奄美群島の歴史

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奄美群島の歴史(あまみぐんとうのれきし)は、日本鹿児島県奄美群島の地域史。

先史時代

奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラ火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。

日本本土沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島屋久島口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。

ヤコウガイなどは、螺鈿の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。

古代

奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年文武天皇3年)に「菴美」、714年和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。733年天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由してへ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語通訳を置くことも記されている。997年長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている。ただし、同時期に新羅の入寇も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。

この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。

中世

この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。

奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。

鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏惣領嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。

琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。

奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。

按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。

琉球時代

1266年文永3年)、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。

琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。奄美群島南部の沖永良部島与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。

15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏1416年応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国よって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。

1447年文安4年)に尚思達王が奄美大島を従わせた。1450年宝徳2年)から1462年寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。しかし当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、事実上は王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。

1537年天文6年)、尚清王が奄美大島の領主の一人与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、領主間の確執による讒言であると後に判明したため、その子孫を採り立てている。この当時、奄美大島の領主層は貿易の自主性と領地支配の独自性を維持し、琉球王国の一元支配に反抗的であった。湯湾大親は第一尚氏の一門とも言われ、他の領主にとっては煙たい存在であった。最も対立していた我耶大親は、日本本土からの移住者と考えられている。1571年元亀2年)、尚元王は領主層の一掃を目的として奄美大島に三回目の侵攻を行い、地元領主層を廃している。与湾大親の子孫は戦いに王家側として武勲を挙げ、首里に移ってからの後に馬氏を称し、琉球王国五大姓の一つと讃えられ繁栄した。

琉球王国の支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭が置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。三回目の奄美大島侵攻の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。

16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。

琉球王国が奄美群島を制圧できた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したのである。例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩大隅の守護を務める島津氏だけが、交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。しかし時は戦国時代であり、島津氏も一族内や近隣領主との抗争に明け暮れ、兵を送るなど不可能だった。16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。1587年天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、琉球に課された琉球軍役を肩代りすることも理由として、琉球王国に圧力を更に強めていった。

琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。

近世

名越左源太南島雑話に描かれた、幕末期の砂糖取引の様子。民衆の服装は琉球と共通する。

1603年慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日3月22日)に徳之島4月28日3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。

薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉サゴの一種)をとってなどに加工し、食用とした。

奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。

薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。

近代

明治維新後の1879年明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代

アメリカ占領時代

1945年(昭和20年)9月2日米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。

1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日臨時北部南西諸島政庁が成立した。1950年(昭和25年)11月25日奄美群島政府に改称。しかし民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府及び奄美地方庁を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。

それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。復帰運動の指導者に奄美大島日本復帰協議会議長の泉芳朗や、ロシア文学者の昇曙夢などがいる。

日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、1952年(昭和27年)2月10日トカラ列島[3]、残りの奄美群島も1953年(昭和28年)8月8日ダレス声明による権利放棄を受け、12月25日返還された。クリスマスであったことから、米国は「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。

米軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。

本土復帰後

本土復帰

国政選挙

復帰後、衆議院選挙区として奄美群島選挙区が設置される。当時の衆議院は中選挙区制であったため、選挙区は複数議席とするのが原則だったのだが、奄美群島区のみは例外的に1議席であった。奄美群島区では2人の保守候補が競り合い、住民を二分する激烈な選挙戦が展開されている。奄美群島区は、小選挙区制導入の2年前である1992年に、一票の格差是正のため鹿児島1区に編入されて消滅する。小選挙区制下では、本土の一部ともに鹿児島2区を構成する。

米国施政下琉球での奄美出身者

奄美群島が復帰した後、沖縄県が日本に返還される1972年昭和47年)までの約20年間にわたり、沖縄の6万余人に及ぶ奄美群島出身者は、「在沖奄美人」と称されて様々な社会的制約や差別をうけることとなった。沖縄県がいまだアメリカの占領統治下にあったため、沖縄本島に出稼ぎに出ていた奄美群島出身者は戸籍上外国人となり、就労が難しくなるという経緯があった。公務員等の公職追放も行われ、当時の琉球銀行総裁もその一人である。また、参政権剥奪、土地所有権剥奪、奄美群島出身者以外の日本国民には認められた政府税の外国人優遇制度は奄美出身者には認められなかった。これは奄美復帰運動を、日本共産党の影響を受ける奄美共産党(奄美社会民主党)が主導し、その影響が沖縄県に及ぶのを阻止するためとも言われるが、実際はこれらの政策は沖縄本島住民が、奄美群島出身者によって職を奪われるとの危機感のもと、琉球列島米国民政府に陳情したことによる。また当時の沖縄タイムスなど在琉マスコミもこれを支持した。

脚注

  1. ^ 中山清美、「兼久式土器分類試論 : 奄美大島マツノト遺跡出土土器を中心に」『先史琉球の生業と交易 -奄美・沖縄の発掘調査からー』巻2、pp171-178、2006年、熊本、熊本大学 [1]
  2. ^ 例えば、明治期まで琉球の間切制度が温存されて国郡制や薩摩藩本土の外城・郷・門割といった制度は導入されなかったし、公的な地図(例:元禄国絵図天保国絵図)においても琉球国の一部とされた。
  3. ^ 十島村公式サイト「十島村略年表」

参考文献

関連項目