一宇治城

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一宇治城
鹿児島県
一宇治城址
一宇治城址
別名 伊集院城、鉄山城、鉄丸城
築城主 伊集院氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 島津忠国
主な城主 伊集院氏島津氏
廃城年 慶長
遺構 曲輪、土塁
位置 北緯31度37分46.4秒
東経130度23分21.3秒
ザビエル会見の地
一宇治城址から望む伊集院市街

一宇治城(いちうじじょう)は、薩摩国伊集院(現鹿児島県日置市伊集院町大田)に存在していた中世山城日本の城)。

沿革[編集]

鎌倉時代伊集院氏によって築城されたとされる。その後、本家の島津氏を凌ぐと言われた伊集院氏の権力を背景に拡充されたが、1450年宝徳2年)3月、島津忠国は伊集院一族を追放、以後、島津氏配下の城となった。

1536年天文5年)3月、島津家中の統一を目指していた島津忠良貴久親子は先祖代々の居城であったが薩摩国西部にあり不便であった伊作城から、薩摩国中央部にあるこの城に拠点を移し、鹿児島の制圧を目指す。1545年(天文14年)、北郷氏樺山氏など島津氏の有力分家の支持を得た貴久は、この城で薩摩国・大隅国日向国3カ国の太守となり、悲願であった島津家中の統一を果たすのである。

1550年(天文19年)12月、名実共に島津氏宗家当主となった貴久は拠点を鹿児島内城に移し、この城は地頭の管轄下に置かれることになった。初代地頭は島津右衛門大夫孝久[1]永禄年間には町田久倍が地頭を務めている。江戸時代には薩摩藩内でも重要な外城とされた。ただし、慶長以降には日常的に城を整備・管理していたという史料が無く、実質的には廃城になっていたと考えられている。

1549年(天文18年)9月に貴久とフランシスコ・ザビエルが対面し日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可がおりた場所として著名である[2]。また、島津義弘鹿児島城築城を進めていた息子・家久に対して反対し、こちらの城を推薦していたことでも知られている。

概要[編集]

標高144mの城山という自然の山を利用して築かれている。

大小30個あまりの曲輪から構築されている。主な曲輪に「神明城」「伊作城」「中尾曲輪」「釣瓶城」「弓場城」「護摩所」「南之城」「上平城」があり、それぞれの曲輪は独立性が高い点は畿内の近世城郭と異なる点である。しかし、本丸にあたる「神明城」を中心とした曲輪は「神明城」を中心として守るように土塁を再構築した跡がある。

現状[編集]

現在「城山公園」として整備されており、JR九州鹿児島本線伊集院駅から700m程の所にあり、南九州の中世城郭としては比較的見学しやすい城である。「神明城」跡にフランシスコ・ザビエルとの会見を記念する石碑が建っている。

補注[編集]

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  1. ^ この時代に「島津孝久」は島津氏の諸系図・史料に見あたらず、不詳。ただし伊集院忠棟は官名「右衛門大夫」を名乗っている。
  2. ^ ただし、清水城 (薩摩国)ではないかという異説もある。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

  • 一宇治城 「ちえぞー!城行こまい」の紹介、一宇治城の現状の地図が載っている
  • 一宇治城 「川元パパのホームページ」の紹介、一宇治城の曲輪図が載っている