輪中

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輪中の例
加納輪中(一部に堤防を持たない輪中)
高須輪中(複合輪中)
瀬田輪中(外郭輪中を持たない水防組合の意味での複合輪中)

輪中(わじゅう)とは、一般的には堤防で囲まれた構造、あるいはその集落を意味する[1]濃尾平野木曽三川木曽川長良川揖斐川)とその支流域にあたる岐阜県南部・三重県北部・愛知県西部に発展しており[2][1]曲輪(くるわ)・輪の内(わのうち)とも呼ばれる。

『輪中』や『輪の内』とは本来「同じ目的の仲間」の意味で用いられた言葉であり[3][4]水害から集落や耕地を守るために水防を整える過程で自然発生的に使用されるようになったと考えられるため、実際のところ「輪中」の定義には諸説があり定まっていないところが多い[1]地理学者安藤万寿男は著書『輪中-その展開と構造-』の中で、輪中の必須条件を

  1. 囲堤(輪中堤)を持つこと
  2. 集落と農地を包括すること
  3. 水防組合を組織して水の統制を行うこと

の3つに集約し、単に堤防で囲まれた地域を指すのではなく、組織的な水防活動を伴う構造的なものであることを説明している[1]

なお、木曽三川以外にも利根川信濃川筑後川など大河川流域の支流合流点付近の洪水常襲地域で、周囲を堤防で囲った輪中状の集落がみられる[5][6]。ただし、これらについては「輪中」とは呼称されず、各流域で独自の名称が用いられていることも多い[5]

概要[編集]

輪中の構造と形状[編集]

輪中は傾斜が少ない氾濫原に住む人々が、水害から集落と農地を守るために誕生・発展していったものである[3][7]。輪中の河川に面した外側の堤防を「囲堤」あるいは「輪中堤」と呼び、周囲を完全に囲む「総懸廻堤」の構造が基本となるが、水防上必要のない部分に堤防を設けない不完全な懸廻堤であっても輪中と呼ばれる[1]。特に扇状地に位置したり山地に面するなど理由から高低差が大きい輪中では高位部の堤防を省略する傾向が多く見られ、代表的なものとして加納輪中多芸輪中が挙げられる[8][9]

輪中内にも悪水対策など水防上の必要性に応じて、堤防より小規模な「除(よげ)」と呼ばれる土手が設けられることがあった[9]。輪中内に除を必要とした例としては、輪中内の高低差から低位部に内水が集中して全体の生産性低下することを避けようとした穂積輪中が挙げられ[10]、また、前述の高位部の堤防を省略した輪中でもより高位部からの悪水流入を防ぐ目的で堤防のない部分に除を設ける場合があった[9]

輪中内に除より大きな明確な堤防が存在する場合、その堤防を「中堤」あるいは「内堤」などと呼ぶ[4][5]。輪中内に堤防が存在する原因は様々だが、悪水対策などで除が発展したケースや、小規模な輪中をまとめて強固な輪中堤で囲み直したケースなどが考えられる[3][4]。いずれにせよ、輪中内に小規模な輪中で再区分されている輪中は複合輪中と呼ばれ、それに対して輪中内に目立った中堤のない輪中を単一輪中独立輪中と呼ぶ[4][5]

複合輪中において、河川に面する外側の大きな輪中を外郭輪中、内側の小さな輪中を内郭輪中と呼ぶ[3]。前述した小規模な輪中をまとめて強固な輪中堤で囲み直したケースの場合、後に外郭輪中で囲まれる範囲で比較的土地が高い地域が早期に開発され上下端の内郭輪中となり、その間の内郭輪中の地域が順次開発されていったという共通性が見られ、高須輪中大垣輪中が例として挙げられる[9]

地形特性上の輪中の分類[編集]

安藤万寿男は輪中の存在している地形の特性から、以下の3つの類型に大別できるとしている[1]

  1. 扇状地地域の輪中
  2. 自然堤防後背湿地地域の輪中
  3. デルタ地帯(三角州)の輪中

「扇状地地域」においては扇端部付近で湧水による湿地が生じているため、開発の過程で地域によっては輪中が形成される場合があった[1]。この分類には長良川扇状地の則武輪中島輪中牧田川扇状地の室原輪中飯積輪中などが該当する[1]

「自然堤防・後背湿地地域」においては、まず最高部位である自然堤防に集落が形成され、それに次ぐ微高地に田畑として開発され、低い土地に水田が作られた[1]。初期は後背湿地は開発されず遊水地の役割を果たしたが、社会状況が安定した江戸時代以降に後背湿地が新田として開発されていき、開発のために人工堤防が築かれて輪中が形成されていった[1]。この分類には加納輪中五六輪中桑原輪中森部輪中大垣輪中静里輪中福原輪中など広い範囲の輪中が該当する[1]

「デルタ地帯」では陸地の出現が新しく、河道も安定していることから比較的大規模な輪中が形成されやすく、かつ成立年次も新しい傾向がある[1]高須輪中立田輪中が「自然堤防・後背湿地地域」との境目に位置し、高須輪中・立田輪中の南半分以下がこの分類に該当する[1]長島輪中以下の地域はデルタ地帯に形成された砂州を干拓した干拓輪中で、既存の輪中の堤防を借堤して鱗状に新田開発が行われた[1]。特に海側の地域では高潮の影響を受けやすいため集落は輪中内で最も高い堤防の上に集中しており、「堤防が切れたら、堤防に逃げろ」という言葉も伝えられてきた[7][11]

水防組織としての「輪中」[編集]

「水防組合」の意味での『輪中』として考えた場合、1つの水防組合が維持管理する範囲を1つの輪中とみなす。複合輪中では各内郭輪中ごとに水防組合が存在し、内郭輪中内の悪水に対処するための中堤の管理は各内郭輪中単位で行い、周囲の河川の洪水から複合輪中全体を守る輪中堤の管理や複合輪中全体に及ぶような悪水対策は内郭輪中が協力して行うという形が採られた[4]。独自の水防組合を持たず他の輪中に水防を依存する場合は同一の輪中とみなされるため[12]、複合輪中のような堤防形状であっても水防組合が全体で1つのみであれば単一輪中とみなされる[4]

この意味の「輪中」の実例として瀬田輪中が挙げられる。瀬田輪中は牧田川などに対して同一の利害関係にあった小輪中の共同体であるが、「瀬田輪中」という外郭輪中は存在しない[13]。水防組合の単位=輪中の単位と解されるのが正確とも言えるが[4]、1つの輪中内に複数の水防組合が存在した例として古い所領単位が残ったと考えられる立田輪中[14]、1つの輪中として成立したものの内水をめぐって対立が続いた太田輪中が挙げられる[15][16]

輪中内は水防上のみならず経済的・社会的を含めた生活全般での結びつきが深く、運命共同体とでも言うべき強い団結力で結ばれていた[2]。堤防の増築や新たな輪中の形成は周囲の地域の水害の増加につながる可能性があったため、近隣輪中とは水防上の利害をめぐって対立することも多かった[2][6]。こういった輪中地帯(特に岐阜県)の人々の性質を表すものとして「仲間意識は強いが排他的」といった印象で使われる「輪中根性」という言葉が存在するが、歴史地理学者の伊藤安男は、

輪中根性とは何か、これをよく人々は排他的、保守的、偏狭な気質と地域エゴと説明するが、この精神構造をもって輪中気質とはいい難い。これらは日本各地のムラにもある面では共通するものである。(中略)、輪中根性とは水害時に自分たちの輪中を守るための強い団結力、いうならば運命共同体的な同族意識、輪中意識のことである
伊藤安男『変容する輪中』143頁

と述べており、決してネガティブなイメージの言葉ではないと説明している[17]

歴史[編集]

濃尾平野の輪中[編集]

明治時代初期の濃尾平野の輪中地帯の様子(黒字は主要な輪中名、水色線・青字は主要な河川、着色は黄が美濃国(岐阜県)・赤が尾張国(愛知県)・緑が伊勢国(三重県))
庄内川および新川流域の主要な輪中の分布(黒線は堤防および街道)

後に輪中が形成される地域はもともと木曽三川の三角州地帯や川中島、養老山脈など山地の扇状地といった土砂が堆積しやすい地域であった。人々はそういった土砂によって形成された自然堤防上に集落や田畑[7]、背後の低湿地に水田を作っていった。

この地域では荘園の登場などを契機に集落や耕地を守るための堤防が築かれるようになるが、初期の堤防は濁流の激突を避けることに主眼が置かれた上流側のみの堤防であり、下流側に堤防を持たない「尻無堤(しりなしづつみ)」と呼ばれるものであった[3][7][6][18]。尻無堤は下流側からの浸水には無防備であったが、仮に冠水しても洪水が収まれば川は元の流路へと戻り、残された土地には肥沃な粘土質の土が堆積、特に耕地の場合は逆に地力が増すといった利点もあった[3][6]

築堤技術が進歩すると、下流側からの浸水を防ぐために下流側も堤防で塞ぐようになる[7]。輪中堤が形成される前段階として、特に河口近くの地域では高潮などの海水による被害から水田を守るために下流側の堤防が作られるようになり、こういった堤防は「潮除堤(しおよけづつみ)」と呼ばれた[7]

戦国時代が終焉を迎えつつあった16世紀末から17世紀初頭ごろから、世の中が安定したことで新田開発の機運が高まる[18]。新田開発に伴って既存の集落をさらに範囲が広く丈夫な堤防で囲う「懸廻堤(かけまわりづつみ)」が築かれるようになり、この懸廻堤の登場をもって輪中の誕生と解釈されている[3][7][6][18]

尾張藩を守るために1609年(慶長14年)に木曽川左岸に築かれた「御囲堤」によって、対岸の右岸側となった輪中地帯では水害が増加し、17世紀中頃以降に輪中は急激に増加していった[15][19][20]。初期の輪中は地域農民たちによって小規模ずつ形成されていったが、中期以降は豪農や商人による資本投下であったり、地域によってはの指揮のもとで大規模な新田開発・輪中形成がされるようになる[2][4][21]。しかし、堤防や輪中の増加は川幅を狭めて土砂を川底に堆積させることに繋がり、水害がさらに増加したとも言われ、それに対抗するためにさらに堤防の技術が発展・複合輪中も増加していった[15][19]。輪中の総数は明治時代までに80ほどに達し、総面積は1800平方キロメートルの面積に及んだ[22]

木曽川の「御囲堤」と同様に、尾張徳川家の居城となった名古屋城を守るために1614年(慶長19年)には庄内川左岸に「御囲禍堤」が建造される[20]。庄内川も木曽川の例と同様に頻発していた水害が右岸側に集中し、清洲の村の嘆願により新川の開削などが行われ、庄内川・新川および支流の堤防、あるいは堤防を兼ねる街道などによって囲まれた輪中が形成されていった[20]

木曽三川の輪中は明治時代の木曽三川分流工事により大幅に改善され、水害が激減したことで道路整備の過程などで中堤(旧輪中堤)が取り壊された部分も多いが、高須輪中や長島輪中など悪水の問題が継続している地域では残された地域もあった[2][3][4][23]1976年昭和51年)9月12日に起きた通称「9.12水害」では旧福束輪中の堤防の締め切りで輪之内町が被害を免れるといった事例もあり[3][24]、近年では洪水に対する減災の観点から輪中堤の構造が見直されつつある[2]

文献に見る輪中[編集]

濃尾平野の輪中の記述が登場する最も古い文献は、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅有東海道の旅日記「春の深山路」である。

原文「此所のやう、河よりははるかに里はさがりたり。まへにつゝみを高くつきたれば山のごとし。くぼみにぞ家どもはある。里の人のいふやう、水いでたる時は、ふね此つゝみの上にゆく。空に行(く)舟とぞみゆると云(う)をきけば、あまのはとふねのとびかりけんも、かくやとぞ聞ゐたる。」

現代語訳「このあたりでは、川よりも里の方が大分低くなっている。里の前には堤を山のように高く築き、家々は窪みの中にある。里の人がいうには、水が出たときには舟は堤の上を行く。まるで舟が空を飛んでいるように見える。これを聞いて、神話に出てくる天の鳩舟のことを思い出した。」

榎原雅治著『中世の東海道をゆく』P.74~76「輪中の誕生」

とあり、1280年弘安3年)に輪中状の集落が成立していたと考えられるが[25]、これが後の「輪中」と同一であるかどうかは判然としない。輪中の概念が言葉として登場するのは、1675年(延宝3年)の史料に記された「輪之内」「曲輪」だとされる[2]

他の記録としては『百輪中旧記』では、

標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に下流部からの逆水を避けるための潮除堤を追加し集落全体を囲う懸廻堤を有する最初の輪中である古高須輪中が完成した
『百輪中旧記』

として高須輪中(古高須輪中)を1319年元応元年)に成立した最古の輪中だとしているが、『百輪中旧記』の中には明治以後に成立した村の名前が登場しており、また古木曽川の推定流路から見て『百輪中旧記』がそもそも近世以前ではない可能性が指摘され、慶長1596年1615年)以前にはさかのぼれないなどの問題から資料としての性格は根本的に疑われている[4][26][27]。輪中を維持管理するための社会構造が鎌倉時代には存在できないと唱える者もおり、実際に古高須輪中が完成したのは江戸時代初期であるとされる[28]。なお、安藤万寿男は著書『輪中-その形成と推移』の中で、古高須輪中の形成時期を「1606年慶長11年)もしくはその少し前」だとする見解を示している[4][27]

このように中世以前の輪中の起源は文献が乏しく、輪中についての正式に記述が存在するのは江戸時代以後の文献である[2][3][18]

越後平野の輪中[編集]

亀田郷・白根郷・新津郷の分布

越後平野では信濃川と阿賀野川に挟まれた地域に輪中が形成された[29]

上杉謙信などのこの地域の支配者は、自らの経済力・軍事力強化のために治水事業に取り組んだとされる[30]。特に直江兼続1584年(天正12年)から1597年(慶長2年)に行った「直江工事」では中ノ口川が開削され、信濃川と中ノ口川に挟まれた白根郷の開発が始まる[30]

1598年(慶長3年)に溝口秀勝新発田城に入ると、以降は新発田藩主・溝口氏によって土地改良が進められ、信濃川などの治水とともに亀田郷新津郷などの開発も進められた[30][31]1730年(享保15年)に開削された加治川の放水路が翌年の融雪による洪水で阿賀野川の本流となると、阿賀野川の水位が下がって周囲の低湿地帯の新田開発が加速した[32][31]

その他の地域の輪中[編集]

濃尾平野・越後平野以外の地域でも、大河川の中流域・下流域で堤防に囲まれた集落が見られる。濃尾平野と同様にまず河川沿いや上流側の堤防が作られて発展していったケースが多いと思われ、神通川流域の中神通・西神通地区や大野川流域の高田輪中のように昭和に入ってから既存の堤防を改修して輪中を形成した比較的新しい例も存在する[33]

一方で比較的古い輪中には、江戸時代以降に大河川流域やその派川・支川沿いの住人自らが堤防を築いていき、意図せず輪中状の堤防が形成されたケースも考えられる[5]。これらについては地域としての開発開始時期は分かるものの、囲堤の完成時期は判然としないことも少なくない。

また、2000年以降に早急な洪水対策実現のために輪中堤を選択した雄物川流域の強首の例も存在する[34]

施設[編集]

住居とその周囲[編集]

Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:水屋の画像提供をお願いします。2022年9月

濃尾平野の輪中地域の伝統的な住居は、母屋が基壇と呼ばれる洪水時に家屋への浸水を防ぐ石垣の上に建てられ、母屋の北側に防風林、北西側に水屋、東側に納屋、南側に防水林を備えるのが一般的な構造であった[2][35]。これは伊吹おろしが北西から吹きつけ、洪水時には南側から浸水する地形上の特性によるものであった[35]

母屋は洪水時に水が流れる南北方向を遮る壁が少なく作られており、障子を取り払って水を通すことで家屋の流出を防いだ[36]。母屋の軒下には上げ舟と呼ばれる洪水時の避難や移動用の小舟が備えられ、仏壇は洪水時に滑車で2階に移動できる上げ仏壇の構造となっていた[36][37]

水屋(みずや)は母屋よりも一段高い石垣の上に設けられた[2][37]。水屋には住居の機能を備えた「住居式水屋」、普段は食料農具を保管する倉庫を水屋として利用する「倉庫式水屋」、土壁として作られた土蔵を水屋として利用する「土蔵式水屋」などがあるが、複数の機能を併せ持った水屋も存在し、最も典型的なものは住居と倉庫の機能を兼ね備えた「住居倉庫式水屋」であった[37][38]。また、大垣輪中の地域では母屋と水屋の間に「どんど橋」と呼ばれる渡り廊下が備えられていた[39]

水屋を持つのはかなり裕福な家に限られ、水屋を持てない人々のための施設として助命壇(じょめいだん)あるいは命塚(いのちづか)と呼ばれる土盛りをした高台が存在していた[37][40][41]。助命壇は地域の人々が共同で作ったが、地主などが私財を投じて作った場合もあり、土地を高く盛って作られた神社が助命壇の役割を果たすこともあった[41][42]

以前堤防が決壊した箇所や、川の屈曲部など危険な箇所の堤防には小さなが建立され水難除けの守護神として奉られた[37][38]。これは後世に危険な箇所であることを伝承する意味が含まれていたとされ、祠以外にも決壊碑などの石碑や、地域の水防倉庫(郷蔵、水小屋、諸式蔵とも)が置かれていることも多い[37][38]

住居を石垣などの高台の上に構える建築形式は、日本各地の洪水が多発する地域に広く分布している[5]。水屋と並んで代表的なものとして、利根川流域の「水塚」、淀川流域の「段蔵」、信濃川流域の「水倉」などが挙げられる[38][43]。また、関東地方から東北地方にかけては軒下に「用心舟」などと呼ばれる小舟を吊るす地方もある[44]

耕作地[編集]

輪中地域の農業において特徴的なものとして堀田または掘田(ほりた)がある[2][45]。水はけの悪い土地で少しでも収量を増やすために水田を高くしようと考案された土地利用方法で、周囲の土を掘って高く盛った短冊状の掘り上げ田と掘り跡(掘り潰れ)が交互に並ぶ形状の耕地である[2][38][46][47]

元々水はけの悪い輪中の低位部において稲が水に浸かりすぎることで不作になりがちであったが、1753年(宝暦3年)の宝暦治水以後に桑原輪中などの地域で水田の水が増し、その対策として堀田が誕生した[2][38][48]。掘り潰れが生じることで場合のよっては4割ほど耕地が減る欠点はあったものの、結果的に収量が安定することが判ったため輪中地帯の広い範囲に広まった[38][48]

堀田には大きく分けて3つの種類がある。掘り潰れの水路が排水路と繋がる「田舟型堀田」が代表的で、水はけの悪い輪中低位部地域に多く、その形状から「田舟(たぶね)」と呼ばれる小型の舟が欠かせなかった[48]。田舟型に対して水路がそれぞれ独立しているものは「孤立型堀田」と呼ばれ、水はけの良い輪中高位部地域に多かったが、高位部では稲作に十分な水を確保できない地域もあり畑作率も高かった[38][45][48]。もう1つは現在の大垣市北部に見られたもので、浅い砂層から湧き出る伏流水を排除するために何本もの長細い水路を設けた堀田で、その形状から「河間吹型堀田」と呼ばれた[38]

堀田の維持には「長じょれん」と特殊な農具が用いられ、田植えの時期には水路との境目に置土する作業(めんつけ、めんどうひき)に使用され、堀田造成後も毎年必要となる毎年泥をすくい上げる作業(どべあげ)にも使用された[38][45]

裏作を行う場合は掘り上げ田の上にさらに高を造成する必要があり、この高畝をくね田と呼んだ[45]。くね田は大正時代中期から始まり、稲の収穫が終わった冬季に菜種類・ジャガイモ類などが栽培された[45]

堀田は耕地整備を経ながら長らく使われ続けたが、太平洋戦争以後の土地改良によって1975年(昭和50年)までにほぼ消滅した[45][46][48]。現在は海津市歴史民俗資料館内に再現された堀田がある。

用排水[編集]

輪中は周囲を川に囲まれるため用排水は一見容易に思われるが、実際には非常に困難であった[48]

用水は、輪中の上流側に用水を取水する圦樋、いりひ)が設置されるのが一般的であったが、江戸時代の土木技術では十分な強度の水門(樋門、ひもん)を設置することは難しく、破堤の危険性を高める可能性もあったため限定的であった[48][45]。水の確保が難しい輪中の高位部では潅漑用水を必要とする状態で、江戸時代後期には地下水を利用する掘抜井戸が発達するようになるが、余剰水が低位部に流れ込んで悪水増加の要因となった[45][48]。その解決策として、低位部の村が高位部の村の井戸の本数を制限したり、高位部の村に樋門の建設・管理費用の負担を求める株井戸(かぶいど)と呼ばれる制度が設けられた[45]

排水は、かつては輪中の下流側から自然排水していたが、輪中が形成され堤外地に土砂が堆積すると河底が高くなったことで自然排水が困難となった[45]。江戸時代後期には輪中の下流側に水位が低いタイミングを狙って排水を行う樋(吐樋、はけひ)を設置するようになるが、河底上昇に応じて困難となり、さらに下流側への吐樋の付け替え(江下げ)も行われたが、干潮時でなければ樋門を開けることができなかった[45][48]。結果的に低位部は慢性的な湛水に悩まされることとなり、地域によっては低位部の悪水をサイフォンの原理を応用して河床の下を伏せ越しして対岸に排水する伏越樋(ふせこしひ)が建造された[45][49][50][51]

破堤などによって輪中内に多量の滞留が発生したときは、低位部の堤防を意図的に切る乙澪(おとみよ、乙澪切り)が行われた[52]。1896年(明治29年)の豪雨による大垣輪中での金森吉四郎の例が有名だが、江戸時代にもこの方法は採られていた[52][53]

主な輪中[編集]

( )内は内郭輪中。

木曽三川流域(愛知県・岐阜県・三重県)
その他(【 】内は輪中形成に影響した河川)

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 国土交通省 中部地方整備局. “KISO Vol.79 (PDF)”. 2022年11月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 輪中(ワジュウ)とは”. コトバンク. 2022年7月21日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 国土交通省 中部地方整備局. “KISO特別号 木曽三川 歴史・文化の調査研究史料 明治改修完成百年特別号 (PDF)”. 2022年7月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 安藤万寿男: “輪中に関する二,三の考察(1) (PDF)”. 2022年7月5日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 国土交通省 中部地方整備局. “KISSO Vol.60 (PDF)”. 2022年9月9日閲覧。
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  7. ^ a b c d e f g 機関誌『水の文化』13号 満水(まんすい)のタイ(タイランド)”. ミツカン 水の文化センター. 2022年7月28日閲覧。
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  9. ^ a b c d 多芸輪中【たぎわじゅう】”. 角川日本地名大辞典 オンライン版. 2022年8月10日閲覧。
  10. ^ 五六輪中【ごろくわじゅう】”. 角川日本地名大辞典 オンライン版. 2022年9月1日閲覧。
  11. ^ 輪中の郷. “伊勢湾台風50年を振り返る (PDF)”. 2022年7月29日閲覧。
  12. ^ 帆引輪中【ほびきわじゅう】”. 角川日本地名大辞典 オンライン版. 2022年8月2日閲覧。
  13. ^ 瀬田輪中【せたわじゅう】”. 角川日本地名大辞典 オンライン版. 2022年8月17日閲覧。
  14. ^ 国土交通省 中部地方整備局. “KISO Vol.24 (PDF)”. 2022年7月20日閲覧。
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  25. ^ 榎原雅治著『中世の東海道をゆく』(中公新書 2008年4月25日)P.74~76
  26. ^ 榎原雅治著『中世の東海道をゆく』(中公新書 2008年4月25日)P.75
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外部リンク[編集]