丑寅勤行
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丑寅勤行(うしとらごんぎょう)とは、日蓮正宗の貫首(大石寺の住職)が、毎朝丑寅の時刻(=午前2時~4時)に行なう朝の勤行(五座の勤行)のことをいう。現在は午前2時30分から行われている。
概要
[編集]貫首が朝の勤行をなぜこのような特異な時間に行うのかについての法門的理由付けとして
- 釈迦が菩提樹下で成道した時間である
- また三世(過去・現在・未来)の諸仏が成道した(する)時間である[1]
- 日蓮が竜の口で法難を受けた時間で、末法の本仏としての本地を顕した[2]
- 釈迦が寂滅したクシナガラが霊鷲山からみて艮(うしとら)の方にあるため、勤行の場を法華経に描かれる虚空会が開かれている霊鷲山として寂滅の場を望む。釈迦の寂滅は2月15日であり、日蓮の生誕が2月16日であるため、これは日蓮の生誕を予期するものでもある[3]
- 釈迦が法華経を説いたとされる霊鷲山がマガダ国の王都ラージャグリハからみて艮の方にあるため[4]、穢土から霊山浄土を望む
- 死没の前に自身の大檀那である波木井実長に向けて「霊鷲山の艮の廊にお尋ねください、必ずお待ち申し上げています」[5]と述べたため
これらを理由として、丑寅の時刻に行われる貫首の朝の勤行を「丑寅勤行」として特に意義付けられる。日蓮の教説においてしばしば艮の方角と丑寅の時刻が特別なものとして言及されることは事実であり、丑寅勤行は現在の日蓮正宗・大石寺に於ける宗教実践として重要な位置を占めているが、その起源は必ずしも明確ではない[6]。大石寺住持による朝の五座の勤行は本来は山内の五ヶ所(天壇・本堂・御影堂・客殿・墓所)を巡回して一座づつ行われるものであったが[7]、江戸時代初期にそれを一カ所で(現在は客殿)で行うようになり、後に現在に見るような儀式的な形態へと発展した[8]。その時刻についても、貫首による朝の五座の勤行が丑寅の刻に定めて行われていたとする記述は江戸時代以前に遡ることはできない[9]。
なお、睡眠を中断して集中的な祈りを実践するという方法は洋の東西を問わず存在し(たとえばカトリック教会ではカルトジオ修道会など)、変性意識状態をもたらす技法として各宗教に見られるものである。丑寅勤行もまたそのような技法のひとつとして位置づけられよう。
脚注
[編集]- ^ 「三世の諸仏の成道はねうしのをわり、とらのきざみの成道なり、仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし」日蓮『上野殿御返事(刀杖難事)』
- ^ 「丑の終り寅の始めは即ち是れ陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり。是の故に世尊は明星の出いづる時、豁然かつねんとして大悟し、吾が祖は子丑に頚を刎ねられ魂魄佐渡に到る云云。当山の行事亦た復た斯かくの若し、朝々刹那の成道、半偈の成道を唱うるなり。」日寛(大石寺26世)『当流行事抄』
- ^ 日蓮の生誕日は自伝的体裁を取って書かれている『法華本門宗要抄』下巻に記されており、一般にこれが典拠とされている。ただし、本書は日蓮の真撰ではなく偽撰遺文であるため(北条時宗を日蓮没後に時宗に与えられた法号である法光殿と呼称していることが偽撰の決定的証拠とされる)、事実としての信用性は疑わしい。むしろ、釈迦の寂滅の後を受けて日蓮が出現したという法門的理由によって生誕日を2月16日に定めたものと考えられている。
- ^ 「摩竭提国王舎城の艮・鷲の山と申す所にて八箇年の間・説き給いし法華経を」日蓮『法華経題目抄』 なお、日蓮はこのように述べているが、実際の地理上では霊鷲山(グリドラクータ山、現在のチャタ山)は王舎城(ラージャグリハ、現在のラジギール)からみて南東に存在している。
- ^ 「霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給え、必ず待ち奉るべく候」日蓮『波木井殿御書』 勤行の場が虚空会が開かれている霊鷲山であり、霊鷲山の艮の方向に「日」蓮がいるのであれば、太陽(=日)が(地平線の下に隠れてはいるが)艮の方向にある時刻は丑寅の刻であり、勤行の場の法門的時刻は丑寅の刻となる。そして日蓮によれば、丑寅の刻は成道の時刻であるから、これは勤行における刹那成道・半偈成道を示すものである。
- ^ 他門流はもとより日興門流の他山にも見られない現在の大石寺派に独特の化儀であり、それに言及した上古の文献などもないため、日蓮門流上代に由来するものだとは考えられていない。
- ^ 日鎮(大石寺12世)『堂参御経次第』
- ^ 「江戸時代の初期のころまでの丑寅勤行は、天壇・本堂・御影堂・客殿・墓所において、別々にお経を読み御題目を唱えていたことが記されております。後に客殿の一カ所で奉修することになったことから、五座の勤行が行われるようになり、今日もその形式を受け継いで執り行っているのです。」日蓮正宗佛乗寺ウェブサイト (www.butujoji.jp/houwa/houwa2710ek.html 2018年3月10日閲覧)
- ^ 大石寺23世である日啓は「一夜番者常の如く丑の下刻なり定番の表を相定めて勤める可也」としている(日啓『留守中定』)。この記述から、夜番を定めて毎日の丑の刻に勤行をさせていたことがわかる。しかしながら、この記述にある通り、この勤行は当番制で夜番の僧によって行われるものであるため、現在の日蓮正宗・大石寺が意義付けるような、貫首一人の権能に属する勤行ではない。この意味において、これは本項で説明する「丑寅勤行」の事例ではない。