ミスタードラゴンズ

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中日ドラゴンズ > ミスタードラゴンズ

ミスタードラゴンズは、日本プロ野球(NPB)・セントラル・リーグ(セ・リーグ)の球団、中日ドラゴンズの中心選手に与えられる称号である。

ファンの間では、それぞれ異なる時代に活躍した、西沢道夫高木守道立浪和義の3人が、一般的に「ミスタードラゴンズ」として認知されている[1][2][3]

概要[編集]

この称号は、阪神タイガース(大阪タイガース)の中心選手にファンが与える称号「ミスタータイガース」とは異なり、ファン・選手のみならず、中日球団が公式に使用している称号でもある[4][5][6][7]

また、中日球団の親会社、中日新聞社が発行する、『中日新聞』『中日スポーツ』など、各新聞媒体でも、この称号名が使用されている[1][8][9][10][11][12][13][14]。なお、『中日新聞』紙面にて、「ミスタードラゴンズ」という単語が使用されたのは、『中日新聞』2006年4月8日朝刊第一スポーツ面27面記事「立浪サヨナラ満塁弾、自らも息吹き返す」(記者:鵜飼哲也)の記事上で、当時現役選手だった立浪和義を指して使用されたのが最初である[1]

ミスタードラゴンズと呼ばれる選手[編集]

初代・西沢道夫[編集]

西沢道夫(1949年)

「初代ミスタードラゴンズ」とうたわれる西沢道夫[15][10][2][3]、戦前、投手として14歳でプロ入りし(野球殿堂博物館の記録より)[16]、名古屋軍(現在の中日)の選手として、1937年9月5日、初の公式戦試合出場を果たした[17][16]。この時の年齢、満年齢16歳4日は、日本プロ野球史上最年少記録となっている[17][16]

1リーグ時代の1940年、シーズン20勝を挙げた[17]。1942年5月24日、対大洋戦(後楽園球場)で、プロ野球史上最長となる、延長28回完投(311球)を達成した[17]。同年7月18日、対阪急戦(後楽園球場)にて、プロ野球史上9人目(14番目)のノーヒットノーランを達成した[18]

しかし1943年太平洋戦争の戦局悪化により日本軍に応召されると、戦前から悩まされていた右ひじ痛に加え、兵役に従事した結果、利き手の右肩を痛めてしまった[17]。終戦後日本に引き上げると、名古屋軍から改称した中部日本軍でプレーしていたが、1946年シーズン途中、ゴールドスターへ内野手として移籍する[17]

その後、天知俊一監督に誘われ、1949年、中日ドラゴンズに復帰を果たした[17]。1950年、西沢は、日本記録となるシーズン満塁本塁打5本を含め、自己最高の46本塁打を放った[17]

1952年には、打率.353で首位打者、98打点で打点王を獲得し、二冠王に輝くと、1954年には、主軸打者として、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献した[17]

1955年オフには失踪騒動を起こすなど、ナイーブな一面もあった[17]2018年現在、二刀流の現役選手として活躍している大谷翔平とは異なり、投手・打者の同時進行ではないが、20勝・40本塁打を1人で達成したのは、日本プロ野球史上、西沢が唯一である[17]

引退後、中日コーチを経て、中日監督を務めた西沢は、1977年野球殿堂入りを果たしている[19][17]

2代目・高木守道[編集]

高木守道(2012年、第二次監督時代)

西沢に次ぐ、2代目ミスタードラゴンズとして知られる高木守道[15][20]、堅実さに加え、見る者を魅了する華やかな守備と、確実性と一発長打を兼ね備えた打撃[21]、投手の癖を見抜き、卓越したスライディング技術で[21]、「出塁したら次の塁を狙う」走塁と[22]、走攻守の三拍子揃った、「球史最高のセカンド」と評される名選手である[21]

県岐阜商高校1年生時代、当時・立教大学4年生だった長嶋茂雄(後に巨人入り)が指導に訪れた際、長嶋から「5年後だったら、日本一の内野手になれる」と絶賛された[21]。3年生の時、春のセンバツで準優勝を果たした[21]

卒業後、早稲田大学進学が内定していたが、急遽オファーを受け、1960年、中日に入団した[21]。プロ1年目の同年5月、代走で公式戦初出場を果たすと、二塁への盗塁を決め、その後、初打席初本塁打を記録した[21]

決して大柄ではなかったが[21]、4年目の1963年、1番・二塁手の定位置に定着し、2番・中利夫とのコンビで、相手投手・守備陣をかき回した[22][21]。同年は、50盗塁を記録し、初の盗塁王を獲得した[22][21]

翌1964年には、1試合5盗塁を含め[22][21]、42盗塁を記録し、1965年には、初の打率3割達成とともに、44盗塁で2度目の盗塁王を獲得した[22]

時折しか見せなかったが、「芸術品」[21]、「誰にも真似できない」とも評された[22]、超ロングのバックトス[22][21]・グラブトスを持ち味としていた[22]。捕球と同時にボールを持ち換え、重心移動と、強い手首を生かし、二塁に送球する、そのバックトス技術は、「横着だ」と非難する声もあったが、「むしろ正確性を重視し、捕ってから投げるまでを、一連の動作にする」のが狙いだった[21]。高木自身は、この動作について、「捕ってから体を回すという無駄な動作がないので、速いし、ミスも防げる」と語っている[21]

「どうやったら(走者を)アウトにできるか」という発想から、カバーリングにも一切手を抜かず、送球がそれても、相手がダイレクトで捕球できる位置を狙うなど、データ・観察力・自身の勘をも取り入れた、大胆なポジショニングにも定評があった[21]。また、妥協点のないプレーを支えるものとして、プレー、用具、普段の生活まで、すべてにおいて、プロ野球選手として、厳格であり続けた[21]。1963年オフ[21]フロリダ野球留学で、メジャーリーグベースボール(MLB)で使用されていた二塁手専用グラブの存在を知り、日本で初めて導入した[22]

1974年、前年までV9を達成し、前代未聞の10連覇を目指していた巨人を倒し、球団史上2度目、20年ぶりのリーグ優勝に貢献した[22][21]同年の日本シリーズでは、ロッテオリオンズに敗退したものの、敢闘賞を受賞した[22][21]

選手兼任コーチに就任した1978年には、中日球団の生え抜き選手としては初めて、通算2000本安打を達成した[21]。翌1979年、打率3割をマークしたが、1980年、1歳年上の巨人・王貞治の引退表明を受け、「(王さんが引退しても自分が現役を続行したら)自分がリーグ最年長になってしまう」として、自身も現役を引退した[21]。現役引退までに、二塁手としてベストナインに7回選ばれたが、これは二塁手として史上最多であった[22]

引退後、コーチ・野球解説者を経て1992年星野仙一の後任として監督に就任した[21]1994年、同率首位で並んでいた巨人とリーグ優勝をかけ、リーグ最終戦で直接対戦した(10.8決戦[21]。翌1995年、成績不振のためシーズン途中で解任された[21]

2006年、野球殿堂入りを果たした[23]。その後、2012年落合博満の後を受け、70歳の高齢にして、監督に復帰したが、2年で退任した[21]

高木が2度にわたって、厳しい状況で監督業を引き受けたのは、『中日ドラゴンズHERO列伝』(ベースボール・マガジン社)にて、「21年間の現役生活を過ごしたドラゴンズを愛するが故にだろう」と述べられている[21]

現役時代を知らない世代からは、「星野仙一の人気を合間を埋める地味な監督」、「CBCテレビ・『サンデードラゴンズ』の「高木チェック」で、滅多に『ファインプレー』の評価をせず、『普通』の札しか上げない頑固親父」[20]、「短気なジョイナス[注釈 1]おじいちゃん」と、あまり高い評価をされていないが[24]、『中日ドラゴンズ伝説2009』(オークラ出版)では、「指揮官としての手腕は、4回のリーグ優勝を達成した落合も参考にしている」、「監督人事の際、必ず候補に挙がるだけに、関係者からの評価は高いようだ」と評されている[20]

3代目・立浪和義[編集]

立浪和義(2009年)

西沢・高木に続き、「3代目ミスタードラゴンズ」と呼ばれる立浪和義[15][3][2]1987年オフ、同年の第59回選抜高等学校野球大会第69回全国高等学校野球選手権大会と、甲子園春夏連覇を達成したPL学園高校を主将として率いた[25]。同年のドラフト会議で、南海ホークスとの1位競合指名の末、星野仙一監督率いる中日が交渉権を獲得し、入団した[25]

立浪は翌1988年以降、2009年に現役を引退するまで、中日一筋で22年間プレーした[25]

1年目、高卒新人ながら開幕戦に、遊撃手としてスタメン出場すると、勝負強い打撃・華麗な守備で新風を起こし、甘いマスクも相まって「竜のプリンス」と呼ばれた[25]。同年は、新人王・遊撃手部門のゴールデングラブ賞を獲得する活躍で、中日球団史上4度目のリーグ優勝に貢献した[25]

1989年は「2年目のジンクス」にぶつかる形で、右肩故障により低迷するが、3年目となる1990年、規定打席に到達して打率.303を記録して以降、チームの主力選手として「強竜打線」を牽引し、安打を量産した[25]

その後も勝負強い打撃で勝利に貢献した立浪は、2002年には強打者不在の打線で4番打者を務め、ともに自己最多となる16本塁打・92打点を記録するなど、中日の主力選手として活躍した[25]2003年7月5日、東京ドームで行われた巨人戦にて、通算2000本安打を達成した[26]2005年には通算450二塁打を達成し、福本豊の記録を塗り替え、日本プロ野球史上最多二塁打記録を達成した[25][27]

その間、遊撃手→二塁手→三塁手と、幾度にわたって守備位置を変更しつつも、1995年から1997年まで3年連続で二塁手部門、2003年には三塁手部門で、通算5回のゴールデングラブ賞を獲得した[25]。1996年には二塁手、2004年には三塁手として、それぞれベストナインを獲得した[25]

晩年となる2006年シーズン途中以降は森野将彦の台頭により、スタメンを外れ代打要員となったが、プロとして与えられた立場でチームに貢献した[25]。その人気は「代打・立浪」のコールの度に、ナゴヤドームでは大歓声が上がるほどだった[25]2007年には落合博満監督の下、球団史上53年ぶりの日本一に貢献した[25]

現役引退まで、打撃三部門のタイトル(首位打者本塁打王打点王)・盗塁王の獲得はゼロに終わり(無冠の帝王)、ずば抜けた成績を残したシーズンこそなかったものの、2009年の引退までに、通算2586試合出場、2480本安打、171本塁打、1037打点、135盗塁、打率.285の成績を残した立浪は、星野監督時代の1988年・1999年、落合監督時代の2004年2006年と、計4度のリーグ優勝に貢献した[25]。日本球界最多となる通算487二塁打を記録しているが、プロ入り初安打・最終安打ともに二塁打であったことから、本人は「二塁打に縁があるかもしれない」と語っている[25]

大山くまおは、立浪の人物像について、「その風格と貫録、名古屋での絶大な人気は、他の追随を許さない」と述べている[2]。また、ファンの間では根強く、現役時代末期から、引退後の現在に至るまで、立浪に対し、監督就任待望論がある[15][28][29]

中日球団の応援歌として親しまれている「燃えよドラゴンズ!」のうち、2007年の日本一を記念して制作された「燃えよドラゴンズ! 2007優勝記念盤」では、歌詞2行分を費やし、立浪について言及する「特別扱い」がなされている[30]

その他の選手[編集]

上記の3人が、一般的に「ミスタードラゴンズ」として認知されているが、それ以外にも以下のような人物を「ミスタードラゴンズ」や、それに準ずる存在として挙げる声もある[31]

木俣達彦

現役時代、高木とともにプレーした木俣は、1974年1982年と、それぞれ中日のリーグ優勝に貢献した。

中日一筋で実働19年、捕手としては2005年当時、セ・リーグ史上最多の1998試合に出場した実績を誇る名捕手[32][33]。「打てない捕手など意味はない」を持論としており、「マサカリ打法」と呼ばれた独特の打法で、通算285本塁打を記録し、「強竜打線」の一員を担った[32][33]

2005年、中日球団創設70周年を記念して発売された『昇竜の軌跡』(ベースボール・マガジン社)では、「中日は『ミスター・ドラゴンズ』という呼び方はなかなか聞かないが、木俣はミスター・ドラゴンズの資格十分である」と紹介されている[32][33]

星野仙一

エースとして活躍し、「巨人キラー」として名を馳せた現役時代は、高木・木俣とともにプレーし、1974年1982年と、それぞれ中日のリーグ優勝に貢献した。

その後、1987年 - 1991年1996年 - 2001年と、2期にわたって監督を務めた星野は、立浪を育成するなど、生え抜き監督として唯一[注釈 2]、複数回のリーグ優勝(1988年1999年)を達成した。

現役時代・監督時代ともに、強い印象・影響を残したことから、ファンの間では「ミスタードラゴンズ」の1人や、それに近い存在とみなされる場合がある[31][34][35]

山本昌(山本昌広)

中日一筋で、球団最多勝利記録となる通算219勝を挙げ、日本プロ野球史上最長となる32年間にわたり、現役生活を続けたフランチャイズ・プレーヤー

立浪の入団初年度から引退まで一貫してチームメイトだった山本は、長らく先発ローテーションに定着し、1988年1999年2004年2006年2010年と、5回のリーグ優勝に貢献した[注釈 3]

ファンからは星野同様、「ミスタードラゴンズ」として名前が挙がる場合がある[31]

杉下茂

中日球団で通算211勝を挙げ、西沢とともにプレーした1954年、球団史上初のリーグ優勝・日本一に、エースとして貢献した。

『中日ドラゴンズ伝説2009』では、杉下について、「ミスターではなく、神様と呼んだ方がいい」と言及されている[20]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 高木が監督を務めた、2012年・2013年の球団スローガン「join us~ファンと共に~」をもじった俗称。
  2. ^ 中日の歴代監督で、星野以外に複数回優勝を達成した監督は、2004年2006年、さらに2010年2011年(球団史上初のリーグ連覇)と、計4度のリーグ優勝を達成した落合博満(現役時代の1987年、ロッテオリオンズから移籍)のみである。
  3. ^ 山本が現役だった2011年にも、中日はリーグ優勝(球団史上初の連覇)を達成しているが、山本はこのシーズン、一軍公式戦に登板していない。

出典[編集]

  1. ^ a b c 『中日新聞』2006年4月8日朝刊第一スポーツ面27面「プロ野球 セ・リーグ 中日4連勝 中日5-1巨人」「立浪サヨナラ満塁弾、自らも息吹き返す」(記者:鵜飼哲也)「立浪2351安打 歴代10位『打撃の神様』に並んだ」
  2. ^ a b c d 大山(2013)、p.122
  3. ^ a b c 赤坂(2013)、p.160
  4. ^ 9/30 立浪和義FOREVERクリアファイルプレゼントのお知らせ”. 中日ドラゴンズ 公式サイト (2009年9月28日). 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  5. ^ 「立浪和義引退記念グッズ」販売中!”. 中日ドラゴンズ 公式サイト (2009年9月25日). 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  6. ^ 「夏の竜陣祭」が閉幕しました。”. 中日ドラゴンズ 公式サイト (2016年7月24日). 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  7. ^ 2016年 ドラフト入団選手 京田陽太”. 中日ドラゴンズ 公式サイト. 2018年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月3日閲覧。
  8. ^ 『中日新聞』2016年1月29日朝刊第一特集面21面「竜魂継承 本紙が選ぶ歴代ベストナイン ドラゴンズ80周年特集」
  9. ^ “【ドラニュース】立浪さんが谷繁監督に直撃”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2016年2月9日). オリジナル2018年3月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20180303112047/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201602/CK2016020902000102.html 2018年3月3日閲覧。 
  10. ^ a b “【ドラニュース】ドラフト1位・柳、背番号「17」”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2016年12月7日). オリジナル2018年3月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20180303111844/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201612/CK2016120702000109.html 2018年3月3日閲覧。 
  11. ^ “【ドラニュース】準規再生へ 立浪さん3カ条”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2016年12月28日). オリジナル2018年3月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20180303111526/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201612/CK2016122802000107.html 2018年3月3日閲覧。 
  12. ^ “【ドラニュース】京田、「生涯ドラゴンズ」を表明 故郷石川でファンに宣言”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2017年12月3日). オリジナル2018年3月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20180303111510/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201712/CK2017120302000102.html 2018年3月3日閲覧。 
  13. ^ “【編集日誌】いずれミスタードラゴンズと呼ばれたい”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2017年12月3日). オリジナル2018年3月3日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180303111617/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/deskn/CK2017120302100001.html 2018年3月3日閲覧。 
  14. ^ “【ドラニュース】荒木、初出席「緊張しっぱなし」 名球会LINEで王さん山本浩二さんらと「友達」つながりに”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2017年12月14日). オリジナル2018年3月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20180303110502/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201712/CK2017121402000101.html 2018年3月3日閲覧。 
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関連項目[編集]