熊田康則
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基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
生年月日 | 1963年3月18日(61歳) | |||
出身地 | 神奈川県 | |||
ラテン文字 | Yasunori Kumada | |||
選手情報 | ||||
ポジション | レフト |
熊田 康則(くまだ やすのり、1963年3月18日[1] - )は日本の元バレーボール選手、指導者。神奈川県出身。
来歴
[編集]横浜市立末吉中で当初野球部に所属するが、2年次にバレーボール部に転部。法政二高に進学し、2年までセッターを務めたが3年からアタッカーに転向。 高校3年で全日本に呼ばれ、法政大学に進学し4年次には大学主要タイトル4冠を達成。
1985年、大学卒業とともに富士フイルム入社。1年目から日本リーグでの21試合全勝優勝[2]を経験するなど富士フイルム黄金時代を支え、同チームの主将も務めた。川合俊一(中学からの顔見知り)、井上謙(高2の練習試合で出会う)と共に[3]、「バレーボール界のビッグ3」と言われ、大砲として日本バレーボール界をリード。第13回ユニバーシアード大会(1985年)で金メダルを獲得。1988年ソウル五輪出場。
1987年には第1回ビーチバレージャパンに富士フイルムのチームメイトで後に日本ビーチバレーボール連盟会長となる川合俊一とのペアで参加し、接戦の決勝を制した直後にはバック宙も披露。初代王者として名を刻んだ。同大会では1991年の第5回大会でも松本聡と組んで優勝。また、ビーチバレーが国体に初採用された1997年なみはや国体でも桑原稔と組んで優勝を果たした。
富士フイルムでは1992年からコーチ兼任となり、1994年度を最後に現役引退し社業に専念。
バレーボール指導者として、1999年に神奈川県の小学生バレーボールクラブチーム・大和ベアーズのコーチに就任、2000年に同クラブ監督に就任。2002年全日本小学生大会で、全国大会初勝利を挙げる。高校バレーの強豪である八王子実践中学校・高等学校バレー部コーチとしても指導した[4]。 大和ベアーズは2010年に座間ハンドタイガースと合併し SAMURAI Legend(女子:タイガース / 男子:ベアーズ)と改組、同クラブチーム総監督に就任。
2011年9月に富士フイルムを早期退社[5][6]。2014年8月、博多ジュニアバレーボールクラブのスーパーアドバイザーに就任。
娘の熊田美愛もビーチバレー選手。
球歴・受賞歴
[編集]- 所属チーム履歴
- 獲得タイトル
- 個人受賞歴
- 1985年 第34回黒鷲旗全日本選手権 敢闘賞、ベスト6
- 1986年 第19回日本リーグ ベスト6
- 1986年 第35回黒鷲旗全日本選手権 黒鷲賞(最高殊勲選手)、ベスト6
- 1987年 第20回日本リーグ ベスト6
- 1987年 第36回黒鷲旗全日本選手権 ベスト6
- 1988年 第21回日本リーグ ベスト6
関連書籍
[編集]- 虹色のVロード 熊田康則、井上謙、川合俊一 全日本男子バレーボールビッグスリー物語、山崎征治著、日刊スポーツ出版社、1986年10月(ISBN 978-4-8172-0088-4)
脚注
[編集]- ^ Yasunori Kumada Bio, Stats, and Results[リンク切れ]Archived 2020年4月17日, at the Wayback Machine. - Olympics at Sports-Reference.com
- ^ トップリーグヒストリー 第19回日本リーグ Vリーグオフィシャルサイト
- ^ カーテンコール 熊田康則さん - バレーボールマガジン
- ^ 2008埼玉インターハイEXPRESS 出場校詳細/八王子実践 アーカイブ 2009年5月19日 - ウェイバックマシン 月刊バレーボール編集部 2008年7月
- ^ 心と量でアタック バレー元代表・熊田さん、妻と中央林間の居酒屋切り盛り - 神奈川新聞カナロコ 2014年11月10日
- ^ パワーつけて海外に出ろ!!/熊田康則 - 300人リレーコラム アーカイブ 2016年11月30日 - ウェイバックマシン - 日刊スポーツ(2014年11月5日東京本社版掲載)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- カーテンコール 熊田康則さん - バレーボールワールド 2014年2月3日閲覧
- 心と量でアタック バレー元代表・熊田さん - 神奈川新聞カナロコ 2014年11月10日
- 熊の隠れ家