大津事件

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ニコライ(後のニコライ2世)
津田三蔵
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事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子(上野彦馬撮影)

大津事件(おおつじけん)は、1891年明治24年)5月11日大日本帝国日本)を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警備にあたっていた警察官津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した、暗殺未遂事件である。

当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣青木周蔵内務大臣西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣山田顕義が病気を理由に辞任した。 

経緯

1891年明治24年)、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライはお召艦パーミャチ・アゾーヴァ」以下ロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。ニコライの一行は長崎鹿児島に立ち寄った後に神戸上陸京都に向かった。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。次の訪問予定地である横浜東京でも歓迎の準備が進んでおり、まさに国をあげての一大行事であった。

5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオスゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた(北緯35度0分25.1秒 東経135度51分53.4秒)。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルでを斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づく事が出来たのは津田が取り押さえられた後だった。

威仁親王からの行幸要請に対する明治天皇の返電

留学軍事視察の経験から国際関係に精通していた威仁親王は、即座にこの事件を自分のレベルでは解決できない重大な外交問題と判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報上奏するとともに、ロシア側に誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。これを受けた天皇は直ちに了解し、威仁親王に到着までのニコライの身辺警護を命ずるとともに、即刻北白川宮能久親王見舞い名代のために京都へ派遣した。

事件翌日の5月12日早朝、明治天皇は新橋駅[1]から汽車に乗車、同日夜には京都に到着した。その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都御所北緯35度1分26.9秒 東経135度45分43.5秒)に宿泊した[2]。威仁親王の兄の熾仁親王も天皇の後を追って京都に到着。翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテル北緯35度0分41.9秒 東経135度46分10.1秒)に自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁威仁能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。

5月19日、明治天皇自らが神戸港北緯34度41分8.2秒 東経135度11分33.3秒)のロシア軍艦を訪問する際には、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞った。

小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校謹慎の意を表して休校となり、神社寺院教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県最上郡金山村(現・金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。マスコミはこぞって、津田を死刑にすべしという記事を書きたてた。[要出典]また、天皇が謝罪したものの、ニコライは東京訪問を中止した。神戸から艦隊を率いてウラジオストクへ向かうと、5月20日には、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。

背景

津田が斬り付けた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るというデマがささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、もし西郷が帰還すれば自分の勲位も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたという記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである。

日本政府の動き

当時の日本は、何とか欧米植民地にならずに済んでいたものの、まだロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、賠償金領土の割譲まで要求してくるのではないかと危惧された。また事前に青木周蔵外相がロシア公使シェービッチに対し、皇太子に危害が加えられた場合は「皇室罪」を適用すると密約していたことも混迷の原因となった[3]

そこで日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。また松方正義首相西郷従道内相山田顕義法相らが死刑適用に奔走した[4]。青木周蔵外相、井上馨などは消極的反対、逓信大臣後藤象二郎などは「津田を拉致し拳銃射殺することが善後策になる」と語ったが、伊藤に日本は法治国家であるとして叱責された[5]

司法の動き

旧刑法116条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は民間人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上不可能であった。ただし裁判官の中でも死刑にすべきという意見は少なくなかった。

時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発した。要するに「国家か法か」という回答困難な問題が発生したのである。

事件から16日後の5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して津田に無期徒刑(無期懲役)の判決が下された。

公書問題

ロシア公使シェービッチは以前から日本に対して恫喝的な態度をたびたび取っており、この事件に関しても事件の対処にあたった青木周蔵、西郷従道内相らに死刑を強硬に要求した。事件後の6月4日には青木との密約を公表して抗議し、青木の責任問題となった(公書問題)。これに対して青木が「自分は伊藤博文と井上馨に言われて約束しただけである」と述べたが、伊藤はロシア側の真意を確かめよと指示しただけと反論し、もし自分が政府に迷惑をかけているなら枢密院議長を辞職するとした。重鎮である伊藤との対決は松方や山縣有朋も望んでおらず、責任は青木がとることとなった。青木は「自分の手記が公表されれば伊藤と井上の首が飛ぶ」と発言し、激怒した井上によってドイツ公使へと左遷された。またロシアの抗議自体も後任外相榎本武揚の奔走で撤回されることとなった[6]

青木はこの後伊藤から嫌悪され、政治家としての栄達を絶たれる原因となる[7]

ロシアの対応

ロシア公使シェービッチは、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしている。 ロシア皇帝アレクサンドル3世も暗に死刑を求めていた。しかし結果的には賠償要求も武力報復も行われなかった。ただし皇太子の負傷に関しては、皇帝も皇太子も日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しており、日本がこの問題を無事解決できた理由の一つにロシアの友好的な姿勢があることは疑いない。以後、ロシアの公文書にて日本人をマカーキー()と記される時期が発生したと言われてはいるが、そういうことは無かったとの研究もある。また、日記の文面からもニコライ2世がこの事件で日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと言うことが窺える[8]

事件後の影響

この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧だった大日本帝国憲法三権分立の意識が広まった。しかし大津地方裁判所で扱われるべき事件を正常な手続きなしで大審院に移したり(大逆罪の類推適用を考慮していた為、皇室罪に関する裁判はすべて大審院における一審において判決が下されることから、適用可否判断を含め地裁ではなく大審院に持ち込まれることになった)、裁判に直接関わっていなかった児島が干渉を重ねたことは裁判官の独立等の問題として残った。権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件である。これらの問題、つまり三権分立や司法のあり方などは活発に議論されるようになった。また海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めた。このことは日本が近代法を運用する主権国家として、当時進行中であった不平等条約改正へのはずみとなった。ただしこの事件で青木が辞任したため、成立寸前の領事裁判権を撤廃した条約がまとまらず短期的には停滞した。

ただし当時の司法は、憲法上はともかく、実際には司法行政行政裁判の扱いなど完全に政府から独立していたわけではなかった。三権分立の理念は多くの人に理解されながらも、のちに大逆事件のような司法権の侵害が起きるのはそのためである。

さらに政府がこの問題で判決を譲ったのは、元老内部の対立の影響があったためとする説もある。

なお、津田を死刑にすべしと書き立てたマスコミは、ロシアが友好的である事が判明すると、手のひらを返して「法律を曲げて津田を死刑にしようとした」政府の糾弾をはじめた。政府はそれら批判を掲載した新聞を発行停止にするなどの統制を行った。言論の自由の理念は当時の日本には存在しなかった。

補足

人力車夫

この事件で津田を取り押さえるという思わぬ功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待された。この際はニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。

しかし前科のあった向畑は長続きせず、博打と売春、怪しげな投機話に明け暮れ、勲章を没収されるに至る。日露戦争中には年金が停止される(ロシア側は律儀に年金支給を続けたが、仲介している日本側が停止した)と婦女暴行事件を起こし逮捕されるなどの問題を引き起こした。ロシア革命以後はロシア政府が消滅した事から年金は完全に途絶え貧窮したものの、昭和期まで生きている。

北賀市は堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ね郡会議員にまでなった。しかし日露戦争が始まると露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、特に戦死者の遺族から糾弾を受けた。北賀市は家の表門に自慢気に飾っていた勲章を取り外し、無実を証明するとして軍隊に志願した(受理はされなかった)。なお現在は知名度は高くはないものの郷里の英雄とされ、加茂神社に「北賀市市太郎生誕の地」の碑が立てられている。

DNA鑑定

1993年、皇帝ニコライ2世と推定される遺骨のDNA鑑定に使うため、ニコライの手当てをした布からDNAが採取された。だがサンプルが古すぎて血液型までしか特定できなかった。

1998年になり、ニコライの骨と正式に認められ、ロシア正教会はニコライ2世を、ロシア革命の犠牲者として列聖した。

大津事件を扱った作品

関連文献

  • 「大津事件の再評価」 田岡良一、有斐閣 1976
  • 「大津事件の真相」 早崎慶三 サンブライト出版(近江文化叢書) 1987.11
  • 「大津事件 露国ニコライ皇太子の来日」 野村義文 葦書房 1992.10
  • 「論考大津事件」 山中敬一 成文堂 1994.12
  • 「大津事件の再構成」 新井勉 御茶の水書房 1994.1
  • 「大津事件顛末録 花井卓蔵の法廷史録 別巻」 児島惟謙 大空社 1997
  • 「大津事件と明治天皇 封印された十七日間」 礫川全次 批評社 1998.8
  • 「大津事件考」 鎌倉利行 大阪大学出版会 2003.10
  • 「大津事件の謎に迫る 消えた「児島大審院長意見書」の行方」 大場義之 文藝春秋企画出版部 2006

脚注

  1. ^ 現在の2代目新橋駅では無く、後の汐留駅。当時まだ東京駅は無く、この初代新橋駅が東海道本線起点であった。
  2. ^ 『読売新聞』のみが行在所を二条離宮(二条城)と報道。他紙および『明治天皇紀』は「京都御所」と記している。
  3. ^ 佐々木、71p
  4. ^ ただし山田の場合は、大津事件手記によると、内心では皇室罪の適用に消極的だったと思われる記述がある。児島惟謙著『児島惟謙大津事件手記』関西大学出版部 ISBN 4873543754
  5. ^ 一部の書籍には発言者が陸奥宗光であるとされているが、青木周蔵日記によると後藤であると見られている。佐々木、72p
  6. ^ 佐々木、74p
  7. ^ 佐々木隆 『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館
  8. ^ 保田孝一 『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』(朝日選書、のち講談社学術文庫

参考文献

関連項目

外部リンク