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| Bike number = 26
| Bike number = 26
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| Poles = 37
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| Points = 2596
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'''ダニ・ペドロサ'''<ref>本名はダニエル・ペドロサで、現在のエントリーネームは{{MGP|2006}}より使用している。</ref> ( ''Daniel "Dani" Pedrosa Ramal''、[[1985年]][[9月29日]] - ) は、[[スペイン]]・[[カタルーニャ州]]出身の[[オートバイ]][[レーサー]]。{{MGP|2003}}の[[ロードレース世界選手権]]125ccクラスチャンピオン。{{MGP|2004}}・{{MGP|2005}}同選手権250ccクラスチャンピオン。{{MGP|2006}}より同選手権最高峰のMotoGPクラスに[[レプソル・ホンダ]]から参戦中。
'''ダニ・ペドロサ'''<ref>本名はダニエル・ペドロサで、現在のエントリーネームは{{MGP|2006}}より使用している。</ref> ( ''Daniel "Dani" Pedrosa Ramal''、[[1985年]][[9月29日]] - ) は、[[スペイン]]・[[カタルーニャ州]]出身の[[オートバイ]][[レーサー]]。{{MGP|2003}}の[[ロードレース世界選手権]]125ccクラスチャンピオン。{{MGP|2004}}・{{MGP|2005}}同選手権250ccクラスチャンピオン。{{MGP|2006}}より同選手権最高峰のMotoGPクラスに[[レプソル・ホンダ]]から参戦中。
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{{MGP|2009}}のゼッケンは前年順位の「3」でシーズンに挑むことになった。前年ケガが相次いだことにより、その後遺症が心配されていたが、序盤こそ優勝争いに加われなかったものの、[[2009年のアメリカグランプリ (ロードレース)|第8戦アメリカGP]]での優勝で調子を取り戻し、その後は安定した成績を残して[[2009年のバレンシアグランプリ|最終戦バレンシアGP]]も優勝し、2年連続ランキング3位となった。
{{MGP|2009}}のゼッケンは前年順位の「3」でシーズンに挑むことになった。前年ケガが相次いだことにより、その後遺症が心配されていたが、序盤こそ優勝争いに加われなかったものの、[[2009年のアメリカグランプリ (ロードレース)|第8戦アメリカGP]]での優勝で調子を取り戻し、その後は安定した成績を残して[[2009年のバレンシアグランプリ|最終戦バレンシアGP]]も優勝し、2年連続ランキング3位となった。


{{MGP|2010}}はゼッケンを「26」に戻す。序盤から中盤にかけて優勝4回・2位5回の好成績を残。[[2010年の日本グランプリ (ロードレース)|第14戦日本GP]]でマシントラブルから転倒、鎖骨を骨折して3レースを欠場したが、ランキング2位の座を守りきった。
{{MGP|2010}}はゼッケンを「26」に戻す。序盤から中盤にかけて優勝4回・2位5回の好成績を残した。[[2010年の日本グランプリ (ロードレース)|第14戦日本GP]]でマシントラブルから転倒、鎖骨を骨折して3レースを欠場したが、ランキング2位の座を守りきった。


{{MGP|2011}}、レプソル・ホンダは3台にチーム体制を拡大。ペドロサのチームメイトには[[アンドレア・ドヴィツィオーゾ]]に加えて、スペイン選手権時代にプーチの門下生同士だったゼッケン「27」の[[ケーシー・ストーナー]]が加入る。
{{MGP|2011}}、レプソル・ホンダは3台にチーム体制を拡大。チームメイトには[[アンドレア・ドヴィツィオーゾ]]に加えて、スペイン選手権時代にプーチの門下生同士だったゼッケン「27」の[[ケーシー・ストーナー]]が加入した。ペドロサは[[2011年のフランスグランプリ (ロードレース)|第4戦フランスGP]]での[[マルコ・シモンチェリ]]との接触でまたも鎖骨を骨折。これによ3戦の欠場が響いて、年間3勝でランキング4位に終わった


==記録==
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|-
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| [[2011年のイギリスグランプリ (ロードレース)|GBR]]
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! 4位
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2011年12月16日 (金) 01:10時点における版

ダニ・ペドロサ
2011年 チェコGP
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1985-09-29) 1985年9月29日(38歳)
出身地 カタルーニャ州 バルセロナ県 サバデイ
ウェブサイト danipedrosa.com
ロードレース世界選手権での記録
- MotoGPクラスに参戦 -
現在のチーム レプソル・ホンダ・チーム
ゼッケン 26
チャンピオン 3
125cc: 2003年
250cc: 2004年, 2005年
レース数 176
優勝回数 38
表彰台回数 97
PP回数 37
FL回数 46
通算獲得ポイント 2596
2011年の成績 4位 (219ポイント)

ダニ・ペドロサ[1] ( Daniel "Dani" Pedrosa Ramal1985年9月29日 - ) は、スペインカタルーニャ州出身のオートバイレーサー2003年ロードレース世界選手権125ccクラスチャンピオン。2004年2005年同選手権250ccクラスチャンピオン。2006年より同選手権最高峰のMotoGPクラスにレプソル・ホンダから参戦中。

来歴

レース開始からスペイン選手権参戦まで

ダニ・ペドロサはバルセロナ県の都市サバデルに生まれ、7km離れた郊外の村カステジャル・デル・バジェス(Castellar del Vallès)で育った。4歳でバイクに乗り始め、1996年からスペインのポケットバイク選手権に参加。1998年、12歳でチャンピオンを獲得したが、経済的な問題からロードレースを続けることは困難だった。1999年、ペドロサはスペインの大手通信会社・テレフォニカが支援するスペイン人グランプリライダー養成プロジェクト(モビスター・アクティバ・カップ)の存在を知りこれに応募、ハラマ・サーキットで行われた公開テストに参加して8位で完走した。このテストでの活躍が認められ、2000年より監督アルベルト・プーチの率いるチームから、ロードレーススペイン選手権にデビューすることになる。同選手権でペドロサは年間ランキング4位の成績を収めた。

125cc - 250ccクラス

2001年、15歳のペドロサはトニ・エリアスホアン・オリベと共に、テレフォニカ・モビスター・ジュニア・チームからロードレース世界選手権125ccクラスに参戦を開始。初年度から表彰台を獲得するなど、ルーキーながら関係者の注目を集める。2年目の2002年第7戦ダッチTTで初優勝を挙げると、3年目の2003年には圧倒的強さを見せ、この年の第14戦マレーシアGPにて125ccクラスの世界チャンピオンに輝いた。しかし第15戦オーストラリアGPのフリー走行中、転倒したペドロサは両足首を骨折する大怪我を負ってしまう。

2004年、ペドロサはアルベルト・プーチ監督と共に250ccクラスへステップアップする。前年の事故以来、新しいマシンでのテスト走行もほとんど無いまま中量級デビューを迎えたペドロサだったが、開幕戦南アフリカGPランディ・ド・プニエとのバトルを制し、250ccクラス初レースを見事優勝で飾った。その後もシーズンを通じて他のライダーを圧倒し、250ccクラス参戦初年度にしてチャンピオンとなった。シーズン後にはホンダからチャンピオン獲得のご褒美としてMotoGPマシン・RC211Vのテストライドも経験し、翌年からMotoGPクラスにステップアップするかと思われた。しかし、後述する体格の問題からステップアップを見送り、2005年も250ccクラスに参戦する。チャンピオンとして追われる立場になってもペドロサの強さは変わらず、第15戦オーストラリアGPにて2年連続の中量級制覇と3年連続のタイトル獲得を果たした。

MotoGPクラス

ホンダRC212Vを駆るペドロサ(2007年)

2006年、満を持して最高峰MotoGPクラスにステップアップしたペドロサは、ホンダのワークス・チームであるレプソル・ホンダに移籍した。ホンダはバレンティーノ・ロッシヤマハ移籍以後2年連続でライダータイトルを奪われており、秘蔵っ子ペドロサにタイトル奪還を期待してワークスライダーのシートを用意した。その期待に応えるようにペドロサはデビュー戦から優勝を争い、第4戦中国GPで早くも初優勝を遂げる。その後第9戦イギリスGPで2勝目を記録、その他のレースでもコンスタントに表彰台を獲得し、最終的にランキング5位で最高峰クラスデビューシーズンを終えた。

2007年、引き続きペドロサはレプソル・ホンダから参戦。技術規則の変更でMotoGPクラスのマシン排気量が800ccに縮小し、加速力が落ちること、マシンもコンパクトになることなどから、軽量・小柄なペドロサにとっては有利な状況になると予想され、有力なチャンピオン候補と目された。最終戦バレンシアGPでは年間王者となったストーナーを下してシーズン2回目の優勝を記録。この結果、バレンティーノ・ロッシを1ポイント差で逆転して年間ランキング2位を獲得した。

2008年はゼッケンを前年までの「26」(スペイン選手権時代から使用してきたナンバー)から前年度ランキングの「2」に変更。開幕前テストで負傷したもののシーズン中盤までロッシ、ストーナーと共にランキングトップ争いを演じていた。が、徐々に使用するミシュランタイヤのパフォーマンスが低下、第12戦チェコGPでは周回遅れの憂き目にあう。シーズン途中でタイヤをブリヂストンに変更したがチャンピオン争いからは完全に脱落し、ランキング3位でシーズンを終えた。

2009年のゼッケンは前年順位の「3」でシーズンに挑むことになった。前年ケガが相次いだことにより、その後遺症が心配されていたが、序盤こそ優勝争いに加われなかったものの、第8戦アメリカGPでの優勝で調子を取り戻し、その後は安定した成績を残して最終戦バレンシアGPも優勝し、2年連続ランキング3位となった。

2010年はゼッケンを「26」に戻す。序盤から中盤にかけて優勝4回・2位5回の好成績を残した。第14戦日本GPでマシントラブルから転倒、鎖骨を骨折して3レースを欠場したが、ランキング2位の座を守りきった。

2011年、レプソル・ホンダは3台にチーム体制を拡大。チームメイトにはアンドレア・ドヴィツィオーゾに加えて、スペイン選手権時代にプーチの門下生同士だったゼッケン「27」のケーシー・ストーナーが加入した。ペドロサは第4戦フランスGPでのマルコ・シモンチェリとの接触でまたも鎖骨を骨折。これによる3戦の欠場が響いて、年間3勝でランキング4位に終わった。

記録

2006年5月14日の中国GPにてチームメイトで先輩のニッキー・ヘイデンを抑え、MotoGPクラス参戦4戦目、20歳227日で初優勝を飾る。この記録は1996年阿部典史と並び、史上2番目の若さでの優勝となる。

人物

  • 若手ライダーに似合わない冷静で落ち着いた性格から、テレビで優勝に喜ぶシーンが放映されると、実況者に貴重な映像とコメントされる。雑誌等の取材でも常に謙虚で控えめな発言をする。
  • 監督であるアルベルト・プーチのプロライダーとしての指導に忠実に従い、精神面・技術面を強化してきた。特に精神面での指導は厳格であり、ライバルである他のライダーとのコミュニケーションをとることを禁じられている。そのため、ペドロサはチームメイト以外のライダーとはほとんど口を利かない。これはペドロサに限らず、プーチ監督が指導するライダー全般に言えることである。
  • 身長158cmと、他のスポーツに比べて小柄な選手が多いモーターサイクル界でもとりわけて小柄な選手である。2004年の250ccクラスで総合優勝した後、翌年MotoGPに参戦せずに引き続き同クラスに参加したのも、小柄すぎる体格のためだった。そのお陰で250ccクラス2年連続制覇という偉業を成し遂げる。当時43kgだった体重を、筋肉トレーニングを経て51kgまで増やし、2006年、満を持してMotoGPクラスに参戦した。ただ転倒による骨折が他選手より多く、その小柄な体格が影響してるのではないかとも言われている。
  • ヨーロッパ出身のGPライダーとしては珍しく、マシンはGPデビュー以来ホンダ一筋というホンダ系ライダーである。
  • ペドロサは以前スペインメーカーのヘルメットを使用していたが、2005年シーズン中に当時のチームメイト・青山博一が日本のアライを使用していた関係で同社のヘルメット「RX-7RR4」をテストした。特に雨の日のシールドの曇りに不満を持っていたペドロサだったが、アライ製ヘルメットのシールドが雨でも曇らないことに感激。その後、シーズン中にもかかわらず前メーカーとの契約を解除してアライと契約した[2]。ちなみに青山とは同じプーチ門下生ということもあり親友とも呼べる存在であるという。
  • 2008年にはシーズン途中でタイヤ銘柄の契約解除・中途契約を行っている。シーズン中盤以降のミシュランタイヤのパフォーマンス不足に不満を持っていたペドロサが、チェコGPでの極端な不振(明らかなタイヤ性能の不足により周回遅れとなった)を引き金に次戦サンマリノGPを最後にタイヤメーカーをミシュランからブリヂストンに変更した。
  • 一時期、経済的な理由からオートバイ競技を離れ自転車競技に転向していたが、アルベルト・プーチに発掘され現在に至る。現在の趣味もサイクリングである。
  • 2011年茂木でのMotoGP後、日本で着た服はすべて捨てて帰った[3]

ロードレース世界選手権 戦績

  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
シーズン クラス バイク 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
2001年 125cc ホンダ JPN
18
RSA
13
SPA
10
FRA
17
ITA
23
CAT
7
NED
Ret
GBR
12
GER
11
CZE
8
POR
5
VAL
3
PAC
3
AUS
7
MAL
4
BRA
Ret
8位 100
2002年 125cc ホンダ JPN
8
RSA
3
SPA
4
FRA
3
ITA
4
CAT
2
NED
1
GBR
2
GER
7
CZE
2
POR
10
BRA
Ret
PAC
1
MAL
3
AUS
5
VAL
1
3位 243
2003年 125cc ホンダ JPN
8
RSA
1
SPA
4
FRA
1
ITA
2
CAT
1
NED
8
GBR
Ret
GER
4
CZE
1
POR
4
BRA
4
PAC
6
MAL
1
AUS VAL 1位 223
2004年 250cc ホンダ RSA
1
SPA
Ret
FRA
1
ITA
2
CAT
2
NED
2
BRA
2
GER
1
GBR
1
CZE
3
POR
4
JPN
1
QAT
2
MAL
1
AUS
4
VAL
1
1位 317
2005年 250cc ホンダ SPA
1
POR
4
CHN
6
FRA
1
ITA
1
CAT
1
NED
2
GBR
4
GER
1
CZE
1
JPN
2
MAL
Ret
QAT
4
AUS
1
TUR
2
VAL
1
1位 309
2006年 MotoGP ホンダ SPA
2
QAT
6
TUR
14
CHN
1
FRA
3
ITA
4
CAT
Ret
NED
3
GBR
1
GER
4
USA
2
CZE
3
MAL
3
AUS
15
JPN
7
POR
Ret
VAL
4
5位 215
2007年 MotoGP ホンダ QAT
3
SPA
2
TUR
Ret
CHN
4
FRA
4
ITA
2
CAT
3
GBR
8
NED
4
GER
1
USA
5
CZE
4
SMR
Ret
POR
2
JPN
Ret
AUS
4
MAL
3
VAL
1
2位 242
2008年 MotoGP ホンダ QAT
3
SPA
1
POR
2
CHN
2
FRA
4
ITA
3
CAT
1
GBR
3
NED
2
GER
Ret
USA CZE
15
SMR
4
IND
8
JPN
3
AUS
Ret
MAL
2
VAL
2
3位 249
2009年 MotoGP ホンダ QAT
11
JPN
3
SPA
2
FRA
3
ITA
Ret
CAT
6
NED
Ret
USA
1
GER
3
GBR
9
CZE
2
IND
10
SMR
3
POR
3
AUS
3
MAL
2
VAL
1
3位 234
2010年 MotoGP ホンダ QAT
7
SPA
2
FRA
5
ITA
1
GBR
8
NED
2
CAT
2
GER
1
USA
Ret
CZE
2
IND
1
SMR
1
ARA
2
JPN
DNS
MAL AUS
DNS
POR
8
VAL
7
2位 245
2011年 MotoGP ホンダ QAT
3
SPA
2
POR
1
FRA
Ret
CAT GBR NED ITA
8
GER
1
USA
3
CZE
Ret
IND
2
RSM
2
ARA
2
JPN
1
AUS
4
MAL
C
VAL
5
4位 219

脚注

  1. ^ 本名はダニエル・ペドロサで、現在のエントリーネームは2006年より使用している。
  2. ^ http://www.arai.co.jp/jpn/arainews/images/an_0607.pdf
  3. ^ “レッドブル、汚染を恐れ日本の食品は飲食禁止に”. オートスポーツweb. (2011年10月4日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=36664 2011年10月6日閲覧。 

関連項目

外部リンク