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阿部典史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿部典史あべ のりふみ
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1975-09-07) 1975年9月7日
死亡年月日 (2007-10-07) 2007年10月7日(32歳没)
阿部典史あべ のりふみ
グランプリでの経歴
国籍 日本の旗 日本
チーム ヤマハ
レース数 144
チャンピオン 0
優勝回数 3
表彰台回数 17
通算獲得ポイント 1157
ポールポジション回数 0
ファステストラップ回数 1
初グランプリ 1994年 500cc 日本GP
初勝利 1996年 500cc 日本GP
最終勝利 2000年 500cc 日本GP
最終グランプリ 2004年 MotoGP バレンシアグランプリ
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阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日 - 2007年10月7日)は、東京都世田谷区出身のモーターサイクルロードレーサー。愛称はノリックで、WGP時代は「Norick Abe(ノリック・アベ)」の名で参戦していた。

父はオートレーサー阿部光雄。息子の阿部真生騎もレーサーであり、スーパースポーツ世界選手権に参戦している。

生涯

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東京都世田谷区出身。5歳からバイクに乗り、ポケバイミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラックモトクロスの修業をする[1]全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスである500ccクラスにおいて、史上最年少の17歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった[2]

ロードレース世界選手権(WGP)デビュー

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1994年には、18歳の若さでロードレース世界選手権(WGP, 現:MotoGP)にスポット参戦し、同年度の日本GPでは、ケビン・シュワンツマイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも、残り3周で転倒リタイアするという衝撃のグランプリ・デビューとなった。阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。後にロッシは、「自分からサインを求めたのは後にも先にもノリックだけ」と語っている。

同シーズン前の状況では、阿部は全日本ロードレース選手権のスーパーバイククラスへの参戦が予定されており、WGPへの参戦予定は前年度に国内500ccチャンピオンを獲得したことによるワイルドカードで出場した上記の日本GPただ一戦のみであった[3]。阿部は「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。結果はドゥーハンらを抜き去るだけ抜き去ってリタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。

この時点で阿部はホンダ陣営の所属であったが(サテライトチームチームブルーフォックスに在籍していた)、この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、シーズン中ながらもヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、同シーズン中のWGPに更に2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。ヤマハ側としても、日本人の500ccグランプリライダー、それも優勝争いに加われるレベルのライダーがたとえ他メーカーの所属だとしても欲しかったことや、バブル崩壊の余波でチームブルーフォックスが経営難に陥っていたため、阿部を引き止められる状況ではなかった(むしろヤマハから違約金をもらってチームの経営を立て直すことが急務だった)ことも要因として挙げられる。

ロードレース世界選手権(WGP)フル参戦

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1995年シーズンよりロードレース世界選手権(WGP, 現:MotoGP)にフル参戦。1996年の日本GPでは、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済の優勝以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。それと同時に、この20歳と227日での優勝はロードレース世界選手権に出場した日本人ライダーの中では最年少優勝記録であり、当時はロードレース世界選手権に出場した全ライダーの中でも2番目に若い優勝記録であった。

1999年シーズンブラジルGPでは2勝目を挙げた。2000年シーズン日本GPでは3勝目を挙げ、これが自身にとってのWGPにおける最後の優勝となった。その後は4ストロークのマシンの適応に苦しみ、2004年シーズンバレンシアGPを最後にMotoGPの舞台を去った。

2005年よりスーパーバイク世界選手権(SBK)に参戦。2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、当期6戦を終え総合順位3位でシーズンを終えた。自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。

しかし、2007年10月7日午後6時20分頃、神奈川県川崎市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右側車線を500ccスクーターバイク(黒のヤマハ・TMAX)で北上中、左側車線から突然Uターンしてきたコンビニエンスストア配送用の4トントラックと衝突。病院へ救急搬送されたが、午後8時50分過ぎに死亡が確認された。32歳没。なお現場はUターン禁止区域だったため、このトラック運転手は起訴され禁錮1年4ヶ月(執行猶予3年)の判決を受けた。

墓地神奈川県横浜市都筑区東方町の龍雲寺。戒名は正道院弐輪英雄典久大居士。

戦歴

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  • 1988年 - 13歳でレースデビュー
  • 1991年 - アメリカでダートトラック、モトクロスなどに出場
  • 1992年 - スーパーカップイースタンシリーズ250ccランキング2位

全日本ロードレース選手権

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チーム マシン 区分 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント
1993年 Teamブルーフォックス ホンダ・NSR500 国際 500cc SUZ
2
- SUG
1
TSU
1
SUZ
Ret
SUG
1
SUZ
3
- SUG
3
TSU
4
1位 123
ホンダ・VFR750 RC30 TT-F1 SUZ
-
MIN
12
SUG
-
TSU
-
SEN
-
SUZ
-
SUG
-
FSW
-
SUZ
-
TSU
-
SUG
-
TSU
-
30位 4
1994年 ホンダ・VFR750 RC30 SB SUZ
8
MIN
7
SUG1
4
SUG2
11
TSU
14
FSW
10
SUZ
SUG1
4
SUG2
8
SUZ1
-
SUZ2
-
TIA
-
SUG1
-
SUG2
-
TSU
-
12位 44.5
2007年 Y'S GEARレーシング・ヤマハ ヤマハ・YZF-R1 JSB MOT
5
SUZ
8
TSU
3
A P
4
SUG
6
OKA
6
SUZ1
-
SUZ2
-
8位 97

ロードレース世界選手権

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チーム クラス マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1994年 ミスター飲茶Teamブルーフォックス 500cc ホンダ・NSR500 JPN
Ret
17位 20
マールボロヤマハロバーツ ヤマハ・YZR500 GBR
DNS
CZE
6
USA
6
ARG
-
EUR
-
1995年 ヤマハ・YZR500 AUS
9
MAL
Ret
JPN
9
ESP
4
GER
8
ITA
6
NED
6
FRA
Ret
GBR
18
CZE
Ret
RIO
3
ARG
6
EUR
Ret
9位 81
1996年 ヤマハ・YZR500 MAL
8
INA
9
JPN
1
ESP
Ret
ITA
11
FRA
4
NED
6
GER
6
GBR
3
AUT
3
CZE
11
IMO
5
CAT
10
RIO
3
AUS
Ret
5位 148
1997年 ヤマハ・チーム・レイニー ヤマハ・YZR500 MAL
8
JPN
7
ESP
7
ITA
7
AUT
9
FRA
7
NED
10
IMO
7
GER
Ret
RIO
5
GBR
9
CZE
5
CAT
12
INA
5
AUS
3
7位 126
1998年 ヤマハ・YZR500 JPN
14
MAL
Ret
ESP
6
ITA
6
FRA
7
MAD
2
NED
Ret
GBR
3
GER
Ret
CZE
5
IMO
6
CAT
3
AUS
5
ARG
4
6位 128
1999年 アンテナ3・ヤマハ・ダンティン ヤマハ・YZR500 MAL
Ret
JPN
3
ESP
5
FRA
6
ITA
Ret
CAT
Ret
NED
6
GBR
6
GER
3
CZE
Ret
IMO
11
VAL
6
AUS
16
RSA
9
RIO
1
ARG
3
6位 136
2000年 ヤマハ・YZR500 RSA
7
MAL
17
JPN
1
ESP
Ret
FRA
2
ITA
5
CAT
2
NED
10
GBR
6
GER
11
CZE
Ret
POR
9
VAL
Ret
RIO
4
PAC
5
AUS
6
8位 147
2001年 ヤマハ・YZR500 JPN
4
RSA
5
ESP
2
FRA
4
ITA
9
CAT
6
NED
Ret
GBR
Ret
GER
4
CZE
4
POR
Ret
VAL
8
PAC
4
AUS
13
MAL
13
RIO
6
7位 137
2002年 MotoGP ヤマハ・YZR500 JPN
5
RSA
7
ESP
6
FRA
4
ITA
7
CAT
16
NED
9
GBR
4
GER
6
CZE
8
POR
7
RIO
6
PAC
8
MAL
10
AUS
DNS
VAL
10
6位 129
2003年 ヤマハ.R.T ヤマハ・YZR-M1 ESP
-
FRA
11
ITA
-
CAT
-
NED
-
GBR
-
GER
10
CZE
-
POR
-
RIO
-
PAC
-
MAL
-
AUS
-
16位 31
フォルツナ ・ヤマハ ヤマハ・YZR-M1 JPN
11
RSA
8
VAL
9
2004年 ゴロワーズ ・テック3ヤマハ ヤマハ・YZR-M1 RSA
9
ESP
11
FRA
Ret
ITA
7
CAT
9
NED
11
RIO
8
GER
Ret
GBR
Ret
CZE
8
POR
10
JPN
Ret
QAT
7
MAL
12
AUS
17
VAL
10
13位 74

スーパーバイク世界選手権

[編集]
チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2
2005年 ヤマハ・モーターフランス ヤマハ・YZF-R1 QA1
10
QA2
7
AU1
6
AU2
8
ES1
Ret
ES2
5
IT1
10
IT2
12
EU1
Ret
EU2
8
SM1
Ret
SM2
15
CZ1
9
CZ2
4
GB1
11
GB2
Ret
NL1
Ret
NL2
9
DE1
9
DE2
8
IT1
Ret
IT2
C
FR1
10
FR2
9
13位 123
2006年 ヤマハ・YZF-R1 QA1
11
QA2
11
AU1
17
AU2
12
ES1
4
ES2
4
IT1
Ret
IT2
16
EU1
10
EU2
11
SM1
10
SM2
13
CZ1
9
CZ2
12
GB1
13
GB2
13
NL1
5
NL2
Ret
DE1
16
DE2
11
IT1
9
IT2
11
FR1
13
FR2
12
13位 112

鈴鹿8時間耐久ロードレース

[編集]
チーム ペアライダー 車番 マシン 予選順位 決勝順位 周回数
2007 YAMAHA RACING 81 オーストラリアの旗 ジェイミー・ストーファー 81 ヤマハ・YZF-R1 9位 5位 159[4]

人物

[編集]

スタートに秀で、WGP時代には予選10位台から1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。前輪に荷重させた独特のライディングスタイルはマイケル・ドゥーハンに「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた[要出典]

全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。ヘルメットからはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され[要出典]一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。2001年頃に今までより髪を短く切り、ワックスでスタイリングをするようになったが、これは本人の好みの変化によるもの。

また、予選でのクラッシュが原因で決勝に出られなかったことが2回しか無いが、その2回が自身がYZRに初めて乗った94年のイギリスGPとYZR-M1に初めて乗った02年オーストラリアGPのみである。

二輪レーサーだが四輪車にも興味、造詣があり、レース以外の夢、目標は高級外車に乗るというものだった。18歳となり自動車免許を取得した後、高級外車に乗るという夢を叶えるためポルシェのディーラーを訪れたが、ポロシャツにブカブカのズボンというラフな恰好を見た店員から冷やかしと思われ、連絡先だけ書かされて門前払いされてしまった(本人曰く「年俸は億だった」との事で、ポルシェを即金で買うだけの資産を既に持っていた)。「ポルシェって買うのが難しいです。『ショールームにあるのでいいから売ってください、支払いはキャッシュ』って伝えたら、納車まで時間かかるからって、全然相手にされなかった」と、店員から相手にされず落ち込んでいたが、程なくして連絡先に書かれた名前を見てあの阿部典史と気付いた別の店員から連絡を受け、ポルシェ・カレラの購入に成功した。

愛車には前述したポルシェ・911カレラ(993)以外にもフェラーリ・360チャレンジ・ストラダーレ、欧州ではアウディ・RS4アバントを所有していたが、フェラーリは親交のあった伊藤真一が現在は所有している。

海外を転戦する忙しい日々の中、日本滞在時は愛車の運転を楽しんでいた。95年の日本グランプリ前に車間距離不十分で警察に止められた時は19歳でポルシェに乗っていた事もあって職業を怪しまれ、阿部は素直に「バイクのレーサー」と答えたが、警官は阿部典史を知らなかったため「有名なの?」と言われてしまった。それならレースに興味を持って貰おうと自分の所属するチームに付いても説明、PRをしたが、レースに対しても全く興味を示さなかった。

福山雅治は阿部のファンだったということから、交流があったとのこと[5]

ヘルメットのデザインは全日本時代からノリックが好きな星と翼をモチーフにしたデザインとなっている。

脚注

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  1. ^ 「全日本はルーキーが面白い!! 阿部ノリック典史」『ライディング No.287』日本モーターサイクルスポーツ協会、1993年7月1日、66頁。
  2. ^ 歴代チャンピオン1993国際A級 MFJ日本モーターサイクルスポーツ協会 (2025年1月16日閲覧)
  3. ^ 「今でもノリックのことを思い出すと・・・」チーム監督・岩崎勝さん Webike (2024年1月19日)
  4. ^ 2007Endurance FIM World Championship suzuka circuit (2007年7月19日)
  5. ^ 佐藤洋美 (2023年9月14日). “「阿部ちゃんとの時間は最高だった」幼馴染・竹本さん”. Webikeプラス. 2024年1月27日閲覧。

関連項目

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