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[[2007年]]8月より、[[サッカーチリ代表|チリ代表]]の監督に就任。[[2010 FIFAワールドカップ|南アフリカW杯]]南米予選では[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]に次ぐ2位という好成績でチリを3大会ぶり8回目のW杯出場に導いた。南アフリカW杯でも62年大会以降白星のなかったチリ代表を16強に導いた。W杯後もチリ代表監督を務めていたが、自身を招へいした[[チリサッカー連盟|チリサッカー協会]]会長のハロルド・マイネ・ニコルスが会長選挙で再選できなかったため[[2010年]][[11月17日]]に行われた[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]との親善試合を最後に[[2011年]]1月に退任した。 |
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===アスレティック・ビルバオ監督就任の経緯=== |
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2011年7月にアスレティックビルバオでは会長選挙が開かれることが決まっていた。当時の現職であったフェルナンド・ガルシア・マクアと43歳と若いホス・ウルティアが立候補して候補人となった。<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2011/07/01/2555228/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%AA%E4%BC%9A%E9%95%B7%E5%80%99%E8%A3%9C%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E6%8B%9B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%82%92%E5%85%AC%E7%B4%84] Goal.com ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約</ref>フェルナンド・ガルシアはヨーロッパリーグ予選前に監督を交代することが危険だとして、当時の監督であったホアキン・カバロスを続投させる重要性を主張した。ホス・ウルティアは「マルセロ・ビエルサは7~8人はいる世界最高の監督の一人だ」と話してマルセロ・ビエルサを監督に招へいすることを公約にした。<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2011/07/01/2555228/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%AA%E4%BC%9A%E9%95%B7%E5%80%99%E8%A3%9C%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E6%8B%9B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%82%92%E5%85%AC%E7%B4%84] Goal.com ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約</ref>ビエルサは当時の監督であったレオナルドが監督の座から退くことが決まっていたインテルや、2010年ワールドカップ後に日本代表監督を辞任した岡田武史の後釜を探していた日本サッカー協会からも誘いを受けていた。<ref>[http://www.daily.co.jp/soccer/2010/06/25/0003128283.shtml] デイリースポーツオンライン岡田後任にビエルサ現チリ代表監督浮上</ref><ref>[http://www.goal.com/jp/news/1867/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2/2011/06/17/2536225/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E4%BC%9A%E9%95%B7%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%96%AD%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F] Goal.comインテル会長:「ビエルサには断られた」</ref>7月7日に会長選挙は行われてホス・ウルティアが当選した。これを受けて前任のホアキン・カバロスが監督の座を退き、マルセロビエルサが就任することが決まった。 |
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===アスレティック・ビルバオ監督=== |
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2011年7月よりリーガ・エスパニョール1部所属のアスレティック・ビルバオの監督に就任。2007年から率いていたチリ代表を2011年2月に離れて以来の現場復帰だった。<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2011/07/08/2565541/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%AA%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E6%B0%8F] Goal.com ビルバオ新監督にビエルサ氏</ref>ビエルサが監督に就任する前にホス・ウルティアが会長に就任していたことによってアスレティック・ビルバオのフロントは一新されていた。フロントの技術スタッフはもちろん、下部組織の各カテゴリーの指導者も大幅に入れ替わった。また、10-11シーズンまでアトゥレティコ・マドリーの育成部長を務めていたアモロトゥルがハビエル・イルレタと入れ替わる形で新強化部長となった<ref>「Sports Graphic Number」文藝春秋、2011年10月27日号</ref> |
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== 人物 == |
== 人物 == |
2012年3月8日 (木) 07:18時点における版
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ファイル:Marcelo Bielsa Argentinos Rosario.jpg | |||||||||||
名前 | |||||||||||
本名 | Marcelo Alberto Bielsa Caldera | ||||||||||
愛称 | エル・ロコ | ||||||||||
カタカナ | マルセロ・アルベルト・ビエルサ・カルデラ | ||||||||||
ラテン文字 | Marcelo Bielsa | ||||||||||
基本情報 | |||||||||||
国籍 | アルゼンチン | ||||||||||
生年月日 | 1955年7月21日(68歳) | ||||||||||
出身地 | ロサリオ | ||||||||||
選手情報 | |||||||||||
ポジション | DF | ||||||||||
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■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マルセロ・ビエルサ(Marcelo Bielsa, 1955年7月21日 - )はアルゼンチン出身のサッカー監督、元サッカー選手。愛称は「エル・ロコ」。
来歴
初期の経歴
幼少期よりサッカーが好きでニューウェルズ・オールドボーイズの熱烈ファンであった。ビエルサの一族は政治家か法律家になる者が多かったが、これに反しサッカーに携わる職業に就くことを選択する。
1970年代後半にはディフェンダーとしてニューウェルズ・オールドボーイズでプレーするも25歳で引退。すぐにコーチに転身し、オールドボーイズの下部組織の指導者になった。
監督へ
1990年よりトップチームの監督に就任すると、初年度にプリメーラ・ディビシオンを制覇。1992年にはコパ・リベルタドーレスで決勝に駒を進めるもPK戦の末にサンパウロFCに敗れ、準優勝に終わった。
その後、メキシコに拠点を移し、CFアトラスおよびクラブ・アメリカの指揮を執った。帰国後はベレス・サルスフィエルドを率いて1997年のアルゼンチン後期リーグを制覇する。
アルゼンチン代表監督
1998年にはRCDエスパニョールの監督に就任するもほどなくして辞め、ダニエル・パサレラの後任としてアルゼンチン代表監督への就任する。アヤックスの3-4-3システムを発展させた様な3-3-1-3システムを採用し、ロベルト・アジャラ、フアン・セバスティアン・ベロン、エルナン・クレスポらが円熟期に入ったチームは、2002年の日韓W杯南米予選で圧倒的な強さを見せた。両サイドにウイングやセカンドトップの選手を配する形を好んだ為、典型的なセンターフォワードのガブリエル・バティストゥータとエルナン・クレスポが併用される事は無かった。またボカ・ジュニアーズのフアン・ロマン・リケルメの古典的なプレースタイルを好まず、積極的に起用しようとはしなかった。翌年の本大会ではフランス代表と共に優勝候補の一角に挙げられたが、まさかの1次リーグ敗退を喫する。責任を取る形で辞任するものと思われたが、結局は留任した。2004年にはU-23代表を率いてアテネオリンピックで優勝したが、その直後に監督を辞任している。
チリ代表監督
2007年8月より、チリ代表の監督に就任。南アフリカW杯南米予選ではブラジルに次ぐ2位という好成績でチリを3大会ぶり8回目のW杯出場に導いた。南アフリカW杯でも62年大会以降白星のなかったチリ代表を16強に導いた。W杯後もチリ代表監督を務めていたが、自身を招へいしたチリサッカー協会会長のハロルド・マイネ・ニコルスが会長選挙で再選できなかったため2010年11月17日に行われたウルグアイ代表との親善試合を最後に2011年1月に退任した。
アスレティック・ビルバオ監督就任の経緯
2011年7月にアスレティックビルバオでは会長選挙が開かれることが決まっていた。当時の現職であったフェルナンド・ガルシア・マクアと43歳と若いホス・ウルティアが立候補して候補人となった。[1]フェルナンド・ガルシアはヨーロッパリーグ予選前に監督を交代することが危険だとして、当時の監督であったホアキン・カバロスを続投させる重要性を主張した。ホス・ウルティアは「マルセロ・ビエルサは7~8人はいる世界最高の監督の一人だ」と話してマルセロ・ビエルサを監督に招へいすることを公約にした。[2]ビエルサは当時の監督であったレオナルドが監督の座から退くことが決まっていたインテルや、2010年ワールドカップ後に日本代表監督を辞任した岡田武史の後釜を探していた日本サッカー協会からも誘いを受けていた。[3][4]7月7日に会長選挙は行われてホス・ウルティアが当選した。これを受けて前任のホアキン・カバロスが監督の座を退き、マルセロビエルサが就任することが決まった。
アスレティック・ビルバオ監督
2011年7月よりリーガ・エスパニョール1部所属のアスレティック・ビルバオの監督に就任。2007年から率いていたチリ代表を2011年2月に離れて以来の現場復帰だった。[5]ビエルサが監督に就任する前にホス・ウルティアが会長に就任していたことによってアスレティック・ビルバオのフロントは一新されていた。フロントの技術スタッフはもちろん、下部組織の各カテゴリーの指導者も大幅に入れ替わった。また、10-11シーズンまでアトゥレティコ・マドリーの育成部長を務めていたアモロトゥルがハビエル・イルレタと入れ替わる形で新強化部長となった[6]
人物
- 政治家で2003年から2005年までアルゼンチンの外務大臣を務めたラファエル・ビエルサは実兄。また、実姉のマリア・イウヘニアもサンタフェ州の副知事を務めた[7]。
- 戦術マニアとして知られ[8]、趣味はサッカーの試合のビデオ収集。そのため、「エル・ロコ」(変人の意)のあだ名がついた。
- チリ代表監督に就任後、代表の合宿所の宿泊施設に住み始めてメディアを驚かせた[9]。
選手歴
- ニューウェルズ・オールドボーイズ 1977-1978
- インスティトゥート・コルドバ 1978–1979
- アルヘンティーノ・デ・ロサリオ 1979–1980
指導歴
- ニューウェルズ・オールドボーイズ 1990-1992
- CFアトラス 1992-1994
- クラブ・アメリカ1995-1996
- ベレス・サルスフィエルド 1997-1998
- RCDエスパニョール 1998
- アルゼンチン代表 1998-2004
- チリ代表 2007-2011
- アスレティック・ビルバオ 2011-
タイトル
クラブ
- プリメーラ・ディビシオン
- 優勝(1990-1991)、後期リーグ優勝(1992)
- コパ・リベルタドーレス
- 準優勝(1992)
- プリメーラ・ディビシオン
- 後期リーグ優勝(1998)
代表
受賞歴
- 国際サッカー歴史統計連盟選出 最優秀代表監督 - 2001年
- 南米年間最優秀監督賞 - 2009年
脚注
- ^ [1] Goal.com ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約
- ^ [2] Goal.com ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約
- ^ [3] デイリースポーツオンライン岡田後任にビエルサ現チリ代表監督浮上
- ^ [4] Goal.comインテル会長:「ビエルサには断られた」
- ^ [5] Goal.com ビルバオ新監督にビエルサ氏
- ^ 「Sports Graphic Number」文藝春秋、2011年10月27日号
- ^ 【注目選手・監督オモテとウラ】チリ監督マルセロ・ビエルサ、情熱あふれる“聖人”
- ^ “後任候補”ビエルサ氏 練習厳しい戦術マニア
- ^ 「Sports Graphic Number」文藝春秋、2009年10月11日号