石谷町 (鹿児島市)

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石谷町
南九州西回り自動車道松元インターチェンジ・本線料金所(鹿児島方面)
石谷町の位置(鹿児島市内)
石谷町
石谷町
石谷町の位置(鹿児島県内)
石谷町
石谷町
石谷町の位置(日本内)
石谷町
石谷町
北緯31度36分20秒 東経130度27分50秒 / 北緯31.60556度 東経130.46389度 / 31.60556; 130.46389座標: 北緯31度36分20秒 東経130度27分50秒 / 北緯31.60556度 東経130.46389度 / 31.60556; 130.46389
日本の旗 日本
都道府県 鹿児島県の旗 鹿児島県
市町村 Flag of Kagoshima, Kagoshima.svg 鹿児島市
地域 松元地域
人口
2020年(令和2年)4月1日現在)
 • 合計 4,775人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
899-2701
市外局番 099
ナンバープレート 鹿児島
運輸局住所コード 46500-1826[1]

石谷町(いしだにちょう[2])は、鹿児島県鹿児島市[3]。旧日置郡伊集院郷石谷村日置郡上伊集院村大字石谷日置郡松元町大字石谷郵便番号は899-2701[4]。世帯数は1,906世帯、人口は4,775人(2020年4月1日現在)[5]

鹿児島市の西部に位置する。鎌倉時代頃に土橋村(現在の日置市伊集院町土橋)を分割し石谷村として成立[6]南北朝時代には町田氏と伊集院氏との間で石谷村の領有を巡る騒乱が発生し、この騒乱の結果伊集院氏は肥後へ逃亡[7][8]。以後は廃藩置県まで町田氏が私領として石谷の地を治めた。

地理[編集]

鹿児島市の西部、長谷川の支流石谷川上流域の台地上に位置している。町域の北方には日置市伊集院町竹之山、日置市伊集院町土橋、南方には鹿児島市上谷口町、鹿児島市春山町、西方には鹿児島市福山町、鹿児島市松陽台町日置市伊集院町清藤、東方には鹿児島市犬迫町、鹿児島市西別府町、鹿児島市五ケ別府町が接している。

高速道路は南九州西回り自動車道鹿児島道路(国道3号バイパス)が町域の中央部を東西に横断しており、松元インターチェンジが所在している。また、松元インターチェンジに併設して松元本線料金所が設置されている。

一般道路は町域の北端部、日置市との境界線上を鹿児島県道206号徳重横井鹿児島線(旧薩摩街道の一部)が東西に通り、東部には鹿児島県道24号鹿児島東市来線が鹿児島市五ケ別府町との境界上を南北に通っている。また、町域を縦断するように鹿児島県道210号小山田谷山線が南北に通っており、県道210号は松元IC以南は片側2車線で整備されている。

交通アクセスの改善により商業施設の建設や、隣接する松陽台町春山町と同様に宅地化が進んでいる。

自治公民館[編集]

石谷町内には仁田尾前、仁田尾中、仁田尾後、仁田尾団地、石谷東、松の尾、石谷西、六ヶ所、石谷下、新村上、新村下の各公民館が設置されている。

歴史[編集]

石谷の成立[編集]

弘長元年まで土橋村(現在の日置市伊集院町土橋)の一部であり、山田氏が治めていたが[9]、現在の石谷町の区域を石谷氏(紀氏、後の町田氏)に売却し土橋村の一部から分離され石谷村が成立した[6]

南北朝期の争乱と町田氏による支配[編集]

南北朝時代には薩摩国伊集院のうちの石谷村であった[7]

南北朝分裂の際、石谷を領していた石谷氏が北朝方に加担し、南朝方には伊集院氏が加担していた。伊集院氏を首領とする伊集院地区の南朝方軍団の勢力拡大により、伊集院、郡山、日置一帯が伊集院氏の統治下となった[10]、南北朝期以後石谷の地は伊集院氏の統治下にあった[11]。その後伊集院頼久の乱で対立していた久豊伊集院頼久が和解し、その条件として頼久の娘(熙久の姉)が久豊に嫁いだ際、伊集院氏側から石谷村が化粧料として贈られ、それまで伊集院領であった石谷は島津本家の直轄地となった[7]。その後島津久豊が死去、子の島津忠国守護の地位を継ぐと、当地は町田高久(石谷氏)に与えられた。

町田高久に石谷が与えられたころには既に久豊も煕久の姉も亡くなっており、旧来の領地である石谷が町田氏に与えられたことに不満を覚えた煕久は、宝徳元年(1449年)に石谷高久(町田高久)を居城の一宇治城(現在の日置市伊集院町大田に所在)に招き彼を殺害し、石谷の地を得た[7][8]

その後石谷高久の子頼本がこのことを島津忠国に訴えたと島津国史に記してある。宝徳2年に島津忠国は伊集院煕久を攻撃し、これにより煕久は肥後に逃亡したため伊集院氏による支配が終わり、石谷の地は再び石谷氏に与えられた[7]

天文5年に頼本の子孫石谷忠栄は島津日新・貴久父子に内応し、石谷城に兵を挙げたが島津実久の軍に敗れ、忠栄の父梅久は戦死し、忠栄は伊集院の貴久の元に行った(伏野原の戦い)。翌年の天文6年に貴久の軍は実久の将であった肥後助西を殺害し、福山塁の敵も城を棄て去った為石谷は再び忠栄の元に戻り、忠栄は石谷姓より町田姓に復帰し、以後町田氏が治めた[7]

近世の石谷村[編集]

江戸時代には薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであり、村高は「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」では1,049石余、「旧高旧領取調帳」では683石余であった。村内は仁田尾、東、松ノ尾、西、六ヶ所、下、新村などの字に分かれていた[7]

また、寺田屋騒動で知られる有馬新七は石谷の領主であった町田久成の要請により万治元年より石谷の地を統治していた。居住地は西方限にあり、有馬新七によって文久元年に東方限の丸岡に楠公神社が造営され、二才連中の訓育の為に悪事をなした者の罰として石を運搬させ、地内に石畳(石坂)を作らせるなどをしたとされている[7][12]

町村制施行以後[編集]

1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、伊集院郷のうち南部の上谷口村、春山村、石谷村、直木村、入佐村、福山村の5村の区域より上伊集院村が成立した。それまでの石谷村の区域は上伊集院村の大字石谷」となった[7]1960年(昭和35年)4月1日には上伊集院村が改称し松元村となり[13]、同時に松元村が町制施行し松元町となった[14]

1998年(平成10年)には、字域内に南九州西回り自動車道松元インターチェンジが設置され、インターチェンジの施設内に本線料金所が併設された[15][16]。また、2005年(平成17年)には鹿児島県道210号小山田谷山線のバイパスが開通し、石谷町の区間内は概ね片側2車線の4車線道路として整備された[17]

2003年平成15年)7月4日には石谷、福山、上谷口の一部より分割され大字松陽台が設置された[18]、また、翌年11月1日には松元町日置郡郡山町鹿児島郡吉田町桜島町揖宿郡喜入町と共に鹿児島市に編入された[19]。合併に際して設置された法定合併協議会である鹿児島地区合併協議会における協議によって、松元町の区域の大字については「字の区域を廃止し、当該廃止された字の区域に相当する区域により新たに町の区域を設定し、その名称については表示案に基づき、各町の意向を尊重し合併までに調整するものとする」と協定された[20]

前述の協定に基づいて、合併前の10月26日鹿児島県告示である「Wikisource-logo.svg 町の区域の設定及び字の廃止」が鹿児島県公報に掲載された[3]。この告示の規定に基づき、それまでの大字石谷は廃止され、大字石谷の全域を以て新たに鹿児島市の町「石谷町」が設置された[21]

字域の変遷[編集]

実施後 実施年 実施前
松元町大字松陽台(新設) 2003年平成15年) 松元町大字石谷(一部)

人口[編集]

以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。

統計年 人口
1995年(平成7年) [22] 3,261
2000年(平成12年) [23] 3,367
2005年(平成17年) [24] 3,371
2010年(平成22年) [25] 3,593
2015年(平成27年) [26] 4,243

史跡[編集]

  • 石谷の石坂 - 市指定文化財(記念物)
  • 町田家の墓 - 市指定文化財(記念物)

施設[編集]

公共[編集]

  • すこやかランド石坂の里[27]

教育[編集]

その他[編集]

小・中学校の学区[編集]

市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[28]

町丁 番・番地 小学校 中学校
石谷町 一部を除く全域 鹿児島市立石谷小学校 鹿児島市立松元中学校
石谷町 一部 鹿児島市立松元小学校

交通[編集]

道路[編集]

一般国道
主要地方道
一般県道

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2021年4月26日閲覧。
  2. ^ 鹿児島市の町名”. 鹿児島市. 2020年10月25日閲覧。
  3. ^ a b 平成16年鹿児島県告示第1775号(町の区域の設定及び字の廃止、Wikisource-logo.svg 原文
  4. ^ 鹿児島県鹿児島市石谷町の郵便番号”. 日本郵便. 2020年11月14日閲覧。
  5. ^ 年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)”. 鹿児島市 (2020年4月1日). 2020年5月8日閲覧。
  6. ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 435.
  7. ^ a b c d e f g h i 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 94.
  8. ^ a b 松元町郷土誌編さん委員会 1986, p. 141-142.
  9. ^ 松元町郷土誌編さん委員会 1986, p. 107.
  10. ^ 松元町郷土誌編さん委員会 1986, p. 132.
  11. ^ 松元町郷土誌編さん委員会 1986, p. 139.
  12. ^ 松元町郷土誌編さん委員会 1986, p. 285-286.
  13. ^ 村の名称変更(昭和35年総理府告示第105号、Wikisource-logo.svg 原文
  14. ^ 村を町とする処分(昭和35年総理府告示第106号、Wikisource-logo.svg 原文
  15. ^ 南日本新聞 2015, p. 1167.
  16. ^ 松元町企画振興課 2004.
  17. ^ 開通(H17.4.26)一般県道小山田谷山線”. 公益財団法人鹿児島県建設技術センター. 2015年4月27日閲覧。
  18. ^ 平成15年鹿児島県告示第863号(字の区域の設定及び変更、Wikisource-logo.svg 原文
  19. ^ 市町の廃置分合(平成16年総務省告示第591号、Wikisource-logo.svg 原文
  20. ^ 合併協定項目一覧”. 鹿児島市. 2020年10月29日閲覧。
  21. ^ 合併後の住所表示”. 鹿児島市. 2020年10月29日閲覧。
  22. ^ 国勢調査 / 平成7年国勢調査 小地域集計 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月14日閲覧。
  23. ^ 国勢調査 / 平成12年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月14日閲覧。
  24. ^ 国勢調査 / 平成17年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月14日閲覧。
  25. ^ 国勢調査 / 平成22年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月14日閲覧。
  26. ^ 国勢調査 / 平成27年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2020年11月14日閲覧。
  27. ^ すこやかランド石坂の里”. 鹿児島市. 2020年11月14日閲覧。
  28. ^ 小・中学校の校区(学区)表”. 鹿児島市役所. 2020年9月26日閲覧。

参考文献[編集]

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店、1983年。ISBN 978-4040014609
  • 松元町郷土誌編さん委員会『松元町郷土誌』松元町長 九万田萬喜良、1986年。
  • 松元町企画振興課『松元町閉町記念誌』松元町、2004年。
  • 南日本新聞鹿児島市史 第五巻』鹿児島市長 森博幸、2015年。

関連項目[編集]