ノート:奄美群島の歴史

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

Shimanchuさんの編集について[編集]

すみません。ノートが来ていることに気付きませんでした。申し訳ありません。 お尋ねの件ですが。


こんにちは。疑問点がいくつか御座いますので、質問致します。

  • グスク時代について。
グスクスクなどの名称は琉球領時代以降に流入したとの説があり、実際にグスクと呼ばれている遺跡の多くは正式地名が異なるか、琉球領時代以降に改名されたものでしょう。

グスクスクなどの名称は琉球領時代以降に流入したとの説があり、

すみません。グスク,スクなどの名称が琉球時代以降に流入したとの説というのが,よくわかりません。 奄美・沖縄に共通する地名はたくさんありますが,(グスク・スクだけが琉球時代以降に流入したとは考えられませんので,) それがわずか琉球時代の百年ちょっとの間に流入したとする根拠が理解できませんでした。 喜界島の城久遺跡群が9世紀から12,3世紀程度に比定されていますので,グスク・スクの成立でいうと,喜界島の方が古いとも言えます。ともかく,地名は言語そのものでしょうから,琉球方言自体が,琉球時代の百年ちょっとの間に成立したというのに等しいと感じられますが。 首里から350キロ近く離れた地域に,文化を一変させるような具体的な動きが150年程の間にあったというのが,理解できないところです。薩摩藩時代は,それ以上の250年近くありますが,それを超える数倍の動きが,この150年程度にあったととらえられます。薩摩藩政時代の250年を経ても,それほど薩摩化しているようには思えませんので。

>実際にグスクと呼ばれている遺跡の多くは正式地名が異なるか

「正式地名が異なるか」の意味は・・・すみません,ちょっとよくとらえられませんでしたが,グスク・スクという地名は遺跡だけでなく,グスクという如何にもいわくある場所以外にも,小字では比較的見かけられる地名です。 「琉球領時代以降に改名された」根拠は,手前が勉強不足で,教えてください。

なお,奄美・沖縄の地名については,「「南島の地名」1991年第4週 南島地名研究センター」などに詳しいようです。


カムィヤキは朝鮮半島が発祥であると考えられており、それが直接か類似の生産遺跡のある北西九州からの伝播でなかったでしょうか。そして南西諸島から物産を買い集めるための貨幣に代わる交換材として徳之島で盛んに生産されたとの説が有力でないですか。また概ねこの時代以降に先島諸島との交渉も始まっている様なので、これを持って「琉球弧の文化的・民族的統一性がうかがえる」と表現するのはいささか大げさに過ぎませんか。
  • 薩摩時代について。


<カムィヤキは朝鮮半島が発祥であると考えられており、それが直接か類似の生産遺跡のある北西九州からの伝播でなかったでしょうか。

カムィヤキが朝鮮の技術的関連が強いというのは,そうだと思います。しかし,「直接か類似の生産遺跡のある北西九州からの伝播でなかったでしょうか。」というのは,考古学的成果上,私自身はとらえられていません。喜界島の城久遺跡群の成果からは,太宰府・朝鮮半島・元など外地との関連が強いのは間違いないと思いますが,外地の勢力が「北西九州からの伝播」というのは,伝播の語彙の意味として不適切だと思います。喜界島の城久遺跡群の成果については,前期は大和政権の南限における拠点施設,後期は南島貿易の拠点という意味づけが有力かと考えますので,同心円状的な「伝播」というよりは,飛び地的なつながり・関係と考えるほうが妥当かと思います。このあたりの件については,いろんな研究者がいろんな立場から論文を発表していますが,まだ,遺跡の報告者がすべて出そろっていませんので,今後より詳細が捉えられるかとは思います。

<南西諸島から物産を買い集めるための貨幣に代わる交換材として徳之島で盛んに生産されたとの説が有力でないですか。 カムィヤキ,滑石製石鍋が商品物資として大量に流通したという意味ですね。交換材という位置づけは,よくわかりません。しかし,9世紀から12,3世紀にかけて日本本土からの人や物資の,南島への南下があり,現在の琉球文化圏に相当する範囲で,人・モノの動きがダイナミックにあったという認識をもっています。

<また概ねこの時代以降に先島諸島との交渉も始まっている様なので、これを持って「琉球弧の文化的・民族的統一性がうかがえる」と表現するのはいささか大げさに過ぎませんか。

そうですね,先島諸島と奄美・沖縄を同次元でとらえて,琉球弧と総称したのは間違いですね。少なくとも,北琉球(奄美・沖縄)で,この頃(9世紀から12,3世紀)に,日本人の南下・北琉球弧内の人やモノの活発な動きがあったのは間違いないと考えます。奄美大島から沖縄本島までの400キロ近くの広範囲にわたる海という大きな障害があるにもかかわらず,言語をはじめとして文化的共通性で貫かれているのは,長期にわたる緩やかな,もしくは比較的短期間での人の活発な動きがあったとした考えようがありません。言語学的には,琉球方言と大和方言の分化を遅くとも古墳時代の5・6世紀頃?とする説が有力だと思われますが,喜界島の城久遺跡群の9世紀から12,3世紀の成立という考古学的知見からするとタイムラグが存在しますが,少なくとも,城久遺跡群やカムィヤキの頃の活発な人の動きと琉球文化の共通性は,関連付けられるものではないでしょうか。ただ,奄美・沖縄は土器など縄文時代から,くっついたり離れたり(共通化したり独自的であったり,)の関係にあったようですので,文化的に近い関係にはあったと想定されるかとは思います。ただし,奄美・沖縄と先島の関係については,カムィヤキの頃を境に交流が始まった(深まった)のは間違いなく,北琉球と南琉球の間には,文化的関係の影響については,タイムラグがあるのかと思います。 よく琉球弧を語る時に,琉球王国による統一が文化的・民族的共通性の根拠にされることがありますが,奄美から与那国島まで琉球王国として統一されたのは,わずか150年弱だという事実は重視すべきだと思っております。


薩摩藩の薩摩本領(本州にも飛地あり)支配が、奄美支配に比べても概ね同程度過酷であり、奄美支配初期100年程度は明らかに本領と同じような領国化を目指した政策が目立ちます。現在伝わる過酷さは中後期以降であるため、それをモノカルチャー化と表現するは適切であると考えますが、初期から植民地とする表現は不適説ではないでしょうか。

<奄美支配初期100年程度は明らかに本領と同じような領国化を目指した政策が目立ちます。


一六〇九(慶長一四)年 薩摩、琉球侵略 一六一三(慶長一八)年 「御掟之条々」 一六一七(元和 三)年 令達 一六二三(元和 九)年 「大島置目之条々」 一七二八(享保一三)年 「大島御規模帳」 上記は,初期における,政策の一部ですが,たとえば,明らかに本領と同じような領国化を目指した政策とは,どのようなものでしょうか。領国化の意味を含めて教えていただければありがたいです。

上記のような政治的・文化的結びつきを琉球から切り離す政策を実施し,一方,髪形や服装の存続,一字姓など,日本ではないとする政策については,認識がありますが,「本領と同じような領国化を目指したとする政策が目立ち」については認識がありません。具体的には,どのようなものでしょうか。領国化というのが,土地を整理し,開拓し,年貢をより厳密に納めさせる政策というのであれば理解できますが。あくまでも,対外的には琉球として,内実は年貢を課しうる領地としての政策はとらええますが,それを領国化と表現されているのでしょうか。私自身は,「琉球でもなく日本でもない(隠蔽された薩摩の領地)」としての二重の構造を規定していたとしか思えないのですが。

「現在伝わる過酷さは中後期以降であるため、」については,同じ認識ですし,[モノカルチャー]化についても,同じ認識のようですので,問題は[モノカルチャー]化をどのようにとらえるかということが,「植民地化」なのか「領国化」なのかをとらえる大きなポイントだと思います。作物の生産ということに限定すれば,産業政策として本領で行われた政策と,奄美を「領国化」しようとしたとする政策は,「モノカルチャー化」の方向性・目的が同一であったのか否かが視点だと思います。本領では,どのような生産物を,どのような目的で「モノカルチャー化」していったのでしょうか。サトウキビの「モノカルチャー化」は,薩摩藩の交易品として,あくまで薩摩本領の利益に基づいた生産物です。薩摩イモやコメといった穀物と商品作物は本質的に異なるものです。また,「植民地化」と「領国化」の違いは,文化的政策でも捉えられるかと思います。文字通り,同じ領国民として,同じ文化的政策を行ったのか,異なるものとして,異なる文化的政策を行ったのか。もちろん,異なる文化的政策の実施についても,当地の文化を尊重する精神に基づくものか,異なる目的があったのかを見る必要があるでしょう。個人的には,当初は文化的政策において,後にはモノカルチャー化により「植民地化」していく過程ととらえました。だからこそ,琉球髷をし,刺青をし,前帯の裾の短い服を着,一字姓を名乗るという日本人でない姿で,サトウキビという非日本的産物をモノカルチャー生産し,明・清との交易の中で,ある時は琉球人として,ある時は日本人としてふるまわされるという現象が生じたのだと認識しています。だからこそ,明治以降も「琉球人」「島人」として差別問題が顕在化し,大島独立経済政策や大島商社の問題が生じたと思いますが。薩摩本領地で,同様な政策が実施され,薩摩本領民の中で,差別問題を生むような政策が行われたのでしょうか。すみません,長文になりましたが,教えていただけるとありがたいです。


米作りを始めたのは薩摩藩ではなかったですか。また、飢饉について各島で事情が異なりませんか。

<米作りについては,徳之島などで中世初頭(10世紀ごろでしたか,記憶があいまいですが)には始まっていたことが,発掘成果で分かっています。麦などの穀物も,同時期頃に行われていたのは,発掘成果でわかってきているようです。 少なくとも14世紀から15世紀には,一般的に麦や米は栽培されていたと思われます,高倉の存在も,その頃一般的になってくるようです,現在の考古学の成果では。城久遺跡群では,四本柱の高倉と思われる遺構が多数検出されているようです。ただし,恐らく米作が中心的に行われるのは,薩摩支配の当初かもしれません。年貢として強制されたでしょうから。延享二年(一七四五)に換糖上納令により,租税が米から砂糖に切り替える命令が下っていますね。

飢饉については,各島で事情がことなるでしょうが,それは米やイモといった穀物生産を主とする地域と,サトウキビ生産を主とする地域では,飢饉になったときの深刻さは,薩摩藩も知っていたでしょう。奄美では飢饉が相次いだわけですから。陸が小さく(山も概して低く),川も少ない(小さい)離島では,干ばつが相対的に本土よりも多くなるのは自明の理でしょう。今でも夏の奄美では,水制限があったり,沖縄の家に水タンクが常置されていたりするように。そこは,飢饉に対して,薩摩藩が本領民に対して,また奄美に対してどのように対処したかを見ることが大切でしょう。


首里の町の状況は、双方戦闘を中止しての和睦交渉中に薩摩軍雑兵が勝手に略奪を働いた件ですね。組織的に虐殺まで行ったとは、どの様な経緯でしょうか。

<すみません,この件については,出典等含めて探している最中です。すみません,ちょっとお待ちください。組織的・・・というのは書きすぎたかな・・・と思っています。確か薩摩藩から,粗暴なふるまいをしないようにとの命令が下っていたと認識していますので。


基本的に,出典でとらえられるのは文献・文書等の事実関係です。それらを総合的にどのように分析し,判断するかは個人によると思いますので,ご了解ください。時系列的事実関係等については,以下の本等を参考にしましたが,いかんせん本そのものを,図書館や人から借りて読んだものですから,どの本のどのページからという記録がなくて,出典を詳細にお伝えできません。すみません。



高梨 修 他: 『琉球弧・重なりあう歴史認識』 「琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究」

高梨 修: 『ヤコウガイの考古学』

真栄平 房昭: 『新薩摩学―薩摩・奄美・琉球』

松下 志朗: 『近世奄美の支配と社会』

原井 一郎: 『苦い砂糖―丸田南里と奄美自由解放運動』

吉本 隆明: 「南島論」

南島主役の古代論。『敗北の構造』所収。

吉本 隆明: 『琉球弧の喚起力と南島論』

紙屋 敦之: 『幕藩制国家の琉球支配』

酒井 卯作 他: 『琉球弧・重なりあう歴史認識』 「幻の島」


--125.196.126.86 2009年4月19日 (日) 08:16 (UTC)shimanchu 2009年4月19日(日)17:16[返信]


Shimanchuさんからのご返答が御座いませでしたので、ご投稿をリバート致します。--スミス16号 2009年3月21日 (土) 02:32 (UTC)[返信]