立田輪中

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立田輪中(たつたわじゅう)は、愛知県西部の木曽川下流部にあった輪中

地理[編集]

現在の愛知県愛西市の八開地区西部及び立田地区の大部分が該当し、東西約2キロメートル、南北約12キロメートルの細長い地形をしていた[1]

北側は間ノ川を挟んで中島郡の神明津輪中(現・稲沢市祖父江町神明津)と面し、西は木曽川、東は佐屋川に挟まれ、南側は木曽川を挟んで長島輪中(現・三重県桑名市)と面していたが、間ノ川は江戸時代後期の文政7年(1724年)から文政9年にかけて締め切られたため神明津輪中とは地続きになり[2]、明治時代に行われた木曽三川分流工事に伴う佐屋川の廃川により地続きとなるなど、現在ではその面影は無い。

歴史[編集]

開墾が始まった年代などは不明だが、12世紀初頭(平安時代)の古文書にこの地域の地名が見られるという[3]。40か村以上の村からなる複合輪中で、江戸時代初期まで輪中を囲む堤防は下流側に堤防が無い尻無堤であった。

鷹狩りのためにこの付近を頻繁に訪れていた尾張藩藩主・徳川義直はこの地の農民からの窮状の訴えを受けて、寛永元年(1624年)に藩費を投入して木曽川の左岸堤と佐屋川の右岸堤を結び、一円輪中にするとともに、それまで輪中の排水路として佐屋川に排水していた鵜戸川については木曽川へ打樋を設けて排水するようにした。この打樋は船頭平に7腹、大森に5腹が設置されて「十二腹の杁」と呼ばれた[4]。現在、排水機場が設置されている立田町杁先で鵜戸川が池状になっているのは当時の名残りとされる。

しかし、海抜など土地の条件が違う複数の輪中が集まっているため、立田輪中の住民は近年まで悪水の排出問題に悩まされ続けた。これが原因で明治時代初期には輪中内で住民同士の激しい対立が起きるなどしたという。

1879年明治12年)に鵜戸川が北に延長されて[5]、悪水の問題は幾らか解消されたかに見えたが、1887年(明治20年)から着工された木曽三川分流工事に伴って、それまで農業用水を取水していた佐屋川が廃川になり、六ツ和村や立和村のおよそ3分の1が新木曽川の河道として開削されたことで村民の相当数が住居[6]や農地を失った上に、新たな木曽川堤防の築堤によりこれまで使ってきた打樋が利用出来なくなってまたもや排水困難となった[7]。これを解消すべく鵜戸川を南に延長して中山樋門六門樋門が築かれている。

1950年昭和25年)に現在の立田町杁先に最初の排水機が設置されて木曽川への排水が開始され、1976年(昭和51年)には新しい排水機場が開設された[8]。その後の排水機の増強と、1953年(昭和28年)から1985年(昭和60年)まで行われた土地改良事業によって、かつて悪水に悩まされた輪中は良好な農地へと変わっている。

脚注[編集]

  1. ^ 立田村史 通史、P.359
  2. ^ 八開村史 通史編、P.250
  3. ^ 立田村史 通史、P.76
  4. ^ 立田村史 通史、P.77
  5. ^ 立田村史 通史、P.212
  6. ^ 輪中の集落は多くが自然堤防上に築かれていたが、その場所が新木曽川となった。
  7. ^ 立田村史 三川分流、P.169
  8. ^ 水資源機構水とともに 2008年3月号 No.54 (PDF) 、P.29

参考文献[編集]

  • 立田村史編さん委員会『新編 立田村史 通史』立田村、1996年
  • 立田村史編さん委員会『新編 立田村史 三川分流』立田村、2003年
  • 八開村史編さん委員会・八開村史調査委員会『八開村史 通史編』八開村役場、2000年

外部リンク[編集]