フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)
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フリードリヒ3世(Friedrich III.、1415年 - 1493年8月19日、ドイツ王在位:1440年 - 1493年、皇帝在位:1452年 - 1493年)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(同家当主としては5世)。オーストリア大公エルンスト鉄公とシムブルギス・フォン・マゾーヴィエンの間に生まれた。又従兄のドイツ王アルブレヒト2世(同家当主としては5世)が亡くなった後を襲って皇帝位につく。凡愚極まる人物で、不運の連続だったが、長寿でありライバルの急死も連続し、何もしないまま同家の地盤を固めて往生した。ドイツやイタリアなどオーストリア国外への統率力が弱体化したことが、かえってハプスブルク家の地盤を強化させたと言える。好きな言葉は“A・E・I・O・U”(意味についてはA.E.I.O.U.を参照)。数多くの蔑称を身に纏い、死後は「神聖ローマ帝国の大愚図」という綽名を贈られた。
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[編集] 宗家継承
ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムントが亡くなった後、次のドイツ王に選出されたのはジギスムントの娘婿、ハプスブルク家のアルブレヒト2世だった。この時、ジギスムントの有していたハンガリーとボヘミアの王位も手に入れている。しかし1439年、在位1年余りで皇帝の戴冠式もしないうちに、アルブレヒト2世は対オスマン帝国戦に出陣中、アーヘンで赤痢によって亡くなってしまった。
フリードリヒ3世は、アルブレヒト2世の遺児ラディスラウス・ポストゥムスの後見人に選ばれたが、この時期ヨーロッパは未曾有の危機に瀕していた。東からオスマン帝国が猛烈に勢力を伸ばし始めていたが、頼みのボヘミア王国はジギスムントの失策で無政府状態になり、帝国諸侯は、帝国東南にあってオスマン帝国への防波堤となりうるハプスブルク家に賭けるしかなかった。そこでフリードリヒ3世はドイツ王に選出され、皇帝位につくこととなった。1457年にはラディスラウスが17歳で夭折し、ラディスラウスが名目上の君主だったボヘミアとハンガリーは失うが、少なくともオーストリアの遺領はフリードリヒ3世のものとなった。
[編集] 皇帝即位
1452年、フリードリヒ3世は正式に戴冠するためと同時に、ポルトガル王ドゥアルテ1世の娘エレオノーレと結婚するため、ローマに向かった。エレオノーレとはシエナで落ち合い、ローマで戴冠式と結婚式を同時に執り行った。
フリードリヒ3世は倹約家として知られ、「ポルトガルへの使者に旅費をほとんど与えず、使者は物乞い同然でポルトガルたどり着き逮捕された」、「ローマまでの路銀を教皇に用立てさせた」、「エレオノーレに『ワインをストレートで飲むとは何事だ!』と怒った」、「日頃の食事は芋と豆料理ばかりだった」等の風説が広まった。
また、占星術に深くはまり、イタリアで授けられた子供は悪魔の申し子であると信じて妻に手を触れなかったとも言うが、1459年3月22日待望の王子(後のマクシミリアン1世)が生まれた。この時の占いの結果は大吉だったが、それは後に正反対の結果となってあらわれる。
[編集] ウィーン追放・帰還
1453年5月29日、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅んだ。このニュースはヨーロッパを駆け巡り、人々を震撼させたが、皇帝フリードリヒ3世は庭いじりしながら何事も無かったかのようにそれを聞いたと言われ、人々はフリードリヒ3世を凡愚と批判した。弟のアルブレヒト6世は、凡愚な兄を前にして野心を燃やし、1463年にウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせ、エレノオーレとマクシミリアンを幽閉してしまった。皇帝は10日後にウィーンに駆けつけたが城内に入れず、ウィーンを追われたが、まもなくアルブレヒト6世は亡くなったため、ウィーンに戻ることができた。
フリードリヒ3世の好きな言葉は“A・E・I・O・U”で、なんでもかんでもこれを掘り込んでいた。これは、“Austriae Est Imperator Orbis Universi”(オーストリアは全世界の支配者なり)という意味のラテン語の略と言われる(異説もある)。
存亡の機にあるハンガリー貴族は、妄想にふけるフリードリヒ3世を見限り、オスマン帝国から恐れられていたフニャディ・ヤーノシュを実質的な王に選出していたが、ヤーノシュの子マーチャーシュ・コルヴィヌスは1458年、正式にハンガリー王に選出されると、ワラキア、セルビア等次々に領土を拡張し、1479年にはオロモウツの和約によってオーストリア大公の地位さえ奪ってしまう。1483年にはオーストリアの半分を支配し、1485年以降ウィーンも占領された。しかしマーチャーシュは1490年に子を残さぬまま死亡し、フリードリヒ3世は再びウィーンに戻り、オーストリアの支配権を奪還することができた。
[編集] 最後の錬金術
フリードリヒ3世は、最後に“錬金術”を成功させた。それは、当時栄えたブルゴーニュ公国を手に入れるということであった。当時のブルゴーニュ公はシャルル・テメレール(豪胆公、突進公)で、後継者は一人娘マリーしかいなかった。このためヨーロッパ中の王侯が、ブルゴーニュ公国を相続するマリーとの婚姻を望んだ。特に対立関係にあったフランス王ルイ11世は、王太子シャルル(後のシャルル8世との結婚を執拗に望んでいた。しかしブルゴーニュ公は、皇帝フリードリヒ3世の子マクシミリアン大公との婚姻に興味を示していた。1473年9月13日に両者はトリーアで会見し、ブルゴーニュ公はブルゴーニュの王号の授与等を要求したが、フリードリヒ3世は明言を避けた。フランス王の反対や、帝国諸侯がテメレール公の好戦的な性格を恐れていたという背景もあり、結局11月24日の夜半、皇帝一行は闇にまぎれて立ち去った。公はいきり立ったが、1477年1月5日に43歳の若さで生涯を閉じる。好戦的な性格が禍となり、ナンシーの会戦で戦死したのだった。ブルゴーニュ公の死後、マクシミリアンとマリーは結婚し、その遺領のうちネーデルラントはハプスブルク家のものになったが、ブルゴーニュのほとんどはフランスに併合された。
その後、1488年にブルターニュ公フランソワ2世が一人娘アンヌを残して亡くなったときも同じような状況になった。アンヌも、既にマリーと死別していたマクシミリアンと婚約したが、フランス王シャルル8世は武力で彼女を奪った。この事件が元で、フランス王家とハプスブルク家の関係は急速に悪化して行く。しかしブルゴーニュ家との婚姻は、その後のハプスブルク家の結婚政策「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の第一歩となった。
[編集] 総括
フリードリヒ3世は一見、凡庸な君主であったが、彼の敵対者はことごとく都合良く亡くなった。これには「暗殺説」がつきまとうほどである。とにかく長生きと悪運の強さで、自発的には何もしないままハプスブルク家の基礎を形作った。ちなみに、かのルドルフ4世(建設公)の「大特許状」を帝国法に組み込んだのはこのフリードリヒ3世で、以後ハプスブルク家は非常に大きな権利を得た。曰く、「オーストリアは皇帝が介入できない永遠の封土であり、オーストリア大公は皇帝の助言者で、彼の知らないところではいかなる決定も下せない。オーストリアはあらゆる帝国税が免除されるが、帝国はオーストリアの安全を守る義務がある。オーストリアは義務で帝国に属しているのではなく、帝国に頼まれて帝国の臣になっている。等々」と「大特許状」にはある。ハプスブルク家が以後帝位を独占する1つの要因となるものである。
1442年、フリードリヒ3世はフランクフルト帝国議会である法律を発布するが、この時の法律第17条冒頭に「神聖ローマ帝国とドイツ国民」といった表現が登場する。ここから次第に、「神聖ローマ帝国」という国号に「ドイツ国民」という言葉が付加されるようになる。このことはつまり、その帝国の支配領域がドイツに限られてきたということを追認せざるを得なくなった訳で、1486年に使用された「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は少なくともこの意味だった。歴代の皇帝が夢見てきた世界帝国の建設という目的を公式に放棄したことがここからわかる。フリードリヒ3世は“A・E・I・O・U”を色々なものに掘り込んだりしたが、ここにはせめて帝国内だけはと言う、はかない諦めにも似たものがあったのかもしれない。ちなみに次のマクシミリアン1世は、ローマへ行かずとも皇帝になれる道を開き、わざわざローマまで行って戴冠した皇帝は、フリードリヒ3世が最後となった。
[編集] 子女
1452年にポルトガル王ドゥアルテ1世の娘レオノール(エレオノーレ)と結婚。三男二女をもうける。
- クリストフ(1455年 - 1456年)
- マクシミリアン1世(1459年 - 1519年)
- ヘレネ(1460年 - 1462年)
- クニグンデ(1465年 - 1520年)(バイエルン公アルブレヒト4世妃)
- ヨハンネス(1466年 - 1467年)
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