猿渡寛茂
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県田川市 |
生年月日 | 1949年4月28日(75歳) |
身長 体重 |
172 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手、二塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト5位 |
初出場 | 1970年10月3日 |
最終出場 | 1977年10月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
この表について
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猿渡 寛茂(さるわたり ひろしげ、1949年4月28日 - )は、福岡県田川市[1]出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
経歴
[編集]三池工高は名将・原貢監督の指導で強豪チームへと変貌を遂げ、1年次の1965年には1年上のエース・上田卓三を擁し、夏の甲子園で初出場初優勝を果たしたが、自身はベンチ外だった[2]。2年次の1966年にはチームの主将として活躍し、秋季九州大会では準決勝まで進出するが鎮西高にコールド負けを喫し、1967年の春の選抜出場を逸する。同期にはプロでもチームメイトとなる相本和則がいた。卒業後は三菱重工長崎に入社し、俊足とパンチ力ある打撃を武器にレギュラーとして定着、チームの勝利に貢献する4番打者となった。入社2年目の1969年は40試合に出場し、打率.330、14本塁打と活躍。同年のドラフト5位で東映フライヤーズに入団[1]し、田宮謙次郎監督から「2、3年後にはレギュラーを狙える」と期待される。1年目の1970年は10月3日の西鉄戦(後楽園)で初出場、10月18日の阪急戦(西宮)では初スタメン入りを果たすが、一軍では7打数無安打に終わる。二軍でも打率.223、1本塁打と期待を裏切る。2年目の1971年は一軍出場ゼロに終わったが、二軍で打率2割8分台で3本塁打とチームトップの成績を挙げ、イースタン・リーグの打撃ベストテンにも入り込む。3年目の1972年にはジュニアオールスターに出場するなど球団から英才教育を受けていたが、社会人時代の打撃力は影を潜め、もっぱら守備固めが主となる。球団が日拓に買収された1973年9月11日の南海戦(大阪)で山内新一から初安打を放ち、日本ハムに買収された1974年からは代打でブレイク。30試合出場で打率.286と成長した姿をアピールし、9月14日の近鉄戦(後楽園)では板東里視から初打点を記録。1975年には結婚し、静岡県伊東市に新居を構える。自宅には夫人に加えて、近所で釣具店を営む彼女の母親も同居。月々のローンの支払いもあるため、本拠地の後楽園で試合がある際は伊東から毎日電車で通勤。終電に間に合わないときは、北区王子に住んでいた夫人の兄の家に泊めてもらっていた。余りにもプロ野球選手らしからぬ暮らしぶりであったため、週刊現代の記者が取材に訪れたこともあった。その状況下で自己最多の56試合に出場。内野の準レギュラーとして奮闘し、代打でも打率3割と結果を残すが、1976年からは出場機会が減少。1977年に現役を引退[1]。
引退後は野球に対する熱心さが評価され、指導者としての道を歩む。日本ハム(1979年 - 1984年二軍守備コーチ、1987年 - 1988年一軍守備・走塁コーチ、1989年 - 1990年, 1995年 - 1998年二軍内野守備・走塁コーチ、1991年二軍内野守備コーチ→1992年 - 1994年一軍内野守備・走塁コーチ、1999年二軍総合内野守備・走塁コーチ→2000年 - 2001年一軍内野守備コーチ)、ヤクルト(1985年一軍内野守備・走塁コーチ→1986年一軍内野守備コーチ、2003年 - 2006年二軍守備・走塁コーチ→2007年二軍育成コーチ→2008年 - 2010年二軍監督)で監督・コーチを歴任。シーズン中は合宿所に泊まり込みで指導に当たり、週末とシーズンオフは伊東の自宅に帰り、正月用の飾りや注連縄を自作して毎年地元の寺に奉納していた。指導は厳しい練習で名を馳せ、必ずしも守備の上手くない選手を、破綻のないレベルまで成長させた。日本ハム時代は田中幸雄をマンツーマン指導で開花させてリーグを代表する遊撃手に育て上げ[3]、古城茂幸とひたむきな練習に取り組んだ[4]。ヤクルト二軍監督就任1年目の2008年には指導方針を自主的に伸ばす方法へチェンジし、チームを10年ぶりのイースタン・リーグ優勝に導いた。2011年にはBCリーグ・信濃グランセローズ総合兼守備・走塁コーチに就任し[5]、2012年退任[6]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1970 | 東映 日拓 日本ハム |
6 | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .143 | .000 | .143 |
1972 | 26 | 2 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1973 | 25 | 31 | 30 | 5 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 1 | .233 | .258 | .233 | .491 | |
1974 | 30 | 51 | 49 | 4 | 14 | 2 | 0 | 0 | 16 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 9 | 0 | .286 | .314 | .327 | .641 | |
1975 | 56 | 99 | 91 | 9 | 24 | 6 | 0 | 0 | 30 | 5 | 2 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 1 | 15 | 2 | .264 | .302 | .330 | .632 | |
1976 | 5 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1977 | 16 | 20 | 19 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | .211 | .250 | .211 | .461 | |
通算:7年 | 164 | 214 | 201 | 22 | 49 | 8 | 0 | 0 | 57 | 8 | 5 | 3 | 3 | 0 | 8 | 0 | 2 | 41 | 3 | .244 | .280 | .284 | .564 |
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
記録
[編集]- 初出場:1970年10月3日、対西鉄ライオンズ24回戦(後楽園球場)、9回表に三塁手として出場
- 初先発出場:1970年10月18日、対阪急ブレーブス24回戦(阪急西宮球場)、8番・三塁手として先発出場
- 初安打:1973年9月11日、対南海ホークス後期7回戦(大阪スタヂアム)、7回表に山内新一から
- 初打点:1974年9月14日、対近鉄バファローズ後期9回戦(後楽園球場)、6回裏に板東里視から
背番号
[編集]- 56 (1970年 - 1973年)
- 35 (1974年 - 1977年)
- 73 (1979年 - 1984年)
- 87 (1985年 - 2001年、2011年 - 2012年)
- 89 (2003年 - 2010年)
脚注
[編集]- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、260ページ
- ^ 週刊甲子園の夏14号27ページ
- ^ ミスターファイターズ 田中幸雄インタビュー 「いまも忘れられない北海道で初めて手にした優勝の喜び。ファイターズ一筋でプレーできたことは僕の誇りです」
- ^ 雑誌『週刊ベースボール』2008年8月18日号 「白球入魂 やりました! 古城茂幸」43-47ページ
- ^ コーチ決定のお知らせ - 2010年11月16日
- ^ 佐野監督、猿渡コーチ退任のお知らせ - 2012年10月6日
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 猿渡寛茂 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)