サハラ砂漠

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サハラ砂漠の衛星写真
リビア西部のタドラート・アカクス砂漠

サハラ砂漠(サハラさばく)はアフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠。東西5600km、南北1700kmで面積は約1000万km2であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占める。

名称

サハラアラビア語: ﺻحراء‎ ; ṣaḥarāʾ ; サハラーゥ)とは、元来アラビア語で「砂漠」「荒野」を意味する一般名詞だが、とくに北アフリカなどでは日常的にサハラ砂漠を指すことから、そのまま固有名詞としてヨーロッパの言語に定着した。アラビア語で明示的にサハラ砂漠を指すときには、「アッ=サハラーゥ・ル=クブラー」(アラビア語: الصحراء الكبرى‎; aṣ-ṣaḥarāʾ l-kubrā; 「最大なる砂漠」)などと呼んでいる。

このように名称自体に「砂漠」の意味を含むことから、英語やフランス語では砂漠を意味する語(Desert/Désert)は添えず、単に The SaharaLe Sahara と呼ぶのが正式である。 日本語では、慣用的に「サハラ砂漠」と呼びならわしている。

概要

モロッコ、メルズーガ近郊(砂砂漠)
リビア、タドラルト・アカクス(岩石砂漠)

サハラ砂漠全体の人口は約2500万人であり、そのほとんどはモーリタニアモロッコアルジェリアに住む。サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットである。その他、重要な都市としては、タマンラセトトンブクトゥアガデズニアメンジャメナが挙げられる。

サハラ砂漠は西端で大西洋に接し、北端ではアトラス山脈および地中海に接する。東側はエジプト紅海に面し、スーダンニジェール川を南の境とする。サハラ砂漠の中は西サハラを含むいくつかの地域に分割される。サハラ砂漠は標高300m程度の台地が広がり、中央部にはホガール山地アルジェリア南部)、アイル山地ニジェール北部)、ティベスティ山地チャド北部)がある。サハラ砂漠の最高点は、ティベスティ山地のエミクーシ山(3415m)である。サハラ砂漠の約70%は礫砂漠で、残りが砂砂漠と山岳・岩石砂漠である。

サハラ砂漠はアフリカ大陸を北アフリカサブサハラ(サハラ以南)に分割している。2つの地域は気候の上でも文化の上でも大幅に異なっている。サハラ砂漠より北は地中海性気候であるのに対し、砂漠の中は砂漠気候(BWh)である。一方、砂漠の南端はステップ気候帯に隣接している。サハラの南部限界は、年150mmの降水量線に相当している。

また砂漠北部のアルジェリアリビアは豊富な石油の埋蔵量を持つ。またモロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵される。

地理

主要地形区

サハラ砂漠はエジプト、チュニジア、リビア、アルジェリア、モロッコ、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダンに及ぶ。砂漠地形は風と季節雨が形成する。砂丘、砂平原、砂海(エルグ)、岩石高地(ハマダ)、礫平原(レグ)、涸れ谷(ワディ)、塩類平原(シャット)などがある。

深く切り裂かれた山地や山脈、火山などの高まりも見られる。サハラ砂漠で最高峰は北部チャドのティベスティ山地に位置するエミクーシ山(標高3415mの火山)である。

ナイル川を例外としてほとんどの河川は季節的か間欠的に見られる。地下水が地表に現れオアシスを形成する。サハラ砂漠中央部は極度に乾燥しており、植生はほとんどない。砂漠の端で山地から水の供給のある所では草、潅木、高木が生えている。南部のサヘルとの境界は気象学的に年間降水量150ミリメートルの線である。

砂漠化の進行

サハラ一帯は、完新世(1万年前 - 現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来た。およそ8000 - 5000年前までの期間は湿潤で、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いている。20世紀以降では、1915年頃以降降水量は増加したが、1920年代以降現在までは降水量は減少傾向にある。

1960年代以降、サハラ地域を含めアフリカでは人口爆発が続いている。食料増産・生活のため、焼畑農業過放牧・灌木の過度の伐採が行なわれ、生態系が破壊される悪循環が繰り返されている。

1968年 - 1973年にかけて、サハラ一帯に2500万人が被災した大規模な旱魃が発生した。なお、これを契機として、1977年国連砂漠化防止会議(UNCOD)が開催された。しかし1983年 - 1984年にかけ再び大旱魃が発生した。モザンビークアンゴラスーダンチャドエチオピアでは、旱魃に加え政情不安定もあり、飢餓で多数の死者を出した。

人口爆発・旱魃により、砂漠化は急速に進行し始めた。貧困・気候変動も密接に関連しているため、決定的な解決策は存在しないに等しい。現在でもサハラ南縁部は世界で最も砂漠化が進行している地域で、毎年約6万km²のスピードで砂漠の面積が増加し続けている。

ところが、地球温暖化による気候変動によって再び植生が変化しつつあり、南縁部には緑化の兆候もあるという。このような近年の調査研究による予想モデルでは、雨量が増加し湿潤化されるとの説もある[1]

歴史

サハラ砂漠周辺への人類の定住は古く、50万年前にさかのぼる。石碑などの出土品からは、当初この地帯は湿潤な気候で、野牛などの狩猟が行われたことが伺われる。アフリカ沿岸の航路が開拓されるまでは、サハラ砂漠内にはいくつかの重要な通商路が存在した。考古学的にも、サハラ周辺と他の地域との交易が有史以前から行われたことが明らかにされている。

リビアで発見された壁画
ブバルス時代 (Bubalus period):紀元前35000年頃から紀元前8000年頃
野牛、ゾウカバなど、今日ではこの地域で絶滅した動物が生息したことが伺われる。
人間はおもに棍棒で武装したものと推定される。ほかにも使用されたが、は使用されなかった。また一部ではも用いられた。
家畜時代 (Cattle period):紀元前7500年頃から紀元前4000年頃
家畜の飼育が普及した。ヒツジヤギが飼育され、窯業が始まった。
研磨による石斧や石の鏃などが生産されるようになった。弓矢は主に狩猟のために使用された。家畜類はアジアから輸入された。
この時代の後期には、村落が形成され、いままでより多数の人口が維持可能になった。また家畜の群れを飼育することも行われるようになった。
イマジゲン時代 (Imazighen period):紀元前3000年頃から紀元前700年頃
この時代の初期にはウマラクダ乳牛の飼育が行われるようになった。イマジゲン(アラビア語: إيمازيغن‎ ; Īmāzīghan)とはいわゆるベルベル人のこと。
紀元前1220年頃から、フェニキア人との交易により鉄器がもたらされた。
サハラ砂漠からエジプトに渡っていくつかの王国による連合体が作られた。これらの王国は海岸付近に位置したが、中には砂漠の中に及ぶものもあった。
カルタゴ時代:紀元前8世紀頃から紀元前3世紀
地中海に面するフェキニア人の植民地を元とする都市国家カルタゴは、その進展とともに、サハラ砂漠北部をも勢力下に収めた。
共和政ローマによってカルタゴが滅ばされると、これらの地域はローマの勢力下に治められ、いくつかの属州に分割された。
ローマ時代
地中海沿岸には、カルタゴ、アフリカなどのローマ属州が置かれた。
ヴァンダル時代:429年
ヴァンダル人イベリア半島経由で進入し、サハラ砂漠北西部にヴァンダル王国を築いた。
ヴァンダル王国はのちに532年頃に東ローマ帝国によって再び征服された。
アラブ時代:647年頃から
イスラム教の隆盛とアラブ人の進出とともに、サハラ砂漠はイスラム教化された。
オスマン帝国はその最盛期にはサハラ砂漠に隣接する北地中海沿岸を版図に収めた。
一方サハラ砂漠内部には、サハラ砂漠を横断する交易路上に13世紀から15世紀にかけてマリ帝国が栄えた。
西ヨーロッパ各国による植民地化1500年頃から
大航海時代とともに、西ヨーロッパ各国はインドへの航路を求め、アフリカに寄港地を増やすとともに、内陸部への進出を果たしていった。「胡椒海岸」「黄金海岸」「象牙海岸」などの名称が、サハラ砂漠より南の大西洋に面する地域に与えられたのはこの時期以降である。
サハラ砂漠に植民地を置いた国にはスペインフランスなどがある。

その他

  • 人類史上、サハラ砂漠を単独で東西横断に成功した例は未だかつて無いとされる[要出典]

脚注

関連項目

外部リンク

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