飛騨川バス転落事故

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飛騨川バス転落事故
Hidagawa-Bus-accidents place.JPG
飛騨川バス転落事故現場。
右上方の河岐山・西側斜面の沢で土石流が起こり、国道41号に停車していた観光バス2台が押し流されて飛騨川の深い谷に転落した[1]
場所 日本の旗 日本岐阜県加茂郡白川町河岐 上麻生ダム下流・南側約330メートルの国道41号・64.3km付近[2]
Japanese National Route Sign 0041.svg国道41号
座標
北緯35度33分37.0秒 東経137度11分2.6秒 / 北緯35.560278度 東経137.184056度 / 35.560278; 137.184056座標: 北緯35度33分37.0秒 東経137度11分2.6秒 / 北緯35.560278度 東経137.184056度 / 35.560278; 137.184056
日付 1968年(昭和43年)8月18日[1]
午前2時11分[1] (JST)
概要 国道41号(64.3km付近)で土砂災害の影響により走行不能に陥った観光バス2台が山斜面の沢で発生した土石流に押し流されて飛騨川に転落し水没。乗客乗員計107人が濁流に飲み込まれ消息不明に。死者104人。負傷者3人[1]
原因 集中豪雨によって河岐山・西側斜面の沢(標高380メートルから490メートルの間)で発生した大規模な土石流[3]
死亡者 104人(うち遺体未発見者8人)[4]
負傷者 3人[4]
被害者 フリーペーパーが主催した観光バスツアーの客、添乗員、バス乗務員[1]
損害 岡崎観光自動車所属の観光バス2台[4]
対処 自衛隊、警察、消防などによる飛騨川・木曽川の下流域から伊勢湾までの範囲で48日間に亘る大規模な行方不明者の捜索活動を実施[5]。上流ダムの放流を一時的に堰き止め、飛騨川の水位を下げて捜索活動を敢行[6][7]。事故後に雨量通行規制の導入、道路管理の見直し、パトロールの強化、関連機関との連絡強化、気象通報の徹底などが図られた[8]
賠償
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飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、1968年(昭和43年)8月18日未明、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号において生じた土砂災害によるバス事故である[1]

名古屋市内から乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し水没、乗員・乗客107人のうち104人が死亡した[1][12]

日本のバス事故史上における最大の事故となった。世界のバス事故史上においても最大級に分類される事故である[12]

事故に至るまでの経緯[編集]

以下、時刻は24時間表記とする。国道41号の「キロポスト」数値(km)は、事故当時を基準とする[注 1][注 2]。概略については後述の#時系列表を参照のこと。

乗鞍雲上大パーティー[編集]

犠牲者を出した乗鞍岳登山観光バスツアーは、名古屋市団地や集合住宅の主婦を対象に「無料新聞(フリーペーパー)奥様ジャーナル」を発刊していた株式会社団地新聞奥様ジャーナル社[注 3]が読者に対するサービスの一環として観光バスツアーを企画し催行されたものだった[1]。奥様ジャーナル社が読者に旅行先のアンケートを取ったところ、乗鞍岳登山を希望する人が圧倒的に多かったことから7月10日に同新聞社が主催し、名鉄観光サービスと共催で実施することを決定した[1]。ツアー全般の管理を奥様ジャーナル社が、バスの運行管理と手配を名鉄観光サービス社が担当した[1]。乗鞍岳登頂と御来光見物を目的とすることから「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティー」と銘打ち、ツアー参加者を募集することになった[1][12]。参加費は大人1人につき2000円(子供は減額)、参加特典はくじ引き・御土産・弁当付きとした[12][13]。高度経済成長期のレジャーブームのなかで乗鞍岳に直接乗り入れ可能な道路が整備されたこと、お盆休みの週末という日程と、乗鞍岳からの御来光や北アルプスのパノラマ、飛騨高山地方の山岳観光を手軽に楽しめる家族旅行向けのツアー企画ということもあり、申し込み人数は主催者側の予想を大きく上回り、最終的には名古屋市内の団地や共同住宅を中心に750人以上が参加することになった[1][12][13]。ツアーの募集広告は紙面で2回のみの掲載だったが、申し込みの盛況ぶりから乗鞍岳登山への関心の高さが窺われた[13]。観光バスツアーの参加者は、その大半が「奥様ジャーナル」の読者とその家族だった[1][13]

この結果、貸切バスは、当初予定していた岡崎観光自動車の観光バス6台だけでは台数を調達しきれず、名古屋鉄道系列の同業他社3社にも応援が要請された。知多乗合自動車2台、東濃バス2台、名古屋観光自動車5台の計9台が追加され、合計4社15台が手配された[14]

確定した予定では、8月17日夕刻に名古屋市内の各団地に割り当てられた各車両が42ヶ所の集合場所で予約客を乗せ、愛知県犬山市成田山名古屋別院大聖寺駐車場に21時30分に全車が集合し、休憩ののち22時に出発。その後岐阜県に入って飛騨川の日本ライン沿いに国道41号を北進し、美濃加茂市美濃太田、白川町下呂町高山市平湯を経由して、標高3000メートル 近い乗鞍スカイライン畳平に翌18日未明に到着し、3時30分ないし4時までに山頂へ登り、御来光を迎える。山頂付近でパーティーをおこない、その後に山頂を10時30分ないし11時に出発する。14時ごろ下呂温泉で昼食を兼ねた休憩を取り、18時に犬山市へ戻り、各団地ごとに解散という旅程だった[1]。車中泊を含むとはいえ片道160キロメートルの行程で、中京地区のベテランのバス運転手たちにとっては「定番コース」ともいうべき通り慣れた道だった。

ツアー主催者は、7月28日および29日の両日に全行程の現地調査(下見)を実施した。またツアー決行日の前日に添乗員会議を開き、配車計画や日程等の最終打ち合わせを行った[15]

当時の天候[編集]

現場付近の国道41号。事故当時と道路幅は余り変わっていない。山側も谷側も切り立っており、落石の危険がある道路でもある。

8月17日・朝の中部地方一帯の天候は、名古屋市周辺を含め、日本海を50 km/hで北上する台風7号の影響で、朝から俄雨の降るぐずついた天気だった[16]。岐阜県下も例外ではなく、雷雲が発達して山間部を中心に朝から雷雨が降っていた[16]。岐阜地方気象台は、9時30分に大雨・洪水注意報を発表していたが[16]、11時10分に大雨・洪水・雷雨[注 4]注意報を発表した[16]。午後に入ると雷雲は衰えて雨は小降りになり、場所によっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせ、17時15分に注意報を解除する[16]。その後、19時前に放送された天気予報は、岐阜県の天気は回復し翌朝は晴れる見込みだと報じた[注 5]

北海道西方の沖合い400キロメートルまで進んだ台風7号は、勢力を落として温帯低気圧となった[16]。しかし、大陸に横たわる寒冷前線が東北地方から北陸・近畿を経て九州付近にのび、それに向かって太平洋高気圧から暖かい湿った空気が「湿舌」のかたちで入り込んだため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、飛騨地方の中央分水嶺南側を中心に直径数キロメートル程度の局地的かつ濃密な積乱雲が多数発生しはじめる[16]。これを捉えた富士山レーダーからの連絡を受け、岐阜地方気象台は20時に東濃・美濃および飛騨高山地方に対して雷雨注意報を発表し[17]、22時30分には大雨警報・洪水注意報に切り替えた[17]。事実、岐阜県内では17日23時から18日24時までの1時間雨量が白川町三川小学校で75mm[18]、上麻生78mm[15]、そして郡上郡美並村(現・郡上市美並町)で149mmという猛烈な雨が降り、過去の記録を大きく上回る集中豪雨となる[17][19]

局地的な集中豪雨により、日付が変わる前後から岐阜県内の山間部で被害が出始めていた[20]。加茂郡、武儀郡、郡上郡、益田郡、恵那郡で家屋の全半壊および流失104棟、床下浸水3,397棟、山くずれ235か所、田畑の冠水7,345ヘクタールなどの被害が相次ぎ、加茂郡白川町、川辺町、富加村などに災害救助法が発令された[20]。罹災世帯は3,979世帯、罹災者数は概算で17,890人に及んだ[20]。交通機関も被害を受け、鉄道では国鉄高山本線古井駅 - 下油井駅間で線路崩落(復旧に1ヶ月近くを要した)が発生し、同線内で計15ヶ所の不通区間が生じていた[20]。国鉄・越美南線美濃太田駅 - 郡上八幡駅間でも線路浸水や道床流失、土砂流入などが各所で発生し不通区間が生じた[20]。道路では419か所の損壊が起こった[20]。電話線も被害を受け、一般加入電話で約3,200回線が不通となった[20]。人的被害は死者14人、負傷者は5人を出す未曾有の災害となった(本件事故を除く)[20]

一方、ツアーを主催する奥様ジャーナル社長は、標高の高い地点に観光客を送迎するだけに台風7号の動きを気にしていた[1]。17日当日は、3回にわたって日本気象協会東海支部に電話を掛け、乗鞍岳山頂および往復路の天候を照会していた[1]。しかしながら主催者が気にしていたのは、あくまでも乗鞍岳山頂付近の天候が主であり、ツアーバスが走行する国道41号沿いの天候はあまり考慮に入れていなかった[15][21]。主催者は、18時30分に目的地の天候を気象協会に電話で照会した(当日3回目)[14]。それによれば「乗鞍岳山頂の天候は、17日は北西の風で俄雨と濃霧(視程150m)が残るが、翌日は西よりの風で霧のち晴れ、天候は回復する」という回答だった[1]。主催者は明日になれば乗鞍岳の天候は回復すると判断した[1]。さらに主催者は、18時に名古屋鉄道・新名古屋駅案内所に電話を掛け、乗鞍岳夏期定期観光バス「のりくら号」の運行情報を問い合わせたところ、右観光バス夜行便は予定どおり運行することを確認した[14]。それらの情報を総合して予定通りツアーを行うことを決断したが、20時に発表された「雷雨注意報」、さらに22時30分発令の「大雨警報・洪水注意報」を主催者は把握することができなかった[15]。17日に気象警報・注意報が発表されていなかったのは、17時15分から20時までの2時間45分の間のみで、一日を通してその大半が何らかの注意報や警報が発表されている状態だった[22]

事故当時は、運行中のバスが即時的かつ能動的に最新の気象情報を把握することは、移動通信網などの情報伝達手段が整備されていなかったこともあり、殆んど不可能であった。車内でラジオ放送の気象情報を聴くか、中継地点で気象情報を得るなどの方法に頼っていた[15][23]

出発から予定変更まで[編集]

乗鞍岳登山観光バスツアーの一行は、乗客725人、主催者・運転手・添乗員ら計48人、合計で773人が参加するという大規模なバスツアーだった。

バスツアー一行の車列の構成は、岡崎観光自動車の予備乗務員6人を乗せたライトバンを先導車とし、その後ろに各観光バス15台が列を為した。一号車から七号車までの6台を岡崎観光自動車(四号車は欠番)、八号車と九号車の2台を知多乗合自動車、十号車と十一号車の2台を東濃バス、十二号車から十六号車までの5台を名古屋観光自動車がそれぞれ担当した。各バス間の連絡係として奥様ジャーナルと名鉄観光サービスの社員各1人が乗用車に乗り込み、車列の最後尾に着いた。

バス主催者の奥様ジャーナル社長と名鉄観光サービス支社次長が乗った先頭の一号車を「本部車」とし、以降二号車から十六号車までの計14台(四号車は欠番[注 6])には交代運転手と添乗員2人が各車にそれぞれ同乗した。15台のバス集団に計2台の伴走車を加え、合計17台・長さ600メートルの車列を連ねてバスツアー一行は22時20分に犬山市を出発した[注 7]

出発した時点の天候は、曇っていたがまだ雨は降っていなかった。しかし、22時30分に岐阜地方気象台から東濃・美濃地方に「大雨警報・洪水注意報」が出され、その直後の22時40分ごろに一行が美濃加茂市内を通過したあたりから雨が降り始めた。このときに本部車の一号車では、夜も遅いことからマイクによる車内放送を早々に打ち切り、ラジオも切って走行していた。22時58分にNHKラジオは臨時の気象情報を放送したが、ツアー主催者は大雨警報を把握することが出来なかった。一行は、50km地点の下麻生地内に差し掛かったところで激しい雷雨に遭遇した。ワイパーを高速で作動させても拭いきれないほどの豪雨で、前方の視界はあまり効かなかった。道路は冠水し、減速しなければ走れないほどの状態になった。ツアー主催者は、その状況を一時的かつ局地的な豪雨であると判断したことから、断続的に走る稲光、降り続く豪雨のなかを目的地に向かって進んでいった。激しい雷雨は、一行が23時19分に飛泉橋(66.7km)を渡るころまで続いた。一行は国鉄高山本線・白川口駅前から3kmほど北進した69.6km地点で左車線に斜面から土砂が落ちている状況に遭遇したが、各車は右車線にはみ出して土砂を避けて通過した。ここまでの道中で道路状況に異常を認めたのはそれが唯一であり、同じ方向に進む他社の観光バスが多数あったことからもツアー主催者は特に不安を感じずに車団を更に北進させた。

23時33分にバスツアー一行は加茂郡白川町坂ノ東の76.5km地点にある最初の休憩地「モーテル飛騨」に到着した。運転手たちにとっては勝手知ったる道で、悪天候でも問題なく走れた。ここまでの行程は、ほぼ予定通りだった。「モーテル飛騨」の駐車場には、すでに多くの乗用車や観光バスが駐車して満車になっており、路上にも多くの車が停まっていた。混雑の影響で一行は、道路上で縦一列に駐車しなければならなかった。お盆休みの週末で混雑していることもあったが、豪雨による道路状況の悪化が混雑に影響していたことは明らかだった。

バスツアーの主催者は、駐車場の混雑の中に入って行き、他車から道路状況などを把握しようとした。そこから得た情報によると、毎時50ミリメートル以上という猛烈な豪雨の影響により、休憩地から北方に1.5kmほど進んだ中山七里の入口にあたる78km地点(下油井・坂東橋付近)で大規模な土砂崩れが発生して道路が通行不能になっていて、復旧作業は夜明け以降に行われるなど、休憩地より北方の国道41号の道路状況が極めて悪いとのことだった。ツアー一行の先導を務めていた予備乗務員たちを乗せたライトバンが78km地点に赴き、道路の状態を直に確認したところ、土砂崩れは両側車線を完全に塞ぐ大規模なものであり、短時間での復旧の見込みが立たないことが判明した。先導車は「モーテル飛騨」に戻り、主催者にその旨を報告した。その情報に従ってツアー主催者2人が協議した結果、これ以上の運行を断念してツアーを1週間後に延期することとし、各号車は帰路の集合場所に指定した各務原市の名鉄新鵜沼駅前まで引き返すことが決定された。主催者2人は、決定事項を添乗員と運転手を集めて説明し了解を得た。その後に乗客にもツアー延期と出発地へ引き返す決定が告げられたが、そのことに異議を唱える人はいなかった。「モーテル飛騨」の駐車場や路上に停車していた各車のなかで、下呂・高山方面への北進を諦めた車両は、次々と名古屋方面へ南進し始めていた。どうしても北進する必要がある車両のみが駐車場に留まる状況だったので、ツアー延期と引き返す判断は、やむを得ない措置だと認識された。

旅行を中断し、出発地点まで引き返す決定に至った理由は、目的地までは更なる道路状況の悪化が予想されるうえに、土砂崩れ現場(78km地点)の復旧作業が夜明け以降に実施されることから、ツアーの目的である「乗鞍岳山頂で御来光を迎えること」が不可能になったからである。往路で通過してきたばかりの道中を引き返し、乗客を車中泊ではなく帰宅させるという判断だった[注 8]。国が設置し管理を行う「国道」に対する安心感も働いた。しかし、この進路変更の決定は、結果的に土砂崩れや土石流発生の危険地帯である飛水峡区間[注 9]にバスツアー一行を招き、土砂災害に巻き込む判断となってしまった。

帰路[編集]

日付が変わった8月18日0時5分、乗鞍岳登山観光バスツアー一行は、道路上で各車が反転し「モーテル飛騨」を出発、合計15台のツアーバスは激しさを増す雷雨の中を名古屋への帰路についた。このとき一号車から五号車の計4台の間に十四号車が入り、そのあとに六号車から十六号車の計10台が続いた。5kmほど南へ進んだ「七曲モーテル」で十四号車が休憩を理由に停車したため、六号車と七号車は同号車を追い抜き、一号車から五号車を追随しつつ、計6台の車団を形成し先行していった(この岡崎観光自動車に所属する計6台の車団を第1グループと呼ぶ)。八号車から十六号車の計8台は十四号車に合わせて七曲モーテル前に停まり、その後に計9台の車団で走行を再開した(この別会社の混成である計9台の車団を第2グループと呼ぶ)。

0時17分に先行した第1グループ計6台は、モーテル飛騨から南へ10kmほど進んだ国鉄高山本線白川口駅前(66.8km)を通過し、同18分には飛泉橋(66.7km地点)を渡った。そのときに第1グループは、白川口駅前に他社の観光バスや乗用車が多数停まっていた状況を認めていたが、道路状況の異常を認識しなかったために飛水峡区間へ向かって進んでいった。通行規制は飛泉橋を下呂方面に向かって渡る車両には「北進禁止」の看板が23時30分ごろ警察によって出されていたが、名古屋方面に向かって南進する車両に対しては何も出されていなかった。またこのとき第1グループは、南進するにあたって何らの警告も助言も受けなかった。

0時20分ごろ、やや遅れて走ってきた計9台の第2グループは、先頭の十四号車が白川口駅前に停まっていた複数の観光バスの中に同じ方向へ進む同僚のバス(名古屋観光自動車)を偶然に見つけたため駅前に停車した。それに追随して他の8台も同駅前に停車した。十四号車の運転手は、同僚車が故障などのトラブルに遭ったのかと思い、同バスに歩み寄って事情を聴いた。同僚の運転手が言うには「この先の飛水峡方面の道路状況が悪化しているので運行を中止する旨を会社に連絡していた」ということだった。そのことを聞いた第2グループの他の運転手らは、会社への連絡などのために駅前の公衆電話に向かった。そこへ飛騨川の水位を警戒していた白川町消防団第二分団の消防団員がやって来た。第2グループの運転手らは同消防団員に呼び止められ、この先の飛水峡方面は溢水や落石の危険があるとして、運転を見合わせるよう勧告された[24]。第2グループの運転手らは、飛水峡方面から白川口駅前へ北進してくる車両から直接情報を得たところ、やはり飛泉橋から南方の飛水峡区間では、所々で土砂崩れがあり、道路が通行不能になっている箇所があることを知らされた。そのことから同運転手らが協議した結果、道路情報と消防団員の警告とを併せて判断し、白川口駅前広場で道路が復旧するまで待機することを決め、深夜の豪雨をやり過ごすことにした。第1グループと第2グループの明暗は、以上のような経緯で別れることとなった。

0時20分、飛泉橋を渡った第1グループは、直後の65.25km地点で小規模な土砂崩れに遭遇する。土砂は左車線を高さ64cmで全面を塞ぎ、センターライン付近で高さ20cmほどだった。右車線に土砂は被っていなかったが頭大の石が10数個ほど転がっていた。土砂と石は人力で取り除くことが可能だったので、運転手および添乗員らは、ずぶ濡れになりながら手分けして土砂をスコップで除去し、石を全て飛騨川へ落とした。そして15分ほどで運行を再開させた。このとき、反対車線には北進する他社の観光バスや乗用車が待っており、ツアー主催者や第1グループの運転手らは、南方の道路状況に不安を感じることはなかった。

0時40分、上麻生ダム付近から南へ1kmほど進んだ64.17km地点で大規模な土砂崩れが生じて道路が完全に寸断されていたため、第1グループは運行不能に陥ってしまった。そこへ第2グループに待機を勧告した白川町消防団第二分団の団員が現場へ警戒にやってきた。同消防団は、飛泉橋を渡って南進した車両があることを聞き、状況の確認に同現場へ向かったのだった。同消防団員は、立ち往生していた30台ほどの全車両に対し、白川口駅方面への退避を勧告した。第1グループは同消防団の勧告に従い、白川口駅方面へ2kmほど戻ることにした。ところが、前方で木材を積載した大型トラックが左車線を塞ぐ形で停車しており、また道路上で転回不能な道幅であったため、第1グループの計6台のバスは、やむなく一号車から先に後退で右車線を移動し始め、その後に二号車、三号車が続いて後退した。3台のバスは「三、二、一」号車の順で右車線を後退しながら約100mほど白川口駅方面へ移動を開始した。五号車から七号車の3台は、同現場からはほとんど後退せず、停車位置を飛騨川寄りの右車線に変えたほかは、当初の停車位置を保った。その結果、三号車から一号車は車団最後尾の七号車の後ろに着く形となり、五号車が車列の先頭に出る形で「五、六、七、三、二、一」号車の順になった。各車は5、6mの間隔を取りつつ、飛騨川寄りの右車線に約100mの長さで停車した。先頭の五号車と六号車が停車した位置は、64.3km地点の河岐山・西斜面に流れている沢の真横だった。

車列の最後尾に着いた一号車は、先行して白川口駅方面へ大きく後退していったが、1時ごろに64.45km付近まで来たとき、立ち往生していた他の観光バスの間をすり抜けようとしたトラック2台が両車ともに左車線の側溝に脱輪した。トラックの脱輪を救援しようと他のトラックが脱輪車をけん引しようとしたところ、他の観光バスと接触事故を起こして両側車線を全面的に塞いだ。その間に南進する他車が接触事故現場へ続々と走ってきて付近は身動きが取れない状態となった。その影響で一号車はそれ以上の後退ができなくなった。これにより、第1グループの6台は1時間ほど、その場で身動きが取れなくなってしまった。

1時35分ごろ、64.3km地点から約600m北方の64.8km地点でも土砂崩れが発生し、続けて1時50分ごろに64.6km地点でも土砂崩れが発生した。これにより、第1グループの計6台は、車列の前後を土砂で塞がれ、完全に道路上で走行不能に陥ってしまった。それでも一号車から三号車の各車は、土砂崩れの危険を避けようとバスの停車位置を微妙に変える措置を取った。

豪雨が降り続く中、各号車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外し、崖を照射して土砂崩れや鉄砲水の警戒にあたった。また、後方の状況を伝えるために三号車の運転手が先頭の五号車に向かい、六号車の運転手も対策を協議するため七号車に移動するなど、危険回避に向けた取り組みが行われた。

乗務員らによる警戒が続くなかで七号車などの乗客らは、前方に停まっている五号車と六号車を羨ましく感じていた。なぜなら、前の2台が停まっている場所には、山の斜面から土砂や小石が落ちて来ず、自分たちが停まっている場所には頻繁に細かい土砂や石が落ちてきており、不安と恐怖を感じていたからだった。「五号車と六号車は場所がいい」などと車内では話されていた。64.3km地点の「沢」については、運転手らにはその状態が良く判らなかった。暗闇の中で鬱蒼と生い茂る木々に覆われた沢は、その姿を隠していたが、土砂が堆積した崖や法面よりかは危険が無さそうだった。前記のように、沢の場所には実際に土砂などは落ちてきておらず、安全なように思えた。消防団からの助言でも金網で斜面を覆っているところや土砂が剥き出しになっているところよりかは安全性が高いとされていたので、五号車と六号車はその場所から後退はしなかった。

事故発生[編集]

上麻生発電所。ここから事故の第一報が伝えられた。

第1グループの計6台の観光バスが走行不能に陥ってから1時間半ほど経った2時11分[25]、五、六、七号車が停車していた64.3km地点で河岐山・西斜面の沢の上流、標高440mから490m付近、国道41号からの距離にして606mないし695メートルの範囲で、長さ約100m、幅約10mの岩盤崩落が起き、地鳴りと共に巨大な土石流が発生した。推定3,000から7,000立方メートル、10トンダンプカーに換算して約500台から1,167台分の岩石と土砂が流出し、沢の30度から40度の急斜面を時速36km/hの速度で一気に滑り落ちて五、六、七号車を直撃した。七号車は1メートルほど横滑りしながらもガードレールに抑えられたが、五号車と六号車は「メリメリ」という金属音を立てながらガードレールを突き破り、15メートル下の増水した飛騨川へゆっくりと転落し水没した。2台とも濁流に飲み込まれて乗客乗員もろとも消息不明となった。五号車と六号車には併せて107人の乗員乗客が乗っていた。土石流が収まった後の五号車と六号車が停まっていた場所には、740立方メートル分の巨岩と土砂が堆積し、沢の水が川を作って滝となり、飛騨川へ激しく流れ落ちていた。また現場のガードレールは、2台のバスが圧し潰したためか無惨にも折れ曲がり無くなっていた。大惨事にもかかわらず運転手1人、添乗員1人、乗客1人の計3人(3人とも男性)が救助され、白川町の病院に収容された。いずれもバスの割れた窓ガラスから濁流の中に投げ出され、川岸に生えていた木の枝などに掴まり、自力で這い上がるか一般ドライバーに救助されるなどして生還に繋げた。

事故発生時に車内で就寝している乗客も多かったが、予期せぬ大音響と震動で各号車の車内は総立ちとなり、特に大惨事を目の当たりにした七号車は騒然となった。奇跡的に生還した3人のうちの一人である五号車の運転手は、バス転落の瞬間に車内の子供たちが挙げた「アーッ!」という叫び声が耳から離れない、と後に証言した。六号車の運転手は七号車から自車の最期を目撃し、五号車にいた三号車の運転手は消息を絶った。

事故発生直後の2時15分ごろ、上麻生ダムから岐阜県警加茂警察署白川派出所に「国道41号で発煙筒のようなものが焚かれていて異常事態が発生したようだ」と通報が届いた。通報を受けた駐在所員と白川町消防団員が現場に駆け付けようとしたが、土砂崩れと冠水の影響で現場に近付けずに状況を確認できなかった。山を越えて迂回路で事故現場の確認に向かうことも検討されたが危険性が高いと判断され一時的に断念した。難を免れたバス乗務員たちは、発煙筒を焚いて事故発生を知らせると同時に乗客を車外に誘導して安全確保に努めた。4人の乗務員が救助を求めるために2ヶ所の崩落現場を乗り越え、飛騨川の対岸にある上麻生ダム見張所に向かった。同見張所で当直にあたっていた上麻生発電所職員は、乗務員4人の要請を受け、直ちに通信線でダム本部(上麻生発電所)に連絡するとともに、二次災害を防ぐために乗客乗員や一般ドライバーたちを見張所や水門機械室、資材倉庫へ誘導し避難させた。上麻生発電所から岐阜県警本部へ通報が入り、機動隊員30人の事故現場への派遣が決められた。消防団は、3時30分ごろに白川町役場が白川町住民に避難命令を出した関係で各住民を避難場所に誘導する措置を取った。5時ごろ、消防団は再び発煙筒が焚かれていた場所へ確認に向かったところ、上麻生ダム付近でバスの乗客らから事故の発生を知らされた。その後にバスの乗員乗客らを1時間半ほど掛けて白川町中学校体育館に避難させた。一方で事故現場付近に再度赴いた派出所の駐在所員は、5時ごろに消防本部から事故発生の情報を受け取り、国鉄白川口駅の鉄道電話で加茂署に通報した。それは転落事故から3時間29分が経過した5時40分のことだった。このとき警察専用電話は不通となっていた。

事故は朝のニュースで全国に速報され、世間の関心は飛騨川の事故現場に集中した。

事故後[編集]

救出作業[編集]

飛水峡。切り立った断崖が両岸に迫り、捜索隊の救助活動を苦しめた。
事故地点から約900メートル上流にある上麻生ダム。水位零作戦の前線司令部となった。
上麻生ダムの上流にある名倉ダム。水位零作戦において役割を担った。
飛水湖。貯水を全て放流し捜索活動が行われた。

通報を受け、加茂警察署ほか4警察署機動隊、各地域の消防団、さらには陸上自衛隊第35普通科連隊[26]などが岐阜県から災害派遣要請を受けて救助活動にあたるなど、捜索活動を側面支援した。しかし、現場は飛騨木曽川国定公園にも指定されている名勝・飛水峡の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立った峡谷を形成していた。100名を越す乗員・乗客の安否はもちろん、車体すら発見できなかったが、事故翌日の8月19日10時30分ごろ、転落現場から約300 m下流で、五号車がタイヤを上にして車体を「くの字」に押し潰された状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容された。このほか転落現場周辺で23名の遺体が発見されたが、六号車や他の行方不明者は発見できなかった。

普段から飛騨川は日本有数の急流として知られるが、豪雨に伴う激しい流れにより救助活動は難航する。しかし、行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。

これに応じて、上流にある名倉ダムも活用して上麻生ダムの放流を停止し、水が引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない六号車の捜索を行わせることになる。

上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから「水位零(ゼロ)作戦[注 10]と名付けられた。この「作戦」は、上流の名倉発電所が発電をしている限りは名倉ダムの満水到達時刻を遅らせられること、名倉ダムから上麻生ダム間の飛騨川は蛇行を繰り返すため洪水到達時間までおよそ一時間かかること、上麻生ダムのゲートが莫大な水圧に耐えられる構造であるために可能な作戦だった。しかし、上流で雨が降ればこの作戦は遂行できない。

「水位零作戦」は21日深夜、県・警察・消防・自衛隊との合同連絡会議において提案され、翌22日朝8時00分をもって決行されることになった。

これに先立って、バスを引き揚げる重機を操作するため陸上自衛隊豊川駐屯地から重車両部隊が、また水中の捜索に対応するため海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊が招集され、夜を徹して現場に急行した。朝8時00分、上流部で降雨がないことを確認し、作戦が始まった。以下に作戦の概要を時系列で記載する。

  • 8:00 - 上麻生ダムのゲートを全開にして、上麻生ダム湖の貯水を全て放流する。同時に上流の名倉発電所では全出力運転を行い、名倉ダム湖の貯水を可能な限り使用し下流への放水を抑える。
  • 9:50 - 名倉発電所の運転を急停止し、名倉ダムからの放流を開始する。
  • 10:00 - 上麻生ダムのゲートを全閉にして、貯水を開始する。同時に上麻生発電所はダム湖から可能な限り取水を行って全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。

このゲート全閉によってダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、ため池のような状態になった。そして、六号車が転落地点から900 m下流の川底にて半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかった。30分後の10時30分、ダム湖が満水になり危険な状態となったため、捜索隊全員に退避命令を下し、再度上麻生ダムは放流を始めた。

上麻生ダムは中部電力発電専用ダムであり、洪水調節機能は持たない。しかも1926年大正15年)完成と当時でも古いダム[注 11]である上、総貯水容量はわずか24万トンしかなく、豪雨時にはいつもゲートを全開にしていた。

玄倉川水難事故の際にも取り沙汰されたが、洪水調節機能がなく貯水容量の少ないダムの場合、増水時におけるゲート閉鎖はダム本体の決壊という重大な影響を及ぼす可能性がある。しかし、この事故に際しては緊急事態であったこと、もはや生存者の発見は絶望的とはいえ、あくまで可能性がある人命救助のためという考え方による異例の緊急措置として行われ、難航する捜索活動に大きく貢献した。

水位零作戦は翌8月23日と24日にも再度実施された。川岸に引き上げた六号車は、屋根から窓付近までの車体上部が水平方向へ一直線に削ぎ落されたような状態となっていた。座席などの車内の物品もその殆どが流されて失われており、屋根のない「オープンカー」になった六号車は、五号車よりもさらに無残な状態だった。捜索の結果、車内からは子供の1遺体が発見されただけだった。この車体の破損状況から、濁流による水圧がどれほど凄まじいものだったかを、改めて捜索隊に見せつけた。

辛うじて残っていた1体以外の遺体がすべて流されていたため、さらに下流の捜索が必要となり、今度は川辺ダム人造湖である飛水湖にまで捜索範囲を拡大し、川辺ダムの貯水を全放流して湖を空にした。これは1937年(昭和12年)に川辺ダムが完成して以来、初の試みである。こうして空になった飛水湖に捜索隊約1000名が入って捜索を開始した。

被害と影響[編集]

行方不明者はすべて飛騨川に投げ出されており、事故の翌日には知多半島にまで遺体が漂着したため、捜索は下流の広い範囲にまで拡大された。最終的には、陸上・海上・航空自衛隊員9,141名を始め、警察・消防、バス会社・名鉄グループの関係者など、9月15日までにのべ36,683名、車両262台、ヘリコプター9機、船艇888隻などが投入され[27]、9月16日からは1日平均250名の規模で飛騨川・木曽川、さらには伊勢湾まで1か月以上にわたり捜索が続けられたが、難航する[28]

魚が遺体を食っているという根拠のない風評被害で伊勢湾の漁業者が打撃を受けるほどだった。[要検証]

多くの遺体は堆積した土砂に埋もれており、重機ですくっては消防車の高圧放水で洗い流すという措置までとられたが、最終的には8名の遺体が未回収となっている。収容された遺体も腕だけが発見されたりするなど航空機事故さながらに損傷が激しく、DNA鑑定のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルまで起きた。

結局、2台のバスに乗っていた3歳から69歳の乗員・乗客107名のうち104名が犠牲になるという、バス事故および交通事故史上最悪の惨事となり、死亡率もほぼ100%と前代未聞のものとなった。3名の生存者は五号車の運転手(当時30歳)と同じく五号車の添乗員(20歳)、家族4人でツアーに参加していた男子中学生(14歳)で、いずれも転落の途中に割れた窓から車外に投げ出されたことで立ち木などに引っ掛かり、奇跡的に生還している。助かった中学生は当時大幸住宅に両親と姉と共に住んでおり、家族全員をこの事故で失ったが、祖母や親戚の支えがあり、後に大学に進学している[29]

乗客は大幸住宅、仲田住宅、千種東住宅、若水住宅、引山住宅、天神下住宅[注 12]の団地住民で、家族向けのツアーだったことから、4家族が一家全滅となった。そのうち、中日新聞の社員一家を除いた市営引山住宅の3家族は、いずれも旧満州からの引揚者だった。なお、生還した中学生と同い年であった別の団地住民の少年は、家族全員をこの事故で失い、事故から4年後の1972年6月に孤独感から自殺している[29]

この事故は戦後の混乱が収まり、高度経済成長のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事だった。

産経新聞の記者が伝えたエピソードに次のようなものがある。

  • 事故の一報を聞いて、大阪からタクシーを飛ばして現地に派遣された記者が、はるばる仙台から遺体安置所に駆けつけた男性と遭遇する。取材すると、名古屋の実家に帰省していた妻と娘2人が事故に遭遇し、一家で彼一人だけが取り残されたという。敬虔なクリスチャンなのか、妻の遺体が入った棺を前に「神の与えた試練です」とインタビューにきわめて平静に応じていた。くだんの記者が「ちょっと冷たすぎるのでは?」と思うほどの落ち着き払った態度だった。数日後、新たに女の子の遺体が事故現場近くで引き上げられたという情報が遺体安置所に流れ、多くの人が現場に駆けつけたが、そのなかにあの男性もいた。彼は50 m上の国道41号から、見る影もない遺体を見るや、瞬時に判別して娘の名を絶叫し、足場の悪い崖を一気に駆け下りて遺体に抱きつき、もらい泣きする周辺の救助隊員たちの手を借りることなく、号泣しながら道路まで駆け上がってきたという。

この男性のように、家族をすべて失った人は少なくない。大幸住宅に住んでいたツアー主催の「奥様ジャーナル」社長も、五号車に乗っていた妻と長男を失い、なおかつ大惨事の当事者として、被告人として法廷に立つこととなる。[要検証]

原因[編集]

21世紀となってもなお、集中豪雨は降水量の正確な予報を出すことは難しい。また前述の通り、当時は気象警報の発表をリアルタイムで知ることが困難だった。

ただし、後述するように遺族らが訴訟を起こしたことからもわかる通り、国道の危険箇所に対する行政の対応は万全とはいえなかった。生存した運転手たちは、地元消防団の警告無視などを理由に業務上過失致死の容疑があるとして書類送検されたが、岐阜地裁1972年に、運転手の判断に誤りはあったものの災害回避に全力を尽くしたなどの理由により、無罪の判決を言い渡した。さらに主催者「奥様ジャーナル」社長の状況判断も裁判で問われたが、過失の認定はされず、これも無罪となった。[要検証]

偶発的な誤った判断に伴う人災に、悪い偶然が重なるという、自然災害によってもたらされる大惨事にありがちな悲劇だったといえる。

岐阜県警察本部の調査では、この事故の発生については全く異常な天然現象によるものと判断され、道路、山地等の管理者の責任は見出だせないと発表している[27]。最悪の時機、最悪の天候、最悪の状況の場所にバスを位置させたことが重なり、当時の通信網等から状況変化の察知は不可能と考えられる[27]

事故発生に伴い、その責任の所在について、岐阜県警察本部では、あらゆる方面の調査を行なったが、この事故の発生については全く異常な天然現象によるものと判断され、道路、山地等の管理者の責任は見出だせないと発表している。ただ最悪の時機、最悪の天候、最悪の状況の場所にバスを位置させたことは、計画の慎重さの度合、バスの発進の決定をするときの状況判断の甘さ等は、指摘されても仕方がないようにも思われるが、何しろ異常な気象の変化(警報の解除また発令が思いがけぬときに起る)、バスの通過場所が町から離れた山岳部の真只中である等の状況からして、現時の通信網等からして、気象とか地形とかの、状況の変化の察知は不可能といってもよく、この点から将来の工夫は考えられても、今度の場合は、不可能の文字が大きく浮び上らざるを得ないであろう。 — 尾崎 雅篤・伊藤 彰彦、8.17 豪雨災害およびバス転落事故について

天心白菊の塔[編集]

天心白菊の塔。事故現場付近の国道41号沿いに建立された。

1969年(昭和44年)8月18日、一周忌を迎えて事故現場から約300m下流の国道41号脇に、慰霊のため「天心白菊の塔」が建立された。題字は当時の内閣総理大臣であった佐藤榮作による。塔の横にある石碑には次の通り記されている。

天心白菊の塔

内閣総理大臣 佐藤榮作謹書

あゝ悲し逆天台風七号 昭和四十三年八月十八日未明 災禍の尊霊 遭難バス百四名 地元災害十四名

天心とは宇宙の根源なりここに在すみたまを偲び謹んで白菊を捧ぐ 岐阜県知事平野三郎

この塔は全国の善意と浄財によりて建立せり 昭和四十四年八月十八日 岐阜県白川町

飛騨川バス事故遺族会

また“天心白菊の塔の由緒”には次の通り記されている。

昭和43年8月18日午前2時11分この上流約300 mの国道41号線上で折からの集中豪雨を避難していた観光バス2輌が、山上から流出落下してきた土石流に押し流され濁流渦巻く飛騨川に転落水没し一瞬にして乗客・乗務員104名の尊命が奪われるという一大惨事が発生しました。しかも、この中濃地方で時を同じくして災害のため14名の犠牲者が出ました。同年8月17日夜半から18日未明にわたり突如として襲った、異常にして激甚なる集中豪雨による災禍はまさにこの地方の機能を麻痺せしめ、各所に悲惨な被害と事故を惹きおこしたものでありました。この塔は、全国に浄財を求めもろもろの善意を結集し建立したもので遭難現場の天心に彷徨される災禍犠牲者118名のみたまを偲び、かくの如き惨事のふたたびくりかへされない様、永遠の平穏を祈念せんとするものであります。大自然の環境とともに在るこの聖地がいつまでも清浄に皆様のより美しい善意によって守護されることを希求してやみません。合掌

昭和44年8月18日建之 岐阜県加茂郡白川町

飛騨川バス事故遺族会

偶然にも、この日に現場から1 km下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見された。乗客で唯一の生存者である中学生は、以下のような追悼文を朗読している。

お母さん、私は昨日も夢の中でお母さんに会いました。お星様の中からお母さんの優しい顔が私を見つめていたのです。いくら呼んでもお母さんは返事をしてくれません。悲しくなって目を覚ますと私の顔は涙に濡れていました。でも今日、亡くなった人たちのおうちができました。皆さん仲良く暮らしてください。二度とこのようなことがないように、塔の中からしっかり見守っていてください。

現場近くの上麻生発電所員により、毎月清掃活動が続けられている。なお、慰霊祭は毎年命日である8月18日に「天心白菊の塔」で行われてきたが、遺族たちも高齢化し、2002年に実施された33回忌を期に遺族会は解散した。事故から40年目にあたる2008年8月18日に、慰霊祭が白川町仏教会の主催で実施され、遺族のほか白川町長、町会議員など約60人が参列している。その際、2006年に死去した遺族会会長の息子により、かつてバス会社社長から遺族会に贈られたブロンズ製の母子観音像が初めて会場に安置された。

事故責任と補償[編集]

事故の責任をめぐり、不可抗力による天災か、または道路設置者及び管理者である国の安全管理の瑕疵か、あるいはツアー主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災であるのかが争点となった。

自賠法適用による補償[編集]

佐藤榮作内閣総理大臣は、事故発生の翌日には対策に乗り出し「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置した。そのうえで、自動車損害賠償保障法(自賠法)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを関係省庁に検討させた。だが自賠法の適用は、バス運転手への刑事責任を問えないとする判断があったために「無責」として支払いの対象外であるとの認識が示された。しかしながら佐藤内閣は、交通行政の主務官庁である運輸省に命じて独自の調査を指示した。その結果、中曾根康弘運輸大臣10月11日に見解をまとめて閣議で報告した。その内容は、自動車損害賠償保障法・第三条における完全無責の条件は、業務上の過失がないことを完全に証明できた場合にのみ適用されることから、無過失でも法律が適用となる「特例法」を制定して対処すべきだとの意見も出された。これはバス運転手に対して刑事責任を問えないとする判断が捜査機関から示されたことで、自賠法適用が難しくなるという懸念から議論が活発となっていた。だが実際には「飛騨川バス転落事故の場合は、運転を行った岡崎観光自動車の運転手が事故発生を未然に防ぐための注意義務に欠けていた面も僅かながらあり、過失が完全に皆無であるとはいえない」とする解釈も可能であることから、自賠法適用の対象とするべきであるとの結論に至った。この運輸省による結論は閣議で了承され、4日後の10月15日より自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなった。この一件は、後に「道路施設賠償責任保険」が誕生する契機にもなった。

刑事責任[編集]

刑事責任の有無について捜査を行った岐阜県警は、事故の原因となった土石流は自然災害による不可抗力によって発生した可能性があり、道路管理者である国とツアー主催者およびバス会社などの関係者に対する業務上過失致死傷罪を適用するのは難しく、刑事責任を問えないと判断した。この岐阜県警の判断は9月26日警察庁が「判断は当然である」として認める方針とした。しかしながら11月4日に岐阜県警は被疑者を特定せずに「被疑者不詳」で岐阜地方検察庁に書類送検した。右書類送検では、意見書として「関係者の業務上過失致死傷罪の刑事責任を認めることはできない」と付されていた。刑事責任に問われる可能性がある関係者をツアー主催者、バス運転手、バス会社、運行管理者、道路管理者の6項目に分けて検討しており、他に乗客の調書、関係各所の責任者名簿、証拠品や資料62点が添えられた。書類送検に対して岐阜地検は「白紙の状態から捜査し、独自の立場で調べ、早い時期に結論を出す」とした。1969年(昭和44年)3月25日、岐阜地方検察庁は「刑事責任を問うべき過失は無く、不起訴にする」と発表し、関係者の不起訴処分が確定した。

損害賠償および国家賠償請求訴訟[編集]

一方、遺族は9月11日に「飛騨川バス事故遺族会」を結成し、天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光サービス、および運転を担当した岡崎観光自動車の三社に対して損害賠償を求めた。交渉は半年近くに及んだが、翌1969年(昭和44年)3月9日、被害者一人につき40万円、総額4080万円(102人分)の補償案に合意し、示談が成立した。

遺族会は、国が当初から主張していた「本件事故は自然災害によって発生したのであり、予測不能な不可抗力によって被害が拡大した。道路管理は適正で過失責任は無い」という内容に対して不満を持っていた。国による国道41号の管理と安全対策に瑕疵があったために起きた人災であるのは明らかだとして、国の国道管理に対する責任を問うため、一周忌に併せて開かれた遺族会において国家賠償請求訴訟を提起することを満場一致で採択した。1969年(昭和44年)12月1日、遺族会の犠牲者家族40世帯・119名が国に対して総額5億2,312万2,000円の国家賠償を求める訴訟を名古屋地方裁判所に起こした(飛騨川バス転落事故訴訟)。1973年(昭和48年)3月30日の第一審判決において名古屋地裁は「本件事故は天災と人災が競合して起こったものである。よって『国の過失を六割、天災による不可抗力を四割』と認定し、被告(国)は賠償請求額の14.4パーセントに相当する約9,396万1,384円を原告(遺族)に支払え」と国に命ずる判決を下した。すでに国から遺族へ支払われている「自賠責保険300万円分(一人につき)」は控除された。ただし、すでに示談が成立しているバスツアー主催者ら三社の認容額控除は賠償額に適用されなかった。

原告の遺族会はこれを不服として1973年4月8日に控訴する方針を決め、同月13日に名古屋高裁へ控訴した。右同日、国は「一審判決に服する」として控訴しない方針を固めた。1974年(昭和49年)11月20日名古屋高等裁判所で開かれた控訴審判決では、土石流を防止することは当時の科学技術の水準では困難であり、道路自体の欠陥は否定した。しかしながら事故現場付近で集中豪雨が降って土石流が起きる危険性は予測可能であったとし、国道41号の危険な状況に際して通行禁止などの適切な措置を取らなかったことを道路管理者による瑕疵と認めるなど、原告側の主張を全面的に認めた。被告(国)が主張していた「バス運行関係者の過失」については「差し迫った道路の危険を客観的に判断できる知識および情報を得る手段が無く、バス運行者の過失はない」として国の主張を退け、国の責任を全面的に認めた。そして本件事故を「全面的な人災」と認定し、国に約4億0,255万円の支払いを命じた。同月30日、国側は上告の検討について法務省が「上告する理由が発見できない」などとして上告しない方針を決めた。12月3日の閣議で建設大臣から上告しない決定が報告され閣議了承された。12月4日、上告期限が過ぎても国が上告の手続きが行われなかったことから判決が確定した。国家賠償金は判決確定の翌日5日から遺族への支払いが始まった。原告132人に対して、すでに確定した金額に加えて事故発生日から判決確定日までの利息分1億1,900万円が上乗せされた。

事故後の対策[編集]

この事故は多くの教訓を残したが、特に異常気象発生時における国道の防災体制が整備される契機となった[30]。事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されていたが、これは後に「道路防災点検」として制度化され、5年ごとに実施されるようになる[30]。また雨量にもとづく事前通行規制も制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られるようになった[30]。この道路管理者による雨量通行規制は、現在は国道だけではなく都道府県道などすべての道路において、沿線に常住人口がない山岳部の区間で実施されている。

この事故を契機に道路交通情報を集約し告知する必要性が認識され、1970年(昭和45年)1月に警察庁と当時の建設省の認可のもと、日本道路交通情報センター(JARTIC)が発足した[31][32]

現場の国道41号は連続雨量が150ミリを超えた場合、加茂郡七宗町中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになると定められている[注 13]。なお、この基準は道路や区間により異なる。そういうこともあって、飛騨地方への道路交通事情を抜本的に改善をするため、1980年代以降東海北陸自動車道の建設が急がれることになり、2008年までに全線が開通した。

抜本的道路改良へ[編集]

現場付近の国道41号は、現在も事故当時と同じルートを通っており、度々土砂崩れ・落石・倒木等が発災している。上記の雨量にもとづく事前通行規制による通行止めによって人命を脅かすような大事故は起きていないものの、現場付近の上麻生規制区間の延べ通行止時間は国道41号線の規制対象区間中最多となっている[33]

このため、平成30年度より転落事故現場を含む6.2 km区間について、トンネルおよび橋梁を用いたバイパス新道(一部は現道を利用)により付け替える改良が事業化された(上麻生防災)[33][34]。この事業により飛騨川沿いを通る事故現場付近の道路はトンネルに置き換えられる[34]

なお、現道上にある前述した「天心白菊の塔」はバイパスの直近になる[34]ことから撤去されることとなった(石碑については移設予定)[35]

時系列表[編集]

月日 時刻 動き
1968年
(昭和43年)
8月17日 9:30 岐阜地方気象台岐阜県下に大雨・洪水注意報を発表。
11:10 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨・洪水・雷雨注意報を発表。
17:15 岐阜地方気象台、岐阜県下の大雨・洪水・雷雨注意報を解除。
18:30 乗鞍岳バスツアー主催者、気象情報や定期観光バスの運行情報などを参考に判断し、ツアーの実施を決定。
20:00 岐阜地方気象台、岐阜県下に雷雨注意報を発表。
21:30 乗鞍岳バスツアー一行、愛知県犬山市成田山名古屋別院大聖寺に集合。
22:20 バスツアー一行、犬山市の集合場所を出発。
22:30 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨警報・洪水注意報を発表。
22:58 NHK名古屋放送局、ラジオで気象情報を放送。
23:00 加茂郡白川町(事故現場近く)三川小学校観測地点で時間雨量が100ミリを超える。国道41号、各所で寸断される。
23:33 バスツアー一行、休憩地の岐阜県加茂郡白川町坂ノ東「モーテル飛騨」に到着。
8月18日 0:05 バスツアー主催者、悪天候による国道41号の道路状況悪化により、ツアー延期ならびに出発地へ引き返すことを決定。各務原市へ向けて出発。
0:17 一号車から七号車、国鉄高山本線・白川口駅前を通過。その1分後に飛泉橋を通過。
0:20 八号車から十六号車、会社への連絡等で白川口駅前に停車。対向車からの情報、白川町消防団からの勧告により駅前で待機することを選択。
0:20 一号車から七号車、65.25km付近で小規模な土砂崩れに遭遇。運転手ら土砂を取り除き、約15分で運行を再開。
0:40 一号車から七号車、64.17km付近で大規模な土砂崩れに遭遇し、運行不能に陥る。
巡回中の白川町消防団、64.17km付近で立ち往生している全車両に対して白川口駅方面への移動を勧告。一号車から七号車、勧告に従い移動を始める。
1:00 一号車から七号車、転回不能により後退で移動を開始。他車の接触事故などによって後退不能になり、64.3km地点で五号車を先頭に六、七、三、二、一号車の順に飛騨川寄りの車線に停車する。
1:35 上麻生ダム付近の64.6kmおよび64.8km付近で新たな土砂崩れ発生。一号車から七号車の6台、車列の前後を土砂で完全に塞がれ、国道41号上で走行不能となる。
2:11 飛騨川バス転落事故発生。五号車・六号車、64.3km付近の沢で発生した土石流の直撃を受けて飛騨川に転落、濁流に飲み込まれて水没し消息不明となる。行方不明者104人。救出者3人。
2:15-5:00 上麻生ダムから白川派出所に「異常発生」の第一報が入る。警察官と消防団員、現場へ確認に向かうも一時的に断念。運転手ら、上麻生ダム見張所に救援要請。見張所職員と消防団員、上麻生発電所に通報し、残余のバス乗客らを見張所および白川町中学校体育館に避難させる。上麻生発電所より岐阜県警本部に事故発生の通報が入る。岐阜県警、機動隊員30人を事故現場に派遣。
5:40 白川派出所警察官、白川口駅の鉄道電話で岐阜県警加茂警察署に事故発生を通報。
警察、消防が現場に急行。岐阜県知事陸上自衛隊災害派遣要請を行い、守山駐屯地から自衛隊員が出動。行方不明者の捜索開始。
8月19日 2:00 右時刻までに23遺体を収容。
8:00-10:00 四日市市や鈴鹿市などの伊勢湾沖合、木曽川河口、知多半島に事故被害者の遺体が漂着する。第四管区海上保安本部、巡視船5隻で伊勢湾内を捜索開始。
10:30 五号車、土石流発生場所から下流約300mの河岸中段に沈んでいる状態で発見。新たに12遺体が収容される。
15:00-18:50 五号車引き上げのため、上麻生ダムのゲートを開放してダム水位を下げ、その後に19分間ゲートを閉鎖、飛騨川の水位を一時的に下げる措置が取られる。日没で作業中断。19日までに合計41遺体を収容。
8月20日 早朝より名古屋、四日市、鳥羽の各海上保安部が伊勢湾内をヘリコプターと巡視船を使って合同捜索。三重県警、警備艇で伊勢・鳥羽沖を捜索。警察官が海岸線を捜索。
9:00 五号車引き上げ作業再開。前日同様に上麻生ダムの水量を調整し飛騨川の水位を下げて引き上げ作業実施。バス車内から子供の遺体3体を収容。
17:00 五号車引き上げ作業を一時的に断念。六号車の捜索発見が優先される。20日までに合計57遺体を収容。
8月21日 0:00 六号車捜索のため、上流のダムを完全に閉鎖し、飛騨川下流の水流をゼロにする「水位零作戦」了承される。
陸上自衛隊豊川駐屯地海上自衛隊横須賀基地より六号車捜索のための増援部隊が招集される。21日までに合計68遺体を収容。
8月22日 8:00 第一次「水位零作戦」が開始される。上麻生ダム放流・名倉発電所全出力運転開始。
9:50 名倉発電所運転停止・名倉ダム放流開始。
10:10 上麻生ダム放流停止。飛騨川の水量がゼロになり、六号車が土石流発生場所から下流約900mの川底から発見。バス車内から1遺体が発見される。
10:30 上麻生ダム満水になり、再び放流開始。
22日までに合計78遺体を収容。身元確認者は70遺体となる。
8月23日 第二次「水位零作戦」が開始される。23日までに合計80遺体を収容。
8月24日 第三次「水位零作戦」が開始。六号車が収容される。
下流にある飛水湖の捜索開始。
24日までに81遺体を収容。身元確認者は78人、行方不明者は23人となる。
8月25日 岐阜県、岐阜県警、自衛隊、消防団で組織する「四者捜索活動連絡会議」は、愛知県と三重県の協力を仰ぎ、捜索範囲を木曽川下流70kmの範囲へ拡大することを決定。
25日までに合計83遺体を収容。身元確認者は80人、行方不明者は21人となる。
8月26日 26日までに合計86遺体を収容。身元確認者は84人、行方不明者は18人となる。
8月27日 岐阜県対策本部は、三県合同による木曽川中流域から下流域にかけての大捜索活動を開始。
8月29日 12:00 岐阜県対策本部は、台風の影響により二日間にわたる三県合同の大捜索を一旦打ち切った。天候回復で木曽川の水位低下が見込まれることから、30日以降も二日間の捜索延長を決定。
8月30日 美濃加茂市の木曽川河岸で釣り人が2遺体を発見、また名古屋港で水上警察が1遺体を発見、3遺体が収容される。30日までに合計89遺体を収容。身元確認者は88人、行方不明者は15人となる。
9月2日 三県合同による木曽川中流域から下流域にかけての大捜索活動を2日間の予定で再開(2次大捜索)。9月4日までに合計91遺体を収容。身元確認者は88人、行方不明者は13人となる。
9月4日 三県合同による木曽川中流域から下流域にかけての大捜索活動を5日間の予定で実施(3次大捜索)。
9月6日 岐阜県災害対策本部は、海上自衛隊横須賀基地水中処理隊に対して、各務原市鵜沼と加茂郡坂祝村の境に位置する木曽川・河岸川底の水中捜索を依頼。行方不明者発見には至らず。
9月11日 被害者遺族、名古屋市内で結成大会を開き「飛騨川バス事故遺族会」を結成。
9月16日 加茂郡七宗村の飛騨川河岸で通行人が子供の遺体を発見。9月16日までに合計92遺体を収容。行方不明者は12人となる。
10月4日 自衛隊および警察・消防による三県(岐阜、愛知、三重)合同遺体捜索が打ち切られる。第8次捜索・48日間で延べ44,000人を動員。92遺体収容、12遺体未発見[注 14]
10月11日 第2次佐藤内閣中曽根康弘運輸大臣、遺族に対し自動車損害賠償保障法による補償を行う方針を閣議で報告、閣議これを了承する。
10月15日 損害保険会社、閣議決定に基づき遺族に自賠責保険の支払いを開始する。
10月18日 秩父宮勢津子妃殿下、慰霊献花のため事故現場を訪問。
1969年
(昭和44年)
3月9日 第五回遺族会総会開催。主催者側(奥様ジャーナル・岡崎観光自動車名鉄観光サービス)との示談が成立する。
8月18日 事故現場に天心白菊の塔が建立され、一周忌が執り行われる。この際1遺体が発見される。
12月1日 遺族会、国の道路管理の責任を問い国家賠償請求訴訟(飛騨川バス転落事故訴訟)を名古屋地方裁判所に起こす。
1973年
(昭和48年)
3月30日 国家賠償請求訴訟の第一審判決が名古屋地方裁判所で下る。「天災と人災の競合」による事故とされ、賠償額が請求額の14.4パーセントに抑えられる。原告は判決を不服として名古屋高等裁判所控訴する。
1974年
(昭和49年)
11月20日 国家賠償請求訴訟の控訴審判決で名古屋高等裁判所は「事故は人災である」と認定。原告遺族全面勝訴。国は上告せず判決が確定。

補足[編集]

この時の豪雨は地元の人間にとっても普段の比ではなく凄まじいものであった。

事故現場からほど近い国鉄(現JR東海高山本線白川口駅の当直助役は、経験のない程の豪雨に恐怖と不安を感じ、その豪雨の中やってきた岐阜駅飛騨金山駅行き下り普通列車に青信号(進行現示)を出さなかった。その決断は事故前日22時31分である。列車が遅れており苛立つ乗客に詰め寄られても頑として拒んだという。その後、上述の通り白川口駅付近での路盤崩壊が発見された(上麻生駅 - 白川口駅間が9月12日まで不通となる)。そして駅から約300 mと鷲原信号場[注 15]寄り約1 kmの2か所で土砂崩れが起きていた。

また同じ頃、下油井駅でも、当直助役が高山駅美濃太田駅行き上り普通列車の前途を心配し、一つ富山寄りの飛騨金山駅に当該列車の抑止を依頼した直後、付近の様子を見に行った消防団員から、下油井駅付近での土砂崩れ発生の連絡を受けた。当時の高山本線はまだCTCが運用されておらず[注 16]、両方ともそのまま進行現示を出していれば大事故になっていたであろうと言われている。結果、高山本線の被害は、土砂崩れ、浸水箇所の10か所にのぼった。また、これらの行動で事故発生を防いだ白川口・下油井両駅の当直助役には表彰状、消防団員には感謝状が、名古屋鉄道管理局[注 17]から贈られた[36]

なお、事故時点ではCTC整備中で、その1か月半後から監視がされており、白川口駅は白川町による簡易委託駅になっている。

現場付近の高山本線は国道41号の対岸を通っているため、事故当時の面影を車窓から確認できる。「天心白菊の塔」の対岸はトンネルとなっているが、白川口駅から上麻生駅に向かう列車より、左斜め前方を注視すると存在を確認できる。

事故発生から半世紀となる2018年、事故当日に現場のすぐ近くで立ち往生していた他のバスの運転手だった名鉄の社員(2004年に69歳で死去)が、事故から20年後の1988年に書いた回想の手記が公表された[37]

類似の事故[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 国道41号の起点は名古屋市東区泉1丁目高岳交差点。
  2. ^ 2021年現在の国道41号キロポストの数値は、事故当時よりも4km短くなっている。起点は事故当時と同様である。
  3. ^ 今日でいうフリー・ペーパーのはしりで、1963年に創刊され、2014年廃刊。
  4. ^ 雷雨注意報は現在の雷注意報
  5. ^ 実際に翌朝の岐阜市内は晴天だったが、当時は気象衛星による観測が端緒についたばかりで、重大な気象の変化までは把握しきれなかった。
  6. ^ 観光バス業界では、四号車は験を担いで欠番としており、本件バスツアーもその慣習に従っていた。
  7. ^ 「先導車」のライトバンは、車列よりも10分早く出発した。
  8. ^ 狭いバスの車内で大勢の乗客を車中泊させるのは不可能である、との主催者による判断である。休憩地が名古屋市内まで76km程度という近距離であったことも引き返す判断に影響した。
  9. ^ 七宗橋から飛泉橋間の12kmにわたる区間。
  10. ^ 自衛隊においては、旧軍や諸外国の軍隊同様、戦時以外においても目標を達成するための計画的行動を「作戦」と呼んでいる。
  11. ^ 1964年(昭和39年)に改定された河川法におけるダムの規定は高さ15.0 m以上であり、高さ13.2 mの上麻生ダムは現在の法律上ではにあたる。
  12. ^ 大幸住宅は東区、他は千種区1975年以降は引山住宅と天神下住宅は名東区)。いずれの団地も建て替えられて、当時の住宅棟は現存しない。
  13. ^ ただし、30年後の1998年9月25日にも現場付近で土砂崩れが発生し、車両90台が閉じ込められているが、人的・物的被害はなかった。
  14. ^ 1968年10月4日における遺体未発見数。以降に4体の遺体が発見され、最終的に96遺体を収容、8体が遺体未発見となった。
  15. ^ 白川口駅⇔下油井駅間
  16. ^ 高山本線は本線格ながらも災害が多発するという特異な路線で、地方路線としては1968年時点では異例のCTC整備が行われた。この事故はその1か月半前に発生している。
  17. ^ 現・東海旅客鉄道東海鉄道事業本部

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 判例時報 1973, p. 35.
  2. ^ 判例時報 1973, pp. 38,47.
  3. ^ 判例時報 1973, pp. 38,47,62–63.
  4. ^ a b c 判例時報 1973, pp. 35,38.
  5. ^ “飛騨川バス転落事故:「合同捜索打ち切る」12遺体未発見のまま”. 朝日新聞・名古屋本社版朝刊15面: pp. 15. (1968年10月5日) 
  6. ^ “飛騨川バス転落事故:「発見バスに遺体なし」5号車?無残な姿現す 残る63体捜索難航か”. 朝日新聞・名古屋本社版朝刊1面: pp. 01. (1968年8月20日) 
  7. ^ “飛騨川バス転落事故:「遺族にあせりの色」ダムを締め切って捜索 6号車発見に全力 四者連絡会議決定”. 朝日新聞・名古屋本社版朝刊15面: pp. 15. (1968年8月22日) 
  8. ^ 判例時報 1973, pp. 61–62.
  9. ^ “飛騨川バス転落事故:「自賠法の適用を決定」運転者無過失とはいえぬ”. 朝日新聞・東京本社版夕刊1面: pp. 01. (1968年10月11日) 
  10. ^ “飛騨川バス転落事故:「40万円で示談」”. 朝日新聞・東京本社版夕刊10面: pp. 10. (1969年3月10日) 
  11. ^ “飛騨川バス転落事故:「飛騨川事故は全面人災」名古屋高裁控訴審判決 土石流は予測できた 国は4億余万円払え”. 朝日新聞・東京本社版夕刊1面: pp. 01. (1974年11月20日) 
  12. ^ a b c d e “飛騨川バス転落事故:「観光バス2台、飛騨川に転落」乗鞍への途中、豪雨の岐阜・白川町”. 朝日新聞・名古屋本社版号外: pp. 01. (1968年8月18日) 
  13. ^ a b c d “飛騨川バス転落事故:「危険な相手まかせの旅行」飛騨川バス転落事故に団地の声 団地新聞・競争で催しを計画”. 朝日新聞・名古屋本社版朝刊14面: pp. 14. (1968年8月19日) 
  14. ^ a b c 判例時報 1973, pp. 35–36.
  15. ^ a b c d e 判例時報 1973, p. 36.
  16. ^ a b c d e f g 判例時報 1973, p. 52.
  17. ^ a b c 判例時報 1973, p. 53.
  18. ^ 判例時報 1975, pp. 21,34,38.
  19. ^ 判例時報 1975, p. 34.
  20. ^ a b c d e f g h 判例時報 1973, p. 39.
  21. ^ “飛騨川バス転落事故:「濁流、バスの影も見えず」飛騨川に消えた家族旅行の夢”. 朝日新聞・名古屋本社版朝刊13面: pp. 13. (1968年8月19日) 
  22. ^ 判例時報 1973, pp. 52–53.
  23. ^ 判例時報 1975, p. 41.
  24. ^ 運転手に土砂崩れの危険忠告 消防団の直感、現実に” (日本語). 岐阜新聞Web. 2020年8月12日閲覧。
  25. ^ 五号車と六号車のメーターに備わっていた時計(タコグラフ)が示していた時刻、犠牲者の腕時計が示していた時刻から推定された。
  26. ^ 守山駐屯地
  27. ^ a b c 尾崎雅篤, 伊藤彰彦「8.17豪雨災害およびバス転落事故について」『地すべり』第5巻第2号、日本地すべり学会、1968年、 34-40頁、 doi:10.3313/jls1964.5.2_34ISSN 0285-2926NAID 130001008317
  28. ^ 岐阜県危機管理部防災課: “飛騨川バス転落事故(8月17日豪雨災害)(1968年昭和43年)”. 岐阜県公式ホームページ. 岐阜県. 2020年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月18日閲覧。 “飛騨川バス転落事故により、104名の行方不明者を出し、これの捜索には、9月15日までに36,683名の大規模な捜索隊、自衛隊、消防、警察など)を繰出し、16日から第5次捜索が1日平均250名の規模で事故発生から1ヶ月余にわたる捜索が続けられた。”
  29. ^ a b 読売新聞 1973年(昭和48年)3月30日付夕刊「勝訴もうつろ 飛騨川遺児」
  30. ^ a b c 武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日、209頁。ISBN 978-4-12-102321-6
  31. ^ 「ごあいさつ」理事長 池田克彦”. 公益財団法人日本道路交通情報センター. 2020年12月17日閲覧。
  32. ^ 室井昌也『交通情報の女』p.258-259 論創社 ISBN 978-4-8460-1385-1
  33. ^ a b 国道41号上麻生防災を新規事業化します”. 岐阜国道事務所. 2018年8月19日閲覧。
  34. ^ a b c 国道41号上麻生地域防災検討会(概要)”. 岐阜国道事務所. 2018年8月19日閲覧。
  35. ^ 飛騨川バス事故、慰霊の塔解体決まる バイパス工事、遺族「安全につながる」” (日本語). 中日新聞Web. 2021年8月11日閲覧。
  36. ^ 毎日新聞中部本社版1968年(昭和43年)8月24日付夕刊第7面
  37. ^ 赤色灯「弧を描いて消えた」 バス運転手手記見つかる” (日本語). 岐阜新聞Web. 2020年8月12日閲覧。

参考文献[編集]

  • 判例時報「飛騨川バス転落事故訴訟第一審判決 (名古屋地判48.3.30)」『判例時報』第700号、判例時報社、1973年6月1日、 03-88頁、 doi:10.11501/2794711ISSN 0438-5888
  • 判例時報「飛騨川バス転落事故訴訟控訴審判決  (名古屋高裁49.11.20判決 )」『判例時報』第761号、判例時報社、1975年1月21日、 18-71頁、 doi:10.11501/2794772ISSN 0438-5888
  • 新潮45第26巻2号 「飛騨川バス転落事故104人死亡の惨劇」:2007年2月

オンライン資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]