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'''中島 敦'''(なかじま あつし、[[1909年]]([[明治]]42年)[[5月5日]] - [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月4日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。
'''中島 敦'''(なかじま あつし、[[1909年]]([[明治]]42年)[[5月5日]] - [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月4日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。著作は『[[山月記]]』『[[光と風と夢]]』『[[弟子 (小説)|弟子]]』『[[李陵 (小説)|李陵]]』など。[[第一高等学校]]、[[東京帝国大学]]を卒業し、私立[[横浜学園高等学校|横浜高等女学校]]教員、[[パラオ]][[南洋庁]]の[[官吏]](教科書編修書記)を経て専業作家になるも、持病悪化のため33歳で病没<ref name="nenpu-s">「年譜」({{Harvnb|李陵|2003|pp=216-218}})</ref>。死後に出版された全集は[[毎日出版文化賞]]を受賞した{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}
<br />
中国古典から題材を得た作品群が著名であり<ref name="senuma">[[瀬沼茂樹]]「解説」({{Harvnb|李陵|2003|pp=207-215}})</ref>{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}、特に遺作となった『[[李陵 (小説)|李陵]]』の評価は高く、死後に名声をあげた作品の一つとして知られている{{Sfn|勝又|2004|pp=153-154}}{{Sfn|吉田|1984|pp=155-156}}<ref name="senuma"/>。また、『[[山月記]]』は雑誌『[[文學界]]』に掲載されたことで中島敦の名を初めて世間に知らしめた作品であり<ref name="senuma"/>、新制[[高等学校]]の[[国語 (教科)|国語教科書]]に広く掲載され、多くの人々に読みつがれている{{Sfn|勝又|2004|pp=112-113}}。


== 略歴 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1909年]][[5月5日]]、[[東京府]][[東京市]][[四谷区]]箪笥町59番地の岡崎勝太郎方(現[[東京都]][[新宿区]][[三栄町 (新宿区)|三栄町]]。岡崎勝太郎の名から、母方の[[祖父]]の家と思われる)に、父・中島田人、母・チヨの[[長男]]として生まれる(ただし[[本籍]]は[[北海道]][[空知郡]][[滝川市|滝川町]])。父・中島田人(漢学者・[[中島撫山]]の六男。戸籍上は五男)は[[1889年]]、[[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験|文部省教員検定試験]]の漢学科に合格し、銚子中学校([[旧制中学]])で[[漢文]]の[[教員]]をしていた。生母・チヨは、[[旗本]]の家柄で[[警察官]]をしていた岡崎勝太郎の一人娘で、[[小学校]]教員も一時していたとされる。
[[1909年]]5月5日に、[[東京市]][[四谷区]]箪笥町59番地(現・東京都[[新宿区]][[四谷三栄町]]{{Sfn|勝又|2004|p=8}})にある母の実家・岡崎家において生まれる{{Sfn|勝又|2004|p=p3}}。


父の中島田人は旧制中学校の漢文教員であった{{Sfn|勝又|2004|pp=5-12}}。[[漢学者]]の祖父・[[中島撫山]]は敦の幼少時に亡くなっていたものの、後述するように伯父には学者の[[中島竦]]らがいて、彼らを通して儒学の影響を受けた{{Sfn|勝又|2004|pp=5-12}}。
教師の父の転勤で小学校を3度転校する。また両親の離婚再婚で二人の継母と暮らした。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学して、家を出るが、湿性肋膜炎のため1年休学。喘息の発作に悩まされながら小説を書き始める。私立横浜高等女学校(現[[横浜学園高等学校]])の教師時代に多くの作品を執筆。[[1934年]](昭和9年)7月、『虎狩』を『中央公論』新人号に応募して、選外佳作10編に入る<ref name=jiten>磯田光一ほか(編)『新潮日本文学辞典』 新潮社、1988年1月、908-909頁。</ref>。


生母のチヨは元小学校教師だったが{{Sfn|勝又|2004|p=8}}、敦が1歳の時に両親が離婚し、父の郷里の埼玉県[[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]]の祖父母のもとで育てられ、5歳の時に父が紺家カツと再婚。7歳から奈良県で父と継母と暮らした<ref name="nenpu-s"/>。14歳の時にカツが死去した後は、飯尾コウが継母となり、少年時代に2人の継母と暮らした{{R|日本近代文学館1977}}<ref name="nenpu-s"/>。父や継母たちとの折り合いは必ずしも良くなかったという{{Sfn|勝又|2004|pp=13-21}}。
[[1941年]](昭和16年)パラオに赴任。[[深田久弥]]とは深い交友でありその[[推薦]]で、『[[山月記]]』と『[[文字禍]]』(発表時の題は2作まとめて『古譚』)、続けて『[[光と風と夢]]』を『文學界』に発表、後者は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる。 [[1942年]](昭和17年)3月、パラオより帰国して専業作家生活に入るが、持病の[[気管支喘息]]悪化のため12月4日、[[世田谷]]の病院で死去。33歳没<ref name=jiten/><ref>大塚英良 『文学者掃苔録図書館』 原書房、2015年7月、165頁。</ref>。


9歳の時に教師の父の転勤で、奈良県の郡山小学校から浜松西小学校へ、さらに11歳の時には朝鮮総督府立京城龍山小学校へと転校する{{Sfn|小谷|2019|p=9}}。その後、[[京城中学校]]に入学しており、小学校・中学時代を通して成績は極めて優秀だった{{Sfn|勝又|2004|pp=8-9}}。
『[[李陵 (小説)|李陵]]』他いくつかの作品は、遺作として没後発表された。[[漢文]]調の格調高い端正な[[文体]]とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。『李陵』は深田が、遺稿に最も無難な題名を選び命名したもので、中島自身はいくつかの題を記した[[覚書|メモ]]を遺している。


この龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らしている{{Sfn|小谷|2019|p=9}}。初期の複数作品における植民地時代の朝鮮の描写は、その後に得た朝鮮に関する知識によるところも大きいものの、この頃の朝鮮での経験をベースとしたものであるとされる{{Sfn|小谷|2019|pp=25-26}}。
没後[[1948年]]、[[中村光夫]]、[[氷上英廣]]らの編纂で『中島敦全集』全3巻が[[筑摩書房]]から刊行され、[[毎日出版文化賞]]を受賞。以後、国語教科書に「山月記」が多く掲載されたため広く知られた[[作家]]となる。


=== 東京、横浜時代 ===
好きな相撲取りは[[双葉山定次|双葉山]]。
[[1926年]](大正15年)、[[旧制中学校]]を4年修了で、[[第一高等学校]]に入学する{{R|日本近代文学館1977}}{{R|磯田ほか編1988}}。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]入学後、家を出るが、[[胸膜炎|湿性肋膜炎]]のため1年休学し夏に伊豆下田を旅した{{R|磯田ほか編1988}}<ref name="nenpu-s"/>。喘息の発作に悩まされながら小説を書き始め{{R|磯田ほか編1988}}、[[1927年]](昭和2年)11月の『校友会雑誌』に「下田の女」を発表する{{R|日本近代文学館1977}}{{R|磯田ほか編1988}}。その後も『校友会雑誌』に、「ある生活」、「喧嘩」、「蕨・竹・老人」、「巡査の居る風景―一九二三年の一つのスケッチ」、「D市七月叙景(1)」を発表する{{R|日本近代文学館1977}}。[[1929年]](昭和4年)の秋に、[[氷上英廣]]、[[吉田精一]]ら10数名で同人雑誌『しむぽしおん』を始めた<ref name="nenpu-s"/>。


1930年(昭和5年)4月に[[東京帝国大学]][[文学部]]国文学科に入学するが、未完作品「北方行」の準備を除けば、大学時代には文学活動への関与はあまりなく、将棋に興じ、またダンスホールや麻雀屋に入り浸る生活を送っていたという{{Sfn|小谷|2019|pp=18-19}}。一方で、[[永井荷風]]、[[谷崎潤一郎]]、[[正岡子規]]、[[上田敏]]、[[森鴎外]]らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中し、『[[耽美派]]の研究』と題する卒業論文を書いた{{Sfn|勝又|2004|p=10}}。1932年(昭和7年)に橋本タカと知り合い結婚を考える(この年に結婚したと書かれている年譜もあるが<ref name="nenpu-s"/>、この時点では婚姻届は出してはいない)。タカは麻雀屋で知り合った女性であった{{Sfn|小谷|2019|pp=18-19}}。
== 略年譜 ==

* [[1909年]][[5月5日]] - 東京府東京市に、父・中島田人、母・チヨの長男として生まれる。
中島敦は当時の就職難に苦しみ、朝日新聞社の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ち、また叔父の[[満州国]]高級官僚の[[中島比多吉]]に就職の斡旋を依頼するなどしていた{{Sfn|勝又|2004|pp=27-29}}。結局、1933年(昭和8年)4月、祖父の縁で[[横浜高等女学校]]{{Efn|現[[横浜学園高等学校]]。}}で教員となる{{Sfn|小谷|2019|p=31}}。担当科目は国語・英語(および後にこれに加えて歴史・地理)であり、週23時間の授業を受け持ったという{{Sfn|勝又|2004|pp=29-31}}。女学校教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒からもかなりの人気があった{{Sfn|勝又|2004|pp=29-31}}。
* [[1911年]]8月 - 父母の離婚により、2歳から6歳までを祖母のいる[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]]で育つ([[離婚届]]を出したのは[[1914年]][[2月18日]])。

* [[1915年]] - 前年父親が紺家カツと再婚。[[奈良県]][[生駒郡]][[大和郡山市|郡山町]]に移り住む。奈良県郡山尋常小学校に入学。
同年12月には橋本タカと結婚した{{Sfn|小谷|2019|p=31}}。タカは4月に郷里で産んだ長男・桓(たけし)を連れて11月頃に上京し、目黒区緑ヶ丘に住んでいた<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1918年]]5月 - 父親の転勤により、静岡県立浜松尋常小学校(現・[[浜松市立元城小学校]])に転入する。

* [[1920年]]9月 - 父親の転勤により、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]][[京城府]]の小学校に転入する。
教師時代に多くの作品を執筆しており{{Sfn|勝又|2004|p=30}}、特に[[1934年]](昭和9年)7月、「虎狩」を『[[中央公論]]』新人号に応募して、選外佳作10編に入る{{R|磯田ほか編1988}}。
* [[1923年]] - 妹・澄子が生まれる。養母カツ死去。翌年父親は飯尾コウと再婚。

* [[1926年]]3月 - [[京城中学校]]を卒業する。帰国して、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学する。
[[1934年]](昭和10年)、中学時代の1年後輩・三好四郎に、同じ鎌倉に住む[[深田久弥]]を紹介される{{sfn|森田|1995|pp=88-89}}。三好の勧めで、毎週深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになる{{sfn|森田|1995|pp=88-89}}。
* [[1927年]] - 肋膜炎のため1年休学。

* [[1930年]] - [[東京大学|東京帝国大学]][[日本文学|国文学]]科に入学。[[永井荷風]]や[[谷崎潤一郎]]の作品を愛読。またダンスや麻雀に熱中する。
=== パラオ時代、帰京後 ===
* [[1933年]]3月 - 大学を[[卒業]]する。[[卒業論文]]は「[[耽美派]]の研究」。
[[File:Koror in the Japanese Period.JPG|thumb|日本統治時代のパラオ。]]
* [[1933年]]4月 - 同大学[[大学院]]に進む。研究テーマは「[[森鴎外]]の研究」。私立横浜高等女学校(現[[横浜学園高等学校]])に[[国語 (教科)|国語]]と[[英語 (教科)|英語]]の教師として赴任する。
しかし、喘息の悪化によって中島は教師を続けることが困難となり{{Sfn|小谷|2019|pp=31-32}}、[[1941年]](昭和16年)6月に[[パラオ]]に出発する{{R|日本近代文学館1977}}。中島敦は転地療養を兼ねてパラオ・コロール町([[コロール島]]の[[コロール (都市)|コロール]])の[[南洋庁]]の編修書記に任じられ、現地の教科書作成業務に携わりながら「[[環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]」を執筆するがたびたび病に冒され、勤務が難しい状態にあった{{Sfn|小谷|2019|p=34}}<ref name="chukai">[[飯倉照平]]「註――環礁」({{Harvnb|山月記|1994|pp=387-394}})</ref><ref name="annai">[[木村一信]]「作家案内」({{Harvnb|斗南先生|1997|pp=295-307}})</ref>。南洋庁で孤立した中島敦だったが、[[東京美術学校]]彫刻科出身の[[土方久功]]のみとは親しかったという{{Sfn|小谷|2019|pp=34-35}}。
** この頃、橋本タカと結婚。長男・桓(たけし)出生。

* [[1934年]]3月 - 大学院を中退。喘息の発作に苦しむ。
これに先立って、以前から交流のあった作家・[[深田久弥]]にいくつかの原稿を託した{{Sfn|村山|2002|pp=123-124}}。中島は深田が自分の作品を推薦して文芸誌に掲載してくれることを期待し、出張のときは父と妻に日程を細々と手紙に書き送っていたが、深田からはいっこうに連絡がなく失望する{{sfn|森田|1995|pp=112-114}}。
* [[1936年]] - 深田久弥と知り合う。
[[11月9日]]には、妻タカに向け、「自分が死んだら、[[深田久弥]]に預けた原稿を、他の原稿と一緒にしまっておき、子どもたちのいずれかが成人して文学を愛好するようなら渡してほしい」との手紙をしたためている。
* [[1937年]] - 1月、長女・正子が生まれてまもなく夭折。

* [[1940年]] - <!--2月、次男・格(のぼる)出生。-->相撲・音楽・天文学に興味を持つ。喘息の発作がひどくなり、週1、2回の勤務となる。
一方、深田久弥は中島が旅立ってから半年後、ようやく原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした{{sfn|森田|1995|pp=121-122}}。託された4篇から成る「古譚」の原稿を『[[文學界]]』に推薦し、そのなかから編集の[[河上徹太郎]]が2篇(「[[山月記]]」「[[文字禍]]」)の掲載を決めた{{Sfn|川上|2009|pp=197-198}}。
* [[1941年]]3月 - 休職。

** [[6月16日]]- 辞職。
こうして[[1942年]](昭和17年)2月号の『文學界』に、「山月記」と「文字禍」が「古譚」と題して掲載される{{Sfn|川上|2009|pp=197-198}}。深田久弥は、中島敦に宛てて、掲載を知らせる手紙を送ったが、同年3月にパラオより帰国した中島敦が手紙を受け取ったのは、パラオから東京に戻ったあとであった{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=41}}。
** 6月 - [[パラオ]][[南洋庁]]へ教科書編纂掛として赴任する。赴任前、深田久弥に『古譚』などの原稿を預ける。

* [[1942年]]2月 - 『古譚』の名で『山月記』と『文字禍』を『文學界』に掲載、文壇デビューを飾る。
続けて「[[光と風と夢]]」を『文學界』5月号に発表し、後者は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。しかし、同作品は[[室生犀星]]と[[川端康成]]の二人の選考委員が高く評価したのみで、他の選考委員からの支持が得られず落選する{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。
** 3月 - [[太平洋戦争]]の激化により、[[土方久功]]と共に帰国する。肺炎のため父親の元で療養。

** 5月 - 『光と風と夢』を『文學界』に発表、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる。
同年中には、7月に第一創作集『光と風と夢』、11月に第二創作集『南島譚』が出版される{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。専業作家生活に入るが、持病の[[気管支喘息]]悪化のため、12月4日の午前6時に[[世田谷]]の岡田医院で死去した<ref name="nenpu-s"/>。33歳没{{R|磯田ほか編1988|大塚2015}}。「書きたい、書きたい。」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」が最期の言葉だったと伝えられている{{Sfn|勝又|2004|p=74}}。
** 7月 - 南洋庁に辞表を提出<ref>南洋庁から正式に辞令が下ったのは9月になってからである。</ref><ref>[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/594PDF/hasimoto.pdf 旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題] 2018年11月29日閲覧。</ref>。専業作家生活に入る。

** [[12月4日]] - [[気管支喘息]]で死去する。{{没年齢|1909|5|5|1942|12|4}}。
未発表であったいくつかの作品は遺作として没後に発表され、「[[李陵 (小説)|李陵]]」は[[1943年]](昭和18年)7月号の『文學界』に掲載された<ref name="nenpu-s"/>。[[1948年]]には[[筑摩書房]]から全3巻の『中島敦全集』が刊行され{{Sfn|川村|2009a|p=341}}、翌年に[[毎日出版文化賞]]を受賞している{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。


== 家族・親族 ==
== 家族・親族 ==
中島家は代々、[[日本橋区|日本橋]]新乗物町(現在の東京都中央区[[日本橋堀留町]])で[[駕籠]]を製造販売する[[商家]]であった。敦の祖父・[[中島撫山|中島慶太郎]](号を撫山)は家業を嫌い、[[漢学者]]・[[亀田鵬斎]]の子・稜瀬の門下となり、稜瀬没後は稜瀬養子・鶯谷に師事した。後に[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]](現[[久喜市]])に漢学塾「幸魂教舎」を開き、『斗南先生』のモデルとなった伯父・中島端蔵([[戸籍謄本]]上は長男と記載されてるが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男)が[[祖父]]の漢学塾を受け継いでいた。他に[[中島竦]]・中島若之助・中島開蔵・中島比多木などの伯父・叔父がおり、みな[[漢学]]を修めて世に出ている。
中島家は代々、[[日本橋区|日本橋]]新乗物町(現在の東京都中央区[[日本橋堀留町]])で[[駕籠]]を製造販売する[[商家]]であった{{Sfn|西原|2004|p=103}}。敦の祖父・[[中島撫山|中島慶太郎]](号を撫山)は家業を嫌い、[[漢学者]]・[[亀田稜瀬]]の門下となり、稜瀬没後は後継者となった[[亀田鶯谷]]に師事した{{Sfn|村山|2002|p=12-15}}。後に[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]](現[[久喜市]])に漢学塾「幸魂教舎」を開いている{{Sfn|西原|2004|pp=103-104}}


『[[斗南先生]]』のモデルとなった伯父・中島端{{Efn|通称が端蔵、号は斗南{{Sfn|村山|2002|p=60}}。}}{{Efn|[[戸籍謄本]]上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男。}}は[[亀田鶯谷]]のもとで漢学を学び、私立中等教育機関「明倫館」の創設に携わった他、中国問題に関する著作などを著した{{Sfn|村山|2002|p=60-70}}。別の伯父・[[中島竦]]{{Efn|号は玉振{{Sfn|村山|2002|p=70}}。}}は、[[善隣書院]]でモンゴル語・中国語を教授しつつ、中国古代文字の研究を行った人物であった{{Sfn|村山|2002|p=70-80}}。敦はこの竦と親しく、将棋を指すために伯父の竦の家に数日間滞在することもあったという{{Sfn|勝又|2004|pp=7-8}}。また、敦の次男・格の名付け親も竦であった{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
甥(妹の息子)に小説家の[[折原一]]がいる。<ref>[[川村湊]][https://imidas.jp/genre/detail/L-103-0035.html 「作家の家系」] 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス(集英社)</ref>


他に中島若之助・中島開蔵・中島比多吉(ひたき)などの伯父・叔父がおり、みな[[漢学]]を修めて世に出ている{{Sfn|西原|2004|p=103-105}}。中島家の漢学の系譜は[[村山吉廣]]により調査され、『評伝・中島敦 家学からの視点』([[中央公論新社]]、2002年)としてまとめている{{Sfn|西原|2004}}。
== 作品一覧 ==
* 光と風と夢 (筑摩書房 1942年(昭和17年)7月発行)
** 古譚
*** 狐憑
*** 木乃伊
*** [[山月記]]
*** [[文字禍]]
** [[斗南先生]]
** [[虎狩]]
** [[光と風と夢]]
* 新鋭文学全集2 南島譚(今日の問題社 1942年(昭和17年)11月発行)
** 南島譚
*** 幸福
*** 夫婦
*** 雞
** [[環礁 (紀行)|環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]
*** 寂しい島
*** 夾竹桃の家の女
*** ナポレオン
*** 真昼
*** マリヤン
*** 風物抄
** [[わが西遊記]]
*** [[わが西遊記|悟浄出世]]
*** [[わが西遊記|悟浄歎異―沙門悟浄の手記―]]
** 古俗
*** [[盈虚]]
*** [[牛人]]
** 過去帳
*** [[かめれおん日記]]
*** [[狼疾記]]
** [[名人伝]] - [[遺作|絶筆]]
* 没後発表作
** [[弟子 (小説)|弟子]] - [[孔子]]と門弟[[子路]]
** [[李陵 (小説)|李陵]](小山書店、1946年)
* その他の作品
** [[北方行]] - 未完作
** 妖氛録 - [[巫臣]]の妻となった[[夏姫]]の物語
** [[章魚の木の下で]] - [[随筆]]
** [[和歌でない歌]] - [[和歌集|歌集]]


敦の父・中島田人(たびと)は撫山の六男であり、父や兄の端や竦のもと幸魂教舎で学び、[[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験|検定試験]]によって漢文科教員の免許を取得したあと、兄たちの関わった明倫館をはじめ複数の学校で教員を務めた{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。田人自身は敦に漢文を教えておらず、また親子の折り合いは良くなかったものの、敦の病没の直前には漢籍について家で話すなど関係が改善していたという{{Sfn|村山|2002|pp=91-95}}。
== 作品集(近年刊) ==

* 文庫作品集「李陵、山月記 ほか」は、[[新潮文庫]]、[[角川文庫]]で改版をはさみ重版
なお、甥(妹の息子)に小説家の[[折原一]]がいる{{R|川村2009}}。

== 略年譜 ==
[[ファイル:Nakajima Atsushi 1934-02 (1) sa.jpg|thumb|1934年2月に撮影された中島敦。]]
* [[1909年]][[5月5日]] - [[東京市]][[四谷区]]箪笥町59番地(現・東京都[[新宿区]][[四谷三栄町]])に、父・中島田人、母・チヨの長男として生まれる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}} 。
* [[1911年]]8月 - 父母の離婚により、2歳から6歳までを祖母のいる[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[久喜市#旧久喜町|久喜町]]で育つ{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}{{Efn|要出典範囲|[[離婚届]]を出したのは[[1914年]][[2月18日]]|date=2019年10月22日 (火) 15:42 (UTC)}}。
* [[1915年]] - 前年父親が紺家カツと再婚{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。[[奈良県]][[生駒郡]][[大和郡山市|郡山町]]に移り住む{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。翌年に奈良県郡山男子尋常小学校に入学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1918年]]5月 - 父親の転勤により[[静岡県]][[浜松市]]に移り、県立浜松尋常小学校{{Efn|現・[[浜松市立元城小学校]]}}に転入する{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1920年]]9月 - 父親の転勤により[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]][[京城府|京城]]に移り、京城龍山尋常小学校に転入する{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1923年]] - 3月に妹・澄子が生まれる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。義母カツ死去{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。翌年父親は飯尾コウと再婚{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1926年]] -
** 1月 - 三つ子の弟妹(敬・敏・睦子)が誕生する(しかしながらその後全員幼児期に死去)<ref name="nenpu-s"/>。
** [[京城中学校]]4年を修了した後、敦は東京市に移り[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文科甲類に入学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}<ref name="nenpu-s"/>。寄宿舎に入り隣室の[[氷上英廣]]と知り合う<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1927年]] - 肋膜炎のため1年休学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。夏に伊豆下田に旅し、『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」が11月に掲載される<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1929年]] - 文芸部委員となり、4月から『校友会雑誌』編集に参加。秋に氷上英廣、[[吉田精一]]らと共に同人誌『しむぽしおん』を作る<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1930年]]
** [[東京大学|東京帝国大学]][[日本文学|国文学]]科に入学{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。[[永井荷風]]や[[谷崎潤一郎]]の作品を愛読{{Sfn|勝又|2004|p=10}}。また[[ダンス]]や[[麻雀]]に熱中する{{Sfn|小谷|2019|pp=18-19}}。
** 6月 - 伯父の中島端(斗南先生)が死去<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1932年]] - [[旅順口区|旅順]]にいる叔父の中島比多吉を頼り、8月に[[満州国|満州]]・中国を旅行する<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1933年]]
** 3月 - 大学を[[卒業]]する{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。前年提出の[[卒業論文]]は「[[耽美派]]の研究」{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 4月 - 同大学[[大学院]]に進む{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。研究テーマは「[[森鴎外]]の研究」{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。私立横浜高等女学校(現[[横浜学園高等学校]])に[[国語 (教科)|国語]]と[[英語 (教科)|英語]]の教師として赴任する{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1934年]]
** 3月 - 大学院を中退{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。喘息の発作に苦しむ{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 8月12日 - 橋本タカと入籍{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。これに先立つ4月に長男・桓(たけし)が出生{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 9月 - 激しい喘息発作により生命の危機にさらされる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1936年]]
** 3月、[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[本郷町 (横浜市)|本郷町]]3-247番地にはじめて一家を構える<ref name="nenpu-s"/>。[[小笠原諸島|小笠原]]に旅行。
** 4月に継母コウが死去。春頃、[[深田久弥]]と知り合い訪問する。
** 8月 - 中国に旅行する<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1937年]]
** 1月、長女・正子が生まれてまもなく[[Wikt:夭折|夭折]]{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 11月から12月にかけて和歌を500首を作る<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1939年]] - この年から喘息の発作が激しくなる。相撲・音楽・天文学に興味を持つようになる<ref name="nenpu-s"/>。[[オルダス・ハクスリー]]の「スピノザの虫」を翻訳する<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1940年]]
** 1月31日、次男・格(のぼる)出生{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** この頃から、[[アッシリア]]や古代[[エジプト]]の歴史を勉強し[[プラトン]]のほぼ全著作を読む<ref name="nenpu-s"/>。喘息の発作がひどくなり、暮れごろから週1、2回の勤務となる<ref name="nenpu-s"/>。
* [[1941年]]
** 3月 - 休職{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** [[6月]] - [[南洋庁]]の就職が決まり、国語教科書の編修書記として[[パラオ]]に赴任する{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。これにともない横浜高等女学校は辞職{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。赴任前、[[深田久弥]]に「ツシタラの死」(のちの「光と風と夢」)、「古譚」などの原稿を預ける{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
* [[1942年]]
** 2月 - 「古譚」の名で「[[山月記]]」と「[[文字禍]]」の2篇が『[[文學界]]』に掲載される{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 3月 - [[太平洋戦争]]の激化により、[[土方久功]]と共に帰国する。肺炎のため父親の元で療養。
** 5月 - 「光と風と夢――五河荘日記抄」を『文學界』に発表、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる{{Sfn|中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191)}}。
** 7月 - 第一創作集『光と風と夢』を[[筑摩書房]]より刊行。
** 8月 - 南洋庁に辞表を提出{{Efn|南洋庁から正式に辞令が下ったのは9月になってからである。}}<ref>{{Cite web|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/594PDF/hasimoto.pdf|title=旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題 ― その未完の実務的要因を中心に ―|accessdate=2018-11-29|publisher=立命館大学文学部}}</ref>。専業作家生活に入る。
**11月 - 世田谷区の岡田医院に入院。第二創作集『南島譚』を今日の問題社より刊行。
** [[12月4日]] - [[気管支喘息]]で午前6時に死去する。{{没年齢|1909|5|5|1942|12|4}}。
* [[1943年]]
**2月 - 遺作の「[[弟子 (小説)|弟子]]」が『[[中央公論]]』に掲載される。
**7月 - 深田久弥の命名による遺作「[[李陵 (小説)|李陵]]」が『文學界』に掲載される。
* [[1944年]]8月 - 盧錫台による中国語訳で[[上海]]の太平出版公司から『李陵』が刊行される。

== 作品 ==
{| class="wikitable"
|+ 中島敦の作品一覧
! !! 作品名 !! style="width:30%" |説明・備考
|-
! rowspan="4" |
|-
|align="center"|「[[名人伝]]」|| 『[[烈子]]』の記事をもとに、射術の名人が[[老荘思想|老荘]]的な理想の境地に達するさまを描く<ref name="senuma" />。 [[遺作|絶筆]] <ref name="senuma" />。1942年12月に雑誌『文庫』に掲載 <ref name="senuma" />。
|-
|align="center"|「[[弟子 (小説)|弟子]]」 || [[子路]]が孔子に弟子入りし、政変で劇的な死を遂げるまでの三十年間の師弟関係を描いた作品<ref name="senuma" />。没後発表作。
|-
|align="center"|「[[李陵 (小説)|李陵]]」 || 『[[漢書]]』の列伝を素材に、匈奴と戦い捕虜となった[[李陵]]や、彼を擁護した[[司馬遷]]の運命が描かれる<ref name="senuma" />。没後発表作。1943年7月、『[[文學界]]』に発表されたのち、1944年に中国で書籍化され{{R|桂2019}}、日本では1946年に刊行された<ref name="李陵1946">{{Ncid|BN11436604}}。</ref>。「李陵」という題は、深田が遺稿に最も無難な題名を選び命名したもので、中島自身もこれに類する題を記した[[覚書|メモ]]を遺している{{Sfn|勝又|2004|p=172}}。また、山下真史や村田秀明によって、中島自身が書籍化した場合の本文が検討されており、註釈付きで書籍化され注目を集めた{{R|梅本2013|林2014}}。
|-
! rowspan="5" |古譚
|-
|align="center"| 「狐憑」 ||
|-
|align="center"| 「木乃伊」 ||
|-
|align="center"| 「[[山月記]]」 || 唐代の小説『[[人虎伝]]』をもとに、詩人になれなかった男が虎に変身してしまう姿を描く<ref name="senuma" />。
|-
|align="center"| 「[[文字禍]]」 || [[アッシリヤ]]の博士が大王に命じられて「文字の霊」を探すという内容である{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=44}}。
|-
! rowspan="3" |古俗
|-
|align="center"| 「[[盈虚]]」 || 『[[春秋左氏伝]]』を素材に、[[衛]]の[[荘公カイカイ|壮公]]の破滅を描く{{Sfn|西谷|1977|pp=28-33}}。
|-
|align="center"| 「[[牛人]]」 ||
|-
! rowspan="3" |[[わが西遊記]]
|-
|align="center"| 「[[わが西遊記|悟浄出世]]」 ||
|-
|align="center"| 「[[わが西遊記|悟浄歎異―沙門悟浄の手記―]]」 ||
|-
! rowspan="4" |
|-
|align="center"|「[[斗南先生]]」 ||
|-
|align="center"|「[[虎狩]]」 ||京城中学校の生徒である「私」が、[[両班]]出身の朝鮮人同級生に誘われて虎狩りに行く{{Sfn|小谷|2019|pp=21-24}} 。 [[1934年]]7月、『[[中央公論]]』の懸賞で選外佳作{{Sfn|小谷|2019|pp=21-24}}。
|-
|align="center"|「[[光と風と夢]]」 || イギリスの作家、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]の[[サモア]]での暮らしを題材とする{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=46}}。[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補作{{Sfn|勝又|2004|pp=71-72}}。
|-
! rowspan="4" |南島譚
|-
|align="center"| 「幸福」 ||
|-
|align="center"| 「夫婦」 ||
|-
|align="center"| 「?」 ||
|-
! rowspan="7" |[[環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―|環礁]]
|-
|align="center"|「寂しい島」 ||
|-
|align="center"|「夾竹桃の家の女」 ||
|-
|align="center"|「ナポレオン」 ||
|-
|align="center"|「真昼」 ||
|-
|align="center"| 「マリヤン」 ||
|-
|align="center"|「風物抄」 ||
|-
! rowspan="3" |過去帳
|-
|align="center"|[[かめれおん日記]]」 ||
|-
|align="center"|「[[狼疾記]]」 ||
|-
! rowspan="9" |
|-
|align="center"|「[[北方行]]」 || 大学生の「黒木三造」が1930年代の中国を旅する{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=21}}。未完作{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=21}}。1948年5月に雑誌『表現』掲載{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=21}}。
|-
|align="center"|「プウルの傍で」 ||
|-
|align="center"|「妖氛録」 || [[巫臣]]の妻となった[[夏姫]]の物語
|-
|align="center"|「[[章魚の木の下で]]」 || [[随筆]]。1948年1月に雑誌『新創作』掲載。
|-
|align="center"|「セトナ皇子(仮題)」 ||
|-
|align="center"|「[[和歌でない歌]]」 || [[和歌集|歌集]]。その中の「石とならまほしき夜の歌」は、1947年4月に雑誌『芸術』に掲載。
|-
|align="center"|「河馬」 ||
|-
|align="center"|「小笠原紀行」 ||
|-
! rowspan="7" |習作
|-
|align="center"|「下田の女」 || 『校友会雑誌』掲載。
|-
|align="center"|「ある生活」 || 『校友会雑誌』掲載。
|-
|align="center"|「喧嘩」 || 『校友会雑誌』掲載。
|-
|align="center"|「蕨・竹・老人」 || 『校友会雑誌』掲載。
|-
|align="center"|「巡査の居る風景」 || 『校友会雑誌』掲載。
|-
|align="center"|「D市七月叙景(一)」 || 『校友会雑誌』掲載。
|-
! rowspan="6" |雑記
|-
|align="center"|「新古今集と藤原良経」 ||
|-
|align="center"|「鏡花氏の文章」 ||
|-
|align="center"|「十年」 ||
|-
|align="center"|「どのスポーツが好きか」 ||
|-
|align="center"|「お国自慢」 ||
|-
! rowspan="5" |翻訳
|-
|align="center"|「パスカル」 || [[オルダス・ハクスリー]]作。
|-
|align="center"|「スピノザの虫」 || オルダス・ハクスリー作。
|-
|align="center"|「クラックストン家の人々」 || オルダス・ハクスリー作
|-
|align="center"|「罪・苦痛・希望・及び真実の道についての考察」 || [[フランツ・カフカ]]作。
|-
|}

=== 作品集 ===
{| class="wikitable"
|+ 刊行作品
! 書籍名 !! 出版社 !! 出版年月 !! Ncid !! style="width:30%" |収録作品
|-
|align="center"|『光と風と夢』||[[筑摩書房]]||1942年(昭和17年)7月発行。||{{Ncid|BA44738108}}。||「古譚」(「狐憑」、「木乃伊」、「[[山月記]]」、「[[文字禍]]」)、「[[斗南先生]]」、「[[虎狩]]」、「[[光と風と夢]]」
|-
|align="center"|『新鋭文学全集2 南島譚』||今日の問題社||1942年(昭和17年)11月発行。||{{Ncid|BA69658009}}。||「南島譚」(「幸福」、「夫婦」、「?」)、「[[環礁 (紀行)|環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―]]」(「寂しい島」、「夾竹桃の家の女」、「ナポレオン」、「真昼」、「マリヤン」、「風物抄」)、「[[わが西遊記]]」(「[[わが西遊記|悟浄出世]]」、「[[わが西遊記|悟浄歎異―沙門悟浄の手記―]]」)、「古俗」(「[[盈虚]]」、「[[牛人]]」)、「過去帳」(「[[かめれおん日記]]」、「[[狼疾記]]」)、「[[名人伝]]」
|-
|align="center"|『李陵』||小山書店||1946年(昭和21年)2月発行。||{{Ncid|BN11436604}}。||「李陵」、「弟子」
|-
|}

(全集)
* [[筑摩書房]]『中島敦全集』(3度刊行{{Efn|1948年刊 全3巻{{Ncid|BN04708577}}、1976年刊 全3巻 {{Ncid|BN00960949}}、2001-2002年刊 全3巻別巻1冊{{Ncid|BA54121705}}。}}、現行版は全3巻、別巻1 {{Ncid|BA54121705}})
* [[ちくま文庫]]版 『中島敦全集』(全3巻、1993年 {{Ncid|BN09199379}})
* [[文治堂書店]] 『中島敦全集』(全4巻、1959-1961年 {{Ncid|BN08357543}}、1963年改訂第2版 {{Ncid|BN11560760}})
(文庫)
* 文庫作品集『李陵、山月記 ほか』は、[[新潮文庫]]、[[角川文庫]]で改版をはさみ重版
*:他に[[岩波文庫]]、[[文春文庫]]、[[集英社文庫]]、[[角川春樹事務所|ハルキ文庫]]で新版刊
*:他に[[岩波文庫]]、[[文春文庫]]、[[集英社文庫]]、[[角川春樹事務所|ハルキ文庫]]で新版刊
* 『中島敦 1909 - 1942』 筑摩書房〈[[ちくま日本文学全集]] 036〉ISBN 4480102361。(新版『中島敦』〈[[ちくま日本文学]] 012〉、2008年、ISBN 9784480425126。)
*[[ちくま文庫]]版 『中島敦全集』(全3巻、1993年)。全作品を収録
* 『山月記・名人伝ほか』 筑摩書房〈ちくま文庫「教科書で読む名作」〉、2016年、ISBN 9784480434128。
**『中島敦 1909 - 1942 <[[ちくま日本文学]] 012>』 筑摩書房、新版2008年。旧版:[[ちくま日本文学全集]]
* 『光と風と夢・わが西遊記』 [[講談社]]〈[[講談社文芸文庫]]〉、1992年、ISBN 4061962043。
**『山月記・名人伝 ほか』ちくま文庫 教科書で読む名作、2016年
* 『光と風と夢・わが西遊記』、『斗南先生・南島譚』、各・[[講談社文芸文庫]] 
* 『斗南先生・南島譚』 講談社〈講談社文芸文庫〉、1997年、ISBN 4061975609。 
* 『南洋通信』 [[中公文庫]]、版2019年。『南島譚』『環礁』+日記・書簡
* 『南洋通信』 中央公論社〈[[中公文庫]]増補新2019年、ISBN 9784122067561
* 『南島譚』『環礁』+日記・書簡
(音声・映像作品)
* 『中島敦全集』([[筑摩書房]])。3度刊行。現行版は、全3巻・別巻1
* 『山月記・名人伝・牛人』[[江守徹]] 朗読、新潮社〈新潮カセットブック 55〉、1988年、ISBN 4108201558。 - [[カセットテープ]]
<!--* [[宝島社]]「[[別冊宝島]] 中島敦」-生誕100年特別企画、2009年。
*: ''ほか個別作品の朗読作品については、『[[山月記#朗読CD]]』など個別記事を参照。''
* 『中島敦 父から子への南洋だより』 [[川村湊]]編、[[集英社]]、品切につきコメントアウト-->
* 『敦 山月記・名人伝』 [[野村萬斎]] 構成・出演、[[WOWOW]]、2006年、{{Asin|B000GFM80O}}。 - [[DVD]]


== 舞台 ==
== 作 ==
=== 古典からの影響 ===
* 『敦 山月記・名人伝』 [[野村万作]]、[[野村萬斎]]
[[File:Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old - Zhong You Zilu (仲由 子路).jpg|thumb|孔子の弟子の[[子路|仲由子路]]。中島敦の『[[弟子 (小説)|弟子]]』は、子路と孔子の関係性を描いた作品である{{Sfn|勝又|2004|pp=172-176}}。]]
中島敦は漢文古典に対する素養が深く、漢文的な文体を特徴とするとともに、中国古典を下敷きとして自らの小説を創作した作家であるとされてきた{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。そのため、知識人・文人的傾向が強く、同じように古典を素材にして小説を書いた[[森鴎外]]・[[芥川龍之介]]の流れを汲んでいると考えられている{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。『[[山月記]]』や『弟子』などのように、中国古典を下敷きにしたものが、中島敦の作品の代表的なものである{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。そのなかでも、『李陵』が最も優れた作品であると評価される傾向がある{{Sfn|勝又|2004|pp=153-154}}{{Sfn|吉田|1984|pp=155-156}}。 

ただし、古典を踏まえて作品を作るという手法が取り入れられ、またその文体が成立したのは、『古譚』4編以降のことであると考えられている{{Sfn|小沢|2009|p=140}}。それ以前の未完の長編作品『北方行』は現代中国を描いたものであり{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}、また[[私小説]]としての性格を持ったものだった{{Sfn|勝又|2009|pp=40-43}}。『北方行』の執筆を断念した後、中島敦は私小説の手法ではなく、『弟子』『李陵』のように、歴史上の人物を通して人間を描く方法をとるようになっていったのである{{Sfn|勝又|2009|pp=40-43}}。

一方で、中島敦は[[D・H・ロレンス]]や[[オルダス・ハクスリー]]などの西欧文学も愛読しており、例えば『山月記』には[[フランツ・カフカ]]や[[デイヴィッド・ガーネット]]の作品の影響が見られるという<ref name="senuma" />。

=== 植民地への視線 ===
中島敦は朝鮮・満州・南洋と多くの日本の外地を訪れており、その経験から日本の[[植民地]]支配を意識した作品を書いていることも特徴である{{Sfn|川村|2009b|pp=4-8}}。ただし、[[小谷汪之]]によれば、朝鮮については複雑・重層的に描写される一方で、南洋の描写は表層的なものに留まっている{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}。小谷によれば、この理由は、朝鮮については様々な知識のなかで経験を文脈づけて描写したものであるのに対し、南洋については単に経験したことをそのまま表現したものにすぎないという相違があったからであるという{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}。

中島敦は非政治的な人間であったとも言われる{{Sfn|マッカーシー他|2009|pp=112-115}}が、[[川村湊]]は、『北方行』の作品内容から、伯父の中島斗南や中島比多吉の影響を受けて、現代中国の政治問題に関心があったのではないかと指摘している{{Sfn|川村|2009b|pp=2-3}}。『北方行』には[[張作霖爆殺事件]]後の中国の政治抗争過程が詳しく綴られていた{{Sfn|小谷|2019|pp=13-14}}。また、中学時代には、急進的な総合雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』を読んでいたために停学処分を受けそうになった同級生・[[湯浅克衛]]を強く擁護したというエピソードも知られている{{Sfn|小谷|2019|pp=9-12}}。

太平洋戦争については、日本の勝利の知らせには喜びつつも{{Sfn|小谷|2019|p=178}}、トラック諸島夏島で現地民が戦争準備のための過酷な労働に従事させられている姿を見て、否定的な考えを持つようになった{{Sfn|小谷|2019|p=173-176}}{{Sfn|小谷|2019|pp=205-209}}。文学の戦争協力についても、文学の純粋性を損なうものとして否定的であったと思われている{{Sfn|マッカーシー他|2009|pp=112-115}}。なお、[[ミクロネシア]]で触れた太平洋戦争の影は、『弟子』『李陵』などの後期の作品に見られる「人間の生の意味を問う」というテーマに影響を与えているとされる{{Sfn|マッカーシー他|2009|pp=112-115}}。

== 人物 ==
横浜高女教員時代の中島は「ラムネの瓶」で作ったような厚い眼鏡をかけ、長髪を七三分けにしていた{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。七の前髪が眼鏡の前に垂れてくると頭を振って髪をはねあげるのが独特の仕草だった{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。小柄で細身だったが、よく通る大きな声で話し、内容も当意即妙でウィットがあった{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。なおかつ礼儀正しく律儀で細かい気遣いもできる人物だったという{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。

作文の評点は厳しかったが授業は楽しいと生徒たちからも人気があった{{sfn|森田|1995|pp=67-68}}。中島の授業の際には常に教卓に花が飾られていたという{{Sfn|勝又|2004|pp=30-31}}。川村湊は、中島と関係のある女学生がいたのではないかと推測している{{Sfn|川村|2009b|p=9}}。

行動的な性格であり、教員時代には旅行・音楽鑑賞・園芸・ラテン語の学習など様々なことを行っている{{Sfn|勝又|2004|pp=30-31}}。学生時代には、趣味の将棋で[[天野宗歩]]の棋譜を読破し、また浅草レビュー小屋の踊り子を率いて台湾興行を計画したという{{Sfn|勝又|2004|pp=30-31}}。


=== 結婚のいきさつ ===
中島は帝大在学中、麻雀荘で同い年の22歳の店員・橋本タカと知り合う{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。中島は出会って1週間後にタカに結婚を申し込む{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。

だが中島は当時タカの同僚とも交際しており、タカも従兄(叔母の子)との縁談があった{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。それを知った中島はタカの従兄宛てに、タカを与えてほしいと懇願する長文の手紙を出す{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。従兄の母親(タカの叔母)はこの手紙を持って久喜の中島本家に押しかけ、300円を受け取っている{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。中島の父・田人も学生結婚に反対した{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。

タカはいったん実家の愛知県に戻り、中島の卒業を待つことになった{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。その間タカは妊娠し、長男・桓を出産{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。その後母子は上京するが、横浜高女の教員になっていた中島は「東京へくること。勿論よい。が横浜はよそう。」と同居を拒否{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。タカは桓をかかえ、杉並堀之内、自由ヶ丘、緑ヶ丘と東京の下宿を転々とする生活を送る{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。タカが上京して1年半後、ようやく中島は横浜本郷町で妻子と同居をはじめる{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。中島がタカを拒否した理由ははっきりしないが、[[森田誠吾]]は中島に従妹や他の女性との噂があったことをあげている{{sfn|森田|1995|pp=52-61}}。

== 評価・影響・受容 ==
=== 評価 ===
中島敦の文学的評価は、[[1942年]]に33歳の短い生涯を終えた後に高まり、戦後の[[1948年]]に『中島敦全集』全3巻が[[筑摩書房]]から刊行され{{Sfn|川村|2009a|p=341}}<ref name="nenpu-s"/>。翌年の1949年には[[毎日出版文化賞]]を受賞する{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。受賞にあたり、選考委員の[[吉川幸次郎]]・[[桑原武夫]]は、『李陵』や『山月記』の名を挙げつつ、中島敦の文学について[[芥川龍之介]]の亜流であるというこれまでの評価を否定し、その透明性・美しさを高く評価する書評を寄せた{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。

死の約7か月前に発表された『光と風と夢』は第15回芥川賞候補となり、[[室生犀星]]と[[川端康成]]、[[久米正雄]]の好意的評価で、同候補の[[石塚友二]]『松風』に次ぐ2番人気となったものの、他の選考委員の低評価により受賞作にはならなかった(この回は受賞作無しであった)<ref name="akuta">[http://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo15.htm 第15回芥川賞選評]</ref>。川端康成は、「前にも賞を休んだ例はあるが、今度ほどそれを遺憾に思ったことはないようである」「(『松風』と『光と風と夢』の)二篇が芥川賞に価いしないとは、私には信じられない」とコメントを寄せていた<ref name="akuta"/>。

=== 社会への影響 ===
すでに戦後の[[国定教科書]]『中等国語』において、中島敦の作品『弟子』が[[孔子]]に関する補助教材として採用されていたという{{Sfn|佐野|2013|p=33-41}}{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。この『弟子』の教科書採用が、のちの『山月記』の検定教科書での採用のきっかけのの一つになったとされる{{Sfn|佐野|2013|p=33-41}}{{Sfn|川村|2009a|pp=14-15}}。また、中島敦の大学時代の友人であった[[釘本久春]]が文部省に勤めていて、釘本の推薦もあったとされる<ref name="yamashita">{{Harvnb|山下|2018}}</ref>。

[[1948年]]に全集が[[毎日出版文化賞]]を受賞{{Sfn|川村|2009a|p=341}}{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。当時の同賞は用紙不足からくる「良書主義」・「悪書追放運動」の一環として行われており、この受賞により『中島敦全集』は「良書」の代表として社会に受け入れられることとなった{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。そして、この毎日出版文化賞受賞の影響を受けて、翌年の1950年の検定教科書の一つに『山月記』がはじめて教材として採用されることとなる{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。1951年には別の2社の教科書も『山月記』を取り入れ、さらに1952年には実教出版の教科書が『李陵』の一部を『司馬遷』と題して収録しており、『弟子』『李陵』『山月記』の3作品の教科書での掲載数は増加していった{{Sfn|川村|2009a|pp=10-14}}。

昭和二十六年度版[[学習指導要領]]では、高校生の読書能力を高めるための「読書指導」の重要性が強調されており、『山月記』はそのための理想的な教材として受け入れられた{{Sfn|佐野|2013|p=44-54}}。他方で、中島敦の作品は旧来の[[儒学]]思想・[[漢文]]の保守的な伝統を引き継ぐものであるとも見られていた{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。そのため、民主教育の立場に立つ人々や、国語教育の新しいあり方を探ろうとしていた[[柳田国男]]・[[時枝誠記]]らの一部の教科書編者は教科書採用に肯定的ではなかったという{{Sfn|川村|2009a|pp=14-16}}。

その後も『山月記』は教科書に掲載され続け、高校国語教科書において最も多く採録された作品となっており、「国民教材」となった{{Sfn|佐野|2013|pp=11-12}}。そして、教育現場では『山月記』を通して生き方を反省するという道徳的な点に指導内容の重きが置かれるようになり、この点が文学研究者たちの批判を招いている{{Sfn|佐野|2013|pp=11-12}}。

川村湊は、このように中島敦作品が教科書に掲載されつづけているのは、中島敦の作品に思い入れのある教師が多く、また教科書を通して中島敦の作品に触れた人々からも支持を受けているからだと述べている{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}。

=== 諸作品への影響===
[[北方謙三]]は『三国志』や『水滸伝』などを題材にした小説を書いているが、中島敦の『李陵』から極めて大きな影響を受けているという{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}。[[阿刀田高]]は中島敦の作品のうち、特に短編の『文字禍』と『狐憑』に強い影響を受け、これらの小説を模倣して自身の作品を執筆したと述べている{{Sfn|阿刀田|2000|pp=209-211}}。

また、2005年に[[新潮社]]から刊行された[[辻原登]]の『枯葉の中の青い炎』<ref>[[辻原登]]『枯葉の中の青い炎』 新潮社、2005年、ISBN 4104563021。</ref>には、表題作中に「ナカジマ」という南洋庁の役人が登場する{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=72}}。その他、[[森見登美彦]]、[[万城目学]]、[[円城塔]]といった作家が中島敦の作品を意識した小説を書いている{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|p=72}}。

原作 [[朝霧カフカ]]・作画 [[春河35]]『[[文豪ストレイドッグス]]』には、中島と[[同姓同名]]の[[キャラクター]]「{{仮リンク|文豪ストレイドッグス#登場人物|label=中島敦|en|Atsushi Nakajima (Bungo Stray Dogs)|preserve=1}}」が[[主人公]]として[[登場]]する{{R|佐柄2016}}{{Sfn|神奈川近代文学館|2019|pp=74-75}}。作中の敦が持つ異能力「月下獣」は「[[山月記]]」から着想を得ており{{R|佐柄2016}}、同能力をなかなか制御できなかったことは李徴の葛藤の反映であるといわれる{{R|P+D}}。また、同作では中島敦が『[[光と風と夢]]』から引用した文章を読み上げるシーンもあり{{R|P+D}}、神奈川近代文学館では中島の文学世界を受容した作品として紹介されている{{R|アニメージュ2019}}。この漫画作品の読者が中島の作品も読むようになるケースが見受けられるという{{R|加藤2019}}。

== 保存活動・企画展 ==
=== 神奈川近代文学館・中島敦文庫 ===
[[File:Kanabun 20191019.jpg|thumb|2019年の中島敦展開催中の[[神奈川近代文学館]]。]]
[[神奈川近代文学館]]には1992年に中島家から寄贈された資料による「中島敦文庫」が設けられている{{R|没後60年}}{{Sfn|宝島社|2009}}。同館からは
* 『中島敦文庫直筆資料画像データベース』([[DVD]])[[神奈川近代文学館]]、2009年、ISBN 9784862713278<ref>[https://www.kanabun.or.jp/webshop/1679/ 中島敦文庫直筆資料画像データベース]”. 神奈川近代文学館. 2019年10月21日閲覧。</ref>。
も発行されている<ref>“[https://www.kanabun.or.jp/webshop/1679/ 中島敦文庫直筆資料画像データベース]”. ''刊行物一覧''. 神奈川近代文学館. 2019年10月21日閲覧。</ref>。この「中島敦文庫」には中島の自筆資料のみならず、[[パラオ]]に赴いた際の[[トランク (鞄)]]など物品も所蔵されている{{R|特別展2019}}。かつては[[日本大学]][[法学部]]も「中島敦文庫」を設けており{{R|日大文庫}}、同館は2006年に日本大学の蔵書も引き取っている{{R|生誕100年}}。ほとんどすべての中島敦の原稿・遺品等を収蔵した同館は「中島敦研究のメッカ」であるとされている{{Sfn|川村|2009b|pp=14-15}}

また、同館は没後60年{{R|没後60年}}、生誕100年{{R|生誕100年}}、生誕110年{{R|加藤2019|桂2019}}に企画展を開催しており、
* 『没後五〇年 中島敦展 一閃の光芒』 [[神奈川近代文学館]]、1992年9月。{{Ncid|BN08477024}}。
* 『中島敦展 ― 魅せられた旅人の短い生涯』 神奈川近代文学館・展覧会図録。2019年9月{{R|図録2019}}。
といった刊行物も発行した{{R|刊行物}}。

なお[[漫画]]作品のような[[サブカルチャー]]とコラボレーションした企画が[[文学館]]で行われるようになっており{{R|高知2018|加藤2019}}、神奈川近代文学館でも2019年の企画展で前述の『[[文豪ストレイドッグス]]』とのコラボレーション企画を実施した{{Sfn|神奈川近代文学館|2019}}{{R|加藤2019}}。

=== 中島敦の会 ===
中島がかつて勤務していた[[横浜学園高等学校]](横浜学園)に事務局を置く「中島敦の会」が活動しており{{R|田沼1992|没後75年}}、横浜学園理事長の田沼智明{{Sfn|西原|2004|p=105}}や田沼光明{{R|没後75年}}が会長を務めている。同会は神奈川近代文学館の企画展も後援し{{R|特別展2019}}、同館で没後75年のイベントも主催{{R|没後75年}}。生誕100年の2009年には『[[山月記]]』や『[[名人伝]]』を舞台化した[[野村萬斎]]<ref>[[野村萬斎]] 構成・出演『敦 山月記・名人伝』([[DVD]]) [[WOWOW]]、2006年、{{Asin|B000GFM80O}}。</ref>を招いての朗読会も開催した{{R|朗読会2009}}。なお、同会は1992年9月に没後50年中島敦を偲ぶ会を開催しており、[[陳舜臣]]、[[白川静]]、[[佐藤全弘]]を推薦人として[[酒見賢一]]に「没後五十年中島敦記念賞」を授与している{{R|勝又1992}}。

研究者の[[村山吉廣]]も中島敦の会に参加しており{{Sfn|西原|2004|p=105}}、同会が発行する以下の研究書は神奈川近代文学館で販売されている{{R|中央大学2018}}。
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|山下・村田|2012}} |reference=山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」定本篇・図版篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2012年11月、{{Ncid|BB11149211}}{{R|梅本2013}}。}}
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|山下・村田|2018}} |reference=山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」註釈篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2018年11月{{R|中央大学2018}}。}}

=== 記念碑 ===
* 元町幼稚園 - [[1975年]](昭和50年)12月7日、中島敦文学碑が横浜学園付属元町幼稚園の園庭に建立された{{Sfn|高橋ほか編|2002|p=511}}。元町幼稚園がある場所には、中島敦が勤務していた[[横浜学園高等学校|横浜高等女学校]]があった{{Sfn|神奈川近代文学館|1992|p=2}}。発起人は、中島の横浜高等女学校時代の教え子や同僚{{Sfn|高橋ほか編|2002|p=511}}。中島の筆跡で{{R|田井編2016}}、「[[山月記]]」の冒頭が刻まれている{{Sfn|高橋ほか編|2002|p=511}}。

* [[横浜外国人墓地]] - [[1989年]]に記念碑が中島敦の会、横浜ペンクラブによって建立{{Sfn|神奈川近代文学館|1992|p=2}}<ref>二松学舎大学文学部国文学科編『神奈川 文学散歩』 [[新典社]]、2013年、115-116頁。</ref>。「[[かめれおん日記]]」の舞台になっており<ref>{{Cite web |url=http://www.welcome.city.yokohama.jp/ja/otona/archive/archive07.html |title=名作の中のヨコハマ。 |publisher =横浜観光コンベンション・ビューロー |accessdate=2019-10-06}}</ref>、石碑にも記されている{{R|田井編2016}}。[[横浜高等女学校]]時代の散歩コースとなっていた{{Sfn|神奈川近代文学館|1992|p=2}}。墓地内は通常は非公開{{R|田井編2016}}。

* 中島敦ゆかりの地記念碑 - [[埼玉県]][[久喜市]]にある{{R|ゆかりの地}}。祖父、[[中島撫山]]の家があり、中島敦は2歳から6歳をここで過ごした{{R|ゆかりの地}}。なお、久喜市には「久喜・中島敦の会」があり、生誕100年を記念して『中島敦と私』を出版している{{R|久喜2009}}。


== 関連文献 ==
== 関連文献 ==
''[[#参考文献]]節も参照。''
=== 評伝・年譜 ===
=== 評伝・年譜 ===
* [[森田誠吾]] 『中島敦』文春文庫、1995年
* [[森田誠吾]]『中島敦』 文春文庫、1995年、ISBN 4167324040。
* [[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]・勝又浩ほか 『中島敦全集 別巻筑摩書房、増補改訂版2002
* [[中村光夫]]・氷上英廣 『中島敦研究 筑摩書房、1978、{{Ncid|BN00245375}}。

* 村山吉廣 『評伝・中島敦 家学からの視点』 [[中央公論新社]] 2002年
* [[川村湊]] 『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』 [[河出書房新社]] 2009年
=== 作品論 ===
=== 作品論 ===
* [[中光夫]]・氷上英廣編 『中島敦研究 筑摩房 1978
* 村田秀明『中島敦「李陵」の創造 [[明治院]]、1999、ISBN 462543081X。
* [[村田秀明]] 『中島敦「李陵」の創造』 明治書院 1999
* 村田秀明『中島敦「弟子」の創造』 明治書院、2002、ISBN 4625433169。
* [[村田秀明]] 『中島敦「弟子」の創造 明治院 2002
* [[渡辺一民]]『中島敦 [[みすず房]]、2005、ISBN 4622071355。
* [[勝又浩]] 『中島敦の遍歴 筑摩房 2004
* [[島内景二]]『中島敦「山月記伝説」真実 [[文春新]]、2009、ISBN 9784166607204。

* [[渡辺一民]] 『中島敦論』 [[みすず書房]] 2005年
* 『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 [[河出書房新社]] 2009年
* [[島内景二]] 『中島敦「山月記伝説」の真実』 [[文春新書]]、2009年
=== その他 ===
=== その他 ===
* 『中島敦 父から子への南洋だより』 [[川村湊]]編、[[集英社]]、2002年、ISBN 4087753158。
* [[岡谷公二]] 『南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』、[[冨山房]]インターナショナル 2007年
* [[三浦雅士]] 『出生の秘密』 講談社 2005年 - 中島の短編『狼疾記』と『悟浄出世』、未完長編『北方行』を2章を費やし論じる。
* [[三浦雅士]]『出生の秘密』 講談社 2005年、ISBN 406213005X。 - 中島の短編『狼疾記』と『悟浄出世』、未完長編『北方行』を2章を費やし論じる。
* [[岡谷公二]]『南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』 [[冨山房]]インターナショナル、2007年、ISBN 9784902385519。
* [[辻原登]] 『枯葉の中の青い炎』 新潮社、2005年 - 表題作中に脇役として中島が登場
* 『県立神奈川近代文学館蔵 中島敦文庫直筆資料画像データベース』 (DVD-ROM版)、[[神奈川近代文学館]] 2009年
* 『中島敦文庫直筆資料画像データベース』 [[神奈川近代文学館]]2009年、ISBN 9784862713278。 - [[DVD]]
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|宝島社|2009}} |reference=『端正・格調高い文章を味わう 中島 敦』 [[宝島社]]〈[[別冊宝島]] 1625〉、2009年、ISBN 978-4-7966-7036-4。}} - 生誕100年特別企画{{R|宝島サイト}}
* [[久世番子]] 『よちよち文藝部』 [[文藝春秋]] 2012年10月
* 『パラオ ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・[[土方久功]]展』 [[世田谷美術館]]、2007年、{{Ncid|BA83882319}}。
* [[小谷汪之]] 『中島敦の朝鮮と南洋 二つの植民地体験』岩波書店 2019年
* 山下真史『中島敦とその時代』 双文社出版、2009年、ISBN 9784881645925。
* [[久世番子]]『よちよち文藝部』 [[文藝春秋]]、2012年、ISBN 9784163757506。
* 山口比男『汐汲坂 ― 中島敦との六年』 えつ出版、1993年5月、{{Ncid|BN11349306}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="磯田ほか編1988">[[磯田光一]]ほか編『新潮日本文学辞典』 新潮社、1988年1月、908-909頁、ISBN 4107302083。</ref>
<ref name="日本近代文学館1977">日本近代文学館、小田切進 編『日本近代文学大事典 第二巻』 講談社、1977年、495-497頁、{{Ncid|BN00742846}}。</ref>
<ref name="大塚2015">大塚英良『文学者掃苔録図書館』[[原書房]]、2015年7月、165頁、ISBN 9784562051878。</ref>
<ref name="川村2009">[[川村湊]] (2009年2月).“[https://imidas.jp/genre/detail/L-103-0035.html 作家の家系]”. ''情報・知識&オピニオン imidas''. [[集英社]]. 2019年10月19日閲覧。</ref>
<ref name="ゆかりの地">{{Cite web |url=https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/kanko_tokusan/a100040030.html |title=中島敦ゆかりの地 |publisher =[[久喜市]] |accessdate=2019-10-06}}</ref>
<ref name="佐柄2016">佐柄みずき『文豪ストレイドッグス公式国語便覧』 [[KADOKAWA]]、2016年、8-9頁、ISBN 9784046017727。</ref>
<ref name="田井編2016">田井有紅 編『文豪聖地さんぽ』 [[一迅社]]、2016年、76-78頁、ISBN 9784758015059。</ref>
<ref name="久喜2009">久喜・中島敦の会 編『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004923610-00 中島敦と私 : 中島敦生誕100年記念]』 久喜・中島敦の会、2009年5月。</ref>
<ref name="宝島サイト">“[https://tkj.jp/book/?cd=20162501&p_bn= 別冊宝島1625 端正・格調高い文章を味わう 中島 敦]”. ''別冊宝島''. 宝島社. 2019年10月19日閲覧。</ref>
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<ref name="勝又1992">勝又浩「没後五十年の中島敦」『文學界』1992年12月号。</ref>
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<ref name="高知2018">「[https://www.kochi-bungaku.com/wp-content/uploads/2016/09/da05376b8a60da5a88051824e22d3d39.pdf 江戸川乱歩の華麗な本棚 文豪ストレイドッグス×高知県立文学館]」『高知県立文学館ニュース藤並の森』第83号、2018年11月、2頁。岡崎順子「[https://www.kochi-bungaku.com/wp-content/uploads/2016/09/da05376b8a60da5a88051824e22d3d39.pdf 館長室から 文学と漫画]」『高知県立文学館ニュース藤並の森』第83号、2018年11月、7頁。ほか1頁、8頁。</ref>
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*{{Citation|和書|author=[[山下真史]]|date=2018-02-15|title=中島敦『山月記』を読む|journal=文学部紀要 言語・文学・文化 |issue=121|volume=|pages=119-138|publisher=中央大学文学部 |naid=120006640913|ref={{Harvid|山下|2018}}}}
*{{Citation|和書|author=[[森田誠吾]]|date=1995|title=中島敦|publisher=文春文庫|isbn= 4167324040|ref={{sfnref|森田|1995}}}}


== 外部リンク ==
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* {{WAP|pid=997741|url=www.city.kuki.lg.jp/info/koubunsyo/tenji/no10/|title=『第10回企画展 図録 中島敦の『斗南先生』・実話』(旧久喜市公文書館ホームページ)|date=2010-03-11}}
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* [http://www.saitama-bungakukan.org/?page_id=135 中島 敦(なかじま あつし)] - [[さいたま文学館]]
* [http://www.saitama-bungakukan.org/?page_id=135 中島 敦(なかじま あつし)] - [[さいたま文学館]]
* [http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/kanko_tokusan/a100040030.html 中島敦ゆかりの地][[久喜市|久喜市ホームページ]]
* [http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/kanko_tokusan/a100040030.html 中島敦ゆかりの地] - [[久喜市|久喜市ホームページ]]
* [http://michimana.web.fc2.com/nakajima/kai_katsudou.html 中島敦の部屋 <中島敦の会 今までの活動>] - 中島敦の会


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2019年10月31日 (木) 14:58時点における版

中島 敦
(なかじま あつし)
1940年前ごろ
誕生 1909年5月5日
日本の旗 日本東京府東京市四谷区箪笥町59番地(現・東京都新宿区四谷三栄町
死没 (1942-12-04) 1942年12月4日(33歳没)
日本の旗 日本・東京府東京市世田谷区
墓地 多磨霊園[1]
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士文学
最終学歴 東京帝国大学国文科
活動期間 1942年
ジャンル 小説
代表作山月記』(1942年)
光と風と夢』(1942年)
弟子』(1943年)
李陵』(1943年)
デビュー作 『古譚』(山月記、文字禍)(1942年)
配偶者 橋本たか
子供 長男・桓 長女・正子(生後3日目に死亡) 次男・格(のぼる)
ウィキポータル 文学
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中島 敦(なかじま あつし、1909年明治42年)5月5日 - 1942年昭和17年)12月4日)は、日本小説家。著作は『山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』など。第一高等学校東京帝国大学を卒業し、私立横浜高等女学校教員、パラオ南洋庁官吏(教科書編修書記)を経て専業作家になるも、持病悪化のため33歳で病没[2]。死後に出版された全集は毎日出版文化賞を受賞した[3]
中国古典から題材を得た作品群が著名であり[4][5]、特に遺作となった『李陵』の評価は高く、死後に名声をあげた作品の一つとして知られている[6][7][4]。また、『山月記』は雑誌『文學界』に掲載されたことで中島敦の名を初めて世間に知らしめた作品であり[4]、新制高等学校国語教科書に広く掲載され、多くの人々に読みつがれている[8]

生涯

生い立ち

1909年5月5日に、東京市四谷区箪笥町59番地(現・東京都新宿区四谷三栄町[9])にある母の実家・岡崎家において生まれる[10]

父の中島田人は旧制中学校の漢文教員であった[11]漢学者の祖父・中島撫山は敦の幼少時に亡くなっていたものの、後述するように伯父には学者の中島竦らがいて、彼らを通して儒学の影響を受けた[11]

生母のチヨは元小学校教師だったが[9]、敦が1歳の時に両親が離婚し、父の郷里の埼玉県南埼玉郡久喜町の祖父母のもとで育てられ、5歳の時に父が紺家カツと再婚。7歳から奈良県で父と継母と暮らした[2]。14歳の時にカツが死去した後は、飯尾コウが継母となり、少年時代に2人の継母と暮らした[12][2]。父や継母たちとの折り合いは必ずしも良くなかったという[13]

9歳の時に教師の父の転勤で、奈良県の郡山小学校から浜松西小学校へ、さらに11歳の時には朝鮮総督府立京城龍山小学校へと転校する[14]。その後、京城中学校に入学しており、小学校・中学時代を通して成績は極めて優秀だった[15]

この龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らしている[14]。初期の複数作品における植民地時代の朝鮮の描写は、その後に得た朝鮮に関する知識によるところも大きいものの、この頃の朝鮮での経験をベースとしたものであるとされる[16]

東京、横浜時代

1926年(大正15年)、旧制中学校を4年修了で、第一高等学校に入学する[12][17]第一高等学校入学後、家を出るが、湿性肋膜炎のため1年休学し夏に伊豆下田を旅した[17][2]。喘息の発作に悩まされながら小説を書き始め[17]1927年(昭和2年)11月の『校友会雑誌』に「下田の女」を発表する[12][17]。その後も『校友会雑誌』に、「ある生活」、「喧嘩」、「蕨・竹・老人」、「巡査の居る風景―一九二三年の一つのスケッチ」、「D市七月叙景(1)」を発表する[12]1929年(昭和4年)の秋に、氷上英廣吉田精一ら10数名で同人雑誌『しむぽしおん』を始めた[2]

1930年(昭和5年)4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学するが、未完作品「北方行」の準備を除けば、大学時代には文学活動への関与はあまりなく、将棋に興じ、またダンスホールや麻雀屋に入り浸る生活を送っていたという[18]。一方で、永井荷風谷崎潤一郎正岡子規上田敏森鴎外らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中し、『耽美派の研究』と題する卒業論文を書いた[19]。1932年(昭和7年)に橋本タカと知り合い結婚を考える(この年に結婚したと書かれている年譜もあるが[2]、この時点では婚姻届は出してはいない)。タカは麻雀屋で知り合った女性であった[18]

中島敦は当時の就職難に苦しみ、朝日新聞社の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ち、また叔父の満州国高級官僚の中島比多吉に就職の斡旋を依頼するなどしていた[20]。結局、1933年(昭和8年)4月、祖父の縁で横浜高等女学校[注釈 1]で教員となる[21]。担当科目は国語・英語(および後にこれに加えて歴史・地理)であり、週23時間の授業を受け持ったという[22]。女学校教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒からもかなりの人気があった[22]

同年12月には橋本タカと結婚した[21]。タカは4月に郷里で産んだ長男・桓(たけし)を連れて11月頃に上京し、目黒区緑ヶ丘に住んでいた[2]

教師時代に多くの作品を執筆しており[23]、特に1934年(昭和9年)7月、「虎狩」を『中央公論』新人号に応募して、選外佳作10編に入る[17]

1934年(昭和10年)、中学時代の1年後輩・三好四郎に、同じ鎌倉に住む深田久弥を紹介される[24]。三好の勧めで、毎週深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになる[24]

パラオ時代、帰京後

日本統治時代のパラオ。

しかし、喘息の悪化によって中島は教師を続けることが困難となり[25]1941年(昭和16年)6月にパラオに出発する[12]。中島敦は転地療養を兼ねてパラオ・コロール町(コロール島コロール)の南洋庁の編修書記に任じられ、現地の教科書作成業務に携わりながら「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」を執筆するがたびたび病に冒され、勤務が難しい状態にあった[26][27][28]。南洋庁で孤立した中島敦だったが、東京美術学校彫刻科出身の土方久功のみとは親しかったという[29]

これに先立って、以前から交流のあった作家・深田久弥にいくつかの原稿を託した[30]。中島は深田が自分の作品を推薦して文芸誌に掲載してくれることを期待し、出張のときは父と妻に日程を細々と手紙に書き送っていたが、深田からはいっこうに連絡がなく失望する[31]11月9日には、妻タカに向け、「自分が死んだら、深田久弥に預けた原稿を、他の原稿と一緒にしまっておき、子どもたちのいずれかが成人して文学を愛好するようなら渡してほしい」との手紙をしたためている。

一方、深田久弥は中島が旅立ってから半年後、ようやく原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした[32]。託された4篇から成る「古譚」の原稿を『文學界』に推薦し、そのなかから編集の河上徹太郎が2篇(「山月記」「文字禍」)の掲載を決めた[33]

こうして1942年(昭和17年)2月号の『文學界』に、「山月記」と「文字禍」が「古譚」と題して掲載される[33]。深田久弥は、中島敦に宛てて、掲載を知らせる手紙を送ったが、同年3月にパラオより帰国した中島敦が手紙を受け取ったのは、パラオから東京に戻ったあとであった[34]

続けて「光と風と夢」を『文學界』5月号に発表し、後者は芥川賞候補となる[35]。しかし、同作品は室生犀星川端康成の二人の選考委員が高く評価したのみで、他の選考委員からの支持が得られず落選する[35]

同年中には、7月に第一創作集『光と風と夢』、11月に第二創作集『南島譚』が出版される[35]。専業作家生活に入るが、持病の気管支喘息悪化のため、12月4日の午前6時に世田谷の岡田医院で死去した[2]。33歳没[17][36]。「書きたい、書きたい。」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」が最期の言葉だったと伝えられている[37]

未発表であったいくつかの作品は遺作として没後に発表され、「李陵」は1943年(昭和18年)7月号の『文學界』に掲載された[2]1948年には筑摩書房から全3巻の『中島敦全集』が刊行され[38]、翌年に毎日出版文化賞を受賞している[3]

家族・親族

中島家は代々、日本橋新乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)で駕籠を製造販売する商家であった[39]。敦の祖父・中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、漢学者亀田稜瀬の門下となり、稜瀬没後はその後継者となった亀田鶯谷に師事した[40]。後に埼玉県南埼玉郡久喜町(現久喜市)に漢学塾「幸魂教舎」を開いている[41]

斗南先生』のモデルとなった伯父・中島端[注釈 2][注釈 3]亀田鶯谷のもとで漢学を学び、私立中等教育機関「明倫館」の創設に携わった他、中国問題に関する著作などを著した[43]。別の伯父・中島竦[注釈 4]は、善隣書院でモンゴル語・中国語を教授しつつ、中国古代文字の研究を行った人物であった[45]。敦はこの竦と親しく、将棋を指すために伯父の竦の家に数日間滞在することもあったという[46]。また、敦の次男・格の名付け親も竦であった[47]

他に中島若之助・中島開蔵・中島比多吉(ひたき)などの伯父・叔父がおり、みな漢学を修めて世に出ている[48]。中島家の漢学の系譜は村山吉廣により調査され、『評伝・中島敦 家学からの視点』(中央公論新社、2002年)としてまとめている[49]

敦の父・中島田人(たびと)は撫山の六男であり、父や兄の端や竦のもと幸魂教舎で学び、検定試験によって漢文科教員の免許を取得したあと、兄たちの関わった明倫館をはじめ複数の学校で教員を務めた[50]。田人自身は敦に漢文を教えておらず、また親子の折り合いは良くなかったものの、敦の病没の直前には漢籍について家で話すなど関係が改善していたという[50]

なお、甥(妹の息子)に小説家の折原一がいる[51]

略年譜

1934年2月に撮影された中島敦。

作品

中島敦の作品一覧
作品名 説明・備考
名人伝 烈子』の記事をもとに、射術の名人が老荘的な理想の境地に達するさまを描く[4]絶筆 [4]。1942年12月に雑誌『文庫』に掲載 [4]
弟子 子路が孔子に弟子入りし、政変で劇的な死を遂げるまでの三十年間の師弟関係を描いた作品[4]。没後発表作。
李陵 漢書』の列伝を素材に、匈奴と戦い捕虜となった李陵や、彼を擁護した司馬遷の運命が描かれる[4]。没後発表作。1943年7月、『文學界』に発表されたのち、1944年に中国で書籍化され[53]、日本では1946年に刊行された[54]。「李陵」という題は、深田が遺稿に最も無難な題名を選び命名したもので、中島自身もこれに類する題を記したメモを遺している[55]。また、山下真史や村田秀明によって、中島自身が書籍化した場合の本文が検討されており、註釈付きで書籍化され注目を集めた[56][57]
古譚
「狐憑」
「木乃伊」
山月記 唐代の小説『人虎伝』をもとに、詩人になれなかった男が虎に変身してしまう姿を描く[4]
文字禍 アッシリヤの博士が大王に命じられて「文字の霊」を探すという内容である[58]
古俗
盈虚 春秋左氏伝』を素材に、壮公の破滅を描く[59]
牛人
わが西遊記
悟浄出世
悟浄歎異―沙門悟浄の手記―
斗南先生
虎狩 京城中学校の生徒である「私」が、両班出身の朝鮮人同級生に誘われて虎狩りに行く[60]1934年7月、『中央公論』の懸賞で選外佳作[60]
光と風と夢 イギリスの作家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンサモアでの暮らしを題材とする[61]芥川賞候補作[35]
南島譚
「幸福」
「夫婦」
「?」
環礁
「寂しい島」
「夾竹桃の家の女」
「ナポレオン」
「真昼」
「マリヤン」
「風物抄」
過去帳
かめれおん日記
狼疾記
北方行 大学生の「黒木三造」が1930年代の中国を旅する[62]。未完作[62]。1948年5月に雑誌『表現』掲載[62]
「プウルの傍で」
「妖氛録」 巫臣の妻となった夏姫の物語
章魚の木の下で 随筆。1948年1月に雑誌『新創作』掲載。
「セトナ皇子(仮題)」
和歌でない歌 歌集。その中の「石とならまほしき夜の歌」は、1947年4月に雑誌『芸術』に掲載。
「河馬」
「小笠原紀行」
習作
「下田の女」 『校友会雑誌』掲載。
「ある生活」 『校友会雑誌』掲載。
「喧嘩」 『校友会雑誌』掲載。
「蕨・竹・老人」 『校友会雑誌』掲載。
「巡査の居る風景」 『校友会雑誌』掲載。
「D市七月叙景(一)」 『校友会雑誌』掲載。
雑記
「新古今集と藤原良経」
「鏡花氏の文章」
「十年」
「どのスポーツが好きか」
「お国自慢」
翻訳
「パスカル」 オルダス・ハクスリー作。
「スピノザの虫」 オルダス・ハクスリー作。
「クラックストン家の人々」 オルダス・ハクスリー作
「罪・苦痛・希望・及び真実の道についての考察」 フランツ・カフカ作。

作品集

刊行作品
書籍名 出版社 出版年月 Ncid 収録作品
『光と風と夢』 筑摩書房 1942年(昭和17年)7月発行。 NCID BA44738108 「古譚」(「狐憑」、「木乃伊」、「山月記」、「文字禍」)、「斗南先生」、「虎狩」、「光と風と夢
『新鋭文学全集2 南島譚』 今日の問題社 1942年(昭和17年)11月発行。 NCID BA69658009 「南島譚」(「幸福」、「夫婦」、「?」)、「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」(「寂しい島」、「夾竹桃の家の女」、「ナポレオン」、「真昼」、「マリヤン」、「風物抄」)、「わが西遊記」(「悟浄出世」、「悟浄歎異―沙門悟浄の手記―」)、「古俗」(「盈虚」、「牛人」)、「過去帳」(「かめれおん日記」、「狼疾記」)、「名人伝
『李陵』 小山書店 1946年(昭和21年)2月発行。 NCID BN11436604 「李陵」、「弟子」

(全集)

(文庫)

(音声・映像作品)

作風

古典からの影響

孔子の弟子の仲由子路。中島敦の『弟子』は、子路と孔子の関係性を描いた作品である[63]

中島敦は漢文古典に対する素養が深く、漢文的な文体を特徴とするとともに、中国古典を下敷きとして自らの小説を創作した作家であるとされてきた[5]。そのため、知識人・文人的傾向が強く、同じように古典を素材にして小説を書いた森鴎外芥川龍之介の流れを汲んでいると考えられている[5]。『山月記』や『弟子』などのように、中国古典を下敷きにしたものが、中島敦の作品の代表的なものである[5]。そのなかでも、『李陵』が最も優れた作品であると評価される傾向がある[6][7]。 

ただし、古典を踏まえて作品を作るという手法が取り入れられ、またその文体が成立したのは、『古譚』4編以降のことであると考えられている[64]。それ以前の未完の長編作品『北方行』は現代中国を描いたものであり[5]、また私小説としての性格を持ったものだった[65]。『北方行』の執筆を断念した後、中島敦は私小説の手法ではなく、『弟子』『李陵』のように、歴史上の人物を通して人間を描く方法をとるようになっていったのである[65]

一方で、中島敦はD・H・ロレンスオルダス・ハクスリーなどの西欧文学も愛読しており、例えば『山月記』にはフランツ・カフカデイヴィッド・ガーネットの作品の影響が見られるという[4]

植民地への視線

中島敦は朝鮮・満州・南洋と多くの日本の外地を訪れており、その経験から日本の植民地支配を意識した作品を書いていることも特徴である[66]。ただし、小谷汪之によれば、朝鮮については複雑・重層的に描写される一方で、南洋の描写は表層的なものに留まっている[67]。小谷によれば、この理由は、朝鮮については様々な知識のなかで経験を文脈づけて描写したものであるのに対し、南洋については単に経験したことをそのまま表現したものにすぎないという相違があったからであるという[67]

中島敦は非政治的な人間であったとも言われる[68]が、川村湊は、『北方行』の作品内容から、伯父の中島斗南や中島比多吉の影響を受けて、現代中国の政治問題に関心があったのではないかと指摘している[5]。『北方行』には張作霖爆殺事件後の中国の政治抗争過程が詳しく綴られていた[69]。また、中学時代には、急進的な総合雑誌『改造』を読んでいたために停学処分を受けそうになった同級生・湯浅克衛を強く擁護したというエピソードも知られている[70]

太平洋戦争については、日本の勝利の知らせには喜びつつも[71]、トラック諸島夏島で現地民が戦争準備のための過酷な労働に従事させられている姿を見て、否定的な考えを持つようになった[72][67]。文学の戦争協力についても、文学の純粋性を損なうものとして否定的であったと思われている[68]。なお、ミクロネシアで触れた太平洋戦争の影は、『弟子』『李陵』などの後期の作品に見られる「人間の生の意味を問う」というテーマに影響を与えているとされる[68]

人物

横浜高女教員時代の中島は「ラムネの瓶」で作ったような厚い眼鏡をかけ、長髪を七三分けにしていた[73]。七の前髪が眼鏡の前に垂れてくると頭を振って髪をはねあげるのが独特の仕草だった[73]。小柄で細身だったが、よく通る大きな声で話し、内容も当意即妙でウィットがあった[73]。なおかつ礼儀正しく律儀で細かい気遣いもできる人物だったという[73]

作文の評点は厳しかったが授業は楽しいと生徒たちからも人気があった[73]。中島の授業の際には常に教卓に花が飾られていたという[74]。川村湊は、中島と関係のある女学生がいたのではないかと推測している[75]

行動的な性格であり、教員時代には旅行・音楽鑑賞・園芸・ラテン語の学習など様々なことを行っている[74]。学生時代には、趣味の将棋で天野宗歩の棋譜を読破し、また浅草レビュー小屋の踊り子を率いて台湾興行を計画したという[74]


結婚のいきさつ

中島は帝大在学中、麻雀荘で同い年の22歳の店員・橋本タカと知り合う[76]。中島は出会って1週間後にタカに結婚を申し込む[76]

だが中島は当時タカの同僚とも交際しており、タカも従兄(叔母の子)との縁談があった[76]。それを知った中島はタカの従兄宛てに、タカを与えてほしいと懇願する長文の手紙を出す[76]。従兄の母親(タカの叔母)はこの手紙を持って久喜の中島本家に押しかけ、300円を受け取っている[76]。中島の父・田人も学生結婚に反対した[76]

タカはいったん実家の愛知県に戻り、中島の卒業を待つことになった[76]。その間タカは妊娠し、長男・桓を出産[76]。その後母子は上京するが、横浜高女の教員になっていた中島は「東京へくること。勿論よい。が横浜はよそう。」と同居を拒否[76]。タカは桓をかかえ、杉並堀之内、自由ヶ丘、緑ヶ丘と東京の下宿を転々とする生活を送る[76]。タカが上京して1年半後、ようやく中島は横浜本郷町で妻子と同居をはじめる[76]。中島がタカを拒否した理由ははっきりしないが、森田誠吾は中島に従妹や他の女性との噂があったことをあげている[76]

評価・影響・受容

評価

中島敦の文学的評価は、1942年に33歳の短い生涯を終えた後に高まり、戦後の1948年に『中島敦全集』全3巻が筑摩書房から刊行され[38][2]。翌年の1949年には毎日出版文化賞を受賞する[3]。受賞にあたり、選考委員の吉川幸次郎桑原武夫は、『李陵』や『山月記』の名を挙げつつ、中島敦の文学について芥川龍之介の亜流であるというこれまでの評価を否定し、その透明性・美しさを高く評価する書評を寄せた[3]

死の約7か月前に発表された『光と風と夢』は第15回芥川賞候補となり、室生犀星川端康成久米正雄の好意的評価で、同候補の石塚友二『松風』に次ぐ2番人気となったものの、他の選考委員の低評価により受賞作にはならなかった(この回は受賞作無しであった)[77]。川端康成は、「前にも賞を休んだ例はあるが、今度ほどそれを遺憾に思ったことはないようである」「(『松風』と『光と風と夢』の)二篇が芥川賞に価いしないとは、私には信じられない」とコメントを寄せていた[77]

社会への影響

すでに戦後の国定教科書『中等国語』において、中島敦の作品『弟子』が孔子に関する補助教材として採用されていたという[78][79]。この『弟子』の教科書採用が、のちの『山月記』の検定教科書での採用のきっかけのの一つになったとされる[78][80]。また、中島敦の大学時代の友人であった釘本久春が文部省に勤めていて、釘本の推薦もあったとされる[81]

1948年に全集が毎日出版文化賞を受賞[38][3]。当時の同賞は用紙不足からくる「良書主義」・「悪書追放運動」の一環として行われており、この受賞により『中島敦全集』は「良書」の代表として社会に受け入れられることとなった[3]。そして、この毎日出版文化賞受賞の影響を受けて、翌年の1950年の検定教科書の一つに『山月記』がはじめて教材として採用されることとなる[3]。1951年には別の2社の教科書も『山月記』を取り入れ、さらに1952年には実教出版の教科書が『李陵』の一部を『司馬遷』と題して収録しており、『弟子』『李陵』『山月記』の3作品の教科書での掲載数は増加していった[79]

昭和二十六年度版学習指導要領では、高校生の読書能力を高めるための「読書指導」の重要性が強調されており、『山月記』はそのための理想的な教材として受け入れられた[3]。他方で、中島敦の作品は旧来の儒学思想・漢文の保守的な伝統を引き継ぐものであるとも見られていた[82]。そのため、民主教育の立場に立つ人々や、国語教育の新しいあり方を探ろうとしていた柳田国男時枝誠記らの一部の教科書編者は教科書採用に肯定的ではなかったという[82]

その後も『山月記』は教科書に掲載され続け、高校国語教科書において最も多く採録された作品となっており、「国民教材」となった[83]。そして、教育現場では『山月記』を通して生き方を反省するという道徳的な点に指導内容の重きが置かれるようになり、この点が文学研究者たちの批判を招いている[83]

川村湊は、このように中島敦作品が教科書に掲載されつづけているのは、中島敦の作品に思い入れのある教師が多く、また教科書を通して中島敦の作品に触れた人々からも支持を受けているからだと述べている[84]

諸作品への影響

北方謙三は『三国志』や『水滸伝』などを題材にした小説を書いているが、中島敦の『李陵』から極めて大きな影響を受けているという[84]阿刀田高は中島敦の作品のうち、特に短編の『文字禍』と『狐憑』に強い影響を受け、これらの小説を模倣して自身の作品を執筆したと述べている[85]

また、2005年に新潮社から刊行された辻原登の『枯葉の中の青い炎』[86]には、表題作中に「ナカジマ」という南洋庁の役人が登場する[87]。その他、森見登美彦万城目学円城塔といった作家が中島敦の作品を意識した小説を書いている[87]

原作 朝霧カフカ・作画 春河35文豪ストレイドッグス』には、中島と同姓同名キャラクター中島敦英語版」が主人公として登場する[88][89]。作中の敦が持つ異能力「月下獣」は「山月記」から着想を得ており[88]、同能力をなかなか制御できなかったことは李徴の葛藤の反映であるといわれる[90]。また、同作では中島敦が『光と風と夢』から引用した文章を読み上げるシーンもあり[90]、神奈川近代文学館では中島の文学世界を受容した作品として紹介されている[91]。この漫画作品の読者が中島の作品も読むようになるケースが見受けられるという[92]

保存活動・企画展

神奈川近代文学館・中島敦文庫

2019年の中島敦展開催中の神奈川近代文学館

神奈川近代文学館には1992年に中島家から寄贈された資料による「中島敦文庫」が設けられている[93][94]。同館からは

も発行されている[96]。この「中島敦文庫」には中島の自筆資料のみならず、パラオに赴いた際のトランク (鞄)など物品も所蔵されている[97]。かつては日本大学法学部も「中島敦文庫」を設けており[98]、同館は2006年に日本大学の蔵書も引き取っている[99]。ほとんどすべての中島敦の原稿・遺品等を収蔵した同館は「中島敦研究のメッカ」であるとされている[84]

また、同館は没後60年[93]、生誕100年[99]、生誕110年[92][53]に企画展を開催しており、

  • 『没後五〇年 中島敦展 一閃の光芒』 神奈川近代文学館、1992年9月。NCID BN08477024
  • 『中島敦展 ― 魅せられた旅人の短い生涯』 神奈川近代文学館・展覧会図録。2019年9月[100]

といった刊行物も発行した[101]

なお漫画作品のようなサブカルチャーとコラボレーションした企画が文学館で行われるようになっており[102][92]、神奈川近代文学館でも2019年の企画展で前述の『文豪ストレイドッグス』とのコラボレーション企画を実施した[103][92]

中島敦の会

中島がかつて勤務していた横浜学園高等学校(横浜学園)に事務局を置く「中島敦の会」が活動しており[104][105]、横浜学園理事長の田沼智明[106]や田沼光明[105]が会長を務めている。同会は神奈川近代文学館の企画展も後援し[97]、同館で没後75年のイベントも主催[105]。生誕100年の2009年には『山月記』や『名人伝』を舞台化した野村萬斎[107]を招いての朗読会も開催した[108]。なお、同会は1992年9月に没後50年中島敦を偲ぶ会を開催しており、陳舜臣白川静佐藤全弘を推薦人として酒見賢一に「没後五十年中島敦記念賞」を授与している[109]

研究者の村山吉廣も中島敦の会に参加しており[106]、同会が発行する以下の研究書は神奈川近代文学館で販売されている[110]

  • 山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」定本篇・図版篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2012年11月、NCID BB11149211[56]
  • 山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」註釈篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2018年11月[110]

記念碑

  • 元町幼稚園 - 1975年(昭和50年)12月7日、中島敦文学碑が横浜学園付属元町幼稚園の園庭に建立された[111]。元町幼稚園がある場所には、中島敦が勤務していた横浜高等女学校があった[112]。発起人は、中島の横浜高等女学校時代の教え子や同僚[111]。中島の筆跡で[113]、「山月記」の冒頭が刻まれている[111]
  • 中島敦ゆかりの地記念碑 - 埼玉県久喜市にある[116]。祖父、中島撫山の家があり、中島敦は2歳から6歳をここで過ごした[116]。なお、久喜市には「久喜・中島敦の会」があり、生誕100年を記念して『中島敦と私』を出版している[117]

関連文献

#参考文献節も参照。

評伝・年譜

作品論

その他

脚注

注釈

  1. ^ 横浜学園高等学校
  2. ^ 通称が端蔵、号は斗南[42]
  3. ^ 戸籍謄本上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男。
  4. ^ 号は玉振[44]
  5. ^ 要出典範囲
  6. ^ 現・浜松市立元城小学校
  7. ^ 南洋庁から正式に辞令が下ったのは9月になってからである。
  8. ^ 1948年刊 全3巻NCID BN04708577、1976年刊 全3巻 NCID BN00960949、2001-2002年刊 全3巻別巻1冊NCID BA54121705

出典

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参考文献

外部リンク