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'''織田 信右'''(おだ のぶすけ、[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]]) - [[宝暦]]12年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])([[1762年]][[10月5日]])は、[[上野国|上野]][[小幡藩]]の第5代藩主。第4代藩主[[織田信就]]の四男。初名は'''長賢'''。通称は左膳。官位は[[従四位]]下[[若狭国|若狭]]守、兵部大輔。
'''織田 信右'''(おだ のぶすけ、[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]]) - [[宝暦]]12年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])([[1762年]][[10月5日]])は、[[上野国|上野]][[小幡藩]]の第5代藩主。第4代藩主[[織田信就]]の四男。初名は'''長賢'''。[[仮名 (通称)|通称]]は左膳。官位は[[従四位]]下[[若狭国|若狭]]守、兵部大輔。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
信就の四男であったが、長兄の[[織田信房 (小幡藩嫡子)|信房]]、次いで三兄の[[織田信乗|信乗]]が病気を理由に廃嫡され、次兄の[[織田信常|信常]]も多病で相続を辞したため、享保15年([[1730年]])10月16日に嫡子になった。同年11月15日、将軍[[徳川吉宗]]に[[御目見]]、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。
信就の四男であったが、長兄の[[織田信房 (小幡藩嫡子)|信房]]、次いで三兄の[[織田信乗|信乗]]が病気を理由に廃嫡され、次兄の[[織田信常|信常]]も多病で相続を辞したため、享保15年([[1730年]])10月16日に嫡子になった。同年11月15日、将軍[[徳川吉宗]]に[[御目見]]、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。


享保16年([[1731年]])7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年([[1733年]])6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、[[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年([[1757年]])には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年([[1759年]])11月11日、家督を養子とした弟の[[織田信富|信富]]に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日に50歳で死去した。
享保16年([[1731年]])7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年([[1733年]])6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、[[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年([[1757年]])には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年([[1759年]])11月11日、家督を養子とした弟の[[織田信富|信富]]に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日に50歳で死去した。
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2019年1月22日 (火) 12:17時点における版

織田 信右(おだ のぶすけ、正徳3年(1713年) - 宝暦12年8月18日)(1762年10月5日)は、上野小幡藩の第5代藩主。第4代藩主織田信就の四男。初名は長賢通称は左膳。官位は従四位若狭守、兵部大輔。

生涯

信就の四男であったが、長兄の信房、次いで三兄の信乗が病気を理由に廃嫡され、次兄の信常も多病で相続を辞したため、享保15年(1730年)10月16日に嫡子になった。同年11月15日、将軍徳川吉宗御目見し、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。

享保16年(1731年)7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年(1733年)6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、紅葉山八講会の予参を勤める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年(1757年)には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年(1759年)11月11日、家督を養子とした弟の信富に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日に50歳で死去した。

正室は水戸家御連枝松平頼明の長女(のち離婚)。子は織田信賁(長男)、織田信尹(次男)、娘(九鬼隆貞継室)の2男1女。