艦、原名「ゲネラル・アドミラル・アプラキシン」、日露戰役中、「バルチック」艦隊の一艦として日本海々戰に参加、同38年5月28日竹島(日本海の孤島)の南西沖合にて我が艦隊之を捕獲、同年6月6日帝國軍艦と定め「沖島」と命名、大正3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同年3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(艦長中佐鍵和田 専太郎)、同11年4月1日除籍。』
  41. ^ 写真日本の軍艦第14巻2頁『艦名の由来』
  42. ^ #達大正11年4月(1)画像1-2、大正11年4月1日、達第47号。『達第四十七號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 津軽 軍艦 橋立 軍艦 武蔵 呉鎮守府在籍 軍艦 周防 軍艦 千代田 軍艦 大和 佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島 軍艦 見島 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲 驅逐艦 不知火 驅逐艦 朝潮 呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲 驅逐艦 村雨 驅逐艦 朝霧 驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル 呉鎮守府在籍 水雷艇 第六十七號水雷艇 水雷艇 第六十八號水雷艇 水雷艇 第七十號水雷艇 水雷艇 第七十一號水雷艇 佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁 水雷艇 蒼鷹 水雷艇 鴿 水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル 大正十一年四月一日 海軍大臣加藤友三郎』
  43. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ147『沖島(おきのしま)【二代】 艦種敷設艦 艦歴昭和9年9月27日播磨造船工場にて起工。〔註〕初代沖島は海防艦(p.103)参照。』
  44. ^ a b #海軍造船技術概要(1987)上巻p.805
  45. ^ a b #海軍造船技術概要(1987)上巻p.806
  46. ^ 写真日本の軍艦第14巻5頁(沖島後部写真)
  47. ^ 写真日本の軍艦第14巻12頁(昭和15年2月11日沖島写真)
  48. ^ 日本軍艦集2600年版コマ65『― 敷設艦 ―常磐(ときは) 基準排水量9,240噸、長さ124.36米、幅20.45米、平均吃水7.42米、速力21.25節、備砲20糎砲2門、15糎砲8門、8糎砲2門、8糎高角砲1門、起工明治30年1月6日、進水明治31年7月6日、竣工明治32年5月18日、建造所英國アームストロング社―本艦は巡洋艦を改装したもの。なほ、ほかに勝力がある。』
  49. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ144『常磐(ときは)(再出) 艦種敷設艦 艦名考前に出づ(p.81) 艦歴前に出づ:大正十一年九月三十日敷設艦に編入。』
  50. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ145『勝力(かつりき) 艦種敷設艦 艦名考岬名にして横須賀軍港内に在る勝力鼻に採る。 艦歴初め敷設船「勝力丸」と稱す、大正9年4月1日軍艦と定められ、「勝力」と命名。』
  51. ^ 日本軍艦集2600年版コマ64『―敷設艦―白鷹(しらたか) 基準排水量1,345噸、長さ79.2米、幅11.5米、平均吃水2.8米、速力16節、備砲12糎砲3門、起工昭和2年11月24日、進水昭和4年1月25日、竣工昭和4年4月9日、建造所石川島造船所―以上四隻は、いづれも昭和4年以來竣工した新艦ばかりで、我國敷設艦の精鋭陣を成す。』
  52. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実p.145『白鷹(しらたか)【二代】 艦種敷設艦 艦名考鳥名に採る。(備考)初代「白鷹」は明治33年竣工の水雷艇にして日露戰役に從軍、大正11年11月除籍。(要目略)』
  53. ^ 日本軍艦集2600年版コマ64『―敷設艦―嚴島(いつくしま) 基準排水量1,970噸、長さ100米、幅12.75米、平均吃水3.08米、速力16節、備砲14糎砲3門、8糎高角砲2門、起工昭和3年2月2日、進水昭和4年5月22日、竣工昭和4年12月26日、建造所浦賀船渠會社―八重山に次ぐ新艦。沖島、嚴島に比し速力は遅いが、排水量の割合に備砲が優れてゐる。』
  54. ^ 日本軍艦集2600年版コマ63『―敷設艦―八重山(やへやま) 基準排水量1,135噸、長さ85.5米、幅10.56米、平均吃水2.46米、速力20節、備砲12糎高角砲2門、起工昭和5年8月2日、進水昭和6年10月15日、竣工昭和7年8月31日、建造所呉海軍工廠―沖島に次ぐ新艦で、小型ながら却々の精鋭である。』
  55. ^ 写真日本の軍艦第14巻5頁(昭和12年10月20日沖島写真)
  56. ^ #海軍軍備(1)第二復員局p.26『(イ)(1)第一次海軍軍備補充計畫(昭和六年度計畫)』
  57. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ203『◎二等巡洋艦熊野命名ノ件 昭和九年三月十日(達三三)艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 株式會社川崎造船所ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 熊野クマノ』
  58. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ203『◎敷設艦沖島命名ノ件 昭和九年三月十日(達三四)艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻ニ左ノ通命名ス 株式會社播磨造船所ニ於テ建造 敷設艦 沖島オキノシマ』
  59. ^ #沖島起工延期pp.2-3『(理由)同艦ノ工事概括表ハ左ノ通概畧確定シ會社ヨリノ出願ニ対シ認許済ナリシ処同艦ノ安定諸性能ハ尚未ダ調査會ノ審議ヲ了セザルモ之ヲ良好ナラシムル爲ニハ此ノ際一部ノ計画変更ヲ適當トスル状況ニ立到リタルヲ以テ差當リ起工ヲ延期シムルヲ適當ト認ムルニ依ル 但シ竣工期ニ及ボス影響ハ目下ノ処未詳ナキ見込ナルモ起工ハ大約二ヶ月ノ延期ヲ要スル見込ナリ 現豫定 起工九.五.一〇/進水一〇.一〇.下/竣工一一.七.三一(終)』
  60. ^ 写真日本の軍艦第14巻6頁(昭和13年夏沖島写真)
  61. ^ #第4440号沖島p.3『九.九.二七(略)播磨造船所社長 大臣 電報 敷設艦沖島本日無事起工セリ』
  62. ^ 昭和10年11月16日(土)海軍公報第2616号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070352600 『○進水 株式會社播磨造船所ニ於テ建造ノ軍艦沖島昨十五日午後一時十五分進水セリ』
  63. ^ 写真日本の軍艦第14巻4頁(沖島進水式写真)
  64. ^ 昭和8年11月7日(水)官報第2356号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ2(佐藤波蔵は那珂副長から青島艦長)
  65. ^ a b 昭和10年11月18日(月)官報第2664号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ7
  66. ^ 昭和10年11月21日(水)海軍公報第2620号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C12070352600 『○事務所設置 沖島艤装員事務所ヲ兵庫縣赤穂郡相生町株式會社播磨造船所構内ニ設置シ一昨日十九日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  67. ^ 昭和11年9月19日(土)海軍公報第2865号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C12070357800 『○艤装員事務所移轉 播磨造船所構内ニ設置ノ沖島艤装員事務所ヲ撤シ九月十日ヨリ同構内繋留中本艦内ニテ執務セリ』
  68. ^ a b c d 昭和11年10月1日(木)官報第2926号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ8
  69. ^ a b 昭和11年12月1日 海軍公報(部内限)第2496号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C12070361800 『事務引継 第三航空戰隊司令部ノ残務ハ本月一日之ヲ第十二戰隊司令部ニ引継キタリ』-『○事務開始 第十二戰隊司令部ハ軍艦沖島ニ設置セラレ本月一日其ノ事務ヲ開始セリ』
  70. ^ a b #写真第4巻空母IIpp.150-151『水上機母艦行動年表◆神威◆』
  71. ^ #S11.11朝凪日誌(1)p.31『摘要 昭和十一年十二月一日付ヲ以テ昭和十一年度聯合艦隊編制ニ依リ第十二戰隊ニ編入セラル』
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  73. ^ a b c 昭和12年1月20日(水)官報第3012号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4
  74. ^ a b c 戦史叢書38巻57頁『第十二戦隊の基地調査/経過』
  75. ^ #S1202朝凪日誌(1)p.24『昭和十二年二月二十二日月曜日横須賀至サイパン 碇泊(至)』
  76. ^ #第12戦隊燃料p.1『當隊南洋方面行動中ノ燃料等ニ關スル件照會』
  77. ^ 戦史叢書91巻356-357頁『現地艦隊の増勢』
  78. ^ #S1208朝凪日誌p.29『摘要 本日附ヲ以テ第三艦隊第三航空戰隊ニ編入、水上基地調査ノ為メ「キョーワン」ニ廻航双日帰投。』
  79. ^ 昭和12年8月28日(発令8月28日付)海軍辞令公報(号外)第39号 p.42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072200 
  80. ^ 昭和12年8月30日(月)海軍公報(部内限)第2702号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C12070367300 『○代将旗指定 第三航空戰隊司令官ハ本月二十七日代将旗ヲ神威ニ指定セリ』
  81. ^ #日本海軍艦艇写真集潜水艦潜水母艦194頁『沖島(II)』
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  • 寺崎隆治ほか『補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1 
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  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
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  • イアン・トール著、村上和久訳「第十章 索敵の珊瑚海」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
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  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II 敷設艦・敷設艇 特設巡洋艦 二等駆逐艦 魚雷艇・震洋艇 雑務船・内火艇 病院船他/日本海軍作戦年表』光人社、1990年9月。ISBN 4-7698-0464-4 
  • 「敷設艦 一般計画要領書 附現状調査」。 


  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。 
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。 
    • 『大正11年 達 完/4月(1)』。Ref.C12070080200。 
    • 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(3)』。Ref.C12070162900。 
    • 『第1071号9.5.7敷設艦沖島起工延期の件』。Ref.C05034897600。 
    • 『公文備考 昭和11年 F 艦船 巻1/第1003号 11.2.15 敷設艦沖島起工概括表変更認許の件』。Ref.C05034897800。 
    • 『第4267号10.9.26軍艦沖島進水記念絵葉書製造許可の件』。Ref.C05034202700。 
    • 『第4343号10.10.15皇族の御差遣を奉仰度の件』。Ref.C05034091800。 
    • 『第4345号10.10.15軍艦進水の件』。Ref.C05034898300。 
    • 『第4440号9.10.12沖島』。Ref.C05110625100。 
    • 『第4673号10.11.6軍艦沖島進水式に参列の海軍士官代理の件』。Ref.C05034092200。 
    • 『第4663号10.11.12軍艦沖島進水式参会者に関する件』。Ref.C05034092300。 
    • 『第4711号10.10.25敷設艦沖島命名式次第書に関する件』。Ref.C05034898500。 
    • 『第4760号10.11.6敷設艦沖島進水式実況活動写真撮影許可の件』。Ref.C05034203500。 
    • 『第567号12.1.29 昭和11年第12戦隊機密第42号舎営料増額の件』。Ref.C06092404800。 
    • 『第5993号 11.3.23第12戦隊第25号の2航空加俸支給の件』。Ref.C05035250400。 
    • 『第12戦隊機密第67号12.1.16当隊南洋方面行動中の燃料等に関する件』。Ref.C05110911600。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(1)』。Ref.C06092479700。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(2)』。Ref.C06092479800。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(3)』。Ref.C06092470900。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(4)その1』。Ref.C06092470000。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(4)その2』。Ref.C06092470100。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(5)』。Ref.C06092470200。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(6)』。Ref.C06092470300。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(7)』。Ref.C06092470400。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(8)』。Ref.C06092470500。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(9)』。Ref.C06092470600。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(10)』。Ref.C06092470700。 
    • 『第12戦隊機密第141号の5 昭和12年度第12戦隊兵要調査報告の件(11)』。Ref.C06092480800。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和11年11月1日~昭和12年1月31日(1)』。Ref.C11084305400。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和11年11月1日~昭和12年1月31日(2)』。Ref.C11084305500。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和12年2月1日~4月30日(1)』。Ref.C11084305800。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和12年2月1日~4月30日(2)』。Ref.C11084305900。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和12年5月1日~7月31日(1)』。Ref.C11084306200。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和12年5月1日~7月31日(2)』。Ref.C11084306300。 
    • 『駆逐艦朝凪 昭和12年8月1日~8月31日』。Ref.C11084306600。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030018200。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030018300。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030580700。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030066400。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030066500。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030066600。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030066700。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030066800。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030066900。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年1月31日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030067000。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030068100。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030068200。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030068300。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030068400。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030068500。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030068600。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年4月14日 第19戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030068700。 
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年7月31日 第18戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030060400。 
    • 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030045600。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和17年5月』。Ref.C16120656900。 
    • 『昭和17.4.11~昭和17.6.30 太平洋戦争経過概要 その2/17年5月1日~17年5月16日』。Ref.C16120632400。 
    • 『昭和11年12月1日現在 10版 内令提要追録第1号原稿/巻3 追録/第13類 艦船』。Ref.C13071969000。 
    • 『昭和15年12月25日現在10版内令提要追録第8号原稿/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13071993800。 
    • 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071997700。 
    • 『昭和17年6月30日現在 10版 内令提要追録第11号原稿(上)/第3類定員(6)』。Ref.C13072006100。