大名府
大名府(だいめいふ)は、中国にかつて存在した府。五代十国時代から民国初年にかけて、現在の河北省・河南省・山東省にまたがる地域に設置された。
概要
唐の魏州を前身とする。923年(同光元年)、五代の後唐により魏州は東京興唐府と改められた[1]。937年(天福2年)、後晋により興唐府は広晋府と改称された[2]。948年(乾祐元年)、後漢により広晋府は大名府と改称された[3]。
1042年(慶暦2年)、北宋により大名府に北京が置かれた。北京大名府は河北東路に属し、元城・大名・内黄・成安・魏・館陶・宗城・冠氏・臨清・夏津・清平・莘の12県を管轄した[4]。
1128年(天会6年)、金の宗輔が大名府を攻め落とした[5]。大名府は大名府路に属し、元城・大名・魏・南楽・館陶・冠氏・夏津・清平・朝城・莘の10県と安定・安賢・南楽・館陶・普通・清水・博寧・桑橋・孫生・清平・韓張・馬橋の13鎮を管轄した[6]。
1217年、モンゴル帝国が大名府を攻め落とした[7]。大名府は大名路総管府と改称された。元のとき、大名路は中書省に属し、録事司と元城・大名・魏・南楽・清河の5県と開州に属する濮陽・清豊・長垣・東明の4県と滑州に属する白馬・内黄の2県と濬州、合わせて1司5県3州州領6県を管轄した[8]。
1368年(洪武元年)、明により大名路は大名府と改められた。大名府は北直隷に属し、直属の元城・大名・魏・南楽・清豊・滑・内黄・濬の8県と開州に属する長垣・東明の2県、合わせて1州10県を管轄した[9]。
清のとき、大名府は直隷省に属し、元城・大名・南楽・清豊・長垣・東明・開州の1州6県を管轄した[10]。
北宋の時代に陪都として栄えた大名府の宮城や城郭都市は、陪都でなくなると衰退の道をたどり、明代には大洪水で放棄され、市街地は現代の邯鄲市大名県の県城に移った。北宋時代の大名府の遺跡(大名府故城)は大名県大街郷に残っており、2006年に中国国務院によって全国重点文物保護単位に指定された。