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「日向 (日蓮宗)」の版間の差分

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'''日向'''(にこう、[[建長]]5年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]([[1253年]][[3月16日]]) - [[正和]]3年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]([[1314年]][[10月12日]]))は、[[鎌倉時代]]の[[僧侶]]、[[日蓮]][[六老僧]]の一人である。佐渡公、また民部阿闍梨・佐渡阿闍梨とも{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 570-571 }}。[[日蓮宗]][[総本山]]身延山[[久遠寺]]二世{{Sfn | 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 | 1981 | p = 318,1144 }}、[[藻原寺|藻原妙光寺(今の藻原寺)]]二世{{Sfn | 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 | 1981 | p = 199,1151 }}。日向の流れを、身延門流・日向門流または藻原門流という{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185a | ps=-生月日を除くここまでのこと。}}。
{{未検証|date=2014年11月}}
'''日向'''(にこう、[[建長]]5年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]([[1253年]][[3月16日]]) - [[正和]]3年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]([[1314年]][[10月12日]]))は、[[日蓮]][[六老僧]]の一人。佐渡公日向、また後には'''民部阿闍梨'''日向(みんぶあじゃりにこう)、安立院とも名乗った。現在の[[日蓮宗]]の宗史上においては、総本山身延山[[久遠寺]]第二世に列せられている。


== 経歴 ==
== 生涯 ==
[[安房国]]の尾に生まれ、13歳で日蓮に入門して出家得度してからは、折伏弘教のため日々各地奔走した。弁舌に優れ、日蓮門下の「論議第一」と称された。[[1276年]]、日蓮の使者として日蓮の師道善房の墓前に赴き、日蓮による師追悼のための著述『報恩抄』を朗読するという大役を務めた。[[1280年]]には日蓮より本尊を授与され、同年、日蓮による法華経講義の記録『御講聞書』をた。日蓮の本弟子六老僧の一人として、日興筆『宗祖御遷化記録』に「佐土公 日向」とその名を確認することができる。
生まれは、[[安房国]]{{Harv | 宮崎英修 | 1978 | p = 185 }}もしくは[[上総国]]藻原{{Harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 570-571 }}と諸説ある。13歳で日蓮に[[入門]]して[[出家]][[得度]]してからはそばにいて仕える{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 570-571 }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185b }}行学に励み[[弁舌]]に優れ、日蓮門下の「論議第一」と称された{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 570-571 }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185b }}[[建治]]2年([[1276年]][[使者]]として日蓮の師道善房の墓前に赴き、日蓮による師追悼のための著述『[[報恩抄]]』を代読ている{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 570-571 }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185b }}。同じく六老僧の一人である[[日興]]が執した『宗祖御遷化記録』に「佐土公 日向」とその名を確認することができる{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 710 }}。[[正和]]2年([[1313年]])、身延山を[[日進 (身延3世)|日進]]に譲り、上総国の藻原に[[隠居]]するも、その翌年に62歳で死去した{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 570-571 }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185b }}


== 著作 ==
[[1313年]]、日向は身延山別当の地位を[[日進 (身延3世)|日進]]に譲り、[[上総国]]の藻原に隠居するも、その翌年に62歳で死去した。
著作に『金綱集』がある{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | pp = 570-571 }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185b }}。なお、日蓮の[[法華経]][[講義]]を日向が記録したものとして『御講聞書』があげられるが、現代では同書は日向の名を借りたものと考えられている{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 29 }}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 37 }}。


== 門弟内での対立 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
日蓮の入滅時、不在であった日向・[[日頂]]を除く四老僧と居合わせた[[中老僧]]とが合議した結果、日蓮の墓所を守ることにつき輪番制が敷かれた。六老僧と中老僧12名の計18名による輪番であったが、各僧とも各地での布教伝道に多忙を極め、一年に一度(3,6,7,8,9,12月は2人)の墓所輪番は大変な負担になっていたと思われる。このため、合議して決定したはずの輪番を実施することは、日蓮没後の早い段階で事実上崩壊した。当時、何らかの理由で[[日興]]を除く五老僧と[[南部実長|南部實長]]とが義絶していたのも一因であることは否めない。
<!-- === 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}} -->
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}


== 参考文献 ==
日興が南部實長を弁護する為に五老僧に送った書簡が現存しているが、南部實長を教化したのがもともとは日興であったことや、日興が身延にほど近い富士地域一帯を本拠地としていたことから、次第に日興が身延に常住するようになった。当時の書簡によれば、出家して日円と名乗っていた南部實長は日興の身延常住を非常に喜び、日興に身延の別当職に就くよう要請している。しかし既に六老僧が輪番に合意して証文も作成したものの、他の五老僧は各地での布教に多忙であり、身延での輪番に消極的であったことから、日興は五老僧や中老僧に対し身延輪番に従事するよう盛んに呼びかけた。その呼びかけに漸く応じたのが日向であり、[[1285年]]に身延山久遠寺に登った。日向の身延登山を日興と日円は大変喜んでいる。他の老僧は輪番の証文を無視し続け、日興の呼びかけにも応じない状況の中、日向は日円の要請により学頭職に就いた。輪番制に拘る日興としては、日向が学頭職に就いたことに不満を抱いていた上に、その後、教義に軟風を持ち込んだとして日向と、また謗法行為に甘いとされる日向に影響を受けたとして日円と、それぞれ不仲が決定的となった。そしてついに、日興は身延を離れた。これが現在まで続く日向派と日興派の争いの元となっている。
* {{Cite book | 和書 | editor = 日蓮宗事典刊行委員会 | title = 日蓮宗事典 | date = 1981-10-13 | publisher = 日蓮宗宗務院 | ncid = BA61075492 | oclc = 17071163 | asin = B000J7QTDQ | ref = harv }}
* {{Cite book | 和書 | editor = 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 | title = 日蓮宗寺院大鑑 | edition = 初版 | date = 1981-01-01 | publisher = [[池上本門寺|大本山池上本門寺]] | ncid = BN01669639 | oclc = 33874438 | asin = B000J80LMK | ref = harv }}
* {{Cite book | 和書 | editor = [[宮崎英修]] | date = 1978-07-10 | title = 日蓮辞典 | publisher = [[東京堂出版]] | isbn = 978-4490101096 | ncid = BN00793610 | oclc = 5182140 | ref = harv }}


{{先代次代|[[久遠寺|身延山久遠寺]]|第2世:-1313|[[日蓮]]|[[日進 (身延3世)|日進]]}}
日興が身延を離山した後、日向は日円の要請により身延山の別当職に就いた。当時の日蓮遺弟達は日向が日円と懇意なのがよほど不快だったらしく、[[日昭]]と[[日朗]]とが遣り取りした書簡には、日昭から弟子を[[延暦寺|比叡山]]の[[戒壇]]で[[得度]]させても良いか相談を受けた際に、日朗が富士の戒壇で日興を戒師として得度させるべきであると助言し、身延の日向の法門は禅念仏にも劣ると書かれてしまっている。
日朗は、日蓮入滅後に富士重須の日興のもとを訪問してはいるが、身延の日向を訪問した記録は残っていないので、日向にはそれなりに教義上の軟風があると映ったのであろう。
[[日頂]]も真間中山を離れた後、身延の日向ではなく、富士の日興のもとで重須談所設立に協力している。日頂の弟の[[日澄]]は日向の弟子だったにもかかわらず日向と義絶し、富士重須談所の初代学頭に就任している。
[[日持]]は六老僧の1人ではあるが、もともと日興の弟子である。日持は日興から義絶されるが、その後身延の日向を訪ねることなく大陸布教に出立したとされる。

一般に五一相対というと日興対五老僧であるが、文献によれば先ず「日円・日興対他の五老僧」の対立があり、その後に「日向対日興」の対立が起こり、日円と日向が懇意になったため日向は他の四老僧とも対立し、結果として「日向対五老僧」の対立になった。勿論、日興は日向以外の四老僧に対しても輪番の件や申し状の署名の件などで不満を募らせているので、「日興対五老僧」の五一相対も確かにあった。しかしそれは、日興から五老僧に対しての一方的な不満であり、日向を除く四老僧から日興への不満はなかったと思われる。日興は日向・日持・日昭以外の二老僧日朗・日頂とは和解し、むしろ頼られている。日昭・日持は日興に義絶されているが、日昭・日持が日興を批判している文献はないので、日昭・日持が日興に敵意を持っていたとは考えにくい。五老僧と和解できなかった日向は、身延山で日円と共に独自に弟子育成に励む。だが、[[朗門の九鳳]]や興門の本六新六に匹敵するような教線拡張に貢献した人物を輩出することができず、身延山興隆には行学院日朝や、もともと向門ではない重乾遠の三師など、傑僧の出現を待たねばならなかった。傑僧の出現により教団は成長し、それに伴い祖廟身延は日興派を除く日蓮門下すべての聖地となった。それでも江戸期までは、幕府の格付けによると京都六条本圀寺が日蓮系法華宗各派まとめての筆頭寺院であり、身延山は次点に止まる。現在、身延山久遠寺は日蓮宗の総本山であり、日蓮宗以外の門下連合会に属する各宗派・団体も身延山を祖山と認め、日向は身延山法主第二祖とされている。

<!-- == その後 ==
[[1941年]](昭和16年)の三派合同により富士門流以外の日興門流の寺院が身延山を総本山と認めているが、もともとの合同そのものは合従連合であり、教義・宗旨が異なるものも政治的な便宜から同一宗派となっている。-->

== 参考資料 ==
* [[宮崎英修]]『日蓮辞典』東京堂出版、1978年
* 日蓮宗事典刊行委員会『日蓮宗事典』[[日蓮宗]]宗務院、1981年
* 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山[[池上本門寺]]、1981年

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2022年2月19日 (土) 09:46時点における版

日向(にこう、建長5年2月16日1253年3月16日) - 正和3年9月3日1314年10月12日))は、鎌倉時代僧侶日蓮六老僧の一人である。佐渡公、また民部阿闍梨・佐渡阿闍梨とも[1]日蓮宗総本山身延山久遠寺二世[2]藻原妙光寺(今の藻原寺)二世[3]。日向の流れを、身延門流・日向門流または藻原門流という[4]

生涯

生まれは、安房国男金(宮崎英修 1978, p. 185)、もしくは上総国藻原(日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 570-571)と諸説ある。13歳で日蓮に入門して出家得度してからは常にそばにいて仕える[1][5]。行学に励み弁舌に優れ、日蓮門下の「論議第一」と称された[1][5]建治2年(1276年)、使者として日蓮の師道善房の墓前に赴き、日蓮による師追悼のための著述『報恩抄』を代読している[1][5]。同じく六老僧の一人である日興が執筆した『宗祖御遷化記録』に、「佐土公 日向」とその名を確認することができる[6]正和2年(1313年)、身延山を日進に譲り、上総国の藻原に隠居するも、その翌年に62歳で死去した[1][5]

著作

著作に『金綱集』がある[1][5]。なお、日蓮の法華経講義を日向が記録したものとして『御講聞書』があげられるが、現代では同書は日向の名を借りたものと考えられている[7][8]

脚注

出典

参考文献

  • 日蓮宗事典刊行委員会 編『日蓮宗事典』日蓮宗宗務院、1981年10月13日。ASIN B000J7QTDQNCID BA61075492OCLC 17071163 
  • 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 編『日蓮宗寺院大鑑』(初版)大本山池上本門寺、1981年1月1日。ASIN B000J80LMKNCID BN01669639OCLC 33874438 
  • 宮崎英修 編『日蓮辞典』東京堂出版、1978年7月10日。ISBN 978-4490101096NCID BN00793610OCLC 5182140 
先代
日蓮
身延山久遠寺
第2世:-1313
次代
日進