加古隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
本来の表記は「加古」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

加古 隆(かこ たかし、1947年1月31日 - )は、大阪府出身の日本人作曲家ピアニスト。「隆」は旧字体で表記される。東京藝術大学作曲科卒、同大学大学院修了。

目次

[編集] 概論

作曲においては、ジャズクラシック現代音楽の要素を融合させた独自の作曲形式を確立しており、ピアニストとしては、自身の作品の演奏を中心に活動している。ジャズ自然をテーマにした作品から、絵画文学浮世絵ダンス建築といった他の様々な芸術から着想を得た作品まで、その音楽のスタイルは自由かつ幅広く、個性に富んでいる。また、映像とのコラボレーションによる音楽も数多く手掛け、映像音楽の作曲家としても活動の幅を広げている。自身の作品によるコンサートは世界各国に及び、オリジナルアルバムは50作品を超える。ピアノから紡ぎ出される透明な音の響きから、「ピアノの画家」と称される。1980年代からかぶり始めた帽子がトレードマークとなっており、演奏の際にも必ず身につけている。ピアノベーゼンドルファーを愛用し、曲の世界に深く入り込むために、演奏は全て暗譜で行う。

[編集] 経歴

1947年に京都の、音楽とは全く縁のない[1]家庭に生まれ、大阪府豊中市旭丘で育つ。音楽との出会いは小学校のとき。知り合い宅に行った際、当時日本ではまだ珍しかったレコードプレーヤーと、1枚だけあったLPレコード。そのレコードを聴いた加古は大変心地よくなり、これを機にその知り合い宅へレコードを聴きたいがために、泊り込みで通うようになり、枕元にプレーヤーを置いて何度も何度も音楽を聴きながら眠った。この曲がトスカニーニ指揮、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番『運命』であった[2]。以後、小学校から中学時代にかけて、クラシック音楽のレコード収集に熱中する。音楽雑誌などの存在を知らなかった当時、唯一の情報源が駅前(阪急宝塚本線岡町駅前もしくは豊中駅前とされる)のレコード店であり、何度か訪れるうちに、店長に珍しがられ、いろいろなレコードを教えてもらった。当時の加古には、「運命」が「クラシック音楽」であるという知識もなかったが、最初に出会った音楽がクラシックの名曲だったのは幸運だったと後に語っている[1]

豊中市立熊野田小学校の2年生だったとき、音楽の時間の合奏中、音楽の先生が加古の素質を見抜き、両親にピアノを習わせるよう強く勧める[1]

小学校6年のとき、ストラヴィンスキーの「三大バレエ組曲」(『火の鳥』『春の祭典』『ペトルーシュカ』)に出会う[2]。これまでのクラシック音楽とは大きく異なる、現代音楽の魅力にとりつかれる。中学時代は、今まで以上にクラシック音楽及び現代音楽に没頭。当時は学校から帰り、ステレオの前に座って音楽を聴くことが無上の喜びであり、自身の全存在を捧げて聴き入っていたと語っている[3]

中学3年の頃、音楽が常に自分の身近にあることへの魅力と、将来どんな形で音楽に携わろうとも、根本である「作曲」を学んでおけば、まず間違いないだろうとの想い、そしてピアノの先生の「作曲家を目指すのも、夢があっていいと思う」という言葉が決め手となり[1]東京藝術大学作曲科への入学を決意。本格的にピアノのレッスンを始める。

中学を卒業後、大阪府立豊中高等学校へ入学。1年のとき、先輩に誘われて行ったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブで、ジャズの刺激的な音に体を雷に打たれるほどの衝撃を受け、次の日からジャズのレコード収集に奔走[2]。ジャズの演奏にも夢中になる。

1965年、東京藝術大学作曲科へ入学[2]。その後約1年間は、作曲の勉強よりもジャズの演奏活動に夢中になっていた。三善晃の指導をきっかけに作曲に魅力を感じ、作曲の勉強とジャズの両方をやっていてはどちらも中途半端になってしまうと思い、ジャズからは意識的に距離を置き、聴くこともやめ[4]、現代音楽の作曲家を志す。1969年、同大学院へ進学。在学中の翌1970年には、自身の作品がNHK毎日音楽コンクール(現:日本音楽コンクール)作曲部門・管弦楽曲第2位を受賞するほか、翌年には「オーケストラの為の《構成》」が若杉弘指揮、東京フィルハーモニー交響楽団により初演される。

大学と大学院で合わせて6年間作曲を学んだ後、1971年7月、フランス政府給費留学生として渡仏。パリ国立高等音楽院で、ヨーロッパにおける音楽の歴史と伝統を肌で感じ、作曲のみならず音楽そのものを学ぶ。翌年、「アルトとピアノのための《旅人と夜の歌》」・「オーケストラの為の一章」が、パリ音楽院管弦楽団により初演される[2]

留学先のパリ国立音楽院作曲科では、オリヴィエ・メシアンに師事。留学してすぐの時点では、メシアンの講義に参加するつもりはなかったものの、参加しようと決めていた講師が前年に引退していたと分かり、アポなしでメシアンの講義に出向いた。加古はメシアンから作曲に関する理論・技術にとどまらず、音楽家としてのプライドなど、音楽に関するあらゆることを学んでいった。メシアンは折に触れて、「加古君、あなたが日本人であることは、とてつもない財産なのです」と語っていた[1]。そしてこの言葉が、西欧風の曲を主に書いていた加古に、自分の生まれ育った国である日本に目を向けさせるきっかけとなった。

パリに留学して1年が経った頃、フリー・ジャズのレコードを収集していた友人の音楽評論家モーリス・グルグ宅で、今まで見たこともなかったフリー・ジャズのレコードを聴く。現代音楽とフリー・ジャズの間に、何かしらの共通性を見出した加古は、これなら自分にもできると思い立ち、学校には籍を残したまま、1973年、豊住芳三郎らが参加するグループ「エマージェンシー」から、即興ピアニストとしてプロ・デビューを果たす。このことが以後、現代音楽分野における作曲活動と、ジャズにおける即興演奏活動の共存を生み出し、加古にとって、より広い意味での現代音楽の追求へとつながった。

1973年から、スティーヴ・レイシーらと共演。翌1974年からは、アメリカからパリへ移ってきたアルト奏者ノア・ハワードのグループ「ノア・ハワード・クァルテット」に参加。帰国まで在籍する。同年10月、沖至高木元輝堀本ユキ佐藤允彦ら日本人のフリー・ジャズ・ミュージシャンとともに、ラジオ用コンサート「メッセージ・フロム・ジャパン」を開催。「フルート・クラリネット・マリンバと打楽器の為の四重奏曲」がパリ国立ラジオ放送局から初演放送されるなど、現代音楽の作曲家としての活動も活発に行われた。さらにこの年には、ノア・ハワードのアルバム“Noah Howard Live in Europe”に参加するほか、高木元輝とケント・カーターとのライブアルバム『パリ日本館コンサート』で日本デビューを飾るなど、目覚ましく活動。また、初のピアノ・ソロ・アルバム“Night Music”を発表。モーリス・グルグは「現在フランスで聴くことのできる最高のピアニスト」(フランス・ジャズマガジン誌)と評した。

1976年1月、一時帰国し、豊住芳三郎との共演アルバム『パッサージュ』をリリース。6月、パリ国立音楽院を審査員全員一致の一等賞を受賞して卒業し、これまでの自身の活動の総集編的アルバム『巴里の日』をレコーディング。8月にはアルバム『マイクロ・ワールド』をリリース。9月に帰国する。

1977年、アルバム『海の伝説 -私』を収録後、再びパリへ。1978年7月5日、パリ・ポンピドゥー・センター富樫雅彦と初共演。2年後の1980年には、富樫が加古に捧げた曲「ヴァレンシア」を含む、アルバム『ヴァレンシア』をリリース。1978年、ピアノ・トリオ「TOK」(トーク) を結成。ヨーロッパ全土で演奏活動を繰り広げる。バンド名は、メンバー3人(タカシ・カコ、オリバー・ジョンソン、ケント・カーター)の頭文字 (Takashi、Oliver、Kent) をとって名づけられた。同年6月には、日本におけるTOK第1回コンサートツアー"Jazz Concert Improvisation"を行い、アルバム『TOK-LIVE』と『TOK・ダイレクト・マスター』を発表。コンサートツアー終了後の8月、日本において宮間利之&ニューハード・オーケストラと共演し、ジャズ・オーケストラに初挑戦。アルバム『エル・アル』を世に送り出し、12月にパリへ戻る。翌1979年10月、日本人としては初めて、ドイツECMレコードから、アルバム『パラドックス』を全世界発売し、12月にはこれを記念して第2回TOKコンサートツアーを開催。

1979年の冬、天候の悪化で来られなくなったアーティストの代役として、急遽フランスのカーンで行われた音楽祭に出演[2]。音楽祭当日に電話が入り、しばらく考えた末、引き受けると返事をして、指慣らしもほとんどしないまま手元にあった楽譜を鞄に詰め込んで、列車に飛び乗った。偶然開かれた新しい音楽への扉、その向こうにあったのは、加古にとって初となるピアノ・ソロ・コンサート。1台のピアノが描き出す新しい音楽の世界へと、その音楽性はさらなる広がりを見せる。

1981年8月、日本へと拠点を移し、ピアノ・ソロ活動を本格化。広島などでソロ・コンサートツアーを行う。翌1982年、第3回TOKコンサートツアー及び、東京での初のソロ・コンサートを東邦生命ホールにおいて開催し、以後、同ホールでのクリスマス・イヴ・コンサートが定着する。1984年、東京文化会館において、同館主催のコンサート「加古隆・ピアノとの対話」を開催。クラシック音楽の殿堂が、ジャンルを超えたアーティストを初めて迎えたという異例の出来事とあって、700席の会場に3000以上の応募を記録した。

1983年、“Night Music”以来9年ぶりとなるピアノ・ソロ・アルバム『L'Aube -夜明け』を発表。

1985年2月26日、東京西武劇場(現パルコ劇場)でのソロ・コンサート当日の朝、音楽評論家野口久光の「一度でいいから、誰でも知っているメロディーを、取り上げてごらん」という言葉から始まった、新しい音楽への追求、その結果がここに完成した。しかし、完成した作品は当時の加古の音楽とは著しく性格を異にするものだったため、自分らしさを失うのではないかという思いから、この曲を初演すべきか否か、当日の朝まで迷っていた。しかしながら思い切って演奏に踏み切った後、世間の評価は別として、イングランドの民謡「グリーンスリーブス」をモチーフにした楽曲「ポエジー」をきっかけに、シンプルなメロディーの大切さを再認識し、音を丹念に選んでいく訓練を長く受けてきた自分にとっての「作曲」という作業に、新たな音楽の世界:自分らしさ、を発見する。「作曲」という概念を自身の音楽に積極的に取り入れるようになった加古の音楽は、この作品を機に、大きくその容貌を変化させる。なお、このコンサートの演奏はアルバム『ソロ・コンサート』で聴くことができるが、「ポエジー」については初演ではなく、翌日2月27日の演奏が収録されている。

「ポエジー」がニッカウヰスキーのCF曲として使用され大ヒットとなった[2]翌1986年、画家パウル・クレーの12枚の絵画の印象による代表作“KLEE”が完成した。これを皮切りに1988年、宮沢賢治の諸作品から着想を得た作品『KENJI』を発表し、翌1989年、ダンスとピアノとの共演作品『アポカリプス 〜黙示録』を東京スパイラルホールにて初演。1991年には、組曲“ESTANPE SONORE”において、広重や北斎らの浮世絵の世界をピアノ・ソロで表現することに挑戦。また1993年に訪れた、北海道トマムの「水の教会」からの着想は、アルバム『水の前奏曲』に結実し、発表記念コンサートが「水の教会」において、設計者の安藤忠雄を迎えて行われるなど、絵画・文学・ダンス・浮世絵・建築といった、他の芸術とのコラボレーション作品が次々と誕生した。

1992年国際交流基金主催アセアンツアーでシンガポールブルネイマレーシアインドネシアタイを歴訪した後、アルバム『風の画集』を発表。このアルバムのライナーノートには、「ジャズとかクラシックとか現代音楽とか名付けられた枠を定めずに、ただピアノから生まれる音楽だと思って、皆さんの感覚で受けとめて聴いて下されば最高です」という加古の文章がある。この文章は元々、1982年6月に東京草月会館で行われたソロ・コンサートのプログラム中にあった文章である。この文章が世に出る以前、1970年代の加古に対しては、「あたかも加古を日本のジャズ界から抹殺しようと企てているのではないかと一瞬疑りたくなるほどの」、「無責任な書き殴り」さえ見受けられた[5]

1988年村上秀一らと共演したアルバム『スクロール』で、スイングジャーナル社主催「日本ジャズ賞」を受賞。「芸術との共演」も意欲的に続ける中で、自然をテーマにした作品も同時に数多く誕生している。1989年、アラビアの砂漠・北欧や凍ったシベリアの大地・アフリカへの憧憬といったモチーフを、民族楽器とピアノとの共演で大胆に描いた連作"Landscape"(ランドスケープ、「風景」の意)を、アルバム『幻想行』から発表し、カルガリー及びバンクーバーで開催されたカナダ音楽フェスティバルに参加。翌1990年には、組曲『ピアノ交響詩《春〜花によせて〜》』を、大阪・国際花と緑の博覧会にて初演。翌年に大友直人指揮、東京フィルハーモニー交響楽団との共演による演奏がCD化される。1993年カーネギー・ホールでのソロ・コンサートでアメリカへデビューし、2年連続で自然をテーマにしたアルバム『水の前奏曲』『ノルウェーの森』を発表。これら2作品は翌年に全米発売され、アメリカ自然史博物館などでのニューヨーク公演も行われた。1995年には、パリの日本大使館において、翌1996年にはロシア中国インドネパールスリランカを歴訪し、ソロ・コンサートを開催している。

2002年7月6日、東大寺において「大仏開眼1250年慶賛コンサート」に出演。NHKスペシャル「地球市場・富の攻防」の音楽を担当した2003年にデビュー30周年を迎え、12月に「Anniversary Year 〜巴里の日〜」コンサートツアーを行い、記念アルバム“Anniversary”を発表。この年に担当したドラマ『白い巨塔』では、主人公財前五郎の生き様を、エレキギターを用いた音楽で表現した。

2005年には、宮城県気仙沼高等学校の校歌を作曲するほか、ソロ・コンサートツアー「響きのカンバス」も開催された。2006年4月には、『水の前奏曲』から13年ぶりとなるアルバム『PIANO』を発表し、7月にはこれを記念してのコンサートツアー「PIANO」を開催。また、熊野古道世界遺産登録からちょうど2年になる同月1日には、これを記念しての三重県からの委嘱作品「熊野古道 〜神々の道〜」の世界初演コンサートが、三重県文化会館で行われた。その後、ウィーンのダンスフェスティバルにおいて「アポカリプス」を再演した。

加古は、あくまでも「音楽家」という存在であり続けることを理想としており、「作曲家&ピアニスト」という肩書きにはこだわりをみせている。

[編集] 映像作品への参加

1977年、NHK土曜ドラマ松本清張シリーズ」で初めて映像音楽を手掛けて以降、映像音楽の作曲家としての活動も盛んになりつつあった加古は、1995年NHKスペシャル映像の世紀」の音楽を担当したのを機に、映像音楽の第一人者としての地位を確立。番組終了後にはNHKに音楽に関する問い合わせが殺到した。

1997年、『ドキュメントにっぽん』の音楽を担当し、翌1998年に担当した映画『月の虹』(原題:The Quarry)では「最優秀芸術貢献賞」を受賞[2]2000年には、『にんげんドキュメント』のテーマ曲「黄昏のワルツ」が誕生するほか、演奏時間50分を越える大作「組曲《映像の世紀》」が発表され、大阪において、金聖響指揮、大阪センチュリー交響楽団との共演で初演された。さらにこの年には、映画『式日』の音楽も担当し、第3回能登国際音楽祭に出演した。

2001年、映画『大河の一滴』の音楽を手掛け、翌2002年には映画『阿弥陀堂だより』の音楽で、第57回毎日映画コンクール「音楽賞」および第26回日本アカデミー賞「優秀音楽賞」を受賞。2005年、NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」の音楽を担当。2006年に担当した映画『博士の愛した数式』の音楽では、第61回毎日映画コンクール「音楽賞」を受賞した。

[編集] 年譜

[編集] ディスコグラフィ

  • Homage to Peace(1973年) - ヨーロッパデビューアルバム
  • Night Music(1974年
  • 日本館コンサート(1974年) - 日本デビューアルバム
  • マイクロワールド(1976年
  • 巴里の日(1976年)
  • パッサージュ(1976年)
  • 海の伝説 -私(1977年
  • TOK-LIVE(1978年
  • TOK・ダイレクトマスター(1978年)
  • エル・アル(1978年)
  • パラドックス(1979年
  • ヴァレンシア(1980年) - 富樫雅彦とのデュオ
  • L'Aube-夜明け(1983年
  • トワイライト・モノローグ(1984年
  • ソロ・コンサート(1985年
  • ポエジー(1986年
  • いにしえの響き 〜パウル・クレーの絵のように〜 - KLEE(1986年)
  • スクロール(1987年
  • KENJI1988年
  • 幻想行(1989年
  • ピアノ交響詩「春 -花によせて-」(1990年
  • ESTAMPE SONORE(エスタンプ・ソノール)(1991年
  • アポカリプス 〜黙示録(1992年
  • 風の画集(1992年)
  • 水の前奏曲1993年
  • ノルウェーの森(1994年
  • NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナル・サウンドトラック1995年
  • 予感 -アンジェリック・グリーンの光の中で-(1998年
  • 静かな時間(1999年
  • The Quarry(月の虹) オリジナル・サウンドトラック(1999年)
  • 「パリは燃えているか」 NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナル・サウンドトラック 完全版(2000年) 
  • ジブラルタルの風」 -加古隆・ピアノ・ソロ・ベスト-(2000年)
  • Scene(シーン) 映像音楽作品集 1992-2001(2001年
  • 大河の一滴』オリジナル・サウンドトラック(2001年)
  • 阿弥陀堂だより』オリジナル・サウンドトラック(2002年
  • 風のワルツ(2002年)
  • Anniversary 1973-2003(2003年
  • 白い巨塔』オリジナル・サウンドトラック(2004年
  • 白い巨塔 - コンプリート(2004年)
  • 博士の愛した数式』オリジナル・サウンドトラック(2006年
  • PIANO(2006年)
  • 熊野古道(2007年
  • 明日への遺言』オリジナル・サウンドトラック(2008年
  • THE BEST(6) 加古隆(2008年)
  • QUARTET(2010年)

[編集] 音楽を担当した映像作品

[編集] 映画

[編集] テレビ

[編集] ドキュメンタリー

  • NHKスペシャル 映像の世紀(1995年、NHK総合)
  • ドキュメントにっぽん(1997年、NHK総合)
  • NHKスペシャル 摩周湖(1997年、NHK総合)
  • にんげんドキュメント(2000年、NHK総合)
  • NHKスペシャル 地球市場・富の攻防(2003年、NHK総合)
  • 映像記録 昭和の戦争と平和 -カラーフィルムでよみがえる時代の表情-(2003年、NHK衛星第1テレビジョン)
  • NHKスペシャル 日本の群像 再起への20年(2006年、NHK総合)
  • NHKスペシャル シリーズ日米安保50年(2010年、NHK総合)
  • NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(2011年、NHK総合)

[編集] CM曲

  • 「ポエジー」(収録アルバムは「代表作」の項目参照):ニッカウヰスキー(1985年)
  • 「ジブラルタルの風(マンドリン・ヴァージョン)」(アルバム『Scene 映像音楽作品集』に収録):カネボウ「デナリ」(1992年)
  • 「一つの予感」(アルバム『予感 〜アンジェリック・グリーンの光の中で〜』に収録):「ホンダ・レジェンド」(1997年)

[編集] 代表作

ポエジー 〜グリーンスリーヴス〜(1985年)
イングランドの民謡「グリーンスリーブス」から着想を得て生まれた作品。曲の中間部のメロディーが、加古オリジナルのものになっている。当時、前衛的で難解と形容される即興音楽を中心に活動していた加古に、音楽評論家の野口久光が、誰でも知っているメロディーを一度採り上げるよう助言したことがきっかけとなり、この曲が生まれた。作曲を始めた当初は、曲の中間部を即興で演奏する予定だったが、最終的にこの部分は、現在のオリジナルの部分として完成された。加古は、これまでの自身の作品とはかなり趣向の異なるこの曲を演奏すべきかどうか、初演当日の朝まで悩んでいたが、思い切って演奏に踏み切った。その後、この曲をきっかけにシンプルなメロディーの大切さを再認識するとともに、「作曲」という作業に自身の音楽の新しい世界を発見し、以後の音楽活動に積極的に活かしていく。
永訣の朝 -宮沢賢治の詩に(1988年)
宮沢賢治永訣の朝」が題材。元々、アルバム『KENJI』に「永訣の朝」というタイトルで収録されたのが最初で、後にこの曲だけが独立して演奏されるにあたり、「永訣の朝-宮沢賢治の詩に」とタイトルが改められた。アルバム『KENJI』・『静かな時間』・“Anniversary”にはそれぞれ異なる演奏が収録されている。
パリは燃えているか(NHKスペシャル映像の世紀」メインテーマ曲、1995年)
番組が取り上げた20世紀の歴史はもとより、その歴史を創り上げてきた「人間」にスポットを当てて作曲が開始された。完成当初、この曲は現在のものとは全く雰囲気が異なる曲調のものであったが、これでは曲と映像とが一体化しないと加古自身が判断し、別の曲が書き上げられている。この曲が現在の「パリは燃えているか」の原型となったが、この曲もまた、番組のオープニング映像に合うように、ややスピードを上げて、より決然とした曲調に再構成され、完成に至っている[4]。「パリは燃えているか」というタイトルは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったパリ撤退における焦土作戦時の、アドルフ・ヒトラーの言葉に由来する。加藤登紀子が「無垢の砂」という詩をこの曲に寄せており、この詩はアルバム“Is Paris Burning”のライナー・ノートに載っている。
湖沼の伝説(1995年)
1995年10月に、霞ヶ浦で行われた第6回世界湖沼会議のための委嘱作であると同時に、数少ないピアノ・ソロの委嘱作でもある。霞ヶ浦を実際に訪れたときに感じた、湖面を渡る「風」をヒントに作曲された。曲の最後の8小節に、ソステヌートペダル(グランドピアノに3つあるペダルのうち、中央のペダル)の使用が要求されていることが特徴として挙げられる。これについては、楽譜『ピアノ・ソロ曲選集』(ドレミ楽譜出版社)で実際に確認できる。アルバム『予感 〜アンジェリック・グリーンの光の中で〜』『ジブラルタルの風』“Anniversary”に収録。前者2つは同音源。
白梅抄 -亡き母の(1999年)
湯河原アトリエに咲く白梅を見ないまま亡くなった母に捧げられたピアノ・ソロ曲。コンサートでは必ずと言ってよいほど演奏される。子供の頃、欲しいレコードを買うためにお小遣いを前借りしていたという話や、使っていたピアノをどこかにしまっておいてくれたおかげで、ピアノが手元に残ってありがたかった、といった母親に関する生前のエピソードが残っている。この作品はアルバム『静かな時間』と“Anniversary”に収録されており、演奏において細部の表現に僅かな違いが見られる。
黄昏のワルツ(NHKにんげんドキュメント』、2000年度 - 2002年度)
NHKにんげんドキュメント』で2000年度から2002年度までテーマ曲として使用された。この曲の録音には、『Scene 映像音楽作品集』に収録され、実際に番組で使用されたヴァージョン、デビュー30周年記念アルバム“Anniversary”にダグラス・ボストック指揮、スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団との共演で収録されたもの、ヴァイオリニスト奥村愛のアルバム『ポエジー』に収録されたもの、同じく奥村の『愛のあいさつ』に収録されたヴァイオリンとピアノの二重奏版、『風のワルツ』に収録されたピアノ独奏版、『QUARTET』のピアノ・カルテット版等がある。前述3種類の録音は、いずれもピアノとヴァイオリンと弦楽オーケストラによる演奏。短調長調の間を行ったり来たりしながら、最後に長調で終わる構成には、人生における紆余曲折が表現されており、勇気と生きることの素晴らしさが託されている。
カバーについて
カバーしているアーティストは、発表年順に追っていくと以下のようになる。2003年には姜建華らによる演奏がオムニバスアルバム『Mirai〜若きマエストロたち〜』に収録され 、翌年にはトランペッターであるセルゲイ・ナカリャコフとオーケストラ・アンサンブル金沢との共演によるアルバム『パリは燃えているか 〜J-Themes Best〜』に収録された。2009年には葉加瀬太郎と加古が共演したアルバム『My Favorite Songs』に収録されている(『My Favorite Songs』収録の演奏形態は、ヴァイオリンとピアノの二重奏である)。
白い巨塔(フジテレビ開局45周年記念番組『白い巨塔』メインテーマ曲、2003年)
物語の世界観を支える重厚さと深さを合わせ持ち、主人公財前五郎のロマンと悲哀を表現する、力強くシンプルなメロディーを目指して作曲がなされた。この曲を収録している『白い巨塔』オリジナル・サウンド・トラックに収められている曲のほとんどは、「巨塔のテーマ」・「財前のテーマ」・「里見のテーマ」のいずれかに属する形になっており、前者2つのテーマは、共通する和音構造から作曲する手法がとられている。2つのテーマの有機的な関連づけを意図するために、この曲中では「巨塔のテーマ」と「財前のテーマ」が同時進行で演奏されている。
虹が架かる日(NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」テーマ曲、2005年)
バブル期における日本経済の崩壊と再生という番組のテーマに基づき、時代の流れに翻弄されながらも、懸命に生きる人々の苦悩と決意を表現した曲。この曲を収載した楽譜『ピアノ作品集』(ヤマハミュージックメディア)がCDよりも先に発売される形となり、その約8か月後、ピアノ・ソロ・ヴァージョンを収録したアルバム『PIANO』が発売された。オーケストラ・ヴァージョンはアルバム『熊野古道』に収録されている。

[編集] 映像音楽とコンセプト

1980年代に帰国して以降、とりわけNHKスペシャル「映像の世紀」を筆頭に、映像音楽の作曲家としても、映画ドラマドキュメンタリーといった数々の映像作品にかかわってきた。その作曲方法であるが、映像音楽の作曲を始める際、出来上がった映像を見ながら作曲をすることは極めて稀である。また、シーンごとの細かい部分から音楽を導き出す訳でもない。ほとんどの場合、まず台本を読んだ後、監督や脚本家らと必ず話をする機会を設け、自分よりもずっと作品と同じ時間や空間を共有している彼らの何気ない言葉の中に、作曲のヒントを見出す。こうして作品に対するイメージを膨らませ、映像が何を言わんとしているか、どんな雰囲気をもっているのかといった概念、「コンセプト」を、一言で自分に説明できるようにザックリと掴み、これをメロディーへと昇華させていく。このようにして編み出されたメロディーの多くは、主にメインテーマとして完成され、更に作品の完成後、各場面の持つ雰囲気や役者の台詞のトーン、秒数なども考慮しつつ様々にアレンジされ、映像と一体化していく。このように、加古にとって映像音楽の作曲におけるコンセプトは、極めて重要な意味を持つ[4]。たとえば、市井の人たちの紆余曲折を追うといった内容のNHK『にんげんドキュメント』のテーマ曲「黄昏のワルツ」のコンセプトは、「人々に勇気を与え、生きることの素晴らしさを表現する」ところにある。また、『NHKスペシャル 映像の世紀』のテーマ曲「パリは燃えているか」のコンセプトは、「華々しい発展と栄華を極める傍らで、幾多の戦争を繰り返す人間の側面と歴史を力強く壮大に表現する」といったものである。なお、アルバム『Scene 映像音楽作品集』や『博士の愛した数式』オリジナル・サウンドトラックのライナー・ノートには、映像音楽に対する加古の言葉が、詳細に記されている。

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e "「作家で聴く音楽」第一三回 加古隆" JASRAC、p1、2009年8月27日 閲覧。外部リンク参照。
  2. ^ a b c d e f g h 「音楽との出会い〜軌跡」 公式サイト、2009年8月27日 閲覧。外部リンク参照。
  3. ^ アルバム『海の伝説 - 私』のライナーノートに対談の詳細がある。
  4. ^ a b c "「作家で聴く音楽」第一三回 加古隆" JASRAC、p2。2009年8月27日 閲覧。外部リンク参照。
  5. ^ 「」内の表現は、アルバム『パラドックス』のライナーノートより引用した。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス