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[[File:Lucas de Burgo, Dedication page, "Somma di aritmetica" Wellcome L0006607.jpg|thumb|200px|[[ルカ・パチョーリ]]の著書『スムマ』(1494)。複式簿記を体系化した最初の本とされる。]]
{{複数の問題
{{会計}}
| 単一の出典 = 2012年10月1日 (月) 04:20 (UTC)
'''会計史'''(かいけいし)では、[[会計]]の[[歴史]]および会計と密接に関係がある[[帳簿]]や[[簿記]]の歴史について扱う。会計は利益を利害関係者に説明する行為(accounting)を指し、簿記は取引を記録する行為(bookkeeping)を指す{{Sfn|渡邉|2017|pp=125-126}}。現在の会計という語は企業会計を指す場合が多いが、歴史上では国家の会計記録も多数が残されている。本記事では古代会計史を含めて国家・商業組織・家計簿を対象とする{{Sfn|濱田|2003|pp=第1章-第2章}}。
| 参照方法 = 2012年10月1日 (月) 04:20 (UTC)
}}
'''会計史'''(かいけいし)では、[[会計]]の[[歴史]]について取り扱うものとする。


== 概要 ==
==学問としての会計史==
=== 各時代の概要 ===
学問としての会計史は、そもそも[[史学]]として認識されているのかさえも微妙なところである。そもそも会計学自体が歴史の浅い学問のせいか、歴史研究としては学者に興味を持たれたのも最近のことであるため、未だに発展途上にあり今後の研究に期待がかかる。
[[File:Quentin Massys 001.jpg|thumb|250px|[[クエンティン・マサイス]]『{{仮リンク|両替商とその妻|en|The Money Changer and His Wife}}』(1514年)。金銭を扱う職業の注意深さ、妻の信心深さを表している{{Sfn|ソール|2018|p=No.1472-1477/5618}}。]]
; 古代
会計や帳簿の起源は、ものを数える行為や、物資を管理する行為に関係し、文字の使用よりも早く行われていた{{Sfn|木原|2006|p=62}}{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=48-54}}。物資を集めて分け与える管理は[[再配分]]とも呼ばれ、古代の会計や帳簿は再配分と密接な関係にあった。穀物をはじめとする食糧や現物は、国家の歳入歳出や交換に使われ、物資の数量把握が必要とされた。エジプト、メソポタミア、イスラエル、中国、ギリシャ、ローマなどの地域では、現在の単式簿記にあたる会計が行われていた。監査は役人や、時には君主自身が行なった{{Sfn|ポランニー|1998|pp=95-98}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.276/5618}}{{Sfn|明石|2015|p=}}。


; 中世
== 古代オリエント ==
イスラーム王朝は商業のインフラを整えて、財務官僚の技術として書記術とともに簿記術を広め、インド数字を取り入れた。イタリアの都市国家は地中海貿易を盛んに行い、13世紀から15世紀にかけて[[複式簿記]]の原型が整えられていく。貿易と金融の複雑化や、商人の識字率の上昇も帳簿の発展を後押しした。[[インド・アラビア数字]]はイスラーム世界からヨーロッパへ伝わり、計算や記録が容易になっていった{{Sfn|橋本|2015|pp=}}{{Sfn|ジョーゼフ|1996|p=422}}。
世界で最古の文明を生み出したオリエント地域で会計の萌芽が見られた。[[古代エジプト|エジプト]]・[[バビロニア]]・[[アッシリア]]など複雑な統治機構を有した国家と広範囲にわたる商業網が形成されていた。だが、貨幣に相当するものは存在せず、それ以前の段階の代用貨幣である[[穀物]]や[[貨幣]]などの[[軽貨]]類が交換手段としてあるいは国家の歳入歳出の手段として用いられていた。そのため、そうした物資の正確な数量把握が必要とされていた。


; 近世・近代
エジプトでは[[紀元前4000年]]頃より国家機構が形成されて金銀銅以下家畜や穀物、油類までが租税として徴収され、地方の租税は腐敗の怖れの高いものは地元での行政に支出され、それ以外の物が中央のファラオの倉庫に送られて物資ごとに収められた。これらの倉庫を管理するために会計記録官(スレイラブ)をはじめとする記録官、人夫が配置されて租税として収納された物資の管理及び支出を担当した。会計記録官は読書・計算・行政法の知識に通暁し、パピルスに葦草の筆で記録した。[[紀元前2世紀]]頃の会計に関する記録が[[鰐]]の[[ミイラ]]の中に収蔵されて出土されている。
複式簿記がヨーロッパ各地に伝わり、会計や商法の近代化が進んだ。主な点としては、(1)年次決算の確立、(2)[[精算表]]の出現、(3)[[時価]]による評価替え、(4)口別損益勘定の総括化、(5)[[貸借対照表]]の原型となる資本金勘定、などがある{{Sfn|渡邉|2017|pp=73}}。


初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、[[産業革命]]が進んで投資額や企業が大規模になると、多くの株主に成果を開示するために[[フローとストック]]を要約した表を開示するようになった。これが[[貸借対照表]]と[[損益計算書]]である{{Sfn|渡邉|2017|pp=95}}。会計制度や法規制の増加にともない、専門家として[[公認会計士]]が登場し、公認会計士による監査制度も整えられた{{Sfn|渡邉|2017|pp=119}}。
商業が盛んであったバビロニアでは[[紀元前3500年]]の会計記録が存在しており、エジプト同様の公的会計の仕組が成立していた。バビロニアの会計記録官は契約成立時の立会人としての役割を果たし、時には粘土板上に契約内容を刻んで債権者に手渡し、万が一の際の保証とした。また、バビロニアの商業は神殿・寺院を中心に運営され、寺院財産の財産目録には寄付だけでなく寺院が直接商業や金融業を手がけていたことが明らかになっている。多くの財貨が神殿に預けられ、神官はその管理・運営に大きな発言権を有した。


; 現代
== 古代ギリシア・ローマ ==
地域による会計基準の違いを解決するために、[[国際会計基準]]の導入が進んだ。会計事務所は監査に加えてコンサルティングを行うようになり、20世紀後半から監査法人の独立性に疑問が呈されるようになる。21世紀には不正会計により大企業が相次いで破綻し、会計の厳格化や投資家保護の法律が定められたが、[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]が発生した{{Sfn|石黒|2010|p=}}{{Sfn|ソール|2018|p=第13章}}。
[[古代ギリシア|ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]時代になると既に貨幣が登場していた他、多くの出土資料によって会計技術が確立されていたことが明らかになっている。富は神の財産と考えられて神殿などの宗教施設に大部分が蓄積された。だが、実際の管理権は神殿の神官ではなく、国家が責任をもっていた。[[デロス島]]の神殿跡から[[紀元前180年]]頃の会計記録が発見されており、租税収入や賃貸料、貸付金金利、賃金や祭祀のための支出などの記録が記されている。


=== 数学・技術 ===
ローマの国庫の大半は[[サツヌルス神殿]]の地下にあった[[サツヌルス金庫]](aerarium saturni)にて一元的に管理されていた。管理の責任者は[[クァエストル|財務官]]であったが、財務官と言えども[[元老院]]の許しがなくその中身を動かすことは出来なかった。ローマ時代には備忘帳や会計日記帳に相当するアドヴルサリア(adversaria)が存在し、更に元帳に相当するコデックス(codex)も用いられた。また、貸方・借方の概念もこの時代に発生したとされている。
[[File:Codex_Vigilanus_Primeros_Numeros_Arabigos.jpg|300px|thumb|right|{{仮リンク|コーデクス・ヴィギラヌス|en|Codex Vigilanus}}。インド・アラビア数字がヨーロッパで書かれた初期の例。スペインの修道院で発見された{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-420}}。]]
{{see also|数学史|}}
; 記数法
会計には計算が欠かせず、[[記数法]]との関係が重要となる。[[エジプト数学#記数法|エジプト数字]]、[[バビロニア数学#記数法|バビロニア数字]]、[[ローマ数字]]は計算に時間がかかる。この点で[[インド数字]]は十進法であり、計算が容易で会計に適した記数法であった。インド数字は西アジアに取り入れられて[[インド・アラビア数字]]となり、イスラーム世界を通じてヨーロッパ、のちには世界各地に普及していった{{Sfn|濱田|2003|pp=80-82}}。


; 道具
当時多額の資産を持つローマ貴族は自らが市場で株の購入や貸付などの投資行った場合は選挙権などが剥奪される等厳しい仕組みになっていた。それを逃れるために貴族は奴隷を雇い、奴隷たちに一部の資産を与えて投資をさせていた。出資者である貴族は奴隷に投資をした記録などを残すよう命じた。これぞ現代の会計の目的であるある企業(奴隷)が株主(貴族)に対し企業の財務状態を明らかにするのと全く同じであり、会計の原点である。もっとも当時は単に不正や持ち出しがないかチェックをするための簡単な現金出納帳ではあったが。
ものを数える行為は、文字とは別個に行われていた。最古の記録として、2万年前の[[イシャンゴの骨]]が知られている{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=48-54}}。紀元前30世紀のメソポタミアでは、粘土のトークンと容器を用いた会計が在庫管理に使われていた{{Sfn|木原|2006|p=62}}。アメリカのインカ帝国では、キープと呼ばれる縄で財政が行われていた{{Sfn|アートン|2012|pp=192-193}}。また、近代の[[無文字社会]]でも官僚組織と財務管理を整備した国家が存在した{{Sfn|ポランニー|2004|pp=第2部1章}}。


会計を記録する道具としては、[[粘土板]]、[[パピルス]]、[[竹簡]]や[[木簡]]、[[樹皮]]や[[木の葉]]、[[結縄]]、[[絹布]]、[[羊皮紙]]などが使われた{{Sfn|三代川|2014|pp=446-445}}。日本では、[[和紙]]の長帳や袋帳に取引を筆書きし、[[そろばん]]を使って集計した。これを[[帳合]]と呼び、分類的には多帳簿制収支(検算)簿記とも呼ぶ{{Sfn|三代川|2014|pp=443-445}}。
==封建社会==
9世紀頃の修道院では所領を管理するための'''所領明細帳'''(polyptique)が作成され、初期の[[記帳法]]が形成されていた。


; 情報
[[11世紀]]イギリスでは[[封建国家]]が形成されていた。国王が領主に土地、労働者の管理権限を与え、領主に財産を委託した。ここでも企業(領主)、株主(国王)の関係がある。領主の代理人である荘園執事は、自分の活動を記録する'''責任負担、責任解除計算書'''たるものが作成されていた。
会計技法の普及には、出版物が大きな効果をもった。ヨーロッパでは、簿記書が15世紀から出版されて複式簿記の普及につながった。イスラームでは書記術の一環として、財務官僚に簿記を伝授する本が書かれた{{Sfn|渡部|2011|p=}}。中国では官僚向けの会計術は書かれたが、民間の商人向けの本は近代までなかった{{Sfn|津谷|1998|p=90}}。日本では、帳簿の記帳や計算方法は商家ごとに秘密とされており、部外者に共有はされなかった{{efn|日本では商業書や算術書は古くから存在し、江戸時代には商業書『[[商売往来]]』があり、算術書『[[塵劫記]]』には商業計算が書かれているが、会計についての教育書は明治以降となる{{Sfn|工藤|2019|pp=15-16}}。}}{{Sfn|三代川|2014|pp=16-17}}。


=== 分類 ===
荘園の経営は複雑で、領主から任命された執事が荘園の管理責任者であり、村役人は荘園内の全般的な監督に当たった。するとここに会計が必要となる。領主は荘園の経営状態や執事などの働きぶりをチェックするため、執事や村役人は自分の仕事が果たせられているかを証明するためである。そこで領主が執事に荘園の収入を適切に計算するための責任負担、責任解除計算書を記入するよう命じた。
; 財務会計・管理会計
[[財務会計]]は外部の利害関係者に公開する会計で、[[管理会計]]は企業内部の管理のために作成する。この二つは、19世紀までは厳密には分かれていなかった。アメリカの鉄道業において、資金調達や利害調整、正確なコスト管理、政府や国民への情報提供などの要因が重なって、財務的側面と管理的側面に分かれることとなった{{Sfn|中川|2019|pp=106}}。中世イタリアでは、商人は監査用の帳簿と、日記を兼ねた秘密帳簿をつけ、秘密帳簿の決算は公式の帳簿と一致しない場合が多かった{{Sfn|橋本|2013|p=}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.597, 941/5618}}。


; 発生主義・現金主義
この計算書は、'''現金計算書'''と'''穀物表'''、'''家畜表'''からなっていた。現金計算書は名の通り地代、販売収入を細かく記入されていた。穀物、家畜表は生産物を記録していた。
[[現金主義]]は、現金の収支によって費用や収益を計上する。[[発生主義]]は、経済価値が費消した事実が発生したときに費用や収益を計上する。現金主義と発生主義は、歴史的には経済状況や生産構造の違いによって選択されてきた。中世イタリアの初期の複式簿記には発生主義で作成されているものがあり、産業革命期のイギリスでは一般企業は発生主義、鉄道や運河などは現金主義であった{{Sfn|村田|2016|pp=107}}。
現金計算書には「責任負担」項目と「責任解除」の二項目からなる。「責任負担」項目はいわゆる収入、「責任解除」項目がいわゆる支出である。また、このころからすでに未払いの地代など未払金、未収金も記録されていた。まさしく[[損益計算書]]の原点であるともいえる。最も計算書を作る目的は領主に納入するための総額を示すためのものであり株主に一定期間の経営状態を明らかにするための現在の損益計算書とは意味合いが全く違うが。


; 原価主義・時価主義
さらに計算書には領主から委託された監査人が計算書をチェックしていた。これも現在の[[会計監査]]と全く同じと言ってもいい。
原価主義は取引をした時点の[[原価]]を基準とし、[[取得原価主義]]とも呼ばれる。これに対して時価主義では現在価値の[[時価]]を基準とする。原価は過去の価値、時価は現在の価値とも表現できる。会計は長らく原価主義で行われていたが、不動産や金融商品においては原価と時価の差が大きい。このため次第に時価主義(物価変動会計)の導入が進み、特に20世紀後半から金融商品を中心として{{仮リンク|公正価値|en|Fair value}}の導入が進んだ{{Sfn|鈴木|2002|pp=}}。


== 中世ヨーロッパ ==
=== 会計と社会 ===
[[File:Schreibende Kaufmannsfrau rem 2.jpg|thumb|200px|商人の筆記。マンハイムの{{仮リンク|ライス・エンゲルホルン博物館|en|Reiss-Engelhorn-Museen}}所蔵。]]
ローマ帝国滅亡後の中世は長年、[[暗黒時代]]と考えられてきたが、近年では過剰な評価とされ、商業活動は衰退したのは事実であるが、全く途絶してしまったわけではなかった。この時期には会計の大きな発展は見られなかったが、[[ノルマン朝]][[イングランド]]においては[[大蔵省 (イギリス)|大蔵省]]が『収支簿』([[パイプ・ロール]]([[:en:Pipe Rolls|en]]))と『土地調査簿』([[ドゥームズデイ・ブック]])を作成して財政記録を整備するなど、統一的・科学的な会計記録方式の萌芽が見られている。
古代のギリシャやローマは地中海商業で繁栄したが、商業行為は低く見られており、帳簿をつけるのは奴隷の役目だった{{Sfn|坂口|1999|p=}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.288-296/5618}}。キリスト教やイスラームにおいては[[利子]](ウスラ、[[リバー]])が禁止されており、商人は利子とみなされないように取引や投資を行って利益を得たが、会計慣行の多くは[[教会法]]に違反していた。そのため中世キリスト教徒の商人の帳簿には、神に記録を開示する告解という側面もあった{{Sfn|清水|2010|pp=91-92}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.655-692/5618}}。


; 人員・組織
[[13世紀]]末期から[[14世紀]]初頭の[[イタリア]]にて、これまでの[[単式簿記]]に替わる[[複式簿記]]の基礎が形成されたと言われている。それを体系化・理論化したのは[[ルカ・パチョーリ]]の著書[[スムマ]](算術、幾何、比および比例に関する全集)であるとされている。複式簿記自体はそれ以前からあったが、これを知識として形にしたパチョーリの功績は大きく、「会計の父」の名に相応しいと言える。これと相前後してヨーロッパにおいて[[アラビア数字]]が普及して従来の[[ローマ数字]]に取って代わり、記帳の簡便性が増したことで、会計技術の更なる進歩を促した。
委託・受託関係の会計として代理人会計があり、古代ギリシャやローマでは主人が奴隷に委託し、中世ヨーロッパでは領主が荘園の管理者に委託した。これらは株主に経営状態を明らかにする現在の損益計算書とは意味合いが異なる{{Sfn|福島|1992|p=103}}{{Sfn|森田|2019|p=}}。


古代バビロニアや中世イタリアにおいては、契約を記録するために立会人や[[公証人]]が働いた。イタリアでは契約の増加によって公証人が不足すると、商人がみずから記録を残すようになり、帳簿の普及にもつながった{{Sfn|清水|1993|pp=}}。現在では、資格を持つ[[公認会計士]]の制度が確立されている{{Sfn|渡邉|2017|pp=122-124}}。
==パチョーリ以後==
スムマ以降の簿記に関する本は学問としての簿記の本ではなく、いわゆる実務書、解説書であった。スムマ以降簿記の理論が新たに作られたり、学者などが研究するようなことはなかった。逆に言えばそれだけ簿記の基礎を作り上げたスムマの貢献度は非常に大きかったといえる。


会計や簿記の複雑化には、商業組織の事業内容、形態、管理が関係した。複式簿記が掲載されたといわれるイタリアの都市国家では、貿易の共同企業から遠隔地に支店をもつ大規模な商会への発展が帳簿の発展をうながした{{Sfn|橋本|2015|pp=}}。減価償却・損益計算書・連結決算の成立には19世紀の鉄道業が影響した{{Sfn|高梠|2000|pp=}}{{Sfn|小栗|2018|pp=}}。
== 16~17世紀オランダ ==


; 政治
当時のオランダは商業の発達したいわゆる黄金時代にあり、[[オランダ東インド会社]]など大規模な組織の設立もあり簿記の研究がどんどん発達していた。
政府の会計(公会計)と民間の会計(私会計)は古来から分けられていた。中世イギリスの会計書は、(1) 公的(国王・領主)、(2) 私的(商業組織・ギルド・貴族・市民)、(3) 教会、(4) 慈善組織の会計に分かれていた{{Sfn|花田|2010|pp=91-93}}。
オランダの二大簿記書に、[[ジャン・イムピン]]の「新しい手引き」([[1543年]]発行)、と[[シモン・ステヴィン]]の「数学の伝統」([[1605年]]発行)がある。イムピンの書には決算日に在庫を繰り越す'''期間損益計算'''の概念が取り入れられている。さらにステヴィンの書には年度ごとの損益を比較するための'''年次期間損益計算'''の概念が取り入れられていた。


政府をバランスシートによって評価するという公会計の視点は、[[ブルボン朝]]の財務長官を務めたジャック・ネッケルの『{{仮リンク|国王への会計報告|en|Compte rendu}}』がきっかけだった。国家の収入と支出を調べて問題点を明らかにした『会計報告』は[[フランス革命]]の一因にもなり、各国の監査制度に影響を与えた{{Sfn|ソール|2018|p=No.3370-3376/5618}}。
==18世紀~19世紀イギリス==


== 古代 ==
=== アジア・アフリカ ===
; アフリカ
エジプトでは[[紀元前4000年]]頃より国家機構が形成されて、家畜や穀物、鉱物などが各地で租税として徴収された。腐敗の怖れの高いものは地元の行政に支出され、それ以外の物資が中央のファラオの倉庫に送られた。倉庫を管理するために会計記録官をはじめとする記録官、人夫が配置された。会計記録官は読書・計算・行政法の知識に通暁し、[[パピルス]]に葦草の筆で記録した。記録官の計算書は監督官がチェックし、内容に不都合があれば厳しく処罰された{{Sfn|屋形|1998|p=}}{{Sfn|安藤|2002|p=348}}。現物経済のため、生産物の貯蔵、食糧や土地の配分のための計算が多用された。このため現存する[[エジプト数学]]の記録には、単位分数が多い{{Sfn|ジョーゼフ|1996|p=101, 109}}。[[アレクサンドロス3世]]による征服ののちは、[[プトレマイオス朝]]をへてヘレニズムやローマの影響を受けた財政となっていった{{Sfn|明石|2017|pp=}}。

[[File:Accountancy clay envelope Louvre Sb1932.jpg|thumb|right|200px|粘土製の容器であるブッラ。紀元前4000年-3100年。]]
; 西アジア
メソポタミアには、粘土製のトークン(証票)と、{{仮リンク|ブッラ|en|Bulla (seal)}}と呼ばれる粘土製の容器があった。これらは[[紀元前35世紀]]の[[ウルク文化]]中期において、計算や物資の管理に使われたとされる{{efn|トークンは[[新石器時代]]から計算具として使われていたという説や、トークンが文字の原型になったという説もある{{Sfn|木原|2006|p=62}}。}}。[[シュメール|シュメル]]では、文字を読めない者のためにトークンとブッラが[[粘土板]]と併用された{{Sfn|小泉|2016|p=165}}{{Sfn|木原|2006|p=}}。[[紀元前22世紀]]から[[紀元前21世紀]]の[[ウル第三王朝]]の時代には、[[シュルギ]]王が官僚機構の大規模化、度量衡・会計・文書記録の整備を進めた{{Sfn|明石|2015|p=171}}。

アラビア半島から広まった[[イスラーム]]では、『[[クルアーン]]』の第2章282節と283節において、貸借関係を明らかにする必要が書かれている{{Sfn|土谷|2009|p=35}}。初期のイスラーム指導者である[[ウマル1世]]は、軍に給料を支払うために受給者名簿を作成し、名簿をもとに現金と現物で支給した。この財政は、軍による征服地の分配と現地人の奴隷化を禁止する意図があった。受給者名簿は[[ディーワーン]]と呼ばれ、最初のイスラーム王朝である[[ウマイヤ朝]]において官庁を指す言葉になる{{Sfn|森本|1976|p=}}。ウマイヤ朝のディーワーン制度は、[[アッバース朝]]をはじめとするのちのイスラーム王朝に引き継がれた{{Sfn|森本|1976|p=}}。また、インド数字が古代から西アジアに入り、アラビア語文献でも使用が始まった{{efn|西アジアにおけるインド数字の最古の記録は、[[ネストリウス派]]司祭のセベルス・セベクトの662年の文書であり、インド記数法を使った最古のアラビア語文献が数学者・天文学者の[[アル=フワーリズミー]]の『インド数字による計算法』(825年)である{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=417-418}}。}}。773年には、[[マンスール|アル=マンスール]]が治めるバグダードを訪れたインドの使節が記数法を宮廷に伝えた{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=417-420}}。

; 南アジア
[[File:Bakhshali numerals 1.png|thumb|300px|3世紀から4世紀のバクシャーリー写本に書かれたシャーラダー数字。右端の黒い点が、最古のゼロ表記とされる]]
紀元前4世紀の[[マガダ国]]ではパリサトという行政機関が設置され、中央政府には収税官、財政管理、国庫管理官の他に各産業の監督官がいた。ガナカやサンキヤーナカと呼ばれる役職が王家・官庁・法廷で計算をしていた記録があり、現在の会計士にあたる。仏典では大臣に属するガナカの記述があり、[[マウリヤ朝]]の政治家[[カウティリヤ]]が書いた『[[実利論]]』にはサンキヤーナカの仕事が書かれている{{efn|叙事詩『[[マハーバーラタ]]』では、帝王学教育としてガナカについて語られる場面がある{{Sfn|林|1993|pp=93}}。}}{{Sfn|林|1993|pp=91-93}}。マウリヤ朝の官僚制度は[[クシャーナ朝]]にも引き継がれ、中央の主税官、税務官、地方の会計官などがいた。クシャーナ朝時代に作られたとされる『[[マヌ法典]]』には、第8条と第39条に会計についての規定がある。不動産、奴隷、債務弁済、[[カースト]]ごとの利息、商税や年貢について定められていた{{Sfn|濱田|2003|pp=77-80}}。

古代インドにおいて、現在の会計で使われている数字の原型が作られた。紀元前3世紀頃には、{{仮リンク|シャーラダー数字|en|Sharada script}}によってゼロと1から10までの数字で全ての数を表せるようになった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=323-325}}。インドは膨大な桁数の数を用いたが、[[ヴェーダ]]や[[ジャイナ教]]では宗教や哲学が目的であり、商業計算の記録は3世紀から4世紀の[[バクシャーリー写本]]からとなる{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=343-351}}。

; 東アジア
中国最古の帳簿(簿書)は、[[流水帳]]と呼ばれる方式で記録された。発生順に書いてゆく備忘的な記録であり、帳簿の保存や決算はなかった。この形式が清まで一般的に続くことになる。流水帳は単一の記録として始まり、のちに日記帳にあたる草流、財の種類や収支を区別する細流、総勘定元帳にあたる総青の3つに細分化していった{{Sfn|津谷|1998|p=48-49}}。
監査においては、[[春秋戦国時代]]に地方政府の財政報告を皇帝が審査する上計という制度が作られた。秦では中央政府に御史大夫、各郡には監察御夫が監査し、上計は御史大夫が行うようになり、同様の制度が各王朝で引き継がれた{{Sfn|柳, 趙|2002|pp=243-244}}。

日本では、7世紀以降の[[律令制#日本の律令制|律令制]]において[[租庸調]]という税が定められ、財政責任者の[[太政官]]は[[四度公文]]と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文とは大帳 (計帳)、正税帳、調庸帳、朝集帳を指す{{Sfn|田中|2018b|p=}}。四度公文の報告は四度使と呼ばれる使者が行い、報告の内容は[[主税寮]]にある[[勘会]]で精査を受けた。この勘会が、最初期の監査といえる{{Sfn|田中|2011b|p=}}。貴族や仏教寺院が管理する[[荘園]]でも決算報告が制度化されていた。初期の荘園の会計記録として、755年から757年の[[桑原庄劵]]と呼ばれる文書があり、収支報告書にあたる{{Sfn|田中|2016|pp=24-29}}。

=== アメリカ ===
; メソアメリカ
[[マヤ文明]]では多数の都市国家が栄え、最盛期は8世紀頃といわれている。それぞれの国家は神官・軍指揮官を兼ねる王に治められ、行政は王族や貴族が執り行った。書記となったのは[[マヤ文字]]を秘儀として教わった一部の貴族で、多くの国民には文字は伝えられなかった。貴族は複数の役割を持ち、書記は石碑の彫刻家・天文学者・役人でもあった。行政機能は宮廷の外にも分化し、地位の高い貴族の住居でも行われた{{Sfn|青山|2015|pp=115-116}}。

=== ヨーロッパ ===
[[File:Linear B (Mycenaean Greek) NAMA Tablette 7671.jpg|thumb|200px|ミケーネ文明の線文字Bの粘土板]]
; ギリシャ
[[ポリス]]が成立する前、[[紀元前16世紀]]から[[紀元前12世紀]]にかけての[[ミケーネ文明]]では、経済活動を記録するために[[線文字B]]が使われた。粘土板にはさまざまな物資の種類や数量が書かれており、衣食住や奴隷、武器、神々への奉納などが宮殿で管理されていた{{Sfn|周藤|2007|p=14-15,17}}。

ポリス成立後の[[アテナイ]]では、国庫を[[デロス島]]の神殿に保管し、身分の低い市民や奴隷が帳簿係に雇われた。官僚が会計報告を作成し、監査官によって調べられた。神官にも会計報告の義務があり、贈答品も含めて報告した。アテナイの市民は、国家の債務を返済しなければ国外への移動、神殿への献納、遺言状の作成ができなかった{{Sfn|ソール|2018|p=No.288-296/5618}}。

; ローマ
[[File:Temple-de-saturne.jpg|thumb|200px|国庫があったサートゥルヌス神殿]]
[[共和政ローマ|共和政]]時代と初期の[[ローマ帝国|帝政]]では、[[クァエストル]]と呼ばれる財務官が存在した。ローマの国有財産は[[サートゥルヌス神殿]]に保管され、{{仮リンク|アエラリウム|en|Aerarium}}すなわち国庫とも呼ばれた。国庫の書記官が出納を記録し、国家の債務、軍、州の収支は別の台帳に記録された。政府の会計は[[タブラリウム]]と呼ばれる公文書館で行われた{{Sfn|ソール|2018|p=No.316/5618}}。

初代ローマ皇帝の[[アウグストゥス]]は会計記録を整備し、現在では「皇帝の帳簿」と呼ばれている。個人用の帳簿には定刻の財政、軍の収支、建設工事の資金繰り、手元現金などが記録されていた。この帳簿は計画の他に、自らの業績を伝える「[[神君アウグストゥスの業績録]]」などの宣伝にも活用された{{Sfn|ソール|2018|p=No.337/5618}}。貴族は、自らが商業活動をすると選挙権などが剥奪される仕組みになっていた。それを逃れるために、支配地域の商人や知識人を奴隷として商業に従事させた。奴隷は貴族の資産を管理し、貴族は奴隷に記録を残すように命じた{{Sfn|渡邉|2017|p=29}}。

== 中世 ==
=== アジア・アフリカ ===
; イスラーム世界
アッバース朝は、文書行政や財政管理のためにアラビア語の書記術を確立し、財務書記や財務官に算術や帳簿術・会計術を伝える内容をそろえた。書記術はイスラームの伝播にともなって各地に伝わり、ペルシアではペルシア語による文書・財務の指南書として発達した。これがイラン式簿記術として確立され、[[オスマン帝国]]に普及していった{{Sfn|渡部|2011|p=}}{{Sfn|熊倉|2011|p=}}。イスラームの文書・財務の指南書はペルシアを通じて中央アジアや南アジアにも伝わり、イラン式簿記術がイスラーム政権で用いられた{{Sfn|渡部, 阿部|2017|p=}}。

イスラームには[[ワクフ]]と呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられて[[カーディー]]らが監督した。所有権を放棄されたワクフ財は寄進ごとに一つの組織として扱われ、私有財産や国家、特定の宗教の財産とは別個だった。会計では収入がワクフ財源・前期繰越金、支出が手当・諸経費・修理費などになる{{Sfn|清水|2011|p=}}。ワクフの種類には住宅、公共施設、農地、商業不動産の他に、利子で運用する現金もあり、インフラの維持に役立ちつつ善行のための資金調達という役割を果たした。12世紀から増加し、特に[[ペストの歴史#第二のパンデミック|14世紀のペスト]]による人口減少の影響で急増した{{efn|ワクフの急増は、[[マムルーク朝]]の財源だった[[イクター制]]の崩壊を招いた{{Sfn|五十嵐|2007|pp=}}。}}{{Sfn|五十嵐|2007|pp=}}{{Sfn|林|1999|pp=}}。

古代にインドから伝わった記数法は、10世紀には一般にも普及していた{{efn|哲学者の[[イブン=シーナー]]の自伝によれば、野菜売りの商人からインドの計算法を教わったとある{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-422}}。}}。さらに、インド・アラビア数字としてイスラーム世界を通してヨーロッパに伝わるようになる。イベリア半島の[[アンダルスのウマイヤ朝]]や、アフリカの[[ムワッヒド朝]]が入り口となった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=419-422}}。

; 東アジア
中国では、単一の記録として始まった流水帳から、[[三脚帳法]]が考案された。これは現金収支のある取引は現金の相手方勘定だけ一つ記録し、現金収支のない取引は内容を示す双方の勘定に二つ記録するので、一つと二つの要素を合わせて三脚と呼ぶ{{Sfn|津谷|1998|pp=58-61}}。[[宋 (王朝)|宋]]において流水帳の設置や使用法が進展し、財物の類別総括計算と明細分類計算を行うようになった{{Sfn|津谷|1998|p=49-50}}。

日本における最古の商業帳簿は、現在の質屋にあたる[[土倉]]の債権簿とされる。土倉の帳簿は、日記または日記帳という名称で記録されていた。平安期以降の荘園には年貢[[散用状]]と呼ばれる決算報告書があり、散用状を作成するために日記の覚書が使われた。戦国時代の末には日記が貸付簿としても使われており、[[伊勢神宮]]の[[御師]]である宮後三頭大夫の『国々御道者日記』によれば、日記は金銭出納簿でもあった{{Sfn|田中|2011a|p=60, 63, 74}}。種々の取引を記録していた日記は、やがて近世に大福帳、仕入帳、売帳、買帳など目的別に作成されるようになる{{Sfn|田中|2011a|p=74}}。

=== アメリカ ===
[[File:Nueva corónica y buen gobierno (1936 facsimile) p360.png|thumb|200px|キープを使うインカの役人(キープカマヨック)。左下にあるのは計算具の{{仮リンク|ユパナ|en|yupana}}。]]
; 南アメリカ
[[インカ帝国]]の行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産管理にあたり、各地方にも会計係と出納係が置かれた{{Sfn|アートン|2012|pp=192-193}}。インカ帝国では[[キープ (インカ)|キープ]]と呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した{{efn|キープの会計は階層構造をもち、上方向は合計、下方向は分割となる{{Sfn|アートン|2012|pp=194-195}}。}}。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算には{{仮リンク|ユパナ|en|yupana}}と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した{{Sfn|ジョーゼフ|1996|pp=56-66}}。

=== ヨーロッパ ===
[[ファイル:Domesday-book-1804x972.jpg |right|thumb|300px|ドゥームズデイ・ブック]]
; 封建国家
ローマ帝国の滅亡後、カトリック教会や修道会は会計や監査を続けた。やがて[[封建国家]]が形成されると、世代が続くにつれて所有関係が複雑化し、会計事務も増加した。ローマ皇帝のような会計記録の公開は、富裕な修道士会や一部の王族をのぞいて行われなかった{{Sfn|ソール|2018|p=No.365/5618}}。[[ノルマン・コンクエスト]]によって成立した[[ノルマン朝]]は、新しい制度を定め、1086年に世界初の土地登記簿と言われる[[ドゥームズデイ・ブック]]を作成した。[[大蔵省 (イギリス)|大蔵省]]は収支簿を作成して財政記録を整備し、羊皮紙をパイプ状に巻いてあるために[[パイプ・ロール]]と呼ばれた{{Sfn|ソール|2018|p=No.371/5618}}。

国王は、領主に土地や労働者の管理権限を与えて委託した。領主の荘園は、荘園執事が領主の代理人として管理した。代理人(受託者)は、領主(委託者)に荘園の状態を報告するための会計を記録した。これは代理人会計と呼ばれる{{Sfn|森田|2019|p=4}}。荘園の会計は地代表と現金帳に大きく分かれ、地代表に収入を記録し、現金帳に取引を記録した{{Sfn|森田|2019|p=11}}。

; 表記法と計算具の変化
ローマ数字は、簿記の計算に必要なゼロや[[位取り記数法|位取り]]を表記する際に不便だった。[[ピサ共和国]]の数学者で商人でもあった[[レオナルド・フィボナッチ]]が1202年に『[[算盤の書]]』を発表すると、ゼロの概念、位取り、10進法などをもつインド・アラビア数字がヨーロッパに普及していった{{efn|フィボナッチは、イスラーム王朝の[[ムワッヒド朝]]の都市であるブージ(現在の[[ベジャイア]])でインド・アラビア数字と算盤を学んだ{{Sfn|ソール|2018|p=No.452/5618}}。}}。13世紀から14世紀にかけてのイタリア諸都市の帳簿にはローマ数字とアラビア数字が混在しており、一般に普及したのは15世紀後半から16世紀となる{{efn|アラビア数字はときに禁止され、普及の障害となった。ローマ数字と比べると、0を終わりに付け足したり、0を6や9に変えるなど改竄しやすいというのが理由だった{{Sfn|ジョーゼフ|1996|p=422}}。}}{{Sfn|渡邉|2017|pp=18-20}}。同時代には計算用具の[[アバカス]]も普及し、アラビア数字とアバカスによって計算や記帳がより簡便になっていった{{Sfn|ソール|2018|p=No.438-452/5618}}。

; 複式簿記の形成
[[File:Portia and Shylock.jpg|thumb|200px|[[トマス・サリー]]『ポーシャとシャイロック』(1835年) 『ヴェニスの商人』の登場人物。]]
[[複式簿記]]の起源について、有力なものが[[13世紀]]末期から[[14世紀]]初頭のイタリア説である。イタリアの都市国家において、以下のような段階をへて複式簿記が生成されたといわれる{{Sfn|橋本|2015|pp=}}。

(1) 12世紀の共同組合と会計実務:
12世紀から[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]などの都市国家が地中海の貿易で栄えた。当時の海上貿易は難破や海賊のリスクが高く、商人はリスクを分散するために航海や商品ごとに共同組合を作った{{efn|[[シェイクスピア]]の戯曲『[[ヴェニスの商人]]』には、中世のヴェネツィアではなくシェイクスピアの同時代の16世紀から17世紀の取引地名が登場する。これは過去のヴェネツィアの繁栄を同時代のロンドンに結びつけて題材にしたともいわれる{{Sfn|中野|1990|p=}}。}}。共同出資の契約のために[[公証人]]が働き、識字率が高くなかったため公証人が会計実務も行った。やがて商人の識字率が上がり、自分で帳簿をつける商人も増えた{{efn|イタリアでは都市国家によって組合の構成が異なり、会計にも影響を及ぼした。フィレンツェは他人同士による期間組合(マグナ・ソキエタス)であり、ヴェネツィアでは貴族の血縁を中心とした家族組合(ソキエタス)による口別損益計算が行われていた{{Sfn|渡邉|2017|pp=20-24}}。}}{{Sfn|清水|1993|pp=}}{{Sfn|橋本|2015|pp=4-5}}。

イタリア諸都市は、[[十字軍]]への貸付をきっかけに北方のヨーロッパ各地に進出した。十字軍の[[テンプル騎士団]]は遠征費のためにイタリア商人と取引をしており、テンプル騎士団の帳簿は現金管理に加えて[[振込#振替|振替]]も行なっていたとされる{{efn|イタリア商人は為替相場を利用し、ヨーロッパの資金を西アジアに移動して利潤を生み出した。十字軍は多額の遠征費を必要としたため、イタリア商人の立場をより有利にした{{Sfn|三光寺|2011|pp=72}}。}}{{Sfn|三光寺|2011|pp=71-75}}。

(2) 13世紀のコンパーニアとビランチオの生成:
海上貿易の増加でヨーロッパ各地の陸上貿易も活発になると、共同組合は次第に長期化し、フィレンツェを中心にコンパーニアと呼ばれる貿易商・両替商・銀行の組織が結成された。コンパーニアのメンバーで利益の計算と分配をするために損益計算が求められ、ビランチオと呼ばれる財務表が作られた{{efn|当初の複式簿記は、損益勘定が元帳にないか、あったとしても企業全体の損益を総括できなかった。そのため利益を計算するには、棚卸をもとに総資産と総負債を時価評価した財務表を作成して差額を求め、前期と今期を比較した{{Sfn|渡邉|2017|pp=23-24}}。}}{{Sfn|橋本|2015|pp=5-6}}{{Sfn|渡邉|2017|pp=23-24}}。現存する最古の勘定記録は1211年のもので、フィレンツェの銀行家がボローニャのサン・ブロコリ定期市で書いた元帳勘定になる{{efn|内容は両替商による貸付記録だが、貸方による回収記録がないため、賃借左右対称方式ではなく賃借前後分離方式だったとされる{{Sfn|渡邉|2017|pp=10-16}}。}}{{Sfn|渡邉|2017|pp=10-16}}。

(3) 14世紀前半のコンパーニアの多拠点化と多帳簿記帳実務:
コンパーニアが拡大を続け、ヨーロッパ各地の駐在人も増加する。三大商会である[[バルディ家|バルディ]]、{{仮リンク|ペルッツィ家|en|Peruzzi|label=ペルッツィ}}、{{仮リンク|アッチャイウォーリ|en|Acciaioli family}}は各地の店舗と代理店契約を結んだ。大規模な商会や銀行は遠隔地に支店を持ち、支店の責任者は本店に経営と財務を報告する説明責任を果たした。組織の大規模化によって、業務ごとに帳簿が作られるようになり、基礎帳簿、補助帳簿、最終帳簿という細分化も進んだ。最終帳簿の中には、各帳簿を集計した秘密帳簿があった{{Sfn|橋本|2015|pp=6-7}}。企業全体の損益勘定を総括した最初期のものとして、フィレンツェの{{仮リンク|コルビッチ商会|it|Corbizzi}}の帳簿がある{{Sfn|渡邉|2017|pp=39}}。

(4) 14世紀末の独立拠点と複式簿記の要件を満たす実務:
大規模化した商業組織は、全ての会計実務を各地の支店に任せるようになり、報告のための会計実務が広まった。支店が1年ごとに帳簿を区切って決算報告書を作成する体系が整うと、収益勘定と費用勘定で計算する利益と、ビランチオで計算する利益を一致できるようになり、複式簿記の原理も整った{{Sfn|橋本|2015|pp=7-8}}。やがてフィレンツェとヴェネツィアの簿記方式が統合され、損益計算で総括損益を定期的に計算するようになり、毎年の期間損益計算が確立されていった{{Sfn|渡邉|2017|pp=20-26}}。特に膨大な数の複雑な取引が行われる銀行業務では、複式簿記は必須となった{{efn|たとえば預金を裏付けに手形を振り出して決済をする場合は、商人にとって現金よりも便利ではあるが記帳は複雑化する{{Sfn|ソール|2018|p=No.986/5618}}。}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.986/5618}}。

(5) 15世紀の持株会社形態の組織と複式簿記の運用:
[[メディチ銀行]]は、支店と本店を別々のコンパーニアとして、各支店の出資比率は本店が過半数を持って支配した。各支店では帳簿を1年ごとに締め切って決算報告書を作成し、本店では支店ごとの利益を計算して出資者間で分配した{{efn|メディチ銀行では、支店の支配人は会計報告のためにいつでも召集に応じることや、年1回の決算に加えて必要ならばいつでも決算を行って報告する義務があった{{Sfn|ソール|2018|p=No.1001/5618}}。}}。これは現在の連結決算にも類似した方法であり、複式簿記がこの時点で確立されていた{{Sfn|橋本|2015|pp=8-9}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.597, 941/5618}}。フィレンツェでは、1427年に国の税務監査のために簿記の維持が義務となり、商人は監査に見せる公式の帳簿と、日記を兼ねた自分用の秘密帳簿を使い分けた{{efn|現存する秘密帳簿としては、教皇庁とも取引をした商人である[[フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ]]やメディチ銀行のものなどがある。メディチ銀行の秘密帳簿からは複式簿記の要素が見られる{{Sfn|橋本|2013|p=}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.597, 941/5618}}。}}。

複式簿記は法廷でも重要となった。金銭にまつわる紛争では複式簿記の元帳も法的文書として認められ、帳簿に不備のないことが勝敗に影響した{{Sfn|ソール|2018|p=No.967/5618}}。

; 複式簿記の理論化
複式簿記を最初に体系化・理論化したのは、数学者[[ルカ・パチョーリ]]の数学書『{{仮リンク|スムマ|en|Summa de arithmetica}}(算術、幾何、比および比例に関する全集)』であるとされる{{efn|『スムマ』で名声を得たパチョーリは[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]とも交流した。『[[モナ・リザ]]』や『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』には、パチョーリが教えた遠近法の影響がみられるという説もある{{Sfn|渡邉|2017|pp=64}}。}}。[[1494年]]にヴェネツィアで出版され、複式簿記については第1部・第9編・論説11で26ページにわたって書かれている。『スムマ』の損益計算は、継続的な帳簿記録をもとに期間で区切る総括損益計算であり、ヴェネツィア式簿記とフィレンツェ式簿記の混合だった{{efn|『スムマ』29章から。「毎年帳簿を締切ることは常に良いことであるが、他の人と組になっている人の場合には特にそうである。諺に「計算を度々すれば、友情が続く」といっている」{{Sfn|渡邉|2017|p=69}}。}}{{Sfn|渡邉|2017|p=64-69}}。

なお、『スムマ』よりも先に脱稿していた簿記論として[[ベネデット・コトルリ]]の『{{仮リンク|商業と完全な商人|en|Della mercatura e del mercante perfetto}}』があるが、コトルリの著書が出版されたのは『スムマ』よりも後の1573年だった{{Sfn|渡邉|2017|pp=60-69}}。コトルリは、初めて複式簿記 (dupple partite) という言葉を使ったことでも知られる{{Sfn|片岡|2018|p=89}}。

== 近世・近代 ==
[[File:Marinus Claesz. van Reymerswaele 005.jpg|thumb|200px|[[マリヌス・ファン・レイメルスワーレ]]『収税人たち』(1540年)。収税人の欲望や帳簿の不正の暗喩であり、会計を風刺した最初の絵画ともいわれる{{Sfn|ソール|2018|p=No.1487-1500/5618}}。]]

=== ヨーロッパ・アメリカ ===
パチョーリ『スムマ』の簿記法は「イタリア式簿記法」とも呼ばれ、ヨーロッパ各地に伝わった。16世紀のフランス、スペイン、オランダにはヤン・インピンによる『スムマ』の翻訳から伝わり、ドイツはマンゾーニの著作から伝わった。17世紀にはオランダが先進国だったためオランダから各地に伝わった{{efn|当時の複式簿記の普及が分かる作品として、{{仮リンク|ヨースト・アマン|en|Jost Amman}}とヨハン・ノイドルファーの木版画『商業の寓話』がある{{Sfn|土方|2004|p=}}。}}{{Sfn|濱田|2003|pp=324-325}}。

各地における最初の複式簿記書の出版年を見ると、イタリア1494年(『スムマ』)、ドイツ1518年、フランス・イギリス・オランダ1543年(インピンによる『スムマ』翻訳)、スペイン・ポルトガル1590年、スウェーデン1646年、デンマーク1673年、ノルウェイ1692年となる{{Sfn|濱田|2003|p=304-308}}。

; フランドル、オランダ
[[フランドル]]には定住商人が多く、期間損益計算の普及が進んだ。16世紀には[[アントウェルペン]]へと経済の中心が移り、[[1543年]]に織物商[[ヤン・インピン]]は、初のオランダ語の簿記書として『新しい手引き』を出版した。『新しい手引き』は年次決算を説いた最初の簿記書とされる{{Sfn|渡邉|2017|pp=72-78}}。オランダの数学者[[シモン・ステヴィン]]は『[[数学覚書]](Wiskonstighe Ghedachtenissen)』([[1605年]]-[[1608年]])を出版し、年次決算や[[精算表]]を説いた{{Sfn|渡邉|2017|pp=72-80}}。

; フランス
[[ルイ14世]]の[[財務総監]]だった[[ジャン=バティスト・コルベール]]は、[[重商主義]]政策の一環として1673年に[[商事勅令]]を制定した。この勅令は、起草の中心人物{{仮リンク|ジャック・サヴァリ|fr|Jacques Savary}}の名を取って{{仮リンク|サヴァリ法典|fr|Code Savary}}とも呼ばれる。商事勅令は世界初の成文法の商法であり、近代的な商法の原型となり、その後の商法で商業帳簿が制度化された{{Sfn|荒鹿|1997|pp=}}{{Sfn|安藤|2017|pp=2-3}}。

; ドイツ・スカンジナビア
ドイツ人による簿記書は、1518年の{{仮リンク|ハインリッヒ・シュライバー|en|Henricus Grammateus}}や1531年のヨハン・ゴットリーが最初期となる。これらは商品元帳を有する人名勘定元帳について書かれており、『スムマ』の影響を受けていない点に特徴がある。これらの簿記書ののちに複式簿記の移入が進んだ{{efn|[[ゲーテ]]の小説『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代|ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命]]』では、登場人物のヴェルナーが「複式簿記は人間の頭で発明した最も優れたもののひとつである」という主旨の発言をする。この発言が、ゲーテ自身の言葉だと誤解されている場合がある{{Sfn|中居|2015|pp=}}。}}{{Sfn|濱田|2003|pp=315-319}}。ドイツの簿記書は、デンマークやスウェーデンでも出版された{{Sfn|濱田|2003|pp=339}}{{Sfn|土方|2008|pp=}}。スカンジナビアでは、[[ハンザ]]の商人を中心とするドイツとの貿易を通して複式簿記が移入された。ドイツ語の簿記書が読まれ、のちに簡略版や独自の簿記書が出版された{{Sfn|濱田|2003|pp=305}}。

; イギリス
[[File:Marriage A-la-Mode 2, The Tête à Tête - William Hogarth.jpg|thumb|250px|[[ウィリアム・ホガース]]『{{仮リンク|当世風結婚|en|Marriage A-la-Mode (Hogarth)}}』(1743年頃)。執事が領収書と帳簿を持っているが、会計は夫婦に無視されている{{Sfn|ソール|2018|p=No.2695/5618}}。]]
イギリスはインピンによる『スムマ』の英訳から始まった。イギリスで最初の簿記書は、1543年のヒュー・オールドカッスルの『有益なる論文』であると言われているが、現存していない{{Sfn|森田|2019|p=4}}。ジェイムズ・ピールやジョン・ウェディングトンはイタリア簿記の系統で初心者向けの本を出し、引き継がれていった{{Sfn|濱田|2003|pp=297}}。

; 植民地
[[大航海時代]]以後、ヨーロッパがアメリカやアフリカなど世界各地で植民地化を進めて、植民地には本国の会計制度が移入された{{Sfn|石黒|2010|pp=30}}。本国の簿記書が植民地で用いられ、アメリカ植民地ではジョン・メイヤーの『組織的簿記』が読まれて図書館にも多数の蔵書があった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3440/5618}}。アメリカ植民地では[[ベンジャミン・フランクリン]]らの努力もあって簿記の普及が急速に進んだ{{Sfn|上田|1988|pp=25}}{{Sfn|渡邉|2017|pp=84-88}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.3462/5618}}。

; 単式簿記
18世紀のイギリスでは、小売店の商人にとって、伝統的な複式簿記は複雑すぎるという不満があった。この不満に応えるために、『[[ロビンソン・クルーソー]]』の作者でもある[[ダニエル・デフォー]]は、経営入門書『{{仮リンク|完全なるイギリス商人|en|Daniel Defoe#Late writing}}』で簡便な簿記を提案した。数学者の{{仮リンク|チャールズ・ハットン|en|Charles Hutton}}は、デフォーの提案を単式記帳(single entry)と呼んで体系化した{{efn|デフォーは卸売をはじめとして多様な事業経験があり、『ロビンソン・クルーソー』では主人公が貸借対照表のような形式で自己分析をする場面がある{{Sfn|中野|1994|p=}}。}}。これが現在は[[単式簿記]]と呼ばれるものの発祥で、イギリスやアメリカの小売商に広まり、明治期には日本にも伝わった{{Sfn|渡邉|2017|pp=82-84}}。

=== 産業革命 ===
; 貸借対照表
[[ファイル:ThomasHosmerShepherdBankofEngpublished1816 edited.jpg|250px|right|thumb|1816年のイングランド銀行と王立証券取引所。イングランド銀行は早くから貸借対照表を使っていた。]]
初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、産業革命が進んで大規模な[[株式会社]]が出現すると株主も大人数となり、株主に成果を開示するためにストックとフローを要約した表を作成するようになった。これが[[貸借対照表]]と[[損益計算書]]である{{Sfn|渡邉|2017|pp=95-96}}。最初期の貸借対照表には、[[イギリス東インド会社]]と[[イングランド銀行]]のものがある{{Sfn|渡邉|2017|pp=104}}。

; 減価償却
鉄道事業によって[[減価償却]]が広まった。購入した蒸気機関車は使用や時間によって価値が減少するため、帳簿価格と現在価値の差を評価する方法として活用された。それまでにも船舶、農場、工場の評価替えは行われていたが、イギリスの技術者{{仮リンク|ユーウィング・マティスン|en|Ewing Matheson}}が著書『工場の減価償却と評価』で定期的な減価償却を提案して体系化した{{Sfn|渡邉|2017|pp=101}}。

; 損益計算書
[[file:Planet replica.jpg|thumb|250px|リバプール・マンチェスター鉄道のプラネット号のレプリカ。鉄道業は減価償却や損益計算書で先駆となった。]]
はじめに損益計算への必要性が高まった業種は、鉄道業だった。鉄道会社の特徴として、(1) それまでの企業に比べて従業員・物資・資金が多かった点、(2) 広い地域に分散した常勤の経営管理者が必要だった点、(3) 遠距離の大量輸送を毎日行っていた点がある。これらの要求に応えるために経営管理組織と専門的訓練を受けた経営者が必要となった{{Sfn|高梠|2000|pp=7-8}}。鉄道会社によって収益勘定表が作成されるようになり、これが損益計算書の原型となった{{Sfn|渡邉|2017|pp=109-118}}。

; 連結会計
最初期の連結会計はアメリカの鉄道業で行われ、その後に製造業に広まった。確認できる最古の連結財務諸表の作成実務は1870年代に確認されている。当初は報告の形式もさまざまであり、(1) 親会社・子会社の貸借対照表を合算、(2) 資本連結なき資産連結、(3) 重複分の控除、という段階をへて現在の形に近づいたと推測される。アメリカの鉄道業で連結会計が先行した理由として、会社法が州単位に分かれているので持株会社で解決した点もある。さらに[[1893年恐慌]]によって鉄道会社の倒産が相次ぎ、[[ジョン・モルガン]]のモルガン商会をはじめとする金融資本への連結が行われた。モルガン商会は鉄道業での成功を機に他の産業でも連結会計を活用し、巨大な資本を得てゆく。連結会計は20世紀にかけて国際的に広まっていった{{Sfn|小栗|2018a|pp=}}。

=== アジア・アフリカ ===
; 中国
[[明]]、[[清]]の時代に商工業が急速に発展し、会計も変化する。該項(負債・資本)と存項(資産)の区別や、帳簿組織の細分化が進んだ{{Sfn|津谷|1998|p=50-51}}。[[明清交替]]の時代には[[龍門帳]]と呼ばれる方法が思想家の[[傅山]]によって考案されたといわれる{{Sfn|津谷|1998|p=65-72}}。18世紀中頃の[[乾隆帝|乾隆期]]から[[嘉慶帝|嘉慶期]]にかけては、[[四脚帳法]]が考案された{{Sfn|津谷|1998|pp=73-76}}。

1840年の[[アヘン戦争]]以後は欧米の進出が始まり、鉄道や電信の事業とともに業務管理のために欧米式の複式簿記が紹介される。中国の記帳法には、指導や教育に使える書籍がなく、統一性に欠けていた。海外赴任の経験者である{{仮リンク|蔡錫勇|zh|蔡锡勇}}は、中国の記帳法を欧米の貸借複式簿記に組み入れる方法を考え、1905年に『連環帳譜』を出版する。この本が、中国初の民間向けの簿記書となった{{Sfn|津谷|1998|p=89-94}}{{Sfn|邵|2011|pp=}}。

; 日本
[[江戸幕府]]は財政管理を[[勘定所]]で行い、統轄をする勘定頭は元禄時代以降に[[勘定奉行]]と呼ばれるようになった。勘定所では[[勘定]]、[[御金奉行]]、[[御蔵奉行]]、[[切米手形改役]]などの役人が働いた{{Sfn|大野|1996|pp=99, 127}}。商業帳簿は日記や日記帳と呼ばれていたものが、江戸時代には全体をまとめる[[大福帳]](売掛帳)の他に、金銀出入帳・売帳・判取帳・荷物渡帳など用途別に分かれた。各商家によって形式が異なり、独自の符丁を使っている場合も多い。大商家の帳簿には複式構造を持つものもあった{{Sfn|田中|2011a|pp=}}{{Sfn|宮本ほか|2007pp=62-63}}。

欧米の簿記は、[[明治政府]]成立の前後に移入が始まった。大蔵省や横須賀製鉄所で使用される他に、商家でも和式から洋式への切り替えが進んだ{{Sfn|宮本ほか|2007pp=134-135}}。明治政府は洋式簿記を重視し、明治10年代に簿記の教科書が多数出版された。中でも遠藤宗義編の『小學記簿法』は、[[家計簿]]について最初に教えた本であり、略式簿記の作成法が書いてあった{{Sfn|三代川|2014|p=459-460}}。1908年には雑誌『[[婦人之友]]』が創刊され、同時期に[[羽仁もと子]]が家計簿を刊行して現在まで続くことになる{{Sfn|樋口, 近藤|2009|pp=}}。フランスの商事勅令をもとにヨーロッパで作られた商法は明治期の日本に移入し、商業帳簿制度が1890年(明治23年)の[[商法#歴史|旧商法]]、1899年(明治32年)の新商法で定められた{{Sfn|安藤|2017|pp=2-3}}。

; 朝鮮
朝鮮半島の最初期の商業簿記は、[[開城簿記]]や四介松都治簿法と呼ばれる。開城簿記の帳簿は、基礎帳簿と明細帳簿に大きく分かれる。基礎帳簿は、日々の記入簿と仕訳日記帳にあたる日記と、総勘定元帳にあたる長冊に大きく分かれる。決算は決算書・損益表の作成と元帳決算で行われる。実務では、日記帳で現金仕訳をして、それを貸借に分割して長冊に転記した{{efn|開城簿記の起源については、高麗時代、朝鮮王朝時代、19世紀など諸説がある{{Sfn|田中|2019|pp=}}。}}{{Sfn|田中|2019|pp=14-17}}。

; オスマン帝国
オスマン帝国の財政は財務長官府を頂点として財務官僚に運営された。15世紀時点では20人程度と少数であり、15世紀から17世紀にかけての租税台帳の作成や官僚制度の整備にともなって増員された。租税台帳は各地の担税力を示す明細帳と、地域の徴税権が誰に分配されたかを示す簡易帳に分かれており、台帳作成官、書記、[[カーディー]]が作成した{{Sfn|東洋文庫|2016|pp=}}{{Sfn|高松|2004|p=}}{{Sfn|林|2016|pp=2580-2603/4663}}。19世紀に入ると、ヨーロッパ型の内務・外務・財務の省庁が組織された{{Sfn|林|2016|pp=4281-4306/4663}}。

寄進制度であるワクフの利用は14世紀から16世紀にかけても増加し、オスマン時代には都市のインフラ維持に欠かせない制度となった{{Sfn|林|1999|pp=}}。[[イスラーム法]]では女性の財産権が定められており、妻と夫の財産は区別されているので、財産をもつ女性はワクフを資産運用としても活用した{{Sfn|林|2016|pp=2993-3023/4663}}。

; アフリカ
アフリカでは、スペインやポルトガルをはじめとするヨーロッパ各国が[[奴隷貿易]]を行った。やがて奴隷貿易の禁止が進むと、ヨーロッパ各国は[[アフリカ分割]]によって植民地化して利益を得ようとした。植民地では、本国の会計制度をもとに経営が行われた{{efn|[[ジョゼフ・コンラッド]]の小説『[[闇の奥]]』は作者の体験をもとに書かれており、[[コンゴ自由国]]で植民地業務を行う会計士が描かれている{{Sfn|ソール|2018|p=No.4172/5618}}。}}{{Sfn|ウィリアムズ|2020|pp=}}{{Sfn|エルティス, リチャードソン|2012|p=}}。

かつてのアフリカの[[無文字社会]]は、会計について記録が残されていない場合が多い。ヨーロッパと取引をした[[ダホメ王国]]も無文字社会だったが、ヨーロッパ側の記録によれば精緻な官僚制度と正確な会計を整えていたとされる。人口統計は箱に小石を入れて記録し、性別や職業別の労働者数はシンボルをつけた袋で把握した。家畜の統計では、種類別のシンボルをつけた袋に小石やタカラガイを入れた。それらの情報をもとに徴税や徴兵を割り振り、年1回の貢租大祭を開催した。国家財政は宮廷と結びつき、行政官、会計監査官、収税吏、警察などの役割が定められていた。官僚制は双分制にもとづき、役人は必ず男女で実務を行なった{{efn|ダホメ王国にはヨーロッパと奴隷貿易を行うアフリカの国家という特異な面もあった{{Sfn|ポランニー|2004|pp=第1部2章}}。}}{{Sfn|ポランニー|2004|pp=第2部1章}}。

=== 科学的管理法・管理会計 ===
[[File:A-line1913.jpg|thumb|right|自動車の大量生産を確立した[[フォード・モデルT]]の工場。1913年-1914年頃]]
[[フレデリック・テイラー]]は生産管理の方式を考案し、[[科学的管理法]]と呼ばれるようになった。テイラーは会計担当者に生産管理を分析させて、コスト評価の正確性を高めた。テイラーの管理法は、繊維、鉄鋼、自動車、化学など製造業で導入され、[[投資利益率]]が考案されて大量生産が確立した。さらに応用が進み、大手小売店の店舗面積の[[売上高利益率|売上高粗利益率]]にも使われるようになった{{Sfn|浅田ほか|2017|pp=20-22}}。企業の大規模化によって会計や管理の作業量が増え、解決のために機械化が進んだ。遠隔地との連絡を取る電信・電話、計算に用いる[[加算機]]・[[会計機]]、タイプライター、パンチカード式の[[作表機]]などが19世紀末から20世紀初頭にかけて普及した{{efn|電信は1844年にアメリカ連邦議会で採用され、電話は1885年にベル・システムが完成した。作表機は1890年、プリンター付きの計算機は1892年、加減乗除の機能をもつ計算機が1893年、単能計算機は1926年に完成した{{Sfn|児玉|1988|pp=24}}。}}{{Sfn|児玉|1988|pp=24-25}}。

1919年、会計学者の{{仮リンク|ジェイムズ・O・マッキンゼー|en|James O. McKinsey}}はシカゴ大学で会計の講座を発表した。この講座はそれまでの帳簿や出納管理など会計士のための教育とは異なり、経営に役立つ会計を教える内容だった。マッキンゼーの講座は人気を集め、コンサルティング会社[[マッキンゼー・アンド・カンパニー]]の設立へとつながった{{Sfn|田中|2018|pp=323-325}}。

=== 公認会計士・監査制度の成立 ===
; 公認会計士
鉄道業や製鉄業など巨額の資本調達を行う産業によって、会計不正の影響が大きくなった。投資の安全性を第三者が証明するために会計の専門家の需要が急増し、会計士の組合である会計士協会が設立された。イギリス最初の会計士協会は1853年の[[エディンバラ会計士協会]]であり、1854年には国王の勅許を受けて世界初の公認会計士([[英国勅許会計士]])が誕生した。アメリカでは1880年代に会計士の需要が高まり、イングランドやスコットランドから多数の会計士が渡って会計事務所を設立する。1882年に会計士協会(The Institute of Account)、1887年に{{仮リンク|アメリカ会計士協会|en|American Institute of Certified Public Accountants}}(AAPA)が設立され、1896年に公会計士業を規制する法律(公認会計士法)が成立した{{Sfn|上田|1988|pp=26-27}}{{Sfn|渡邉|2017|pp=122-124}}。19世紀末までに、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどヨーロッパ各国でも公認会計士協会が設立された{{Sfn|ソール|2018|p=No.3916-3923/5618}}。

; 監査制度
フランスはルイ15世の時代に政府が破産状態になり、ルイ16世の時代に[[ジャック・ネッケル]]が財務長官に就任した。ネッケルは1781年に『{{仮リンク|国王への会計報告|en|Compte rendu}}』を発表して国家財政を明らかにする。『国王への会計報告』はベストセラーとなり、国家の[[監察官]]制度が創設されたが、ネッケルは罷免されて財政は好転せず、[[フランス革命]]へとつながった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3190-3333/5618}}。ネッケルの監査制度は、アメリカの[[ロバート・モリス (独立宣言署名者)|ロバート・モリス]]や、イギリスの[[ジョン・バウリング]]に引き継がれた{{Sfn|ソール|2018|p=No.3741-3803/5618}}。

民間においては、株主による監査(いわゆる自由監査)が行われていた。アメリカでは[[1907年恐慌]]などにより、専門家である公認会計士による監査の必要性が高まる。他方では会計責任と会計士が批判されるようになり、経済学者{{仮リンク|ウィリアム・リプリー|en|William Z. Ripley}}が「株主の知る権利」(1926年)という記事で企業の不完全な情報開示や監査を批判した。1929年には[[大恐慌]]が起き、[[ニューヨーク証券取引所]]の上場企業の時価総額は89パーセントが失われた{{Sfn|ソール|2018|p=No.4279-4338/5618}}。厳しい環境下にあって、投資家保護のために公開基準と収益性を重視する会計観にもとづいて[[1934年証券取引所法]]が制定され、[[証券取引委員会]](SEC)が設置された。こうして公認会計士による法的監査が確立し、監査の基準となる会計原則についてはアメリカ会計士協会とアメリカ会計学学会が積極的に関わった{{Sfn|上田|1988|pp=30-31}}。

== 現代 ==
=== 会計基準の国際化 ===
[[第二次大戦後]]の国際的制度として[[国際会計基準]]がある。1949年に{{仮リンク|米州会計会議|en|American Accounting Association}}が中南米の会計基準を制定、1951年に欧州会計士連合が発足、1957年に[[欧州経済共同体]](EEC)とともに[[国際会計基準委員会]](IASC、現在の[[国際会計基準審議会]](IASB))と[[極東会計士会議]]が発足した{{Sfn|ソール|2018|p=No.4352-4365/5618}}。[[国際会計士連盟]]の国際監査基準は1992年に受諾された{{Sfn|石黒|2010|pp=31}}。ヨーロッパでは、1970年代の[[欧州共同体]](EC)の時代から会計実務の調和が進められ、[[欧州連合]](EU)においても継続している{{Sfn|石黒|2010|pp=30-31}}。

日本では[[金融ビッグバン]]にともない、1990年代後半から[[会計ビッグバン]]が進められ、2000年3月期から会計実務が変更されていった。それまでの日本の会計は損益計算を最優先する収益費用中心であり、[[取得原価主義]]だった。しかし会計ビッグバン以降は、資産・負債中心観へと変化した{{efn|従来の日本の取得原価主義からの変更として、連結財務諸表中心の制度導入、財務諸表体系へキャッシュフロー計算書を導入、退職給付・研究開発費・税効果会計・金融商品・棚卸資産を評価する会計基準の導入、などがある{{Sfn|小見山|2008|pp=68-69}}。}}{{Sfn|小見山|2008|pp=}}。

=== キャッシュフロー計算書 ===
巨額な設備投資においては、[[発生主義]]にもとづく損益計算では投資可能資金や支払資金を計算するには不十分だった。この解決のために[[キャッシュフロー計算書]]が考案された{{efn|古くは比較貸借対照表や資金運用表がある{{Sfn|渡邉|2017|pp=130-147}}。}}。キャッシュフローという言葉は1960年代の文献から現れ、当時は運転資本を指す場合が多かった。L・C・ヒースは現在のキャッシュフローに通じる現金収支計算書、財政活動計算書、投資活動計算書を説いた。欧米では1980年代から1990年代、日本では2000年にキャッシュフロー計算書が制度化された{{Sfn|渡邉|2017|pp=141-156}}。

=== 公正価値会計 ===
会計原則の大きな変化として、{{仮リンク|公正価値会計|en|Fair value}}がある。アメリカの会計は大恐慌の影響で資産の再評価が認められず、取得原価基準が採用された{{efn|株価暴落の原因として、金融商品の資産の恣意的な再評価があったという分析が理由である{{Sfn|鈴木|2002|pp=2-3}}。}}。1950年代から1960年代には[[第二次世界大戦]]や[[朝鮮戦争]]の影響で[[インフレーション]]が問題となり、取得原価主義の限界が議論されるようになる。そして1970年代の[[石油ショック]]によるインフレへの対応が課題となって物価変動会計が導入され、補足情報としての開示が始まった。1980年代以降は金融商品についての公正価値情報の開示が進み、1990年代の[[デリバティブ]]の増加も影響して導入が進んだ{{Sfn|鈴木|2002|pp=}}。

=== 監査法人の拡大 ===
会計事務所による監査法人業務は拡大を続け、[[4大会計事務所|ビッグ8]]と呼ばれる大手8社による激しい競争が行われた。いずれも監査業務に加えてコンサルティング業務を増加させ、監査対象の企業からもコンサルティング業務を受注するようになる。1970年代には会計不正が多発し、監査法人の独立性や利益相反について疑問が生じるようになっていった{{Sfn|ソール|2018|p=No.4371/5618}}。ビッグ8は現在では4社のビッグ4になっており、日本の[[4大監査法人]]は提携関係にある{{Sfn|原|1995|p=}}。

=== コーポレートガバナンスと会計 ===
[[コーポレートガバナンス]]は、企業や経営者を適切に方向づけるシステムであり、財務報告においては監査法人もシステムに含まれる。アメリカでは1980年代以降、ヨーロッパでは1990年代以降に議論が進んだ。2001年の[[エンロン]]を筆頭に大手企業の会計不正や破綻が相次ぐと、アメリカでは[[上場企業会計改革および投資家保護法]](SOX法)が2002年に成立した{{efn|エンロンの不正を発見した監査法人はあったが、告発は社内で黙殺されていた{{Sfn|ソール|2018|p=No.4531/5618}}。}}。SOX法は会計の厳格化を目的とし、監査法人のコンサルティング業務規制や、財務処理のプロセスの開示と監査が盛り込まれた。同様の法律が各国でも定められ、日本では2006年、金融証券取引法に内部統制報告制度が制定された{{Sfn|柴野|2017|pp=88-90}}。

=== 金融危機と会計 ===
規制強化にもかかわらず、その後も不正は続き金融危機につながる損失をもたらす。[[サブプライムローン]]のリスクを指摘する会計事務所もあったが、問題の解決にはならなかった。2007年に[[サブプライム住宅ローン危機]]をきっかけとして[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]が起きると、経営者や金融機関に加えて監査法人も非難された。世論は監査法人を疑い、企業や金融機関は監査法人が資産価値を過小評価したと主張した。しかし、監査担当者は金融犯罪によっては摘発されず、金融業界の透明化は進まなかった{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4543-4611/5618}}。

== 家計簿の歴史 ==
家計や家政については、古くはアリストテレスの『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』、[[クセノポン]]の『[[家政論]]』、そしてアリストテレス名義の偽書『[[経済学 (アリストテレス)|経済学]]』などの文献がある{{Sfn|栗原|2016|pp=}}。古代ローマの家長は、国家に家計簿を義務づけられており、財政政策の一部でもあった{{Sfn|ソール|2018|p=No.309/5618}}。当時の家政は[[家父長制]]を前提としたものであり、例えば『家政論』では夫は戸外の政治と農場管理、妻は家庭内という分担が理想とされていた{{Sfn|栗原|2016|pp=4-5}}。

個人的な内容や家庭のために記帳する家計簿も現れ、中世のイタリア商人は、商売の帳簿とは別に個人的な家計簿をつけた{{Sfn|ソール|2018|p=No.602/5618}}。思想の一環として家計簿が使われる場合もあり、アメリカの作家・思想家[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]は森で暮らしながら家計簿をつけて、生きるために最低限必要なものを見極めようとした{{Sfn|ソール|2018|p=No.490-497/5618}}。

アメリカで公認会計士第1号となった{{仮リンク|チャールズ・ワルド・ハスキンズ|en|Charles Waldo Haskins}}は職業教育や家計の重要性を説き、家庭に会計学を活かすために家計の本を出版した{{Sfn|ソール|2018|p=No.4002-4014/5618}}。日本においては、1908年に羽仁もと子が刊行した家計簿が現在まで続いている点で最も長い。羽仁は家計について、労力と財力が調和を保って発展するようにつとめるという目標を掲げた{{efn|羽仁の家計簿は1ヶ月単位で費目ごとに予算を立てるようになっており、1年間の総収入から生活費・衣食住費・教育・保険衛生・娯楽などを算出し、それを12等分して管理する{{Sfn|樋口, 近藤|2009|pp=}}。}}。刊行当時から現在まで同内容を保っており、当初は主婦1人による記帳を想定していたが、家計簿は家庭全員が参加するものという構想に変わっていった{{Sfn|樋口, 近藤|2009|pp=}}。

== 会計不正の歴史 ==
{{see also|汚職|粉飾決算|}}
古代ギリシャのアテナイでは、帳簿が疑わしい場合は帳簿係が拷問にかけられた。そのため、市民は帳簿係になろうとはせずに奴隷を教育して雇った。監視する規則はあったが不正は行われ、歴史家の[[ポリュビオス]]は、頭のいい人間は必ず帳簿を操作すると論じた{{Sfn|ソール|2018|p=No.284-/5618}}。古代ローマの哲学者・政治家である[[キケロ]]は、[[カエサル]]が暗殺されたのちに[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]と対立し、アントニウスの帳簿の不正を暴く。しかしアントニウスは失脚せず、キケロは暗殺された{{Sfn|ソール|2018|p=No.323/5618}}。

[[ファイル:Senex A map of Louisiana and of the River Mississipi 1721 UTA.jpg|thumb|ミシシッピ計画の地図(1721年)。西方会社は[[フランス領ルイジアナ]]にあるといわれた金鉱の発見を目的に設立された{{Sfn|富田|2006|pp=131}}。]]
近世になると企業の会計不正も増加し、中でも特許会社や政治家が関与した不正は経済に大きな損失をもたらした。特に大規模な事件が、1720年の[[ミシシッピ計画]]と[[南海泡沫事件]]であり、イギリスとフランスが戦費のために抱えた債務が原因である。フランスでは、実業家の[[ジョン・ロー]]がフランスの債務を解決するためにミシシッピ会社の株を国債と交換する計画を立てた。ミシシッピ会社は西方会社と名を変えてフランスの貿易会社を吸収し、政府から得た通貨発行権と組み合わせて株価を40倍まで高騰させた。イギリスでは[[南海会社]]が年金型の公債を高い利率で販売して株価を吊り上げ、株をイギリス国債と交換した。やがて西方会社と南海会社のいずれもバブルが崩壊し、2国の経済に混乱を招いた{{efn|[[アイザック・ニュートン]]は、南海会社の株が最高値の頃に2万ポンドを投資し、巨額の損失をした{{Sfn|ソール|2018|p=No.2553/5618}}。}}{{Sfn|ソール|2018|p=No.2505-2546/5618}}{{Sfn|富田|2006|pp=87-91}}。フランスでは徴税請負人の不正が続き、パーリ兄弟の改革も根本的な解決にはならず、フランス革命の一因にもなった{{Sfn|ソール|2018|p=No.3127/5618}}{{Sfn|中野|2012|pp=}}。

1980年代以降のアメリカの会計不正の主な原因としては、(1) 経営者の報酬が株価に依存し、不正な操作で株価をあげる動機があった。(2) 不正を誘発するように株式市場が好調であった。(3) 不正を防ぐべき会計事務所が、監査業務とコンサルティング業務の利益相反を起こしていた、などがある{{Sfn|祝迫, 古市|2004|p=334}}。このような状況下で、[[エンロン]]、[[ワールドコム]]、[[リーマンブラザーズ]]などの大手企業が会計不正によって破綻した。

[[File:EnronStockPriceAugust2000toJanuary2001.svg|thumb|エンロンの株価。2000年8月から2002年1月]]
2001年、大手エネルギー企業の[[エンロン]]は粉飾会計が発覚して破産した。エンロンは天然ガス会社から電力の売買、ITなどの分野にも進出して1990年代に急成長し、違法な金融取引や会計処理に関わった{{efn|エンロンは、[[ジョージ・W・ブッシュ]]の2000年の大統領選挙の最大の献金者でもあり、共和・民主両党の上院議員71名と下院議員187名がエンロンの献金を受けていた{{Sfn|片岡|2004|pp=43-44}}。}}。主な問題として、(1) 3000社以上の[[特別目的事業体]](SPV)を設立し、SPVとの取引によって負債や不良債権を隠蔽して情報開示を行わなかった。(2) 時価評価/値洗い方式会計の誤用や悪用をした、という点がある。エンロンの会計事務所であるアーサー・アンダーセンは厳しい監査業務で定評があったが、エンロン事件によって倒産した{{efn|アーサー・アンダーセンは、アメリカでコンサルティング業務を始めた最初期の会計事務所でもあり、監査業務とコンサルティング業務の利益相反問題を抱えていた{{Sfn|祝迫, 古市|2004|pp=331-332}}。}}{{Sfn|祝迫, 古市|2004|pp=330-332}}。2002年、大手通信企業の[[ワールドコム]]が破産した。[[M&A]]を繰り返して拡大したワールドコムは[[ITバブル]]崩壊後に利益が下がり、株価下落を防ぐために不正な経理操作を行っていた{{Sfn|片岡|2004|pp=37-41}}。

現代日本の会計不正の傾向として、卸売業,建設業,情報・通信業,小売業で多く開示されている。不正の件数は、経営者・役員よりも従業員が多い。不正の影響は、経営者・役員による不正や、不正な財務報告を目的とする場合に大きくなる。日本企業による会計不正として、[[山一証券#破綻の原因とされるもの|山一証券]]、[[カネボウ (1887-2008)#歴史|カネボウ]]、[[ライブドア事件|ライブドア]]、[[東芝#社会関連|東芝]]、[[オリンパス事件|オリンパス]]などがある{{Sfn|尾関|2018|pp=}}。

== 学問としての会計史 ==
[[File:BurroughsCorporationAddingMachine.jpg|thumb|200px|[[バロース社]]の初期の加算機。加算機は統計調査や会計に使われ、[[会計機]]とも呼ばれた{{efn|作家の[[ウィリアム・バロウズ]]は、バロース社の創始者ウィリアム・シュワード・バロウズ1世の孫にあたる{{Sfn|山形|2003|pp=35-36}}。}}。]]
初期の会計史の研究としてリチャード・ダフォーンの『商人の鏡』(1635年)があるが、1ページのみだった。単行本としては、ベンジャミン・F・フォスターの『The Origin And Progress Of Book-keeping』(1852年)からとなる{{Sfn|中野ほか|2015|pp=1-2}}。日本では明治期の洋式簿記の導入と同時期に歴史研究が始まり、当初は海外研究の抄訳が多かった。初期のものとして[[曽田愛三郎]]『学課起源略説』(1878年)や[[海野力太郎]]『簿記学起源孝』(1886年)がある{{Sfn|茂木|1992|pp=}}。

学会は、1972年にイギリス会計史学会、1973年に{{仮リンク|アメリカ会計史学会|en|Academy of Accounting Historians}}、1982年に日本会計史学会が設立された。学術誌としては、アメリカ会計史学会の機関紙「{{仮リンク|The Accounting Historians Journal|en|The Accounting Historians Journal}}」(AHJ)が年2回、国際的ジャーナルの「{{仮リンク|Accounting History|en|Accounting History}}」(AH)が年4回発行されている。傾向としては、AHJが伝統的な組織を扱い、AHは限定されずにさまざまな組織を扱う。日本では「会計史学会年報」が発行されている他、会計専門学術誌である『會計』にも研究論文が掲載されている{{Sfn|中野ほか|2015|pp=1-2}}。研究者の傾向として、日本では会計プロフェッションを兼務せずに研究者となる割合が多く、海外では公認会計士の研究者が多い{{Sfn|中野ほか|2015|p=6}}。

; 複式簿記の起源
複式簿記の起源については複数の説があり、特に古代ローマ起源説と中世イタリア起源説に大きく分かれる。古代ローマ説の根拠としては、会計役の奴隷と主人がおこなっていた代理人簿記を起源とする{{Sfn|渡邉|2017|pp=30-31}}。中世イタリア起源説は、さらにトスカーナ説、ジェノヴァ説、ロンバルディア説、ヴェネツィア説、各都市国家で同時期に作られた説などに分かれる{{Sfn|片岡|2018|pp=}}。

== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
{{Notelist|2|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3|}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 単行本 ===
*片岡義雄「会計史」(『社会科学大事典 3』(鹿島研究所出版会、1968年))
* {{Citation| 和書
| first = 和夫
| last = 青山
| author-link = 青山和夫 (考古学者)|青山和夫
| title = マヤ文明を知る事典
| publisher = 東京堂出版
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| year = 2015
| isbn =
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* {{Citation| 和書
| author1 = [[浅田孝幸]]
| author2 = [[頼誠]]
| author3 = [[鈴木研一]]
| author4 = [[中川優]]
| author5 = [[佐々木郁子]]
| year = 2017
| title = 管理会計・入門 第4版
| publisher = 有斐閣
| series = 有斐閣アルマ
| isbn =
| ref = {{sfnref|浅田ほか|2017}}
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* {{Citation| 和書
| author = {{仮リンク|ゲイリー・アートン|en|Gary Urton}}
| ref = {{sfnref|アートン|2012}}
| chapter =紐の国家 - キープによるインカ帝国の行政
| title = インカ帝国 - 研究のフロンティア
| publisher = 東海大学出版会
| series = 国立科学博物館叢書
| translator = [[竹内繁]]
| editor1 = [[島田泉 (考古学者)|島田泉]]
| editor2 = [[篠田謙一]]
| pages =
| periodical =
| year = 2012
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* {{Citation| 和書
| author = [[エリック・ウィリアムズ]]
| year = 2020
| title = 資本主義と奴隷制
| publisher = 筑摩書房
| series = ちくま学芸文庫
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| translator = [[中山毅]]
| ref = {{sfnref|ウィリアムズ|2020}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Williams
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| year = 1944
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}})
* {{Citation| 和書
| author1 = [[デイヴィッド・エルティス]]
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| year = 2012
| title = 環大西洋奴隷貿易歴史地図
| publisher = 東洋書林
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| last1 = Eltis
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* {{Citation| 和書
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* {{Citation| 和書
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| title = 会計学の誕生 - 複式簿記が変えた世界
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=== 論文・記事 ===
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* {{Cite journal|和書|author=明石茂生 |title=古代東地中海地域における国家,貨幣,銀行 : アテナイ,エジプト,ローマを中心に |url=http://id.nii.ac.jp/1109/00003901/ |journal=成城大学経済研究 |publisher=成城大学経済学会 |year=2017 |month=jul |issue=217 |pages=1-76 |naid=120006348829 |issn=0387-4753 |accessdate=2020-07-06|ref={{sfnref|明石|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|author=荒鹿善之 |title=フランス会計に関する史的一考察--1867年商事会社法制定までを中心に |url=https://hdl.handle.net/10112/00019256 |journal=関西大学商学論集 |publisher=關西大學商學會 |year=1997 |month=feb |volume=41 |issue=5 |pages=299-329 |naid=120006797656 |issn=04513401|accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|荒鹿|1997}}}}
* {{Cite journal|和書|author=安藤英義 |title=会計の二つの機能をめぐる諸問題--利害調整と情報提供 (特集 学問への招待) |url=https://doi.org/10.15057/10296 |journal=一橋論叢 |publisher=日本評論社(発売) |year=2002 |month=apr |volume=127 |issue=4 |pages=347-362 |naid=110007642609 |doi=10.15057/10296 |issn=00182818 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|安藤|2002}}}}
* {{Cite journal|和書|author=安藤英義 |title=会計帳簿と財産目録 : 会計の原点とその現状 |url=https://doi.org/10.34360/00001627 |journal=専修商学論集 |publisher=専修大学学会 |year=2017 |month=jul |issue=105 |pages=1-17 |naid=120006792341 |doi=10.34360/00001627 |issn=0386-5819|accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|安藤|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|author=五十嵐大介 |url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/138225 |title=マムルーク體制とワクフ - イクター制衰退期の軍人支配の構造 |format=PDF|work=|journal=東洋史研究 |issue=66 |publisher=東洋史研究会 |year=2007 |accessdate=2020-07-20|ref={{sfnref|五十嵐|2007}}}}
* {{Cite journal|和書|author=石黒秀明 |title=会計基準の国際的多様性とその評価構造モデル |url=https://hdl.handle.net/10087/6522 |journal=上武大学ビジネス情報学部紀要 |publisher=上武大学ビジネス情報学部 |year=2010 |month=dec |volume=9 |issue=2 |pages=25-51 |naid=110008003168 |issn=13476653|accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|石黒|2010}}}}
* {{Cite journal|和書|author=祝迫得夫, 古市峰子 |title=コーポレート・ガバナンスと会計問題--エンロン破綻とアメリカの制度改革を巡って |url=https://doi.org/10.15057/21709 |journal=経済研究 |publisher=岩波書店 |year=2004 |month=oct |volume=55 |issue=4 |pages=328-344 |naid=40006461204 |doi=10.15057/21709 |issn=00229733 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|祝迫, 古市|2004}}}}
* {{Cite journal|和書|author=上田敏 |title=アメリカ会計史 |journal=大手前女子短期大学・大手前栄養文化学院・大手前ビジネス学院研究集録 |url=http://id.nii.ac.jp/1160/00001678/ |publisher=大手前女子短期大学・大手前栄養文化学院・大手前ビジネス学院 |year=1988 |month=oct |issue=8 |pages=023-034 |naid=120006366113 |accessdate=2020-07-16 |ref={{sfnref|上田|1988}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[小栗崇資]]|url=https://ahaj.org/conference/aha19th/ahaoguri.pdf|title=アメリカ連結会計の生成起源と展開過程|format=PDF|work=|journal=日本会計史学会年報 |publisher=日本会計史学会 |year=2018 |month= |volume=19 |issue= |pages=1-15 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|小栗|2018a}}}}
* {{Cite journal|和書|author=尾関規正 |title=日本の不正会計開示事例の実態分析 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/E0041399 |journal=六甲台論集. 経営学編 |publisher=神戸大学大学院経営研究会 |year=2018 |month=mar |volume=64 |issue=4 |pages=1-28 |naid=120006416069 |issn=1341-4933 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|尾関|2018}}}}
* {{Cite journal|和書|author=片岡信之 |title=エンロン・ワールドコム事件と株主価値経営の限界 |url=https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/TD00270018 |journal=竜谷大学経営学論集 |publisher=龍谷大学経営学会 |year=2004 |month=jun |volume=44 |issue=1 |pages=30-44 |naid=110004622552 |issn=09183434 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|片岡|2004}}}}
* {{Cite journal|和書|author=片岡泰彦 |title=複式簿記起源論再考 |url=http://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/52316/ |journal=経済論集 |year=2018 |month=sep |issue=110 |pages=57-91 |naid=120006715598 |issn=0287-4237 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|片岡|2018}}}}
* {{Cite journal|和書|author=木原徳子 |title=トークンからみたウルク・エクスパンション |url=http://jswaa.org/jswaa/JWAA_07_2006_061-081.pdf |format=PDF |journal=西アジア考古学 |publisher=日本西アジア考古学会 |year=2006 |month=mar |issue=7 |pages=61-81 |naid=40015182195 |issn=13456288 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|木原|2006}}}}
* {{Cite web|author=[[熊倉和歌子]]|year=2011|url=http://www.tbias2.jp/PDF/kumakura.pdf|title=マムルーク朝時代の官庁における会計帳簿|format=PDF|work=|publisher=共同利用・共同拠点イスラーム地域研究拠点東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|熊倉|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|author=栗原麻子 |title=家族の肖像 : 前四世紀アテナイにおける法制上の オイコスと世帯 |url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/240439 |journal=史林 |publisher=史学研究会 |year=2016 |month=apr |volume=99 |issue=1 |pages=3-38 |naid=120006598818 |doi=10.14989/shirin_99_3 |issn=03869369 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|栗原|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=高梠真一 |title=アメリカ鉄道管理会計の展開と貢献:鉄道業から製造業へ |url=https://doi.org/10.14846/seisankanri1995.7.7 |journal=生産管理 |publisher=日本生産管理学会 |year=2000 |volume=7 |issue=1 |pages=7-12 |naid=130004376725 |doi=10.14846/seisankanri1995.7.7 |issn=1341-528X |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|高梠|2000}}}}
* {{Cite journal|和書|author=児玉敏一 |title=経営近代化と管理・事務職務 : アメリカ事務管理の形成過程から |url=https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4437&item_no=1&page_id=13&block_id=17 |fotmat=PDF |journal=札幌大学女子短期大学部紀要 |publisher=札幌大学女子短大部 |year=1988 |month=sep |volume=12 |issue= |pages=17-36 |naid= |issn= |accessdate=2020-07-16 |ref={{sfnref|児玉|1988}}}}
* {{Cite journal|和書|author=小見山隆行 |title=会計観の変容と利益計算原理 |url=http://kiyou.lib.agu.ac.jp/titles/ronbun_meisai_ie?id=135 |fotmat=PDF |journal=愛知学院大学論叢 商学研究 |publisher=愛知学院大学商学会 |year=2008 |month=mar |volume=48 |issue=2 |pages=163-179 |naid=40016359249 |issn=02858932 |accessdate=2020-07-16 |ref={{sfnref|小見山|2008}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=清水泰洋 |title=会計史研究と複式簿記--日本の経験への含意 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006960 |journal=国民経済雑誌 |publisher=神戸大学経済経営学会 |year=2010 |month=sep |volume=202 |issue=3 |pages=87-97 |naid=110007670865 |issn=03873129 |doi=10.24546/81006960 |accessdate=2020-07-01 |ref={{sfnref|清水|2010}}}}
* {{Cite web|author=[[清水保尚]]|year=2011|url=http://www.tbias2.jp/PDF/shimizu.pdf|title=アレッポに関する両聖都ワクフの会計簿予備報告|format=PDF|work=|publisher=共同利用・共同拠点イスラーム地域研究拠点東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|清水|2011}}}}
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* {{Cite web|author=[[鈴木直行]]|year=2002|url=https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/02-J-06.pdf|title=金融商品の全面公正価値会計の提案に至るまでの米国会計基準の歴史的考察|format=PDF|work=|publisher=日本銀行金融研究所|accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|鈴木|2002}}}}
* {{Cite journal|和書|author=周藤芳幸 |year=2007| |url=https://hdl.handle.net/2237/11271 |title=ミケーネ社会からポリス社会への構造転換に関する統合的研究 |journal=研究報告書.科学研究費補助金報告書;基盤研究(C);16520438 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|周藤|2007}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[高松洋一]]|year=2004|url=http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/26292|title=オスマン朝における文書・帳簿の作成と保存 - 18世紀から19世紀初頭を中心に|format=PDF|work=|journal=史資料ハブ : 地域文化研究 |volume=4 |pages=106 -126 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|高松|2004}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2011|url=https://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no96/a/96_03.pdf |format=PDF |title=日記と和式簿記|publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=96 |pages=59-83 |naid=40019178635 |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|田中|2011a}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2011|url=https://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no97/a/97_01.pdf|title=我国監査の起源に関する一考察|format=PDF|work=|publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=97 |pages=1-33 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|田中|2011b}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2016|url=https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=9585&item_no=1&page_id=13&block_id=17|title=我国の荘園会計発達史|format=PDF|work= |publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=105 |pages=23-53 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|田中|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2018|url=https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=9626&item_no=1&page_id=13&block_id=17|title=調庸帳と我国古代の決算報告制度 - 調庸帳と勘会と風土記の関係性について|format=PDF|work=|publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=108 |pages=27-63 | |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|田中|2018b}}}}
* {{Cite journal|和書|author=田中孝治|year=2019|url=https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=9890&item_no=1&page_id=13&block_id=17|title=前近代における東アジア諸国の固有簿記について|format=PDF|work=|publisher=愛知大学経営総合科学研究所 |journal=経営総合科学 |volume=110 |pages=1-38 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|田中|2019}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[中居文治]]|url=https://kiis.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=187&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=引用の作法 - 引用の観点からみた「ゲーテと複式簿記」|format=PDF|work=|journal=九州情報大学研究論集 |publisher=九州情報大学 |year=2015 |month=mar |volume=17 |issue= |pages=51-64 |issn=1349-2780 |accessdate=2020-07-22 |ref={{sfnref|中居|2015}}}}
* {{Cite journal|和書|author=土谷幸久 |title=イスラム会計の基底 |journal=四天王寺大学紀要 |issn=1883-3497 |publisher=四天王寺大学 |year=2009 |issue=48 |pages=35-56 |naid=110007337489 |url=http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/docs/toshokan/kiyou/48/kiyo48-03.pdf |fotmat=PDF |accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|土谷|2009}}}}
* {{Cite web|author=東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|year=2016|url=http://tbias.jp/ottomansources/tahrir_defteri|title=租税台帳 tahrir defteri|format=PDF|work=|publisher=東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室|accessdate=2020-07-20|ref={{sfnref|東洋文庫|2016}}}}
* {{Cite journal|和書|author=中川仁美 |title=鉄道会計史研究が近代会計理論に与えた影響 |url=https://doi.org/10.18925/00001127 |journal=作大論集 |publisher=作新学院大学 |year=2019 |month=mar |issue=9 |pages=101-122 |naid=120006601960 |doi=10.18925/00001127 |issn=2185-7415|accessdate=2020-07-16|ref={{sfnref|中川|2019}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=[[柳俐]], [[趙群飛]]|url=https://www.jbaudit.go.jp/koryu/study/mag/pdf/j26d16.pdf|title=中国会計検査の現状と発展趨勢|format=PDF|work= |journal=会計検査研究 |publisher=会計検査院 |year=2002 |month= |volume=26 |issue= |pages=243-256 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|柳, 趙|2002}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=渡部良子, [[阿部尚史]]|url=http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/90283/1/jaas094015_ful.pdf|title=16世紀サファヴィー朝期のペルシア語財務・簿記術指南書 : ギヤースッディーン・キルマーニーの簿記術論文・序章簿記術論校訂・日本語訳注|format=PDF|work= |journal=アジア・アフリカ言語文化研究 |publisher=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |year=2017 |month= |volume=94 |issue= |pages=383-485 |accessdate=2020-07-04|ref={{sfnref|渡部, 阿部|2017}}}}

== 関連文献 ==
=== 単行本 ===
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| author-link = 片岡義雄
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* {{Citation| 和書
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| title = 会計発達史
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=== 論文・記事 ===
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== 関連項目 ==
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* [[会計]]
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== 外部リンク ==
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2020年7月25日 (土) 14:50時点における版

ルカ・パチョーリの著書『スムマ』(1494)。複式簿記を体系化した最初の本とされる。
会計
主要概念
簿記 - 時価会計
現金主義 - 発生主義
環境会計
売上原価 - 借方 / 貸方
複式簿記 - 単式簿記
後入先出法 - 先入先出法
GAAP / US-GAAP
概念フレームワーク
国際財務報告基準
総勘定元帳 - 取得原価主義
費用収益対応の原則
収益認識 - 試算表
会計の分野
原価 - 財務 - 法定
基金 - 管理 -
財務諸表
貸借対照表
損益計算書
キャッシュ・フロー計算書
持分変動計算書
包括利益計算書
注記 - MD&A
監査
監査報告書 - 会計監査
GAAS / ISA - 内部監査
SOX法 / 日本版SOX法
会計資格
JPCPA - ACCA - CA - CGA
CIMA - CMA - CPA - Bcom
税理士 - 簿記検定
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会計史(かいけいし)では、会計歴史および会計と密接に関係がある帳簿簿記の歴史について扱う。会計は利益を利害関係者に説明する行為(accounting)を指し、簿記は取引を記録する行為(bookkeeping)を指す[1]。現在の会計という語は企業会計を指す場合が多いが、歴史上では国家の会計記録も多数が残されている。本記事では古代会計史を含めて国家・商業組織・家計簿を対象とする[2]

概要

各時代の概要

クエンティン・マサイス両替商とその妻』(1514年)。金銭を扱う職業の注意深さ、妻の信心深さを表している[3]
古代

会計や帳簿の起源は、ものを数える行為や、物資を管理する行為に関係し、文字の使用よりも早く行われていた[4][5]。物資を集めて分け与える管理は再配分とも呼ばれ、古代の会計や帳簿は再配分と密接な関係にあった。穀物をはじめとする食糧や現物は、国家の歳入歳出や交換に使われ、物資の数量把握が必要とされた。エジプト、メソポタミア、イスラエル、中国、ギリシャ、ローマなどの地域では、現在の単式簿記にあたる会計が行われていた。監査は役人や、時には君主自身が行なった[6][7][8]

中世

イスラーム王朝は商業のインフラを整えて、財務官僚の技術として書記術とともに簿記術を広め、インド数字を取り入れた。イタリアの都市国家は地中海貿易を盛んに行い、13世紀から15世紀にかけて複式簿記の原型が整えられていく。貿易と金融の複雑化や、商人の識字率の上昇も帳簿の発展を後押しした。インド・アラビア数字はイスラーム世界からヨーロッパへ伝わり、計算や記録が容易になっていった[9][10]

近世・近代

複式簿記がヨーロッパ各地に伝わり、会計や商法の近代化が進んだ。主な点としては、(1)年次決算の確立、(2)精算表の出現、(3)時価による評価替え、(4)口別損益勘定の総括化、(5)貸借対照表の原型となる資本金勘定、などがある[11]

初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、産業革命が進んで投資額や企業が大規模になると、多くの株主に成果を開示するためにフローとストックを要約した表を開示するようになった。これが貸借対照表損益計算書である[12]。会計制度や法規制の増加にともない、専門家として公認会計士が登場し、公認会計士による監査制度も整えられた[13]

現代

地域による会計基準の違いを解決するために、国際会計基準の導入が進んだ。会計事務所は監査に加えてコンサルティングを行うようになり、20世紀後半から監査法人の独立性に疑問が呈されるようになる。21世紀には不正会計により大企業が相次いで破綻し、会計の厳格化や投資家保護の法律が定められたが、世界金融危機が発生した[14][15]

数学・技術

コーデクス・ヴィギラヌス英語版。インド・アラビア数字がヨーロッパで書かれた初期の例。スペインの修道院で発見された[16]
記数法

会計には計算が欠かせず、記数法との関係が重要となる。エジプト数字バビロニア数字ローマ数字は計算に時間がかかる。この点でインド数字は十進法であり、計算が容易で会計に適した記数法であった。インド数字は西アジアに取り入れられてインド・アラビア数字となり、イスラーム世界を通じてヨーロッパ、のちには世界各地に普及していった[17]

道具

ものを数える行為は、文字とは別個に行われていた。最古の記録として、2万年前のイシャンゴの骨が知られている[5]。紀元前30世紀のメソポタミアでは、粘土のトークンと容器を用いた会計が在庫管理に使われていた[4]。アメリカのインカ帝国では、キープと呼ばれる縄で財政が行われていた[18]。また、近代の無文字社会でも官僚組織と財務管理を整備した国家が存在した[19]

会計を記録する道具としては、粘土板パピルス竹簡木簡樹皮木の葉結縄絹布羊皮紙などが使われた[20]。日本では、和紙の長帳や袋帳に取引を筆書きし、そろばんを使って集計した。これを帳合と呼び、分類的には多帳簿制収支(検算)簿記とも呼ぶ[21]

情報

会計技法の普及には、出版物が大きな効果をもった。ヨーロッパでは、簿記書が15世紀から出版されて複式簿記の普及につながった。イスラームでは書記術の一環として、財務官僚に簿記を伝授する本が書かれた[22]。中国では官僚向けの会計術は書かれたが、民間の商人向けの本は近代までなかった[23]。日本では、帳簿の記帳や計算方法は商家ごとに秘密とされており、部外者に共有はされなかった[注釈 1][25]

分類

財務会計・管理会計

財務会計は外部の利害関係者に公開する会計で、管理会計は企業内部の管理のために作成する。この二つは、19世紀までは厳密には分かれていなかった。アメリカの鉄道業において、資金調達や利害調整、正確なコスト管理、政府や国民への情報提供などの要因が重なって、財務的側面と管理的側面に分かれることとなった[26]。中世イタリアでは、商人は監査用の帳簿と、日記を兼ねた秘密帳簿をつけ、秘密帳簿の決算は公式の帳簿と一致しない場合が多かった[27][28]

発生主義・現金主義

現金主義は、現金の収支によって費用や収益を計上する。発生主義は、経済価値が費消した事実が発生したときに費用や収益を計上する。現金主義と発生主義は、歴史的には経済状況や生産構造の違いによって選択されてきた。中世イタリアの初期の複式簿記には発生主義で作成されているものがあり、産業革命期のイギリスでは一般企業は発生主義、鉄道や運河などは現金主義であった[29]

原価主義・時価主義

原価主義は取引をした時点の原価を基準とし、取得原価主義とも呼ばれる。これに対して時価主義では現在価値の時価を基準とする。原価は過去の価値、時価は現在の価値とも表現できる。会計は長らく原価主義で行われていたが、不動産や金融商品においては原価と時価の差が大きい。このため次第に時価主義(物価変動会計)の導入が進み、特に20世紀後半から金融商品を中心として公正価値英語版の導入が進んだ[30]

会計と社会

商人の筆記。マンハイムのライス・エンゲルホルン博物館英語版所蔵。

古代のギリシャやローマは地中海商業で繁栄したが、商業行為は低く見られており、帳簿をつけるのは奴隷の役目だった[31][32]。キリスト教やイスラームにおいては利子(ウスラ、リバー)が禁止されており、商人は利子とみなされないように取引や投資を行って利益を得たが、会計慣行の多くは教会法に違反していた。そのため中世キリスト教徒の商人の帳簿には、神に記録を開示する告解という側面もあった[33][34]

人員・組織

委託・受託関係の会計として代理人会計があり、古代ギリシャやローマでは主人が奴隷に委託し、中世ヨーロッパでは領主が荘園の管理者に委託した。これらは株主に経営状態を明らかにする現在の損益計算書とは意味合いが異なる[35][36]

古代バビロニアや中世イタリアにおいては、契約を記録するために立会人や公証人が働いた。イタリアでは契約の増加によって公証人が不足すると、商人がみずから記録を残すようになり、帳簿の普及にもつながった[37]。現在では、資格を持つ公認会計士の制度が確立されている[38]

会計や簿記の複雑化には、商業組織の事業内容、形態、管理が関係した。複式簿記が掲載されたといわれるイタリアの都市国家では、貿易の共同企業から遠隔地に支店をもつ大規模な商会への発展が帳簿の発展をうながした[9]。減価償却・損益計算書・連結決算の成立には19世紀の鉄道業が影響した[39][40]

政治

政府の会計(公会計)と民間の会計(私会計)は古来から分けられていた。中世イギリスの会計書は、(1) 公的(国王・領主)、(2) 私的(商業組織・ギルド・貴族・市民)、(3) 教会、(4) 慈善組織の会計に分かれていた[41]

政府をバランスシートによって評価するという公会計の視点は、ブルボン朝の財務長官を務めたジャック・ネッケルの『国王への会計報告英語版』がきっかけだった。国家の収入と支出を調べて問題点を明らかにした『会計報告』はフランス革命の一因にもなり、各国の監査制度に影響を与えた[42]

古代

アジア・アフリカ

アフリカ

エジプトでは紀元前4000年頃より国家機構が形成されて、家畜や穀物、鉱物などが各地で租税として徴収された。腐敗の怖れの高いものは地元の行政に支出され、それ以外の物資が中央のファラオの倉庫に送られた。倉庫を管理するために会計記録官をはじめとする記録官、人夫が配置された。会計記録官は読書・計算・行政法の知識に通暁し、パピルスに葦草の筆で記録した。記録官の計算書は監督官がチェックし、内容に不都合があれば厳しく処罰された[43][44]。現物経済のため、生産物の貯蔵、食糧や土地の配分のための計算が多用された。このため現存するエジプト数学の記録には、単位分数が多い[45]アレクサンドロス3世による征服ののちは、プトレマイオス朝をへてヘレニズムやローマの影響を受けた財政となっていった[46]

粘土製の容器であるブッラ。紀元前4000年-3100年。
西アジア

メソポタミアには、粘土製のトークン(証票)と、ブッラと呼ばれる粘土製の容器があった。これらは紀元前35世紀ウルク文化中期において、計算や物資の管理に使われたとされる[注釈 2]シュメルでは、文字を読めない者のためにトークンとブッラが粘土板と併用された[47][48]紀元前22世紀から紀元前21世紀ウル第三王朝の時代には、シュルギ王が官僚機構の大規模化、度量衡・会計・文書記録の整備を進めた[49]

アラビア半島から広まったイスラームでは、『クルアーン』の第2章282節と283節において、貸借関係を明らかにする必要が書かれている[50]。初期のイスラーム指導者であるウマル1世は、軍に給料を支払うために受給者名簿を作成し、名簿をもとに現金と現物で支給した。この財政は、軍による征服地の分配と現地人の奴隷化を禁止する意図があった。受給者名簿はディーワーンと呼ばれ、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝において官庁を指す言葉になる[51]。ウマイヤ朝のディーワーン制度は、アッバース朝をはじめとするのちのイスラーム王朝に引き継がれた[51]。また、インド数字が古代から西アジアに入り、アラビア語文献でも使用が始まった[注釈 3]。773年には、アル=マンスールが治めるバグダードを訪れたインドの使節が記数法を宮廷に伝えた[53]

南アジア
3世紀から4世紀のバクシャーリー写本に書かれたシャーラダー数字。右端の黒い点が、最古のゼロ表記とされる

紀元前4世紀のマガダ国ではパリサトという行政機関が設置され、中央政府には収税官、財政管理、国庫管理官の他に各産業の監督官がいた。ガナカやサンキヤーナカと呼ばれる役職が王家・官庁・法廷で計算をしていた記録があり、現在の会計士にあたる。仏典では大臣に属するガナカの記述があり、マウリヤ朝の政治家カウティリヤが書いた『実利論』にはサンキヤーナカの仕事が書かれている[注釈 4][55]。マウリヤ朝の官僚制度はクシャーナ朝にも引き継がれ、中央の主税官、税務官、地方の会計官などがいた。クシャーナ朝時代に作られたとされる『マヌ法典』には、第8条と第39条に会計についての規定がある。不動産、奴隷、債務弁済、カーストごとの利息、商税や年貢について定められていた[56]

古代インドにおいて、現在の会計で使われている数字の原型が作られた。紀元前3世紀頃には、シャーラダー数字によってゼロと1から10までの数字で全ての数を表せるようになった[57]。インドは膨大な桁数の数を用いたが、ヴェーダジャイナ教では宗教や哲学が目的であり、商業計算の記録は3世紀から4世紀のバクシャーリー写本からとなる[58]

東アジア

中国最古の帳簿(簿書)は、流水帳と呼ばれる方式で記録された。発生順に書いてゆく備忘的な記録であり、帳簿の保存や決算はなかった。この形式が清まで一般的に続くことになる。流水帳は単一の記録として始まり、のちに日記帳にあたる草流、財の種類や収支を区別する細流、総勘定元帳にあたる総青の3つに細分化していった[59]。 監査においては、春秋戦国時代に地方政府の財政報告を皇帝が審査する上計という制度が作られた。秦では中央政府に御史大夫、各郡には監察御夫が監査し、上計は御史大夫が行うようになり、同様の制度が各王朝で引き継がれた[60]

日本では、7世紀以降の律令制において租庸調という税が定められ、財政責任者の太政官四度公文と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文とは大帳 (計帳)、正税帳、調庸帳、朝集帳を指す[61]。四度公文の報告は四度使と呼ばれる使者が行い、報告の内容は主税寮にある勘会で精査を受けた。この勘会が、最初期の監査といえる[62]。貴族や仏教寺院が管理する荘園でも決算報告が制度化されていた。初期の荘園の会計記録として、755年から757年の桑原庄劵と呼ばれる文書があり、収支報告書にあたる[63]

アメリカ

メソアメリカ

マヤ文明では多数の都市国家が栄え、最盛期は8世紀頃といわれている。それぞれの国家は神官・軍指揮官を兼ねる王に治められ、行政は王族や貴族が執り行った。書記となったのはマヤ文字を秘儀として教わった一部の貴族で、多くの国民には文字は伝えられなかった。貴族は複数の役割を持ち、書記は石碑の彫刻家・天文学者・役人でもあった。行政機能は宮廷の外にも分化し、地位の高い貴族の住居でも行われた[64]

ヨーロッパ

ミケーネ文明の線文字Bの粘土板
ギリシャ

ポリスが成立する前、紀元前16世紀から紀元前12世紀にかけてのミケーネ文明では、経済活動を記録するために線文字Bが使われた。粘土板にはさまざまな物資の種類や数量が書かれており、衣食住や奴隷、武器、神々への奉納などが宮殿で管理されていた[65]

ポリス成立後のアテナイでは、国庫をデロス島の神殿に保管し、身分の低い市民や奴隷が帳簿係に雇われた。官僚が会計報告を作成し、監査官によって調べられた。神官にも会計報告の義務があり、贈答品も含めて報告した。アテナイの市民は、国家の債務を返済しなければ国外への移動、神殿への献納、遺言状の作成ができなかった[32]

ローマ
国庫があったサートゥルヌス神殿

共和政時代と初期の帝政では、クァエストルと呼ばれる財務官が存在した。ローマの国有財産はサートゥルヌス神殿に保管され、アエラリウム英語版すなわち国庫とも呼ばれた。国庫の書記官が出納を記録し、国家の債務、軍、州の収支は別の台帳に記録された。政府の会計はタブラリウムと呼ばれる公文書館で行われた[66]

初代ローマ皇帝のアウグストゥスは会計記録を整備し、現在では「皇帝の帳簿」と呼ばれている。個人用の帳簿には定刻の財政、軍の収支、建設工事の資金繰り、手元現金などが記録されていた。この帳簿は計画の他に、自らの業績を伝える「神君アウグストゥスの業績録」などの宣伝にも活用された[67]。貴族は、自らが商業活動をすると選挙権などが剥奪される仕組みになっていた。それを逃れるために、支配地域の商人や知識人を奴隷として商業に従事させた。奴隷は貴族の資産を管理し、貴族は奴隷に記録を残すように命じた[68]

中世

アジア・アフリカ

イスラーム世界

アッバース朝は、文書行政や財政管理のためにアラビア語の書記術を確立し、財務書記や財務官に算術や帳簿術・会計術を伝える内容をそろえた。書記術はイスラームの伝播にともなって各地に伝わり、ペルシアではペルシア語による文書・財務の指南書として発達した。これがイラン式簿記術として確立され、オスマン帝国に普及していった[22][69]。イスラームの文書・財務の指南書はペルシアを通じて中央アジアや南アジアにも伝わり、イラン式簿記術がイスラーム政権で用いられた[70]

イスラームにはワクフと呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられてカーディーらが監督した。所有権を放棄されたワクフ財は寄進ごとに一つの組織として扱われ、私有財産や国家、特定の宗教の財産とは別個だった。会計では収入がワクフ財源・前期繰越金、支出が手当・諸経費・修理費などになる[71]。ワクフの種類には住宅、公共施設、農地、商業不動産の他に、利子で運用する現金もあり、インフラの維持に役立ちつつ善行のための資金調達という役割を果たした。12世紀から増加し、特に14世紀のペストによる人口減少の影響で急増した[注釈 5][72][73]

古代にインドから伝わった記数法は、10世紀には一般にも普及していた[注釈 6]。さらに、インド・アラビア数字としてイスラーム世界を通してヨーロッパに伝わるようになる。イベリア半島のアンダルスのウマイヤ朝や、アフリカのムワッヒド朝が入り口となった[74]

東アジア

中国では、単一の記録として始まった流水帳から、三脚帳法が考案された。これは現金収支のある取引は現金の相手方勘定だけ一つ記録し、現金収支のない取引は内容を示す双方の勘定に二つ記録するので、一つと二つの要素を合わせて三脚と呼ぶ[75]において流水帳の設置や使用法が進展し、財物の類別総括計算と明細分類計算を行うようになった[76]

日本における最古の商業帳簿は、現在の質屋にあたる土倉の債権簿とされる。土倉の帳簿は、日記または日記帳という名称で記録されていた。平安期以降の荘園には年貢散用状と呼ばれる決算報告書があり、散用状を作成するために日記の覚書が使われた。戦国時代の末には日記が貸付簿としても使われており、伊勢神宮御師である宮後三頭大夫の『国々御道者日記』によれば、日記は金銭出納簿でもあった[77]。種々の取引を記録していた日記は、やがて近世に大福帳、仕入帳、売帳、買帳など目的別に作成されるようになる[78]

アメリカ

キープを使うインカの役人(キープカマヨック)。左下にあるのは計算具のユパナ英語版
南アメリカ

インカ帝国の行政は入れ子状の階層構造になっており、王の側近には秘書、筆頭会計、出納係がいて財産管理にあたり、各地方にも会計係と出納係が置かれた[18]。インカ帝国ではキープと呼ばれる縄の道具を記録や行政管理に用いていた。キープは色や太さが異なる紐を結んで作られ、色や結び目によって数を表現した[注釈 7]。キープは10進法で位取りも行われており、帳簿に数字を記録することと同様の機能を持った。農産物・家畜・人口・納税記録などの情報はキープによって記録され、キープカマヨック(キープ保持者)と呼ばれる官僚が管理した。計算にはユパナ英語版と呼ばれる道具が使われ、ユパナで集計した結果をキープに保存した[80]

ヨーロッパ

ドゥームズデイ・ブック
封建国家

ローマ帝国の滅亡後、カトリック教会や修道会は会計や監査を続けた。やがて封建国家が形成されると、世代が続くにつれて所有関係が複雑化し、会計事務も増加した。ローマ皇帝のような会計記録の公開は、富裕な修道士会や一部の王族をのぞいて行われなかった[81]ノルマン・コンクエストによって成立したノルマン朝は、新しい制度を定め、1086年に世界初の土地登記簿と言われるドゥームズデイ・ブックを作成した。大蔵省は収支簿を作成して財政記録を整備し、羊皮紙をパイプ状に巻いてあるためにパイプ・ロールと呼ばれた[82]

国王は、領主に土地や労働者の管理権限を与えて委託した。領主の荘園は、荘園執事が領主の代理人として管理した。代理人(受託者)は、領主(委託者)に荘園の状態を報告するための会計を記録した。これは代理人会計と呼ばれる[83]。荘園の会計は地代表と現金帳に大きく分かれ、地代表に収入を記録し、現金帳に取引を記録した[84]

表記法と計算具の変化

ローマ数字は、簿記の計算に必要なゼロや位取りを表記する際に不便だった。ピサ共和国の数学者で商人でもあったレオナルド・フィボナッチが1202年に『算盤の書』を発表すると、ゼロの概念、位取り、10進法などをもつインド・アラビア数字がヨーロッパに普及していった[注釈 8]。13世紀から14世紀にかけてのイタリア諸都市の帳簿にはローマ数字とアラビア数字が混在しており、一般に普及したのは15世紀後半から16世紀となる[注釈 9][86]。同時代には計算用具のアバカスも普及し、アラビア数字とアバカスによって計算や記帳がより簡便になっていった[87]

複式簿記の形成
トマス・サリー『ポーシャとシャイロック』(1835年) 『ヴェニスの商人』の登場人物。

複式簿記の起源について、有力なものが13世紀末期から14世紀初頭のイタリア説である。イタリアの都市国家において、以下のような段階をへて複式簿記が生成されたといわれる[9]

(1) 12世紀の共同組合と会計実務: 12世紀からフィレンツェヴェネツィアジェノヴァなどの都市国家が地中海の貿易で栄えた。当時の海上貿易は難破や海賊のリスクが高く、商人はリスクを分散するために航海や商品ごとに共同組合を作った[注釈 10]。共同出資の契約のために公証人が働き、識字率が高くなかったため公証人が会計実務も行った。やがて商人の識字率が上がり、自分で帳簿をつける商人も増えた[注釈 11][37][90]

イタリア諸都市は、十字軍への貸付をきっかけに北方のヨーロッパ各地に進出した。十字軍のテンプル騎士団は遠征費のためにイタリア商人と取引をしており、テンプル騎士団の帳簿は現金管理に加えて振替も行なっていたとされる[注釈 12][92]

(2) 13世紀のコンパーニアとビランチオの生成: 海上貿易の増加でヨーロッパ各地の陸上貿易も活発になると、共同組合は次第に長期化し、フィレンツェを中心にコンパーニアと呼ばれる貿易商・両替商・銀行の組織が結成された。コンパーニアのメンバーで利益の計算と分配をするために損益計算が求められ、ビランチオと呼ばれる財務表が作られた[注釈 13][94][93]。現存する最古の勘定記録は1211年のもので、フィレンツェの銀行家がボローニャのサン・ブロコリ定期市で書いた元帳勘定になる[注釈 14][95]

(3) 14世紀前半のコンパーニアの多拠点化と多帳簿記帳実務: コンパーニアが拡大を続け、ヨーロッパ各地の駐在人も増加する。三大商会であるバルディペルッツィ英語版アッチャイウォーリ英語版は各地の店舗と代理店契約を結んだ。大規模な商会や銀行は遠隔地に支店を持ち、支店の責任者は本店に経営と財務を報告する説明責任を果たした。組織の大規模化によって、業務ごとに帳簿が作られるようになり、基礎帳簿、補助帳簿、最終帳簿という細分化も進んだ。最終帳簿の中には、各帳簿を集計した秘密帳簿があった[96]。企業全体の損益勘定を総括した最初期のものとして、フィレンツェのコルビッチ商会イタリア語版の帳簿がある[97]

(4) 14世紀末の独立拠点と複式簿記の要件を満たす実務: 大規模化した商業組織は、全ての会計実務を各地の支店に任せるようになり、報告のための会計実務が広まった。支店が1年ごとに帳簿を区切って決算報告書を作成する体系が整うと、収益勘定と費用勘定で計算する利益と、ビランチオで計算する利益を一致できるようになり、複式簿記の原理も整った[98]。やがてフィレンツェとヴェネツィアの簿記方式が統合され、損益計算で総括損益を定期的に計算するようになり、毎年の期間損益計算が確立されていった[99]。特に膨大な数の複雑な取引が行われる銀行業務では、複式簿記は必須となった[注釈 15][100]

(5) 15世紀の持株会社形態の組織と複式簿記の運用: メディチ銀行は、支店と本店を別々のコンパーニアとして、各支店の出資比率は本店が過半数を持って支配した。各支店では帳簿を1年ごとに締め切って決算報告書を作成し、本店では支店ごとの利益を計算して出資者間で分配した[注釈 16]。これは現在の連結決算にも類似した方法であり、複式簿記がこの時点で確立されていた[102][28]。フィレンツェでは、1427年に国の税務監査のために簿記の維持が義務となり、商人は監査に見せる公式の帳簿と、日記を兼ねた自分用の秘密帳簿を使い分けた[注釈 17]

複式簿記は法廷でも重要となった。金銭にまつわる紛争では複式簿記の元帳も法的文書として認められ、帳簿に不備のないことが勝敗に影響した[103]

複式簿記の理論化

複式簿記を最初に体系化・理論化したのは、数学者ルカ・パチョーリの数学書『スムマ(算術、幾何、比および比例に関する全集)』であるとされる[注釈 18]1494年にヴェネツィアで出版され、複式簿記については第1部・第9編・論説11で26ページにわたって書かれている。『スムマ』の損益計算は、継続的な帳簿記録をもとに期間で区切る総括損益計算であり、ヴェネツィア式簿記とフィレンツェ式簿記の混合だった[注釈 19][106]

なお、『スムマ』よりも先に脱稿していた簿記論としてベネデット・コトルリの『商業と完全な商人英語版』があるが、コトルリの著書が出版されたのは『スムマ』よりも後の1573年だった[107]。コトルリは、初めて複式簿記 (dupple partite) という言葉を使ったことでも知られる[108]

近世・近代

マリヌス・ファン・レイメルスワーレ『収税人たち』(1540年)。収税人の欲望や帳簿の不正の暗喩であり、会計を風刺した最初の絵画ともいわれる[109]

ヨーロッパ・アメリカ

パチョーリ『スムマ』の簿記法は「イタリア式簿記法」とも呼ばれ、ヨーロッパ各地に伝わった。16世紀のフランス、スペイン、オランダにはヤン・インピンによる『スムマ』の翻訳から伝わり、ドイツはマンゾーニの著作から伝わった。17世紀にはオランダが先進国だったためオランダから各地に伝わった[注釈 20][111]

各地における最初の複式簿記書の出版年を見ると、イタリア1494年(『スムマ』)、ドイツ1518年、フランス・イギリス・オランダ1543年(インピンによる『スムマ』翻訳)、スペイン・ポルトガル1590年、スウェーデン1646年、デンマーク1673年、ノルウェイ1692年となる[112]

フランドル、オランダ

フランドルには定住商人が多く、期間損益計算の普及が進んだ。16世紀にはアントウェルペンへと経済の中心が移り、1543年に織物商ヤン・インピンは、初のオランダ語の簿記書として『新しい手引き』を出版した。『新しい手引き』は年次決算を説いた最初の簿記書とされる[113]。オランダの数学者シモン・ステヴィンは『数学覚書(Wiskonstighe Ghedachtenissen)』(1605年-1608年)を出版し、年次決算や精算表を説いた[114]

フランス

ルイ14世財務総監だったジャン=バティスト・コルベールは、重商主義政策の一環として1673年に商事勅令を制定した。この勅令は、起草の中心人物ジャック・サヴァリフランス語版の名を取ってサヴァリ法典フランス語版とも呼ばれる。商事勅令は世界初の成文法の商法であり、近代的な商法の原型となり、その後の商法で商業帳簿が制度化された[115][116]

ドイツ・スカンジナビア

ドイツ人による簿記書は、1518年のハインリッヒ・シュライバー英語版や1531年のヨハン・ゴットリーが最初期となる。これらは商品元帳を有する人名勘定元帳について書かれており、『スムマ』の影響を受けていない点に特徴がある。これらの簿記書ののちに複式簿記の移入が進んだ[注釈 21][118]。ドイツの簿記書は、デンマークやスウェーデンでも出版された[119][120]。スカンジナビアでは、ハンザの商人を中心とするドイツとの貿易を通して複式簿記が移入された。ドイツ語の簿記書が読まれ、のちに簡略版や独自の簿記書が出版された[121]

イギリス
ウィリアム・ホガース当世風結婚』(1743年頃)。執事が領収書と帳簿を持っているが、会計は夫婦に無視されている[122]

イギリスはインピンによる『スムマ』の英訳から始まった。イギリスで最初の簿記書は、1543年のヒュー・オールドカッスルの『有益なる論文』であると言われているが、現存していない[83]。ジェイムズ・ピールやジョン・ウェディングトンはイタリア簿記の系統で初心者向けの本を出し、引き継がれていった[123]

植民地

大航海時代以後、ヨーロッパがアメリカやアフリカなど世界各地で植民地化を進めて、植民地には本国の会計制度が移入された[124]。本国の簿記書が植民地で用いられ、アメリカ植民地ではジョン・メイヤーの『組織的簿記』が読まれて図書館にも多数の蔵書があった[125]。アメリカ植民地ではベンジャミン・フランクリンらの努力もあって簿記の普及が急速に進んだ[126][127][128]

単式簿記

18世紀のイギリスでは、小売店の商人にとって、伝統的な複式簿記は複雑すぎるという不満があった。この不満に応えるために、『ロビンソン・クルーソー』の作者でもあるダニエル・デフォーは、経営入門書『完全なるイギリス商人英語版』で簡便な簿記を提案した。数学者のチャールズ・ハットン英語版は、デフォーの提案を単式記帳(single entry)と呼んで体系化した[注釈 22]。これが現在は単式簿記と呼ばれるものの発祥で、イギリスやアメリカの小売商に広まり、明治期には日本にも伝わった[130]

産業革命

貸借対照表
1816年のイングランド銀行と王立証券取引所。イングランド銀行は早くから貸借対照表を使っていた。

初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、産業革命が進んで大規模な株式会社が出現すると株主も大人数となり、株主に成果を開示するためにストックとフローを要約した表を作成するようになった。これが貸借対照表損益計算書である[131]。最初期の貸借対照表には、イギリス東インド会社イングランド銀行のものがある[132]

減価償却

鉄道事業によって減価償却が広まった。購入した蒸気機関車は使用や時間によって価値が減少するため、帳簿価格と現在価値の差を評価する方法として活用された。それまでにも船舶、農場、工場の評価替えは行われていたが、イギリスの技術者ユーウィング・マティスン英語版が著書『工場の減価償却と評価』で定期的な減価償却を提案して体系化した[133]

損益計算書
リバプール・マンチェスター鉄道のプラネット号のレプリカ。鉄道業は減価償却や損益計算書で先駆となった。

はじめに損益計算への必要性が高まった業種は、鉄道業だった。鉄道会社の特徴として、(1) それまでの企業に比べて従業員・物資・資金が多かった点、(2) 広い地域に分散した常勤の経営管理者が必要だった点、(3) 遠距離の大量輸送を毎日行っていた点がある。これらの要求に応えるために経営管理組織と専門的訓練を受けた経営者が必要となった[134]。鉄道会社によって収益勘定表が作成されるようになり、これが損益計算書の原型となった[135]

連結会計

最初期の連結会計はアメリカの鉄道業で行われ、その後に製造業に広まった。確認できる最古の連結財務諸表の作成実務は1870年代に確認されている。当初は報告の形式もさまざまであり、(1) 親会社・子会社の貸借対照表を合算、(2) 資本連結なき資産連結、(3) 重複分の控除、という段階をへて現在の形に近づいたと推測される。アメリカの鉄道業で連結会計が先行した理由として、会社法が州単位に分かれているので持株会社で解決した点もある。さらに1893年恐慌によって鉄道会社の倒産が相次ぎ、ジョン・モルガンのモルガン商会をはじめとする金融資本への連結が行われた。モルガン商会は鉄道業での成功を機に他の産業でも連結会計を活用し、巨大な資本を得てゆく。連結会計は20世紀にかけて国際的に広まっていった[136]

アジア・アフリカ

中国

の時代に商工業が急速に発展し、会計も変化する。該項(負債・資本)と存項(資産)の区別や、帳簿組織の細分化が進んだ[137]明清交替の時代には龍門帳と呼ばれる方法が思想家の傅山によって考案されたといわれる[138]。18世紀中頃の乾隆期から嘉慶期にかけては、四脚帳法が考案された[139]

1840年のアヘン戦争以後は欧米の進出が始まり、鉄道や電信の事業とともに業務管理のために欧米式の複式簿記が紹介される。中国の記帳法には、指導や教育に使える書籍がなく、統一性に欠けていた。海外赴任の経験者である蔡錫勇中国語版は、中国の記帳法を欧米の貸借複式簿記に組み入れる方法を考え、1905年に『連環帳譜』を出版する。この本が、中国初の民間向けの簿記書となった[140][141]

日本

江戸幕府は財政管理を勘定所で行い、統轄をする勘定頭は元禄時代以降に勘定奉行と呼ばれるようになった。勘定所では勘定御金奉行御蔵奉行切米手形改役などの役人が働いた[142]。商業帳簿は日記や日記帳と呼ばれていたものが、江戸時代には全体をまとめる大福帳(売掛帳)の他に、金銀出入帳・売帳・判取帳・荷物渡帳など用途別に分かれた。各商家によって形式が異なり、独自の符丁を使っている場合も多い。大商家の帳簿には複式構造を持つものもあった[143][144]

欧米の簿記は、明治政府成立の前後に移入が始まった。大蔵省や横須賀製鉄所で使用される他に、商家でも和式から洋式への切り替えが進んだ[144]。明治政府は洋式簿記を重視し、明治10年代に簿記の教科書が多数出版された。中でも遠藤宗義編の『小學記簿法』は、家計簿について最初に教えた本であり、略式簿記の作成法が書いてあった[145]。1908年には雑誌『婦人之友』が創刊され、同時期に羽仁もと子が家計簿を刊行して現在まで続くことになる[146]。フランスの商事勅令をもとにヨーロッパで作られた商法は明治期の日本に移入し、商業帳簿制度が1890年(明治23年)の旧商法、1899年(明治32年)の新商法で定められた[116]

朝鮮

朝鮮半島の最初期の商業簿記は、開城簿記や四介松都治簿法と呼ばれる。開城簿記の帳簿は、基礎帳簿と明細帳簿に大きく分かれる。基礎帳簿は、日々の記入簿と仕訳日記帳にあたる日記と、総勘定元帳にあたる長冊に大きく分かれる。決算は決算書・損益表の作成と元帳決算で行われる。実務では、日記帳で現金仕訳をして、それを貸借に分割して長冊に転記した[注釈 23][148]

オスマン帝国

オスマン帝国の財政は財務長官府を頂点として財務官僚に運営された。15世紀時点では20人程度と少数であり、15世紀から17世紀にかけての租税台帳の作成や官僚制度の整備にともなって増員された。租税台帳は各地の担税力を示す明細帳と、地域の徴税権が誰に分配されたかを示す簡易帳に分かれており、台帳作成官、書記、カーディーが作成した[149][150][151]。19世紀に入ると、ヨーロッパ型の内務・外務・財務の省庁が組織された[152]

寄進制度であるワクフの利用は14世紀から16世紀にかけても増加し、オスマン時代には都市のインフラ維持に欠かせない制度となった[73]イスラーム法では女性の財産権が定められており、妻と夫の財産は区別されているので、財産をもつ女性はワクフを資産運用としても活用した[153]

アフリカ

アフリカでは、スペインやポルトガルをはじめとするヨーロッパ各国が奴隷貿易を行った。やがて奴隷貿易の禁止が進むと、ヨーロッパ各国はアフリカ分割によって植民地化して利益を得ようとした。植民地では、本国の会計制度をもとに経営が行われた[注釈 24][155][156]

かつてのアフリカの無文字社会は、会計について記録が残されていない場合が多い。ヨーロッパと取引をしたダホメ王国も無文字社会だったが、ヨーロッパ側の記録によれば精緻な官僚制度と正確な会計を整えていたとされる。人口統計は箱に小石を入れて記録し、性別や職業別の労働者数はシンボルをつけた袋で把握した。家畜の統計では、種類別のシンボルをつけた袋に小石やタカラガイを入れた。それらの情報をもとに徴税や徴兵を割り振り、年1回の貢租大祭を開催した。国家財政は宮廷と結びつき、行政官、会計監査官、収税吏、警察などの役割が定められていた。官僚制は双分制にもとづき、役人は必ず男女で実務を行なった[注釈 25][19]

科学的管理法・管理会計

自動車の大量生産を確立したフォード・モデルTの工場。1913年-1914年頃

フレデリック・テイラーは生産管理の方式を考案し、科学的管理法と呼ばれるようになった。テイラーは会計担当者に生産管理を分析させて、コスト評価の正確性を高めた。テイラーの管理法は、繊維、鉄鋼、自動車、化学など製造業で導入され、投資利益率が考案されて大量生産が確立した。さらに応用が進み、大手小売店の店舗面積の売上高粗利益率にも使われるようになった[158]。企業の大規模化によって会計や管理の作業量が増え、解決のために機械化が進んだ。遠隔地との連絡を取る電信・電話、計算に用いる加算機会計機、タイプライター、パンチカード式の作表機などが19世紀末から20世紀初頭にかけて普及した[注釈 26][160]

1919年、会計学者のジェイムズ・O・マッキンゼー英語版はシカゴ大学で会計の講座を発表した。この講座はそれまでの帳簿や出納管理など会計士のための教育とは異なり、経営に役立つ会計を教える内容だった。マッキンゼーの講座は人気を集め、コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーの設立へとつながった[161]

公認会計士・監査制度の成立

公認会計士

鉄道業や製鉄業など巨額の資本調達を行う産業によって、会計不正の影響が大きくなった。投資の安全性を第三者が証明するために会計の専門家の需要が急増し、会計士の組合である会計士協会が設立された。イギリス最初の会計士協会は1853年のエディンバラ会計士協会であり、1854年には国王の勅許を受けて世界初の公認会計士(英国勅許会計士)が誕生した。アメリカでは1880年代に会計士の需要が高まり、イングランドやスコットランドから多数の会計士が渡って会計事務所を設立する。1882年に会計士協会(The Institute of Account)、1887年にアメリカ会計士協会英語版(AAPA)が設立され、1896年に公会計士業を規制する法律(公認会計士法)が成立した[162][38]。19世紀末までに、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどヨーロッパ各国でも公認会計士協会が設立された[163]

監査制度

フランスはルイ15世の時代に政府が破産状態になり、ルイ16世の時代にジャック・ネッケルが財務長官に就任した。ネッケルは1781年に『国王への会計報告英語版』を発表して国家財政を明らかにする。『国王への会計報告』はベストセラーとなり、国家の監察官制度が創設されたが、ネッケルは罷免されて財政は好転せず、フランス革命へとつながった[164]。ネッケルの監査制度は、アメリカのロバート・モリスや、イギリスのジョン・バウリングに引き継がれた[165]

民間においては、株主による監査(いわゆる自由監査)が行われていた。アメリカでは1907年恐慌などにより、専門家である公認会計士による監査の必要性が高まる。他方では会計責任と会計士が批判されるようになり、経済学者ウィリアム・リプリー英語版が「株主の知る権利」(1926年)という記事で企業の不完全な情報開示や監査を批判した。1929年には大恐慌が起き、ニューヨーク証券取引所の上場企業の時価総額は89パーセントが失われた[166]。厳しい環境下にあって、投資家保護のために公開基準と収益性を重視する会計観にもとづいて1934年証券取引所法が制定され、証券取引委員会(SEC)が設置された。こうして公認会計士による法的監査が確立し、監査の基準となる会計原則についてはアメリカ会計士協会とアメリカ会計学学会が積極的に関わった[167]

現代

会計基準の国際化

第二次大戦後の国際的制度として国際会計基準がある。1949年に米州会計会議英語版が中南米の会計基準を制定、1951年に欧州会計士連合が発足、1957年に欧州経済共同体(EEC)とともに国際会計基準委員会(IASC、現在の国際会計基準審議会(IASB))と極東会計士会議が発足した[168]国際会計士連盟の国際監査基準は1992年に受諾された[169]。ヨーロッパでは、1970年代の欧州共同体(EC)の時代から会計実務の調和が進められ、欧州連合(EU)においても継続している[170]

日本では金融ビッグバンにともない、1990年代後半から会計ビッグバンが進められ、2000年3月期から会計実務が変更されていった。それまでの日本の会計は損益計算を最優先する収益費用中心であり、取得原価主義だった。しかし会計ビッグバン以降は、資産・負債中心観へと変化した[注釈 27][172]

キャッシュフロー計算書

巨額な設備投資においては、発生主義にもとづく損益計算では投資可能資金や支払資金を計算するには不十分だった。この解決のためにキャッシュフロー計算書が考案された[注釈 28]。キャッシュフローという言葉は1960年代の文献から現れ、当時は運転資本を指す場合が多かった。L・C・ヒースは現在のキャッシュフローに通じる現金収支計算書、財政活動計算書、投資活動計算書を説いた。欧米では1980年代から1990年代、日本では2000年にキャッシュフロー計算書が制度化された[174]

公正価値会計

会計原則の大きな変化として、公正価値会計英語版がある。アメリカの会計は大恐慌の影響で資産の再評価が認められず、取得原価基準が採用された[注釈 29]。1950年代から1960年代には第二次世界大戦朝鮮戦争の影響でインフレーションが問題となり、取得原価主義の限界が議論されるようになる。そして1970年代の石油ショックによるインフレへの対応が課題となって物価変動会計が導入され、補足情報としての開示が始まった。1980年代以降は金融商品についての公正価値情報の開示が進み、1990年代のデリバティブの増加も影響して導入が進んだ[30]

監査法人の拡大

会計事務所による監査法人業務は拡大を続け、ビッグ8と呼ばれる大手8社による激しい競争が行われた。いずれも監査業務に加えてコンサルティング業務を増加させ、監査対象の企業からもコンサルティング業務を受注するようになる。1970年代には会計不正が多発し、監査法人の独立性や利益相反について疑問が生じるようになっていった[176]。ビッグ8は現在では4社のビッグ4になっており、日本の4大監査法人は提携関係にある[177]

コーポレートガバナンスと会計

コーポレートガバナンスは、企業や経営者を適切に方向づけるシステムであり、財務報告においては監査法人もシステムに含まれる。アメリカでは1980年代以降、ヨーロッパでは1990年代以降に議論が進んだ。2001年のエンロンを筆頭に大手企業の会計不正や破綻が相次ぐと、アメリカでは上場企業会計改革および投資家保護法(SOX法)が2002年に成立した[注釈 30]。SOX法は会計の厳格化を目的とし、監査法人のコンサルティング業務規制や、財務処理のプロセスの開示と監査が盛り込まれた。同様の法律が各国でも定められ、日本では2006年、金融証券取引法に内部統制報告制度が制定された[179]

金融危機と会計

規制強化にもかかわらず、その後も不正は続き金融危機につながる損失をもたらす。サブプライムローンのリスクを指摘する会計事務所もあったが、問題の解決にはならなかった。2007年にサブプライム住宅ローン危機をきっかけとして世界金融危機が起きると、経営者や金融機関に加えて監査法人も非難された。世論は監査法人を疑い、企業や金融機関は監査法人が資産価値を過小評価したと主張した。しかし、監査担当者は金融犯罪によっては摘発されず、金融業界の透明化は進まなかった[180]

家計簿の歴史

家計や家政については、古くはアリストテレスの『政治学』、クセノポンの『家政論』、そしてアリストテレス名義の偽書『経済学』などの文献がある[181]。古代ローマの家長は、国家に家計簿を義務づけられており、財政政策の一部でもあった[182]。当時の家政は家父長制を前提としたものであり、例えば『家政論』では夫は戸外の政治と農場管理、妻は家庭内という分担が理想とされていた[183]

個人的な内容や家庭のために記帳する家計簿も現れ、中世のイタリア商人は、商売の帳簿とは別に個人的な家計簿をつけた[184]。思想の一環として家計簿が使われる場合もあり、アメリカの作家・思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは森で暮らしながら家計簿をつけて、生きるために最低限必要なものを見極めようとした[185]

アメリカで公認会計士第1号となったチャールズ・ワルド・ハスキンズ英語版は職業教育や家計の重要性を説き、家庭に会計学を活かすために家計の本を出版した[186]。日本においては、1908年に羽仁もと子が刊行した家計簿が現在まで続いている点で最も長い。羽仁は家計について、労力と財力が調和を保って発展するようにつとめるという目標を掲げた[注釈 31]。刊行当時から現在まで同内容を保っており、当初は主婦1人による記帳を想定していたが、家計簿は家庭全員が参加するものという構想に変わっていった[146]

会計不正の歴史

古代ギリシャのアテナイでは、帳簿が疑わしい場合は帳簿係が拷問にかけられた。そのため、市民は帳簿係になろうとはせずに奴隷を教育して雇った。監視する規則はあったが不正は行われ、歴史家のポリュビオスは、頭のいい人間は必ず帳簿を操作すると論じた[187]。古代ローマの哲学者・政治家であるキケロは、カエサルが暗殺されたのちにアントニウスと対立し、アントニウスの帳簿の不正を暴く。しかしアントニウスは失脚せず、キケロは暗殺された[188]

ミシシッピ計画の地図(1721年)。西方会社はフランス領ルイジアナにあるといわれた金鉱の発見を目的に設立された[189]

近世になると企業の会計不正も増加し、中でも特許会社や政治家が関与した不正は経済に大きな損失をもたらした。特に大規模な事件が、1720年のミシシッピ計画南海泡沫事件であり、イギリスとフランスが戦費のために抱えた債務が原因である。フランスでは、実業家のジョン・ローがフランスの債務を解決するためにミシシッピ会社の株を国債と交換する計画を立てた。ミシシッピ会社は西方会社と名を変えてフランスの貿易会社を吸収し、政府から得た通貨発行権と組み合わせて株価を40倍まで高騰させた。イギリスでは南海会社が年金型の公債を高い利率で販売して株価を吊り上げ、株をイギリス国債と交換した。やがて西方会社と南海会社のいずれもバブルが崩壊し、2国の経済に混乱を招いた[注釈 32][191][192]。フランスでは徴税請負人の不正が続き、パーリ兄弟の改革も根本的な解決にはならず、フランス革命の一因にもなった[193][194]

1980年代以降のアメリカの会計不正の主な原因としては、(1) 経営者の報酬が株価に依存し、不正な操作で株価をあげる動機があった。(2) 不正を誘発するように株式市場が好調であった。(3) 不正を防ぐべき会計事務所が、監査業務とコンサルティング業務の利益相反を起こしていた、などがある[195]。このような状況下で、エンロンワールドコムリーマンブラザーズなどの大手企業が会計不正によって破綻した。

エンロンの株価。2000年8月から2002年1月

2001年、大手エネルギー企業のエンロンは粉飾会計が発覚して破産した。エンロンは天然ガス会社から電力の売買、ITなどの分野にも進出して1990年代に急成長し、違法な金融取引や会計処理に関わった[注釈 33]。主な問題として、(1) 3000社以上の特別目的事業体(SPV)を設立し、SPVとの取引によって負債や不良債権を隠蔽して情報開示を行わなかった。(2) 時価評価/値洗い方式会計の誤用や悪用をした、という点がある。エンロンの会計事務所であるアーサー・アンダーセンは厳しい監査業務で定評があったが、エンロン事件によって倒産した[注釈 34][198]。2002年、大手通信企業のワールドコムが破産した。M&Aを繰り返して拡大したワールドコムはITバブル崩壊後に利益が下がり、株価下落を防ぐために不正な経理操作を行っていた[199]

現代日本の会計不正の傾向として、卸売業,建設業,情報・通信業,小売業で多く開示されている。不正の件数は、経営者・役員よりも従業員が多い。不正の影響は、経営者・役員による不正や、不正な財務報告を目的とする場合に大きくなる。日本企業による会計不正として、山一証券カネボウライブドア東芝オリンパスなどがある[200]

学問としての会計史

バロース社の初期の加算機。加算機は統計調査や会計に使われ、会計機とも呼ばれた[注釈 35]

初期の会計史の研究としてリチャード・ダフォーンの『商人の鏡』(1635年)があるが、1ページのみだった。単行本としては、ベンジャミン・F・フォスターの『The Origin And Progress Of Book-keeping』(1852年)からとなる[202]。日本では明治期の洋式簿記の導入と同時期に歴史研究が始まり、当初は海外研究の抄訳が多かった。初期のものとして曽田愛三郎『学課起源略説』(1878年)や海野力太郎『簿記学起源孝』(1886年)がある[203]

学会は、1972年にイギリス会計史学会、1973年にアメリカ会計史学会英語版、1982年に日本会計史学会が設立された。学術誌としては、アメリカ会計史学会の機関紙「The Accounting Historians Journal英語版」(AHJ)が年2回、国際的ジャーナルの「Accounting History英語版」(AH)が年4回発行されている。傾向としては、AHJが伝統的な組織を扱い、AHは限定されずにさまざまな組織を扱う。日本では「会計史学会年報」が発行されている他、会計専門学術誌である『會計』にも研究論文が掲載されている[202]。研究者の傾向として、日本では会計プロフェッションを兼務せずに研究者となる割合が多く、海外では公認会計士の研究者が多い[204]

複式簿記の起源

複式簿記の起源については複数の説があり、特に古代ローマ起源説と中世イタリア起源説に大きく分かれる。古代ローマ説の根拠としては、会計役の奴隷と主人がおこなっていた代理人簿記を起源とする[205]。中世イタリア起源説は、さらにトスカーナ説、ジェノヴァ説、ロンバルディア説、ヴェネツィア説、各都市国家で同時期に作られた説などに分かれる[206]

出典・脚注

注釈

  1. ^ 日本では商業書や算術書は古くから存在し、江戸時代には商業書『商売往来』があり、算術書『塵劫記』には商業計算が書かれているが、会計についての教育書は明治以降となる[24]
  2. ^ トークンは新石器時代から計算具として使われていたという説や、トークンが文字の原型になったという説もある[4]
  3. ^ 西アジアにおけるインド数字の最古の記録は、ネストリウス派司祭のセベルス・セベクトの662年の文書であり、インド記数法を使った最古のアラビア語文献が数学者・天文学者のアル=フワーリズミーの『インド数字による計算法』(825年)である[52]
  4. ^ 叙事詩『マハーバーラタ』では、帝王学教育としてガナカについて語られる場面がある[54]
  5. ^ ワクフの急増は、マムルーク朝の財源だったイクター制の崩壊を招いた[72]
  6. ^ 哲学者のイブン=シーナーの自伝によれば、野菜売りの商人からインドの計算法を教わったとある[74]
  7. ^ キープの会計は階層構造をもち、上方向は合計、下方向は分割となる[79]
  8. ^ フィボナッチは、イスラーム王朝のムワッヒド朝の都市であるブージ(現在のベジャイア)でインド・アラビア数字と算盤を学んだ[85]
  9. ^ アラビア数字はときに禁止され、普及の障害となった。ローマ数字と比べると、0を終わりに付け足したり、0を6や9に変えるなど改竄しやすいというのが理由だった[10]
  10. ^ シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』には、中世のヴェネツィアではなくシェイクスピアの同時代の16世紀から17世紀の取引地名が登場する。これは過去のヴェネツィアの繁栄を同時代のロンドンに結びつけて題材にしたともいわれる[88]
  11. ^ イタリアでは都市国家によって組合の構成が異なり、会計にも影響を及ぼした。フィレンツェは他人同士による期間組合(マグナ・ソキエタス)であり、ヴェネツィアでは貴族の血縁を中心とした家族組合(ソキエタス)による口別損益計算が行われていた[89]
  12. ^ イタリア商人は為替相場を利用し、ヨーロッパの資金を西アジアに移動して利潤を生み出した。十字軍は多額の遠征費を必要としたため、イタリア商人の立場をより有利にした[91]
  13. ^ 当初の複式簿記は、損益勘定が元帳にないか、あったとしても企業全体の損益を総括できなかった。そのため利益を計算するには、棚卸をもとに総資産と総負債を時価評価した財務表を作成して差額を求め、前期と今期を比較した[93]
  14. ^ 内容は両替商による貸付記録だが、貸方による回収記録がないため、賃借左右対称方式ではなく賃借前後分離方式だったとされる[95]
  15. ^ たとえば預金を裏付けに手形を振り出して決済をする場合は、商人にとって現金よりも便利ではあるが記帳は複雑化する[100]
  16. ^ メディチ銀行では、支店の支配人は会計報告のためにいつでも召集に応じることや、年1回の決算に加えて必要ならばいつでも決算を行って報告する義務があった[101]
  17. ^ 現存する秘密帳簿としては、教皇庁とも取引をした商人であるフランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニやメディチ銀行のものなどがある。メディチ銀行の秘密帳簿からは複式簿記の要素が見られる[27][28]
  18. ^ 『スムマ』で名声を得たパチョーリはレオナルド・ダ・ヴィンチとも交流した。『モナ・リザ』や『最後の晩餐』には、パチョーリが教えた遠近法の影響がみられるという説もある[104]
  19. ^ 『スムマ』29章から。「毎年帳簿を締切ることは常に良いことであるが、他の人と組になっている人の場合には特にそうである。諺に「計算を度々すれば、友情が続く」といっている」[105]
  20. ^ 当時の複式簿記の普及が分かる作品として、ヨースト・アマン英語版とヨハン・ノイドルファーの木版画『商業の寓話』がある[110]
  21. ^ ゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』では、登場人物のヴェルナーが「複式簿記は人間の頭で発明した最も優れたもののひとつである」という主旨の発言をする。この発言が、ゲーテ自身の言葉だと誤解されている場合がある[117]
  22. ^ デフォーは卸売をはじめとして多様な事業経験があり、『ロビンソン・クルーソー』では主人公が貸借対照表のような形式で自己分析をする場面がある[129]
  23. ^ 開城簿記の起源については、高麗時代、朝鮮王朝時代、19世紀など諸説がある[147]
  24. ^ ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』は作者の体験をもとに書かれており、コンゴ自由国で植民地業務を行う会計士が描かれている[154]
  25. ^ ダホメ王国にはヨーロッパと奴隷貿易を行うアフリカの国家という特異な面もあった[157]
  26. ^ 電信は1844年にアメリカ連邦議会で採用され、電話は1885年にベル・システムが完成した。作表機は1890年、プリンター付きの計算機は1892年、加減乗除の機能をもつ計算機が1893年、単能計算機は1926年に完成した[159]
  27. ^ 従来の日本の取得原価主義からの変更として、連結財務諸表中心の制度導入、財務諸表体系へキャッシュフロー計算書を導入、退職給付・研究開発費・税効果会計・金融商品・棚卸資産を評価する会計基準の導入、などがある[171]
  28. ^ 古くは比較貸借対照表や資金運用表がある[173]
  29. ^ 株価暴落の原因として、金融商品の資産の恣意的な再評価があったという分析が理由である[175]
  30. ^ エンロンの不正を発見した監査法人はあったが、告発は社内で黙殺されていた[178]
  31. ^ 羽仁の家計簿は1ヶ月単位で費目ごとに予算を立てるようになっており、1年間の総収入から生活費・衣食住費・教育・保険衛生・娯楽などを算出し、それを12等分して管理する[146]
  32. ^ アイザック・ニュートンは、南海会社の株が最高値の頃に2万ポンドを投資し、巨額の損失をした[190]
  33. ^ エンロンは、ジョージ・W・ブッシュの2000年の大統領選挙の最大の献金者でもあり、共和・民主両党の上院議員71名と下院議員187名がエンロンの献金を受けていた[196]
  34. ^ アーサー・アンダーセンは、アメリカでコンサルティング業務を始めた最初期の会計事務所でもあり、監査業務とコンサルティング業務の利益相反問題を抱えていた[197]
  35. ^ 作家のウィリアム・バロウズは、バロース社の創始者ウィリアム・シュワード・バロウズ1世の孫にあたる[201]

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参考文献

単行本

  • 青山和夫『マヤ文明を知る事典』東京堂出版、2015年。 
  • 浅田孝幸; 頼誠; 鈴木研一; 中川優; 佐々木郁子『管理会計・入門 第4版』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2017年。 
  • ゲイリー・アートン英語版 著、竹内繁 訳「紐の国家 - キープによるインカ帝国の行政」、島田泉; 篠田謙一 編『インカ帝国 - 研究のフロンティア』東海大学出版会〈国立科学博物館叢書〉、2012年。 
  • エリック・ウィリアムズ 著、中山毅 訳『資本主義と奴隷制』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2020年。 (原書 Williams, Eric (1944), Capitalism and Slavery, University of North Carolina Press 
  • デイヴィッド・エルティス; デイヴィッド・リチャードソン 著、増井志津代 訳『環大西洋奴隷貿易歴史地図』東洋書林、2012年。 (原書 Eltis, David; Richardson, David (2010), Atlas of the Transatlantic Slave Trade, Yale University Press 
  • 大野瑞男『江戸幕府財政史論』吉川弘文館、1996年。 
  • 工藤栄一郎 著「我が国における会計基礎教育の歴史」、日本公認会計士協会 編『会計基礎教育の歴史と現況』日本公認会計士協会出版局、2019年。 
  • 小泉龍人『都市の起源 - 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社〈講談社選書メチエ〉、2016年。 
  • 坂口明 著「ローマ時代の商業と商人のネットワーク」、歴史学研究会 編『ネットワークのなかの地中海』青木書店、1999年。 
  • 清水廣一郎『中世イタリア商人の世界 - ルネサンス前夜の年代記』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1993年。 
  • ジョージ・G・ジョーゼフ 著、垣田高夫, 大町比佐栄 訳『非ヨーロッパ起源の数学 - もう一つの数学史』講談社〈ブルーバックス〉、1996年。 (原書 Joseph, George Gheverghese (1990), The Crest of the Peacock: Non-European Roots of Mathematics 
  • ジェイコブ・ソール 著、村井章子 訳『帳簿の世界史』文藝春秋〈文春文庫(Kindle版)〉、2018年。 (原書 Soll, Jacob (2014), The Reckoning: Financial Accountability and the Making and Breaking of Nations., Basic Books Limited 
  • 田中靖浩『会計の世界史 - イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語』日経BP、2018年。 
  • 津谷原弘『中国会計史』税務経理協会、1998年。 
  • 富田俊基『国債の歴史 - 金利に凝縮された過去と未来』東洋経済新報社、2006年。 
  • 橋本寿哉『中世イタリア複式簿記生成史』白桃書房、2009年。 
  • 濱田弘作『会計史研究』多賀出版、2003年。 
  • 林佳世子 著「都市を支えたワクフ制度」、歴史学研究会 編『ネットワークのなかの地中海』青木書店、1999年。 
  • 林佳世子『オスマン帝国 - 500年の平和』講談社〈講談社学術文庫(Kindle版)〉、2016年。 
  • 林隆夫『インドの数学 - ゼロの発明』中央公論新社〈中公新書〉、1993年。 
  • カール・ポランニー 著、栗本慎一郎端信行 訳『経済と文明 - ダホメの経済人類学的分析』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004年。 (原書 Polányi, károly (1966), Dahomey and the Slave Trade 
  • カール・ポランニー 著、玉野井芳郎、栗本慎一郎、中野忠 訳『人間の経済』岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年。 (原書 Polányi, károly (1977), The Livelihood of Man, Academic Press 
  • 宮本又郎; 阿部武司; 宇田川勝; 沢井実; 橘川武郎『日本経営史〔新版〕 - 江戸時代から21世紀へ』有斐閣、2007年。 
  • 屋形禎亮 著「古代エジプト」、樺山紘一 編『岩波講座 世界歴史2 オリエント世界』岩波書店、1998年。 
  • 山形浩生『たかがバロウズ本。』大村書店、2003年。 
  • 渡邉泉『会計学の誕生 - 複式簿記が変えた世界』岩波書店〈岩波新書〉、2017年。 

論文・記事

関連文献

単行本

  • 片岡義雄「会計史」『社会科学大事典 3』鹿島研究所出版会、1968年。 
  • 中野常男; 清水泰洋『近代会計史入門 (第2版)』同文舘出版、2019年。 
  • アダム・トゥーズ 著、江口泰子, 月沢李歌子 訳『暴落 - 金融危機は世界をどう変えたのか(上・下)』みすず書房、2020年。 (原書 Tooze, Adam (2018), CRASHED: How a Decade of Financial Crises Changed the World, London: Allen Lane and New York: Viking 
  • A・C・リトルトン英語版 著、片野一郎 訳『会計発達史』同文館出版、1978年。 (原書 Littleton, Ananias Charles (1933), Accounting evolution to 1900, Univ of Alabama Press 

論文・記事

関連項目

外部リンク