酒井友之
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | トモ、トモちゃん | |||||
カタカナ | サカイ トモユキ | |||||
ラテン文字 | SAKAI Tomoyuki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1979年6月29日(44歳) | |||||
出身地 | 埼玉県三郷市 | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 67kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | ペリシラム・ラジャアンパット | |||||
ポジション | MF | |||||
背番号 | 32 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
代表歴 | ||||||
2000 | 日本 | 1(0) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
酒井 友之(さかい ともゆき、1979年6月29日 - )は、埼玉県三郷市出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ、右サイドハーフ)。リーガ・インドネシア・ペルセワ・ワメナ所属。
来歴
ジェフユナイテッド市原ユースに所属していた、高校3年生の時に、初出場する。
1999年、ナイジェリアで行われたワールドユースにレギュラーで出場。準優勝に貢献。
2000年、シドニーオリンピックにレギュラーとして出場。2000年12月の対韓国戦では途中出場ながらA代表デビューを果たす。
シドニーオリンピックでは中村俊輔らと中盤を構成、酒井は右サイドで出場し、決勝トーナメントに進出。しかし、一回戦の対アメリカ戦では2-1の状況で試合終了直前に痛恨のPKを献上してしまう。これを決められ、最終的にPK戦の末、敗れた。
2001年、名古屋グランパスエイトへ移籍。2004年、浦和レッドダイヤモンズへ移籍。2007年7月にヴィッセル神戸へ完全移籍。その後、2008年オフにヴィッセル神戸から戦力外通告を受け退団。以降は手術をした腰のリハビリとトレーニングをしながら所属クラブを探し、2009年7月に静岡県社会人リーグ1部に所属する藤枝MYFCに加入したが、同年シーズン終了後に退団。
その後、無所属状態が続いていたが、2010年9月にインドネシアリーグのペリタ・ジャヤへの加入が決まり、2011年2月末までプレーした。翌3月からは同じくインドネシアリーグのペルセワ・ワメナに移籍することが本人のブログで報告された[1]。
2011年11月、同リーグのペリシラム・ラジャアンパットに移籍。2012年も引き続き、ペリシラム・ラジャアンパットでプレーすることが決定した。
エピソード
- 浦和時代はアレックスと共にいじられキャラとしてチームメイトに愛されていた。レッズフェスタでのトークショーで「(癒し効果のある)マイナスイオンを発する男」とも言われた事がある。ただし、市原ユースの後輩で市原でもチームメイトだった阿部勇樹はユース時代から酒井に対して「怖い先輩」のイメージしかなかったため、阿部が2007年に浦和に移籍して再会した際、あまりの酒井のキャラの変貌ぶりに驚きを隠せなかった。
- 浦和時代は分厚い選手層に阻まれ、決して出番は多くなかったものの、出場すればしっかりと仕事をするため、首脳陣やチームメイトの信頼は厚かったらしい。中でも2004年11月6日に行われたJリーグセカンドステージ第12節、対清水エスパルス戦の68分に挙げた同点ゴールは今でもサポーターの中で語り草になっている。その3日前に行われたナビスコカップ決勝でFC東京にPK戦の末に敗れ、この試合も前半に先制点を許し重苦しいムードが漂う中、酒井が左足を一閃したミドルシュートは相手DFに当たりゴールへ吸い込まれ、ムードが一変する。これで勢いに乗った浦和は84分に田中マルクス闘莉王が逆転ゴールを決めて勝利し、ステージ優勝に向けて貴重な勝ち点3を得る事となった。
- 趣味はサーフィン。友人である清水エスパルスの永井雄一郎と一緒にサーフィンをする様子がお互いのブログで紹介されている。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1992年 - 1994年 ジェフユナイテッド市原ジュニアユース(光が丘第二中学校)
- 1995年 - 1997年 ジェフユナイテッド市原ユース(東京都立豊島高等学校)
- プロ経歴
- 1998年 - 2000年 ジェフユナイテッド市原
- 2001年 - 2003年 名古屋グランパスエイト
- 2004年 - 2007年7月 浦和レッドダイヤモンズ
- 2007年7月 - 2008年 ヴィッセル神戸
- 2009年7月 - 2009年12月 藤枝MYFC
- 2010年9月 - 2011年2月 ペリタ・ジャヤ
- 2011年3月 - 2011年6月 ペルセワ・ワメナ
- 2011年11月 - ペリシラム・ラジャアンパット
個人成績
このテンプレートは利用者空間内にあるため使用しないで下さい。:今後はコピー先のTemplate:サッカー選手国内成績表_topを使用して下さい。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | 市原 | 27 | J | 18 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 21 | 2 |
1998 | 市原 | 6 | J | 25 | 0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 32 | 1 |
1999 | 市原 | 6 | J1 | 22 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 23 | 1 |
2000 | 市原 | 6 | J1 | 27 | 1 | 2 | 0 | 3 | 1 | 32 | 2 |
2001 | 名古屋 | 8 | J1 | 25 | 3 | 6 | 0 | 1 | 0 | 32 | 3 |
2002 | 名古屋 | 8 | J1 | 29 | 1 | 6 | 0 | 3 | 0 | 38 | 1 |
2003 | 名古屋 | 8 | J1 | 17 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 20 | 1 |
2004 | 浦和 | 7 | J1 | 19 | 1 | 7 | 1 | 3 | 0 | 29 | 2 |
2005 | 浦和 | 7 | J1 | 18 | 2 | 6 | 0 | 4 | 0 | 28 | 2 |
2006 | 浦和 | 7 | J1 | 3 | 0 | 5 | 1 | 3 | 0 | 11 | 1 |
2007 | 浦和 | 7 | J1 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |
神戸 | 44 | J1 | 10 | 0 | - | 2 | 0 | 12 | 0 | ||
2008 | 神戸 | 14 | J1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2009 | 藤枝 | 50 | 静岡県1部 | 8 | 3 | - | - | 8 | 3 | ||
インドネシア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2010-11 | ペリタ・ジャヤ | 7 | リーガ・インドネシア | 10 | 1 | - | - | 10 | 1 | ||
ペルセワ・ワメナ | - | リーガ・インドネシア | 12 | 0 | - | - | 12 | 0 | |||
2011-12 | ペリシラム・ラジャアンパット | 32 | リーガ・インドネシア | 23 | 2 | - | - | 23 | 2 | ||
2012-13 | ペリシラム・ラジャアンパット | 32 | リーガ・インドネシア | - | |||||||
通算 | 日本 | J1 | 213 | 11 | 42 | 3 | 23 | 2 | 278 | 16 | |
日本 | 静岡県1部 | 8 | 3 | - | 0 | 0 | 8 | 3 | |||
インドネシア | リーガ・インドネシア | 45 | 3 | - | - | 45 | 3 | ||||
総通算 | 266 | 17 | 42 | 3 | 23 | 2 | 331 | 22 |
その他の公式戦
その他の国際公式戦
- 2007年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
経歴
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(2000)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2000 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 |
関連項目
- 埼玉県出身の人物一覧
- サッカー日本代表出場選手
- U-20サッカー日本代表
- オリンピックサッカー日本代表選手
- 高校生Jリーガー
- ジェフユナイテッド市原・千葉の選手一覧
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- ヴィッセル神戸の選手一覧
- 日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧