ミスタードラゴンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
中日ドラゴンズ > ミスタードラゴンズ

ミスタードラゴンズは、日本プロ野球(NPB)・セントラル・リーグ(セ・リーグ)の球団、中日ドラゴンズの中心選手に与えられる称号である。

ファンの間ではそれぞれ異なる時代に活躍した西沢道夫高木守道立浪和義の3人が「ミスタードラゴンズ」として言及される場合が多い[1][2][3]

概要[編集]

阪神タイガース(大阪タイガース)の中心選手にファンが与える称号として1940年代後半から「ミスタータイガース」が知られていたが、2006年ごろには中日球団の親会社・中日新聞社が発行する『中日新聞』で立浪が「ミスタードラゴンズ」と呼ばれるようになり[注 1]、2009年に立浪が引退した際からは中日球団も公式にこの称号を使用するようになった[5][6][7][8]。その後、2016年に『中日新聞』が選出した「歴代ベストナイン」では立浪に加えて西沢・高木がそれぞれ「ミスタードラゴンズ」と呼称されており[9]2019年時点で3人全員が野球殿堂入り(競技者表彰)を果たしている[注 2]

また『中日スポーツ』など各新聞媒体でもこの称号名が使用されている[1][9][13][14][15][16][17][18]

ミスタードラゴンズと呼ばれる選手[編集]

初代・西沢道夫[編集]

西沢道夫(1949年)

「初代ミスタードラゴンズ」とうたわれる西沢道夫[19][14][2][3]、戦前に投手として14歳でプロ入りし(野球殿堂博物館の記録より)[20]1937年9月5日に中日球団の前身・名古屋軍の選手として初の公式戦試合出場を果たした[21][20]。この時の年齢(満年齢16歳4日)は日本プロ野球史上最年少記録となっている[21][20]

1リーグ時代の1940年にはシーズン20勝を挙げたほか[21]、1942年5月24日には後楽園球場にて開催された対大洋戦で、プロ野球史上最長となる延長28回完投(311球)を達成した[21]。さらに同年7月18日には対阪急戦(後楽園球場)にてプロ野球史上9人目(14番目)のノーヒットノーランを達成したが[22]1943年には太平洋戦争の戦局悪化により日本軍に応召され、戦前から悩まされていた右肘痛に加えて兵役に従事したことで利き手の右肩を痛めてしまった[21]。終戦後、日本に引き上げてからは「名古屋軍」から改称した中部日本軍でプレーしていたが、1946年シーズン途中にはゴールドスターへ内野手として移籍する[21]。その後、天知俊一監督に誘われる形で1949年には中日ドラゴンズに復帰した[21]

1950年には日本記録となるシーズン満塁本塁打5本を含め自己最高の46本塁打[注 3]を記録したほか、1952年には打率.353・98打点で首位打者打点王を獲得して二冠王に輝き、1954年には主軸打者として球団初のリーグ優勝・日本一に貢献した[21]

1955年オフには失踪騒動を起こすなどナイーブな一面もあったほか、2019年時点で二刀流の現役選手として活躍している大谷翔平とは異なり投手・打者の同時進行ではないが、年間20勝・40本塁打をそれぞれ1人で達成した選手は西沢が日本プロ野球史上唯一である[21]

引退後は中日コーチを経て監督1964年6月8日 - 1967年)を務め、1977年には野球殿堂入りを果たしたが[10][21]、同年12月18日に56歳で死去した。なお現役時代の1948年 - 1958年およびコーチ・監督時代の1963年 - 1966年に着用した背番号15は中日球団の永久欠番に指定されている[注 4][26]

2代目・高木守道[編集]

高木守道(2012年、第二次監督時代)

西沢に次ぐ「2代目ミスタードラゴンズ」とされる高木守道[19][27]、走攻守の三拍子揃った「球史最高の二塁手(セカンド)」と評される名選手である[28]

県岐阜商高校1年生時代には長嶋茂雄(当時は立教大学4年生、後に巨人入り)が指導に訪れた際に長嶋から「5年後だったら日本一の内野手になれる」と絶賛された[28]。3年生の時には春のセンバツで準優勝を果たし、卒業後は早稲田大学進学が内定していたが、急遽オファーを受けて1960年に中日に入団した[28]。プロ1年目の同年5月には代走で公式戦初出場を果たすと二塁への盗塁を決め、その後初打席で初本塁打を記録した[28]

決して大柄ではなかったが、守備では堅実さに加えて見る者を魅了する華やかなプレーを見せ、打撃も確実性・一発長打を兼ね備えていたほか[28]、走塁では投手の癖を見抜き、卓越したスライディング技術で[28]出塁すると次の塁を狙った[29]。また時折しか見せることはなかったが「捕球と同時にボールを持ち換え、重心移動と強い手首を生かして二塁に送球する」超ロングのバックトス・グラブトスを持ち味としており[29]、この技術は「芸術品」[28]「誰にも真似できない」と評された[29][注 5]。このほか「どうやったら(走者を)アウトにできるか?」という発想からカバーリングにも一切手を抜かず、送球が逸れても相手がダイレクトで捕球できる位置を狙うなど、データ・観察力・自身の勘をも取り入れた大胆なポジショニングにも定評があり、妥協点のないプレーを支えるものとしてプレー・用具・普段の生活まですべてにおいてプロ野球選手として厳格であり続けた[28]。1963年オフ[28]フロリダ野球留学でメジャーリーグベースボール(MLB)で使用されていた二塁手専用グラブの存在を知り、日本人選手として初めて導入した[29]

4年目の1963年には1番・二塁手の定位置に定着し、2番・中利夫とのコンビで相手投手・守備陣を翻弄し[29][28]、50盗塁を記録して初の盗塁王を獲得した[29][28]。翌1964年には1試合5盗塁を含め42盗塁を記録し、1965年には初の打率3割達成とともに44盗塁で2度目の盗塁王を獲得した[29]。そして1974年には前年までにV9を達成し前代未聞の10連覇を目指していた読売ジャイアンツ(巨人)を倒して球団史上2度目・20年ぶりのリーグ優勝に貢献し[29][28]同年の日本シリーズではロッテオリオンズに敗退したが敢闘賞を受賞した[29][28]

選手兼任コーチに就任した1978年には中日球団の生え抜き選手として初の通算2000本安打を達成し[28]、翌1979年にも打率3割をマークしたが、1980年には1歳年上の巨人・王貞治の引退表明を受け、「(王さんが引退しても自分が現役を続行したら)自分がリーグ最年長になってしまう」として自身も現役を引退した[28]。現役引退までに二塁手としてベストナインに7回選ばれたが、これは二塁手として史上最多記録であった[29]

現役引退後はコーチ・野球解説者を経て、1992年には星野仙一の後任として監督に就任した[28]1994年には同率首位で並んでいた巨人とリーグ優勝を賭けてリーグ最終戦で直接対戦したが敗れてリーグ優勝はならず(10.8決戦)、翌1995年には成績不振のためシーズン途中で解任された[28]

2006年には野球殿堂入りを果たし[11]2012年落合博満の後任として70歳の高齢ながら監督に復帰したが、2年で退任した[28]。高木が2度にわたって厳しい状況で監督業を引き受けた理由は『中日ドラゴンズHERO列伝』(ベースボール・マガジン社)にて「21年間の現役生活を過ごしたドラゴンズを愛するが故にだろう」と述べられている[28]

現役時代を知らない世代からは「星野仙一の人気を合間を埋める地味な監督」「『サンデードラゴンズ』(CBCテレビ)の「高木チェック」で滅多に『ファインプレー』の評価をせず、『普通』の札しか上げない頑固親父」[27]、「短気なジョイナス[注 6]おじいちゃん」とあまり高い評価をされていないが[30]、『中日ドラゴンズ伝説2009』(オークラ出版)では「指揮官としての手腕は4回のリーグ優勝を達成した落合も参考にしている。監督人事の際には必ず候補に挙がるだけに関係者からの評価は高いようだ」と評されている[27]

3代目・立浪和義[編集]

立浪和義(2009年)

西沢・高木に続き「3代目ミスタードラゴンズ」と呼ばれる立浪和義[19][3][2]1987年の甲子園で連覇を達成したPL学園高校を主将として率いた[31]同年オフのドラフト会議南海ホークスとの1位競合指名の末に星野仙一監督率いる中日が交渉権を獲得し、中日に入団した[31]

立浪は翌1988年から2009年に現役を引退するまで中日一筋で22年間プレーし[31]。1年目の1988年シーズンには高卒新人ながら開幕戦に遊撃手としてスタメン出場すると、最優秀新人賞(新人王)・ゴールデングラブ賞(遊撃手部門)を獲得する活躍で中日球団史上4度目のリーグ優勝に貢献した[31]。勝負強い打撃・華麗な守備で新風を起こし、甘いマスクも相まって「竜のプリンス」と呼ばれた[31]

1989年は「2年目のジンクス」にぶつかる形で右肩故障により低迷するが、3年目となる1990年には規定打席に到達して打率.303を記録し、その後もチームの主力選手として「強竜打線」を牽引し、安打を量産した[31]。その後も勝負強い打撃で勝利に貢献し、中日の主力選手として活躍し続けた立浪は2002年、強打者不在の打線で4番打者を務め、ともに自己最多となる16本塁打・92打点を記録したほか[31]、翌2003年7月5日には東京ドームで行われた巨人戦にて通算2000本安打を達成した[32]2005年には通算450二塁打を達成して福本豊の記録(通算449二塁打)を塗り替える日本プロ野球史上最多二塁打記録を達成した[31][33]

その間に中日の本拠地はナゴヤ球場からナゴヤドームへ移転し(1997年より)、立浪自身も遊撃手→二塁手→三塁手と幾度にわたって守備位置を変更しつつも1995年 - 1997年まで3年連続で二塁手部門・2003年には三塁手部門で通算5回のゴールデングラブ賞を獲得したほか、1996年には二塁手・2004年には三塁手としてそれぞれベストナインを獲得した[31]。晩年となる2006年シーズン途中以降は森野将彦の台頭によりスタメンを外れ代打要員となったが、プロとして与えられた立場でチームに貢献し、2007年には落合博満監督の下で悲願の球団史上53年ぶりの日本一(西沢が現役だった1954年以来・2度目)[注 7]に貢献した[31]

現役引退まで打撃三部門のタイトル(首位打者・本塁打王・打点王)や盗塁王の獲得はゼロに終わり(無冠の帝王)、ずば抜けた成績を残したシーズンこそなかったものの、2009年の現役引退までに通算2586試合出場・2480安打・1037打点(いずれも球団記録)の成績を残し、星野監督時代の1988年・1999年および落合監督時代の2004年2006年と計4度のリーグ優勝に貢献した[31]。また日本球界最多となる通算487二塁打を記録したが、プロ入り初安打・最終安打ともに二塁打であったため、本人は「二塁打に縁があるかもしれない」と述べている[31]

立浪の現役時代に巨人の監督を務め「ミスタージャイアンツ」とうたわれた長嶋茂雄は立浪が通算安打数で自身の記録(2471安打)に並んだ際[注 8]、「彼のプレーは『ミスター・ドラゴンズ』に相応しい」とコメントしている[34]。またファンからの人気は晩年、ナゴヤドームで「代打・立浪」がコールされる度に大歓声が上がるほどで[31]大山くまおは立浪の人物像を「その風格と貫録、名古屋での絶大な人気は他の追随を許さない」と評しているほか[2]、ファンの間では現役時代末期から引退後に至るまで立浪に対し根強い監督就任待望論がある[19][35][36]。2019年にはプレーヤー部門で野球殿堂入り[注 9]を果たしている[12]

中日球団の応援歌として親しまれている「燃えよドラゴンズ!」のうち、2007年の日本一を記念して制作された「燃えよドラゴンズ! 2007優勝記念盤」では(通常は1選手につき歌詞1行まで)歌詞2行分を費やして立浪に言及する「特別扱い」がなされている[37]

その他の使用例[編集]

上記の3人が「ミスタードラゴンズ」として言及される場合が多いが、それ以外にも以下のような人物を「ミスタードラゴンズ」やそれに準ずる存在として挙げる声もある[38]

  • 木俣達彦 - 現役時代は高木とともにプレーして1974年1982年と2度のリーグ優勝に貢献した。中日一筋で実働19年・捕手としては2005年時点でセ・リーグ史上最多の1998試合に出場した実績を誇る名捕手で、「打てない捕手など意味はない」を持論として「マサカリ打法」と呼ばれた独特の打法で通算285本塁打を記録し「強竜打線」の一員を担った[39][40]。2005年に中日球団創設70周年を記念して発売された『昇竜の軌跡』(ベースボール・マガジン社)では「中日は『ミスター・ドラゴンズ』という呼び方はなかなか聞かないが、木俣はミスター・ドラゴンズの資格十分である」と紹介されている[39][40]
  • 星野仙一 - 現役時代は高木・木俣と同時期にプレーし、エースとして活躍し「巨人キラー」として名を馳せるとともに1974年1982年と2度のリーグ優勝に貢献した。現役引退後も1987年 - 1991年および1996年 - 2001年と2期にわたって監督を務め、立浪を育成するなど生え抜き監督として唯一となる複数回のリーグ優勝(1988年1999年)を達成した[注 10]
  • 山本昌(山本昌広) - 中日一筋で球団最多勝利記録となる通算219勝を挙げ、日本プロ野球史上最長となる32年間にわたり現役生活を続けたフランチャイズ・プレーヤー。立浪の入団初年度 - 現役引退まで一貫してチームメイトで、長らく先発ローテーションに定着して1988年1999年2004年2006年2010年と計5回のリーグ優勝に貢献した[注 12]。ファンからは星野と同様に「ミスタードラゴンズ」として名前が挙がる場合がある[38]
  • 福留孝介 - 2019年現在は阪神で現役選手としてプレー中。立浪と同じくPL学園高校出身で[注 13]日本生命硬式野球部を経て1998年のドラフト会議で1位指名を受けて中日へ入団すると1999年 - 2007年まで9シーズンにわたり在籍し、2002年2006年に首位打者を獲得したほか、1999年・2004年・2006年のリーグ優勝に貢献。特に2006年には打率.351・31本塁打・104打点を記録してリーグMVPを獲得するなど強打者として活躍した[注 14]。『毎日新聞』(毎日新聞社)では2005年・2006年の記事で「ミスタードラゴンズ」と言及されている[注 15][51][52]
  • 杉下茂 - 中日球団で通算211勝を挙げ、西沢とともにプレーした1954年にはエースとして球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献した。『中日ドラゴンズ伝説2009』では杉下について「(『ミスター』以上の)神様とみなすべき存在」と言及されている[27]

また京田陽太根尾昂など期待の若手選手に対し『中日新聞』・ファンなどが「『ミスタードラゴンズ』になってほしい」と期待を込めたり、当人が「ミスタードラゴンズになりたい」と目標を掲げる形で使用される場合もある。

  • 2016年のドラフト会議で2位指名を受けて入団した京田は入団会見で「目標の選手は立浪さん。『ミスタードラゴンズ』と呼ばれるようになりたい」と目標を掲げており[8][53]、プロ1年目となる2017年には球団の野手として立浪以来29年ぶりとなる新人王を獲得した[54]。『中日新聞』では新人王受賞時に「(京田には)ミスタードラゴンズになってほしい」というファンの声が掲載されている[54]
  • 2018年のドラフト会議で1位指名を受けて入団した根尾も京田と同様に立浪を目標としており[55]与田剛監督[56]・ファンからは「ミスタードラゴンズになってほしい」と期待を掛けられている[57][58][59]

このほか次原隆二週刊少年ジャンプ集英社、1991年27号 - 38号)に連載していた野球漫画『ドン・ボルカン-聖なる男の伝説-』では「日本球界のスーパースター」とうたわれる中日ドラゴンズ所属の架空選手・島村貢(背番号10。現実では服部受弘の永久欠番)が作中で「ミスタードラゴンズ」と呼ばれている[60]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 『中日新聞』紙面にて「ミスタードラゴンズ」の単語が使用された初の事例は『中日新聞』2006年4月8日朝刊第一スポーツ面27面記事「立浪サヨナラ満塁弾、自らも息吹き返す」(記者:鵜飼哲也)の記事上で当時現役選手だった立浪を指して使用された例である[1]。なおそれ以前に『毎日新聞』1999年2月8日朝刊記事でも立浪を指して「ミスター・ドラゴンズ」の単語が使用されていた[4]
  2. ^ 西沢は1977年[10]・高木は2006年[11]・立浪は2019年にそれぞれ殿堂入りした[12]
  3. ^ 同シーズンはこれに加えて同じく自己最多の135打点も記録したが、ともに2006年にタイロン・ウッズが47本塁打・144打点を記録するまで56年間にわたり球団最高記録だった[23]。また同年は打率3割・30本塁打・100打点・100得点を記録したが、中日の選手としてこの記録に到達した人物は2019年時点で西沢以外に福留(2006年)のみである[24]
  4. ^ 中日球団の永久欠番は15番以外に10番(服部受弘)のみである。なお杉下茂も1958年に西沢・服部とともに背番号20の永久欠番指定を打診されたが固辞している[25]
  5. ^ このバックトスは「横着だ」と非難する声もあったが「むしろ正確性を重視し、捕ってから投げるまでを一連の動作にする」ことが狙いであり、高木自身はこの動作を「捕ってから体を回すという無駄な動作がないので、速いしミスも防げる」と語っている[28]
  6. ^ 高木が監督を務めた2012年・2013年の球団スローガン「join us~ファンと共に~」をもじった俗称。
  7. ^ 2007年シーズンは巨人がセ・リーグ優勝を果たしたが、中日(リーグ2位)は同年より導入されたクライマックスシリーズ(CS)にて巨人を破って日本シリーズ出場権を獲得し、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズ(同年パ・リーグ優勝、CS突破)を4勝1敗で破り日本一に輝いた。さらにその後、2007年のアジアシリーズでも優勝したことにより球団史上唯一のアジアチャンピオンにも輝いた。
  8. ^ 2009年8月5日の中日対阪神第13回戦(ナゴヤドーム)にて[34]
  9. ^ 野球殿堂の競技者表彰は2008年度以降「プレーヤー部門」と「エキスパート部門」に分離された。
  10. ^ 中日の歴代監督で星野以外に複数回優勝を達成した監督は2004年2006年、さらに2010年2011年(球団史上初のリーグ連覇)と計4度のリーグ優勝を達成した落合博満(現役時代の1987年にロッテオリオンズから移籍)のみである。
  11. ^ プロ野球珍プレー・好プレー大賞2001 ありがとうミスター!大感謝スペシャル』(2001年11月16日・フジテレビ系列放送)では同年限りで中日監督を辞任した星野が巨人監督を辞任した長嶋茂雄とともに取り上げられたが、同番組を紹介した『朝日新聞』2001年11月13日夕刊のテレビ番組案内では「さよなら、怒れるミスタードラゴンズ」というフレーズが使用されている[41]
  12. ^ 山本が現役だった2011年にも中日はリーグ優勝(球団史上初の連覇)を達成しているが、山本は同年の一軍公式戦に登板していない。
  13. ^ PL学園高校時代・1995年のドラフト会議では「意中の球団」として挙げていた中日・巨人を含めた7球団から1位指名を受け、抽選の結果近鉄バファローズが交渉権を獲得したが入団拒否している。
  14. ^ 中日がナゴヤ球場からナゴヤドームへ本拠地を移転した1997年以降、2019年までに年間30本塁打以上を記録した日本人選手は福留(2003年・34本塁打、2006年・31本)と和田一浩2010年・37本)の2人のみである[50]
  15. ^ 2005年2月5日朝刊記事では「ミスター・ドラゴンズ」[51]、2006年10月17日朝刊記事では「PL学園の先輩・立浪に代わる『ミスタードラゴンズ』に成長した」と述べられている[52]

出典[編集]

  1. ^ a b c 『中日新聞』2006年4月8日朝刊第一スポーツ面27頁「プロ野球 セ・リーグ 中日4連勝 中日5-1巨人」「立浪サヨナラ満塁弾、自らも息吹き返す」(記者:鵜飼哲也)「立浪2351安打 歴代10位『打撃の神様』に並んだ」
  2. ^ a b c d 大山(2013)、p.122
  3. ^ a b c 赤坂(2013)、p.160
  4. ^ 『毎日新聞』1999年2月8日東京朝刊第一運動スポーツ面17頁「[キャンプだより]プロ野球<7日> 中日 今年はセカンドだけ--立浪」(北谷・記者:安間徹)
  5. ^ 9/30 立浪和義FOREVERクリアファイルプレゼントのお知らせ” (日本語). 中日ドラゴンズ 公式サイト (2009年9月28日). 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  6. ^ 「立浪和義引退記念グッズ」販売中!” (日本語). 中日ドラゴンズ 公式サイト (2009年9月25日). 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  7. ^ 「夏の竜陣祭」が閉幕しました。” (日本語). 中日ドラゴンズ 公式サイト (2016年7月24日). 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  8. ^ a b 新人選手入団発表一覧 > 2016年 ドラフト入団選手 京田陽太” (日本語). 中日ドラゴンズ 公式サイト. 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  9. ^ a b 『中日新聞』2016年1月29日朝刊第一特集面21頁「竜魂継承 本紙が選ぶ歴代ベストナイン ドラゴンズ80周年特集」
  10. ^ a b 西沢道夫” (日本語). 公益財団法人 野球殿堂博物館. 2019年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月27日閲覧。
  11. ^ a b 高木守道” (日本語). 公益財団法人野球殿堂博物館. 2019年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月27日閲覧。
  12. ^ a b 立浪和義” (日本語). 公益財団法人 野球殿堂博物館. 2019年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月27日閲覧。
  13. ^ 【ドラニュース】立浪さんが谷繁監督に直撃」『中日スポーツ』中日新聞社、2016年2月9日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  14. ^ a b 【ドラニュース】ドラフト1位・柳、背番号「17」」『中日スポーツ』中日新聞社、2016年12月7日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  15. ^ 【ドラニュース】準規再生へ 立浪さん3カ条」『中日スポーツ』中日新聞社、2016年12月28日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  16. ^ 【ドラニュース】京田、「生涯ドラゴンズ」を表明 故郷石川でファンに宣言」『中日スポーツ』中日新聞社、2017年12月3日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  17. ^ 【編集日誌】いずれミスタードラゴンズと呼ばれたい」『中日スポーツ』中日新聞社、2017年12月3日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  18. ^ 【ドラニュース】荒木、初出席「緊張しっぱなし」 名球会LINEで王さん山本浩二さんらと「友達」つながりに」『中日スポーツ』中日新聞社、2017年12月14日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  19. ^ a b c d 中日ドラゴンズ伝説2009(2009)、p.2-3
  20. ^ a b c 【プロ野球】初本塁打は17歳。初ノーヒッターは18歳。」『ニフティニュース』デイリーニュースオンライン、2017年6月26日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  21. ^ a b c d e f g h i j 中日ドラゴンズ80年史 シリーズ3(2016)、p.23
  22. ^ 各種記録達成者一覧 無安打無得点試合(ノーヒットノーラン)” (日本語). NPB.jp. 日本野球機構. 2018年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月10日閲覧。
  23. ^ 中日新聞社(2016)、p.233
  24. ^ 中日新聞社(2016)、p.163
  25. ^ 中日新聞社(2006)、p.32
  26. ^ 年表”. 中日ドラゴンズ公式サイト. 中日ドラゴンズ. 2019年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年11月8日閲覧。
  27. ^ a b c d 中日ドラゴンズ伝説2009(2009)、p.41-42
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 中日ドラゴンズHERO列伝(2015)、p.54-55
  29. ^ a b c d e f g h i j 中日ドラゴンズ80年史 シリーズ1(2016)、p.20
  30. ^ 大山(2014)、p.132
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m 中日ドラゴンズ80年史 シリーズ2(2016)、pp.12-15
  32. ^ 中日ドラゴンズ80年史 シリーズ2(2016)、p.33
  33. ^ 中日ドラゴンズ80年史 シリーズ2(2016)、p.46
  34. ^ a b 『毎日新聞』2009年8月6日大阪朝刊運動スポーツ面16頁「プロ野球:中日3-1阪神 中日・立浪、ミスター並んだ ベテラン、2471安打7位」
  35. ^ ドラフト1位のその後(2014) p.70-75
  36. ^ 大山(2013)、p.122
  37. ^ 大山(2013)、p.183
  38. ^ a b c 木下健児「「ミスタードラゴンズ」といえば誰? - 2位に落合博満、1位は……」『マイナビニュースマイナビ、2014年4月12日。2018年3月3日閲覧。, オリジナルの2018-03-03時点によるアーカイブ。
  39. ^ a b ベースボール・マガジン社(2005)、p.52
  40. ^ a b ベースボール・マガジン社(2007)、p.68
  41. ^ 『朝日新聞』2001年11月13日東京夕刊第一テレビ案内面9頁「フジテレビ わが局、次のイチ押し プロ野球珍プレー・好プレー大賞2001 11月16日(金)夜9:00」
  42. ^ 『読売新聞』2001年12月8日大阪朝刊第一社会面35頁「阪神監督に星野仙一氏要請 『ハムレットの心境や』 熱血漢にファン期待 『中日の色濃い』違和感も」
  43. ^ 『読売新聞』2001年12月18日東京朝刊2面2頁「[顔]阪神タイガースの第29代監督に決まった 星野仙一さん」
  44. ^ 『朝日新聞』2001年12月27日大阪朝刊第一家庭面13頁「えっ!星野阪神?(ひと時)【大阪】」(大阪府豊中市在住・50歳代主婦からの投稿)
  45. ^ 高瀬毅「阪神タイガース監督・星野仙一 ハートを強したるで(現代の象徴)」『AERA』、朝日新聞社、2002年4月15日、 54頁。
  46. ^ 『毎日新聞』2003年9月10日大阪朝刊第一スポーツ面19頁「[仙一Vロード]/2 名門再生 『巨人の監督おもろない』 ダメ虎に男気燃え」
  47. ^ 『毎日新聞』2004年1月30日東京朝刊特集面20頁「[特集]毎日スポーツ人賞 感動賞 星野仙一監督と阪神タイガース」
  48. ^ 『毎日新聞』2010年10月20日大阪朝刊運動スポーツ面18頁「プロ野球:『星野楽天』へGO 燃える男『もう一度』」(記者:新井隆一、吉見裕都)
  49. ^ 大山くまお「今こそドラゴンズは「打倒巨人」に原点回帰すべきだ――追悼・星野仙一 文春野球コラム ウィンターリーグ2017」『文春オンライン』文藝春秋社、2018年1月9日。2018年3月10日閲覧。, オリジナルの2018-03-10時点によるアーカイブ。
  50. ^ 徳原麗奈「中日1位指名の東邦・石川「3冠王」宣言!生え抜き右打者初のナゴヤD30発狙う」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2019年10月19日。2019年10月21日閲覧。, オリジナルの2019年10月21日時点によるアーカイブ。
  51. ^ a b 『毎日新聞』2005年2月5日東京朝刊第一運動スポーツ面21頁「挑戦:プロ野球 中日・福留孝介外野手」(記者:仁瓶和弥)
  52. ^ a b 『毎日新聞』2006年10月17日東京朝刊第一運動スポーツ面19頁「ザ・対決:プロ野球・'06日本シリーズ/3 世界一に貢献、打のリーダー」(記者:武藤佳正・深町郁子)
  53. ^ 東京新聞』2016年12月13日朝刊第二運動スポーツ面26頁「プロ野球 中日 新入団選手発表 チーム再建 7人の新風 京田『立浪さん目標に』」
  54. ^ a b 『中日新聞』2017年11月21日朝刊第二運動スポーツ面26頁「京田選手 新人王 強い心と体 原動力」「ミスタードラゴンズに ファンが期待」
  55. ^ 『中日新聞』2018年12月9日朝刊第一社会面33頁「NEO ミスター竜に 根尾選手 『肩生かした守備を』」
  56. ^ 『朝日新聞』2019年1月1日名古屋朝刊第二スポーツ面27頁「与田監督、中日の可能性は無限大 抱負を語る プロ野球【名古屋】」(記者:鷹見正之、上山浩也)
  57. ^ 『中日新聞』2018年10月27日朝刊岐阜県版20頁「岐阜ゆかり4人指名 ドラゴンズへ期待 高木さんみたいな選手に 県の野球人口底上げへ」(記者:高橋貴仁)
  58. ^ 『中日新聞』2018年12月9日朝刊第一社会面33頁「NEO ミスター竜に 根尾選手 『肩生かした守備を』」
  59. ^ 『中日新聞』2018年12月9日朝刊第一社会面33頁「根尾選手 攻守で要注目に チャンスに強く 勝利呼び竜上昇 ファンもワクワク」
  60. ^ 次原隆二『ドン・ボルカン-聖なる男の伝説-』1、集英社〈ジャンプコミックス〉、1992年1月(日本語)。ISBN 978-4088712345

参考文献[編集]

関連項目[編集]