谷口信輝

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谷口 信輝(たにぐち のぶてる、1971年5月18日 - )は、広島県広島市出身のレーシングドライバー。血液型はB型。

元々は走り屋で、そこからレーサーになるという変わった経歴の持ち主である[1]。ドリフト界随一のイケメンとして知られる。

プロフィール

愛称はNOBのび太、スティンガー谷口。雑誌『Option』によると、NOBの発音は「のぶ」ではなく「えぬおーびー」と発音するのが正しいものの、本誌の方でも時折「のぶ」と書かれる事もあるなどあまり定着していない。NOBの意味はオリジナルグッズのロゴや、自身のサイトURLに使われているNo One Betterの頭文字、もしくは名前の最初というのが有力な説である。

また、初期の全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)などで女の子をナンパし続けたことから「スケコマシー」などと呼ばれることもある。『Option』にテスターとして初登場したときには、当時のチャナ編集長により、「カイヤ谷口」と命名された。

スティンガー谷口のスティンガーとは、ベロフが発売していた「スティンガービーム」と呼ばれるディスチャージヘッドランプをパターン点滅させる物を、谷口×HKSがD1で真っ先に搭載し、本番走行中に点滅させていた所から来ている。また、『VIDEO OPTION』ではスティンガービームの事を同じ理由で「谷口ビーム」と呼ぶ事がある(今村陽一アルテッツァレース参戦記にて「谷口ビーム」の台詞が出ている)。

19歳の頃から峠を攻める走り屋で、ハチロクを5台乗り継いだ後S14型シルビアK's後期型に乗り、現在はS15シルビアSpec-Rに乗っている。日記によるとS15を3台所持している模様。本人曰く「ハチロク乗りだからシルビアは嫌い」だったらしい。相手がS13シルビアの時にはバンバン煽って抜いていたのが、S14の登場と共に峠でついて行く事すら出来なくなったため、泣く泣くS14への乗り換えを決心したことを語っている。

セカンドカーとしてJZX100 マークII(2JZ-GTE載せ変え)を所持していた時期があったが、セカンドカーにも拘らずマニュアル車であった。『Option』のホットマシンコンテスト番外編に掲載された際、その事を司会の鈴木学に突っ込まれていた。

2011年7月13日、自身のブログ及びTwitterで結婚を発表した。

2012年4月現在はR35 GT-Rエルグランド、S15シルビア、180SXトヨタ・86を所有している。

戦績

D1グランプリ

2001年 - 第2戦、第5戦(共に日光サーキット)で勝利を飾り、シリーズチャンピオンの座を掴む。第2戦で4輪Sタイヤ(この時はウェット用)装着、第5戦ではドライ用のSタイヤ4輪装着で優勝を飾り、Sタイヤでも滑らせる技術を見せた。本人は「第2戦のSタイヤ4輪装着はギャンブルだった」と語っている。

2002年 - HKSのワークスドライバーとなり、HKSハイパーシルビア(S15)に乗る事となる。しかし、シェイクダウン時運転していた土屋圭市がクラッシュをしてしまい、第1戦では自前の車にHKSのパーツを装着した物を使っていた。第2戦以降はHKSのワークスカーが復活し、早速第2戦では優勝するが、第3戦以降度重なるシフトミスでの敗退(第3戦富久田、第4戦吉岡、第5戦山下)、そして第6戦でタイロッドが折れるというマシントラブルなど、上位には食い込むが表彰台にはあまり立てなかったため、シリーズチャンピオンになる事は出来なかったが、シリーズランキングでは2位を獲得した。

2003年 - この年もシリーズチャンピオンの候補に挙げられていた。しかし第1戦で練習中エンジンブロースペアカー(マイカー)のブレーキパッドが剥離し、それを修理したところブレーキバランスが狂ってしまい、決勝1回戦でスピンしてしまい追走に進出できなかった。第2戦では地元ながら不得意な備北ハイランドサーキットで、しかも滑りやすい路面にマシンが合わず、ベスト16にて敗退した。第3戦スポーツランドSUGOでは電気系のトラブルが発生し、予選落ちすることとなる。2ヶ月のブランクがあった第4戦富士スピードウェイでは、得意の超高速コースと復調したマシンの戦闘力が加わり、2位を獲得。待望の新車、ハイパーシルビアRS-II(S15)が投入された第5戦で6位。そして最終戦筑波サーキットでは今までのスピードだけの走りでなく、角度と白煙をRS-IIと共に自分のものとした強烈な走りを披露した(この頃には、リアがセンチ単位でコントロール出来ると語っていた)。しかしベスト16に入る前のオープニングセレモニーで、オーバーレブから第1戦と同様にエンジンブローが発生してしまう。セッティングも走りもまったく違うRS-Iに乗り換え、追走序盤三木竜二とサドンデスを繰り返すなど苦労していたが、決勝まで進出。相手である今村陽一のハーフスピンにも助けられ、シーズン初優勝を飾る。普段はクールに見える谷口が、表彰台で泣き出すという一面を見せた。

2004年 - 第4戦オートポリス大分県)での優勝を始め、開幕戦アーウィンデール・スピードウェイアメリカカリフォルニア州)、第2戦スポーツランドSUGO宮城県)での準優勝、第3戦エビスサーキット南コース(福島県)での3位表彰台など、抜群の安定感を見せた。シリーズチャンピオン最右翼と言われていたが、第6戦のエビスで、乗りなれた「HKS Genki ハイパーシルビアRS-II(S15)」から乗り換えた「HKS Racing Performer IS-220R アルテッツァ(SXE10)」がブーストがほとんどかからなくなるという突然のマイナートラブルを起こし、シーズン初の一回戦落ちとなった。最終戦の筑波サーキットで巻き返しを図るも、追走一回戦(ベスト16)でテールを止めきれずに平岡英郎に接触して敗退し、シリーズチャンピオンを逃した。

2005年 - 第4戦、第7戦がSUPER GTスーパー耐久と重なるために不参加が決定していた。第1戦アーウィンデールではマシントラブルによりベスト16敗退。第2戦お台場でもプロペラシャフトが折れるという、予期出来ないマシントラブルにより決勝で敗退してしまう。高速コースは得意としているはずだが、第3戦SUGOでは1本目を失敗した事によるリズムの崩れから一回戦で敗退した。

第5戦エビスではベスト8にて織戸学とのGTドライバー対決となったが、先行でアンダー、後追いでスピンをしてしまい敗退した。第6戦富士スピードウェイでは得意の高速コースとあって期待されていたが、ベスト8にて詰まりすぎによるアンダーを出してしまい敗退。前述のようにここでシーズンを終えることとなる。

2006年 - 2月24日にHKSがD1グランプリからの撤退を発表した。所属していた谷口も他チーム・プライベート参戦は行わなかった。本人の日記を見る限り、谷口の方からD1参戦を取り止めたことが伺える(実際にはD1事務局や他ドライバーからの苦情により参戦を止めさせられた模様[要出典])。以前にも、HKS以外でD1に出ることは考えられないという発言をしていた。

2008年 - 第2戦の富士でHKS・IS220-Z(2号機)でスポット参戦。約2年ぶりの復活となる。練習から「全然ダメだった」と言いながらも、HKSの迅速なセッティングのおかげで予選→一回戦と尻上がりに調子を上げていく。一回戦を難なく通過したが、ベスト16で当たった水畑力にサドンデスの末に敗れる。そしてお台場エキシビションにも参戦し、土曜日のベスト16で熊久保信重にまたもやサドンデスの末に敗れるが、日曜日ではベスト16で当たった平岡英郎が観客席側に設けられた鉄柵に突き刺さるほどの大クラッシュに見舞われたことから不戦勝でベスト8に進出を果たす。ベスト8では手塚強にサドンデスで敗れたものの、2年間のブランクを感じさせない走りを見せた。

2009年度はスケジュールの調整などを詰め、フル参戦での復帰を目標に準備を進めていたが、結局参戦は実現しなかった。

2012年に「HKS Racing Performer 86」でD1GPへ復帰予定。 (※ただし開幕戦は開発が間に合わないためアルテッツァで参戦)

全日本GT選手権・SUPER GT

全日本GT選手権SUPER GTでは2002年よりGT300クラスに参戦。当時はRE雨宮からマツダ・RX-7でのエントリーで、早くも第3戦で初優勝を遂げた。2004年からRACING PROJECT BANDOH(坂東商会)に移籍。当初は元のFFからFR化されたトヨタ・セリカの挙動変化に戸惑っていたそうだが、その後マシンの挙動をものにしたと言う。この年は第2戦で優勝し、シリーズ5位となった。

2005年は第5戦で2位、第7戦で3位と表彰台に2度立ったが優勝することはできず、シリーズ7位に終わった。

2006年にはチームをディレクシブに移籍し、2006年度第3戦終了時点でポイントランキングトップに立つが、同年8月にはディレクシブがシーズン途中ながら事実上モータースポーツ界から撤退してしまったため、R&D SPORTにチーム丸ごと移籍。第7戦まではトップのままシーズンを順調に過ごしていたが、第8戦以降はノーポイントに終わり、結局ドライバーズランキング3位で終了した。

2007年チーム・タイサンに移籍。マシンが5年前の旧型ポルシェという事やチームメイト山路慎一が体調不良による欠場など、2年続けて不安の多いシーズンだったが、旧型車の性能優遇措置を活かし、メインストレートが長く、テクニカルコーナーが少ないツインリンクもてぎや富士スピードウェイではダントツの速さを見せ[2]、年間2勝の活躍でランキング6位の成績を残す。

2008年も引き続きチーム・タイサンから参戦。マシンの熟成が進んできたこともあり、開幕から2戦連続表彰台に登る。第7戦ツインリンクもてぎでは自身初のポールポジションを獲得する。チャンピオン争いの天王山となった第8戦オートポリスでは、2位走行中にパートナーの山路慎一がGT500の車に接触され4位に落ちてしまう。さらに19号車にも追突されてしまい、ノーポイントに終わったためタイトル争いから脱落してしまった。その鬱憤を晴らすかのように最終戦富士では優勝し、ランキング3位の成績を残した。結果的にオートポリスでの4位入賞があればチャンピオンだっただけに悔やまれるシーズンとなった。

2009年は古巣のRE雨宮に復帰。開幕からしぶとい走りと、チームのタイヤ無交換作戦が功を奏し4戦連続表彰台に乗りランキングトップに立った。特に第4戦セパンでは、接触によりほぼ最後尾まで落ちたものの、そこから怒涛の追い上げを見せ、タイヤ無交換も成功し3位表彰台を獲得した。 最終戦は2位で終わり、シリーズ2位で終えた。

2010年は引き続きRE雨宮から参戦。開幕戦はポールポジションからスタートし、オープニングラップでコースアウトするものの得意のタイヤ無交換作戦で優勝を飾ると、セパンでも優勝を果たして2勝を挙げるものの、マシントラブルやシーズン途中の性能調整に足を引っ張られたのかそれ以外のレースで大量得点を得られず、シーズン3位で終えることとなった。

2011年グッドスマイルレーシングBMW・Z4 GT3での参戦。第3戦セパンでは圧倒的なストレートスピードを武器にポール・トゥ・ウィンを果たした。その後シーズン途中の性能調整を受けるも3勝し、GT参戦10年目にして自身初のシリーズチャンピオンを獲得した。

筑波スーパーラッパーとしての活躍

筑波サーキットにおけるタイムアタックには2001-2002シーズンから登場した。最初はラーマン山田土屋圭市飯田章織戸学の影に隠れていた。本人曰く「ドリフト上がり(=強いオーバーステア傾向の車を運転していた)なのに、いきなりアンダーステアのセッティングをしなければいけないのが大変」だったと述べている。しかし2002-2003シーズン以降は頭角を現し、RE雨宮μ 3ローター7にてN/A車当時最速の58秒8を叩きだし、トップクラスのスーパーラッパーとなる。

2003-2004シーズン、ランサーエボリューションVIII(CT9A)をベースにHKSがチューニングした「HKS・TRB-02(ツクバレコードブレイカー02)」で、筑波サーキットチューニングカー最速タイムとなる55秒フラットを叩きだしレコード保持者となり、後日55秒切りを達成した。しかしその後のセッティングラン中に、第一ヘアピンでスポンジパッドに全開で突っ込み、車両価額推定1000万円[3]のマシンをスクラップにしてしまった[4]。 この事故のせいで同日に行われていたD1団体戦にてクラッシュすることを「谷口っちゃう」と呼ばれていた。 それでも2004-2005シーズン・そして2005-2006シーズンにおいてこのタイムを越える車は登場せず、現在でも谷口はレコードホルダーである。

現在はこのTRB-02で出した4WD兼絶対レコードの他に、前述のD1車両レコード(HKS HIPER SILVIA RS-IIにて)、そして4ドア車レコード(Racing Perfomer IS-220Rにて)の3部門でのレコードホルダーとなっている。

またVideo Option未収録のためスーパーラップレコードとしては認定されていないが、富士スピードウェイ新コースにてチューニングカーレコードを出している。しかしギア比の関係でストレートでレブリミッターに当たり速度が伸びなかったため、それさえ修正できれば更なるレコード更新ができると語っていた。

エピソード

  • 車の走り屋をする前はバイクの走り屋で、NSR50でミニバイクレースに参戦していた。
  • 仮面ライダーオーディションに落ちた経験がある。
  • 外見がキリッとしているためそう思われにくいが、実は尋常ではない負けず嫌い。
  • Video Option初出演時はパイナップル頭に剃り眉毛などツッパリスタイルで登場し、現在では恥ずかしい映像としてよくVideo Optionで放送される。
    • その際、講師役だった山田英二に「上手いけど何か足りない」と言われていた。
  • 2006年トヨタ・ラクティスのCMで、出演している佐藤隆太のスタント役として、アフロヘアーのカツラをかぶりラクティスを運転し、初CM出演を飾る。
  • 父親もチューンされたZ33を所有するチョイ悪オヤジである。[5]
  • 土屋圭市にはクールに見えるため、苦手な奴と言われていたが、D1 2003年エキシビジョン@アーウィンデールでは結果はクラッシュに終わる物の、一か八かの熱い走りを見せたために土屋圭市からの目線が変わった。
  • 今村陽一には、戦績や勝利数が谷口より多いのに関わらず永遠の先輩と呼ばれ、尊敬されている。
  • ヤシオファクトリー岡村社長に、「タイヤの使い方が上手い、グリップとドリフトの中間のように、タイヤを物凄くつぶして走るんだ」と誉められた経験がある。
  • レースに初参戦した際にドリフト出身であることから、「僕はタイヤ滑っても怖くないので」という言葉を残している。実際にこのレースでもタイヤが温まっていない序盤にトップを奪取し、そのまま逃げ切って優勝している。[要出典]
  • NISMO 400Rに対し「この車頂戴、一生懸命乗るから」とまで言うほど気に入っていた。しかしNISMOの社員に「谷口君のシルビアと交換なら」と言われてしまい、引き下がった経験がある。
  • 佐藤製薬を個人スポンサーとしており、参戦しているマシンにも「ユンケル」の文字が描かれている。これは古くからの谷口の応援団に佐藤製薬とつながりのある薬局関係者がいるためである。

レース戦績

  • 2000年
    • 十勝24時間レース 5ZIGEN CIVIC(総合10位・クラス4位)
  • 2001年
    • D1 GRAND PRIX (シリーズチャンピオン・2勝)
    • スーパー耐久・クラスN+ (#4 REDLINE ALTEZ )(シリーズ2位)
  • 2002年
    • 全日本GT選手権・GT300クラス (RE雨宮レーシング #7 雨宮マツモトキヨシアスパラRX7)(シリーズ13位・1勝)
    • スーパー耐久・クラスN+ (#25 ADVAN ALTEZZA)(シリーズチャンピオン)
    • D1 GRAND PRIX (シリーズ2位・1勝)
  • 2003年
    • 全日本GT選手権・GT300クラス (第6戦まで)(RE雨宮レーシング #7 雨宮マツモトキヨシアスパラRX7)(シリーズ17位)
    • D1 GRAND PRIX (シリーズ4位・1勝)
  • 2004年
    • 全日本GT選手権・GT300クラス (RACING PROJECT BANDOH #19 ウェッズスポーツセリカ)(シリーズ5位・1勝)
    • スーパー耐久・クラス1 (DENAG RACING #25 ADVAN DGゼナドリンGT3)(シリーズ2位・2勝)
    • D1 GRAND PRIX (シリーズ2位・1勝)
  • 2005年
    • SUPER GT・GT300クラス(RACING PROJECT BANDOH #19 ウェッズスポーツセリカ)(シリーズ7位)
    • スーパー耐久・ST1クラス (TEAM ADVAN DENAG #25 ADVAN DENAG GT3)(シリーズチャンピオン・7勝)
    • D1 GRAND PRIX (シリーズ10位)
  • 2006年
    • SUPER GT・GT300クラス 第6戦まで(direxiv motorsport #27 direxiv ADVAN 320R)第7戦から(R&D SPORT #61 アネブル ADVAN VEMAC320R)(シリーズ3位・1勝)
  • 2007年
    • SUPER GT・GT300クラス (TEAM TAISAN with NISHIZAWA #26 ユンケルパワータイサンポルシェ)(シリーズ6位・2勝)
  • 2008年
    • SUPER GT・GT300クラス (TEAM TAISAN with NISHIZAWA #26 ユンケルパワータイサンポルシェ)(シリーズ3位・1勝)
    • スーパー耐久・ST1クラス (PETRONAS SYNTIUM TEAM #28 PETRONAS SYNTIUM BMW Z4M COUPE)(シリーズチャンピオン)
  • 2009年
    • SUPER GT・GT300クラス (M7 RE雨宮レーシング #7 M7 MUTIARA MOTORS雨宮SGC 7)(シリーズ2位)
    • スーパー耐久・ST1クラス (PETRONAS SYNTIUM TEAM #1 PETRONAS SYNTIUM BMW Z4M COUPE)(シリーズチャンピオン・5勝)
  • 2010年
    • SUPER GT・GT300クラス (M7 RE雨宮レーシング #7 M7 MUTIARA MOTORS雨宮SGC 7)(シリーズ3位・2勝)
    • スーパー耐久・ST1クラス (PETRONAS SYNTIUM TEAM #1 PETRONAS SYNTIUM BMW Z4M COUPE)(シリーズチャンピオン・6勝)
    • ホンダ エキサイティングカップ ワンメイクレース シビックレース(アールエスファイン #18 ジョージスピリッツM7シビック)(インターシリーズ2位・4勝)
  • 2011年
    • SUPER GT・GT300クラス (GSR&Studie with TeamUKYO #4 初音ミク グッドスマイル BMW)(シリーズチャンピオン・3勝)
    • ホンダ エキサイティングカップ ワンメイクレース シビックレース(RS FINE #2 M7JAPAN プロμシビック)(シリーズチャンピオン・2勝)

関連項目

脚注

  1. ^ この経歴の持ち主には土屋圭市織戸学らがいる。
  2. ^ 坂東正敬は「GT400クラスの加速」と発言。
  3. ^ ラーマン山田は1億円と言っていた。
  4. ^ Video Option Vol.120(レコードランとクラッシュシーン収録)、Vol.122(こちらはクラッシュシーンのみ収録)に収録されている。
  5. ^ NoOneBetter BLOG 2008年11月19日

外部リンク