「フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)」の版間の差分

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{{Redirect4|ノース卿|ノース卿の称号を所有していたほかの人物|ノース男爵|ギルフォード伯爵}}
{{政治家
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|人名 = 第2代ギルフォード伯爵<br />フレデリック・ノース
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|各国語表記 = {{Lang|en|Frederick North<br />2nd Earl of Guilford}}
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|画像 = Frederick North, 2nd Earl of Guilford by Nathaniel Dance, (later Sir Nathaniel Dance-Holland, Bt).jpg
|画像 = Frederick North, 2nd Earl of Guilford by Nathaniel Dance, (later Sir Nathaniel Dance-Holland, Bt).jpg
|画像説明 = フレデリック・ノース、{{仮リンク|ナサニエル・ダンス=ホランド|en|Nathaniel Dance-Holland|label=ナサニエル・ダンス}}画
|画像説明 = {{仮リンク|ナサニエル・ダンス=ホランド (初代準男爵)|en|Nathaniel Dance-Holland|label=ナサニエル・ダンス}}による肖像、1773年/1774年。
|国略称 = {{GBR1606}}
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|生年月日 = [[1732年]][[4月13日]]
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|出生地 = {{GBR1606}}、[[イングランド]]、[[ロンドン]]、ピカデリー
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1732|4|13|1792|8|5}}
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|出身校 = [[オックスフォード大学]]トリニティ・カレッジ
|出身校 = [[オックスフォード大学]]トリニティ・カレッジ
|所属政党 = [[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]
|所属政党 = [[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]
|称号・勲章 = 第2代ギルフォード伯爵、第4代ギルフォード男爵、[[ガーター勲章]]勲爵士、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]
|称号・勲章 = 第2代ギルフォード伯爵、第4代ギルフォード男爵、[[ガーター勲章]]勲爵士、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]、[[ロンドン考古協会]]フェロー
|親族(政治家) = <small>[[フランシス・ノース (初代ギルフォード伯爵)|初代ギルフォード伯爵]](父)、[[ジョージ・ノース (第3代ギルフォード伯爵)|3代ギルフォード伯爵]](長男)、[[フレデリック・ノース (第5代ギルフォード伯爵)|5代ギルフォード伯爵]](三男)</small>
|親族(政治家) = <small>[[フランシス・ノース (初代ギルフォード伯爵)|初代ギルフォード伯爵]](父)、[[ジョージ・ノース (第3代ギルフォード伯爵)|3代ギルフォード伯爵]](長男)、[[フレデリック・ノース (第5代ギルフォード伯爵)|5代ギルフォード伯爵]](三男)</small>
|配偶者 = アン・スピーク・ノース
|配偶者 = アン・スピーク
|サイン = Frederick North, Lord North Signature.svg
|サイン = Frederick North, Lord North Signature.svg
|国旗 = GBR1606
|国旗 = GBR1606
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|職名2 = [[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]
|職名2 = [[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]
|内閣2 = [[グラフトン公爵内閣]]、ノース卿内閣
|内閣2 = [[グラフトン公爵内閣]]、ノース卿内閣
|就任日2 = 1767年9月11日
|就任日2 = 1767年9月11日
|退任日2 = 1782年3月27日
|退任日2 = 1782年3月27日
|国旗3 = GBR1606
|国旗3 = GBR1606
|職名3 = [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]
|職名3 = [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]
|内閣3 = [[フォックス=ノース連立内閣]]
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|就任日3 = 1783年4月2日
|就任日3 = 1783年4月2日
|退任日3 = 1783年12月19日
|退任日3 = 1783年12月19日
|国旗4 = GBR1606
|国旗4 = GBR1606
|職名4 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院議員]]
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|選挙区4 = {{仮リンク|バンベリー選挙区|en|Banbury (UK Parliament constituency)}}
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|就任日4 = 1754年
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|退任日4 = 1790年
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|国旗5 = GBR1606
|国旗5 = GBR1606
|職名5 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員
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|就任日5 = 1790年
|就任日5 = 1790年
|退任日5 = 1792年
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}}
'''第2代[[ギルフォード伯爵]]フレデリック・ノース'''({{lang-en|'''Frederick North, 2nd Earl of Guilford, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}'''}}、[[1732年]][[4月13日]] - [[1792年]][[8月5日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の政治家、貴族。
'''第2代[[ギルフォード伯爵]]フレデリック・ノース'''({{lang-en|Frederick North, 2nd Earl of Guilford, {{Post-nominals|country=GBR|KG|PC|FSA}}}}、[[1732年]][[4月13日]] - [[1792年]][[8月5日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の政治家、貴族。


[[1754年]]に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選して政界入り。[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]や[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]など多くの閣僚を経験した後、[[1770年]]から[[1782年]]まで[[イギリスの首相|首相]]を務めたが、在任期間の後半は[[アメリカ独立戦争]]への対応に追われた。同戦争の戦況が悪化すると議会での支持を失い、辞職に追い込まれた。
1754年に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選して政界入り。[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]や[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]など多くの閣僚を経験した後、[[1770年]]から[[1782年]]まで[[イギリスの首相|首相]]を務めたが<ref name="Cracroft" />、在任期間の後半は[[アメリカ独立戦争]]への対応に追われた。同戦争の戦況が悪化すると議会での支持を失い、辞職に追い込まれた。


父がギルフォード伯爵位に叙せられた[[1752年]]から自身が爵位を継承する[[1790年]]までギルフォード伯爵家の[[法定推定相続人]]として'''ノース卿'''(Lord North)の儀礼称号で称された。首相在任時はこの儀礼称号で称されていた。
父がギルフォード伯爵位に叙せられた1752年から自身が爵位を継承する1790年までギルフォード伯爵家の[[法定推定相続人]]として'''ノース卿'''({{lang|en|Lord North}})[[儀礼称号]]で称された<ref name="Cokayne" />。首相在任時はこの儀礼称号で称されていた<ref name="Cokayne" />


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 初期の経歴(1732年 - 1754年) ===
初代[[ギルフォード伯爵]][[フランシス・ノース (初代ギルフォード伯爵)|フランシス・ノース]]と1人目の妻ルーシー・モンタギュー({{lang|en|Lucy Montagu}}、1709年頃 – 1734年5月7日、初代[[ハリファックス伯爵]][[ジョージ・モンタギュー (初代ハリファックス伯爵)|ジョージ・モンタギュー]]の娘)の息子として、1732年4月13日に[[メイフェア]]の{{仮リンク|アルベマール・ストリート|en|Albemarle Street}}で生まれ{{Sfn|Thomas|2015}}、[[ロンドン]]で洗礼を受けた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1892|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K)|volume=4|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|pages=123–124|url=https://archive.org/details/completepeerage02cokagoog/page/n136}}</ref>。洗礼式では[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|王太子フレデリック・ルイス]]が名親を務めた{{Sfn|Thomas|2015}}。1742年から1748年まで{{Sfn|Brooke|1964}}[[イートン・カレッジ]]で教育を受けた後<ref name="ACAD">{{Acad|id=NRT769F|name=North, the Hon. Frederick.}}</ref>、1749年10月12日に[[オックスフォード大学]][[トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学、1750年3月21日に{{仮リンク|マスター・オブ・アーツ (オックスフォード、ケンブリッジ、ダブリン大学)|en|Master of Arts (Oxford, Cambridge, and Dublin)|label=M.A.}}の学位を授与された<ref name="Oxon">{{Cite book2|language=en|editor-last=Foster|editor-first=Joseph|editor-link=ジョセフ・フォスター (系図学者)|location=Oxford|publisher=University of Oxford|year=1891|title=Alumni Oxonienses 1715-1886|volume=3|page=1028|url=https://archive.org/details/AlumniOxoniensesTheMembersOfTheUniversityOfOxford1715-1886Their/page/n253}}</ref>。卒業後は親族にあたる第2代[[ダートマス伯爵]][[ウィリアム・レッグ (第2代ダートマス伯爵)|ウィリアム・レッグ]]{{Sfn|Brooke|1964}}{{Refnest|group=注釈|第2代ダートマス伯爵の母はノース卿の父の2人目の妻にあたる<ref name="Cokayne" />。}}とともに[[グランドツアー]]に出て、1751年から1754年まで[[大陸ヨーロッパ]]を旅した{{Sfn|Thomas|2015}}{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}。
フレデリック・ノースは[[1732年]][[4月13日]]に、ピカデリーから直ぐのアルベマール通りにあった家族の家で、6人兄弟の総領として生まれた<ref>Whitely p.1</ref>。ただし若い時は[[オックスフォードシャー]]にあるロクストン修道院で過ごすことが多かった。ノースが国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に良く似ていたことから同時代の者達には、[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック王子]]がノースの本当の父である(つまり国王の兄である)と思わせた。王子の評判から有り得る話ではあったが、実際の証拠はほとんど無い<ref>Tuchman, Barbara (1984). ''The March of Folly: From Troy to Vietnam''. New York: Knopf, 185.</ref>。ノースの父、すなわち初代伯爵は当時フレデリック王子の侍従であり、王子はノースの名付け親になった。
ノースは初代[[サンドウィッチ伯爵]][[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]の子孫であり、[[サミュエル・ピープス]]やビュート伯[[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)|ジョン・ステュアート]]とも繋がりがあった。ノースは当時父のギルフォード伯と幾分不穏な関係にあったが、大変密接な状態を維持した。ノースが若い時、家庭は裕福ではなかったが、父が従兄弟から資産を継承した1735年にその状態は改善された<ref>Whiteley p.2</ref>。母ルーシーは1734年に死去、父は再婚したが、継母のエリザベス・ノースもノースが13歳だった1745年に死んだ。異腹の弟の一人がウィリアム・ダートマス卿であり、生涯近しい友人となった<ref>Whiteley p.6-7</ref>。


青年期は[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ王子]]にそっくりで、ジョージ王子の父[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス王太子]](1751年没)が初代ギルフォード伯爵に「私たちの妻のうち誰かが裏切ったに違いない」と述べたという{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。
ノースは[[1742年]]から[[1748年]]まで[[イートン・カレッジ|イートン校]]で学び、[[1750年]]には[[オックスフォード大学]]トリニティ・カレッジで文学修士の学位を得た。オックスフォードを出た後は、ダートマスと共に[[ヨーロッパ]]を[[グランドツアー|大旅行]]し、[[ライプツィヒ大学]]で学び、[[ウィーン]]、[[ミラノ]]、[[パリ]]を巡って[[1753年]]にイギリスに戻った。


1769年に[[ケンブリッジ大学]]から[[博士(法学)|LL.D.]]の名誉学位を授与され<ref name="ACAD" />、1772年に{{仮リンク|オックスフォード大学総長|en|List of Chancellors of the University of Oxford}}に選出されると、1772年10月10日にオックスフォード大学から{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の名誉学位を授与された<ref name="Oxon" />。
=== 初期の政歴(1754年 - 1770年) ===
[[1754年]]4月15日、ノースは22歳でバンベリー選挙区から下院議員に無投票で選出された<ref>Whiteley p.19</ref>。


=== 政界入り ===
このときから[[1790年]]まで下院議員を務めた。[[1759年]][[6月2日]]に初代[[ニューカッスル公]][[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]と初代[[チャタム伯]][[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]](大ピット)の連立内閣に財務次官として初入閣した。間もなく良い行政官、議員としての評判を獲得し、概して同僚にも好かれた。当初は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]員だと考えていたが、多くの同時代人にとって、ノースの考え方は[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]寄りであることが明白になり、議会のホイッグ党の誰とも密接な連携をくむことは無かった<ref>Whiteley p.24</ref>。
[[File:Frederick North, 2nd Earl of Guilford (1753).jpg|200px|thumb|right|ノース卿の肖像画。{{仮リンク|ポンペオ・バトーニ|en|ポンペオ・バトーニ}}画、1753年。]]
[[1754年イギリス総選挙]]でわずか22歳にして父が{{仮リンク|バンベリー家令|en|High Steward of Banbury|label=家令}}({{lang|en|High Steward of Banbury}})を務める[[バンベリー]]の{{仮リンク|バンベリー選挙区|en|Banbury (UK Parliament constituency)|label=選挙区}}から出馬して[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選した{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}{{Refnest|group=注釈|バンベリー選挙区はギルフォード伯爵家の支配下にあり、有権者数は18人だけだった<ref name="HOPBanbury1754">{{HistoryofParliament|1754|title=Banbury|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/banbury|last=Cannon|first=J. A.|access-date=18 July 2020}}</ref>。そのため、ノース卿は1754年から1784年まで、総選挙6回と補欠選挙5回で無投票当選を果たした<ref name="HOPBanbury1754" />。後期にはギルフォード伯爵家の支配が弱まり、1784年には「投票が行われた場合、ノース卿は1票差でしか当選できなかった」と報じられたが、[[1790年イギリス総選挙]]でのノース卿の再選、ノース卿の爵位継承に伴う補欠選挙における長男[[ジョージ・ノース (第3代ギルフォード伯爵)|ジョージ・オーガスタス]]の当選(1790年12月)、ジョージ・オーガスタスの爵位継承に伴う弟[[フレデリック・ノース (第5代ギルフォード伯爵)|フレデリック]](1792年9月)はいずれも無投票での当選だった<ref name="HOPBanbury1790">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/constituencies/banbury|title=Banbury|last=Thorne|first=R. G.|access-date=18 July 2020|ref={{SfnRef|Thorne|1986b}}}}</ref>。}}。


議員就任時点で母方の叔父にあたる第2代[[ハリファックス伯爵]][[ジョージ・モンタギュー=ダンク (第2代ハリファックス伯爵)|ジョージ・モンタギュー=ダンク]]が初代[[ニューカッスル公爵]][[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公爵)|トマス・ペラム=ホールズ]]内閣で[[商務庁長官|第一商務卿]]を、親友ダートマス伯爵の叔父[[ヘンリー・ビルソン=レッグ]]が[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]を務めているなど人脈が広く、1757年12月1日の処女演説も成功を収めたため{{Sfn|Thomas|2015}}、翌1758年には[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]](後の初代チャタム伯爵)から外国派遣の官職への就任を打診された{{Sfn|Brooke|1964}}。このときは本国に留まりたいことを理由に辞退したが{{Sfn|Brooke|1964}}、1759年にニューカッスル公爵により下級大蔵卿({{lang|en|Lord of the Treasury}})に任命され、続く[[ビュート伯爵内閣]]と[[グレンヴィル内閣|ジョージ・グレンヴィル内閣]]でも留任した{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}。歴史学者{{仮リンク|ジョン・ブルック (イギリスの歴史学者)|en|John Brooke (British historian)|label=ジョン・ブルック}}によれば、この時点のノース卿には党派性が薄く、また大蔵卿委員会に6年間在任したにもかかわらずあまり有名にならなかったことから、1765年にグレンヴィル内閣が崩壊した時点ではノース卿が5年後には首相に就任すると予想した人は少なかったという{{Sfn|Brooke|1964}}。また、歴史学者{{仮リンク|P・D・G・トマス|en|P. D. G. Thomas}}によれば、議会戦術が上手なノース卿が大蔵卿委員会で財務に関する知識を積み上げたことで、後年に成功を収めることができたという{{Sfn|Thomas|2015}}。
[[1763年]]11月、[[ジョン・ウィルクス]]の問題に関して政府を代表して演説する者に選ばれた。ウィルクスは下院議員であり、その急進的新聞「ザ・ノース・ブリトン」で首相や国王に対して中傷的な攻撃をしたと多くの者が考えていた。ノースが提案したウィルクスを下院から追放するという動議は173票対111票で可決された。ウィルクスは決闘をした後で[[フランス]]に逃亡しており、その欠席のままで除名が決まった<ref>Whiteley p.49</ref>。


[[1765年]]に権力ホイッグ党の有力者であるロッキンガム侯[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]によって政府が動されるようなると、ノースは閣外に去り、暫くは平議員となった。ロッキンガム侯から再入閣提案があったが、内閣支配してい富裕ホイッグ党高官と付き合うことになるのを恐れたことが大きくを断った<ref>Whiteley p.51</ref>。
ノース卿は[[ジョージ・グレンヴィル]]の辞任とともに下級大蔵卿を退任、[[1765年印紙法|印紙法]]廃止も反対票投じが、野党の一員としてグレンヴィルと連携せず、またグレンヴィルの後任である第2代[[ロッキンガム侯爵]][[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]からの官職就任の打診も辞退し{{Sfn|Brooke|1964}}しかし、議会でロッキンガム侯対米融和政策批判す{{Sfn|Thomas|2015}}ど庶民院で弁論才華示したこともあり{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}1766年7月に[[第一大蔵卿]]の第3代[[グラフトン公爵]][[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|オーガスタス・フィッツロイ]]により{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}{{仮リンク|陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}の1人に任命され<ref name="Cokayne" />、同年12月10日には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="Gazette10684" />。


=== グラフトン公爵内閣の閣僚 ===
[[1766年]]に大ピットが第二次内閣として戻ってきたときにノースは復帰した。ピット内閣で陸軍主計官に指名され、枢密院顧問になった。ピットが病気がちだったので、政府は実質上[[グラフトン公]][[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|オーガスタス・フィッツロイ]]によって運営され<ref>Whiteley p.60</ref>、ノースはその最上級メンバーの一人だった。
{{See also|グラフトン公爵内閣}}
1767年3月に[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]就任をチャタム伯爵とグラフトン公爵から打診されて辞退したが{{Sfn|Brooke|1964}}、1767年12月に[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[チャールズ・タウンゼンド (1725-1767)|チャールズ・タウンゼンド]]が死去するとその後任に任命された{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}。さらに1768年1月に{{仮リンク|ベッドフォード派|en|Bedfordite}}の入閣により[[ヘンリー・シーモア・コンウェイ]]が[[庶民院院内総務]]の座を退くと、ノース卿がその後任となった{{Sfn|Brooke|1964}}。歴史学者{{仮リンク|P・D・G・トマス|en|P. D. G. Thomas}}によると、タウンゼンドと[[ジョージ・グレンヴィル]]はこの頃までにノースの首相就任を予想したという{{Sfn|Thomas|2015}}。


[[ジョン・ウィルクス]]の庶民院議員当選をめぐり、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と庶民院多数派の支持を受けて1769年2月17日にウィルクスの議会追放を、同年4月15日に対立候補{{仮リンク|ヘンリー・ラットレル (第2代カーハンプトン伯爵)|en|Henry Luttrell, 2nd Earl of Carhampton|label=ヘンリー・ラットレル}}の当選を可決させた{{Sfn|Barker|1895|p=159}}。この論争においてはウィルクスの当選無効と補欠選挙での当選が繰り返されたが、採決の度に与党側の得票数が減っていたことにノース卿が落胆して、一時辞任を考えるほどになった{{Sfn|Thomas|2015}}。ジョージ3世はノース卿を称えて彼を慰留したが、この「ノース卿が辞任を求め、ジョージ3世が慰留する」というシーンは以降何度も繰り返されたという{{Sfn|Thomas|2015}}。
[[1767年]]12月、ノースはチャールズ・タウンゼンドの後を受けて財務大臣となった。翌1768年初期に国務大臣ヘンリー・シーモア・コンウェイの辞任により[[庶民院院内総務|下院院内総務]]にもなり、ピットの後継者であるグラフトン公の下で仕え続けた。


1769年3月にノース卿が自身の政治経歴を回顧したとき、人気取りの政策に支持したことはなかったと主張し、その例として{{仮リンク|1763年サイダー税法案|en|Cider Bill of 1763}}と[[1765年印紙法]]への支持、ウィルクスと1769年ヌルム・テンプス法({{lang|en|Nullum Tempus Act 1769}}、「{{仮リンク|時効も場所的限定も国王には適用なし|en|Nullum tempus occurrit regi}}」の原則の適用を限定する法)への反対を挙げた{{Sfn|Barker|1895|p=159}}。また1769年5月には[[タウンゼンド諸法]]における茶への課税の維持を支持、閣議で可決させた{{Sfn|Barker|1895|p=160}}。この決定は庶民院でも1770年3月5日に賛成204票・反対142票で可決されたが、[[英国人名事典]]ではこれにより[[アメリカ独立戦争|対米戦争]]が不可避になったとしている{{Sfn|Barker|1895|p=160}}。
=== 首相(1770年 - 1782年) ===
[[ファイル:The state tinkers.jpg|thumb|left|''国の修繕屋''(1780年)、ジェイムズ・ギルレイがノース(右下、跪いている)とその同盟者を国という鍋の無能な修繕屋として戯画化した。ジョージ3世は後方で大喜びして叫んでいる。]]


すこぶる不人気だった内閣が{{仮リンク|ジュニアス (作家)|en|Junius|label=ジュニアス}}からの攻撃などを受けて、1770年1月にグラフトン公爵が辞任すると、ノース卿は組閣の大命を受けて1770年3月に首相に就任、以降12年間首相を務めた{{Sfn|Barker|1895|p=160}}{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}。
==== 指名 ====

[[1770年]][[1月28日]]、グラフトン公が首相を辞任したことを受けて、ノースが[[首相]]となった。その閣僚や支持者達はトーリーと呼ばれるようになったが、これは正式な党派ではなく、多くの者は以前ホイッグ党に属していた。ノースは[[七年戦争]]の後で勝利国イギリスを引き継ぎ、[[イギリス帝国]]はその頂点に達しているように見えた。諸般の事情によりその前の閣僚の多くをそのまま就かせておくことを強いられたが、ノースの考えへの同意は得られていなかった<ref name="Rodger p.329">Rodger p.329</ref>。
=== 首相 ===
{{See also|{{仮リンク|ノース内閣|en|North ministry}}}}
ノース卿は首相に就任した時点では味方がほとんどおらず、主要党派であるチャタム伯爵派、ロッキンガム侯爵派、グレンヴィル派が全て野党に回っているという孤立した情勢だったが、チャタム伯爵派とロッキンガム侯爵派が連携をとれているとはいえず、グレンヴィル派は1770年11月にグレンヴィルが死去すると主導権が第12代[[サフォーク伯爵]][[ヘンリー・ハワード (第12代サフォーク伯爵)|ヘンリー・ハワード]]に移り、ノース卿に味方するようになった{{Sfn|Barker|1895|p=160}}。


==== フォークランド危機 ====
==== フォークランド危機 ====
{{Main|フォークランド危機 (1770年)}}
ノース政権は1770年の戦争寸前までいったフォークランド危機で、[[スペイン]]の[[フォークランド諸島]]占領の試みを屈服させ、初期の成功を掴んだ<ref name="Rodger p.329"/>。フランスもスペインも七年戦争でイギリスが勝利した後は、イギリスが支配していると受け取られることに不満なままだった。しかし、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]はフランスが戦争できる状態ではないと考え、イギリス艦隊の強力な機動性を前にして、スペインに妥協を強いた。ルイ15世はイギリス侵略を提唱していたタカ派の宰相である[[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール]]の解任までした。
1770年6月、スペイン艦隊が[[フォークランド諸島]]の{{仮リンク|ポート・エグモント|en|Port Egmont}}で{{仮リンク|ジョージ・ファーマー (海軍士官)|en|George Farmer (Royal Navy officer)|label=ジョージ・ファーマー}}率いるイギリス駐留軍を降伏させた<ref>{{Cite DNB|wstitle=Farmer, George|volume=18|pages=210–211|last=Laughton|first=John Knox|authorlink=ジョン・ノックス・ロートン}}</ref>。これにより[[フォークランド危機 (1770年)|フォークランド危機]]が勃発、スペインは[[フランス王国]]の[[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール|ショワズール公爵]]から助けを借りようとしたが、ショワズールが失脚したため失敗に終わり、最終的にはイギリスとの交渉でフォークランド諸島を返還、戦争を回避した<ref>{{Cite wikisource|title=Life of William, Earl of Shelburne|volume=1|page=418|wslink=Life of William, Earl of Shelburne/Volume 1/Chapter 12|last=Petty-Fitzmaurice|first=Edmond George|authorlink=エドマンド・フィッツモーリス (初代フィッツモーリス男爵)|date=1912|edition=2nd}}</ref>。


政府の権威と人気事件で大きく持ち上げられフランスとスペインの間にうまく楔を打ち込み、ギリス海軍誇示した。ただしこのことでノース卿にあるレベルの自己満足与えヨーロッパ列強はイギリス植民地の事情に干渉することはないとい誤った考えを植えつける事になったいう批評家がいた。2年前のコルシカ危機ではイギリスの同盟相手であるコルシカ共和国をフランスが併合するの妨げられなかった前政権とは対照的になった。ノースは新たに築かれた人気を使って、第4代[[サンドウィッチ伯爵]][[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|ジョン・モンタギュー]]を初代海軍大臣に指名する機会えた。
ノース卿1770年11月と1771年2月二度にわって庶民院で[[フランス王国]][[スペイン帝国|スペン王国]]と交渉擁護した一方{{Sfn|Barker|1895|p=160}}内閣改造断行して閣内不一致を解消かねてより任命しようとしていた第4代[[サンドウィッチ伯爵]][[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|ジョン・モンタギュー]]海軍大臣の座を与え、親友のダートマス伯爵は[[植民地大臣|アメリカ担当国務大臣]]の座えた{{Sfn|Thomas|2015}}


==== アメリカ独立戦争 ====
==== 内政 ====
1772年と1773年に提出された国教忌避者への寛容法案については庶民院での可決を阻止せず、法案否決による世論からの憎悪を貴族院に押し付けた{{Sfn|Barker|1895|p=160}}。また、アイルランドではパトロネージを振りかざして、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]が必要とする[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]における多数を確保した{{Sfn|Thomas|2015}}。
ノース政権の大半は先ずアメリカ植民地との大きくなっていく問題に、そして後には[[レキシントン・コンコードの戦い]]に続いて[[1775年]]に勃発した[[アメリカ独立戦争]]に集中した。ノースは[[ジョージ・ジャーメイン]]卿(旧姓サックヴィル)をアメリカ植民地担当国務大臣に任じて彼に戦争の全体戦略を練らせた{{sfn|今井宏編|1990|p=345}}。


1億4千万ポンドに膨れ上がった国債への対処として国営宝くじを活用して、1775年には議会に対し1千万ポンドの減債に成功したと報告したが、[[アメリカ独立戦争]]によりこの成果が無に帰し、以降1782年までに国債の金額が7,500万ポンドも増えてしまった{{Sfn|Thomas|2015}}。利子の負担も増えたため、新しい税金を徴収する必要が出てきたが、ノース卿は大蔵卿としての経験から特定の目的にあてがわれた税金では効率が悪いと感じ、1780年に公会計の調査委員会を設立した{{Sfn|Thomas|2015}}。この委員会が発見した問題はノース卿の首相在任期には解決できなかったが、後に[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]が改革を引き継いだ{{Sfn|Thomas|2015}}。
フランスなどの外国勢力が介入してくる恐れ、また財政悪化からイギリスは短期決戦を志向した。しかし[[1777年]]10月にサラトガで孤立していた[[ジョン・バーゴイン]]将軍が降伏したことで短期決戦論は破綻した{{sfn|今井宏編|1990|p=346-347}}。


==== アメリカ独立戦争 ====
12月にバーゴイン降伏の報が本国に伝わるとイギリス政界は大きな衝撃を受けた。また1778年2月になるとアメリカとフランスが同盟を結び、その噂がイギリスにも伝わった。危機感をもったノースと議会はアメリカとの和解を考えるようになり、1778年2月には和平団をアメリカに送ることが議会で可決された。その決議に基づいて同年6月に第5代[[カーライル伯爵]][[フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵)|フレデリック・ハワード]]を団長とする[[カーライル和平使節団]]がアメリカに到着し、本国の課税権を放棄するという内容の交渉を行ったが、フランスの味方を得たアメリカにとっては今更な内容であり、和平案は拒絶された。カーライル使節団は何の成果もないまま帰国してきた{{sfn|今井宏編|1990|p=347}}。
[[ファイル:The state tinkers.jpg|thumb|right|''国の修繕屋''({{lang|en|''The State Tinkers''}}、1780年)、ノース(右下、跪いている)とその同盟者を国という鍋の無能な修繕屋として戯画化した風刺画。ジョージ3世は後方で大喜びして叫んでいる。[[ジェームズ・ギルレイ]]画。]]
ノース政権の大半はアメリカ植民地との問題に集中した。1773年12月の[[ボストン茶会事件]]の後、ノース卿は1774年3月に{{仮リンク|ボストン港法|en|Boston Port Act}}と{{仮リンク|マサチューセッツ統治法|en|Massachusetts Government Act}}(両方とも[[耐え難き諸法]]に含まれる法律である)を提出して、両方とも大差で可決させた{{Sfn|Barker|1895|p=160}}{{Refnest|group=注釈|[[英国人名事典]]はこの時点でノース政権が安定してきたとしている{{Sfn|Barker|1895|p=160}}。}}。一方で1775年2月20日に「国王と議会の同意に基づき、植民地が自らに税金を課している場合、議会は植民地にさらなる課税を行うことができない」決議案を可決させたが、米州植民地への譲歩としては遅きに失しており、4月には[[レキシントン・コンコードの戦い]]で[[アメリカ独立戦争]]が勃発した{{Sfn|Barker|1895|p=160}}。ノースは[[ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)|ジョージ・ジャーメイン卿]](旧姓サックヴィル)を[[植民地大臣|アメリカ植民地担当国務大臣]]に任じて彼に戦争の全体戦略を練らせた{{Sfn|今井(編)|1990|p=345}}。


フランスなどの外国勢力が介入してくる恐れ、また財政悪化からイギリスは短期決戦を志向した。しかし1777年10月に[[サラトガの戦い]]で孤立していた[[ジョン・バーゴイン]]将軍が降伏したことで短期決戦論は破綻した{{Sfn|今井(編)|1990|pp=346–347}}。
[[1778年]]6月にはアメリカと同盟するフランスと戦争状態に突入した。フランス参戦により戦争は七年戦争の再来という意味も併せ持つようになり、戦闘は北アメリカ大陸から西インド諸島、西アフリカ、インドに拡大していった{{sfn|今井宏編|1990|p=348}}。しかし王立海軍の規模は軍縮で七年戦争の頃より縮小していたので各地で苦戦を強いられた。野党は海軍大臣サンドウィッチ伯爵の海軍力維持の怠りについて批判を強めた{{sfn|今井宏編|1990|p=349}}。同時期アメリカでは[[ヘンリー・クリントン]]将軍率いるイギリス軍が[[フィラデルフィア]]撤退を余儀なくされ、ジョージナ・サヴァンナを占領して支持が期待できる南部アメリカを主戦場に移した。南部では[[1780年]]に至るまでイギリス軍が優位を保ち続け、1780年8月にはコーンウォリス伯爵[[チャールズ・コーンウォリス]]率いる英軍が[[キャムデンの戦い]]に勝利している{{sfn|今井宏編|1990|p=349/353}}。


12月にバーゴイン降伏の報が本国に伝わるとイギリス政界は大きな衝撃を受けた。また1778年2月になるとアメリカとフランスが同盟を結び、その噂がイギリスにも伝わった。危機感をもったノースと議会はアメリカとの和解を考えるようになり、1778年2月には和平団をアメリカに送ることが議会で可決された。その決議に基づいて同年6月に第5代[[カーライル伯爵]][[フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵)|フレデリック・ハワード]]を団長とする[[カーライル和平使節団]]がアメリカに到着し、本国の課税権を放棄するという内容の交渉を行ったが、フランスの味方を得たアメリカにとっては今更な内容であり、和平案は拒絶された。カーライル使節団は何の成果もないまま帰国してきた{{Sfn|今井(編)|1990|p=347}}。
しかし国際的状況はイギリスにますます不利になっていた。[[1779年]]6月にはスペインがフランスの同盟国として参戦し、英領[[ジブラルタル]]に対する包囲攻撃を開始した{{sfn|今井宏編|1990|p=349}}。さらには[[1780年]]に[[マイソール王国]]や[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]が参入し、戦闘は南インドと南アフリカケープ植民地にも拡大{{sfn|今井宏編|1990|p=353}}。ロシアも「武装中立」を宣言し、中立とは名ばかりの反英的姿勢をとった。さらにロシアは同年中にデンマークやスウェーデンとともに[[武装中立同盟]]を結成し、後にはオーストリアやプロイセン、ポルトガルもこの同盟に加わった{{sfn|今井宏編|1990|p=349/353}}。こうしてイギリスは同盟国が一つも無いままに4大陸で地球規模の戦争をすることになった。


1778年6月にはアメリカと同盟するフランスと戦争状態に突入した。フランス参戦により戦争は七年戦争の再来という意味も併せ持つようになり、戦闘は北アメリカ大陸から西インド諸島、西アフリカ、インドに拡大していった{{Sfn|今井(編)|1990|p=348}}。しかし王立海軍の規模は軍縮で七年戦争の頃より縮小していたので各地で苦戦を強いられた。野党は海軍大臣サンドウィッチ伯爵の海軍力維持の怠りについて批判を強めた{{Sfn|今井(編)|1990|p=349}}。同時期アメリカでは[[ヘンリー・クリントン]]将軍率いるイギリス軍が[[フィラデルフィア]]撤退を余儀なくされ、ジョージナ・サヴァンナを占領して支持が期待できる南部アメリカに主戦場を移した。南部では1780年に至るまでイギリス軍が優位を保ち続け、1780年8月にはコーンウォリス伯爵[[チャールズ・コーンウォリス]]率いる英軍が[[キャムデンの戦い]]に勝利している{{Sfn|今井(編)|1990|pp=349, 353}}。
深刻な人員不足に直面したノース政権は、以前に[[カトリック教会|カトリック]]教徒が軍務に就くことを禁じた法律を撤廃する法案を可決した。このことで反カトリック感情を急激に高まらせ、ロンドンでの{{仮リンク|ゴードン暴動|en|Gordon Riots}}に繋がった。

しかし国際的状況はイギリスにますます不利になっていた。1779年6月にはスペインがフランスの同盟国として参戦し、英領[[ジブラルタル]]に対する包囲攻撃を開始した{{Sfn|今井(編)|1990|p=349}}。さらには1780年に[[マイソール王国]]や[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]が参入し([[第二次マイソール戦争]]、[[第四次英蘭戦争]])、戦闘は南インドと南アフリカケープ植民地にも拡大{{Sfn|今井(編)|1990|p=353}}。ロシアも「武装中立」を宣言し、中立とは名ばかりの反英的姿勢をとった。さらにロシアは同年中にデンマークやスウェーデンとともに[[武装中立同盟]]を結成し、後にはオーストリアや[[プロイセン王国]]、[[ポルトガル王国]]もこの同盟に加わった{{Sfn|今井(編)|1990|pp=349, 353}}。こうしてイギリスは同盟国が一つも無いままに4大陸で地球規模の戦争をすることになった。


==== 辞任 ====
==== 辞任 ====
国内議会においては1780年後期からノース内閣の立場は若干回復していた。アメリカ南部での戦局が比較的安定していたためだった{{sfn|今井編|1990|p=353}}。しかし[[1781年]]夏になると南部の戦況もイギリスの劣勢が目立ち始めた。コーンウォリス伯は[[ヨークタウン]]へ撤退したが、[[ニューヨーク]]から派遣されたイギリス艦隊はフランス艦隊に阻まれて現地に到着できず、ヨークタウンで孤立したコーンウォリス伯は[[1781年]][[10月19日]]に降伏した。これは独立戦争のイギリスの敗戦を決定づけた{{sfn|今井編|1990|p=353-354}}。
国内議会においては1780年後期からノース内閣の立場は若干回復していた。アメリカ南部での戦局が比較的安定していたためだった{{Sfn|今井()|1990|p=353}}。しかし1781年夏になると南部の戦況もイギリスの劣勢が目立ち始めた。コーンウォリス伯は[[ヨークタウン (バージニア州)|ヨークタウン]]へ撤退したが、[[ニューヨーク]]から派遣されたイギリス艦隊はフランス艦隊に阻まれて現地に到着できず、ヨークタウンで孤立したコーンウォリス伯は1781年10月19日に降伏した。これは独立戦争のイギリスの敗戦を決定づけた{{Sfn|今井()|1990|pp=353–354}}。


コーンウォリス伯降伏の報は1781年11月下旬にイギリス本国に伝わり、本国政界はすさまじい衝撃を受けた。これはノース内閣にとって致命的打撃となった。野党の批判が高まったのはもちろんのこと、政権内部も分裂し、まず1782年2月にジャーマインが辞職に追い込まれた。しかし野党の政府批判の機運はもはやこれだけでは収えられなかった。同年2月22日にはアメリカでの戦争終結を求める動議が提出された。同動議は234対215で否決されたが、同月27日には同じような内容の動議が再度提出されて今度は234対215で可決された。さらに[[3月8日]][[3月15日]]にはノース内閣不信任案が提出された。どちらも僅差で否決されているものの、もはや庶民院におけるノースの求心力は無くなったことは明白だった。ノースは3月20日をもって首相職を辞した{{sfn|今井編|1990|p=354}}。
コーンウォリス伯降伏の報は1781年11月下旬にイギリス本国に伝わり、本国政界はすさまじい衝撃を受けた。これはノース内閣にとって致命的打撃となった。野党の批判が高まったのはもちろんのこと、政権内部も分裂し、まず1782年2月にジャーマインが辞職に追い込まれた。しかし野党の政府批判の機運はもはやこれだけでは収えられなかった。同年2月22日にはアメリカでの戦争終結を求める動議が提出された。同動議は234対215で否決されたが、同月27日には同じような内容の動議が再度提出されて今度は234対215で可決された。さらに3月8日と3月15日にはノース内閣不信任案が提出された。どちらも僅差で否決されているものの、もはや庶民院におけるノースの求心力は無くなったことは明白だった。ノースは3月20日をもって首相職を辞した{{Sfn|今井()|1990|p=354}}。
ノース卿の辞職後、第二次ロッキンガム侯爵内閣が成立したが、同年7月にロッキンガム侯は死去。国王ジョージ3世の人選によってシェルバーン伯爵内閣が成立したが、フォックス派はそれに反発して下野した{{sfn|小松春雄|1983|p=290-293}}。皮肉な事に1782年はノース卿やサンドウィッチ伯が採用した政策が大きくものを言って海軍が勝利し、戦争はイギリスに再度傾きかけた。[[1783年]]にイギリスはノースが辞めさせられたときよりもかなり有利な休戦条件を設定する事ができた。


ノース卿の辞職後、第二次ロッキンガム侯爵内閣が成立したが、同年7月にロッキンガム侯は死去。国王ジョージ3世の人選によってシェルバーン伯爵内閣が成立したが、[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]派はそれに反発して下野した{{Sfn|小松|1983|p=290-293}}。
[[File:Frederick North, 2nd Earl of Guilford (1753).jpg|200px|thumb|right|ノースの肖像画(1753年)、油絵、ポンペオ・バトーニ画]]


=== フォックスノース連立政権(1783年) ===
=== フォックスノース連立内閣 ===
[[File:Charles James Fox00.jpg|thumb|right|[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]。[[ジョシュア・レノルズ]]画、1782年。]]
首相退任時ノースはいまだ49歳だったので政界からの引退は考えてはいなかった。庶民院内にはいまだ彼を支持する保守派議員が数多くいた。[[1782年]]秋の庶民院勢力図はシェルバーン伯爵派(政府派)140議席、ノース卿派120議席、フォックス=ポートランド派90議席、独立系・去就不明200議席となっていた{{sfn|小松春雄|1983|p=303}}。
{{See also|フォックス=ノース連立内閣}}
首相退任時ノースはいまだ49歳だったので政界からの引退は考えてはいなかった。庶民院内にはいまだ彼を支持する保守派議員が数多くいた。1782年秋の庶民院勢力図はシェルバーン伯爵派(政府派)140議席、ノース卿派120議席、フォックス=ポートランド派90議席、独立系・去就不明200議席となっていた{{Sfn|小松|1983|p=303}}。


ノースに再起の野望があることが判明すると政府もフォックス派も彼への接近を図た。ノースは選べる立場にあったが、1783年に入った頃には急進派のフォックスとの同盟に傾いていた。そして同年2月14日のノースとフォックスの会談によって両者の連合が確認された{{sfn|小松春雄|1983|p=304}}。正反対と見られていた両派の連携は世間を驚かせた。その背景は第一にはノースの権力欲、加えてノースがアメリカ独立戦争敗戦の失政の弾劾から逃れたがっていたことがある。世間向けの大義名分として政府の講和条約反対があったこともある{{sfn|小松春雄|1983|p=303}}。
ノースに再起の野望があることが判明するとシェルバーン派もフォックス派も彼への接近を図り、フォックス派では初代[[ラフバラ男爵]]{{仮リンク|アレクサンダー・ウェッダーバーン (初代ロスリン伯爵)|en|Alexander Wedderburn, 1st Earl of Rosslyn|label=アレクサンダー・ウェッダーバーン}}や{{仮リンク|ウィリアム・イーデン (初代オークランド男爵)|en|William Eden, 1st Baron Auckland|label=ウィリアム・イーデン}}(後の初代[[オークランド男爵]])が、シェルバーン派では{{仮リンク|ジョン・ロビンソン (ハリッジ選挙区の庶民院議員)|en|John Robinson (Harwich MP)|label=ジョン・ロビンソン}}や{{仮リンク|チャールズ・ジェンキンソン (初代リヴァプール伯爵)|en|Charles Jenkinson, 1st Earl of Liverpool|label=チャールズ・ジェンキンソン}}(後の初代[[リヴァプール伯爵]])がノースを味方に引き入れようとし{{Sfn|Brooke|1964}}。ノースは選べる立場にあり、1782年中には(ロビンソンによれば)ノース卿の「躊躇、疑惑、優柔不断勝ち」({{lang|en|Hesitation, doubt, indecision prevails}})1782年12月にフォックスがアメリカの独立承認動議を提出したときは動議に反対した{{Sfn|Brooke|1964}}。1783年に入った頃には妻や長男が支持したこともあって急進派のフォックスとの同盟に傾いていた{{Sfn|Brooke|1964}}。そして同年2月14日のノースとフォックスの会談によって両者の連合が確認された{{Sfn|小松|1983|p=304}}。正反対と見られていた両派の連携は世間を驚かせた。その背景は第一にはノースの権力欲、加えてノースがアメリカ独立戦争敗戦の失政の弾劾から逃れたがっていたことがある。世間向けの大義名分として政府の講和条約反対があったこともある{{Sfn|小松|1983|p=303}}。


この両派の連携で1783年2月19日と21日の議会でシェルバーン伯爵内閣の講和条約案非難決議が可決され、シェルバーン伯内閣は総辞職に追い込まれた{{sfn|小松春雄|1983|p=305}}。これにより国王ジョージ3世は、しぶしぶ第3代[[ポートランド伯爵|ポートランド公爵]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]を名目上の首相とするフォックス=ノース連合に組閣の大命を与えた{{sfn|小松春雄|1983|p=306}}。ノース卿は同内閣に内務大臣として入閣した。しかしジョージ3世は急進的で[[共和主義者]]のフォックスを忌み嫌い、こことを裏切りとして許さなかった。この内閣が倒たその年の12月でノース終わった。この連立内閣の大きな成果の一つアメリカ独立戦争終わらせる[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]に署名したことだった
この両派の連携で1783年2月19日と21日の議会でシェルバーン伯爵内閣の講和条約案非難決議が可決され、シェルバーン伯内閣は総辞職に追い込まれた{{Sfn|小松|1983|p=305}}。国王ジョージ3世は[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]に組閣を拒否されると{{Sfn|Brooke|1964}}、しぶしぶ第3代[[ポートランド伯爵|ポートランド公爵]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]を名目上の首相とするフォックス=ノース連合に組閣の大命を与えた{{Sfn|小松|1983|p=306}}。ノース卿は同内閣に内務大臣として入閣した<ref name="Cokayne" />。しかし、歴史学者{{仮リンク|ジョン・ブルック (イギリスの歴史学者)|en|John Brooke (British historian)|label=ジョン・ブルック}}によば、ノース卿自身は入なく貴族院移籍を望み、連立内閣は実質的にはフォックス指導者とした{{Sfn|Brooke|1964}}


連立内閣の政策のうち、重要と言えるのはフォックスの東インド法案だけであり、庶民院では大差で可決されたが、貴族院では第3代[[テンプル伯爵]][[ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵)|ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル]]の脅し{{Refnest|group=注釈|テンプル伯爵はジョージ3世の許可を受けて、「東インド法案に賛成票を投じた人は国王の友ではないばかりか、国王により敵として扱われる」({{lang|en|whoever voted for the India Bill was not only not his friend, but would be considered by him as an enemy}})と発言した<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Buckingham, Earls, Marquesses and Dukes of|volume=4|pages=721–722|ref={{SfnRef|Chisholm|1911b}}}}</ref>。}}により1783年12月17日に賛成76票・反対95票で否決され、ジョージ3世は翌日に連立内閣を罷免した{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。ノース卿は病気のため東インド法案の審議には関与していなかったが、そのとばっちりを受けて[[1784年イギリス総選挙]]でノース卿派のほとんどが議席を失い、かろうじて残留した者もフォックス派に吸収された{{Sfn|Brooke|1964}}。[[英国人名事典]]によれば、ノース卿派の庶民院議員は1788年までに17人に減ったという{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。
新しく首相になった[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)は長持ちするとは考えられず、ノースは声に出してピットを批判し、再度首相に復帰できる望みを抱いていた。しかしピットはその後20年間も政界に君臨し続け、ノースとフォックスは野党のままだったので、憤懣が募ることになった。

連立内閣は人事任命では成功しており、1783年9月にフォックスから第4代[[マンチェスター公爵]][[ジョージ・モンタギュー (第4代マンチェスター公爵)|ジョージ・モンタギュー]]に宛てた手紙によれば閣内不一致は全くなかったという{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。しかし世論ではすこぶる不人気であり、ノース卿の[[指名選挙区]]だったバンベリーですら1784年2月に請願を出して、国王ジョージ3世に連立内閣の罷免について感謝を述べた<ref>{{London Gazette|issue=12521|page=2|date=21 February 1784}}</ref>。


=== 晩年 ===
=== 晩年 ===
再度の下野から死去まで野党の一員として[[小ピット内閣]]を批判したほか、1785年5月に[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]の合同を強く支持、1787年3月に[[ウォーレン・ヘースティングズ]]の{{仮リンク|ウォーレン・ヘースティングズの弾劾|en|Impeachment of Warren Hastings|label=弾劾}}を支持、同1787年と1789年に[[審査法]]廃止に反対した{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。[[1790年イギリス総選挙]]で再選を果たしたが、その時点ではすでに過去の人物とされた{{Sfn|Thorne|1986}}。
ノースは失明した[[1790年]]に下院を去り、その後直ぐに父のギルフォード伯爵を継承し、晩年を[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]で過ごした。ロンドンで[[1792年]]に亡くなり、彼のロクストン修道院の家に近いオクスフォードシャー州ロクストンのオールセイント教会に埋葬された。息子のジョージ・ノースがバンベリーの選挙区を継承し、1792年には父の爵位も継いだ。


1787年初より視力が悪化しており{{Sfn|Barker|1895|p=162}}、1788年から1789年にかけての摂政法案({{lang|en|Regency Bill}})をめぐる弁論ではすでに[[全盲]]になっていたにもかかわらず議論に参加した{{Sfn|Brooke|1964}}。1790年8月4日に父が死去すると[[ギルフォード伯爵]]位を継承、同年11月25日に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に初登院した<ref name="Cokayne" />。ギルフォード伯爵としての初演説は1791年4月1日に行われ、内容は小ピットの対ロシア政策を批判するものだった{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。この初演説を含み、ギルフォード伯爵は死去まで貴族院で4度演説した{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。
皮肉なことに、ノースの家ロクストン修道院は現在、アメリカのフェアリー・ディキンソン大学所有になり、改修された修道院はアメリカから来る留学生が勉強する場所となっている。

1792年8月5日に{{仮リンク|グロヴナー・スクエア (ロンドン)|en|Grosvenor Square|label=グロヴナー・スクエア}}の自宅で死去{{Sfn|Barker|1895|p=162}}、16日に[[オックスフォードシャー]]の{{仮リンク|ロクストン (イギリス)|en|Wroxton|label=ロクストン}}で埋葬された<ref name="Cokayne" />。長男[[ジョージ・ノース (第3代ギルフォード伯爵)|ジョージ・オーガスタス]]が爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。死の床で家族に対し、「政治生涯に関して、自身がしたことには多くの誤りがあったが、どの行動においても悔いがなかったことに満足している」と述べた{{Sfn|Thorne|1986}}。

== 評価・人物 ==
後世から「アメリカを失った首相」と認知されており、それを題名とする書籍が複数出版された<ref>{{Cite book2|language=en|title=Lord North: The Prime Minister who lost America|last=Whiteley|first=Peter|date=1996|isbn=1-85285-145-7|publisher=Hambledon Press}}<!--題名を引用しているのでページ番号は不要--></ref><ref>{{Cite book2|language=en|title=The Men who Lost America: British Leadership, the American Revolution, and the Fate of the Empire|last=O'Shaughnessy|first=Andrew Jackson|date=2013|publisher=Yale University Press|isbn=9780300191073}}<!--題名を引用しているのでページ番号は不要--></ref>。この失敗により「ノース卿以降で最悪の首相」({{lang|en|The worst prime minister since Lord North}})が首相批判の文句として頻繁に使用されるほどだった{{Sfn|Thomas|2015}}。

[[オックスフォード英国人名事典]]によると、伝統的な[[ホイッグ史観]]ではノース卿が飾りの首相でジョージ3世による王権回復を許してしまったように描かれたが、現代の歴史学では[[ロバート・ウォルポール]]や[[ヘンリー・ペラム]]のように、政府の長として庶民院で答弁を行う、財政に精通している人物として評価されるようになり、アメリカ関連以外では概ね成功を収めたとされる{{Sfn|Thomas|2015}}。

[[エドワード・ギボン]]は『[[ローマ帝国衰亡史]]』第4巻(1788年出版)の序文でノース内閣を「長く、嵐の渦中にある不運な政権」({{lang|en|long, stormy, and at length unfortunate administration}})と評した一方、ノース自身への評価としては「政敵が多かった」ものの「個人的な仇敵は皆無」({{lang|en|almost without a personal enemy}})と述べた<ref name="Cokayne" /><ref>{{Cite book2|language=en|last=Gibbon|first=Edward|author-link=エドワード・ギボン|date=1788|title=The History of the Decline and Fall of the Roman Empire|chapter=Preface To The Fourth Volume Of The Original Quarto Edition|volume=IV|publisher=Strahan & Cadell|chapter-url=https://www.gutenberg.org/files/25717/25717-h/25717-h.htm#Alink2H_PREF4}}</ref>。[[エドマンド・バーク]]はノース卿を「多才」「ウィットに富む」「人を喜ばせる気性」({{lang|en|delightful temper}})と賞賛しつつ、「時世が必要とした指導力と警戒心に欠く」({{lang|en|he wanted something of the vigilance and spirit of command which the times required}})とも評した{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}。この性格は[[パトロネージ]]を求める人への返答にも現れ、1772年2月25日付の『{{仮リンク|ロンドン夕刊|en|London Evening Post}}』({{lang|en|''London Evening Post''}})では「要求された引き立てに応えられない場合でも、せめて上機嫌にして帰らせようとすることは首相にとってのエチケットである。これは廷臣の間では良く知られていることだが、彼は田舎出のジェントルマンに対してはきちんと『ただ頷いただけ、手を握っただけで確実な約束を交わさなかった場合は常にいいえを意味する』と説明して、笑いを誘った」と報じられた{{Sfn|Thomas|2015}}。また、1770年の議会弁論で[[ジョージ・グレンヴィル]]が国家予算について演説しているとき、ノース卿は居眠りしてしまったが、グレンヴィルがちょうど「1689年」という言葉を喋っていたときに目が覚ましたため、「起こすのが100年近く早すぎた」と抗議して、議場を笑いで満たしたという{{Sfn|Thomas|2015}}。

家族との関係が良く、ノース卿の視力が悪化していた1787年10月に[[ホレス・ウォルポール]]がノース卿一家を訪れたとき、「ノース卿は往年と同じぐらいに元気であり、(中略)レディ・ノースと子供たちの絶え間ない気配りは感動的だった。(中略)視力の喪失が補償できるものであれば、それはこれほど愛情の深い家族をもって行われるものだろう。」と述べた{{Sfn|Barker|1895|p=162}}。

息子たちが閑職を与えられ、異母弟{{仮リンク|ブラウンロー・ノース|en|Brownlow North|label=ブラウンロー}}が{{仮リンク|ウィンチェスター主教|en|Bishop of Winchester}}に任命されるなど、多くの褒賞を与えられたが{{Sfn|Chisholm|1911|p=691}}、1777年時点の領地からの年収は2,500ポンド程度であり、当時としては大地主というわけではなかった{{Sfn|Barker|1895|p=163}}。そのため、1777年9月にジョージ3世から借金返済に充てるための2万ポンドを与えられ、1778年6月には{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}(ノース卿は五港長官の官職で毎年最大1,000ポンドの収入を得ていた)に任命された{{Sfn|Barker|1895|p=163}}。


== 栄典 ==
== 栄典 ==
=== 爵位 ===
=== 爵位 ===
[[1790年]][[8月4日]]の父[[フランシス・ノース (初代ギルフォード伯爵)|フランシス・ノース]]の死去により以下の爵位を継承した<ref name="CP EG">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/guilford1752.htm|title=Guilford, Earl of (GB, 1752)|accessdate= 2016-8-7 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p2379.htm#i23789|title=Frederick North, 2nd Earl of Guilford|accessdate= 2016-8-7 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>
[[1790年]][[8月4日]]の父[[フランシス・ノース (初代ギルフォード伯爵)|フランシス・ノース]]の死去により以下の爵位を継承した<ref name="Cracroft">{{Cite web2 |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/guilford1752.htm|title=Guilford, Earl of (GB, 1752)|accessdate=18 July 2020|last= Heraldic Media Limited |work= Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage |language= en }}</ref>
* '''第2代[[ギルフォード伯爵]]''' <small>(2nd Earl of Guilford)</small>
* '''第2代[[ギルフォード伯爵]]''' <small>(2nd Earl of Guilford)</small>
*: ([[1752年]][[4月8日]]の[[勅許状]]による[[グレートブリテン貴族]]爵位)
*: ([[1752年]][[4月8日]]の[[勅許状]]による[[グレートブリテン貴族]]爵位)
* '''カートリングの第8代[[ノース男爵]]''' <small>(8th Lord North of Kirtling)</small>
* '''カートリングの第8代[[ノース男爵]]''' <small>(8th Lord North of Kirtling)</small>
*: ([[1554年]][[1月17日]]の[[議会召集令状]]による[[イングランド貴族]]爵位)<ref>{{Cite EB1911|title=North, Barons |volume=19 |page=758 |url=https://archive.org/stream/encyclopaediabri19chisrich#page/758/mode/1up}}</ref><ref>{{cite encyclopedia |editor-last= Cokayne |editor-first= George Edward |editor-link= :en:George Edward Cokayne |encyclopedia= [[:en:The Complete Peerage|The Complete Peerage]] |title= NORTH DE KIRTLING. |url= https://archive.org/stream/completepeerage06cokahrish/TN-313027_6#page/n67/mode/2up |accessdate= 2016-9-4 |edition= 1st |year= 1895 |publisher= [[:en:George Bell & Sons|George Bell & Sons]] |volume= 6 |location= [[ロンドン|London]] |page= 66 }}</ref>
*: ([[1554年]][[1月17日]]の[[議会召集令状]]による[[イングランド貴族]]爵位)<ref>{{Cite EB1911|wstitle=North, Barons|volume=19|page=758|ref={{SfnRef|Chisholm|1911c}}}}</ref><ref>{{Cite encyclopedia2|language=en|editor-last= Cokayne|editor-first=George Edward |editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|encyclopedia=The Complete Peerage|title= NORTH DE KIRTLING.|url=https://archive.org/details/completepeerage06cokahrish/page/n67|edition=1st|date=1895|publisher=George Bell & Sons|volume=6|location=[[ロンドン|London]]|page=66}}</ref>
* サリー州におけるギルフォードの'''第4代ギルフォード男爵''' <small>(4th Baron Guilford, of Guilford in the County of Surrey)</small>
* サリー州におけるギルフォードの'''第4代ギルフォード男爵''' <small>(4th Baron Guilford, of Guilford in the County of Surrey)</small>
*: ([[1683年]][[9月27日]]の勅許状によるイングランド貴族爵位)
*: ([[1683年]][[9月27日]]の勅許状によるイングランド貴族爵位)


=== 勲章 ===
=== 勲章 ===
* [[1772年]]、[[ガーター勲章|ガーター騎士団(勲章)]]ナイト (KG)<ref name="CP EG"/><ref name="thepeerage"/>
*1772年6月18日、[[ガーター勲章|ガーター騎士団(勲章)]]ナイト (KG)<ref name="Cokayne" />


=== 名誉職等 ===
=== 名誉職等 ===
* [[1766年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC) <ref name="thepeerage"/>
*1766年12月10日、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)<ref name="Gazette10684">{{London Gazette|issue=10684|page=1|date=9 December 1766}}</ref>
*1771年 – 1792年、{{仮リンク|孤児養育院|en|Foundling Hospital}}院長<ref name="LondonEncy">{{Cite encyclopedia2|language=en|encyclopedia=The London Encyclopedia|edition=3rd|title=Guilford Street|page=364|editor-last=Weinreb|editor-first=Ben|editor2-last=Hibbert|editor2-first=Christopher|editor3-last=Keay|editor3-first=Julia|editor4-last=Keay|editor4-first=John|location=London|publisher=Macmillan|date=2008|isbn=978-1-4050-4925-2|url=https://books.google.com/books?id=xa0D0PqiwfEC&pg=PA364}}</ref>
* [[1776年]]、[[ロンドン考古協会]]フェロー (FSA)<ref name="thepeerage"/>
*1774年3月15日 – 1792年、{{仮リンク|サマセット統監|en|Lord Lieutenant of Somerset}}<ref name="Cokayne" />{{Sfn|Barker|1895|p=163}}<ref name="Cracroft" />
*1776年2月29日、[[ロンドン考古協会]]フェロー (FSA)<ref name="SA">{{Cite book2|language=en|title=A List of the Members of the Society of Antiquaries of London, from Their Revival in 1717, to June 19, 1796|date=1798|publisher=John Nichols|location=London|page=29|url=https://books.google.com/books?id=ZppbAAAAQAAJ&pg=PA29}}</ref>
*1778年6月16日 – 1792年、{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}<ref name="Cokayne" />{{Sfn|Barker|1895|p=162}}


== 遺産 ==
=== その他 ===
1790年代に建設された[[ブルームスベリー]]の{{仮リンク|ギルフォード・ストリート|en|Guilford Street}}は{{仮リンク|孤児養育院|en|Foundling Hospital}}院長だったノース卿を記念して名付けられた<ref name="LondonEncy" />。
ノース卿は今日「アメリカを失った」首相として記憶されている。


[[ロンドン]]の{{仮リンク|ロード・ノース・ストリート|en|Lord North Street}}は{{仮リンク|ブレンダン・ブラッケン (初代ブラッケン子爵)|en|Brendan Bracken|label=ブレンダン・ブラッケン}}の主導で20世紀にノース卿に因んで名付けられている<ref>{{Cite news2|language=en|last=Cathcart|first=Brian|title=Rear Window: From Westminster slum to Politician Row: Lord North Street|date=23 January 1994|work=The Independent|url=https://www.independent.co.uk/voices/rear-window-from-westminster-slum-to-politician-row-lord-north-street-1408862.html|access-date=18 July 2020}}</ref>。
[[ノースカロライナ州]][[ギルフォード郡 (ノースカロライナ州)|ギルフォード郡]]はノース卿の父に因んで名付けられた。ギルフォード郡は1771年に創設され、今日郡内には[[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]や[[ハイポイント (ノースカロライナ州)|ハイポイント]]の都市があり、ノースカロライナ州で3番目に人口の多い郡となっている。

[[エディンバラ城]]に展示されている18世紀のドアにはアメリカ独立戦争の間に捕まえられた囚人によって彫られた「ノード卿」と記された処刑台が見られる。


== 結婚と家族 ==
== 結婚と家族 ==
[[File:Anne, wife of Frederick North, 2nd Earl of Guildford, after Joshua Reynolds.jpg|thumb|right|ノース卿の妻アン]]
ノースは1756年にアン・スピーク(1741年-1797年)と結婚した。夫妻には次の6人の子供が生まれた。
1756年5月20日、アン・スピーク({{lang|en|Anne Speke}}、1797年1月17日没、庶民院議員{{仮リンク|ジョージ・スピーク (1753年没)|en|George Speke (died 1753)|label=ジョージ・スピーク}}の娘)と結婚<ref name="Cokayne" />、4男3女をもうけた{{Sfn|Brooke|1964}}。
* 第3代ギルフォード伯'''[[ジョージ・ノース (第3代ギルフォード伯爵)|ジョージ・オーガスタス・ノース]]'''(1757年9月11日-1802年4月20日)、先ず1785年9月30日に第3代バッキンガムシャー伯の娘マリア・フランシス・メアリー・ホバート=ハンプデン(1794年4月23日に死去)と結婚し、子供ができた。次に1796年2月28日にスーザン・クーツ(1837年9月24日死去)と再婚した。
*[[ジョージ・ノース (第3代ギルフォード伯爵)|ジョージ・オーガスタス]](1757年9月11日 – 1802年4月20日) - 第3代ギルフォード伯爵。1785年9月24日にマリア・フランシス・メアリー・ホバート({{lang|en|Maria Frances Mary Hobart}}、1794年4月23日没、第3代[[バッキンガムシャー伯爵]][[ジョージ・ホバート (第3代バッキンガムシャー伯爵)|ジョージ・ホバート]]の娘)と結婚、1女をもうけた。1796年2月28日にスーザン・クーツ({{lang|en|Susan Coutts}}、1837年9月24日没、銀行家トマス・クーツの娘)と再婚、2女をもうけた<ref name="Cracroft" />
* '''キャサリン・アンナ・ノース'''(1760年-1817年)
*キャサリン・アンナ(1760年2月16日 – 1817年2月6日) - 1789年9月25日、初代[[グレンバーヴィー男爵]]{{仮リンク|シルヴェスター・ダグラス (初代グレンバーヴィー男爵)|en|Sylvester Douglas, 1st Baron Glenbervie|label=シルヴェスター・ダグラス}}と結婚、子供あり<ref name="Cracroft" />
* 第4代ギルフォード伯'''[[フランシス・ノース (第4代ギルフォード伯爵)|フランシス・ノース]]'''(1761年-1817年)
* '''レディ・ャーロット・ノース・リンゼ'''(?-184910月25日)、1800425カレス伯の息子ジョン・リンゼ中佐(1762315-182636日)と結婚した。
*[[フラン・ノース (第4代ギルフォド伯爵)|フランシス]](176112月25日 – 1817111) - 4フォド伯爵。1810719、マリア・ボイコット({{lang|en|Maria BOycott}}、18211230没、トマス・ボイコットの娘)と結婚<ref name="Cracroft" />
*アン(1764年1月8日 – 1832年1月18日) - 1798年1月20日、初代[[シェフィールド伯爵]]{{仮リンク|ジョン・ベイカー・ホルロイド (初代シェフィールド伯爵)|en|John Baker Holroyd, 1st Earl of Sheffield|label=ジョン・ベイカー・ホルロイド}}と結婚、子供あり<ref name="Cracroft" />
* 第5代ギルフォード伯'''[[フレデリック・ノース (第5代ギルフォード伯爵)|フレデリック・ノース]]'''(1766年-1827年)
*[[フレデリック・ノース (第5代ギルフォード伯爵)|フレデリック]](1766年2月7日 – 1827年10月14日) - 第5代ギルフォード伯爵。生涯未婚<ref name="Cracroft" />
* '''レディ・アン・ノース・ベイカー=ホルロイド'''(1783年以前-1832年1月18日)、1798年1月20日に初代シェフィールド伯ジョン・ベイカー=ホルロイドと結婚し、2人の子供が生まれた。
*シャーロット(1849年10月25日没) - 1800年4月2日、ジョン・リンジー({{lang|en|John Lindsay}}、1762年3月15日 – 1826年3月6日、第5代[[バルカレス伯爵]][[ジェームズ・リンジー (第5代バルカレス伯爵)|ジェームズ・リンジー]]の息子)と結婚<ref name="Cracroft" />

*ダドリー({{lang|en|Dudley}}、1777年5月31日 – 1779年6月18日){{Sfn|Barker|1895|p=163}}
== 生誕から死までの称号 ==
* フレデリック・ノース閣下(1732年-1752年)
* ノース卿(1752年-1754年)
* ノース卿、下院議員(1754年-1766年)
* ライト・アナラブル、ノース卿、下院議員(1766年-1772年)
* ライト・アナラブル、ノース卿、ナイト、下院議員(1772年-1790年)
* ライト・アナラブル、ノース卿、ナイト、(1790年)
* ライト・アナラブル、ギルフォード伯、ナイト、枢密院(1790年-1792年)


== 語録 ==
== 注釈 ==
{{Reflist|group=注釈}}
「なんてことだ! 全ては終わりだ」 - ヨークタウン降伏の報せを聞いたとき


== 登場作品 ==
== 出典 ==
{{Reflist|25em}}
* 『エッセイ集ホグワーツ権力と政治と悪戯好きのポルターガイスト』 - [[J・K・ローリング]]著。[[ハリー・ポッターシリーズ]]の一篇。作中設定ではジョージ3世の病気治療のために魔法使いに相談した。失脚の原因は史実と異なり魔法使いの実在を信じたこととされている。

== 脚注 ==
{{reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編|date=1990年(平成2年)|title=イギリス史〈2〉近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460201|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|editor=[[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編|date=1990年|title=イギリス史〈2〉近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460201|ref={{SfnRef|今井(編)|1990}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[小松春雄]]|date=1983年(昭和58年)|title=イギリス政党史研究 エドマンド・バークの政党論を中心に|publisher=[[中央大学出版部]]|asin=B000J7DG3M|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小松春雄|authorlink=小松春雄|date=1983年|title=イギリス政党史研究 エドマンド・バークの政党論を中心に|publisher=[[中央大学出版部]]|asin=B000J7DG3M|ref={{SfnRef|小松|1983}}}}
*{{Cite DNB|wstitle=North, Frederick (1732-1792)|volume=41|pages=159–164|last=Barker|first=George Fisher Russell}}
* Butterfield, Herbert. ''George III, Lord North, and the People, 1779-80'' (1949)
*{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/north-frederick-1732-92|title=NORTH, Frederick, Lord North (1732-92).|last=Brooke|first=John|access-date=18 July 2020}}
* Charles Daniel Smith. ''The Early Career of Lord North, the Prime Minister,'' (1979)
*{{Cite EB1911|wstitle=Guilford, Barons and Earls of|volume=12|page=691}}
* Rodger, N.A.M. ''Command of the Ocean: A Naval History of Britain 1649-1815,'' (2007)
*{{Cite ODNB|id=20304|title=North, Frederick, second earl of Guilford [known as Lord North]|last=Thomas|first=Peter D. G.|authorlink=P・D・G・トマス|date=8 January 2015|origyear=2004}}
* Valentine, Alan. ''Lord North'' (1967, 2 vol.), the standard biography
*{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/north-frederick-1732-92|title=NORTH, Frederick, Lord North (1732-92), of Bushey Park, Mdx. and Wroxton Abbey, nr. Banbury, Oxon.|last=Thorne|first=R. G.|access-date=18 July 2020}}
* Whiteley, Peter. ''Lord North: The Prime Minister who lost America,'' (1996)
* Lord North, ''The Correspondence of King George the Third with Lord North from 1768 to 1783'' ed by George, William Bodham Donne, ed. (1867) [http://books.google.com/books?vid=OCLC01148706&id=d2oBAAAAQAAJ&dq=%22Lord+North%22 online edition]

== 外部リンク ==
* [https://archive.is/20080908204515/www.number10.gov.uk/history-and-tour/prime-ministers-in-history/lord-north More about Lord North] on the Downing Street website.

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2020年7月26日 (日) 12:07時点における版

第2代ギルフォード伯爵
フレデリック・ノース
Frederick North
2nd Earl of Guilford
ナサニエル・ダンスによる肖像画、1773年/1774年。
生年月日 1732年4月13日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国イングランドロンドンメイフェア
没年月日 (1792-08-05) 1792年8月5日(60歳没)
死没地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国、ロンドン、グロヴナー・スクエア英語版
出身校 オックスフォード大学トリニティ・カレッジ
所属政党 トーリー党
称号 第2代ギルフォード伯爵、第4代ギルフォード男爵、ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官ロンドン考古協会フェロー
配偶者 アン・スピーク
親族 初代ギルフォード伯爵(父)、3代ギルフォード伯爵(長男)、5代ギルフォード伯爵(三男)
サイン

グレートブリテン王国の旗 第12代首相
在任期間 1770年1月28日 - 1782年3月22日
国王 ジョージ3世

内閣 グラフトン公爵内閣、ノース卿内閣
在任期間 1767年9月11日 - 1782年3月27日

内閣 フォックス=ノース連立内閣
在任期間 1783年4月2日 - 1783年12月19日

選挙区 バンベリー選挙区英語版
在任期間 1754年 - 1790年

グレートブリテン王国の旗 貴族院議員
在任期間 1790年 - 1792年
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第2代ギルフォード伯爵フレデリック・ノース英語: Frederick North, 2nd Earl of Guilford, KG PC FSA1732年4月13日 - 1792年8月5日)は、イギリスの政治家、貴族。

1754年にトーリー党庶民院議員に初当選して政界入り。財務大臣内務大臣など多くの閣僚を経験した後、1770年から1782年まで首相を務めたが[1]、在任期間の後半はアメリカ独立戦争への対応に追われた。同戦争の戦況が悪化すると議会での支持を失い、辞職に追い込まれた。

父がギルフォード伯爵位に叙せられた1752年から自身が爵位を継承する1790年までギルフォード伯爵家の法定推定相続人としてノース卿Lord North)の儀礼称号で称された[2]。首相在任時はこの儀礼称号で称されていた[2]

生涯

生い立ち

初代ギルフォード伯爵フランシス・ノースと1人目の妻ルーシー・モンタギュー(Lucy Montagu、1709年頃 – 1734年5月7日、初代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギューの娘)の息子として、1732年4月13日にメイフェアアルベマール・ストリート英語版で生まれ[3]ロンドンで洗礼を受けた[2]。洗礼式では王太子フレデリック・ルイスが名親を務めた[3]。1742年から1748年まで[4]イートン・カレッジで教育を受けた後[5]、1749年10月12日にオックスフォード大学トリニティ・カレッジに入学、1750年3月21日にM.A.の学位を授与された[6]。卒業後は親族にあたる第2代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグ[4][注釈 1]とともにグランドツアーに出て、1751年から1754年まで大陸ヨーロッパを旅した[3][7]

青年期はジョージ王子にそっくりで、ジョージ王子の父フレデリック・ルイス王太子(1751年没)が初代ギルフォード伯爵に「私たちの妻のうち誰かが裏切ったに違いない」と述べたという[8]

1769年にケンブリッジ大学からLL.D.の名誉学位を授与され[5]、1772年にオックスフォード大学総長英語版に選出されると、1772年10月10日にオックスフォード大学からD.C.L.英語版の名誉学位を授与された[6]

政界入り

ノース卿の肖像画。ポンペオ・バトーニ画、1753年。

1754年イギリス総選挙でわずか22歳にして父が家令英語版High Steward of Banbury)を務めるバンベリー選挙区英語版から出馬して庶民院議員に当選した[7][注釈 2]

議員就任時点で母方の叔父にあたる第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンクが初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズ内閣で第一商務卿を、親友ダートマス伯爵の叔父ヘンリー・ビルソン=レッグ財務大臣を務めているなど人脈が広く、1757年12月1日の処女演説も成功を収めたため[3]、翌1758年には大ピット(後の初代チャタム伯爵)から外国派遣の官職への就任を打診された[4]。このときは本国に留まりたいことを理由に辞退したが[4]、1759年にニューカッスル公爵により下級大蔵卿(Lord of the Treasury)に任命され、続くビュート伯爵内閣ジョージ・グレンヴィル内閣でも留任した[7]。歴史学者ジョン・ブルックによれば、この時点のノース卿には党派性が薄く、また大蔵卿委員会に6年間在任したにもかかわらずあまり有名にならなかったことから、1765年にグレンヴィル内閣が崩壊した時点ではノース卿が5年後には首相に就任すると予想した人は少なかったという[4]。また、歴史学者P・D・G・トマス英語版によれば、議会戦術が上手なノース卿が大蔵卿委員会で財務に関する知識を積み上げたことで、後年に成功を収めることができたという[3]

ノース卿はジョージ・グレンヴィルの辞任とともに下級大蔵卿を退任、印紙法廃止にも反対票を投じたが、野党の一員としてグレンヴィルと連携せず、またグレンヴィルの後任である第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースからの官職就任の打診にも辞退した[4]。しかし、議会でロッキンガム侯爵の対米融和政策を批判する[3]など庶民院で弁論の才華を示したこともあり[7]、1766年7月に第一大蔵卿の第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイにより[7]陸軍支払長官英語版の1人に任命され[2]、同年12月10日には枢密顧問官に任命された[11]

グラフトン公爵内閣の閣僚

1767年3月に財務大臣就任をチャタム伯爵とグラフトン公爵から打診されて辞退したが[4]、1767年12月に財務大臣チャールズ・タウンゼンドが死去するとその後任に任命された[7]。さらに1768年1月にベッドフォード派英語版の入閣によりヘンリー・シーモア・コンウェイ庶民院院内総務の座を退くと、ノース卿がその後任となった[4]。歴史学者P・D・G・トマス英語版によると、タウンゼンドとジョージ・グレンヴィルはこの頃までにノースの首相就任を予想したという[3]

ジョン・ウィルクスの庶民院議員当選をめぐり、国王ジョージ3世と庶民院多数派の支持を受けて1769年2月17日にウィルクスの議会追放を、同年4月15日に対立候補ヘンリー・ラットレル英語版の当選を可決させた[12]。この論争においてはウィルクスの当選無効と補欠選挙での当選が繰り返されたが、採決の度に与党側の得票数が減っていたことにノース卿が落胆して、一時辞任を考えるほどになった[3]。ジョージ3世はノース卿を称えて彼を慰留したが、この「ノース卿が辞任を求め、ジョージ3世が慰留する」というシーンは以降何度も繰り返されたという[3]

1769年3月にノース卿が自身の政治経歴を回顧したとき、人気取りの政策に支持したことはなかったと主張し、その例として1763年サイダー税法案英語版1765年印紙法への支持、ウィルクスと1769年ヌルム・テンプス法(Nullum Tempus Act 1769、「時効も場所的限定も国王には適用なし英語版」の原則の適用を限定する法)への反対を挙げた[12]。また1769年5月にはタウンゼンド諸法における茶への課税の維持を支持、閣議で可決させた[13]。この決定は庶民院でも1770年3月5日に賛成204票・反対142票で可決されたが、英国人名事典ではこれにより対米戦争が不可避になったとしている[13]

すこぶる不人気だった内閣がジュニアス英語版からの攻撃などを受けて、1770年1月にグラフトン公爵が辞任すると、ノース卿は組閣の大命を受けて1770年3月に首相に就任、以降12年間首相を務めた[13][7]

首相

ノース卿は首相に就任した時点では味方がほとんどおらず、主要党派であるチャタム伯爵派、ロッキンガム侯爵派、グレンヴィル派が全て野党に回っているという孤立した情勢だったが、チャタム伯爵派とロッキンガム侯爵派が連携をとれているとはいえず、グレンヴィル派は1770年11月にグレンヴィルが死去すると主導権が第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワードに移り、ノース卿に味方するようになった[13]

フォークランド危機

1770年6月、スペイン艦隊がフォークランド諸島ポート・エグモント英語版ジョージ・ファーマー英語版率いるイギリス駐留軍を降伏させた[14]。これによりフォークランド危機が勃発、スペインはフランス王国ショワズール公爵から助けを借りようとしたが、ショワズールが失脚したため失敗に終わり、最終的にはイギリスとの交渉でフォークランド諸島を返還、戦争を回避した[15]

ノース卿は1770年11月と1771年2月の二度にわたって庶民院でフランス王国スペイン王国との交渉を擁護した一方[13]、内閣改造を断行して閣内不一致を解消、かねてより任命しようとしていた第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューに海軍大臣の座を与え、親友のダートマス伯爵にはアメリカ担当国務大臣の座を与えた[3]

内政

1772年と1773年に提出された国教忌避者への寛容法案については庶民院での可決を阻止せず、法案否決による世論からの憎悪を貴族院に押し付けた[13]。また、アイルランドではパトロネージを振りかざして、アイルランド総督が必要とするアイルランド議会における多数を確保した[3]

1億4千万ポンドに膨れ上がった国債への対処として国営宝くじを活用して、1775年には議会に対し1千万ポンドの減債に成功したと報告したが、アメリカ独立戦争によりこの成果が無に帰し、以降1782年までに国債の金額が7,500万ポンドも増えてしまった[3]。利子の負担も増えたため、新しい税金を徴収する必要が出てきたが、ノース卿は大蔵卿としての経験から特定の目的にあてがわれた税金では効率が悪いと感じ、1780年に公会計の調査委員会を設立した[3]。この委員会が発見した問題はノース卿の首相在任期には解決できなかったが、後に小ピットが改革を引き継いだ[3]

アメリカ独立戦争

国の修繕屋The State Tinkers、1780年)、ノース(右下、跪いている)とその同盟者を国という鍋の無能な修繕屋として戯画化した風刺画。ジョージ3世は後方で大喜びして叫んでいる。ジェームズ・ギルレイ画。

ノース政権の大半はアメリカ植民地との問題に集中した。1773年12月のボストン茶会事件の後、ノース卿は1774年3月にボストン港法英語版マサチューセッツ統治法英語版(両方とも耐え難き諸法に含まれる法律である)を提出して、両方とも大差で可決させた[13][注釈 3]。一方で1775年2月20日に「国王と議会の同意に基づき、植民地が自らに税金を課している場合、議会は植民地にさらなる課税を行うことができない」決議案を可決させたが、米州植民地への譲歩としては遅きに失しており、4月にはレキシントン・コンコードの戦いアメリカ独立戦争が勃発した[13]。ノースはジョージ・ジャーメイン卿(旧姓サックヴィル)をアメリカ植民地担当国務大臣に任じて彼に戦争の全体戦略を練らせた[16]

フランスなどの外国勢力が介入してくる恐れ、また財政悪化からイギリスは短期決戦を志向した。しかし1777年10月にサラトガの戦いで孤立していたジョン・バーゴイン将軍が降伏したことで短期決戦論は破綻した[17]

12月にバーゴイン降伏の報が本国に伝わるとイギリス政界は大きな衝撃を受けた。また1778年2月になるとアメリカとフランスが同盟を結び、その噂がイギリスにも伝わった。危機感をもったノースと議会はアメリカとの和解を考えるようになり、1778年2月には和平団をアメリカに送ることが議会で可決された。その決議に基づいて同年6月に第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードを団長とするカーライル和平使節団がアメリカに到着し、本国の課税権を放棄するという内容の交渉を行ったが、フランスの味方を得たアメリカにとっては今更な内容であり、和平案は拒絶された。カーライル使節団は何の成果もないまま帰国してきた[18]

1778年6月にはアメリカと同盟するフランスと戦争状態に突入した。フランス参戦により戦争は七年戦争の再来という意味も併せ持つようになり、戦闘は北アメリカ大陸から西インド諸島、西アフリカ、インドに拡大していった[19]。しかし王立海軍の規模は軍縮で七年戦争の頃より縮小していたので各地で苦戦を強いられた。野党は海軍大臣サンドウィッチ伯爵の海軍力維持の怠りについて批判を強めた[20]。同時期アメリカではヘンリー・クリントン将軍率いるイギリス軍がフィラデルフィア撤退を余儀なくされ、ジョージナ・サヴァンナを占領して支持が期待できる南部アメリカに主戦場を移した。南部では1780年に至るまでイギリス軍が優位を保ち続け、1780年8月にはコーンウォリス伯爵チャールズ・コーンウォリス率いる英軍がキャムデンの戦いに勝利している[21]

しかし国際的状況はイギリスにますます不利になっていた。1779年6月にはスペインがフランスの同盟国として参戦し、英領ジブラルタルに対する包囲攻撃を開始した[20]。さらには1780年にマイソール王国オランダが参入し(第二次マイソール戦争第四次英蘭戦争)、戦闘は南インドと南アフリカケープ植民地にも拡大[22]。ロシアも「武装中立」を宣言し、中立とは名ばかりの反英的姿勢をとった。さらにロシアは同年中にデンマークやスウェーデンとともに武装中立同盟を結成し、後にはオーストリアやプロイセン王国ポルトガル王国もこの同盟に加わった[21]。こうしてイギリスは同盟国が一つも無いままに4大陸で地球規模の戦争をすることになった。

辞任

国内議会においては1780年後期からノース内閣の立場は若干回復していた。アメリカ南部での戦局が比較的安定していたためだった[22]。しかし1781年夏になると南部の戦況もイギリスの劣勢が目立ち始めた。コーンウォリス伯爵はヨークタウンへ撤退したが、ニューヨークから派遣されたイギリス艦隊はフランス艦隊に阻まれて現地に到着できず、ヨークタウンで孤立したコーンウォリス伯爵は1781年10月19日に降伏した。これは独立戦争のイギリスの敗戦を決定づけた[23]

コーンウォリス伯降伏の報は1781年11月下旬にイギリス本国に伝わり、本国政界はすさまじい衝撃を受けた。これはノース内閣にとって致命的打撃となった。野党の批判が高まったのはもちろんのこと、政権内部も分裂し、まず1782年2月にジャーマインが辞職に追い込まれた。しかし野党の政府批判の機運はもはやこれだけでは収えられなかった。同年2月22日にはアメリカでの戦争終結を求める動議が提出された。同動議は234対215で否決されたが、同月27日には同じような内容の動議が再度提出されて今度は234対215で可決された。さらに3月8日と3月15日にはノース内閣不信任案が提出された。どちらも僅差で否決されているものの、もはや庶民院におけるノースの求心力は無くなったことは明白だった。ノースは3月20日をもって首相職を辞した[24]

ノース卿の辞職後、第二次ロッキンガム侯爵内閣が成立したが、同年7月にロッキンガム侯は死去。国王ジョージ3世の人選によってシェルバーン伯爵内閣が成立したが、チャールズ・ジェームズ・フォックス派はそれに反発して下野した[25]

フォックス=ノース連立内閣

チャールズ・ジェームズ・フォックスジョシュア・レノルズ画、1782年。

首相退任時ノースはいまだ49歳だったので政界からの引退は考えてはいなかった。庶民院内にはいまだ彼を支持する保守派議員が数多くいた。1782年秋の庶民院勢力図はシェルバーン伯爵派(政府派)140議席、ノース卿派120議席、フォックス=ポートランド派90議席、独立系・去就不明200議席となっていた[26]

ノースに再起の野望があることが判明するとシェルバーン派もフォックス派も彼への接近を図り、フォックス派では初代ラフバラ男爵アレクサンダー・ウェッダーバーン英語版ウィリアム・イーデン英語版(後の初代オークランド男爵)が、シェルバーン派ではジョン・ロビンソン英語版チャールズ・ジェンキンソン英語版(後の初代リヴァプール伯爵)がノースを味方に引き入れようとした[4]。ノースは選べる立場にあり、1782年中には(ロビンソンによれば)ノース卿の「躊躇、疑惑、優柔不断が勝ち」(Hesitation, doubt, indecision prevails)、1782年12月にフォックスがアメリカの独立承認動議を提出したときは動議に反対した[4]。1783年に入った頃には妻や長男が支持したこともあって急進派のフォックスとの同盟に傾いていた[4]。そして同年2月14日のノースとフォックスの会談によって両者の連合が確認された[27]。正反対と見られていた両派の連携は世間を驚かせた。その背景は第一にはノースの権力欲、加えてノースがアメリカ独立戦争敗戦の失政の弾劾から逃れたがっていたことがある。世間向けの大義名分として政府の講和条約反対があったこともある[26]

この両派の連携で1783年2月19日と21日の議会でシェルバーン伯爵内閣の講和条約案非難決議が可決され、シェルバーン伯内閣は総辞職に追い込まれた[28]。国王ジョージ3世は小ピットに組閣を拒否されると[4]、しぶしぶ第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクを名目上の首相とするフォックス=ノース連合に組閣の大命を与えた[29]。ノース卿は同内閣に内務大臣として入閣した[2]。しかし、歴史学者ジョン・ブルックによれば、ノース卿自身は入閣ではなく貴族院移籍を望み、連立内閣は実質的にはフォックスを指導者とした[4]

連立内閣の政策のうち、重要と言えるのはフォックスの東インド法案だけであり、庶民院では大差で可決されたが、貴族院では第3代テンプル伯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルの脅し[注釈 4]により1783年12月17日に賛成76票・反対95票で否決され、ジョージ3世は翌日に連立内閣を罷免した[8]。ノース卿は病気のため東インド法案の審議には関与していなかったが、そのとばっちりを受けて1784年イギリス総選挙でノース卿派のほとんどが議席を失い、かろうじて残留した者もフォックス派に吸収された[4]英国人名事典によれば、ノース卿派の庶民院議員は1788年までに17人に減ったという[8]

連立内閣は人事任命では成功しており、1783年9月にフォックスから第4代マンチェスター公爵ジョージ・モンタギューに宛てた手紙によれば閣内不一致は全くなかったという[8]。しかし世論ではすこぶる不人気であり、ノース卿の指名選挙区だったバンベリーですら1784年2月に請願を出して、国王ジョージ3世に連立内閣の罷免について感謝を述べた[31]

晩年

再度の下野から死去まで野党の一員として小ピット内閣を批判したほか、1785年5月にグレートブリテン王国アイルランド王国の合同を強く支持、1787年3月にウォーレン・ヘースティングズ弾劾英語版を支持、同1787年と1789年に審査法廃止に反対した[8]1790年イギリス総選挙で再選を果たしたが、その時点ではすでに過去の人物とされた[32]

1787年初より視力が悪化しており[8]、1788年から1789年にかけての摂政法案(Regency Bill)をめぐる弁論ではすでに全盲になっていたにもかかわらず議論に参加した[4]。1790年8月4日に父が死去するとギルフォード伯爵位を継承、同年11月25日に貴族院に初登院した[2]。ギルフォード伯爵としての初演説は1791年4月1日に行われ、内容は小ピットの対ロシア政策を批判するものだった[8]。この初演説を含み、ギルフォード伯爵は死去まで貴族院で4度演説した[8]

1792年8月5日にグロヴナー・スクエア英語版の自宅で死去[8]、16日にオックスフォードシャーロクストン英語版で埋葬された[2]。長男ジョージ・オーガスタスが爵位を継承した[2]。死の床で家族に対し、「政治生涯に関して、自身がしたことには多くの誤りがあったが、どの行動においても悔いがなかったことに満足している」と述べた[32]

評価・人物

後世から「アメリカを失った首相」と認知されており、それを題名とする書籍が複数出版された[33][34]。この失敗により「ノース卿以降で最悪の首相」(The worst prime minister since Lord North)が首相批判の文句として頻繁に使用されるほどだった[3]

オックスフォード英国人名事典によると、伝統的なホイッグ史観ではノース卿が飾りの首相でジョージ3世による王権回復を許してしまったように描かれたが、現代の歴史学ではロバート・ウォルポールヘンリー・ペラムのように、政府の長として庶民院で答弁を行う、財政に精通している人物として評価されるようになり、アメリカ関連以外では概ね成功を収めたとされる[3]

エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』第4巻(1788年出版)の序文でノース内閣を「長く、嵐の渦中にある不運な政権」(long, stormy, and at length unfortunate administration)と評した一方、ノース自身への評価としては「政敵が多かった」ものの「個人的な仇敵は皆無」(almost without a personal enemy)と述べた[2][35]エドマンド・バークはノース卿を「多才」「ウィットに富む」「人を喜ばせる気性」(delightful temper)と賞賛しつつ、「時世が必要とした指導力と警戒心に欠く」(he wanted something of the vigilance and spirit of command which the times required)とも評した[7]。この性格はパトロネージを求める人への返答にも現れ、1772年2月25日付の『ロンドン夕刊英語版』(London Evening Post)では「要求された引き立てに応えられない場合でも、せめて上機嫌にして帰らせようとすることは首相にとってのエチケットである。これは廷臣の間では良く知られていることだが、彼は田舎出のジェントルマンに対してはきちんと『ただ頷いただけ、手を握っただけで確実な約束を交わさなかった場合は常にいいえを意味する』と説明して、笑いを誘った」と報じられた[3]。また、1770年の議会弁論でジョージ・グレンヴィルが国家予算について演説しているとき、ノース卿は居眠りしてしまったが、グレンヴィルがちょうど「1689年」という言葉を喋っていたときに目が覚ましたため、「起こすのが100年近く早すぎた」と抗議して、議場を笑いで満たしたという[3]

家族との関係が良く、ノース卿の視力が悪化していた1787年10月にホレス・ウォルポールがノース卿一家を訪れたとき、「ノース卿は往年と同じぐらいに元気であり、(中略)レディ・ノースと子供たちの絶え間ない気配りは感動的だった。(中略)視力の喪失が補償できるものであれば、それはこれほど愛情の深い家族をもって行われるものだろう。」と述べた[8]

息子たちが閑職を与えられ、異母弟ブラウンロー英語版ウィンチェスター主教英語版に任命されるなど、多くの褒賞を与えられたが[7]、1777年時点の領地からの年収は2,500ポンド程度であり、当時としては大地主というわけではなかった[36]。そのため、1777年9月にジョージ3世から借金返済に充てるための2万ポンドを与えられ、1778年6月には五港長官英語版(ノース卿は五港長官の官職で毎年最大1,000ポンドの収入を得ていた)に任命された[36]

栄典

爵位

1790年8月4日の父フランシス・ノースの死去により以下の爵位を継承した[1]

勲章

名誉職等

その他

1790年代に建設されたブルームスベリーギルフォード・ストリート英語版孤児養育院英語版院長だったノース卿を記念して名付けられた[39]

ロンドンロード・ノース・ストリート英語版ブレンダン・ブラッケン英語版の主導で20世紀にノース卿に因んで名付けられている[41]

結婚と家族

ノース卿の妻アン

1756年5月20日、アン・スピーク(Anne Speke、1797年1月17日没、庶民院議員ジョージ・スピーク英語版の娘)と結婚[2]、4男3女をもうけた[4]

注釈

  1. ^ 第2代ダートマス伯爵の母はノース卿の父の2人目の妻にあたる[2]
  2. ^ バンベリー選挙区はギルフォード伯爵家の支配下にあり、有権者数は18人だけだった[9]。そのため、ノース卿は1754年から1784年まで、総選挙6回と補欠選挙5回で無投票当選を果たした[9]。後期にはギルフォード伯爵家の支配が弱まり、1784年には「投票が行われた場合、ノース卿は1票差でしか当選できなかった」と報じられたが、1790年イギリス総選挙でのノース卿の再選、ノース卿の爵位継承に伴う補欠選挙における長男ジョージ・オーガスタスの当選(1790年12月)、ジョージ・オーガスタスの爵位継承に伴う弟フレデリック(1792年9月)はいずれも無投票での当選だった[10]
  3. ^ 英国人名事典はこの時点でノース政権が安定してきたとしている[13]
  4. ^ テンプル伯爵はジョージ3世の許可を受けて、「東インド法案に賛成票を投じた人は国王の友ではないばかりか、国王により敵として扱われる」(whoever voted for the India Bill was not only not his friend, but would be considered by him as an enemy)と発言した[30]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. "Guilford, Earl of (GB, 1752)". Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage (英語). 2020年7月18日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward, ed. (1892). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K) (英語). Vol. 4 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 123–124.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Thomas 2015.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Brooke 1964.
  5. ^ a b "North, the Hon. Frederick. (NRT769F)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  6. ^ a b Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 3. Oxford: University of Oxford. p. 1028.
  7. ^ a b c d e f g h i Chisholm 1911, p. 691.
  8. ^ a b c d e f g h i j k Barker 1895, p. 162.
  9. ^ a b Cannon, J. A. (1964). "Banbury". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月18日閲覧
  10. ^ Thorne, R. G. (1986). "Banbury". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月18日閲覧
  11. ^ a b "No. 10684". The London Gazette (英語). 9 December 1766. p. 1.
  12. ^ a b Barker 1895, p. 159.
  13. ^ a b c d e f g h i Barker 1895, p. 160.
  14. ^ Laughton, John Knox (1889). "Farmer, George" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 18. London: Smith, Elder & Co. pp. 210–211.
  15. ^ ウィキソース出典 Petty-Fitzmaurice, Edmond George (1912) (英語), Life of William, Earl of Shelburne, 1 (2nd ed.), p. 418, ウィキソースより閲覧。 
  16. ^ 今井(編) 1990, p. 345.
  17. ^ 今井(編) 1990, pp. 346–347.
  18. ^ 今井(編) 1990, p. 347.
  19. ^ 今井(編) 1990, p. 348.
  20. ^ a b 今井(編) 1990, p. 349.
  21. ^ a b 今井(編) 1990, pp. 349, 353.
  22. ^ a b 今井(編) 1990, p. 353.
  23. ^ 今井(編) 1990, pp. 353–354.
  24. ^ 今井(編) 1990, p. 354.
  25. ^ 小松 1983, p. 290-293.
  26. ^ a b 小松 1983, p. 303.
  27. ^ 小松 1983, p. 304.
  28. ^ 小松 1983, p. 305.
  29. ^ 小松 1983, p. 306.
  30. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Buckingham, Earls, Marquesses and Dukes of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 721–722.
  31. ^ "No. 12521". The London Gazette (英語). 21 February 1784. p. 2.
  32. ^ a b Thorne 1986.
  33. ^ Whiteley, Peter (1996). Lord North: The Prime Minister who lost America (英語). Hambledon Press. ISBN 1-85285-145-7
  34. ^ O'Shaughnessy, Andrew Jackson (2013). The Men who Lost America: British Leadership, the American Revolution, and the Fate of the Empire (英語). Yale University Press. ISBN 9780300191073
  35. ^ Gibbon, Edward (1788). "Preface To The Fourth Volume Of The Original Quarto Edition". The History of the Decline and Fall of the Roman Empire (英語). Vol. IV. Strahan & Cadell.
  36. ^ a b c d Barker 1895, p. 163.
  37. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "North, Barons" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 758.
  38. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1895). "NORTH DE KIRTLING.". The Complete Peerage (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 66.
  39. ^ a b Weinreb, Ben; Hibbert, Christopher; Keay, Julia; Keay, John, eds. (2008). "Guilford Street". The London Encyclopedia (英語) (3rd ed.). London: Macmillan. p. 364. ISBN 978-1-4050-4925-2
  40. ^ A List of the Members of the Society of Antiquaries of London, from Their Revival in 1717, to June 19, 1796 (英語). London: John Nichols. 1798. p. 29.
  41. ^ Cathcart, Brian (23 January 1994). "Rear Window: From Westminster slum to Politician Row: Lord North Street". The Independent (英語). 2020年7月18日閲覧

参考文献

グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・ウィルズ英語版
庶民院議員(バンベリー選挙区英語版選出)
1754年 – 1790年
次代
ジョージ・ノース
公職
先代
チャールズ・タウンゼンド
陸軍支払長官英語版
1766年 – 1767年
同職:ジョージ・クック
次代
ジョージ・クック
トマス・タウンゼンド
財務大臣
1767年 – 1782年
次代
ジョン・キャヴェンディッシュ英語版
庶民院院内総務
1767年 – 1782年
次代
チャールズ・ジェームズ・フォックス
先代
第3代グラフトン公爵
首相
1770年1月28日 – 1782年3月22日
次代
第2代ロッキンガム侯爵
先代
トマス・タウンゼンド
内務大臣
1783年
次代
第3代テンプル伯爵
庶民院院内総務
1783年
同職:チャールズ・ジェームズ・フォックス
次代
ウィリアム・ピット
学職
先代
第3代リッチフィールド伯爵
オックスフォード大学総長英語版
1772年 – 1792年
次代
第3代ポートランド公爵
名誉職
先代
第4代ベッドフォード公
孤児養育院英語版院長
1771年 – 1792年
次代
第3代ポートランド公爵
先代
初代ソモンド伯爵英語版
サマセット統監英語版
1774年 – 1792年
次代
第4代ポーレット伯爵
先代
第4代ホルダーネス伯爵
五港長官英語版
1778年 – 1792年
次代
ウィリアム・ピット
グレートブリテンの爵位
先代
フランシス・ノース
第2代ギルフォード伯爵
1790年 – 1792年
次代
ジョージ・オーガスタス・ノース